明主様について

明主様 (岡田茂吉) 昭和25年頃

PROFILE

明主様 (岡田 茂吉) は、日本の新宗教・世界救世教の教祖である。日本医術としての浄霊法、自然農法を確立し、箱根美術館、救世熱海美術館(現:MOA美術館)などを創設した。

経歴

生い立ち〜青年期
1882年(明治15年)、東京府東京市浅草区橋場町(現在の東京都台東区橋場)にて誕生。日新尋常小学校を経て、浅草尋常高等小学校(現在の台東区立浅草小学校)に入学する。画家を志し、1897年(明治30年)9月に東京美術学校(現在の東京芸術大学美術学部)予備ノ課程に入学するも、眼の病に侵されて中退。

青年期には商売で成功する。だが、過労をきっかけとして多数の病気にかかり3回入院、不治の宣告を2回受ける。そのような体験の中で薬物の持つ副作用に気付き、医薬品や医者に頼らない、自然治癒力を重視した生活様式を築き上げていった。

小間物屋「光琳堂」、装飾品卸商「岡田商店」、映画館経営などの事業を行い順調に収益を上げたが、取引先銀行の破産で事業が頓挫。さらに妻が流産や死産を繰り返し、やっと妊娠した子も5か月で死亡、先妻も死去するなど不幸が重なる。慈善は好きだが宗教は根っから嫌う無神論者であったが、不幸が続くことで人間の力の儚さから救いを求め、様々な宗教の講話を聴く。

大本教入信と脱退
1920年(大正9年)、大本教に入信。

1926年(昭和元年)12月のある晩、お腹に光り輝く玉が入るといった神秘体験をし、自己の使命を悟る。

第一次世界大戦後の経済大恐慌時には株式会社を経営していたが、株が一斉に暴落したのに伴い自身の事業も大打撃を受け継続困難となる。

1930年(昭和5年)、道院・世界紅卍字会が東京麹町の大本教信愛会本部に来た際、フーチにおいて「浄・岡田茂吉」と示された。

1931年(昭和6年)、千葉・鋸山の山頂にて霊界における「夜昼転換」を感得する神秘体験を得たのち、岡田式神霊指圧療法(後に浄霊になる)を開始するも、大本教の方針と異なるとの批判を受ける。

1934年(昭和9年)に大本教から離れる。

大日本観音会創設
1935年(昭和10年)1月1日に「大日本観音会」を発会し、地上天国建設を目的として立教を宣言。麹町山元町に本部を置く(これが後に世界救世教となる)。同年10月1日、東京都世田谷区上野毛の玉川郷(後に宝山荘)にて、栽培実験と研究を通して自然農法の根本原理や食の重要性について説く。後に実現する美術館構想はこの玉川郷時代に生まれた。

1936年(昭和11年)、官憲の圧迫により宗教行為と治療行為の分離を迫られ、5月15日に「大日本健康協会」を創立。一般人や他宗の人たちにも浄霊の恩恵に与ってもらいたいと考え、宗教と治療の2団体を活動の両輪とした。現在でいうところの統合医療による療院(病院)構想もしている。同年9月、警視庁より療術行為禁止令が出て解散する。後年、科学として世に問いたいが、宗教なるが故に浄霊の効果を正しく認識してもらえないことを訴えている。

1944年(昭和19年)、戦火が激しくなり、東京から箱根の強羅へと居を移し、神仙郷と名付ける。熱海にも居を構える。

1947年(昭和22年)には静岡県熱海で宗教法人「日本観音教団」として教団を再出発。

1948年(昭和23年)に無肥料栽培の論文を発表。

1949年(昭和24年)には宗教法人を「日本五六七教」発足する。

世界救世(メシヤ)教創設〜晩年
1950年(昭和25年)2月4日「日本観音教団」「日本五六七教」を解散し、宗教法人「世界救世(メシヤ)教」を発足。この頃から初期風俗画、肉筆浮世絵が収集の対象となる。浮世絵研究家近藤市太郎との出会いが、その後の肉筆浮世絵の研究、収集の契機となった。同年5月29日、熱海の世界救世教本部が脱税・贈賄などの容疑で捜索を受け、岡田も検挙されたが、後に「無罪」となる。

1952年(昭和27年)、箱根美術館を開設。この頃、旧神田鐳蔵コレクションの存在を知り、さらに肉筆浮世絵の収集内容の充実が図られた。

1953年(昭和28年)には『自然農法解説書』など著書を数点出版。尾形光琳の紅白梅図屏風を入手する。

1954年(昭和29年)、これまでのコレクションをもとに、日本橋三越において『肉筆浮世絵名品展』を開催、60余点の名品が公開された。 4月19日、脳溢血の症状を起こして倒れる。 6月5日、教会長をはじめ、主だった資格者を晩年の住まいとしていた熱海「碧雲荘」に招集し、『メシヤ降誕と言ってね、メシヤが生まれたわけです。言葉だけでなく事実がそうなんですよ。私も驚いたんです。生まれ変わるというんじゃないですね。新しく生まれるわけですね』と述べた。 6月15日、「メシヤ降誕仮祝典」執行。

1955年(昭和30年)2月8日には野々村仁清の色絵藤花図茶壺を入手するも、同年2月10日に72歳で死去。

1957年(昭和32年)、岡田の収集品をもとに、箱根美術館の姉妹館として熱海美術館が開設された(後に「救世熱海美術館」と改称、現在のMOA美術館)。

明主様略歴

1882年(明治15年)12月23日東京都台東区橋場にて誕生、病弱な子ども時代を過ごす。
1898年(明治31年)この頃、肋膜炎に2度罹病、さらに肺結核となり不治の先刻を受けるが、菜食療法により治癒。
1905年(明治38年)5月小間物小売商「光琳堂」開業。
1907年(明治40年)2月装身具卸売「岡田商店」開業。この頃から約10年間、種々の病苦を体験。
1914年(大正3年)3月~7月東京大正博覧会に簪を出展。銅牌受賞。
1915年(大正4年)装身具「旭ダイヤモンド」発明。
日本を含む世界10ヶ国の特許を取得当時の流行品となる。
1920年(大正9年)度重なる不幸を経験しその原因の探求に没頭。
1923年(大正12年)関東大震災によって事業が大打撃を受け、いよいよ宗教に求める決心をする。
1926年(昭和元年)12月神示を受け、自己の使命を感得。見真実の境地に至る。
1928年(昭和3年)2月4日事業から身を引き、病気治療を中心とする「救済活動に専念」。
1931年(昭和6年)6月15日千葉県鋸山山頂にて「霊界」が夜の時代から昼の時代へと転換したことを感得。
1935年(昭和10年)1月1日「大日本観音会」発会(世界救世教の前身)。自然農法の研究を開始。
1936年(昭和11年)5月15日東京、麹町に「大日本健康協会」創立。
宗教団体とは別に新たな団体を設立し、健康法の普及を始める。
1944年(昭和19年)5月5日箱根・強羅へ移転。翌年から聖地・地上天国のひな型「神仙郷」の建設に着手。
1945年(昭和20年)熱海にて聖地・地上天国のひな型「瑞雲郷」の建設に着手。
1947年(昭和22年)2月11日「日本浄化療法普及会」発足。
1950年(昭和25年)2月4日宗教法人「世界救世メシヤ教」発足。
1952年(昭和27年)6月15日箱根美術館完成。
1952年(昭和27年)10月18日京都・広沢池畔の土地を入手(聖地・地上天国のひな型「平安郷」)。
1953年(昭和28年)6月15日聖地・地上天国のひな型「神仙郷」完成。
1954年(昭和29年)10月16日聖地・地上天国のひな型「瑞雲郷」にて「救世会館」上棟式を執行。
1954年(昭和29年)12月1日「自然農法普及会」発足。
1954年(昭和29年)12月11日聖地・地上天国のひな型「瑞雲郷」「水晶殿」完成。
1955年(昭和30年)2月10日ご昇天。