はしがき
岡田大先生が創始されたる病気療法は、名称は指圧療法の名を用ひてゐるけれども、実際は、本当の意味の指圧療法ではないので、適当な名称が見当らない為、やむを得ず人口に膾炙した指圧療法といふ名を用ひられておったといふ事は、度々先生から聞かされたのであります。そうして、此療法の原理に就ての講義を筆記したのが此一篇であります。(医学試稿 昭和十四年)
第一篇 森羅万象の構成
凡そ、天地一切有りと凡ゆる物の原素としては、大別して、私は三つに別けます。その三つは何かといふと、火と水と土であります。如何なる物と雖も、火と水と土に関りのないものは決して在るはづがない。否、火と水土それ自体が此宇宙であり、万物の実体であるのであります。そうして、火水土そのものの中心即ち根源は何であるか、申す迄もなく、火は太陽であり、水は月球であり、土は地球であります。そうして、此火水土を経と緯とからみますと、経は日月地-即ち太陽が一番上で、中間に月球があり、一番下に地球があります。之は日蝕の時に天を仰げばそういふやうになってゐます。太陽面を中間の月球が隠す-といふ現象がよく証明しております。
次に、緯は如何であるかといふと、之は経のやうに段階的ではなく、全体的密合であって、火と水と物質それ自体が一つの存在になってゐるのであります。例へていへば、此空間そのものは、火と水の調和であります。即ち、火の熱と水の霊と密合調和して、生物の存在生活し得らるるやうに出来てゐるのであります。若し、火ばかりであればそれは一瞬にして爆発し、否爆発も起らないで、無の世界になって了ふのであり、水そのものばかりとすれば、氷結の塊が存在し、それ以外は「無の世界」になるのであります。
此理をもっと解り易くいへば、火の燃ゆるといふ事は水気があるからで、水気が無ければ、火は燃えず、恰度真空の中で火を燃そうとするが如きものであります。又、水の流れ、雲の動き、水蒸気等の動的現象は火の熱に因るので、火気が無ければ氷結の塊となる丈であります。(医学試稿 昭和十四年)
三原素
前項に述べた如く、吾々の住む此地球上の凡ゆる生成化育の本源が、火水土の密合調和であるとすれば、それ等の作用が万物に対し、どういふ風になるかといふ事を説明してみませう。
現代人は、科学の進歩によって大抵のものは一応解決されたやうに思ってゐる。然し、それは大いなる謬りと自惚であって、未だ未だほんの一部だけの解明に過ぎないのではないかと思ふのであります。今私がいはんとする原理は、今日迄の科学も哲学も全然夢想だもしなかった事によってみても、諸君は肯るるであらうと思ひます。
現代科学に於ては、此地上には、空気と物質との二つの原素より判っておらない。勿論、近代科学の誇りとする電波も、空気に含まれてる一の原素としてゐるのであります。然るに私は、此二原素の外に、今一つの原素がある事を発見したのであります。それは何であるかといふと、強ひて名を付ければ、空気に対して霊気とでもいふべく、故に、此霊気の名を以て説明してゆかふと思ふのであります。然らば霊気とは何ぞや、之を別の言葉でいへば、火気又は火素であります。元来空気なる物は水素が主であるに対して、霊気は火素が主であります。今日迄水素なる言葉はあったが、火素なる言葉は無かったのは不思議であります。然し乍ら何故火素なる言葉、否、火素が発見され得なかったかといふ事は、空気は物質化する事が出来、機械によって測定し得られたのであるが、それと反対に霊気の方は物質化したり、器械によって測定する事は不可能であったからであります。然し何れは、停止する事を知らない科学の進歩は、霊気の存在を識る方法が発見さるるといふ事は、疑ふ余地は無いのであります。(医学試稿 昭和十四年)
霊と体
前述の如く、物質及び空気は、何れもその存在を捕捉し、確認せらるるのであるから、空気と雖も物質として扱はるべきものであるから、無と同様の存在である。霊気と対照してみる時、一の霊と二の体と区別してみると、霊と体とになるのである。然るに、此無と想へる霊、即ち、霊素なるものが物質を自由自在に左右するのみならず、万物を生成化育し、生物の死生も自由にし、人の運命も国家の興亡も社会の変転も、世界の争乱もその尽くの根源が、之によるといふ事を識る時、実に驚歎の外はないのである。故に人は、霊の存在及び霊界の実体を知識する事によって、人生観は一変して真の幸福の第一歩を踏み出す事になるといふ事も過言ではないのである。何となれば、人生の幸福の最大条件たる健康の真諦を、根本的に把握し得られるからである。(医学試稿 昭和十四年)
生と死
古来、凡人は固より、先哲、聖賢も此死の問題に就て程、如何に論議し説得され、又解決しよふと努力したものはないのである。いふ迄もなく、如何なる幸福も、如何なる希望も、此死によって万事休すで、此事以上に恐るべき事はあり得ないのである。然るに此恐るべき死なるものは、特殊の事態は別として、その大多数は病気といふ不可抗力ともいふべき事によるのである。少くとも九十才以下で死ぬのは、病気によるのであって、いはゞ、不自然なる死である。人間が、人間の天寿とは、病気の為でなく自然に衰へて死ぬ-之が天寿である。従而、天寿による死は、何等の苦痛がなく、その多くは前以て死期が判るのである。此理によって、死に際して苦痛を伴ふのは、天寿でない証拠であって、よく世間でいふ夭折するものに寿命だなどといふ事は、一種の諦め言葉に外ならないのである。先年百十二歳で物故した有名なる禅僧鳥栖越山師が、死の直前死期を予言し、家族、親戚知人等、数十人に取巻かれ、一人一人に遺言なし、予言の時間が来るに及んで何等の苦痛なく、静かに冥目して死したる如きは、自然死の最も好き標本であらふ。私は何故に、現代の人間が自然死の人間は寥々として暁の星の如く、殆んどが不自然死に畢るといふ-この悲惨なる原因に就て、之から項を累ねて述べよふと思ふ。(医学試稿 昭和十四年)
死とは何ぞや
人生に関する事柄の中、死程切実な問題は無い。といふ事は誰も知り抜いてゐるのであるが、さらばといふて、之程不可解なものはないのである。私は、死に就て自分の永年の実験と、諸々の宗教、泰西に於ける心霊実験と、凡有る分野に渉って研鑚の結果、解決が着いたのである。
抑々、人間なるものの構成から述べてみよふ。人間は、科学者がいふ肉体なる物質のみではない。前に述べたやふな霊(火素)と肉体との両原素から成立ってゐるので、肉体の原素としては、水素と土素との両物質であって、此両物質だけでは、生物としての活動は起らない。之に霊魂なる即ち無形の霊素が加はって、初めて活動が起るのである。そうして、無形の霊の形態は、人体そのままで、此霊素が肉体と分離する事を死といふのである。何故に分離するかといへば、肉体が老衰、病気、負傷、大出血等によって、使用に堪えざる状態、それがある基準を超えたる刹那、分離せざるを得ない法則であるからである。そうして、死と共に、忽ち体温が冷却し、血液は或一部に凝結するといふ事は、霊素即ち火素が無になるから、冷却する為である。然らば、此霊素はどうなるかといふと、人体の形状の儘、霊界なる別の世界に入るのである。是等の状態に就て、以前西洋実験記録をみた事があるが、之は洵によい実例であるから、次に述べてみよふ。それは、或看護婦の実験であって、患者が死が近寄るに従って、その患者の額の辺から水蒸気の如な、白い煙が立昇るのが見え、それが段々濃厚になりつつ、空間に一個の大きな楕円形のやうな形になりつつありと見る間に、段々人体のやうな形になりつつ、遂に、はっきりした患者の生前の通りになり、空間にあって、自己の死体より約三尺位上にあって、体を取囲み悲歎に暮れてゐる家族等の頭上から見下して何かいひたげであったが、やがて窓の方向に向って静かに浮游状に外へ消え去ったのである。
右の如くであるが、霊魂脱出は、大体額部と腹部と足部との三個所に限られてゐるやうである。序にいふが、例へば爆死の如き場合は、一瞬にして霊魂は無数の微粒となって一旦四散するが、間もなくそれが求心的に集合し、人体に復帰し、病死と少しも変らないのである。
そして霊魂が自己の意志によって或地点へ赴く場合、球状となって空間を遊走する。よく世間でいふ人魂とは之をいふのである。そして、右の看護婦の如く、霊の見える人間、之は特殊の能力であって、先天的のものと習練によって見得るものとがあるので、我国にも昔から実例があるばかりでなく、私はそういふ霊能者に幾度も遭遇し、曽つて私が実験に用ひた、素晴しい霊視能力を持った婦人があったのである。(医学試稿 昭和十四年)
現界と霊界
人間の死とは、肉体から霊が脱出分離するといふ事は、前項の通りであるが、然らば、脱出の霊魂は何処へゆくかといふと、それは霊界なる別の世界の住人になるのである。であるから、仏語でいふ往生とは、“生れ往く”とかくのである。それは、現界からみるから死であるが、霊界から観れば生である。元々仏界は、霊界中の存在である為、生れ往くといふのが当然である。死の前の事を生前といふのも同一の理である。此霊界の実体に就ては面白いのであって、私は、永い間凡有る方法を以て研究実験したのであるが、何れ、別に記くつもりであるから、茲では省く事にする。
右に述べたのは、人間に関してのみであるが、森羅万象如何なる物と雖も、霊と体とから成立ってゐるのである。生物でない、茲にある此火鉢でも、座蒲団でも霊があるのであって、もし、霊が分離すれば、その物は直ちに崩壊するのである。故に凡有るものは、霊によってその形体を保ってゐるので、その一例として、生石と死石といふ事がよくあるが、死石といふのは、霊が極稀薄になって、形体を保ち難くボロボロ欠けるのである。又魚や野菜が、時間が経つに従って腐敗したり、味が無くなったりするのは、霊が漸次放出するからである。たゞ、斉(ヒト)しく霊といっても、物質の霊は霊であって、生物の霊は精霊と名付けられてゐる。(医学試稿 昭和十四年)
霊主物従
凡ゆる一切の物に霊があるが、然らば、霊と物質とに就ての関係を瞭かにしよふ。それは、眼に見えない無にも斉しい霊が主であって、物質は従といふ事である。従而、霊が物質を支配してゐるのであるから、人類社会に於ける如何なる事でも霊の作用であって、霊界に起る事象がそのまゝ現界へ移り、霊が動けばそのまま物質が動くのであって、恰度人間が手足や舌を動かす場合、それは手足や舌が先へ動くのではなくて、心が動き、後に手足が動くので、ただ霊主に対して起る物従の遅速はあるものであるが、多くの場合、非常に速いものである。茲に二、三の例を挙げてみよふ。人間が人を訪問しよふと思ふと同時に、霊の方はお先に先方へ行ってゐるので、其場合、霊と肉体とは、霊線とでも称すべき線が繋がれてゐるのである。よく“噂をすれば影”とやら-といふ事があるが、それは、其人の霊が来てゐる為に、その霊に噂をする人々の霊が感じる為である。彼の有名な那須の与市が、扇の的へ向って矢を番(ツガ)へ、一心に那須権現を祈念すると、何処よりか一人の童子来り、その矢を持って空中を走り、扇の的を射抜いたのが見えたので、直ちに矢を放ったのであるといふ由来は、那須権現記に書いてあるが、之は事実あり得べき事と思ふ。(医学試稿 昭和十四年)
第二篇 病気 病気とは何ぞや
此事は、数千年来、人類が此悩みを解決せんとして如何に努力したであらふ事は、余りにも明白な事である。そうして我国に於ても千余年前、漢方医術が渡来し、次いで明治少し以前、西洋医学が渡来し、今日に至ってゐる事も周知の事実である。そうして、政府も国民も協力しつつ、此西洋医学によって病気を治癒せしめ、之によって体位の向上を計らんとしつつ、日夜懸命の努力を計りつつある現状は、洵に敬服すべき事と思ふのである。そして、その結果や奈何(イカン)。あらゆる病気は日に月に増加し、特に青少年の結核、虚弱児童の累進的増加の事実は、何を物語ってゐるのであらうか?。それは兎に角として当局は、此現実をみて、愈よ増々西洋医学の理論と方法によって解決せんと躍起となってゐる状態は、日々の新聞雑誌等によって誰人も知りつつある事実である。人或は曰はん、当局の施設は、漸くその緒に就いたのみにて、今後に於て、漸次的に良策を挙げるのである。然乍ら、私は断言する。西洋医学による理論と方法を以て解決せんとすればする程、結果は逆となり、倍々悪い結果を来す事は火を睹るよりは瞭かである。何となれば、近年、急激の国民体位低下はその原因が、何処にあるか-といふ事が明かでなければ駄目である。一切は原因によって結果が生ずるのであるから、その原因を極め得ずして、末梢的結果をのの捉へても何の効がないのみか、此事に関する限り、逆結果を来すのは致方ないのである。私は、此大問題に就て、長年月努力研究の結果、驚歎すべき一大事実を発見したのである。(医学試稿 昭和十四年)
文明人の滅亡
○年○月○日発行の内閣週報、左の如き統計が出てゐる。
(新聞記事不明)
右の如く、文明国の人口は近年に至り、驚くべき衰退の方向に嚮ひつつあって、英国の如きは、西暦千八百年頃は一ケ年百弐十万の増加を見たのが、今日では弐十万に低下し、年々減少しつつあって、英国の統計学者○○氏によれば、千九百五十一年からは、増加率は全く消え、減少が加速度的になるといふ。又、仏国は真の減少に向ひつつ右表の如く、最近は千人に就き三人半といふ事になっており、独逸の如きですら十年以前の○○率に較べて、約半減してゐるにみて、医学の進歩と伴はない反比例の現象は、不可解極まるべき事である。之等の現実に対し、其原因を発見し得ないが為独、伊、我日本も二義的な結婚奨励や出産保護等の方策を採るより致方ない現状である。
今一つの事実を述べてみよふ。先年独逸に於けるオリンピックの競技中、競技の眼目たるマラソンに於て、一等の栄冠は、朝鮮、孫基禎の手に落ちたる事実、又、昨年度日本に於ける体育大会に於て、重量上げの競技が、一、二等共朝鮮人であり、又同年の福岡大坂間に於ける駅伝競争に、朝鮮、台湾組が一等を贏ち得たる如き事実、又、満洲の苦力が、その労働力に於て驚くべき強靭で、到底日本人は敵し得ないといふ事実、又、之は、確実ではないが、推定として支那人の出産率は、千人に付四十弐人、印度人は、三十七人、日本人が昭和拾三年文明国中第一位の高率であるといふ廿六人に数等勝ってゐる事実、之等は何を物語ってゐるであらふか。今に於て、此原因を発見し得ないとすれば、私は千年を出でずして、文明国人はつひに滅亡するであらふ事を信じ得ない訳にはならないのである。然るに、幸なる哉、私は此根源を発見し得たのであるが、其根源が余りにも意想外なる事実で、之を知識せずに於て到底信じ得られざる原因に如何なる人も驚歎するであらふと思ふのである。(医学試稿 昭和十四年)
国民体位低下
確実なる統計によると、明治三十年代の壮丁入営後の胸疾患患者は、百人につき弐人であったものが、昭和拾参年には、百人に付き三十弐人になったといふ事である。十六倍といふ驚くべき数字である。又、最近、小学児童の結核菌保有者は○人につき○○人、要治療者は、その内○○人である、といふ事である。又、東京市に於ける女学校生徒○○人を調査したる所、微熱保有者は○○人であるといふ事だ。又現在、数万人の職工を有する○○工場は、昭和十四年度に於て健康診断の結果八十五パーセントの要警戒者であって、特に結核性が多く、もし之を厳密なる医学の明示する所に従へば、工場の作業に重大支障を来すので、発表を見合せたといふ戦慄すべき事実を聞いてゐる。又、乳幼児の死亡率が文明国中最高位にある事は、余りにも知れ渉ってゐる所である。斯の如き寒心すべき現状は、何れにか未だ誰人にも発見し能はざる所にその原因があるのではないか。右の入営者の例を見ても、明治三十年代と現在とを比較するに、社会衛生も個人衛生も、又軍隊に於ける衛生施設も、現在が明治三十年代より劣れりとは決して思はれざるのみか、寧ろ、その反対で諸般の衛生的施設はいよいよ倍々完備しつつあるべきは、何人も疑ふ能はざる所である。世人は、何故に此点に疑を挿むものなきや。洵に不可解千万と思ふのである。又、年々医学も社会衛生も、年々、進歩停止する所を知らざる情勢に対し、それと反比例に愈々国民体位の低下が急速に加はりつつあるに対して、政府は焦慮甚しく、出来る限りの各般の施設に汲々たる有様は、日々の新聞紙を賑はしてゐるのである。然し、それ等何れもの方策も、其原因には触れる事なくして結果に対する対症的方法以外の何物でもないのである。然し乍ら、それはやむを得ないのであって、その原因が不明であるからである。以下、項を逐ふてその原因を説く事にする。(医学試稿 昭和十四年)
病気とは何ぞや
古来、病気なるものは、その原因として、仏説には四大調和の破綻とか仏罰、漢方医学に於ては五臓六腑の不均衡、西洋医学に於ては、ウィルヒョウの細胞衰滅説、コッホの黴菌による伝染説等、幾多の理論学説等あるが、何れもが病気なるものを災厄とし、悪い意味に解せざるものはないのである。然るに私が発見した所によると、右とは全く反対であって、病気とは、造物主が人間に与へた最大な恩恵であって、人間は病気に罹るが為に健康を保持し、長寿を保ち得るのであって、此真諦が判れば、神に感謝せずにはおれないのである。斯の如き事をいへば、世人は狂人と思ふかもしれない。それは、コペルニクスやガリレオの地動説もニュートンの引力説も、狂人扱ひにされたと同じやうに。然し、真理は飽迄真理である。従而、此書を読む方々は、先入的観念をかなぐり捨てて、全くの白紙になって熟読せられたい事である。(医学試稿昭和十四年)
病気の真因
病気といふものを一言にしていへば、『生の為の浄化作用なり』である。元来、人間が健康を保持し、生命を営みゐる条件としては、或程度全身が清浄でなければならないのである。何となれば、血液を初め、新陳代謝の完全に行はれるには、汚濁があってはならないからである。であるから、自然は、飽迄その汚濁を排泄せんとして、浄化作用がおこるのである。そうして、浄化作用の表れが発熱となり、痛みとなり、不快となる。嘔吐、下痢、咳嗽、喀痰、鼻汁、出血等、凡て痛苦は伴ふものである。この浄化作用へ対して、今日迄悪い意味に解釈し、是等痛苦作用緩和又は停止せんとして、発達して来たのが医術を初め、各般の療病法である。従而、言を換へていへば、既存療法は“浄化作用の停止”が目的であって、汚濁の排泄をとどめんとするものである。その最も世人の熟知せる事実は“病気を固める”といふ言葉-、それは汚濁の排泄を留め、固結せしめる方法である。再発とは、右の如く一旦固結した汚濁-即ち病毒は、再び浄化作用発現によって、病的症状を呈する-それをいふのである。之に就ての実際と理論を次に述べる事にする。(医学試稿 昭和十四年)
病気の実例
先づ凡ゆる疾患中、最も多きは感冒であらふ。然し、今日迄医学上感冒の原因は、今以て不明とされてゐる。然し、私の発見によれば、此病原位はっきりしてゐるものはないと思ふのである。
抑々、人体の浄化作用は、二六時中一秒時と雖も浄化作用が行はれつつある。そうして、その浄化作用は如何なる順序、如何なる経過を執るかといふと、それは、身体の各部に汚濁即ち病毒が集結するのである。それで集溜凝結する局所は、大体極ってゐるのであるが、特に神経を働かせる個所に集溜するものである。その関係上、頸部の周囲、及び頭部、両肩部等を主なるものとし、肋骨、骨盤、腎臓、股間淋巴腺(特に右が八、九十パーセント)稀には、胸部を中心とする腹部、肩胛骨、横隔膜の下辺等である。そうして之等の局所に、病毒(此病毒に就ては後項に詳細説明すべし)が集溜し、或程度固結したる時浄化作用が起るので、其際一個所又は数個所発る事もある。それはその固結を排泄し易からしむる為、溶解作用が行はれるのである。そうして、溶解されたる毒素は液体となって喀痰又は鼻汁、稀には下痢、嘔吐等によって外部へ出づるのである。其際、咳嗽は喀痰を吸引排泄するポンプ作用の如きものである。嚔も鼻汁を吸出するポンプ作用である。此理によって感冒は何等の処置を施さず、放任しておけば、短期間によく自然治癒をされるのである。そうして斯の如く自然治癒によって、感冒を何回も経過するに於て、毒素は漸次減少し、つひに全く感冒に罹らぬ健康体になり得るのである。右の理由によって一回毎に軽減する事実は、前述の理論を裏書するのである。
然るに、今日迄此理論を逆解せる為、熱に対する氷冷、湿布、解熱法等、極力浄化作用を留めんとするので、従而、治癒状態迄の経過が長く、何回も繰返すのである。故に、感冒とは神が与へた最も簡単なる浄化作用であって、恐るる所か大に感謝するのが本当である。昔から風邪は万病の因といふが、実は私からいへば“風邪は万病を遁るる因”といひたいのである。(医学試稿 昭和十四年)
肺結核
近来、肺結核は年々増加の傾向を辿り、国民病といってもいい位蔓延しつつあるのである。之は如何いふ訳かといふと、前述の感冒が浄化作用の停止を繰返しつつあるうち、終に解熱法にても解熱せず、此熱によって疲労感、食欲不振、羸痩、咳嗽、盗汗、喀痰等の症状を呈し、それがなかなか執拗なので、結核初期の告を言ひ渡されるので、そうして、その多くは十五歳以上弐十五才位迄が一番多く、弐十才前後が特に多いので、之は何故かといへば、前述の各種の症状は、何れも浄化作用のそれである。最も生活力の旺んな年頃に起るのは当然である。それは、種々の方法を以てしても旺盛なる生活力に負けるからである。然るに、医学の説明によれば、過労とか、睡眠不足に帰してゐるが、もし、過労の為とすれば、勿論過労や睡眠不足の為とすれば、それ等による衰弱の結果とするのであらふが、衰弱の為の結核発病とすれば、老年者程結核に罹り易い訳ではないか。元気旺盛の青年に多く、元気消耗の老年に少いといふ事は、現代医学の説明は、実際とは相反してゐると思ふのである。之を以てみても、結核的症状は浄化作用の旺盛なる為であるといふ事は判るのである。
今一つ別の方面から説明してみよふ。現在結核療法としては、第一に絶対安静、営養食、薬物療法等であるが、之は絶対安静を行へば、漸進的衰弱を来す、衰弱を来せば、衰弱を来す程、浄化作用も弱り、従而、熱は下降する。熱が下降すれば、喀痰は減少する。喀痰が減少すれば、咳嗽が減少する。丁度、病的症状は軽減するから治癒に向ふやうにみえる。其際少し全身を動かすとか、運動をするとかすれば、病的症状は増加する。それは運動によって浄化作用が起るからである。故に、之等現代療法は、病気治癒せんとして、実は治癒しないやうにするのである。そうして、幸ひにして浄化作用停止し長時日を経て、毒素が固結する迄になると、病気が固まったといって、大体医師は全快したやうにいひ患者もそう想って喜ぶのであるが、実は病毒を排泄したのでなくて、排泄を止め、体内に固めたのであるから、丁度、爆弾を抱いてゐるやうなもので、何時爆発するか解らないのである。此爆弾が爆発した時、それを再発といふのである。(医学試稿 昭和十四年)
結核は絶対に感染せぬ
医学上、結核は感染する事になって居るから、世人は非常に恐れてゐるが、何ぞ知らん、絶対に感染はしないのである。之に就て私の実験を報告する。それは私の家族五、六才から十七、八才までの子供六人、書生女中等四、五人居る。その中へ肺結核患者、之は私の診断ではない、某々官立の大病院に於て肺結核と診断されたものを約半ケ年、家族同様起居させたるも一人も感染せず、而も、右の如き結核患者を拾数年間に拾数人家族的に取扱ひしも右の如く感染の疑ひさへ些かなき事実は、感染しない事を證明して余りありといへよふ。又、之以上実験の方法はないであらふと思ふのである。勿論、消毒等は一切しないで、普通人と同様の扱方であった、従而、結核感染の試験ならば、私は固より家族の誰でもが何時でも実験の材料になるから、感染さしてやらふと思ふ人があったら遠慮なく申込んでもらひたい。何時でも喜んで応ずる事を明言しておく。たゞ茲にいっておきたい事は、結核が感染するやうにみえる事実は確かにあるが、それは黴菌の為ではない。霊的作用によるので、それも如何程でも徹底的説明は出来るが、そういふ事に触れると現代人の多くは迷信的に解釈し、他の私の説まで疑ひを挿まれる危険があるから、それはわざと説明しない事にして置く。 右の如く、感染の危険なき病気に対し多額の国費を以て予防の施設をし、親子兄弟まで親しく接する事さへ危険とせられ、其他種々の社会的損失を数ふれば、此一事だけでも社会全般に知らせる事が急務であり、それが如何に国家的に利益なるか、蓋し料(ハカ)り知るべからざる程の大いなる事柄であらふ。
文明各国は、結核予防施設のよろしきを得て、近年結核減少の趨勢を辿りつつありといふ報告によって、我国もそれにならふのであるが、何ぞ知らん之は皮相の解釈であって、実は根本的に間違ってゐるのである。之は実に予想も出来ない程の原因と理由に因るのであって、読者は先入観念に捉はれず、活眼を開いて読まれん事である。
近来、逐年に渉り文明国人の出産率の低下は熟知の通りであるが、此事と結核の減少とは正比例してゐるといふ事実であるにみて、如何に関聯があるかといふ事が判るのである。
それは何かといふと、文明人の体位の低下が結核を減少させる事になるのである。何となれば、結核とは前項に述べた通り、旺盛なる浄化作用に因るのであるから、体位の衰退は自ら結核が発病し得ないのである。言ひ換へれば、青年が老年期の体位である訳である。故に、日本に結核が多いといふ事は、未だ国民に元気があるからで、従而、出産率も文明国中、最優秀といふ訳である。然らば、文明人が近代に至り、斯く迄も体位が低下せしや。それには大いなる原因があるのであるが、それは次の項に詳述する事にする。(医学試稿 昭和十四年)
国民体位の低下の真因
抑々、文明国民の体位の低下は、西歴千八百年頃からであって、彼の英国に於ても十八世紀中に、最高一ケ年百弐十万の増加をみた事さへあるが、十九世紀の初頭より漸次増加率の逓減を表はし、近年に到って弐十万位といふ驚くべき減少率を示してゐる。英国の有名なる統計学者アルマルヒの予想によれば、千九百五十一年より真の減少時代に入り、加速度的に非常な勢を以て、逓減するであらふとの事である。フランスは特に甚しく、数年前より減少時代に入っており、独逸、伊太利、英国も同様、逐年増加率減少の傾向を表はし始めたので、独伊に於ては周知の如く、結婚奨励法や出産保護法を制定し、専心増加に努めつつあるが、その為最近僅かの効果はあったといふ事であるが、之等と雖も原因未知である為、結果に対する末梢的であるから、軈て復び低減の傾向を辿る事は、火を視るよりも瞭かである。我日本に於ても数年前から増加の趨勢が停頓状態となり、昭和十三年に至り、同十二年に九十六万余人の増加率が、翌十三年に六十七万余人といふ、約三十万人の大減少を来したのである。然し、支那事変は十二年七月に発ったのであるから、十三年の人口へは左程影響はなかったので、全く原因は不明だといふ事で、当局もいっておったやうである。次いで翌十四年の統計は、今以て発表にはならないが、或は十三年よりも減少率は大であったであらふ事は、想像し得らるるのである。
然らば、此謎の如き不可解な原因は何所に在る乎、私は断言する、それは人類が救世主の如く感謝し、今も尚敬仰措く能はざる種痘そのものである。嗚呼、此種痘こそ、文明人の体位を年一年衰耗させつつある恐るべき毒魔であるといふ事である。(医学試稿 昭和十四年)
天然痘と種痘
種痘の効果は、天然痘に罹らないといふ事は知らぬものはない程明かである。然し是に稽(カンガ)ふべきは、天然痘に罹らないといふ事は、天然痘の毒素が解消したといふ事ではない。チフス菌があっても発病しない人が往々あるのと同じ訳である。 人間は生れながらにして、先天的に有してゐる遺伝毒とでもいふ毒素を持ってゐる。それは天然痘、麻疹、百日咳等で、之等は誰もよく知ってゐる所である。そうして、之等の毒素が或時期に至り、浄化作用が起って体外へ排泄されんとする、それが発病である。然るに、種痘はその毒素の排泄を停止させるのである。つまり、その毒素の浄化作用を弱らせるのである。言ひ換へれば、陽性毒素を陰性毒素にする事である。決して種痘によって毒素そのものが消滅したのではない。陰性となって体内に滞溜する事となったのである。従而、此陰性天然痘毒素は、人体に如何なる作用と如何なる影響を与へる事になるか、次の項に詳述する事にする。(医学試稿 昭和十四年)
病原としての天然痘毒素
陰性化されたる天然痘毒素は、如何なる作用を作(ナ)すやといふに、人体内の何れかに浄化作用によって集溜するのである。その集溜する個所は、感冒の項に述べたる通りの個所にて、感冒の浄化作用停止が回を累ねる結果、肺結核となるのであるから、近来の結核の増加は、感冒を防止する事により、感冒は陰性化天然痘毒素であり、それは又、種痘の為であるから、結核増加の根本的原因は、種痘といふ事になるのである。
此毒素は独り結核のみではない。凡ゆる病原となるのであって、例へば、結核と同じく、激増しつつある腺病質の虚弱児と雖も、右の結核と同様の経路にて、感冒防止が原因である。又近眼の激増も此毒素であって、之を説明してみる事にする。
近眼は、子供が小学校へ入学してから発病するものであるのはどういふ訳かといふと、急に頭脳を働かせるので、而も、机に向ひ頭を下げつつ勉強する為、後頭部の下辺、延髄附近に此毒素が溜結するのである。近視眼者の右の部を診査すれば必ずそうなってゐる。然るに、視力の活動は一定のヱネルギー即ち血液を消耗するのであるが、その眼に供給する血管が右の部に近き為、溜結の圧迫によって圧縮され、血液の供給が不足する為に視力が減殺され、遠方を視得るだけが不足するのである。医学の方で近眼の瞳は楕円形であるから治らぬといふが、それは結果であって原因ではないのである。
其他、凡ゆる病原となるのであるが、此毒素の外に、薬毒、尿毒-等も説明をし、此三毒による病原を詳しく説明する事にする。(医学試稿 昭和十四年)
薬剤の毒(一)
天然痘毒素の外に薬剤の毒、すなわち薬毒といふ毒素が、如何に恐るべきものであるかを説明してみよふ。
古今東西を問はず、病気に対する薬物療法は、人類に如何に根強く浸潤したであらふか。病気に罹れば薬を服むといふ事は、腹が減れば飯を食ふといふ事程、それは常識となってゐる。然るに驚くべし、薬物は“病気を治癒する力”は全然なく、反って病気を作る即ち病原となる-といふ、恐るべき毒素であるといふ事を、私は発見したのである。到底信じ得べからざる大問題であるが、然し、真理は飽迄真理であって、奈何とも為し難き事である。
昔有名なる漢方医の言に、「元来薬といふ物は世の中にない。皆毒である。病気の時薬を服むのは、毒を以て毒を制するのである」と言った事を私は何かの本でみた事がある。実に至言なりといふべしである。又、毒薬変じて薬となる-といふ諺もある。成程痛みに堪えられぬ時、モルヒネを注射すれば、立所に痛みは去るのである。之は痛む神経がモヒの毒で一時的麻痺するからである。之は医学でも判ってゐるのである。
私は、最初の方で病気の原因は、浄化作用であり、浄化作用は苦痛が伴ふ-その苦痛が病気である-と説いてある。即ち人間は誰しも苦痛は厭だ、早く免れたいと思ふのは判り切った話である。その場合、苦痛を除るには、二つの方法しかない。一つは完全に除る-といふ事、それは排泄さるべき毒素を、全部排泄さして後へ残さない事である。今一つの方法は、一時的苦痛から遁れる事である。それは、苦痛の起る以前の状態に還元さす事である。それは、浄化作用を停止し、浄化作用の起らない時の状態にする事である。処が、前者の完全排泄は自然治癒法であるから時がかかり、であるから、早く苦痛から逃れたい-といふ事が、今日迄の薬物療法は固より、凡ゆる療法を生み出したのである。又、今日迄の医学では、右の原理も分らなかったのである。(医学試稿 昭和十四年)
薬剤の毒(二)
人間が病気に罹るとする。熱が出る、痛み、不快、咳、痰などが出る。薬を服むと軽くなる。丁度、薬によって病気が治るやうにみえる。然し、度々言った通り、薬と称する毒を服んで全身を弱らせる。弱らせるから浄化作用が弱る。苦痛が軽くなる-といふ訳である。処が、それだけなら未だいいが、その服んだ毒は如何なるであらふか、それが問題なのである。
茲で説明をしておくが、人体には毒素を嚥下すると、解毒又は排毒作用が行はれるやうになってゐる。然し、毒といっても殆んどが食物の毒である。であるから、人体内には、食物だけの解毒作用の力はあるが、それ以外の毒素の即時解毒作用の力はないのである。であるから、食物以外である所の薬毒の解毒作用は全部行はれないので、或程度体内に集溜する。それは矢張り天然痘毒素の場合と斉しく、神経の集注個所である。故に、斯ういふ理屈になる。陰性天然痘毒素の溜結が浄化排除作用が起った時、それを止めて新しき薬毒を加へる-それが薬物療法の結果である。従而、今度は二元的毒素となって溜結する。それの浄化作用が起る。故に、第一次浄化作用より、第二次浄化作用の方が毒素の加増によって悪性なのは勿論である。故に、第二次浄化作用即ち再発の場合は初発より押並べて悪性であるのは、此理に由るのである。右の理由によって、第三次、第四次も起り得るのである。(医学試稿 昭和十四年)
尿毒
独逸の医界の泰斗○○氏の説によれば、「万病は尿酸が原因である」といふ。此尿酸といふのはここにいふ“尿毒”の事であらふ。陰性天然痘毒素が神経集注個所へ溜結し易いといふ事は、度々述べた通りであるが、人間の作業上腰部に力を入れる関係上、腎臓部に溜結するのである。之はゴルフ愛好者に特に多いのにみても瞭かである。此溜結が腎臓を圧迫する為に、腎臓が萎縮するのである。従而、その萎縮の程度によって、例へば完全腎臓は十の尿を処置し得らるるのが、萎縮腎臓は、その萎縮の程度、例へば、九の尿を処置するとすれば、一の尿は体内に滞溜するといふ訳で、その余剰尿“一”が即ち尿毒である。此尿毒も二元毒素と同じく、神経集注個所へ溜結するが、此毒素は特に位置の関係上、腎臓部、腹部、股間淋巴腺、腹膜、肩部(肩の凝り)、頸部等へ集溜し勝ちである。但し、左右何れか萎縮する方が、尿毒の滞溜が多いのである。但だ此尿毒は、天然痘毒素には限りあり、薬毒も使用するだけのものなるが、尿毒に於ては、二六時中間断なく製出するものなる故、此点特に始末が悪いのである。此尿毒と併せて、大体三毒が凡ての病原となるのである。(医学試稿 昭和十四年)
三毒
天然痘毒素、薬毒、尿毒の三毒は、病原であるといふ事は、大体説いたつもりであるが、是等の毒素の性質作用等に就て述べてみよふ。然毒は、遺伝性であるから古いのである。此三毒共、其浄化作用の場合、古い程痛苦が軽く、新しい程其反対である。従而、然毒に因る痛苦は比較的緩和であって、尿毒による痛苦は然毒よりも大体強いのである。然し、薬毒に於ては、其痛苦が前二者に比して断然強いのである。然し、薬毒に於ては、漢薬と洋薬とは異なるのである。例へば、漢薬は鈍痛苦であって範囲は洪(ヒロ)く、洋薬は激痛苦であって局部的である。然し孰れも、服薬に因る痛苦は、或程度に止まるものであるが、注射に因る痛苦に至っては、其激烈なる言語に絶するものすらあり、是等は、当事者の恒に見聞する所と思ふのである。そうして、此痛苦とは如何なる原理かといふに、浄化作用とそれの停止作用との衝突の表はれであるから、最も激しい痛苦といふ事は、最も浄化作用の旺盛なる身体へ、最も強力なる毒素によって停止せんとする大衝突であるといふ訳である。此理に由って痛苦の激しいのが、老人でなく青壮年に多いのである。故に、此理がはっきり呑込む事が出来れば、病気で死ぬといふ訳も判るのである。即ち、浄化作用停止による苦痛の為の衰弱が主なる死の原因であるといふ事である。(医学試稿 昭和十四年)
第三篇 病気の真相 肺病(一)
今茲で主なる病気に就て説明をしてみよう。
結核に就ては、前篇にも述べたが、尚一層詳しく述べてみよふ。現今、肺結核は激増したといふが、実はそれは謬りである。先づ、肺結核の初期から述べてみる。之は感冒の時に述べた如く、感冒の浄化作用、何回もの停止によって溜結せる毒素が青年期の活力旺盛時代に入り、防止不可能になって解毒法も効果ないといふ状態である。此時は殆んどが肩部(特に左肩)頸部の下辺に溜結せる毒素の浄化作用としての微熱である。此時、医家の診断は、大抵肺尖加答児又は肺門淋巴腺といふ。療法として絶対安静、営養食、注射、服薬、頭冷、湿布等であるが、之等は何れも浄化作用停止法であって、安静は胃腸を弱らせ、服薬、注射、頭冷、湿布等は何れも漸進的衰弱をなさしめるので熱は下降し、熱が下降するから毒血が溶解しないから喀痰は減少する。喀痰が減少するから、その喞筒(ポンプ)作用である咳嗽が減少する。一見病気が軽快に向ふやうにみえる。其際患者が安静を破って運動すると発熱する。それは運動によって活力が出るから、浄化作用がおこるからである。医療は如何に之を固めんとするかはよく判るのである。斯様な状態で幾月も幾年も持続する内、追加物たる薬毒の浄化作用が起るのであるが、此薬物浄化は高熱を伴ふものである。長い安静によって相当衰弱せる患者が高熱に遇っては、その衰弱は非常な速度を増し、終に死に到らしむるのである。此末期に於て、薬毒集溜個所は全身に及び、特に肋骨、胃腸、腹膜部、咽喉部、腎臓部、頭部、股間淋巴腺等である。(医学試稿 昭和十四年)
肺病(二)
肺浸潤に付て説明をする。此病気は肋骨及び肋間に溜結したる毒素の浄化作用である。其際必ず微熱がある。それによって溶解した毒素が肺へ浸潤し、喀痰となって排泄されるのであるから、必ず治癒すべきものであって、それは何等の療法をせず放置しておけば自然治癒するのである。然るに医療は湿布をしたり、薬剤を使用する。元来、人体は皮膚からも毛細管を通じて呼吸してゐるのである。湿布は此呼吸を止めるのである。呼吸が止まるからその部の新陳代謝が弱る。新陳代謝が弱るから浄化作用が停止する。浄化作用が停止するから解熱する。解熱するから毒素の溶解作用が停止して固まる。即ち、浄化作用発生以前に還元するのである。故に、予後運動などして活力旺盛になれば再発するのである。そこで医家は激しい運動を戒しめ、過労を恐れるといふ訳である。
肺壊疽に就て説明する。之は肺の近接部又は、肺の内部に腫物が出来るので、症状は発熱、膿の如き喀痰又は血痰、痛苦、呼吸逼迫等が重である。之も自然治癒によって腫物の膿又は毒血、漸次排泄されて完全に治癒するものである。此際医療は凡ゆる浄化作用停止を行ふ為に、多くは慢性となり、衰弱死に到るのである。 粟粒結核、之は肺胞に粟の如く微細な毒血が生ずるのである。此原因は凡ゆる喀痰は、肺臓を通過して気管から排泄するのであるが、喀痰によって毒素の強弱がある。故に、強毒が肺胞に触れて、右の如き症状を発生するのである。恰度或種の膿が皮膚に附着すると、粟粒状の腫物を生ずると同一の理である。
肺臓癌は、最も恐るべき症状であって、然し極稀ではある。此病気の多くは、肺臓そのものに癌が発生したのではなく、他部に発生した癌が漸次移行して、肺臓を犯すといふのが普通である。先づ之は不治とみてよろしいのである。(医学試稿 昭和十四年)
肺炎
近来、肺炎は非常に殖えた病気の一つである。之は、非常に旺盛なる浄化作用であるから、虚弱者には少く、健康者に最も多いのである。此病気の原因は、感冒浄化作用停止によって累積溜結せる毒素が、急激に烈しい浄化作用が発るので、此毒素の大部分は肋骨及び肋間に溜結せるものである。此浄化作用によって一時の浄化作用の高熱によって一時に溶解せる膿が、肺臓内へ浸潤し肺の下部(乳頭部より以下)に溜積するのである。然るに、その溜積せる膿汁を排泄するに容易ならしむる為、高熱は尚肺臓内に於て膿解作用が行はれるのである。此際、肺の下辺部又は其背部に手を触るれば、火の如く高熱を感ずるにみて瞭かである。其際喘音が特徴であるが、それは肺臓内に滞溜する喀痰が呼吸の為に動揺する響きである。そうして、高熱によって溶解せる喀痰は咳によって排泄し治癒するのである。
然るに、其際医療は、湿布、氷冷、服薬、注射等を行ふ為に滞溜せる喀痰は、肺臓内に凝結するのである。此凝結作用によって呼吸困難が起るのである。何となれば、元来肺臓は必要なる一定量の空気を吸収すべきものなるに、滞溜喀痰の容積だけは肺の量が縮小される訳であるからである。例へば、十吸ふべき空気量を三だけ減小されるから七だけしか吸収出来ない。従而、呼吸の回数を多くしなければ、必要の空気量が得られないのである。それが呼吸困難の原因である。であるから、此呼吸困難が持続する為、心臓が衰弱する為死に到るのである。(医学試稿 昭和十四年)
肋膜炎
肋膜炎には湿性と化膿性と乾性との三種ある事になってゐる。先づ湿性から述べよふ。
之は肺臓と肋骨との間に膜があり、即ち肺膜と胸膜との間に水が溜るのである。原因は胸部打撲等の為、膜が剥落(ハクラク)する。又は、非常に腕に力を入れる為、又は、自然に発病するのである。医学上にては打診の音と感じで判る事になってゐる。然し肉眼でも胸部、脇腹、背部の左右孰れか腫れがある。又は、触指すれば、患部に熱があるのでも判る。医学では機械で、簡単に水を除って多くは治るが、湿布其他の手当によって反って浄化を妨げ、溜水が漸次濃度を増し、終に化膿性になる場合もある。此際最も悪いのは利尿剤である。最初は尿量を増し溜水も減少するので軽快に向ふが、或時期に至ると逆作用を起し、尿量減少して悪化する。
此病気は盗汗が特徴であるが、之は非常にいいので、盗汗によって病気は治癒するのである。
化膿性肋膜は、前述の膜の間に水でなく、最初から膿が溜るのである。医療では穿孔して、そこから膿を毎日排除するが、なかなか治癒し難いやうである。
乾性肋膜は、極稀にある病気であるが、医師の診断で、乾性肋膜と名付けらるるは殆んど誤診であって、実は肋間神経痛が大部分である。之は胸部の痛み、咳嗽、発熱等の症状で、医療は湿布、注射、服薬等で浄化を停止するから、一時は治癒したやうでも再三再発するものである。(医学試稿 昭和十四年)
胃病 (一)消化不良
一口に胃病といへば、なかなか種類は多いのである。一々に就て説明する。
胃病の最初は、大抵消化不良である。原因は食事の分量を定め、食事の時間を規則正しくするからである。何となれば、時間や量を定めると、以前のが消化しないで、停滞してる上に食物を入れるから、古い方が醗酵し、其毒素の為である。凡ゆる食物は消化の早い物と遅い物とがある。又、人間の動作に於ても、運動をする時としない時とがあるから、三時間で消化して了ふ事もあるし、五時間経っても消化しない事もある。従而、次に食事の時に量及び時間(勤務者は時間は不可能故量にて調節)にて調節するのが本当である。世間往々量と時間を規則正しくせよといふ事は、如何に間違ってゐるか判るであらふ。
胸焼-之は胃の附近にある毒素に対する浄化作用の微熱である。
胃アトニー、一名胃酸過多症といひ、之は胃酸が多過ぎるのであるが、此原因は薬剤中毒で、服用した薬物が一旦吸収され、再び酸となって胃中に還元するのである。(医学試稿 昭和十四年)
(二)胃潰瘍
此病気は消化薬連続服用によるのであって、消化薬は食物を柔軟にすると共に、胃壁も柔軟にするのである。其結果固形食物は胃壁に触れると亀裂し、そこから出血するのである。従而、出血のある際は、必ず流動物でなければならないのである。(医学試稿 昭和十四年)
(三)胃下垂
原因は胃部より腸部へかけて然毒、又は尿毒が溜結するので、それに圧迫され胃袋が長くなるのである。そうして、猶消化薬及び消化のいい食物を摂る為、胃の活動を弱らせるから胃が弛緩し、一層下垂の度を増すのである。(医学試稿 昭和十四年)
(四)胃癌
之は真症の癌は極稀であって、三毒の中、一乃至三種の毒素が、胃の外部に溜結するのと、胃の潰瘍又は胃の極微小の腫物等による出血の溜結等が大部分であって、之等は完全に治癒するのである。然し、真症の癌は先づ不治とみていいのである。(医学試稿 昭和十四年)
腸病 (一)腹膜炎
之も肋膜炎と同じく、湿性と化膿性とがある。(乾性はない)湿性は水が溜るのである。非常に膨脹して臨月又は臨月以上に大きくなるのがある。原因は腎臓の萎縮の為、余剰尿が滞溜する為と、膀胱から尿が尿道へ通過せんとする時、尿道口に膿結又は尿結が塞ぐ場合があり、その為尿の排泄量減少する為である。医療は利尿剤を使用するが、之は最初は非常に効果がある事があり、殆んど九分迄治癒の状態が、俄然悪化する事がよくある。それは利尿剤に対する逆作用が起る為である。又穿孔して水を除るが、之も直に溜るのである。其場合前よりも必ず幾分多く溜るのである。故に回を重ねるに従って漸次膨満の度を増し、驚くべき大きさになるものである。斯うなったのは、もう生命は覚束ないのである。
化膿性は、湿性程膨満しない。往々気の付かない位のもあって、症状は腹部を圧すると、処々に固結ありて、痛みもあり、時々痛苦、下痢及び腹の張り、食欲不振、嘔吐感、咳嗽等である。
一番困るのは、急性腹膜の原因となるのである。即ち、急激の浄化作用が起る時、非常な痛苦と高熱を伴ふもので、よく盲腸炎を併発するのである。但し、急性腹膜は青年期に多いので、老人には殆んどないといってもいいのである。之は青年期は、浄化作用旺盛な故である事は勿論である。(医学試稿 昭和十四年)
(二)盲腸炎
此病気は、近来非常に多いのであるが、症状は、胸部より右下一寸か一寸五分位の辺が非常に痛い。高熱を発するのである。原因は三毒の不断の浄化作用による溜結であって、それの急激な浄化作用である。医学で唱へる食物の為ではない。何となれば、盲腸炎発病前、盲腸部を圧すれば、可成痛みを感ずるものである。そして此病気は何等手当を施さず、ただ安静にしてゐさへすれば必ず治癒するので、普通激痛は一日位、二、三日過ぎれば痛みは殆んど軽減し、一、二回の下痢があって完全に治癒するのである。切開手術の必要などないのである。よく医家は化膿を恐れるが、何ぞ知らん化膿すれば、半分治癒したのである。何となれば、膿結は高熱によって溶解した事を化膿といふのであるが、実はその溶解膿は、間もなく下痢になるのである。元来、盲腸は扁桃腺と同じやうに毒素の集溜部であって、それから便で排泄されるのであるから、大いに必要なものである。
故に、此盲腸即ち虫様突起を除去する時は、膿の集溜場がなくなるから、毒素は腹膜或は肝臓部等各所に集溜するから、盲腸部より排出し難い場所に溜る事となる。又、氷冷して浄化を停止させると、一旦治癒したやうに苦痛は無くなるが、程経て浄化作用即ち再発-といふ事になる。
医学では盲腸は不必要なものであるから除去した方がいいといふ。が之は、驚くべき人間の僣上沙汰である。何となれば、そんな不必要なものを作っておいたといふ造物主は実に間抜であって、廿世紀の医学者より愚かであるといふ理屈になるではないか。(医学試稿 昭和十四年)
(三)チフス
之は勿論伝染する。症状は腸部の発熱、頭痛、食欲減少等である。原因は黴菌が腸壁に繁殖穿孔するといふ。それは本当であると思ふ。之は、発熱中、流動物で営養を摂り、安静にしてゐれば必ず治癒するのである。(医学試稿 昭和十四年)
(四)赤痢
症状は発熱、血便、之は浄化作用による毒血排泄であるから、自然治癒によって完全に治癒する。(医学試稿 昭和十四年)
(五)虎列剌
之も大浄化作用による嘔吐下痢であるが、此病気は浄化作用が激烈の為に、普通の人体は堪えられずに死に到るのである。
以上のチフス、赤痢、コレラ、此三種は伝染病であるから、現行法規の下に於ては、必ず一刻も速く医師の処置に任せなくてはならないのである。(医学試稿 昭和十四年)
(六)腸癌及び肉腫
此病気は真症は不治であるが、擬似的のものも多いので、之は治る事が多いのである。(医学試稿昭和十四年)
(七)慢性下痢
之は毎日一回乃至二、三回位下痢し、実に執拗なるものである。数年続くものさへある。痛むのと痛まないものとがある。原因は化膿性腹膜の浄化作用であって、衰弱の為浄化作用が旺盛でない為、少しづつ下痢となって出るのである。薬剤等にて下痢を止める時には、それだけ長びくのであるから、自然に放置しておけば必ず治癒するものである。(医学試稿 昭和十四年)
(八)腸炎
之は化膿性腹膜の浄化作用であるから、自然治癒で治るのである。(医学試稿 昭和十四年)
腎臓病 (一)腎臓炎
症状は腰骨の上方、凹部の左右孰れか激痛を伴ひ、高熱を発するのである。此際尿中に多量の蛋白をみるのであるが、割合治り易く、自然治癒によって完全に治るのである。然し、此際氷冷等を行ふ時は慢性に移行し、容易に治し難くなるのである。(医学試稿 昭和十四年)
(二)慢性腎臓病
症状は浮腫、精力減退、倦怠感、肩の凝り、腰痛、足の重い等である。原因は腎臓部に毒素溜結し、腎臓が圧縮される為である。
すべて腎臓病は、医学上では、尿中の蛋白によって診定するのであるが、尿中に蛋白のない腎臓病があって、寧ろ此方が有蛋白より多いのである。此蛋白とは、如何なるもので、如何にして尿中に排泄せらるるやといふに、腎臓の外部に固結せる膿結が微熱によって溶解し、腎臓内に浸潤して尿に混入するのである。故に、有蛋白の尿を排泄する患者の腎臓部に触指すれば、必ず微熱を感ずるのである。然し、無蛋白の場合は腎臓部は無熱である。然し、其部を指頭で探れば固結あり、それを圧せば痛みを感ずるのである。故に、蛋白とは尿の溶解せるものなれば、蛋白が排泄さるるだけは治癒しつつあるのである。従而、運動をする時蛋白が殖えるのは、浄化作用が旺盛になるからである。それに引換へ無蛋白は、浄化作用が発生し得ない弱体者であるから治癒し難いので、斯ういふ患者は大いに運動して浄化作用を起せば治癒するのである。
医療に於ては、安静と牛乳療法と無塩療法を多く推奨するが、安静も牛乳も衰弱を増さしめ無塩療法に於ては、著しく衰弱を増すので、浄化作用が停止される。従而、蛋白が減少するから治癒する如くみえるけれども、実際は反対に治癒しないやうにする方法である。(医学試稿 昭和十四年)
胆嚢
胆嚢に関する病気は、黄疸、胆石病であるが、黄疸は人の知る如く全身黄色を呈し、甚しきは分泌物及び排泄物も黄色を呈し、眼球も白眼も黄色となるのである。原因は肝臓の外部へ毒素溜結して肝臓を圧迫し、肝臓の裏面にある胆嚢が圧迫され胆汁が溢出する。軽症は自然治癒で治るが重症に至っては、毒素の溜結を解消しない限り治癒し難いのである。
胆石病は、肝臓の深部が非常に痛むのである。時により肝臓と胃の中間部に激痛がある事がある。前者は胆嚢の痛みであり、後者は胆管の痛みである。(結石が輸胆管を通過する為)之は腎臓の尿毒が背部より浸潤するのである。此毒素が胆汁と化合すれば、硬化して結石となるのである。之を治癒するには、非常に運動して腎臓部に発熱を起し、其浄化作用によるより外治らないのである。然し、自然治癒によっても幾分宛かは治るのである。(医学試稿 昭和十四年)
糖尿病
此病気は糖分が尿と共に排出する事は誰も知る所であって、症状としては疲労感、頻繁なる尿意、喉の渇き等である。原因は肝臓外部下辺に毒素溜結し、それが肝臓を圧迫するので、肝臓の活動に支障を来すが為である。従而、之を治癒せんとするには、大いに運動をなし、浄化作用を起さし、毒血を発熱によって、下痢又は喀痰等によって排泄すればいいのである。医学では糖分を禁ずるが、之は不可であって、食事は普通の健康食でいいのである。何となれば、浄化作用を起させるのはその方がいいからである。(医学試稿 昭和十四年)
喘息
此病気の原因は、医学上未だ全然不明である。そうして医学上では気管支性喘息と心臓性喘息と二つの名称に別けてゐるやうである。即ち前者は咳嗽が主であり、後者は発作(呼吸困難)が主である。近来、注射によって一時的苦痛は解消するけれども、治癒の効果はないのである。寧ろ逆作用によって幾分宛か悪化の傾向を辿るのである。
然し、私は喘息の原因は、根本的に知り得たのである。それは、先づ第一は横隔膜の下辺即ち胃及び肝臓部に毒素溜結するのと、肋骨(多く乳辺部)に、毒素が溜結するのとあるが、大抵は二者合併してゐる。咳嗽は右の毒血が浄化作用によって、喀痰に溶解排泄せんとする為である。発作は溶解せる喀痰が濃厚の場合、若しくは人により肺膜の強靭なる場合、喀痰が肺臓内へ浸潤する能はざるを以て肺臓の方から吸収せんとして肺自身が膨脹的活動を起すのである。故に、喀痰を若干排泄するによって発作は停止するのである。以上の理由によって喘息は喀痰排泄によって漸次治癒するものである。喀痰排泄は自然療法が一番いいのである。然し世人は、発作、咳嗽、喀痰は、悪化作用と誤信し、薬剤等によって症状を緩和する為、慢性的となり一生治癒しないやうになるのである。(医学試稿 昭和十四年)
痔
此病気は特に日本人に多いのである。種類に於ても、痔瘻、痔核、出血、周囲炎、脱肛等あるが、何れも非常に治りいいのである。
痔瘻は三毒が浄化作用によって肛門の一部へ穿孔し、そこから排泄されるのである。従而、自然療法によって治癒すべきであるが、医療は手術によって肛門際の滞溜せる毒素を除去し穿孔を閉鎖するに於て一時は治癒したと思うが、時日を経て、元来身体内部に在る毒素であるから再び肛門に集溜するのである。然し、其場合手術によって閉鎖されたる最初の穿孔部を避けて、再び穿孔するものである。其際患者は、第一回の手術の効果なきを知って二回目の手術を厭ひ、薬物塗布等の療法をするのである。故に薬毒が粘膜を靡爛せしめ、人により穿孔が数個所になり、靡爛と共に、薬毒の刺戟によって痛苦甚しく、患部は二目に視られぬ状態を呈するのである。
痔核は、外痔核と内痔核とあって、肥満せる人は内痔核が多く、痩せたる人は外痔核が多く、又左右孰れかであって、小は小豆大位より、大は指頭大位であって、之も自然療法によってよく治癒するのである。
痔出血は浄化作用によって、毒血が一旦肛門部に集溜し、便通の際溢出するのであるから、之は健康上特にいいのである。故に、此毒血が全部排泄すれば完全に治癒するのであって、此為頭痛、肩の凝り等頗る軽快になるのである。
肛門周囲炎は肛門の周囲が絶えず湿疹的に痒み、又は痛むのである。原因は三毒が肛門部に集溜し粘膜を濾化浸潤するのである。自然療法で治癒するが、時日は非常に長くかかるのである。
脱肛は一種の習慣性病気であるから、原因を除去すれば漸次治癒するのである。其原因は、便所の長いのと便秘による息みである。従而、排便の時間は一回五分程度とする事、それは今迄廿分かかった人は五分宛四回にゆくといふやうにすれば、漸次三回になり二回になり一回になるものである。便秘の方は便秘の項目に療法を述べる事にする。(医学試稿 昭和十四年)
心臓病 (一)狭心症
此病気は、発作的に心臓部の激痛、呼吸困難及び名状すべからざる胸部の苦悶を起し、患者も周囲の者も死に瀕するかと思ふのである。強度のは数時間以内に生命を堕すものもある。軽度のものは安静にしてをれば自然に治癒するのである。注射によって一時的苦痛を免るるけれども、それが癖になると、段々頻繁と強度の薬液になる為、死を速めるのは止むを得ないのである。原因は心臓の周囲に毒素溜結し、浄化作用と精神的過労、激動等によって心臓疲労による抵抗力減殺の結果、毒血が心臓を圧縮するのである。(医学試稿 昭和十四年)
(二)弁膜症
症状は動悸、心臓部圧迫感、脈搏不正等である。原因は狭心症と同様であって、唯心臓周囲の毒素溜結が軽度であるからである。然し、弁膜症といはるる患者で、実際弁膜症でないので、誤診が多いのである。それは、如何いふ訳かといふと、心臓に近い部の肋骨に毒素溜結し、その浄化作用の微熱によって心臓が昂奮するのである。恰度、入浴時動悸が高くなると同じ理由である。心臓が悪いといふ患者の九十%位は、此種の原因であるから、寧ろ旺んに運動して浄化作用を起させれば速く治るのである。(医学試稿 昭和十四年)
(三)心臓肥大
心臓肥大と診断される患者はよくあるが、実際の肥大は極稀で、大部分は心臓附近に溜結せる毒素の塊を、心臓が肥大せるものと誤診するのである。実際の肥大はスポーツマンとか、大酒家とかいふ特殊の原因によるのである。(医学試稿 昭和十四年)
肝臓病
此病気は、症状は肝臓部の痛苦及び糖尿病等であって、原因は肝臓の外部に溜結せる毒素の塊が圧迫してゐるので、肝臓の活動に支障を来すので、右の塊を肝臓肥大と誤診さるる事が多いのである。故に、盛んに運動をして浄化作用を起せば、患部に発熱し、喀痰又は下痢となって排泄し、治癒するのである。(医学試稿 昭和十四年)
脚気
此病気は、誰も知る如く、脚及び手、口脣等の麻痺である。特に脚部に於ては、膝から下の内側である。手は、掌の拇指の付根の辺である。口脣は下脣である。之が真症の脚気であって、非脚気は、脚気と誤診さるる事も多いのである。例へば、膝のガクガクするとか、脚の重いとか、力が無いとかいふ如き症状は、脚気ではないのである。
原因は、真症の脚気に於ては医学で唱ふる如く、全く白米中毒であるから、近来の如く、七分搗又は半搗米なら起らないのである。近来脚気の激減するのは之の証拠である。又西洋の脚気のないのにみても瞭かである。
前述の脚気に非ざる脚気、之は如何にといふに、腎臓の尿毒が脚部へ下流して溜結する場合と、腹膜に集溜せる尿毒が下流する場合と、注射等の薬毒が脚部に溜結する場合等であって、それが浄化作用の為の微熱によって重倦く、ガクガクやフラフラは、毒血が筋肉の運動を妨げるからである。
婦人の血脚気は、全然別の原因にて、之は産後の古血が脚部、腰部、腹部等に移行するのである。尚詳細は婦人病の項に述べる事とする。(医学試稿 昭和十四年)
リョウマチス
此病気は手足の関節部に溜結せる毒素が激しい浄化作用が行はれるのである。最初患部は紅色に腫脹し、堪え難き激痛を伴ふのである。衣類が触れてさへ飛上る程の痛みを感ずるのである。原因は三毒が浄化作用によって、関節部へ集溜するので、生活力旺盛なる青年男女に多いのである。医療に於てはギブスによって手足の屈伸と物の触るるを防ぐ為、ギブスによって絶対自由を拘束するのである。そうして、浄化作用を停止せしめて固めるのである。固める迄に大抵数ケ月を要するのである。固まれば痛みは無くなるのである。そうして固まった患部をマッサージによって、棒の如くなった手足を屈伸するやうにするのであるが、若干の効果はあるが、発病以前の状態に戻す事は到底出来ないのである。
然るに、リョウマチス発病の際何等の手当を施さず、自然療法によれば、患部は化膿状態となり、自然穿孔されて毒血排泄し、完全に治癒するのである。但し、氷冷、湿布等を行ふ事は最も悪いのである。何となれば、それを一回にても行ふ時は、浄化作用の勢を減殺する事になるから、折角の毒素排泄作用を弱らせる事になるのである。
リョウマチスは稀に、関節部に限らず、関節以外の場所に起る事もある。神経痛と誤り易いのであるが、それとは異ふので、之は寧ろ治癒し易いのである。勿論自然療法によってである。(医学試稿 昭和十四年)
神経痛
神経痛は患部が一定してゐないのが特異である。然し大体は手足全体及び肋骨及び腰骨である。そうして、激痛あり、鈍痛あり、鋭痛あり、軽重も大いにあるのである。
原因は三毒が局所に溜結し、其浄化作用の為である。自然療法ならば、緩慢ながら必ず治癒するのであるが、薬剤其他既存の療法をなす時は一時的痛苦は軽減すれども、反って慢性に移行し、痼疾となり勝ちのものである。特に肋間神経痛は、肺結核、喘息、心臓病、肋膜炎等と誤診され易いから注意すべきである。(医学試稿 昭和十四年)
カリエス
カリエスは、脊髄カリエス、肋骨カリエス等であって、脊髄カリエスに於ては普通脊柱が彎曲(ワンキョク)し、傴僂(セムシ)となるのである。そうして、多くは腰部及び股部に一個所乃至、数個所自然穿孔され、その孔から膿汁が排泄されるのであるが、其膿汁たるや頗る多量にて間断なく排泄され、数年に及ぶものさへある。真の原因は霊的であるが、茲にはそれを省いて体的に説明すれば、遺伝に因る特殊膿であって、それが頗る多量なのが此病気の特質である。医療はコルセットにて脊柱の彎曲の進行を防止せんとするが、幾分の効果はあるが一旦彎曲せる脊柱は決して治癒しないのである。そうして、排膿に対する手当等は反って浄化作用の妨害となり、治癒を遅らせるのである。故に、カリエスの兆候ありと認めたる時は、運動を盛んにして浄化作用を起させるのが最善の方法である。
肋骨カリエスは、肋骨の裏面の骨膜に溜結せる膿が骨に微細なる無数の孔を鑿ちて、外部に排泄されんとする一種の浄化作用である。医学では骨が腐ると称して、手術により痛む部所だけを切除するのである。然し自然療法によって完全に治癒するので、痛苦は少し我慢すれば治るので、骨が腐るなどといふ事はあり得ないのである。(医学試稿 昭和十四年)
猩紅熱
此病気は発熱と同時に、全身又は或部分が紅色を呈し、軽微な発疹をみるのであって、伝染性のものである事は、人の知る所である。原因は、遺伝による血液中の毒素が浄化作用によって、皮膚面へ滲出せんとするのである。伝染は黴菌が浄化作用を誘導するのであるから、伝染する方がよいのである。そうして、生命には別条はないので、自然療法で全治せんとするのである。全治後は浄血になるから健康は増すのである。(医学試稿 昭和十四年)
丹毒
此病気は最初発熱と共に顔面に腫物を生じ漸次拡大して、軽症は一局部なれど、重症は全身的に及ぶものさへある。
原因は、猩紅熱と同じく、遺伝による毒素の急激な浄化作用であって、自然療法によって全治するのである。此際氷冷其他の療法によって、浄化作用を停止せんとする時は生命の危険を来すのである。(医学試稿 昭和十四年)
疽(ヒョウソ)
此病気は手の指頭に発生する腫物であるが、之は特に激痛堪え難きものである。一見指頭が腐敗する如き症状を呈するのであるが、決して腐敗する如き事はないのである。原因は強毒素(主に薬毒)の浄化作用であるから、自然療法による時充分腫れて穿孔され、膿汁排泄されて治癒するのである。然し、医療は指頭より、漸次腐敗すると称して、患部を切除又は指頭を切断するのである。然し、氷冷又は薬剤塗布等によって、浄化作用を停止する時は難治となるから注意すべきである。(医学試稿 昭和十四年)
脱疽
これは 疽(ヒョウソ)と酷似せる病気にて、ただ異る所は足の指である。症状も 疽(ヒョウソ)と殆んど同じであるが、医療によって指を切断するけれ共、後に至って他の指に発生し、又切断し、数本に及ぶ事さへある。之は一定量の毒素が、一本の指に集溜し、穿孔排泄されんとする時、集溜半ばにして切断する故、残存せる毒素が他の指を求めて排泄せんとする為である。悪性と医療の誤りの為、足首から切断の止むなきに到る事さへある。稀には膝関節又は股関節から切断する場合さへあるのである。(医学試稿 昭和十四年)
蕁麻疹
症状は身体の全部又は一部に粟粒状に発疹して、紅色を呈し痒いのである。原因はカルシュウム剤注射によって起るのは、最も多く同注射が普通二、三年より四、五年位経て起るやうである。医療は療法としてカルシュウム剤注射を行ふが、之で一時鎮静しても、再発するのである。その場合後の治療の為の注射が加はるから、初発よりも増悪するは勿論である。
右カルシュウム中毒以外の場合は然毒が陰性化されたる為、変形的天然痘となって、一種の蕁麻疹的症状を表はすのである。
又、食物の中毒による事もある。之は一日乃至三日位にて必ず治癒するのである。(医学試稿 昭和十四年)
皮膚病
此病気は、千差万別であり、大小軽重のあるのは誰も知る所であるが、之は毒素の性質その人の体質によってそれぞれ違ふのである。勿論、浄化作用であるから、自然療法で必ず治るのである。然し、医学はそれを知らないから、薬剤塗布又は光線療法等によって治さうとするが、之は実は治さない方法なのである。折角、浄化作用の為皮膚面まで集溜し、皮膚を破って排除せられんとする毒素に対し、塗布薬の毒素を塗るからそれが滲透して浄化作用を停止する。又、光線療法も浄化作用を停止するのである。従而、排除せられんとする毒素は、皮膚下に凝結する結果となるばかりだ。後続的に集溜せんとせし毒素の医療を受けたる部分をさけて他の新しき皮膚下に集溜するのである。然るに此際も医療を加へんか、又、他の新しき方面に集溜する。之に加ふるに、塗布薬の毒素が一旦侵透して、浄化作用によって排泄運動を起すから、病気は悪性となり、増大するのは勿論である。斯の如くして、初め一部分の小さな皮膚病が、数年もかかってつひに全身的に拡大し、非常な苦痛に悩むものは稀でないのである。此やうな経路を経たる患者及び医師諸君は、之を読んで実際と思ひ合せ、首肯し得ると思ふのである。故に、医療は此場合人を救ふにあらずして、其反対の行為をなすものであるといふ訳である。(医学試稿 昭和十四年)
瘍疔
症状は顔面部を主とし、頭部背部等が重なるものである。之は患部は腫脹し、発熱、痛苦を伴ふものである。此病気の特異性は、初めは腫脹だけにて主点がないのである。自然療法によって必ず治癒するのであるが、医療は氷冷、塗布薬等によって、毒素の排除を停止せんとする為、盛んに集溜しつつある毒素は、方向を転じて深部に集溜する事になって、病気は増悪するのである。又、手術によって毒素を排除する事もあるが、それは集溜した分だけは排除されるが、盛んに集溜しつつある後続膿は方向転換するから、つひに生命の危険さへ生ずるのである。(医学試稿 昭和十四年)