四代教主陽一氏に取り憑いた”何か”の正体

先日、「明るみになった陽一氏の説く教えの原点」という表題の動画がいずのめ教団さんのYouTubeから配信されてたので、それを拝聴させていただいてたんです。そうしたらですね結構衝撃的な内容でして、それと同時に『はーなるほどなー。』と自分の中で長年疑問に思っていたことが分かったといいますか、点と点が線で結びついたんですよね。それで、自分の中の考察をここで述べさせていただきたいんですよね。ただ、内容が内容ですし、スピリチュアルな話なので話半分で読んでいただくのがいいかと思います。ふーん、こんな考え方もあるのかといった程度です。

動画の内容で重要な点を文字に起こして抜粋して紹介します。先代の世界救世教管長であった長澤先生と四代教主様との間で平成30年頃に面談があったのですが、その対談記録になります。

長澤先生:それこそ、教主様、私たちはそういう生い立ちをしていますから、明主様に対する思いというのは、私ら理由はありますけど。教主様の最近の…申し訳ありませんけど。今、教主様が中心になって語れる世界は、どのあたりからああいう発想をなされているんですか。

四代教主: 説明が難しいんですよね。だからそうなるとね、根拠がないから困っちゃうんですよね。

長澤先生:根拠がないんですか。

四代教主: 根拠がない。要するに、そういうものに掴まれちゃったというかね、だから、それは仰るように邪神にやられているとかね。

長澤先生:邪神?

四代教主:……否定しようがないですからね。思わされることについて。 だから、これを下手にこれをいろいろ言うと誤解されちゃいますからね。 何か特別の何か、やられているみたいな話になっちゃいますからね。だから、そこはちょっとお話ししてもね、そう思わされるということでね、ということしかないんですよね。だから、それはおかしいということになっちゃうんですけどね。

この発言だけではなく、次のような発言を陽一氏自身が繰り返し述べられているそうなんです。「何かにつかまれてしまった。」、「理由も根拠もない。」、「自分の言っていることの説明ができない。」、「理解や認識を超えた”何か”にやられている。」、「自分でも不思議だ。」、「自分の考えとして出しているわけではない。」 と。

長澤先生:教主様お一人でそういう風に進んでいかれるのは、それはやむを得ません。しかし、その中で、教団の中で、様々混乱が発生しているじゃないですか。

四代教主:だから、そのことについて、話しあうと、じゃあ、それを信じて進んでいる方もいらっしゃるしね、それは強制しているわけじゃなくて、そういう方がいらっしゃる。 この話がいるのはどうですか、みたいな話になっちゃうから、だからこの話をしてもしょうがない、だから、だから、 ……

長澤先生:例えばね、いやいや、しょうがないんじゃないですよ。役員会の常にあそこで話をしてきたことは、そのことが本当にわかるように、私たち一生懸命、教主様のお言葉を勉強したと。しかし、それはわからないんだと。だから、例えば仲泊さん、あなたの場合はどういうふうなことからこれを理解するようになりましたかと、それを私たちにわかるように言ってくれないかと。

四代教主:わかるようには、きっと、説明誰もできないと思いますよ。 だから、信じていらっしゃることについて、進んでいらっしゃればいいんです。 私はそこに干渉するつもりはないです。

長澤先生:だけど、世界救世教という宗教団体を構成している信者さんが、……

四代教主:はい。

長澤先生:非常に困っている、そういう人たちに対して、どういうふうにしてあげればいいのだろうと、私はそっちの方が悲しいです。

四代教主:困っている人、だけど、受け入れている人もいるんですね。

この他にも「 説明しようとしても誰も説明できない」、「言葉にしようとすると違うものになってしまう」、「感じているだけで理由や根拠はない」、「理解や理屈ではない」と述べられたようです。

長澤先生:はい。またぜひ機会をいただいて。よろしくお願いしたいと思います。長時間ありがとうございました。

四代教主:5分間くらい浄霊させていただきましょうか。

長澤先生:ありがとうございます。お忙しいでしょうから。もういつもならお帰りになっていらっしゃる時間でしょうから。失礼します。

驚いたことに面談の最後に四代様の方から御浄霊を勧めておられるのです。だから本当にこの当時は自分のされていることに一貫性がなかったことが伺われます。

さて、この対談の要点は何だったのかというと、信徒の皆さんの前で話されるキリスト教に準じた御話というのは四代様御自身の御言葉ではなかったという点が驚くべきところなんですよね。”何か”に言わされていると四代様は告白されています。では、この”何か”の正体についてなんですが、ここのところが今回の話の本題でございまして、わたしはこの”何か”の正体について思い当たるフシがあるのですよ。それをここで要点を整理しながら確認していきたいともいます。

結論からお話しますと、この四代様に取り憑いている”何か”の正体は、観音会立教当初から二代様に取り憑いて明主様の御神業をことある毎に邪魔してきた「素盞嗚尊」です。ただ、わたしは正確な審神は出来ないので、状況証拠や過去の記録から類推しているだけです。本当は素盞嗚尊の眷属かもしれないし、取り憑いていた素盞嗚尊の御霊と二代様の御霊が同化してしまったものかもしれないし、精確な詳細は分からないのです。ただし、素盞嗚尊の系列の御霊であるのは疑いようがないのです。ではその根拠となるところを解説していきましょう。

①二代様様に憑依していた 、 素盞嗚尊
昭和36年 二代教主様巡業折、 出雲大社に参拝されました 。お玉串料は当時の金額で10万円でした 。普通の参拝者は入れない拝殿の方まで通され、お参りしている時に、二代様の後ろの方に座っていた私は、何の気なしに、垂れていた頭を上げて見ていた処、 二代様の頭の上に錦の簪(かんざし) のようなものが、キラキラ光りなら動めいているのが見えました。

二代様はそのような簪を着けている筈もないのに、これは何なんだろうと思いながら見ていました。するとそれが大きくなり、ご立派な衣冠束帯を着けた神様のようになり、すうっと浮き離れて、社殿の方へ入って行かれ、社殿の両側からは、これも衣冠束帯の神々が大勢出てこられ、「よお帰りなされた。よお帰りなされた」と言って出迎え喜んでおられました。(中略)

その事が気になったので箱根に参拝の折り、明主様の側近であった、井上茂登吉先生に伺ってみた処、即座に、「だから、明主様がご苦労なされたのだ 。素盞嗚尊が二代様に憑依して、ことごとく明主様のご神業を妨害していたのだ。」と憤慨しながら仰しゃいました。

②石坂先生の著書
明主様が『メシヤとして新しく生まれた』と仰しゃったのを奥様は神様に申し訳ないと、大本教にお詫びに行かれた。それを聞かれた明主様は激怒され、 病床から飛び起き、『離縁してしまえ』と叫ばれた。ちょうどその頃、(メシヤとなられた)明主様のお手の「ごてんもん」の一本が、伸びていない事を、明主様は気にしておられた。

③小川先生から聞いた、井上茂登吉先生のお話
二代様を叱責(しつせき)されて、ご自宅から出された事は事実だそうであります。その後呼び戻しになられ、『あれはヨシの魂を転換する上で、必要なことであった』と仰せられたそうで、ございます。このお話は長谷川ナミ先生にも 、仰られてるという事でした。

④二代様の信仰
二代様は明主様が昭和9年12月23日の大日本観音会の仮発会式の直前になっても、自室に大本教の祭壇を作り「大本之皇大神」と礼拝していました 。明主様の弟子の一人(N)が、「先生(明主様)は、もうすぐご立教されるのですから、大本教の礼拝はおやめ下さい」と諭すのですが、二代様がこの言葉を無視した為、この気の短い弟子は、激怒し日本刀で二代様の背中に斬りかかったのです。幸い和服が厚く 軽傷で済み、明主様が二代様を抱きかかえて、その血が滲んだ傷口に浄霊されたそうです。

二代様は明主様が昭和10年に、ご立教された後も、自室に大本教の祭壇を作り、大本教の礼拝をずっとされていました。

⑤景仰 年よりも仕事の量で
明主様も晩年には徹底した赤ん坊気取りでおられましたが…

⑥渋井総斎伝 御用の人 總斎の帰幽
總斎の目は再び閉じた。二代様の大粒の涙がまた總斎の顔に落ちたが、もはや總斎の目は開かなかった。
「こんなに胸も厚く心臓も強い。なんで医者に見せないのですか」
と、二代様はなかば叱りつけるような口ぶりで話された。

①~⑥まで、いろんな文献を引っ張ってきましたが、これらはほんの一例で実はもっといっぱいあります。要するに、二代様は明主様御在世当時から、明主様のことを神様と拝んだことはなかったのです。二代様の信仰の対象は最初から最後まで「大本之皇大神」でありまして、元々大本教であった明主様も自分と同じようにこの神様拝んでいると思われていたに違いないのです。きっと夫婦で同じ神様を拝んでいると考えられていたのでしょう。しかしながら全然違ったのです。大本教は最初、出口ナオさんに国常立の尊が懸られて立教されるのですが、後になって出口王仁三郎聖師が後継者となってからは素盞嗚尊が主体となるのです。最初、国常立の尊が善の経綸で世界を支配して、その後、素盞嗚尊が悪の経綸で世界を支配した結果、世界が木っ端微塵になるというのが大本教のストーリーなんです。これまでの世界の経綸そのものが大本教の歴史に凝縮されているんですよ。そのクライマックスが第二次大本事件で関連施設がダイナマイトで木っ端微塵になるんですけど、それがそのまま世界に表れるんです。そんな中に救世主メシヤが現れてボロボロになってしまった人民を救い上げて天国を建設するというのが救世教のストーリーなんです。その型だったんですよ。

なので、自分こそは世界の主人公で救世主であると信じ込んでいた素盞嗚尊は悔しくて仕方がないんです。出口王仁三郎聖師は素盞嗚尊の御霊で御自身を救世主メシヤと言われてましたからね。だから、明主様を認めたくないんです。是が非でも明主様の御神格を落すなり、御浄霊をわやにして威力を弱めるように弱めるようにもっていったり、御教えのほとんどを封印したり、そういうことに全身全霊なんです。出雲の御霊はどうしても雲の働きをするんです。太陽の光を遮って邪魔する働きです。なので明主様の御昇天後に二代様がなされたことは結果からいっても出雲の働きとピッタリ合うんです。そういうこともあって明主様は御在世当時から御自身と二代様を同列に扱うような幹部や奉仕者がいた場合、きつく戒められました。「キミ、命にかかわるよ」ときつく御注意されたのです。そして、今度は四代様に憑依して箱根の光明会館の建設に反対したりして、一番の障害になってたんですけど、それが遂に四代様が連れていくカタチで教団から追い出されたんです。だから、四代様の口からでる御言葉のほとんどがキリスト教的なのもつじつまが合うんです。どうしてかというと、ナザレのイエスは素盞嗚尊の再生した姿で、結局自分を拝ませたいがためにキリスト教の言葉を使って信徒に語り掛けているんです。

ただ、ここがややこしい点なのですが、素盞嗚尊にもいろいろあって、改心した素盞嗚尊もいらっしゃれば、未だもって四代様に取り憑いて邪魔して改心していない素盞嗚尊がいらっしゃるのです。ちなみに改心した素盞嗚尊の代表が五六七会の会主であった渋井總斎先生です。この方の働きでもってして明主様に「素盞嗚尊は改心した!」と言わしめたのです。渋井先生については生前明主様から直接「素盞嗚尊の再生である」と教えていただいてたそうですし、渋井先生が明主様の前に伺われるときはいつも決まって前掛けをかけられるそうですがこれなんて完全にフリーメーソンの型ですからね。また渋井先生が帰幽されてすぐに、息子さんが海から天に向かって銀龍が立ち昇っていくのを視られたそうですが、このことも渋井先生が素盞嗚尊だったことを物語っているのですよ。

昭和26年御垂示録
【御伺い】「 松江の倉橋忠二(49歳)は、 今月の雷鳴の時から頭痛がし、浄霊すると、霊動いたします。 合掌したまま、手を上るだけです。 強羅(箱根)に出発直前、 御神体にお参りする時、霊動をし、 家の者が浄霊をしても治らず、教師の方が来て浄霊すると「自分は神素盞嗚尊であり、 主神に三千年の罪を、お詫び申したが、お許しがない。お参りしてお詫びする。」と言って鎮まりました。 長く霊動いたした場合の処置は、いかがしたら、よろしいでしょうか。」

【御垂示】『 それは本当です。松江( 出雲)は日本における素盞嗚尊の住居です。 神素盞嗚尊は私に、お詫びをしなければならない事がある。( 明主様が天照天皇の頃、 殺めた罪)素盞嗚尊は一人ではない。お詫びしたのも、しないのも居る、素盞嗚尊は私の先祖に対し、ひどい罪がある。素盞嗚尊の霊が解決したら、他の霊がかかるかもしれない。今後の様子を見てみなさい。』

このように、素盞嗚尊にもいろいろあって改心した方もいれば令和の今になっても改心しない素盞嗚尊がいらっしゃるのです。それで、先にナザレのイエスの名前を出しましたけど、四代様に憑依してる素盞嗚尊はどうもイエスではないような気がするのです。これは四代様から出る言葉の印象から、どうもイエスじゃないよなと思うのです。キリスト教的ではあるけどイエスの愛の溢れるような感じがしないのです。もっと排他的で自分の身を律するような厳しいイメージを受けるんですよね。御教え集第三十三号にあるんですが、キリスト教に係わる聖人でマリヤ、イエス、ヨハネ、ヤコブは明主様に御祝いと感謝を伝えるためで霊懸かりで出てこられてます。キリスト教の親戚であるイスラム教のマホメットも出られて賛辞を贈られてるので、この方も違う。ではキリスト教に係わるユダヤ民族(出雲族)の誰が四代様に憑依しているのかを検討してみるとき、わたしの中でパウロのイメージがピッタリくるんです。ユダヤ名でサウロですね。パウロはいう方は、罪の意識が強烈にあるんですが、そういうところの裏返しでものすごく教えが戒律的なんです。自分を含めた人間に内在する悪をものすごく戒めるという解き方なんですよね。そして寛容性に欠けすこぶる排他的なんです。なので自分の信じる神以外は絶対認めないというやりかたです。

日本の場合は八百万の神も含めて何でもかんでも受け入れる寛容性がありますが、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教は天の父以外は絶対認めないという考えが根底にあるんです。それも自分の理想とする神です。仮に神様が人間として現界に降臨するとして、その人間の人種がアジア人や黒人なら絶対認めないのです。彼等はそのような神を神として拝むぐらいなら、いっそのことその神を抹殺してしまうでしょう。それぐらい寛容性の無い狂信性があるのです。要は自民族というか自らの血統に対するうぬぼれです。ユダヤ教徒ならユダヤ民族の中から生まれ出るメシヤしか認めないのです。白人圏のキリスト教なら白人種の中からしかメシヤは生まれてはいけないのです。イスラム教ならアラブ人種の中からしかメシヤは生まれてはいけないのです。仮に他民族にメシヤが生まれた場合、彼等は戦争を仕掛けるでしょう。それぐらい強烈な排他性があるのです。それで、そういう排他性を各宗教に植え付け、もっと遡っていけばユダヤ民族に選民思想を植え付けて世界中で暴虐の限りをさせている張本人の神様が、未だに四代様に憑依して苦しめている素盞嗚尊です。

では、どうして明主様はこのようなとんでもない悪神が奥様である二代様に取り憑いているのにそのまま野放しにしていたのかという疑問が浮かびます。しかしそれにはちゃんと理由があって、明主様の願われた御心が何であったのかというと素盞嗚尊の救済、素盞嗚尊の改心であったのです。決して、日輪で焼き払って滅ぼしてしまうことではないのです。その方が簡単で楽なんですけどね。でもその様なカタチで滅ぼしてしまうとその改心しなかった素盞嗚尊と一緒にそれに連なる人間の御霊が根こそぎ滅んでしまうのです。排他性の抜けない狂信的なユダヤ民族、キリスト教圏の民族、イスラム教圏の民族が巻き添えをくって一蓮托生で滅んでしまうのです。というのは魂というのはズーーッと連なっているからです。明主様の御心はどこまでも「全人類の救済」にあったのです。なので、救済にも順序があって人間よりも先に神様から救わないといけないと御教えにあります。

素盞嗚尊は神代の時代に明主様の御先祖に対して大変な御無礼があったのですが、それに対する神様の復讐というのはやっつけて泣かせてギャフンと言わせるようなものではないのです。まったくその逆で心から喜ばせて満足させて底の底から心服させるという方法をとられるのです。だから、この素盞嗚尊が二代様に懸かられてても、二代様を心から喜ばせて満足させてという方法でもってして、素盞嗚尊を改心させて救済するという方法を明主様はとられたのです。こういう理由もあって、明主様は二代様のことを心より大事にされました。ところが最後の最後まで二代様に憑依していた素盞嗚尊は改心することがなかったのです。というのはこの神様は自分の信じたいものしか信じない狂信の神だからです。客観性のない主観の鬼です。ちょうど子供の御遊戯会を観にきた親御さんが自分の子供にしか目がいかないのと同じようなもので、他所の子がどれだけいい演技をしてようが劇の演出の出来栄えがどれだけよかろうがハッキリ言ってどうでもいいのです。そういうのを十倍も百倍も濃く煮詰めた感じです。だから、二代様は大本之皇大神という自分の推しの神様が奇蹟を起こして大活躍してれば目を輝かせて歓喜したに違いないですが、旦那さんである明主様がどれほど神力を振るわれて奇蹟を起こし人を救われてもさほど興味もなければ関心もなかったのです。もちろんこれは素盞嗚尊が憑依していたから仕方がなかった点があると思います。でも、そうでなければ二代教主になられてからの御浄霊の変遷や御教えの封印の説明がつかないんですよ。

今のこの時代、人類というのは邪神に酷い目にあわされて虐め抜かれてるんですよ。人間が気付いてないだけなんです。例えてみれば、意味もなく屠殺されて人間に食べられることもなくそのままドブか何かに廃棄される家畜より酷い目にあわされてるんですよ。よくよく霊を主体にして考えてみれば分かるはずです。赤ん坊のころから膨大なワクチンで霊体を汚され、学校というところで優劣というヒエラルキーを12年~16年かけて叩き込まれて社会の線からはみ出たら君たちの人生は終わりだと洗脳されるのです。そしてその後、人間の幸福に本当に寄与するのか分からないような青い鳥を永遠に追わされてストレスと食品添加物で病気になって、大事にためた貯金を全部医療に吸われるんです。で、医療で霊体も肉体も本当に救われるならいいですけど、実のところ製薬会社の金儲けのために薬漬けになって気づいたときには霊界に帰幽してて、そこでやっと本当のことを教えられるんですけど、そのときになってみれば全部後の祭りで薬毒で霊体は汚れ切って重たくて重たくて上に昇れないのです。それで、救世教みたいに紫微宮で祭ってもらったり慰霊祭をしてもらえれば帰幽後でも救済はありますけど、現代人は霊的知識がないせいで葬式もせず火葬だけして遺灰を山から撒いたり、海にまいたりして霊界でもホームレスに追いやって追い打ちかけてるんです。それで墓の世話が出来ないからと人間の都合で墓じまいをして、ヤクザも墓までは取らんといわれたものを撤去して霊界における安住の地を解体して更地にしてるんですよ。踏んだり蹴ったりとは正にこのことです。

こういうことがしっかり腹の底から分かってて、薬毒の害を世界に知らしめて人類を救済しなければならないという燃えるような主体性があったならば、御浄霊の方法を祈りみたいなカタチでボヤ化したり、御教えの中心部分を隠蔽したりできないですよ。頭を鈍器か何かで思いっきりブッ叩いて脳みそに損傷を与えてあえて記憶喪失みたいにならないと、とてもこんなこと出来やしないです。もちろん経綸上仕方がなかったとは私も理解してはいますよ。医師会と正面から戦って無事でいられる保証なんてないですからね。これは古い信者さんから聞いた話で確証はないのですが、この前公衆の面前で亡くなられた前首相の安倍晋三さんの祖父であった岸信介さんが二代様の時代に教団に関わったと聞いたことがあるのですよ。岸信介さんは実はアメリカのCIAだったことが今になって分かっているんですけど、この岸さんが当時の教団に医師会とぶつかるような内容は全部ひっこめろと圧力をかけたと言われてるんですよね。人によっては岸さんに助けてもらったと表現する人もいるんですよ。なので、医師会から要請があって岸さんがちょうどいい落としどころを調整したのかもしれません。確証がないことをこれ以上話すべきではないので、このへんで止めておきますが、どうしても薬毒のことをハッキリいうと社会との軋轢を生むのです。しかしながら、物事を考えるときは自責と他責をしっかり線引きをして考えなければいけません。そうでないと問題の急所が無茶苦茶になっていったいどこを改善していけばいいのか分からなくなってしまうのです。

それで、自責つまり主体性の点については、どこまでも全人類の救済を目標にしなければいけないのです。明主様に帰一して、薬毒の害を知らせ、御浄霊の奇蹟で霊の実在を知らせるというのが本懐になってきます。一方の他責つまり受動性の点については、どのようにすれば教団の社会的信用を落とさないようにしていけるか、社会のニーズにどのようにマッチしていけるかというのが工夫する点になってきます。それで話は戻りますが、この人類救済という燃えるような主体性がないと邪神に付け込まれてイチコロで操り人形にされるのですよ。社会環境を、主体性の無いことの言い訳に使ってはいけないんです。邪神も元は神様ですからそういう人間の心のスキは一瞬で見抜きますよ。そりゃそうですよ生きてる年数が違いますからね、年季が違うんですよ。それで、自分のことは棚に上げて失礼なこと言いっぱなしで本当に申し訳ないことなんですけど、二代様に足らなかったのはこの燃えるような明主様と同じような主体性であったように思うのです。でも一方で、これは仕方がない様に思います。いきなり何万もの信徒を預かる教団を明主様から託されて、周りの幹部は自分こそ後継者だとギャーギャー騒ぐし、信徒は一気に離れていくしで、教団と子供を含めた家族を守ることで精一杯だったんですよ。それで二代様もストレス溜め込み過ぎて駆け足気味で帰幽されますからね。考察の為に客観性をもって一つ一つ押さえていってますが、一個人として二代様を批判する気持ちはとてもじゃないですけど起きないですね。よく踏ん張って頑張られたと想います。本当に母性溢れる良いお母さんだったんですよ。しかしながら、母性に偏り過ぎたところを素盞嗚尊に付け込まれたのです。

ここで、四代様の話に戻ってくるのですが、四代様が何度も繰り返し述べられている御言葉の中には何個か共通点があるんですよ。それを一個一個整理して押さえていきたいと思います。

①御浄霊が効かなくなった。
②人類は二千年前イエスによって救われた。
③明主様が仰った『メシヤが新しく生まれた』とは皆さん一人一人のうちにメシヤが生まれたということである。

①は要約すると、明主様の神性の否定です。急所に当てるという人間の努力の方を放棄させるようなやり方を信徒にさせておいて、御浄霊が効かなくなったと言うんですから悪質極まりないです。御浄霊をボヤ化す原因をつくっておいて、御浄霊が効かなくなった流布し、ホラ明主様は神様じゃないでしょという論法です。

②も明主様の神性の否定です。というのは明主様がメシヤであると、この素盞嗚尊はものすごく都合が悪いのです。この素盞嗚尊は妄信で狂ってるんですが一応の良心はあるのです。それで、もし仮に本当に明主様がメシヤであったならば、御浄霊をボヤ化して御教えを隠蔽した御自分は、これから人類が滅ぶ原因をつくってしまった大罪人(大罪神)なのです。だからバツが悪いのです。たのむから明主様はメシヤではありませんようにと祈るような気持ちなのです。

③も明主様の神性の否定です。②と同じ理由です。みんなにメシヤが生まれたんだよと言えば、明主様のメシヤとしての唯一性、神性を落すことが出来るのです。

だから、この素盞嗚尊が四代教主様の口を借りて何を繰り返し述べているのかというと『明主様は神様じゃない。明主様はメシヤじゃない。わたしは悪くない。わたしは間違ってない。わたしは人類が滅ぶ原因をつくってない。わたしは間違ってない。わたしは間違ってない。わたしは悪くない。わたしは悪くない。わたしは悪くない。わたしは悪くない。わたしは悪くない。わたしは間違ってない。わたしは人類が滅ぶ原因をつくってない。わたしは間違ってない。わたしは間違ってない。わたしは悪くない。わたしは悪くない。わたしは悪くない。わたしは悪くない。明主様はメシヤじゃない。わたしは悪くない。わたしは間違ってない。わたしは人類が滅ぶ原因をつくってない。わたしは間違ってない。わたしは間違ってない。わたしは悪くない。わたしは悪くない。わたしは悪くない。わたしは悪くない。わたしは悪くない。わたしは間違ってない。わたしは人類が滅ぶ原因をつくってない。わたしは間違ってない。わたしは間違ってない。わたしは悪くない。わたしは悪くない。わたしは悪くない。わたしは悪くない。明主様は神様じゃない。』というような内容をキリスト教的な言葉をこねくり回してズーーッと言ってるんです。

四代様が秘密でキリスト教を勉強されてたのも素盞嗚尊が自分の口を借りて何を話されてるのかを理解したかったからなのかもしれません。このように考えていくと四代教主陽一氏に対する見方が変わってきます。東方之光やいずのめ教団に残られた職員や信徒の立場からすると、陽一氏は明主様や明主様を信奉する職員や信徒を裏切った不義理の大罪人のように扱われがちですが、どうもそうではないのです。この素盞嗚尊の邪魔があっては教団が救世の業が満足に出来ないから、どうしても時期の都合上この神様の改心は待てないとなったことは想像に難くないのです。明主様御在世当時から事ある毎に教団の邪魔をし、明主様でも改心させ得なかったどうしようもない悪神をその身に背負って教団から連れ出してくれたのが、四代教主陽一氏だということが分かってきます。もしわたしの解釈が本当に合っていたとするならば、陽一氏は大罪人だなんてとんでもない、教団を救ってくれた救世の大英雄だということになります。

まあ仮にこの解釈が合っていたとして陽一氏をすぐに教団に連れ戻すのは危険極まりないんですけどね。なぜならば当の素盞嗚尊が改心してないからです。なので、陽一氏の言葉が明主様の讃辞で溢れるようになって、渋井先生のような御浄霊を信徒の皆さんにされるようになったら、取り憑いている素盞嗚尊も改心したとみなしていいでしょう。そのためには、心ある信徒一同で一丸となって素盞嗚尊が改心して救われるように祈らせていただこうじゃありませんか。