神仏習合 Wikipedia冒頭より
『日本に仏教が到来した当初は「仏教が主、神道が従」であり、平安時代には神前での読経や、神に菩薩号を付ける行為なども多くなった。日本で「仏、菩薩が仮に神の姿となった」とし、「阿弥陀如来の垂迹を八幡神」「大日如来の垂迹が伊勢大神」とする本地垂迹説が台頭し、鎌倉時代にはその理論化としての両部神道が発生した。一方、神道側からは「神道が主、仏教が従」とする反本地垂迹説が唱えられた。』
というように世間一般でも神様と仏様の関係性については昔からいろいろと言われておりまして、救世教の御教えでは反本地垂迹説つまり元々神様でその方々が夜の時代の仮の姿として仏となられたと説かれています。
『観世音菩薩の御本尊は、伊都能売神である事は、以前から私は度々知らしてある処であるが、之に就て分らねばならない事は、元来仏身なるものの根本である。単に仏といっても実は二通りあって、本来の仏身と神の化身との両方ある。そうして本来仏とは約二千六百年以前、釈尊の時から生れたものであって、……』
仏教の起源(文明の創造 昭和二十七年)
というように、神様が化けて仏様になるということが分かったと思いますが、実は元々同じなのに力の発現、働きの大きさが全然違ってくるのです。今回はもっと掘り下げて神様と仏様の本質の違いを考察していきたいと思います。実は昭和十年の観音講座にこの部分を考えるのに参考になるところがございまして、それを抜粋して御紹介します。
『十は結びである。

善と悪とを結べば悪はなくなるのである。
善を結んだ中心が則ち伊都能売である。
善悪を結んで火水(カミ)となる。』
観音講座 昭和十年一月一日(昭和十年七月十五日)
『善悪の真諦が解れば大学者に成れるのであって、非常に難しいのである。善悪は対照的なものである。悪があるから善がある、善があるから悪があるので、それがなくなれば何が残るかと言うと真となるのである。

此の真とは、要するに善なのであるが、又一方より解する時は善でも悪でもなく、又善にも悪にもなるのである。図の如きものである。世の中で善悪一如というが、一如では一の如しと言うのであるから間違いである。
善悪一致、善悪合一なのである。是が結合したといってもよい。この善悪(経緯)が結合したものゝ中心が真であるから、善でも悪でもなく、光明世界で如何にするかと言えば、我光明世界の人間は真を行うのである。その行は善でも悪でもない真である。それだからやることが総て和やかで、又非常に滑かに出来て行くのである。
それ故、悪では万事甘(ウマ)く行かぬ為悪はなくなるのである。人が当然の事を行うのであるから、善ではなく当り前の事なのだ。今は半獣世界であるのを今度初めて人間となるのである。
神様が善と悪とを造り、両方対立させて物質世界の進歩を見たのである。その救いは何かというと、完全なるものを造ることに於て、意志の違った二つのものを出して競争させたのである。』
観音講座 善悪の真諦(昭和十年八月二十五日)
要するに、これまでの長い人類史は悪というものを徹底的に避難してコテンパンにやっつけてきたのです。でもこれからはそうではないのです。悪、すなわち本能欲をたぎらせてもいいのです。というのは火素の増量によって霊界が明るく人間の霊体が清らかになるので、人間の善、理性が上手く悪(本能欲)を制御できるようになるからです。で、ここで勘違いしてはいけないのは、悪がいけないのは当たり前で、悪自体はミロクの世になろうがダメなものはダメなのです。どういうことかというと、悪が善から切り離されて独りでに暴走をはじめるといけないのです。善の制御下に置かれた悪はもはや悪ではないのです。これだけの解説ではちょっとイメージが湧きにくいと思うので比喩や具体例を交えて解説していきます。
よく明主様は車の運転を例にとって信仰の要諦を御教えくださっていますので、私も明主様に倣って車の例えで善と悪の解説をしたいと思います。
善(理性)…ハンドルやブレーキ、運転技術
悪(本能)…アクセル
このように置き換えるとイメージしやすいでしょう。つまりこれからの時代は御魂が磨けて霊体が浄まるにつれて、ハンドルやブレーキが高性能になっていき運転技術の向上していくので、それに合わせてギアを上げてアクセルを踏み込んでいいのです。実力がついてくれば、時速300キロからシフトダウンして100キロまで落としS字カーブを最短コースで駆け抜けて直線コースでまた時速300キロまでアクセルを踏み込むような運転をしてもいいのです。これからの昼の時代はそういうことが出来る人間が増えていくでしょう。ハンドルやブレーキが壊れてておっかなびっくりで時速30キロしか出せないヘッポコドライバーがこれまでの夜の時代の普通人とすれば、時速300キロで駆け抜ける昼の時代の人々は神人のように見えるのです。明主様の御事績を学ばせていただくとこれに近い印象を受けるはずです。
つまりこれまでの夜の時代では、視界は悪いしハンドルやブレーキは壊れてるし運転技術もろくでもないので。アクセルを踏むのを極度に恐れたのです。というのは下手にアクセルを踏み込んじゃって、道を外れて土手にツッ込んじゃったり谷底に落ちたり、人身事故起こして人をひき殺しちゃったりしてきたのです。人身事故は軽いものだとケンカぐらいのものですが酷いのだと殺人です。広範囲地域で連鎖的に起こる人身事故が戦争であるとイメージすれば理解しやすいと思います。事業起こして失敗して破産するのなんか、よく人生の谷底に落ちると言ったりします。一方で、車をぶつけるのを恐がって、ついにはアクセルを踏むのを止めちゃう人達がいるのですが、これが非常にいけなくて、社会的にも困った事態なのです。いろんなことに挑戦しなくなっちゃう。大企業または、お役所などの官僚組織はこういう傾向が強いですね。個人的に極端にひどくなるとNEETや引きこもりの問題を生むのです。なので、車の運転に置き換えて考えるといろんなものがスッキリ分かります。
これまで仏教では食欲、財欲、色欲、名誉欲、睡眠欲を五欲といって非常に戒めてきたのですが、夜の時代はこういった本能欲を制御できなかったので徹底的に攻撃して排斥したのです。でもこういった欲望は人間が生存していくにはなくてはならないもので、適切に扱えば素晴らしい原動力、活力になるのです。
食欲:これが無くなってしまうと人間大変です。暴飲暴食や間違った食べ物がいけないので、明主様の言われてるとおりの食事が出来ていればそれでいいのです。ただ、ちょっと最近気になるのが時代の変遷で明主様御在世当時とかなり事情が変わってきてるのです。明主様は小麦については否定されてないですが、添加物や農薬については強く戒めておられます。それで、現代日本人はパン食が非常に多くなってますが、無農薬、無添加のパンなんてそうそう市場に出回ってないですよ。あったとしても金持ちしか買えない。採算が合わないのです。植物油脂も昔ながらの圧搾法なんてないですよ。ヘキサン溶媒抽出です。牛乳も過熱して料理に使う程度ならいいと言われてますけど、現代人が食べまくってるホイップクリームとかカスタードクリームとかたぶん許容量を超えてるのですよ。アイスクリームも気をつけないといけないのがアイスクリームと名のついた偽物が多いのです。裏の表記見ればいいのですよ、アイスミルクとかラクトアイスと書いてあります。ラクトアイスなんて油をアイスっぽく固めたものですからね。みんな大好き果糖ブドウ糖液糖は遺伝子組み換えのトウモロコシからです。そんなこと言うなら食べられるもの無いじゃん!と怒られそうですけど、いやそうなんですよ。安心して食べられるものなんてほぼ無いのです。
財欲:これは感謝されることでお金を稼いで、感謝されることでお金を使えばいいのです。あまり堅ぐるしくならずに御教えを拝読して、どういったことが神様に愛される仕事なのか検討してみてください。今の時代けっこう難しいです。バブルに突入したあたりから当たり前のことに感謝して当たり前のことにお金を支払う国民性じゃなくなったからです。
色欲:これはですね、重要なことなのでまた別のところで解説しますけど、人類が滅んでしまう原因の一つなんですね。いま不妊治療で苦しんでるカップルが多くてですね、女性が悪く言われがちなんですが、男性が悪いことも多いのです。つまり種なし、精子のつくれない男性が多い。デスクワークになったせいだとか食べ物が悪いとかいろいろ言われてますが、一番多いのが性病(クラミジア・淋病)になって精巣が炎症を起こして精子が死滅しちゃってるのが原因です。離婚案件ですよ離婚案件。一方で、性欲を適切に扱って、奥さんを大切にしてってやれば家庭円満で子孫繁栄で素晴らしいことになるのですよ。
名誉欲:これもないとだめですよ。働きがニブイ。表に出してひけらかすのが下品なのです。実は神様にもちゃんとこの欲はあります。世界人類を救い上げて世界中から感謝されたいって欲があるんですよ。寸鉄にあるんです。でもこれって健全でしょ。誰も不幸な人が出ない。気持ちのいい欲です。
睡眠欲:人間、肉体があるうちは絶対休まないとダメなんですよね。霊界だと霊体はどんなに働いても疲れないのです。でも、現界ではどうしても肉体を休ませないといけない。日本では不眠不休で働いて休まないのが美徳のようにされてますが、私は結構どうかと思います。そういう人って単純労働作業で仕事の質があまりよくなかったりするんです。あとすぐ病気になったり故障したりで、短命だったりするんですよ。学業の成績や仕事の成果がいい人って、休むのが上手です。キッチリ休んで気持ちをニュートラルにするので、次の変化に対応しやすいのです。で、休んでる間に『どうしよっかな~』って次のことやもっといい方法考えてることが多いのです。7割ぐらいの出力でコンスタントにコツコツ無理なくやってる人が一番強いですね。120%頑張って成果が出るときって、スポーツかトイレぐらいでしょ。
ここで、神様と仏様の話に戻ってくるのですが、仏という言葉は『ほどける』からきており善と悪をほどいて離すのです。善と悪を結んで神様となるのです。善悪一致で神力を発揮したときが神様の活動となります。神仏という人間を超越した存在でも、夜の時代では善の力を十全に発揮できないのです。なので、悪という本能欲を遠ざけることによって制御するのです。車の例えでいくと、本当は時速300キロ出せる性能はあるんだけれでも、夜で視界は悪いし、ハンドルもブレーキの効きもあまり良くないから時速60キロまでスピードを落として安全運転に徹するという方法をとるのです。それを教える安全運転教習本が仏教だったのです。だから悪を徹底的に避難して攻撃したのです。
それで、仏様が元の神様に戻るには明主様の光に属さないと戻れないのです。大本教のお筆先に『仏、仏というが皆元の神力を失っとるやないか!』とあるのです。というのは、夜の3000年間ずっと仏様をやってきたので元の神力の出し方を忘れちゃったのです。急に元に戻そうと思っても戻せない。エンジンのリミッターとか、どれだけぶつけても車体が傷まないようにバンパーをモリモリにしたりとか、夜の時代を安全に運転するための改造をいっぱいしてきたので、そういうのを全部取り払って、神様としての御体に戻さないといけないのです。昼の時代の運転の仕方と夜の時代の運転の仕方が全くの逆ということです。
昼の時代…鈴鹿サーキット173周(305km)のラップタイムを競う運転
夜の時代…鈴鹿サーキットを如何に無事故無違反で周回するかの運転
このように方向性が全然違う。仏様が神様の御体になるには、車体を軽量化して空力を計算しなおしてエンジンを積み替えて、サスペンションから何から何まで総入れ替えなのです。それで、明主様の御光をいただかないと神体の方に戻れない、という内容が京都や奈良に明主様が足を延ばされたときの御事績にあるのです。
さて、本題の神と仏の違いの主要なところは、上記のとおりで、以下はそれを踏まえての教団に起こっている霊的考察に移っていこうと思います。なので、興味のない方はここまででページを閉じて大丈夫です。
と思ったんですけど、やっぱり分かったところで非生産的なので別のところに移して非公開にしました。