古来、凡人は固より、先哲、聖賢も此死の問題に就て程、如何に論議し説得され、又解決しよふと努力したものはないのである。いふ迄もなく、如何なる幸福も、如何なる希望も、此死によって万事休すで、此事以上に恐るべき事はあり得ないのである。然るに此恐るべき死なるものは、特殊の事態は別として、その大多数は病気といふ不可抗力ともいふべき事によるのである。少くとも九十才以下で死ぬのは、病気によるのであって、いはゞ、不自然なる死である。人間が、人間の天寿とは、病気の為でなく自然に衰へて死ぬ-之が天寿である。従而、天寿による死は、何等の苦痛がなく、その多くは前以て死期が判るのである。此理によって、死に際して苦痛を伴ふのは、天寿でない証拠であって、よく世間でいふ夭折するものに寿命だなどといふ事は、一種の諦め言葉に外ならないのである。先年百十二歳で物故した有名なる禅僧鳥栖越山師が、死の直前死期を予言し、家族、親戚知人等、数十人に取巻かれ、一人一人に遺言なし、予言の時間が来るに及んで何等の苦痛なく、静かに冥目して死したる如きは、自然死の最も好き標本であらふ。私は何故に、現代の人間が自然死の人間は寥々として暁の星の如く、殆んどが不自然死に畢るといふ-この悲惨なる原因に就て、之から項を累ねて述べよふと思ふ。
(医学試稿 昭和十四年)