新日本医術書

序論

抑々、医術とは何ぞやと言へば、人間のあらゆる疾患を治癒し、完全なる健康体たらしむるのが、真目的である事は、今更言を俟たない処である。故に、真の医術が完成さるるに従ひ、人間の罹病率は年と共に減るべきであり、又、病気の種類も漸減し、其当然の結果として、人間各自の天寿、即ち天より享けたる齢丈の年数を重ねて、苦痛のない眠るが如き自然死の人が増加してゆかなければならない筈である。
然るに、現在迄の事実は如何。右と余りに反対の経路を辿りつつあるではないか。視よ、罹病率は日に月に増すのみであって、一人も病者の無い家は殆んど稀である。今日、国民の健康を厳診するに於て、真の無病者は、果して幾人あるであらふ乎。恐らく十人に一人も難しいであらふ。壮丁の体格が年々低下するといふ報告や、乳児死亡率が、有難くもない世界第一の統計を示す如き、又、結核患者の撲滅に官民共に大童の努力を払ひ、多額の国費を使ひつつあるに拘はらず、更に減少せざるのみか、今尚、一ケ年百二十万人の患者と、十余万人の死亡者を出してゐるといふ状勢である。又、病気の種類に見ても、増加するとも減少しない事実は、何を物語ってゐるであらふ乎。今日男子にして、高等教育を受け、有為の才を抱きながら、病床に呻吟しつつある者、又は修業の半途に於て、病患の為に挫折し、可惜青春の身を以て、煩悶の日を送りつつある者、又は相当の地位や、成功を収めて、大いに国家社会に尽さんとする頃、病に斃るる者、又、婦女子にして、病弱の為に妻としての、母としての天賦の務を完ふし得ざる者、婚期を過す者、愛児の早折に由る悲嘆、其他不具、変質、発狂等、之等が原因となって、不幸逆境に沈淪(チンリン)する者の如何に多きかは、誰もが余りに知り過ぎてゐる事実である。今仮に、一家に一人の重患者を出すとすれば、長年汗した貯蓄は、忽ち費消されるべく、況んや二、三人の重患者、又は死亡者の生ずるに於ては、相当の資産をさへ、蕩尽されて了ふといふ悲惨事は、到処に見るのである。今日、社会の敗残者、無産者の其原因の病気に因る事の如何に多いかは、周知の事実である。故に、世人の病気を恐るる事、今日より甚しきは無く、其弱点に付け込まれ、効果疑問の売薬や滋養剤を、巧妙なる広告戦術に魅せられて、多くの病者の財嚢(サイフ)は相当搾られ、窮乏線に拍車を掛けられてゐる状態である。 そうして、一度重患に罹るや、驚くべき高価なる手術料や、多額の入院料を負担させられるに不拘、その治癒するの遅々たる、治病率の低き、実に当事者の言に徴するも、五十パーセントも難しいとの事である。
慶大の草間博士は、公開の席上に於て、明言して曰く、「現代医学では、病気は決して治らないのであるから、今後は病気に罹らない医学、即ち予防医学に依って各自の健康を保つより外に、最善の方法は無いのである」と。実に正直にして良心のある、真の学者の言であると思ふのである。
故に、賢明なる医師は、西洋医学での治病の無力を痛感して、止むなく漢方医術、灸治、其他の民間療法に着目し研究せんとする者、簇出しつつあるの実状である。
以上説く所の事実によって見るも、現代医学の真価は明かである。成程、黴菌発見や、基礎医学方面にては、多少の進歩の跡は見るけれども、治療方面に於ては、実に十年一日の如しと言ひ度い位である。然らば、此真因は何方に在るであらふ乎。その発見こそは、寔に如何なる政治よりも、経済よりも、発明よりも、緊要事であらふ事である。言ふ迄もなく、国民の不健康程、国家の損失はあるまい。今や、躍進日本の地位より観て、今後益々欧米人に伍して相競ふは固より、望むらくは、白人種を凌駕(リョウガ)する迄にならなければならない処の、重大使命を持つ日本人として、実に健康こそ何よりも最大根本問題であらねばならない事である。
然らば、現代医学の誤謬は、如何なる点に存するのであらふ乎。それは実に、其出発点に於て、重大なる錯誤がある事である。それが、此書中に詳述してあるから、熟読玩味するに於て、何人と雖も豁然として其蒙が啓け、病気の真因も、健康の要諦も、天日の下に晒さるるが如くで、無医薬療病に依って、病患は根絶さるる事を、覚り得るのである。
実に此新日本医術であり、明日の医学とも言ふべき観音力療病と健康法の真髄こそは、人類の歴史有って以来恐らく空前であらふ程の、一大福音である。又、私が余りに狂人にも等しい、大言壮語する事に対して、反って疑を持つ人がないとも限らない事であるが、それは、例えば如何に食物の美味を説明しても、口へ入れなければ判らないのと同じである。兎に角、実験と体験である。私は全責任を以て、私の言の一点偽りの無い事を誓ふものである。(S・11・2・8)(新日本医術書 昭和十一年四月十三日)

岡田式指圧療法の原理

岡田式指圧療法は、実は指圧療法といふのは当らないのであって、浄血療法、又は浄気療法、浄化療法とでも言ふのが、適合してゐるのであるが、指圧療法の名の方が、一般に肯き易いので附したまでである。抑々、此根本原理は、病気の根元である人間霊体の曇其ものを、霊光の放射に依って、消失浄化せしむるのである。霊体の曇が払拭さるれば、其部の血液は浄化せられ、其部の血液が浄化さるれば、其部の膿汁は解溶され、膿汁が解溶さるれば、病気は全治するのである。故に此療法は、霊から治癒するのであるから、根本的治療法である。
然るに西洋医学は、之と反対の療法である。即ち、病気として表はれた処の体的現象を、薬剤、器械、光線等の物質を応用して、治療するのであるから、偶々、治癒された如き状態を呈すると雖も、或時期を過ぐれば、弾圧された力へ対する反動的状態を以て、再発する訳である。此故に、肉体に向っての薬剤又は、物理療法は、仮に奏効するとも、多くは一時的治癒であって、根本的治癒ではないのである。然し或場合には、一時的治癒の後に自然治癒に由って、全治する事もあるが、之等は或一部の病患である。故に、此理に由って唯物的西洋医学は、霊を認識せざる限り、如何に進歩せしめやうとするも、治病不可能である事は断言し得るのである。 観音力療法に於る根本医力である霊光とは如何なるものであるか。之は試験管的には、未だ説明出来ないものである。何となれば、未だ科学の方が其所まで進歩してゐないからである。世の科学者又は、医学研究家諸賢は一日も速く、此霊光の本体を科学的に分析研究されん事を熱望して、熄(ヤ)まないものである。
而して、此偉大なる霊光は、人類史上未だ顕現された事のない、一種の神秘的光波である。強ひて説明をすれば、彼のラヂュウムの幾十倍、幾百倍の治病力ある光線である、といふより外は無い事である。然らば此神秘光線は、何処に存在するやと言えば、それは太陽の光波と月の光波とが、或X体に向って不断に流射されつつ、或X体内に於て密合し、一種のヱーテルが構成され、其ヱーテルが又不断に、仁斎の体内に向かって流射してゐるのである。故に、仁斎の四肢五体からは、其光波が常に放射しつつあるのである。此神秘極まる一切の工作者こそ、観世音菩薩の御本体である。故に解り易く言へば、観世音菩薩は、治病力たるヱーテル光波を、無限に製出供給し給ひつつ、仁斎の肉体を通じて、治病救済を行ひ給ふのである。故に、仁斎に接近するや、多くの人は其光波に浴して、病気によっては治癒されたり、痛みは癒え、又は爽快な霊気感に触れて悲観は消え、勇気は増し、再三接近するに於て、血液の浄化に由って血色を増し、飲酒家などは飲酒癖が無くなるのである。之等によって見ても、科学的に説明は今の所、不可能ではあるが、実證的には尚、如何程にも説明し、理解出来得らるるのである。
尚仁斎が、文字又は絵を書けば、其筆を通じて、墨色へ光が滲透するのであるから、書体又は画面から、一種の光を放射するのである。其色は白金色、黄金色、紫色等であって、其光を見た者は今日迄幾十人にも上ってゐる。或時は停電の際の如き暗黒であるべき画面が、其画面から放射する光に因って、鮮かに観世音の御姿を拝した例もあり、又電気を消して画面から放射する光が、部屋一杯に漲ったといふ例も幾度となくあるのである。又、治病力を発揮させる意味の文字を認めたる紙片を折り畳み、普通人が懐中すれば、其人は直ちに治病力を発揮し、医学博士以上の治病実績を挙げ得る事の実例は、日々枚挙に遑ない程である。此不可思議なる力を称して観音力といふのである。故に之等に由ってみるも、病無き時代人類が天寿を全ふし得る時代の接近は、確言して憚らないのである。それと共に西洋医学の革命期の来た事も、疑ないのである。此観音力療病法こそ、実に明日の医学であり、真の人類救済の一大福音であるのである。(新日本医術書 昭和十一年四月十三日)

観音力療病術

観音力療病術などと言ふと、甚だ迷信臭く響くので、其名称に就て種々苦心したのであるが、些かの粉飾も無く、其実体を言表はすとすれば、そう言ふより外は無いのである。
茲で、今日迄の凡ゆる治病法を検討する必要がある。それは先づ大別すれば、物質療法と精神療法とである。物質療法とは言ふ迄もなく洋漢両医術であり、其他それに類似の鍼灸、電気等である。精神療法としては、信仰を本意とする加持祈祷は固より、観念や信念に依る治病である。
然るに本療病術は、其孰れにも属しないものである。然し、近時行はれてゐる指圧や掌療法と酷似してはゐるが、本質は全然異ふのである。此故に、本療法は未だ曽て歴史にも経験にも絶対無かったものである。全く新しい医術であり、治る医術であり、明日の医術である。
一名、岡田式指圧療法とも言ふが、之は便宜上附した迄であって、適切ではないのであるから、本療病術が全般に知れ弥る迄の間、右の名称を用ひるまでである。
観音力などと言ふに於て、信仰的でないとは言えないが、別に観音を信仰しなくても治るのである。又、診断の場合、医学以上正確であるし、発熱は解熱させ、痛みは去らしめ、膿を除去し、下痢を止め、咳嗽を無くす等、凡ゆる病苦を除去し得、又、病原に就ても実證的に、微に入り細に渉って説明なし得るので科学的でもある。此点、現代医学の方が非科学的である。何となれば、現代医学は、成程、末梢的には或程度の説明をなし得るが、根本的説明は不可能であるからである。又実際上病理といふ名称の下に、病理は説いてゐない。それは、病気現象の説明でしかないのである。故に、医学が病理と病原を説こうとすれば、今の処どうしても非科学的になって了ふ。
本療病術は、凡ゆる病理病原を、徹底的に実證的に、科学的に(機械的ではない)説明なし得るのである。随而、科学的とも言ひ得るが、無薬、無器であるから、非科学的でもある。
是に於て、本療病術は信仰的であって、信仰的でなく、科学的でもあるが、科学的でもないといふ、一種の不可説、無碍療法である。
古来、観音信仰によって、奇蹟的治病を受けた実例は頗る多く、あらゆる信仰中、断然一等地を抜いてゐる事は人の知る処である。然し、此事実を観念に由る一種の精神治病と片付けて了ふ或一部の科学者には、受入れ難いであらふから、それ等の人へ対しては、軈(ヤガ)て目覚める時期を待つ事として、今一歩進めて説いてみよふ。
観世音菩薩の御救は、誰もが知る如く、今日迄は、木仏、金仏、絵画等の偶像を介して施与せられた事である。然るに、現在誤まれる医療や迷信等によって、病者衢(チマタ)に溢れつつある火宅の如き娑婆世界に対しては、偶像を介しての救は、最早病者の氾濫と、それに由る人間の困苦を喰止める事は、不可能である。是に於てか、どうしても生きた人間を機関としての、治病的一大救済を行はなければならなくなったのである。それが不肖仁斎創始の観音力療病術となって現はれたまでである。(S・11・4・6)(新日本医術書 昭和十一年四月十三日)

日本医術新生の時期

彼の明治維新は、鎖国の夢を醒して一大転向を吾等の国にさしたのである。それは言ふ迄もなく、西洋文化による一切の革新であった。而もそれは、六拾余年を閲(ケミ)した今日、最早一段落となった事は余りにも瞭かである。であるから、無差別的に模倣や吸収をして来た西洋文化の再認識と、其清算をしなければならない時が来たのだ。それは役立つ物は残し、役立たないものは捨て去る事なのだ。そうして、其帰結としての世界各国の長を綜合して、茲に新日本文化の創造課程と其拡充に驀進しなければならないのである。そうして、其鋒鋩は既に現はれかけてゐる。見よ、産業の躍進も其一つである。文教の日本化も、政治的革新も皆、其顕れのそれでなくて何であらふ。
然乍ら、飜って我建国以来の歴史を覧た時、其処に何ものを見出すであらふ。
類例無き万世一系の君主を仰ぐ、国民の忠勇義烈の特殊思想は勿論、支那文化も、印度宗教も、日本化して、否、日本に依って其生命力の発展と完成を見たのは、余りにも顕著である。此故に、今日も、これからも、躍進日本の動向の主因は、三千年間に培はれた日本文化によるのであって、やがて其の華が咲き実がなるのである。 所在文化形態が日本的に芽生えやうとする今、人間の生命を把握してゐる、絶対者ともいふべき医術其ものが革命され、新生しても可い訳である。然しそれは、只それ丈の理由でもない。それよりも西洋医学の余りにも無力であるといふ理由も勿論である。
今にも難症が解決出来るかの如に曰ひ、今にも生命の神秘が白日に晒し出さるるかの様に新発見を発表する。又、新薬や新治療が、救世主のやうに、次々現はれかけては、亡霊の如うに消えてゆく。人々は夫等の科学的美辞に幻惑されて、自分達の生命は今にも科学力で解決される様に思ったりする。
現代人の眼は、大方は近視眼になってゐる。それは、目前の物しか視る事が出来ない症状だ。だから近視眼では、科学のイミテーションは解る筈がない。視よ、弱体児童の激増や嬰児の死亡率と、眼鏡使用者が世界一だといふ。それで医学は進歩したといふのである。
結核患者も、脳溢血も、神経衰弱も、絶望的数字にまで進んでゐて、それで、医学は進歩したといふのである。
精神病院は現在患者の十分の一しか収容出来ないそうだ。新聞紙の広告欄は薬の能書で一杯である。新興宗教は治病丈で信者を獲得してゐる。それで医学は進歩したと謂ふのである。
医学博士で灸治療をする者が段々殖えるさうだ。又、掌療法専門の博士も有るといふ事だ。それで、医学は進歩したと謂ふのである。
皮下に在る膿一滴と雖も、メスか針で皮膚に傷を付けなければ、除去出来ない現代医術である。そのやうな医術で、人間の生命を解決しよふとするのは、ロケットで月世界へ往くより困難であらふ。又、薬剤で病気を治さうとするのは、ロボットに恋愛をさせよふとするのと等しいものかもしれない。何となれば、薬剤は苦痛の緩和は出来るが、病気治癒力は、絶対有り得ないからである。
科学的医療と、インチキ宗教に、生命を託さなければならない時代の人間程、不幸な者は有るまい。此時代こそ実に病者氾濫時代である。にも係はらず、医学は進歩したと思込んで、医療に満足し切って何等疑点を挿まない盲目さである。洵に悲惨そのものである。
吾々は、此様な現代医学に生命を萎(ユダ)ねて安心出来るであらふ乎。勿論、科学の恩恵は素晴しい、最大級の感謝を捧ぐるも足りない事は識ってゐるが、人間の生命だけは科学の範囲外に置くべきものである。
新生さるべき日本文化とは、科学のみでない。精神と科学、霊肉両全の、否、霊が主たるものでなくてはならない。勿論、医術も殊に霊が主であるべきだ。それは、生命力を復活させる力は霊が基本であるからだ。無論、宗教的や観念的でもない。実に科学的でも、宗教的でも全然ない、新しさと完成が在るべきである。
そういふ完全医術が、日本に新成されてそれが世界へ拡充されて、白人も、東洋人も、黒人もが、均しく恩恵を蒙るといふ、其時期が来た事を私は信ずるのである。そうして病無き時代は創造される。病種は漸減し、病院は次々閉鎖されてゆく。医師の数も、死亡率も、漸次減少するのは勿論である。
此夢にも等しい医術が、日本文化の根幹をなすであらふ。それは、西洋文化が、日本の長夜の夢を醒ました時も、医術が其先駆をなしたやうに、今や、新生日本文化は、赫々として、旭日のやうに、西へ西へと光を拡げてゆくであらう。(S・11・4・15)(新日本医術書 昭和十一年四月十三日)

本療法と一般指圧療法との比較

近来、各所に行はれつつある一般指圧療法は、効果も相当にあり、随而世人の信用も尠くないのであるが、本療法と比較すれば、総てに於て甚しい懸隔があるのである。それは何故であるかといふと、一般指圧療法は人体電気即ち、人間個人の霊力が、其指頭より放出するに由るのであるから、治療を行ふ場合術者は非常なる努力を以て、精神統一をなし、施術するを以て術者の霊的ヱネルギーを消耗する事甚しく、非常に疲労を感ずるものであるから、余程健康者でない限り困難な点があるのである。従而、時間もそれ丈長きを要するのは勿論である。
然るに本療法は、最背後に観世音菩薩が在しまして、其不可思議治病力を、仁斎を通じて術者に無限に供給し給ふのであるから、別段努力の必要がなく、唯、自分は仲介機関であるといふ意識の下に施術すれば可いのであるから、此点実に簡にして易々たるもので、それにも係らず、其効果は実に絶大であるのである。(新日本医術書 昭和十一年四月十三日)

治療方法

今、療術を施さんとする時、術者は患者に膝を触るる位接近すべし。先づ初め、拍手を三つ音のせぬ位軽く打ち、観世音菩薩を念じ、左手を患者の右肩へ軽く宛て、患者の頭を少し下げしめ、右手の人指指を以て、其頭脳の中心点へ向って「此者清まれ」と、三度空中へ書くべし。書くが否や直ちに口先にて、フーッフーッフーッと二、三度息を吹掛け、右手を開いたまま頭上一寸位の空中を、出来る丈速く左右に擦るやうにしては息を吹きかける。此時間一分間位にてよし。
最初に之を行ふ訳は、元来、人間全体の根源は頭脳にあり、所在病原の中府とも謂ふべき所であるから、先づ之を浄めて取掛るのである。
次に患者に対って、既往の症状、経過、苦痛の個所等、成可く詳細に訊ね、それによって患部の病原を、指頭を以て綿密に探査しつつ、探り当てるのである。病原発見と共に其場所へ向って治療を施すのである。
治療上の原則としては、最初患部へ向って右の人指指を以て、「此中清まれ」と三回書き頭脳の時と同じく、掌を迅速に摩擦する如く動かすのである。此場合皮膚に触れてもよし、触れなくても宜いのである。斯の如くして数回繰返し、指頭を患部に軽く当て、指頭に霊を集注させ、病原を溶す如き心持を以て軽圧するのである。此場合病原は殆んど水膿溜結であり、指頭にて触圧せば多少の痛みがあるので、よく判るのである。斯くして息にて塵埃を吹払ふ如く、治療中、何回となく吹けば可いのである。之を繰返す裡に、病原たる膿結は必ず多少共溶解するものである。溶解した丈は患者は軽快を感じ、それ丈治癒したのである。但し、右は原則を示したのであって、実地としては適宜、按配して可いので、場合により掌を利用しても可いのである。療術せんとする時首に懸る観音力御守こそは、霊光の受信機とも言ふべきものであって、此御守を通して、観音力霊光が術者の指頭及び掌より放射滲透するのである。 次に施術する場合の心の持方に就て、一言せんに、此患者を治癒せば、観音運動の為になるとか、又は物質を提供するならんなど想像する事は、大変不可であって、唯患者の病苦が除去され、治癒され救はれるやう、念願するだけが良いのである。何となれば、観世音菩薩の大慈悲は、一切衆生を無差別的に救はせられる大御心であるから、人に依っての別け隔ては決して無いのである。(新日本医術書 昭和十一年四月十三日)

観音力療病とは何ぞや

観音力療病といふ言葉は、開闢(カイビャク)以来未だ無かった言葉である。それは、観音力療病なる方法が、開闢以来未だ生れなかったからである。それに就て、観音力なる此力は、如何なるものであるかといふ事を述べたいのである。即ち、観音力とは観世音菩薩が、或選ばれたる一個の人体を機関として、救世済民の為揮はれる不思議な力である。一体此不思議な力とは何であるかと言ふと、それは光と熱と水霊である。此光熱水は、太陽が放射する光熱と、月光のヱキスとのコクテルとも言ふべきものであって、其霊妙なる光波は、彼のラジュウムやX線、紫外線等の何百倍であるかは測定が出来ない程の治病力あるものである。故に、今日の学問と人智の程度では、到底認識出来得ないものであるから、実地体験より外に真相を把握する手段は無い。実に此光波こそは超Xである。故に此光波によって、一度難病が治癒せられ、又は大奇蹟に遭遇する時、初めて観音力の不思議さと、偉大さを識り得るのである。そうして此力は、釈迦も基督もマホメットの如何なる聖者と雖も有ってはゐなかったものである。その最大理由としては、時期の関係であった。若し、是等の聖者の一人にても揮ったとしたら、其時限り病無き世界となってゐた筈である。然るに、今日も猶依然として、否益々病苦に悩む者衢に充つるの事実は、それを證して余りあるのである。眼に見えずして治病力の強大なる観音力は、実に量り知れない力である。之に就て一つの例を挙げてみよふ。私が「治病観音力」と紙へ書く其紙を折り畳んで誰でも可いから懐へ入れるとする。そうすると、其文字の意味が光となって活動をなし、其人の手から指から射出する。従而、其人の掌や指が、病人の患部へ触れる時、苦痛は忽ち軽減するのである。故に、医学で治らなかった難病も続々治癒される、といふ大事実である。
斯様な事を言えば、信じないばかりか、私に抗議を申込む人があるかも知れない。又、当局から誇大視せらるるかも知れない。然し、事実は枉げる事は出来ない。百の理論と雖も一の事実を枉げる事は、為し得ない訳である。
確かに世界の黎明期は来てゐる。人類全体が光明に浴する時が来てゐる。此空前な力の顕れが、それを物語って余りあるであらふ。(新日本医術書 昭和十一年四月十三日)

病気の根本原因と真の治療

抑々、病気の根本原因とは何か。それは、一言にして言へば精霊の曇である。本来、人体は精霊と肉体から成立ってゐるのであって、肉体ばかりであるならば、それは単に物質でしかないのである。
そうして、精霊の中心に支配者としての魂がある。其魂こそ実に生命其ものであるから、生命を演繹したものが精霊である、とも言へるのである。そうして、精霊を物質化したものが肉体である。従而、肉体を動かす場合、生命である魂が意志を生じ、間髪を容れず精霊を動かし、又、間髪を容れず肉体を動かすのである。別言すれば、生命即魂であり、魂即精霊であり、精霊即肉体である。猶今一歩約めて言へば、生命即肉体であり肉体即生命である。
故に、肉体の毀損が生命の断絶となり、生命の断絶が肉体の死となるのである。此理に由って、肉体と魂との中間体の存在である両者の媒介者としてのそれが精霊である。
故に、病気の根元は魂其ものから出発するのである。然し乍ら、先づ病原を二大別する事が出来る。一は外部的即ち肉体から病原を作る事もある。それは例へば、飲酒、不純な性的行為、服薬、注射、種痘、肉食過度等であって、今日迄の病原としての解釈は、此肉体的方面ばかりである。(尤も右の中、服薬、注射、肉食等は、現代医学の解釈に於ては可とするが、本療法にては不可とする)
故に、治療の研究も、此肉体的方面のみを主としてゐる事それが誤謬である。実は真の病原は魂にあって、肉体は従であるのが真相である。何となれば、肉体はそれ自身に発言権も、命令権もないので、一切は魂の命ずるままに動いてゐるからである。謂はば、魂の衣である。人間が其衣服を着用する場合、意志のままにするのと等しいのである。従而、衣服が余りに毀損し、余りに汚醜した場合脱却するのが普通である。それと同じで、肉体が余りに毀損して、使用に堪へない場合、魂はそれを脱却して霊界へ赴く。それを称して死といふのである。
此理によって、病気が先づ魂に発生する場合、それは魂の全体、又は一部に曇を生ずるのである。それが精霊に移写し、又、それが肉体へ移写する。其場合精霊の曇は、血液の溷濁となり、それが膿汁と化するのである。其膿汁が滞溜し、固結する。それの排除作用が、肉体的に言へば病気と称するのである。故に病気を治癒する真の方法としては、精霊の曇を払拭する、それ以外には絶対に無いのである。故に、曇の残存する以上、肉体の方を如何に治癒しても、再発するのは当然である。医療に於る再発の多いのは、此理に由るからである。
本療法は、神秘光波によって、此曇を拭払する。それが為即時浄血し、即時痛みは去るのである。其際誰しも奇蹟とするが、決して奇蹟でも不思議でもなく、右の如く洵に合理的方法である。
斯の如く、一切の病原は肉体からと魂からの両方面である。然し、茲に自然法則を知らなくてはならない。それは物質は凡て無形の霊に支配されるといふ事である。それ故、肉体的原因に由る疾患と雖も、精霊の浄化にあらざれば根治しないのである。又、別の意味から言っても、肉体的病原を作る其根原は結局魂にあるのであるから、魂とそれによる精霊の正純化こそ、実に病気治療の原則であって、それ以外真の治療法は無いといふ事を、断言し得らるるのである。(新日本医術書 昭和十一年四月十三日)

病気の原因と罪穢

病気の原因は、汚血及び水膿の溜結であり、其汚血と水膿は精霊の曇の移写であるといふ事は、既に述べた通りであるが、然らば、其曇は何れから発生流転して来たかといふと、それが罪穢なのである。而して、罪穢にも二種あって、先天的と後天的とのそれである。即ち先天的は多数祖先の犯した罪穢の堆積綜合であり、後天的のそれは、自分自身の犯した罪穢の堆積である。
先づ第一の祖先の罪穢を、悉しく述べてみよう。今、現在生きてゐる吾々個人は、突然と涌いた処の、何れにも係りのない存在ではなくて、実は何百人か何千人か判らない、多数祖先の綜合されて一つになった、其尖端に存在呼吸する一個の生物であって、それが、無窮に継承されてゆく中間生命の、時間的個性の存在である。大きく観れば、祖先と子孫とを繋ぐ連鎖の一個であり、小さく言へば、親と子を繋ぐ楔子(クサビ)でもある。
祖先の罪穢に依る病気なるものを、徹底的に説明するには、どうしても死後の生活、輒(スナワ)ち霊界の組織状態を説かなければならないから、大略を述べる事とする。
人間が一度現世を去って、死の関門を通過するには、肉体といふ衣を脱ぎ棄てるのである。人間の肉体は現界に属し、霊体は霊界に属してゐるものであるから、肉体が病気又は老齢の為に、頽廃して使用に耐えない以上、精霊はその不用化した物質である肉体を捨てて霊界に往くのである。そうして、霊界に於て再び現世に出生する準備をしなければならない事になってゐる。其準備とは浄霊作用である。然るに大部分の人間は、生存中に於る罪の行為に由る穢が相当に多いので、霊界に於ての厳正公平なる審判に遇って、大方は地獄界に堕ちて行くのである。地獄界に堕ちた精霊は、罪に対する刑罰の苦難によって、僅かながらも一歩一歩向上してゆくのであるが、其際罪穢の浄化による、残渣とも言ふべき霊的汚素が、現世に生を営みつつある其子孫に向って、絶えず流れ来つつあるのである。それは祖先の綜合体である子孫の個人が、罪穢を分担するといふ、一種の因果律的贖罪法である。之は万物構成に於る主神の神律である以上、如何ともし難いものであって、人間は之に服従する以外、何事も出来得ないのである。それは此霊的汚素が、人間の脳脊髄へ向って絶えず流動し来り、其汚素が人間の精霊に入るや、忽ち物質化するのであって、その物質化が膿汁である。之が凡ゆる病原となるのである。
第二の個人の罪穢を説いてみるが、之は誰しもよく判るのである。如何なる人間と雖も、生来、絶対罪を犯さないで生きてゆくといふ事は、出来得べからざる事である。然し罪にも大中小、千差万別あって、例えば、法律上の罪もあれば、道徳上の罪もあり、社会的の罪もある。亦行為に表はれる肉体的の罪もあり、心で思ふ丈の精神的罪悪もある。基督が曰った、女を見て妙な心を起した丈でも、姦淫の罪を犯す事になるといふ戒めは、厳し過ぎるとは思ふが、間違ってはゐないのである。斯様に、縦令、法律を侵さないまでも、小さな罪、即ち日常、彼奴は憎いとか、苦しめてやり度いとか、姦淫したいとか想ふのは、誰しも罪とは思はない程の微細な事ではあるが、是等も長い間積り積れば、相当なものになるのである。又、競争に勝つとか社会的に成功するとか、兎に角優越的行為は敗北者から怨まれ、羨望される。之等も其恨に依って一種の罪となるのである。又、殺生をするとか、怠けるとか、人を攻撃するとか、物質を浪費するとか、朝寝するとか、約束を違へるとか、嘘言を吐くとか、いふ様な事も不知不識侵す一種の罪である。斯の様な数限りない罪は、小さくとも長い間には、相当な量となるので、それが精霊へ曇となって堆積さるるのである。然し、生れて間のない嬰児は、後天的の罪は無いであらふと思ふが、決してそうではない。すべて人間は、親の膝下(シッカ)を離れて、一本立になれば兎も角、親によって養はれてる間は、親の罪穢も分担する事になってゐるのである。恰度、樹木に例えてみれば能く判る。親は幹であって、子は枝であり、其又枝が孫である。幹である処の親の曇は、枝に影響しない訳にはゆかないのと同じ理である。
此後天的罪穢は、明白に判る場合がよくある。その二、三の例を述べて試(ミ)よふ。人の眼を晦(クラ)ました結果、盲になった二つの例がある。以前浅草の千束町に、経銀といふ表具師の名人があった。彼は贋物を作るのに天才的技術を有ってをり、新書画を古書画に仕立上げて売付け、何十年もの間に相当な資産を造ったのであるが、晩年不治の盲目となってから暫くして死んだのを、私は子供の時によく遊びに行っては、本人から聞かされたものである。今一つは、矢張浅草の花川戸に花亀といふ道具屋があって、或年静岡地方の某寺の住職が、其寺の本尊を奉安して、東京で開帳をしたのである。処が、失敗して帰郷の旅費に困り、其御本尊を花亀へ担保に入れて、金を借りたのである。其後金を調えて、御本尊を請けに花亀へ行った所が、花亀は御本尊の仏体が非常に高価な買手があった為、売払って了ったので、彼は白々しくも、預った覚えはないと言切って、頑として応じなかった。そこで其僧侶は進退谷り、遂に花亀の軒下で首を縊って死んで了った。処が、花亀の方では、仏像で莫大に儲けた金で商売を拡張し、其後トントン拍子に成功して、其頃数万の財産家になったのであるが、晩年に至って盲目となり、而も、其跡取息子が酒と女狂で、忽ちにして財産を蕩尽し、終には見る影もなく零落し、哀れな姿をして、老妻女に手を引かれ乍ら町を歩く姿を、私は子供の時よく見たので、其謂れを父から聞かされたのであった。之は全く僧侶の怨念が祟ったのに違ひはないのである。今一つは親の罪が子に酬った話であるが、それは以前私が傭ってゐた十七、八の下女であるが、此女は片一方の眼が潰れて、全く見えないので、訊いてみた所が、以前奉公してゐた家の子供が空気銃で過って、眼球を打ったとの事であった。猶訊いて試ると、其下女の親爺は、元、珊瑚の贋玉で非常に儲けたとの事で、それは、明治初年頃、護謨等で巧妙な珊瑚の贋玉が出来た。それを田舎へ持って廻って、本物として高価に売付け、巨利を博したとの事で、其贋玉を高く売附けられた人の怨みが大変なものであったらふと思ふ。全く其罪が子に酬って、眼の玉を潰したのである。而も其女はなかなかの美人で、眼さへ満足であったら、相当の出世をしたらふにと、惜しくも思ったのであった。今一つの例は、手首の痛む老人が、治療に来た事があった。十日以上も治療したが、なかなか良くならない。不思議に思って、其老人の信仰を訊いてみた処、○○様を廿年以上も信仰してゐると言ふのである。そこで私は其為であるから、それを拝むのを罷(ヤ)めさしたのであった。処が拝むのを罷めた日から、少し宛良くなって、一週間程で全快したのであったが、之に似た話は時々あるのである。正しくない信仰や、間違った神仏を拝んでゐると、手が動かなくなったり、痛んだり、膝が曲らなくなったりする例が、よくあるのであって、之は全く間違った神仏を拝んだ、其罪に因るものである。
是等の例によって察るも、後天的の罪穢も軽視出来ないものであるから、病気や災難で苦しみつつある人は、此後天的罪穢をよくよく省みて過ってゐる事を発見したなら、速かに悔悟遷善すべきである。今一つは別項種痘の記事にある如く、陰性化せる天然痘の毒素である。故に病気の原因は、先天的の罪穢及び後天的の罪穢及び天然痘の毒素の、此三つが主なるものであると思えば、間違ひないのである。(新日本医術書 昭和十一年四月十三日)

食餌の方法と原理

今日、食餌の方法として医学で説いてゐる事は、非常に間違ってゐるのである。 其誤りの第一は、食事の時間を決める事である。第二は、食餌の分量を決める事である。
食物の種類により、消化時間が一定してゐない事は、営養学者も認めてゐる。三時間で消化する物もあれば、五時間以上を要する物もある。それ故に、若し、食事から食事までの間隔を一定すれば、腹が減り過ぎたり腹が減らな過ぎたりするといふ、実際に適合しない事になる。故に、腹が減れば早く食ひ、腹が減らなければ延すこそ合理的である。それと同じ意味で、分量も定めないのが本当である。腹が減れば多く食ひ、腹が満ちれば少く食ふのが合理的であり、それが自然であるから、その様に調節すれば、胃腸は常に健全である事は言ふ迄もない。丁度寒いから綿入を着て、火鉢に当るので、暑くなれば浴衣を着、氷水を飲むのと同じ理である。寒暑に対する調節や、其他の総てに良く調節をしたがる人間が、独り食物のみを調節しないで一定すると言ふのは、如何にも不思議である。是等は全く医学其ものの誤謬が原因である事に気付くであらふ。然し、境遇上、例へば、時間的労務に服してゐる者は、時間の調節は不可能であるから、せめて食物の分量だけでも調節するより致方ないであらふ。然し乍ら境遇上、可能の人は是非そうしたいのである。
次に、今日の人間は食物に就て非常に誤った考を抱いてゐる。それは、何を食べると薬だとか、何を食べると毒だとか言って、食ひ度いと思ふ物も食はず、食ひ度くないものも我慢して食ふといふ謬りである。本来凡ゆる食物は、造化神が人間を養ふ為に、種々の物を造られたのであるから、如何なる食物にも人体に必要な養素が、それぞれ含まれてゐるのである。そうして、其営養素は、科学や試験管で測定するよりも、もっと簡便な正確な方法がある。それは、何であるかと言ふと、人間自体が其時食べ度いと思ふその意欲である。何故、意欲が起るか。それは、其時其食物が肉体に必要だからである。故に、之程正確に測定される機械は無い訳である。恰度、喉の渇いた時に水を欲する様なもので、それは其時水分が欠乏してゐるからである。故に、食べ度くないとか、不味とか言ふのは、其食物が其時必要でないからで、それを我慢して食えば、反って毒にこそなれ、薬にはならないのである。満腹の時、如何に嗜好する物も、食ひ度くないといふのは、今は、食物一切、不要といふ訳である。故に、最も理想的食餌法を言ふならば、食べたい時、食べたい物を、食べ度い丈食ふのが一番良いので、少くとも、病人だけはそうしたいものである。
又、近来病人に対し、芥子(カラシ)の様な刺戟的の食物を忌むが、之も大変な誤りである。之も人体に必要あればこそ、神が造られたのであって、辛味、香味などの味覚は、良く食欲を増進させるからである。又、今日の医学は或病気に対しては塩を制限し、或病気に対しては糖分を禁止するが、之等も誤ってゐる。成程、それによって一時は軽快に赴くが、持続するに於て逆作用を起し反って身体は衰弱し、病気は悪化するものである。
次に咀嚼に就て言はんに、良く噛む程いいといふ事は世間でも言ひ、又、多くの人もそう信じてゐるが、之も間違ってゐる。之に就て私は、実験した事がある。
今から二十年位前であった。アメリカにフレッチャーと言ふ人があった。此人が始めたフレッチャーズム喫食法と言ふのがある。それは、出来る丈能く噛む、ネットリする位まで嚼めば良いといふので、其当時大分評判になったものであるが、それを私は一ケ月程実行してみた。最初は非常に工合が良かったが、段々やってゐる内に、胃が少し宛弱ってゆくのが感じられ、それに従(ツ)れて何となく、身体に力が薄れたような気持がするので、之は不可いと思って、元の食餌法に変えた所が、忽ち力を恢復したので、此実験によって、良く咀嚼するといふ事は、胃を弱める結果となり、大変な間違ひであるといふ事を知ったのである。然らば、どの程度が一番良いかと言ふのに、半噛み位が一番良いので、その実行によって、私の胃腸は爾来頗る健全である。
次に、食物に就ての概念を知ってをく必要がある。それは、魚でも、野菜でも、多く収れるものは、多く食ふべきもので、少なく採れるものは、少く食ふのがいいのである。
例へば、夏季、茄子は非常に多く生る。又枝豆は、夏季だけのものである。故に、茄子と枝豆を、夏季は出来るだけ多く食ふのが健康上いいのである。茄子を食ふと、痰が沢山出るといふのは、体内の汚物を、排除する作用があるからである。又、秋は、柿を出来る丈食ふべきである。柿は冷えるといふが、冷えるのではなく、洗滌をする力があるので、それが尿の多量排泄となるからである。此理に由って、特に秋の秋刀魚(サンマ)、松茸、冬の密柑、餅等などもよく、春の菜類、筍等もいいのである。 次に、梅干に就て、特に注意したいのである。之は病人には絶対に不可ないのである。元来梅干なるものは、昔、戦争の際兵糧に使ったものである。それは、之を食ふと消化が悪いから、少量にして腹が減らないといふ効果に由るからである。故に、ハイキングなどの弁当用としては、空腹を予防するからいいのであるが、運動不足である病人には甚だ不可なのである。之は、酸味が強過ぎる為、胃の消化に対し、非常に故障となるものである。(新日本医術書 昭和十一年四月十三日)

消化機能は一大化学者なり

輓近(バンキン)、営養学は大いに進歩した如に見へ、又世人もそう信じて居るのであるが、実は進歩処か、飛んでもない方向へ脱線してゐる現状であって、国民保健上、寔に痛歎に堪へないのである。それは、営養と最も関係のある消化器能に関しての研究の結果が、甚だ謬ってゐる事が原因をなして居るのである。
現在の営養学に於ての認識によると、食物が一旦消化器能的活動力に遭ふも、其原質は飽迄其儘であって、絶対に変化しないものと決めてゐる事である。随而、営養学者は、滋養食を摂取すれば、血液や細胞を増し、又肉を食すれば肉が増成され、動物の生血を飲めば血液を増すと信じて、旺んに病者に奨めてゐるのである。試験管やモルモット、二十日鼠等の研究の結果を、直接人間に応用すればいいといふ、頗る単純なる解釈からなのである。然るに、実は此消化機能なるものが、素晴しい化学者であって、其化学者があらゆる食物を変質させるといふ事を知らないが為である。
之に就て、私の研究を述べてみよふ。それは本来、消化器能の活動力は、凡ゆる物を消化すると共に、其原質を自由自在に必要なだけの営養素に、変化さして了ふといふ事である。
其適例として、最も相似してゐるのは、彼の土壌である。即ち土の上に、一個の種子である微粒を播くとする。太陽熱の温波と月露、或は雨水と空気中の肥料等によって、いとも不思議な変化を起すのである。即ち、美しき緑の葉を生じ、次に蕾(ツボミ)を生じ、尚も進んで、嬋娟(センエン)たる花を咲かすのである。一個の見る影もない小さな芥子粒が、あの美しい花にまで変化するとは、誰か予想し得らるるであらふ。生命の神秘と其変化妙技こそ、洵に驚歎の極みであって、自然は実に一大化学者である。 それと同じ理であって、凡ゆる食物が、食道を通過して、胃と腸に入るとする。胃及び腸、其他の臓器の分掌的活動は、食物をして順次変化さしてゆく。其変化力の神秘さは、人智では到底測り得ない。巧妙極まるものなのである。そうして最後には血液、細胞、漿液等、生命に必要なだけの原素と化して了ふのである。赤色である血液も、白い米や青い菜の変化であらふ事は勿論である。そして変化の基礎的主体は、何と言っても胃腸である。
故に、是等消化器能の本質的活動は、物質を変化さして了ふ其変化力なのである。人間が言ふ所の営養食でも、非営養食でも、体内の化学者は、自由自在に生命を構成する原素にまで、そして必要な丈の量にまで変化さして了ふのであって、洵に素晴しい不可思議力である。
然るに、今日の営養学者は、此変化力が認識出来ないのである。それは、試験管の中や、モルモットの器能と、人間の器能と同じと思って居る事で、実は非常な相異がある事を知らない為である。第一、考えてもみるがいい。人間はモルモットではない、又人体の内臓は試験管の内部とは全く異ふのであって、人間は飽迄、特殊の高等霊物たる存在である。之を、別な方面で例えてみやふ。阿弗利加の土人に施した政治が、好結果であったからといって、高度の文化国人へ対って其儘の政治を行っても、決して成功する筈はない。そして文化人と土人との違ひさは、色の白いと黒いとの異ひさ丈で、人間としては同一である。であるさへ右の如くであるとすれば、モルモットで成功したからといって、人間の適合する筈はない。こんな判り切ってゐる事でさへ、今尚気が付かないのは不思議と思ふ程である。それ故に、十年一日の如く毎日モルモットの研究に没頭してゐても、恐らく解決は付かないであらふ。それ等の学者達を見れば、実に気の毒であるとさへ、吾々は思ふのである。
人間とモルモットを同一にしてる程に、単純な営養学は胃腸の変化力に気の付かないのも当然であらふ。
器能の変化力を知らない営養学者は、ヴィタミンが欠乏してゐればヴィタミンを嚥(ノ)ませれば可いと思ってゐる。ヴィタミンの欠乏は、或物質をヴィタミンに変化させる。其器能に故障があるのかも知れないのである。又、其或物質の不足かも知れないのである。それ故に、ヴィタミンの不足といふ事は、ヴィタミンを嚥まない為ではない。ヴィタミンに変化させる。或物質の不足からとも言へるのである。
爰で再び私は、土壌と花の例を引き度い。それはあの美麗な花も、似ても似付かない穢ならしい種を播けばこそ、それを土壌が変化させるのである。だから直接、花を土に埋めても花は咲かない。花は土壌の変化力に遇えば、反って枯凋んで、汚穢(キタナ)らしい芥となり、終には土に還元するまでである。之と同じ様に、ヴィタミンや血液とは、似ても似着かない営養の有りそうもない、穢い種の如な意味の食物を摂取すればこそ、胃腸の変化力は、立派なヴィタミンや、血液や肉とまで変化させるのである。故に其理を営養に当て嵌めてみれば、猶能く判るのである。即ち、花の如に完成したヴィタミンや、血液や滋養剤や、営養素を摂取すれば、それを胃腸の変化力は、花を土に埋めて、芥にする如くに、同じ意味の糞尿とするであらふ事は、洵に瞭らかな事である。
実に、土壌と胃腸は、すばらしい一大化学者である。(S・11・2・20)(新日本医術書昭和十一年四月十三日)

新日本医術と既存医学の誤謬

抑々、病気とは何ぞやと言へば、人体の浄化作用である。人間の健康は、病気有るが為に保ってゐる、と言っても可いのである。
人間が生を営みつつ諸々の行為による罪穢や、食物の毒素、其他近代生活に於る、種痘の為の陰性化天然痘毒素及薬剤中毒等、凡ゆる可避不可避、又は意識と無意識とによって、不知不識堆積する毒素は、或程度免るる事の出来ないものである。そうして、其堆積の量が、或程度を超ゆる時、それはどうしても排除されなければ、人体の健康は保ってゆけないのである。
それが人体に於ける自然浄化作用であって、其排除されなければならない余剰毒素は、身体の何れかの部分に集中し、其処から排出されやふとするのである。病気とは、右の排除されよふとして、或部分に集中した毒素が、尚も外部へ排出されやふとする其道程の苦痛である。
故に、自然浄化による血液中の毒素が、膿汁となって排泄する場合、排泄に有利ならしめん為、其膿を溶解する必要がある。元来、膿汁は人間の体温及び、それより低い温度では、凝結する性質があるので、それを溶解せんとするには、どうしても体温以上の温度を要するのである。それが為の発熱である。又、膿の排除作用の工作が、痛みであるから痛みと熱に因って、毒素排出の目的が達せられ、健康は持続されるのである。又、肺結核痔疾等にて、喀血や出血するといふ理由もそうである。排除されなければならない余剰毒血が、其排除器能である肺又は肛門を利用する訳である。故に、肺からの喀血は、多量であればある程、浄化作用が良く行はれるのであるから、何等恐るる事なく、寧ろ喜んで、放置してをけばよいのである。それの後は非常に、健康は増進される事実を、断言するのである。此理を知らない医学は、出血や発熱を以て病気悪化と誤解し、非常に恐れて、それを停止させよふとする。其為に、折角の浄化作用が完全に行はれないから、病気は長引き、健康は容易に恢復し難くなるのである。尚其上に、薬剤服用の為の毒血増加が、病気悪化に拍車を掛けるのである。 是等の理に由って、病気現象は決して健康を損ねるものでなく、反って浄化作用であるから、之を知ったならば、病気は恐るる所か、大いに喜んでいい訳である。 故に、今日迄の病気治療は、病気を治癒させるのではなく、治癒を遅延させ、病気を悪化させる結果に外ならなかったのである。(S・11・4・21)(新日本医術書 昭和十一年四月十三日)

痛みと熱

痛みは何の為であるか、之も医学では不明である。それは私がいつも言ふが如く、病気排除の自己工作が、神経を刺戟するのであるから、之を放置してをけば、案外速く治癒するのである。然るに、此理を知らないから、氷冷、塗布薬、注射、湿布等を行ふのであるが、之等は悉く治癒の妨害である。成程多少とも痛みは緩和するが、非常に治癒が延びるのであって、時には予想外の不利を醸し、生命の危険に迄及ぶといふ実例さへあるのである。且つ痛みの甚しければ甚しい程治癒工作が猛烈に進行してゐるのであるから、激痛は長時間は滅多に無いのである。然し、我療法によれば、すべての痛みの解消は、驚くほど迅速であると共に、対症的でなく、根本療法であるから、痛みの解消は病気全治となるのである。
熱の原因に就ては、医学上今以て不明であり、各学者の説も区々として、一定しないやうである。
然らば、発熱とは如何なるものであるかと言ふと、之は自然治癒の工作上、実に重大なる役目をしてゐるものである。それは心臓が、霊界から火素、即ち太陽熱を吸収して、病気を解消すべく、必要量丈を供給するのである。発熱の際、鼓動の昂く多数なるは、其活動の旺盛期を示してゐるのである。又、発熱前の悪寒は、心臓が患部への熱量供給を専らとする為、其間全体的熱量供給が減殺さるるからである。例へば、戦争の為に軍隊を、或一局部に集注させる場合、全体としての兵員配置は、一時閑却さるる如なものである。
よく人は曰ふ。病気の際、発する処の熱は、健康時は何処に潜んでゐるのであらふか、それらしい熱の貯蔵所は、どこにも見当らないと。之は尤もな話である。然しそれは、前記の理由が不明であったからである。心臓は熱の仲介機能であって、熱そのものは無尽蔵に霊界に充ちてゐるのであるから、何百日と雖も治病に必要な発熱は継続する訳である。
病気治癒に当って、熱は最も偉大なる功績者である。それは、あらゆる膿汁の溜結や喀痰の凝結を解溶し、殺菌等をするからである。故に、熱を醒す如き療法は、折角の自然治癒を、全く妨害する事となるのである。
然し、医家は曰ふであらふ。本来の病気は熱によって治癒するであらふが、高熱の為に他の障害、例えば、脳を犯す等の事があっては、生命に係はるとの心配である。然し、私が、幾多の実験上、決して其憂は無い事を知ったのである。
故に、風邪の如きも発熱を其儘放置してをけば、至極順調に、速かに、治癒さるるのである。よく世間風邪を拗らすといふのは此理を知らないから、肝腎な発熱を醒す為なのである。又、肺結核の経過不良と、治癒に時日を要するのは、全く解熱剤服用の誤が、大なる原因をなしてゐる
又、発熱は衰弱を増すといふ事を懸念するが、之も実は的外れであって、成程、衰弱を増すのは事実であるが、解熱に由る病状悪化の為の衰弱の方が、より大なるものがある事を知らなければならないのである。(新日本医術書 昭和十一年四月十三日)

酸素吸入の誤謬

重態の病人に対し、酸素吸入を応用する事が流行してゐるが、之が非常な誤りであって、反って病気には良くないのである。何となれば、人間が二六時中、呼吸して生きてゐる天与の空気は、酸素や窒素、水素等完全に調和密合されたる完全無欠なものである。従而、特に酸素ばかり吸収するといふ事は、常識から考えても、其の誤謬である事が、寔に瞭らかである。若し、健康体の人間が酸素吸入をしたなら、慥かに健康に異常を来すであらふ。況んや、病人に於てをやである。之に就て、最近、非常に面白い発見があった。それは風邪を治療するのに、飛行機に乗ると好結果があるといふのである。最近、倫敦(ロンドン)の医師、ピーボールトン博士とヱフェーノット博士によって称えられてゐる。それは、一万呎(フィート)の高空を、約三十分間飛行すると、初期の風邪なら忽ち治って了ふといふ事である。其説明としては、酸素が稀薄なので、身体組織は酸素を得よふとして、活動を開始するからであると言ふのである。故に、此理から推せば、酸素吸入は、反って反対である事を識るのである。であるから、酸素吸入は、反って害があるといふ学説が、何れは唱導されないとも限らない。其結果終に自然空気を吸ふのが一番良いといふ事になるのは、火を睹るよりも瞭らかである。(新日本医術書 昭和十一年四月十三日)

薬剤の害毒

人病に罹るや、直ちに医師の門に駈け付け、治療を乞ふのであるが、医師は先づ投薬療法をする。此場合、服薬と注射、塗布薬等であるが、之が治療上に於ける誤謬の抑々の根本である。何となれば、再三述べた如く、病気の根本は霊体に発生し、而して後肉体に表はれるのであるから、薬剤は肉体的には多少の効果ありとするも、霊体に向っては全然無力であるから、肉体へ顕出した現象を、外部から停止さすに過ぎないのである。而して、霊体の曇が移行した結果である患部は、汚物停滞であり、それが自然浄化によって、体外に排泄さるるその行程が病気であるから、病気其ものの苦痛が病気治癒になるのである。故に、薬剤や其他の方法によって、病気現象を停止せんとする事、それが取不直、自然治癒の妨害をする事になるのである。
人間の血液は、絶対清浄を保つべきもので、血液清浄なれば決して病に侵されないのである。即ち、霊体の曇が血液の汚濁となり、其浄化作用が病気であるから、如何に霊体は清浄でなくてはならないかと言ふ事が判るのである。黴菌に対し、浄血は殺菌力が旺盛であるといふ事は、他面から言へば、人間の血液の掃除夫である黴菌が浸入するも、汚濁が無ければ、掃除の必要がないから、繁殖出来ないで、衰滅する訳である。
故に、薬剤の作用は治癒を妨害すると共に、其余燼(ヨジン)は血液中に吸収されて、血液を汚濁させるのである。此事実は長年に渉る薬剤服用者の皮膚を見れば、瞭らかである。其皮膚は蒼白にして、光沢及び弾力なく、若くして老人の如くである。是等の患者へ対し、薬剤使用を停止さするに於て、時日の経過による自然浄化が、薬剤中毒を消滅さすから、生気を増し、皮膚は光沢を呈し、健康を快復するのであって、斯事に専門家も患者も、今日迄気が付かなかったといふ事は、実に不思議である。
次に、薬剤の逆作用の恐るべき事である。それは、薬剤使用の目的と反対の結果になる事である。例えば、胃の不消化へ対し、消化薬を用ひると、一旦は非常に良く、消化の効を顕はすので、之によって胃は健全を増し、不消化症は治癒するのであると、医師も患者も誤信するのであるが、何ぞ知らん、一時的効果の次は、反って不消化の度を増すのである。それは何の為かといふに、胃は本来、食物消化の器能として存在するものであるから胃自体の労作によって消化さすのが本当であり、又、そう造化の神は造られたのである。然るに何ぞや、それを薬剤の力を藉りようとするのである。薬剤が食物を消化すれば、胃は労作の必要がないから、自然、胃の活動力は衰耗退化してゆくのは当然である。故に、胃薬服用を連続すればする程、胃は退化の度を増すから、益々不消化になり、其不消化を補ふべく胃薬を用ひる。それが又、不消化の度を増すといふ循環作用によって、遂に重症となるのである。私が実験上、食欲不振や不消化の患者に対し、胃薬服用を廃止さすに於て、其病的症状は漸次消失し、患者は其意外に驚くのである。又、それ以外に重大な事がある。それは消化薬は食物を柔軟にし、溶解するのであるが、食物丈ならよいが、胃壁に対しても同様の作用をするので、之が最も怖るべき事なのである。即ち、消化薬連続服用に由って、或程度柔軟化した胃壁は、僅かの固形物が触れても亀裂するので、其亀裂によって血液が浸潤し、それが吐血、血便、痛苦の原因となるので、之が即ち胃潰瘍である。故に、胃潰瘍とは、胃薬の連続服用が原因であるに係はらず、胃潰瘍を薬剤によって治癒せんとする、西洋医学の誤謬は、実に恐るべきものである。
次に、便秘も其他の疾患に対しても、右と同一の理であるから略する事とするが、要するに、薬剤の逆作用の如何に恐るべきかを知らなければならないのである。特に生後間もなき嬰児の如きは、薬剤の注射や服用によって、発育遅滞又は発育停止の症状さへ起すのである。それは薬剤使用は、一種の不純物を注入する訳であるからである。此事は最近、一部の医家は発見し、嬰児に限り薬剤を使用せず食餌療法のみを応用するといふ報告に接し、大いに喜ばしく思ってゐる。(新日本医術書 昭和十一年四月十三日)

注射

注射は、最近頗る其種類が増加して来てゐる。それ等を私の知り得る範囲に於て述べる事とする。
苦痛軽減の目的による注射、例えば胃痙攣、腸痙攣の如きは、一時的痛苦は確かに消滅するのであるが、それは痛苦の原因たる疾患を治癒するに非ずして、痛苦を感受する処の神経を、薬剤によって一時的麻痺さすので、其麻痺状態中に、本尊たる疾患は、自然治癒をされるのである。故に、病根を祓除(フツジョ)するのでないから、一旦治癒の状態を呈するも、一定時を過ぐれば再発するのは勿論の事である。次に喘息の注射は、注射するや咳嗽、喘音は速かに停止して、健康時と異る所無き迄に、全く治癒されたかと思ふ程であるが、半日乃至二、三日位経るや、再び発作状態となるのである。薬剤効果の特性として、三日より二日、二日より一日といふ具合に、漸次、効果時が短縮され、終に全く、薬剤中毒患者になって了ふのであって、本来の喘息は、依然として存続するのみか、反って多少宛、悪化に向ふものである。何となれば、喘息の病原は、横隔膜の下部に水膿溜結し、その自然排除現象としての喘音、咳嗽であるから、注射によって咳嗽を留むるに於て、其期間だけは、水膿排除作用が停止する事に由って、それだけ病気は悪化する道理である。
又、衰弱を恢復し、体力を旺盛ならしむる為、カルシュウム注射を行ふのであるが、之は確かに一時は食欲を進め、体重を増し、殆んど健康増進せる如に見ゆるも、それは全く人為作用であるから、一時的であって、注射を止めると共に、再び衰弱時に還元するのみか、反って反動作用の加はるが為に、より衰弱の度を増すのが実際である。加之、此薬剤は、凡そ一年以上四、五年を経れば、蕁麻疹の如き、頗る掻痒を感ずる発疹が、全身又は部分的に発生するのである。之は全くカルシュウム中毒であるに係らず、医科大学を始め、医学の大家と雖も、之に気が付かないと言ふのは、実に不可思議と謂ふべきである。此症状に対し、塗布薬、注射、服薬、食餌療法等を応用すれども、其病原と齟齬(ソゴ)するが故に、更に効果なく、患者は二ケ月三ケ月、半年一年に及び、医師病院を転々して、多額の治療費を使用し、猶治癒されないといふ。洵に気の毒な患者を尠なからず見受くるのである。私が治癒した三十歳位の婦人で、此カルシュウム中毒の発疹が顔面に出で、四、五年もに及んで、凡ゆる方法によるも治癒しないので、若き婦人としては、外出も滅多に出来ず煩悶を続けてゐたといふ。実に同情すべき事であった。此患者は三回の施術によって全治し、今も非常に感謝してゐる。
中風又は、神経痛の如き疾患にする注射は、其効果は全く今の所疑問である。夫等の疾患は、注射によって全治せるものを、私は未だ見た事がない。反って、注射に因る薬剤中毒の為、本来の病気以外、追加されたる負担に由る痛苦の増加を来した気の毒な患者は、無数に見るのである。是等注射中毒患者は、注射の回数の多い程、痛苦が激しく、治癒は困難なのである。故に私は、注射の有無と回数によって、治癒日数を予定するのである。無論、注射の多い程治療日数を要するのである。今迄に取扱った患者の中、二ケ月半に七百本の注射を受けたのが、最多であったのである。
又、脚気の注射であるが、之もそれに依て全治したといふ例を聞いた事が無い。そうして、理論上から言って、薬剤注射を以て治癒する筈は決して無いのである。何となれば、脚気の病原としては、一種の毒素が極浅い皮下一面に滞延するのであるから、此毒素を解消せしむるより外は無いのである。然るに、此毒素は全く医家の言ふが如く、白米中毒である。白米中毒の原因は、糠を絶無ならしめたのが原因であるから、糠を服用すれば、最も簡単にして費用を要せず、全治するのであるから、何を好んで薬剤や注射の如き、苦痛と手数と費用を要するの必要ありやである。然し我療法に由れば、普通は二、三回重症にても十回以内にて全癒するのである。之に就て大いに注意すべき事柄がある。それは、多くの医家は、白米中毒の脚気と、腎臓萎縮の為の尿毒によっての類似脚気とを混同してゐるといふ、診断の不正確が多い事である。之は全然別箇の病症であって、此差別の不知な為に、恐るべき結果をさえ来す例が屡々あるのである。
其一例として左記の如き患者があった。
某高貴な婦人、年齢四拾歳位、二、三年間歩行不能、然し匍匐(ホフク)して入浴をなし、座して食事を摂り得る位の事は出来得たが、偶々、日本有数の大病院の主任博士の診療を受けたるに、脚気との診断にて、六十回の注射をすれば全治すると曰ひ、注射四十回に及ぶ頃、全く起居不能に陥り、寝返りさえ打てず、殆んど寝床に、膠着(コウチャク)せる如くになって了ったので、患者は驚いて注射の継続を拒否したのである。そうして其状態は、更に恢復せず、其時より約一ケ年位経た頃、私は聘(ヘイ)されて其状態を見、経過を聞いて驚いたのであった。之は尿毒性類似脚気を、白米中毒の脚気と誤診したが為であった。右の起居不能は注射の中毒に因る事は、一点疑えない処である。故に、此患者を治癒するには、其注射薬剤を除去するより方法は無いが、短期間には奏効不可能であるので、どうしても、肉体の新陳代謝による自然消滅を待つより外は無いので、其旨を患者に詳言して、一時手を引いたのである。斯の如きは、実に同情すべき不幸であると共に、医学の不明か、診断の不正確か、孰れかであらふが、注射療法の如何に恐るべきかを痛感したのである。
小児百日咳に対し、よく注射療法をするが、之等も非常な誤りである。何となれば、元来百日咳の病原は、人間は生れながらにして、一種の毒素を持ってゐる。其毒素を排除しなければ、発育と健康へ対して、障礙となるから、其毒素を排除する工作、それが百日咳なのである。従而、其毒素排除に要する日数が百日掛るといふ訳である。之は、咳嗽と共に白色の泡の如き液体を排除する。それが毒素である。之が多量の時は、嘔吐によって排泄するのである。故に、咳嗽そのものによって、毒素を排除するのであるから、此場合咳嗽こそは、最も必要であるにも不拘、医家は此咳嗽を軽減させよふと努力する。故に若し咳嗽が軽減さるればされた丈は、毒素排除量が減少されるから、治癒は遅延するのである。自然に放置すれば、凡そ百日で治癒すべきに、医療を受くる結果、非常に長時日を要し、半ケ年にも一ケ年にも及ぶ者さへあるのは、全く之が為である。又、此誤療の為予後何ケ月も、時によっては何年もの慢性咳嗽患者、又は肺患者になる事実さへ往々見るのである。之に由ってみるも、医学の未完成による注射の弊害こそは、実に恐るべきものである。
小児疫痢の注射に対しても、私は賛成出来ないのである。何故なれば、注射によって生命を取止むるよりも、生命を失った方の実例が、余りに多い事を知ってゐるからである。生後数ケ月の嬰児に対し数十本の注射をして、死に到らしめた例は、屡々見るのである。
其他、ヂフテリヤ、肺炎、丹毒(タンドク)、瘍疔(ヨウチョウ)等の注射も、好結果の実例はあまり聞かないのである。
唯、痔疾と梅毒の注射は、或程度の効果は認め得るのであるが、其効果と雖も、我療法に比すれば何分の一にも及ばないといふ事を言ひ得るのである。 其他未だ各種の注射療法があるであらふが、大体大同小異であるから、右によって想像され度いのである。
之を要するに、注射の功罪は、一時的は効果あれども、最後は反って病勢を悪化する懼れあるのが実際であるから、根本的治療から言えば、注射を行はない方が良いのである。(新日本医術書 昭和十一年四月十三日)

病気を悪化させる医療

現代医療は、病気治癒でなくて病気遅延であり、病勢を悪化さすのであるといふ事は前述の通りである。其点に就て、今一層徹底的に説いてみよふ。
人が先づ病気に罹るとする。そこで、医者にかかる。此場合医療は発熱に対しては解熱療法をし、咳嗽は止めやふとし、腫物は散らさうとし、痛みには薬剤を塗布し、患部へは湿布又は氷冷法等を行ふのである。
是等は何れも苦痛緩和の方法ではあるが、実は病気治癒の妨害である。浄化作用であるべき病気現象を軽減せんとするのは、取不直治癒の妨害をする訳である。
それ所ではない。もう一層大いなる誤りがある。それは、病気に対する抵抗力を強めよふとして、滋養物と唱え、獣性食餌を摂らせよふとするが、之は血液を溷濁させるので、即ち毒血増加法である。毒血は殺菌力弱く抗病力が薄弱であるから、結果としては病気を悪化させる事になるのである。
又、薬剤の注射及服用は、之亦非常に血液を溷濁させるのである。特に、注射に於ては如何なる注射と雖も、血液に入る時、血液から言へば、不純物の侵入であるから、不純物侵入に遇った血液は、其血液本来の使命である浄化力が弱まるのは当然である。浄化力が弱まる結果、病気現象が一時引込むので、宛(サナガ)ら治癒されるやうに見えるのである。之は後段、毒素療法の項に詳説してあるから、茲では略する事とするが、ともあれ、前述の如く、獣肉営養及び薬剤に由る血液溷濁が病気悪化に拍車をかけるのであるから、今日一朝罹病するや、其治癒の遅々たる事、余病の発生する等、悉此理に由るのである。実に恐るべきは誤れる医術と、それに因る無智な療法である。(S・11・4・22)(新日本医術書 昭和十一年四月十三日)

健康と弱体

病気其ものは、人体の浄化作用であるとすれば、健康であればある程浄化力は旺盛である訳である。言ひ換えれば、健康が病気を発生させるとも言えるのである。 抑々、人体の健康を大別して、四種を挙げてみる。先づ第一種に属する人から説明してみる。人体内には何人と雖も毒素の無い者は無いので、加ふるに、日々多少の毒素を追増しつつあり、それが一定量を越える時、自然浄化力に由って排泄する。其過程が病気発生である事は、最初に述べた通りである。故に、最も健康な者程浄化力が旺盛であるから、毒素が一定量に達しない時、速くも排除工作が始まるので、それは軽微の風邪、又は下痢等で済んで了ふのである。
然るに、第二種に属する健康者は、浄化力が幾分薄弱であるから、毒素が相当量に達する迄は、普通健康を保ってゐるのであるから、愈々病気発生の場合は、軽症でないのも止むを得ないのである。
次の第三種に属する人は、可成り弱体者であるので、毒素が多量に堆積しても、浄化力不足の為、病気発生迄には至らないのである。世には常に薬餌に親しみつつ重患にもならず、顔面蒼白にして、殆んど生ける屍の如き生活をしてゐる者がよくあるが、之等は大方此症状である。次に第四種に属する人であるが、之は平常頗る健康であるに不拘、急死する症状で、其致命症は殆んど脳溢血である。之は如何なる訳かといふに、毒血多量の為浄化力は薄弱であるが、各器能が健康なのである。故に毒素に対する抵抗力が強い為、健康そうに見えるのであるが、如何程抵抗力が強くとも、或一定量に達した毒血は、排除されなければならない。然るに、其毒血排除口として、脳以外の器能は強健であるから、止むなく毒血は脳へ向って排除されやふとする。それが脳溢血となるのである。此様な人は、如(モ)し脳以外の器能、例へば胃腸等が弱ければ、それへ毒血が集溜するから、常に不健康ではあるが、急死は免かれ、寿齢は幾分延長する事になる訳である。(新日本医術書 昭和十一年四月十三日)

誤れる毒素療法

抑々、浄化力の強弱は、血液の清濁に因る事は前述の通りである。故に、血液が清浄であればある程、浄化力は旺盛であって、之が真の健康体である。此状態の人は罹病はするが、何時も軽微である。それは前に述べた通り、毒素が多量にならない内、早く排除されるからである。故に、罹病はしても発熱は無いのであって、伝染病にも殆んど罹らないのである。
今日、健康であるといふ人も、第一種の人は極稀であって、普通健康者と言っても、第二種に属する人である。此第二種の人が偶々病に罹るや、薬剤の注射又は服用、滋養物と思って肉食を摂る為、血液は汚濁する。血液汚濁は浄化力が弱められるから、病気発生の勢を挫かれ、病気現象は一時引込むのである。それを治癒したと誤認するのが今日迄の医療であった故、治癒したと思った病気の再発が多いのは、此理由に寄るのである。又、近来流行する絶対安静法も、同一の理であって、それに由る新陳代謝の退化、運動不足に因る胃の衰弱等に由り、浄化力が弱る故に、病気発生が一時停止される訳である。即ち、解熱、喀血、咳嗽減少により、病気軽快と誤認するのであるが、焉(ナン)ぞ知らん、毒素還元の為による血液の汚濁、絶対安静に因る器能の衰弱と相俟って、全体的衰弱は実に著しいのであるから、大抵は死に到るのである。是等は最も医療の誤謬であって、結核患者に対する医療は、殆んど之であるから、死亡率の高いのも無理はないのである。
浄化力停止の例として、二、三を挙げてみよふ。
彼の梅毒に卓効ありとするサルバル酸であるが、之を注射する時、梅毒症状は速かに軽快するのである。宛(アタ)かも一時治癒した如くである。然し、此薬剤は毒素である砒素剤が主であるから、其毒素に依って汚濁された血液は、浄化力が弱まるからである。発明者ヱールリッヒ氏が苦心惨澹の結果、漸く六百六回目に完成したといふのは、其毒素を、生体の生命に危険なからしむる程度迄成功し得たといふ訳である。故に、此注射によっての治癒は、一時的であるといふのは、毒素療法に因る浄化力停止であるからである。
次に、喘息に於る注射であるが、之も一時的顕著な効果はあるが、治癒力は毫も無いのである。医学上での理論は兎も角、要するに一時的麻痺による毒素療法に外ならないのである。元来喘息は、横隔膜の下部に水膿が溜結するので、其排除作用としての咳嗽、喀痰、発作時の呼吸困難であるが、注射に因る薬剤麻痺に由って、浄化作用を停止さすのである。故に、之が為に一種のモヒ患者の如き中毒症を起すのは勿論、チアノーゼや呼吸困難の症状が、増大するのは実際である。又、肺結核に於る喀血の場合、止血注射をするが、これ等も浄化力停止作用であって、折角排除されなければならない毒血を、停滞さす結果となるから、実は病気治癒の妨害でしかないのである。(新日本医術書 昭和十一年四月十三日)

病気を治す薬は一つも無い

薬では、病気は治らないといふ事は、医家自身も常に痛感してゐる事であらふ。然し、唯、苦痛を緩和する効果はある。要するに、病気を弾圧するか、又は、麻痺に寄って一時苦痛の感受を軽減し得る丈の事である。薬剤とは、それ以外の何物でもないのである。然乍ら、常に私も言ふ如く、苦痛とは病気治癒工作の過程であるから、苦痛緩和はそれ丈、病気治癒を遅らす道理である。のみならず、それに、薬剤の余毒が伴ふのであるから、二重の不利を受ける訳である。実に薬剤に由る血液の汚濁は恐るべきものであって、それは、如何なる薬剤と雖も、多少の血液汚濁は免かれないのである。
血液汚濁の害としては、浄化力を衰耗させる結果、著しく活力を減退さす事である。故に、其結果として、病気に罹り易くなり、病気治癒の力が弱まるのである。それは、濁血程殺菌力が無いからである。
斯の如く、薬剤なるものは病気治癒を遅らせる事と、血液を汚濁させる害がある以上、他面、苦痛を緩和させるといふ益と比較してみる時、それは、害の方がはるかに優ってゐる事を知らねばならないのである。
然るにも不拘、近代人は無暗に薬剤を用ひたがる。それは全く薬剤の害を知らないからであるから、一日も早く此理を知悉させなければならないのである。近代人の罹病率や短命の多きと病気治癒の遅々たる事実は、少くとも之が原因である事は、争ふ余地が無いのである。
二六時中、薬餌に親しみ乍ら、之といふ病気もなく、といって健康にもならないといふ人は、大抵皆、薬剤中毒患者と言っても可いので、そういふ人は薬剤使用を廃止すれば、漸を逐ふて健康は恢復するのである。
私は大いに叫びたい。国民保健は、薬剤廃止からである……と。(S・11・4・21)(新日本医術書 昭和十一年四月十三日)

殺菌か養菌か

西洋医学唯一の治病法は殺菌であるとしてゐる。そうして、其殺菌法としては、現在薬剤と光線応用である。然乍ら、如何なる薬剤を以てしても、組織に無影響で殺菌し得る事は、到底不可能である事は瞭かであるが、他に方法が無い為、止むなく不確実と知りつつ行ってゐるのに過ぎないのである。
奏効不確実だけなら可いが、其殺菌法が、反って病菌繁殖となり、病気悪化の原因となる事は知識しないのであるから、寔に危険此上も無いのである。
然らば、それは如何なる理由であるか、茲に説明してみよふ。
今、殺菌の目的を以て薬剤の服用又は注射をするとする。夫等薬剤を吸収した血液は勿論、殺菌の目的は達し得る筈が無い。只溷濁するのみである。譬えば結核にせよ、薬剤が幾種もの消化器能を通過し、又は、血管を通過するに於て、其変化に由る殺菌力は薄弱になるのは当然であるから、患部へ作用する頃は、如何程減退してゐるか測られないであらふ。此点試験管内で直接殺菌する事とは、比較にならないであらふ。そうして、時日を経るに従ひ、血液の不断浄化によって薬剤は毒素となって、血液から遊離する事になるのである。それが時の経過によって、終に膿汁化し、それが凡ゆる病原となるのである。
然し、そればかりではない。異物に由って溷濁せる血液は頗る危険である。何となれば、其殺菌力が洵に弱いからである。言い換えれば、濁血は病菌の繁殖力に都合が好いからである。斯文の最初に述べた薬剤は病気悪化の原因となるといふ事は、以上の如くである。(新日本医術書 昭和十一年四月十三日)

物理療法の誤謬

物理療法は近来種類も増加し、医家は治療補助として、大いに推奨してゐるのであるが、此効果に就て、私の観る所を述べてみよふ。
物理療法中、近来最も流行する光線療法から解剖してみるに、先づ、ラヂュウムを第一とし、レントゲン、紫外線、太陽燈等であるが、是等の療法の効果は、実は一利一害である。何となれば、先づ爰に或病気を治療せんとするに、病気現象は汚血又は膿汁の溜積であるが、是等へ向って光線放射をするに於て、確かに軽快に赴く如く見えるのである。処が、之は実は病気が軽快したのではなく、容積が縮小したまでである。判り易く言へば、病気の容積を縮小して、固結せしめたのである。即ち、病気の容積を十とすれば、それが一乃至三位に縮小せしむるのである故に、容積のみから言えば、確かに七以上は減少したので、それ丈軽快に赴いたのは事実であるが、何ぞ知らん、実質が七丈減少したのではなくて、実は十が三以下に縮小固結されたのである。一銭銅貨五十個を五十銭銀貨一枚に換えた様なものである。私が実験上、斯の如き患部に対し、指頭探査の際、石の如く触れるのがそれであって、其場合、一個又は数個の小石状の固結を発見するのである。斯様になった石状固結は、溶解するに非常に困難を感じ、従而、時日を要するのである。故に、設(モ)し此患者が光線療法を受けなかったとしたら、容積は多いが固結してないから、容易に治癒さるるのである。此故に、一時的軽減には相当効果はあるが、全治さす上に於ては、反って大いに障害となるのである。
電気療法の効果も、之に酷似してゐるので説明を省く事とする。(新日本医術書 昭和十一年四月十三日)

手術

西洋医学中に於て、最も効果ありとする外科手術に就て詳説してみよふ。専門家も一般世人も、手術に依る療法は、病根を芟除(サンジョ)するが故に、其効果は適確であると思ってをるのであるが、之は決して完全ではない。実に拙劣極まる療法であって、人体器能をメスを以て自由に切開し、患者に苦痛を与え、而も予後不具にも等しい痕跡を留め、尚且危険さへ伴ふといふに到っては、洵に以て野蛮極まる方法であって、之を進歩せる如く思ふとは、寔に憐むべきである。然し現在之以上の治療法が発見されないとすれば、亦止むを得ないが、何ぞ知らん、我観音力療法は、手術すべき症状も、短時日に容易に全治し、而も、手術による治癒は、往々失敗の憂と再発の危険あるも、観音力療法による全治は真の全治であって、再発の憂は決して無いのである。
一例を挙ぐれば、盲腸炎であるが、此病に対して医師は、廿四時間以内に手術をせざれば危険なりとして、手術するのであるが、之はそれ以上の良法の無い為、洵に止むを得ないのであるが、此病の手術後、往々結果の良好でない事がある。それは、傷口の容易に治癒せざる事二、三ケ月以上を要する者、稀には二、三年を経るも、尚絶えず傷口から膿の滲出する者さへあり、又、一旦治癒するも其隣接部に化膿塊を生じ、発熱痛苦を伴ふ事盲腸炎と同一の症状を呈するので、此場合医師は、再手術を奨めるのであるが、実際上再三の手術が患者の疲労を増し、遂に生命に係はるまでの危険さへあるのである。而も、斯の如き不結果なる治療に対して、数ケ月又は、数年の時日と、数百金乃至数千金に及ぶ多額の費用を要するに於て、余りに無力なる西洋医学と思ふのである。それに引代え、我観音力療法によれば、一回乃至三回にて全治し、而も再発の憂なく、費用の如きは、拾円以内にて足りるといふ、実に比較にならぬ程の違ひさである。
次に、腎孟炎に対する手術も、盲腸炎と大同小異であるから略すが、彼の医学上最も治癒困難とされる各種の癌腫も、手術療法に於ては、結果不良が多いのであるが、観音力療法によれば、凡ての癌腫の治病率が、九十パーセンテージの実績を挙げてゐるのである。子宮癌の如きは、二、三回乃至六、七回の施術によって癌腫は解溶し、下痢となって排泄し、何等痕跡を止めない程に全治するのである。
其他、扁桃腺炎、中耳炎、淋巴腺炎は二、三回乃至五、六回、痔瘻、横痃等も、一週間乃至三週間にて、重症も全治するのである。
瘍疔及び之に類する腫物に対しての手術は最も不可にして、是等は自然療法が最も安全確実である。忌憚なく言へば、是等の病にて生命を失ふに到る原因は、大方手術の為といっても過言ではないので、之は医家も気付かねばならない筈である。何となれば、一切の腫物は血液中に在る毒素が、自然浄化作用の為膿化し、其膿が体外に排泄さるる現象であるから、自然に放置すれば、熟する丈熟して、最後に破れた皮膚面から全部排膿されて、痕跡も無く治癒するのであるにも不拘、医師は未だ熟せざるに切開をするを以て、充分患部に膿が集溜してゐないから、幾日も排膿の工作を続けなければならないのである。自然療法に於ては、排膿期は、患部の内面は、既に新しい肉が形成されてゐるから、排膿するや速かに、常態に治癒するのである。故に手術するよりも、自然療法の方が、短時日に全治するのである。此見易き事実さへ不明なる西洋医学は、寔に不可解とさへ思ふのである。而も此際、唯一の方法としてゐる氷冷法は、非常な誤りである。何となれば、氷冷法を行ふや、患部への膿の集溜は停止されるから治癒は妨害され、それが為に全治は非常に遅延するのである。(新日本医術書 昭和十一年四月十三日)

灸治法

灸治法には、古来からある艾灸(モグサキュウ)と、近来相当行はれてゐる温灸との二種であるが、是等は、薬剤療法よりは確かに効果はあるのであるが、之も体的が主であるから、完全療法ではなく、一時的の場合が多いのである。且つ人間は造化神が造ったものの中でも、最優秀品である。其皮膚の色沢、滑らかな肌、隆起曲線の美しさに見るも、到底、他の動物とは比較にならないのである。特に、婦人の玉の肌と曲線美に到っては、美の極致であるとも言って可い。彼の西洋画家が、裸婦を以て美の極致とするのは、全く其通りである。故に、人間としては神から与へられたる所の皮膚は、弥が上にも美しく丹精を施すのが、神に対する報恩であり、至情でなくてはならない。そうして此美を、一年でも一月でも長く保持すべく、心掛くるのが本当である。 然るに何ぞや、灸の如きものを据(ス)える結果、点々として火傷である醜き痕跡止め、一生涯一種の不具者になると言っても可いのである。斯の如く、神の芸術品に対しての冒涜の罪は、必ずや 何等かの刑罰を受けなければならないのは当然であるから、仮令、治病の効果は相当ありとするも、それ以上の苦悩の因を作るのであるから、到底賛成し難いのである。(新日本医術書 昭和十一年四月十三日)

病気に対する手当は有効乎

病気に対する手当としては、各種の方法がある。先づ、氷冷法、罨法、吸入、湿布、芥子泥湿布等である。それ等を簡単に説明してみる。
一、氷冷法は最も不可である。高熱と雖も氷冷しないに限る。何となれば、患部を氷 冷する時は、自然治癒作用は、停止されて了ふからである。一例を挙ぐれば、中耳 炎の場合、中耳炎は膿汁が排泄されよふとして、中耳内に侵出し、それより外部に 出でんとする。其為の痛みと高熱であるから、此場合患部を氷冷すれば、膿は中耳 に向はずして、方向転換をするのである。それは後脳へ移行し、脳膜炎を起すので ある。中耳炎丈で済むべきを、脳膜炎を併発させるといふ、それは氷冷するからで ある。
又、盲腸炎を氷冷するとする。氷冷しなければ、高熱に依て膿溜は解溶され、便 となって排泄し、治癒されるのであるが、氷冷の為に其作用は停止されるから、治 癒が非常に拗れるのである。それが為に手術を要する様な結果を、招来する事にな るのである。
他の疾患に於ても、大同小異であるから略する事とするが、唯、高熱によって頭 痛の場合、水枕位は差支えないのである。
一、罨法
凡ゆる病気に対し、温めるといふ事は、多少の効果は必ずあるもので、従而、害 はないのである。腫物、歯痛等に応用すれば治癒を早める事は確かである。それ は、膿溜を解溶すべき、発熱に加えての人工熱であるから、自然治癒を援助する訳 である。
一、吸入
之は、治療上効果もなく、さりとて害も無いのであるが、手数を要するだけ無駄 であるから、先づ応用しない方が可いであらふ。特に小児に於てそうである。一、湿布
之は反って害があるのである。前述の如く、治療上温めるのはよく、冷すのは悪 いのであるから、縦令、熱湯湿布をするとも、暖い時間より冷たい時間が多いから 不可である。且つ、薬剤を使用するに於ては、反って害があるのである。何となれ ば、薬剤が皮膚から滲透すればするだけ、それは膿汁の如き、不純物と化するから である。
一、芥子泥湿布
之は、急場の場合、多少の効果はあるものであるから、我療法を知らない人に は、応用しても可いのである。(新日本医術書 昭和十一年四月十三日)

観音力療病は何故治る乎

古来、病気の原因に就ては、宗教上からも医学上からも種々論議されて、今以て尽くる所がないのである。宗教では殆んどが罪穢説であり、医学では大体黴菌説である。然し、医学の黴菌説は、実際から言って疑問の余地が大いに在るのである。何となれば、官民協力し、彼程撲滅に努力しつつある彼の肺結核にしろ、所期の成績を挙げ得ないといふ事は、病原其物は黴菌以外にあるからである。然し、未だ発見されてゐないばかりである。故に、如何程厳重な消毒を行ふと雖も、罹病する者は罹病し、別段、黴菌に介意しなくとも、罹病しないものはしないといふ例は、何を暗示してゐるのであらふか。又、流行性風邪は、殆んど全部の人間が侵されてゐると言って可い位で、此場合如何にマスクをかけ、含嗽を厳重にする者と雖も、斉(ヒト)しく罹病する所を見れば、黴菌罹病論は、病原の一部的説明ではあるが、断じて病原の全体を掴んだとは言えないのである。
それに引換え、宗教の罪穢説は、病原の本体を喝破したるもので、吾人と雖も之に一点の異議は無いのである。然るとせば問題は、其罪穢を如何に払拭し、解消するかと言ふ事であって、之に依て肺結核の撲滅も、其他の伝染病もあらゆる病気の根絶も可能である事は理論と経験によって断言し得るのである。
然らば、其罪穢を解消する方法としては、如何なるものでありや、と言えば、唯一つより有り得ないので、それは、神の御赦しのみである。然し、一口に神と言ふが、神にも八百万あって、それぞれの役目を、分担管掌され給ふのである。そうして、罪穢を赦し給ふ権能を有ち給ふ神は、天地間、唯一柱より在さないのである。それは、宇宙の支配者たる主の神にして、其主の神の表現神で被在らるるのが、畏くも天照皇大神様で被在らるるのである。
天照皇大神様は、独一真神にして、最尊最貴の御神格に被在らるるを以て、直接、人間への御救ひの業は不可能の御事が神律なのである。何となれば、人民とは余りに隔絶し給ふが故である。畏多き例にはあれど、一天万乗の天皇が、御親(ミズカ)ら人民に対して玉手を染め給ふの、不可能の御事と等しいのである。是に於てか、洽く、世界万民を救はせ給ふ御心の現れとして、救ひの執行者を遣はされ給ふたのである。それが観音、阿彌陀、釈迦、基督、マホメット、其他の各聖者達である。
然るに、それ等聖者達が、今日迄主神より委任される場合、其時代と其地方とによって限定された事であって、それは主神の御意図であるから、止むを得なかった事である。
茲で吾々は、現代を凝視する必要がある。それは、一切の機構が世界的となった事である。然るに釈迦も、基督も、マホメットも、凡ゆる聖者の出現した時代は、未だ一切が世界的までには、到達してゐなかった事である。故に、彼等の教や努力は、如何に価値があったとしても、それは、地方的であり、暫定的でもあった事は、止むを得なかったのである。故に元々、地方的、暫定的必要から生れた宗教であるとしたら、今日の如き、世界的の時代を救ふとしても、それは不可能である。力が足りないからである。恰も、一国の必要に由て生れた政治形体を、全世界に行ふとしても、出来得ないと同じ訳である。譬えば、皇道は露西亜人には解せまい。フワッショは、亜米利加には適すまい。共産主義は日本には行ひ得ないやうなものである。
此事に着眼の出来る人は、物象を真に観透す能力者である。それ故に、一切が世界的に迄なった今日の時代としては、どうしても世界的救済力と、其宗教が発生されなければならない事である。唯然し、其時と所とが残された問題なのである。
茲で先づ、其時から検討してみよふ。世界的救済がタッタ今出現したとして、時期は早過ぎるであらふ乎、といふ事である。それに対して、否、と言ふ人は有るまい。何故なれば、現実としての世界人類の苦悩の喘ぎは、最早一日も忽せには出来ない現状である。今にして世界的救済が生れなければ、人類の前途はどうなりゆくであらふ。凡ゆる不健康な人間と不健全な精神と宗教の無力と思想の混乱を見るがいい。又、欧羅巴と亜細亜の動向を認識するがいい。それは、有史以来類例の無い凄惨時代に向ひつつあるではないか。実に、之こそ所謂世界終末の姿ではなからふか。そうして、それを喰止める力、其力の存在は何処にも見当らないのである。是等に由ってみるも、最早世界的宗教が発生し、世界的救済が行はれなければならない処の、時の条件は充分に具ってゐると見るのが至当である。実に最早遅疑を許さない迄に、時は迫ってゐるのである。
次に、所は、何処であらふ乎。之は即座に日本国であると言えよふ。それは、古典や聖者の予言を藉りなくとも明かである。何となれば、東洋の精神文化と西洋の物質文化とを余す所なく吸収し、咀嚼し、万世一系の天皇によって良く統治され、而も、国際正義を遵守し、常に平和と道義の為、努力を続けてゐる国、それは日本を措いて他には類型が無い事である。此点から観ても、所は日本である事に何人も異議は無いであらふ。
故に、時は今、所は日本国に、世界的救済と宗教が生れたとしても何等不思議は無い筈である。而して今や顕現すべき大宗教と人類救済の委任者は、一体無形の神であらふ乎、否仏であらふ乎、又は、有形な人であらふ乎、といふ事である。
無形の神や、偶像的仏体では、此大事業は到底成し得る筈がない。何となれば、今日迄の救済はそれであったが為に、終に今日の如き地獄的世相を実現して、どうする事も出来ない現状ではないか。故に、真の救済力を発揮するには、人としての機関でなければ到底出来得ない事は勿論である。そうして、其機関として選まれたのが、不肖、仁斎の肉体である事である。私は自称救世主の言葉は嫌であるが、右の如く説明するより致方がないのである。
此意味に由って、世界人類を不幸と苦悩の檻から、解放させる時が来たのである。随而、悪魔の意図から出た処の不正堕落や、暗黒思想、極端に歪められた宗教、狂ひ切った人間の行為等、夫等一切の罪悪の根原を打ち断り、本然の正しさに還さなければならない。と共に過去数千年間滞積の罪穢に由て、最早動く事の出来ない万般の行詰りの原因である、一切の汚濁を根本から浄めて凡ゆる不幸を除去しなければならないのである。
斯の如く、救済を要する人類の数限りない苦悩の中で、何と言っても病苦からの解放こそ、最重要なる救ひは他には無いであらふ事である。それが即ち、観音力療病法となって、先づ現はれたのであるから、他の如何なる療法も、較べる事の出来ない程の効果と力があるのは当然である。
罪穢を赦し給ふ権能を行使さるる御仏こそ、実に慈悲の権化とも言ふべき大聖観世音菩薩である。そうして、其救世的活動を仁斎の肉体を通して行はせられるのであるから、真の病原である罪穢の払拭されて了ふ理由は、寔に瞭かな事である。其為にこそ、仁斎の肉体から不断に放射する霊光であって、それに由て一切の曇は解消されて了ふのである。(S・11・2・17)(新日本医術書 昭和十一年四月十三日)

弱体児童の防止法

一ケ年百万人を突破する結核患者と、拾二万人の死亡者を出しつつある肺結核に就て、官民共に汲々たるに係はらず、所期の効果を挙げ得ないばかりか、寧ろ増加の傾向さへあるといふに至っては、国家の前途に対し、実に寒心の外はないのである。最近の東京府社会局の調査によれば、都会小学児童の四割は、結核感染者であるといひ、又、某女学校の生徒を診査した所が、其二十何パーセントが微熱保有者であるといふのである。勿論、微熱保有者は、結核が発病してゐるからであって、未だ微熱迄に至らない潜伏状態にある者も、仮に其同数と見て、先づ五十パーセントは結核患者と見て差支えないであらふし、結核の最も発病し易いのは二拾歳前後であるに於て、女学校卒業後が更に危険である訳である。
斯の如き事実から類推するに於て、次代の国民の半数以上は結核感染者になる訳であるから、之は如何なる事よりも実に国家的最大の問題である。寔に健康の大非常時である。
然るに之が解決策として、政府が今現に行ひつつある方法は、果して適切有効であらふ乎。吾人は遺憾乍ら否と言はざるを得ないのである。それは、当局に罪が有るのではない。現代医学で喰止める力よりも、病気蔓延の勢の方が優ってゐるからである。そうして、其方策としては、病菌感染予防の消極的方法のみを唯一としてゐる事である。之等は吾人の毎度言ふ通り、今日の社会生活に於て病菌に侵されまいとする事は絶対不可能である。其余りに病菌感染の機会が多過ぎるからである。
故に、病菌に侵されない程の健康肉体であるのが理想的であり、積極的防止である事は勿論であって、近来小学校などでは、児童に肝油や牛乳を飲ませ、又、レントゲンや太陽燈等を設備するといふ事を聞くが、夫等は洵に姑息な膏薬張的方法でしかないのである。
弱体児童といふ事は、結核保菌者といふ事であり、所謂、腺病質児童である。是等の児童が四割も有っては、残数が感染しまいとするのは困難であらふ。と言って、結核児童のみの学校を造るとすれば、小学校の四割が結核学校になって了ふから、実際上由々しき問題であらふ。
此困難なる問題に対して、其根本解決策を吾人は有してゐる事である。それを言ふ前に、如何にして斯くも大多数の弱体児童が続出するかといふ、其原因を検討するのが順序である。それは、日本人と西洋人の体質を同一であるとする事の誤謬が抑々の原因である。それは、牛乳を多用する事と、妊婦の肉食及び姙婦と生児の薬剤服用である。何となれば、それは、薬剤に病気治癒の性能があるとすれば、其性能こそは実は毒素である。漢方医家のいふ薬剤で病気を治癒するといふ事は、実は毒を以て毒を制するのであるとは、実に至言である。之が為に、薬剤の余毒と牛乳と獣肉に含有する獣血の毒素分とが、不知不識血液を溷濁さして了ふ事である。それが人体の自然浄化作用によって残渣汚血となり、汚血の再浄化が膿汁であるから、それ等毒素が頸部附近、即ち耳下腺、淋巴腺、扁桃腺及び肺尖附近に溜結するのである。吾人が幾千人に上る弱体児童を診査するに於て、其悉くが右の症状を呈するのである。読者よ、試みに夫等児童の頸部附近を指頭で探査するに於て、必ず大中小のグリグリを発見するであらふ。そうして、指頭で圧すれば、可成りの痛みを訴えるのである。
今一つの原因として、種痘によって陰性化して、肉体に残存せる相当量の天然痘毒素である。之が又、他の毒素と協同作用によって、援助するといふ一事である。 右述べた如き、二大原因が弱体児童たらしめるのであるから、此二大原因へ対して、それを軽減する消極的手段と、及び其毒素の溜結を消滅すべき積極的手段との二つが此問題を解決し得るといふ事を認識しなければならない。
其方法としては、消極的には、姙娠中肉食を避ける事と、出産後、母乳不足の場合は牛乳のみでなく、牛乳と重湯(米搗米)半々位が最も良いのであって、之は私が多年の実験上、良成績を挙げてゐるのである。又、附け加えたい事は、獣肉多食の姙婦は流産と乳不足の多い事も否めない事実である。唯然し、陰性天然痘毒素は、他の方法によって除去するより外に致方ないのである。
次に、積極的方法としては、私が創始した指圧浄化療法である。之によれば、短時日にして解溶消滅するのである。其結果として、溜結は消滅し、微熱は去り、食欲は増進し、頬は紅潮を呈し、体重を増し、元気溌刺として、全く見違える程の健康児童となるのである。甚だ自画自讃ではあるが、今日、弱体児童をして健康児童に、而も短期に転換せしめる方法は、右の療法以外、他には絶対無いであらふ事を断言するのである。(新日本医術書 昭和十一年四月十三日)

内臓の三位一体と心臓の重要性

内臓の三位一体とは心臓、肺臓、胃を指して謂ふのである。此機関こそ全内臓中の基本であると言っても可いので、最重要な役目を果してゐるのである。
今日迄の凡ゆる医術は、胃と肺臓に関しては相当研究もされ、其活動へ対しての認識も稍々成ってはゐるが、独り心臓に至っては全く不明であると言っても可い状態である。然るに実際は、此三臓器中、心臓が最重要な機関である。医家が死の直接原因を、心臓麻痺といふにみても識るべきである。斯様に最重要である心臓の器能活動が判明しなくては、真の治療は確立される筈がないのである。
現代医学は、肺臓の呼吸運動に依って血液を浄化し、それを心臓に送ると言ひ、血液浄化の法として、清澄なる空気を呼吸せしめんとし、大いに転地療法を奨めるのである。又、飲食物を重要視して、営養と消化の研究には、最大努力を払ってゐるのである。斯様に、肺と胃に対しての、器能活動の研究には、絶えず努力しつつあるに係はらず、独り心臓に対しては、あまり研究をしないやうである。之は寔に不思議であって、全く心臓なるものの器能の本体が、把握出来ないと諦めた結果であらふか。私の研究によれば、此三臓器中心臓の其活動こそ、人間の健康の基本であると言っても可いので、此心臓の不明である限り、治療法と健康法は決して解決されない事を、私は断言するのである。
然らば、最重要たる心臓の活動の本質は何であるか、鼓動は何であるかを、詳説してみやふ。肺臓が一分間何十といふ呼吸運動をしてゐるのは、今日の医学で説明が付くとしても、心臓の鼓動に就ては何の為であるかを説明し得ないのである。例えば、肺患者が転地して、新鮮な空気を吸ひ、胃には充分なる営養を摂取しても、容易に治らないのは何の為であるか。又、海岸居住者にして肺結核に罹病する者が尠なからずあるといふ事は、如何なる理由に由るのであるか。之等に就ても現代医学は、未だ説明が出来ないのである。之は全く心臓の器能が不明であるからである。 此事の説明に対しては最初に、此地球の現象界の組織から説いてゆかねばならない。我々が住んでゐる此地上の構成は何であるかと言ふと、それは、三つの元素界から成立ってゐる。一、霊界、二、空気の世界、三、物質世界である。然るに、今日迄の発見では、空気の世界と、物質界の二つのみであって、最重要なる霊界は未だ発見されてゐないのである。此三段の組織を称して、仏語では、三千世界、又は三界と謂ってゐるのである。
此三段階の元素を説明してみれば、第一の霊界とは、空気より一層稀薄にして、今日の科学では、之を測定すべき方法がない霊素ともいふべきものである。然し、最近の科学に於て発見せる電子、陽子、中性子、核等の研究は、此霊界に一歩突入したのであるから、何れは霊界の実在を認識する迄に到るであらふ事は、信じ得らるるのである。唯私の説は、科学よりも一歩先へ前進してゐるだけである。
而して、霊界は火素を主とする太陽霊であり、空気界は水素を主とする太陰霊であり、物質界は土素を主とする物質原素である。此関係が認識出来得れば心、肺、胃の器能も判明さるるのである。
即ち、心臓は火素を即ち霊気を呼吸しつつあるので、それが鼓動である。肺臓は水素即ち空気を吸収しつつあるので、それが呼吸である。胃は土素から成る食物を吸収しつつあるので、それが伸縮運動である。肺と胃の活動は、説明を略して、心臓を主として説明をしてみよふ。
本来血液は、霊の物質化であるといふ事は既に述べてある通りで、此人体生命のヱネルギーである血液を、不断に活動させつつ、猶浄化の工作をなす其力こそ火素である。そうして心臓は絶えず此火素、一名霊素を吸収しつつあるが、空気にも清濁ある如く、此霊界にも大いにそれがあるのである。故に、此霊界に於ての清浄といふ所は、霊素が充ちてゐるのであり、それは、光と熱との量積が、多分に在るといふ事である。然るに此霊素が稀薄である所は、反対に汚素が多分に在るのである。汚素とは一種の霊的曇である。別言すれば、霊界に於て、霊素の濃度なる所は、晴天の如き明るさを感じ、霊素の稀薄なる所は、曇り日の如き陰欝を感ずるものである。然らば、霊素、汚素の多少は如何なる原因かといふと、霊素の多い条件としては、正しき神霊を奉斎する事であり、又善に属する行為と言葉に由るのであって、汚素の原因としては、右と反対に邪神や狐狸の霊を奉斎し、又は、悪に属する行為と言葉を発するが故である。故に、此理に由って心臓の活動を旺盛にし、其結果たる血液を浄化せんと欲せば、前者の方法を実行すれば良いのであって、そうすればする程、健康を増し、不幸は解決するのである。然るに、現在大部分の宗教は、光と熱を霊射する正神が少なく、大抵は暗黒に相応する邪神が多いのと、而も、人間の行為と言葉が、悪に属する方が多いから、霊界は曇るばかりであって、全く無明地獄である。従而、此所に棲息する人間は、此曇れる汚素を常に心臓が吸収するから心臓は弱り、心臓が弱るから、愛の情動が稀薄になるのである。現代の人間に愛が乏しく、滔々として稀薄になるのは、実に此理に由るからである。
然し乍ら、此暗黒界に愈々大いなる光と熱の、無限の供給者たる光明如来、即ち観世音菩薩が救世之光となって出現されたのであるから、此御神体を奉斎する時、無量に其火素、即ち、光と熱を放射され給ふので、其家の霊界は、漸次曇が消滅して明るくなるのである。其結果、其所に住する人間の心臓は、火素の潤沢に由て活動力が旺盛になるから、愛が湧起するのである。其結果は争が無くなり、血液も浄化するから、健康となるのである。右の如く、愛と健康を以て、業務に従事する以上、繁盛と栄達は当然の帰結であって貧は無くなる。病貧争絶無の根原は、之に依ても瞭らかであらふ。
茲で、今一つの基本的解説をする必要がある。それは、火と水との性能本質である。元来、火は水に依て燃え、水は火に依て流動するのである。設(モ)し、火を起すべき燃焼物に、全然水が無かったら、火は燃ゆる時間がなく、一瞬に爆発して了ふ。又、水に火の影響が全然無ければ、凍結の儘である。火の熱に因て解溶するから、流動するのであって、尚進んで蒸気となり、動力発生となるのである。 本来、肺臓は水の性能である。空気は、酸素、窒素等の原素はあるが、実は、水素が主である。故に、肺臓は主として空気、即ち水素吸収機関であるから、冷性であり、理性の発電所である。それと反対に、心臓は、火の性能が本質であるから、神霊界の火素(霊素)を吸収しつつあり、熱性であるから、愛と感情の根源である。故に、肺臓の水性を活動させんとするには、心臓の活動に由って、熱素を充分供給しなくてはならない。故に、肺臓の活動が鈍いのは、心臓の愛の熱が少い為であるから、肺患治療に対しては、心臓へ火素を、より吸収させる事である。心臓へ火素を潤沢に与えんとすれば、其住する霊界を清浄にするより外なく、それは、正しき神霊を奉斎する一事である。
此理に由って、心臓を強め、心臓病を治癒するには、清浄なる空気を肺臓に与ふれば可いので、そうすれば肺臓の水性が活動するから、心臓の火性を揺り動かす事によって、心臓は健康になるのである。
故に、近来肺患者の激増の原因は、各人の心臓の衰弱が原因である。それは、二つの理由がある。一は前述の霊界の曇の濃度、即ち、邪神狐狸の奉斎と、悪の行為言葉に由る影響の為と、今一つは西洋思想である。
元来、西洋思想は、科学を基本として成った関係上、理論偏重である。その結果として冷性になり、愛の情動が稀薄になるからである。肺患者は理性の勝った者が多いので、薄情になりがちである。利己的であって、利他愛が少い傾向を帯びてゐるのは、争えない事実である。
又、心臓患者は此反対であって、感情に走り易く、激怒し易いのであるが、近来、実際の心臓病患者は、洵に少いのである。(新日本医術書 昭和十一年四月十三日)

宗教的治病に於る誤謬

世間往々、信仰によって病気治しをする場合、非常に誤られ易い重大事がある。そうしてそれを誰もが気が付かないで、今日に至ってゐる事である。それは何であるかといふと、信仰で治さうと思ひつつ、実は自己の力に頼りつつある其事である。勿論、信仰で治さうとする以上、熱心であればある程、効果はある筈であって、其目標である神仏に祈願をこむるのであるが、此場合、実は自分自身の精神療法をしてゐる事が多いのである。何となれば、真の意味に於る神仏は、人間が水を浴び、お百度を踏み、数時間経文を誦み柏子木等を敲(タタ)き、又は貧困に陥ひる迄財産を提供させる等によって、神徳仏果を享けるといふ如きは、実に謬れるの甚しいものである。
例えて謂えば、神仏の御心は、親の心と同じやうなものであり、信徒は子のやうなものである。子が親に向って、或欲求をする場合、見るも悲惨な苦行は、親として決して快いものではない。故に、其願求が正当であるならば、親は欣んで、否、吾子を喜ばせんが為、難行苦行などさせずに、少しでも多く与へたいのが真情である。随而、苦行を求める信仰は、其目標である神は、正神である筈がないから、斯ういふ信仰は悉(ミナ)、迷信であるといって可いのである。
然し、子が如何に親の恩恵を享けやふとしても、其子が常に我儘勝手な事をし、親を顧みずして、只親から吾が欲しいものだけを与えて貰はふとしても駄目である。矢張り平常から、親を思ひ、親に尽し、親の言ふ事を肯き、親の喜ぶ行為を重ねなければならないのである。世には御利益ばかりを欲しがり、絶大な御利益を受けながら、それに対し感謝報恩を忘るる者があるが、是等は実に親不孝者で、終に親から見放されて了ふのは致し方ないのである。然し、斯ういふ輩に限って、自己の非を悟らないで親を怨むといふ事になり、自ら滅びゆくといふ哀れな結果になるものである。 故に、人は神仏に対っては、よく神仏の御心を悟り、人として無理からぬ正しい願求を、恭々しく淡白になし、又、出来る丈の報恩感謝をするのが本当である。
そうして、感謝報恩とは、一人でも多くを救ふ事である。といって人間には、人間を救ふ力は到底有る訳がないから、自分が救はれた神仏へ導くより外は無いのである。そうして、人を導く其徳に由って、それだけ自分も救はれるのである。又、人を導く暇のない人などは、それに換るに、金銭物品を奉る事も結構である。
次に病気である場合、それを治すのに病気が無いと思へとか、又は思念するとか、難行苦行するとかいふのは、皆自力で治すのであって、神仏の力徳では全然無いのである。神仏の力徳が顕著であるならば、人間が苦しい思ひをして有るものを無いと思ふやうな錯覚的苦悩などする必要がない。又、難行苦行なども、自己修養には可いが、それ等の信仰は悉、其神仏に力徳が欠けてゐるので、人間力を加へさして、さも神仏が御利益を与えたやうに思はせるのであって、一種の誤魔化しである。世間、斯ういふ信仰は余りにも多いのであるが、実は悉インチキである。然し、斯ういふインチキ的宗教は、来るべき神の清算に遇えば、忽ち崩壊するのは必然であるから、其神仏の教祖や役員信徒等は一時も早く其非を覚り、本当の道に進まなければ洵に危険である事を警告したいのである。(S・11・4・8)(新日本医術書 昭和十一年四月十三日)

健康協会会員の天寿は九拾歳を越えん

抑々日本人本来の天寿は幾つかと言えば、百弐拾歳である。之は如何なる根拠から出たかと言ふ事を解り易く説いてみる。人間は天地の縮図であり、小宇宙である。又、日本国は地球の雛型になってゐるのであり、日本の気候は、四季が洵に好く調ってゐて、それが人生の経路によく当嵌まるのである。即ち、一年を十二ケ月に分ければ、春夏秋冬は三月宛である。それを人間に当嵌めて試ると、一歳より三拾歳迄が春分となり、三拾一歳より六拾歳迄が夏分となり、六拾一歳より九拾歳迄が秋分となり、九拾一歳より百弐拾歳迄が冬分となるのである。(凡て陰暦に依る。)
この四季の状態は、洵に人生行路の起伏をよく現はしてゐるのである。先づ、人間呱々の声を挙げて出生するや、芽出度いとして大いに祝ふのである。此時は恰度正月元旦、新年の誕生を寿ぐのと同じである。そうして漸くそれぞれの学校を卒え、丁年ともなれば年頃になって春になると人生の花が咲く。男は世に出て花を咲かさんとし女も又、春風に遇って花の蕾が綻(ホコロ)びやふとする状である。それで初経の事を花が開くといふ。それが、三拾を越えて夏分に入るや、益々、花の盛りとなるのである。花によっては早く咲く花と、遅く咲く花とあるが、之も人間に好く当嵌まるのである。早く成功する男子もあり、遅く結婚する女子もある如なものである。そうして、四拾を越え、五拾を越えて、男子は愈々信用も得、活動の旺盛期に入り、女は幾人かの子女を得て一家繁り栄ゆる状は、恰度四、五月頃から、花は散っても葉や枝が弥々茂るのと同じである。そうして、六十を越えるに及んで、実りの時期となり、刈込になるのである。若い頃から、若心惨澹した事業が漸く実を結ばんとし、女は又、苦労して育てた子供等が漸く一人前となって、親の為役に立つ頃となるのである。それが恰度、植付の頃から、種々の手を竭(ツク)して、稔らせた稲の収穫期の様なものである。其秋の収穫も過ぎて、愈々九拾を越ゆれば冬季に入るので、それからは、功成り名遂げて静かに余生を送る。それが人生真の順序である。
故に、百二拾歳迄生きるのが本当であって、神武紀元千年頃迄はそれに近かったのである。然るに、人間が罪穢を構成した事と、支那から漢方医学が渡来し、人間が薬剤を服用する様になってから、追々、寿齢が短縮したのである。故に、今日の如く日本人の平均寿命が、六十歳などとは古人の夢想だもしなかった処で、近代人は寔に不幸なものである。之全く右の如き過誤に由る結果なのである。故に身体に毒がなければ百二十まで必ず生きられる。
茲に、天の時来って、観音力に依る無医薬療法が創始されたのであるから、これからは漸次人間の罪穢は払拭され、体内に残存せる薬毒が減少してゆくので、復び寿齢は延びてゆくのである。
それに就ては、本会員と雖も、祖先以来の不浄が体内に残ってゐる関係上、理想の百二十歳は難しいであらふが、九拾歳以上は必ず生きられるのである。此事に依てみても、如何に本会員が恵まれてゐるかが判るのである。(S・11・3・6)(新日本医術書昭和十一年四月十三日)

霊と血と正しき信仰

抑々、人体の構成原素を大別すれば二種の原素から成立ってゐる。それは、精霊と肉体とである。然るに、今日迄の科学は、肉体あるを知って精霊あるを知らなかったから、半分だけの認識であったのである。それは、科学が進歩したと謂っても、精霊の実在を測定なし得る迄に到らなかった為である。而して、再三述べた如く、病気の根源は、精霊に最初発生するのであって、其順序として精霊の曇りが血液の汚濁となり、血液の汚濁が肉体への病気となるのであるから、血液なるものは、実は精霊の物質化であるとも言へるのである。其證拠には、人間の死後忽ちにして血液は凝結するので、血液の量積は何百分の一に減少する訳である。即ち、血液を全身的に流転活動させつつあった其ヱネルギーの脱出である。然らば、其ヱネルギーは何である乎。其Xこそ精霊其物である。故に、死は精霊の脱出である。謂はば、最早使用に堪えなくなった肉体を精霊は捨て去って何処へか行ったのである。別な意味から言えば、精霊を繋ぎとめるとしては、余りに肉体が破損し過ぎて了ったのである。宛かも壁は落ち、軒は傾き、雨露を凌げなくなったから、止むを得ず、其破家を捨てて永年住んでゐた住居人が引越して行った如なものである。
故に、人間の健康上最も緊要なのは清浄なる血液である。然るに、此血液を浄化する方法は、今日迄絶対に発見されてゐなかったのである。薬剤も、光線も、電気も、此力は無いのである。それは、血液なるものは精霊の物質化である以上、血液を浄めんとすれば、どうしても先づ精霊を浄めるのが先である。然し、精霊の実在を知らなかった科学は、血液浄化法を発見されなかった事は当然な訳である。然し、此隠れてゐる力である精霊なるものは、肉体以外の全部ではない。実は、精霊は外殻であって、其中に心なるものがあり、其又中心に魂なるものがあるのであって、魂こそ実に人間五体の支配者であり、主である。そして、此魂なるものこそ、神から付与せられたる最貴重なるもので、実に良心の根源である。故に、此魂の発動が意思となって心を動かし、其心が精霊を動かし、精霊が肉体を動かす順序である以上、魂から出発した良心の命ずる儘に動けば、不正はないから、決して失敗はないのであるが、茲に厄介なのは、精霊には種々の動物霊が憑依する事である。此様な事を言えば、現代人は嗤ふであらふが、私は嗤ふ人達を嗤ひ度いのである。何となれば、事実は儼然として否定すべくもないからである。其動物霊とは、狐狸、天狗、蛇、犬、猫、馬、蛙、鳥類等が主なるものであって、之等が精霊内に在って、伸縮自在、無碍に活動してゐるのである。普通は一個体であるが、人により二個体以上憑依の場合もある。如何なる人と雖も、一個体は必ず憑依してゐるのであって、此常憑者の外に、臨時に他霊が憑依する場合もあり、人間の死霊が憑依する事もあるのである。而して、是等憑霊は、一切の悪の根源である。故に、神から附与の内奥部の魂から発する善と、外部から憑依した動物霊から発する悪とが、絶えず心を専有せんと闘争してゐるのである。随而、此中間に挾まってゐる処の心は、内からの魂に組せんか、外からの憑依に組せんかと、絶えず動揺し、昏迷しつつあるのが、現在に於ける人間の想念の状態である。此理さへ解れば、信仰に対しての正邪の区別が判然するのである。 正しき信仰は、主の神が中心である。主の神は太陽神たる天照大神であるから、絶えず太陽の光明に照らされるのである。此太陽の光明に人間が照らさるる時は、憑依してゐる動物霊は畏縮して、自己の活動力が衰弱するので、本来の悪の活動力が鈍り、悪を以て心を捉える事が不可能となるのである。悪の誘引が弱れば、心はどうしても魂、即ち良心に組しない訳にはゆかなくなるのである。此状態になった人こそは、真の信仰を把握し、魂の磨けた有徳者になったのであるから、此処までに成った人間は、病気、失敗、不幸からは全く解放されて、一身一家は栄えゆくばかりで、法悦を味ひ得る処の光明の生活者である。之等の完全人間を造るのが我観音運動であって、此力は観音力より外には無いのである。
酒を好むのも、姦淫をするのも、争を好むのも、皆此憑霊が本来の悪を以て、其人の心を専有した結果である。然るに、今日迄の如何なる宗教と雖も、此憑霊を畏縮さすべき光の力が無かったのであるから、光明生活者たり得る者が無かった訳である。其證拠には、病者、飲酒家、姦淫者、争等の全く無い宗教団体は在ったであらふ乎。遺憾乍ら否と言はざるを得ないのである。
我健康協会会員には、病者、飲酒家、姦淫、争は無いと言っても可いのである。唯然し、新しく入信したての者は、過渡期の現象としての右の残跡あるは止むを得ない事ではあるが、時日の経過と共に、一歩一歩より向上しつつ、終に全く完全人間、光明家庭を作り得るのである。(新日本医術書 昭和十一年四月十三日)

宗教の治病統計を作れ

宗教が、特に新興宗教が病気治しを本位として、信者を獲得してゐる事は誰も知る通りであるが、之へ対し既成宗教側や、其他の方面で、それがインチキであるといふのである。然し乍ら、事実、病気が治り、それが医学よりも優れてゐるとすれば、インチキ所ではない。大いに推賞して、社会の役に立たせなければならないのであって、若し、新興宗教の言ふ如き治病の効果があるならば、インチキ所ではない。実に人類の為に素晴しい貢献であって、非難する方がインチキであらふ事である。そうして、寧ろ政府が進んで之を奨励すべきである。
唯然し、それが、或種の病気に限られるか、又は、其言ふ事が事実より誇大なる点があれば、其点がインチキである。 故に、それをはっきりさせる事が、新興宗教としては緊要事であると思ふのである。然らば、それは、どうすれば可いかといふに、私は統計をとるより外に方法はないと思ふのである。先づ無論、能ふ限りの正確を期し、其宗教の治病率と信者の罹病率の統計をとる事である。特に治病率の方は、患者が現在迄の病気治療の経過と、及び其宗教に由る全治の経過及び予後の状態、それ等を詳細に記述し、其統計を天下に示すべきである。そして果して其効果が医学以上に認むべきものがあるとしたなら、之は政府が新しい医術として奨励し、普く社会へ応用する必要が起るであらふ。唯、それ等の事をしないで、漫然とインチキである、否インチキでないと相争ってをった所で、果しがない事であるし、又新興宗教としても、何時迄もインチキ視せられてゐる事は、発展の上にも障害になるであらふ。そうして右の如く、統計を示す事が不可能とすれば、それは確かにインチキであると決められても、返す言辞は無いであらふ。然し乍ら、西洋医学にも多分にインチキ性のある事は認めざるを得ないのである。否、インチキといふより錯覚であるかも知れない。未だ不完全なる療法を完全として応用する誤謬かも知れない。而も、それ等は、最高権威である大学あたりの診断や治療にも驚くべき錯誤のあるといふ事実を常に吾々は見せ付けられてゐるのである。従而、之等両方面共、最も公平に厳重なる検討をして、其誤れる点を発見匡正する事が、今日の急務である事を言ひ度いのである。(新日本医術書 昭和十一年四月十三日)

現代医学は何処へ行く

現在、医学研究の為に、日本だけに見ても幾千の人と、一ケ年幾百万の費用を使って、研究に専心没頭しつつある事である。それは吾々から見れば、全く徒労のやうな気がしてならない。忌憚なくいへば、それ等は一小部分に溜めてをいて、今一層有意義なる事に転向したならばと常に思ふのである。
斯んな事を言えば、狂人の言葉とも見られるかも知れないが、以下の論旨によって、深く検討されたいと思ふのである。
一体、医学の目的とは何ぞやと言へば、言ふ迄もなく、人間病気の根絶である。それ以外に何物もあり得ない事である。故に、日本は固より、全世界文明国の医に携はる数多の学者権威が智能を絞り、日夜苦心惨澹、分析研究に努力しつつあるのは、終局の目的たる病気根絶の為である事は、言ふまでもないのである。故に、それ等は最終の目標たる病気根絶のそれ迄の研究でもあり、努力でもある訳である。
故に設し、今直ちに病気根絶の方法が発見され得たとしたら、最早、研究努力の要は無い訳である。然し乍ら、余りに意外な私の此説を、直ちに受入れるのは困難であらふ事は判ってゐる。どうしても綿密な実験以外に解りやふ筈が無いからである。 医学上最も難治とされる癌、結核、痔瘻、喘息、脳溢血、中風、癲癇、発狂、梅毒、脳膜炎等、凡ゆる疾患が、罹病後直ちに来れば、二、三回乃至十数回の治療に由って全治するので、治病率百パーセントの実績は決して過言ではないのである。現在凡ゆる治療に散々拗らされたる患者が大部分であるに係はらず、猶八十パーセンテージ以上の治病実績を挙げつつあるにみて、想像され得るであらふ。
事実に抗弁し得る力は絶対に有り得ない。繰返して私は言ふ。斯の如き完全療法が成立した以上、医術は之のみになる事は必然の理である。今日の薬剤、医療器械等、数十年の後には、博物館へ歴史の参考品として飾られるかも知れないとさへ想ふのである。
此療法あるを知らずして、それの恩恵に浴せない事程、不幸な人達はあるまい。否、それよりも最大級の不幸な人といふのは、此療法を眼にし、耳にし乍ら、信ずる得はずして、遂に貴重なる生命を失ふ事である。(新日本医術書 昭和十一年四月十三日)

病気と人間の性質

私が幾多の経験上、面白い事には病気と其人の性質とが好く適合してゐる事を感ずるのである。例えば病気治療の場合、よく判るのであるが、素直な性質の人は素直に治ってゆき、淡白な人は病症も淡白である。それに引換え、我の強い人は其如く病気も長引く傾向がある。従而、頑固な人は病勢も頑固である。心の変り易い人は病気も変り易く、皮肉な人は病気も皮肉な経過を辿るのである。
此理に由って考える時、療病に際し、此事をよく知って、其人の悪いと思ふ性質を治してゆく事は、取不直、病気に好影響を与える訳になるのである。それは、何事も素直になる事が最も可いのである。(新日本医術書 昭和十一年四月十三日)

驚く可き誤診と誤療

私は今日迄、幾多の患者を取扱ひつつあるに就て、実に驚くべき事を発見するのである。それは、患者の言に徴して、医師の誤診の余りにも多い事である。而も、何人と雖も絶対信頼を払ってる各医大に於る斯界の権威者達の誤診が尠くない事である。因って之から逐次発表して、当時者は固より一般世人に、警告を与え度いと思ふのである。断っておくが、私は決して医家を非難しよふとする心は、毫末も無いのであって、唯、止むに止まれない、至情からである事を、充分諒解されたい事である。故に、努めて事実から、一歩も出でないやうに、注意するつもりである。
五つは空の病気
京橋区新川町
千○ふ○子
(四十五才)
此患者は、拾年前からの発病で、一進一退の経過を経てゐる中、一年位前から悪化した為、絶対安静を守り、便所へ行く以外臥床を続けてゐたのである。患者の言によれば、○○博士と○○博士の診断によれば、左の肺尖加答児、右の肺門淋巴腺、心臓肥大症、胃下垂、脚気、小腸加答児の六つの病症であるとの事である。然るに、私が診査の結果、右六つの病気の中、小腸加答児丈は認めらるが、他の五つの疾患は全然無いのである。
唯、此患者は、長期臥床に由る甚しい衰弱で、無論、貧血と痩羸(ソウルイ)は、一見重体らしく見えるのであるが、実際の病気としては、頸部の周囲、及び其付根に膿が溜結してゐるのみで、他は、長期に渉って服んだ薬毒の為の器能全体の衰弱と、腎臓部と腹膜に些かの水膿滞溜をみたのみである。
治療の結果、四日目に床を離れ、十日位から日常の家事に励(イソ)しむやうになり、廿日位経てから、健康時と変らない迄に全治したので、本人の喜びは言葉に現はし難い程であった。周囲の者の驚きは、想像に余りある程であるそうで、知る限りの人々は只不可解と謂ふのみであるそうである。
逆になった死の宣告
芝区白金志田町
川○玲子
(七才)
此患者は、昨年九月○○医大の小児科医長、○○博士から斯う言はれたそうである。「此子は、入院はお断りする。何となれば、絶対治る見込はない。病気は、肺患であって、半ケ年以上は生命は覚束ないから其覚悟をせよ」との事であった。
診査してみると、肺は何等異常はないのであって、唯左右の耳下腺から淋巴腺へかけて相当大きい膿の溜結があり、其為に毎日九度以上発熱するのであった。私は其膿結を治療した所、漸次、解溶解熱し、一週間後に至って殆んど平熱となり、最初は顔面蒼白元気なく、歩行も困難な状態であったのが、解熱頃から、漸次頬に紅潮を呈し、体重は増し、元気は恢復して来たのである。一ケ月余にして、殆んど健康時と変らぬ迄に全治したのであるが、淋巴腺の膿結が幾分残存してゐるので、其後、月に二、三回は来るのである。
今年の四月、芽出度く小学校へ入学し、其溌刺たる健康振りは、普通の児童にも優る位である。先日も、半年以上生命は覚束ないと曰った博士の言葉へ対し、其余りに反対である事実を語りつつ、其母親は哄笑したのである。
之等の実例へ対し、当事者が調査を欲する場合、何時にても欣んで斡旋するは勿論、寧ろ患者の全治状態を参考の為審査されん事を希望して歇まないものである。(S・11・4・16)(新日本医術書 昭和十一年四月十三日)

医学は退歩したか

去る五月下旬の朝日紙上に、斯ういふ事が掲載してあった。
非常時局の中堅層をなす我が壮丁の体格及び健康が近年次第に低下しつつあるので当局では深く憂慮し、二十七日午後三時から九段偕行社に陸軍側から小泉医務局長、中島二等軍医正、園田一等軍医、文部省側から岩原体育課長、大西学校衛生官、伊藤事務官が出席、対策協議する事となった。かふ云ふ陸軍、文部両当局の協議は今度初めての企てである。
我国壮丁の体格は筋骨の弱い丙種、丁種の者が大正十一年から十五年迄は千人に対し二百五十人であったのに、昭和七年度は千人に対し三百五十人に増し、翌八年は更にこの兵役免除者が四百人に増加してゐる。又壮丁の胸部疾患も明治卅二年には百人中二人だったのが、現在ではこの十倍、即ち百人中廿人に増率し、身長に比して体重の増加は著しく劣って居り、教育程度が進むにつれて体格は悪く丙種丁種が多いといふ悲しむべき状態である。この壮丁の悲況を陸軍、文部両当局の協議が如何に打開するか、各方面から注目されてゐる。
右の如き、明治卅二年から卅数年を経た今日、兵役不能者が十倍にもなったといふ事は実に驚くべきである。国家的に観て之以上の重大問題が他にあるであらふか。須らく国家全体の智嚢を搾って、其原因を検討しなければならないのである。然も一方医学は非常に進歩したといふ事になって安心して居るにも不拘、事実は反対にそれを裏切ってゐるのは如何なる原因に拠るのであるか。此趨勢を以てすれば、今後と雖も殖えるとも減少する見込はないと想へるのである。何となれば其根本原因が適確に判明されて、それに対する方策が確立されなければである。
然るに此重大事に対して、当局も世人も案外無関心で居る、唯一部の当局のみが焦慮してゐるに過ぎないとは、聖代に於る洵に不可解事であると謂っても可い。
此一事に微してみるも、現代医学衛生に於ける根本的欠陥がなければならない事である。故に此重大事を救ふの道は、此欠陥の発見で、それ以外には絶対無いと言へやふ。
然るに私は、其欠陥を発見し得たので、発見と共に全く驚歎久しふしたのである。それは一体何であるか、以下詳細に述べてみやふ。
是等激増しつつある虚弱者特に結核患者(弱体児童を含む)に対し、現代医療は何をして居るのであらふか。真に防止しつつあるのであらふかと謂ふに、実際は防止所ではなく反対にどしどし作ってゐるといふ一大奇怪事である。そうして此様な信ずべからざる程の重大事に誰もが気が付かないといふ問題である。此意味に於て、寧ろ医療なるものが無かったなら、兵役不能者は一大激減をするであらふとさへ思ふのである。否事実そうである事は火を睹るよりも瞭かである。それは医学が進歩するに随って漸増するといふ一事が遺憾なく證拠立ててゐる。千人中二百人にも兵役不能者が増加したといふ生きた事実こそ、私の右の説を裏書して余りあるのである。噫、国家の前途に対して、之より大なるものは無いであらふ。
然らば右の如き、医学の誤謬とは何であるか。それを赤裸々に述べなくてはならない。それを述べるに当って、其誤謬の根本とも言ふべき病気の本体から明かにする必要があらふ。そうして医学に於けるそれの認識が一大錯覚に陥ってるといふ事実である。それは医学に於ては、何故に病気が発生するかといふ事には未だ不明であって、医学上に於る目下のそれはあらゆる病原が黴菌であるといふ他動的原因、即ち他原説である。然し、之が抑々の誤謬である。否、全然誤謬ではないが、実は一面の解決でしかない事である。
然るに、私の研究によれば、病気の本体は実は人間自身の自然浄化作用である。即ち、自原説である。それは何か、人間が生存上、あらゆる原因に因って不断に汚濁が堆積するのであって、それが為に血液の不浄化となり、其不浄化が病原となるのである。が、それは不浄血液其ものではなくて、其不浄血液を浄化さすべき工作其ものである。故に、病気現象なるものは、浄化作用としての苦痛でしかないのである。そうして結核患者は何が故に発生するのかといへば、それは汚濁が不浄血及び膿汁となって、何人と雖も、頸部附近と肩部附近に溜積するのである。そうして、其汚濁の溜積が或程度を越ゆる時、それの解消作用が起るのであって、其、動機促進が冬の寒冷で其工作が風邪である。故に、風邪に罹るや、それ等汚濁を解溶すべく発熱が起り、膿は稀薄となるので、喀痰及び鼻汁とし排除されるので、それに依って人体は健康を保ってゆけるのである。故に風邪こそ実に、最簡便なる天与の万病離脱法である。然るに昔から、風邪は万病の因などと曰ふが、之は全く誤りであって、実は其反対の万病を免れ得る最も最善の方法であって、実に創造神が作為されたいとも巧妙なる保健法である。
にも不拘、それに盲目である医学は、風邪に罹る事を非常に恐れ、飽迄之を避けんとするのである。それが為万が一罹病した時、発熱を懼れて飽まで下げよふとするのである。其結果折角の浄化は不能となって、終に汚濁はそのまま残存し、時日の経過と共に固結して了ふのである。此汚濁固結こそ、実に結核的弱体化の抑々の原因である。
そうして、頸部及び肩部附近に溜積せる水膿固結は、解熱剤、安静療法其他によって一旦解熱し、鎮静を得ると雖も、それは一時的で真の治癒ではないから、再び自然浄化作用に因って風邪に罹るのであるが、医療は再び浄化防止を行ふので、其結果として膿の固結は漸次加重されていく訳である。斯の如き事を繰返すに於て、膿の固結は益々増加するから、当然の結果として自然浄化に因る発熱は解熱剤を以てしても容易に鎮静しない程に執拗となるのである。其必要となった発熱の為に溶解した膿が喀痰となって排泄する。其為に咳嗽が起り、それが連続的となるのである。
又、今一つの症状を見逃す事は出来ない。それは、不断に頸腺及び肩部に集溜しよふとしつつある全身の汚濁は、右の部に溜積した長時日の膿の固結に遭って其部への集溜は不可能となるので、止むを得ず其以下である胸部の上辺から、乳及び腋の下の肋骨膜に溜積固着するのである。其固着部が乳及び腋の下辺である訳は、勿論、人間が両腕を絶えず使用するといふ、其為の神経集中に由るからである。そうして此症状が胸部であるによって、医家の診断は肺結核又は肺浸潤とするのであるが、実は此際は肺には何等異状はないのである。何となれば、右は肋骨の内部症状ではなくて肋骨の外部であるからである。然し、何分発熱とラッセルとレントゲン写真に雲状を顕すに於て、肺患と誤診するのは無理もないのであるが、之は全く否である。故に、此症状は余の治療に依れば、一人の例外なく全治するに見ても、肺に異状のない事が明かであらふ。
次に、肺患悪化の原因として、特に消化不良の一事である。そうして、此原因の大部分が謬れる医療の為である事は言ふまでもない。それは、肺患と知るや、医療は絶対安静を行ふのである。此為運動不足に由る胃弱は著しいものであるのと、今一つは消化薬を服用させる事であるが、事実に於て胃を強め、食欲を増進させよふとする其目的とは反対の結果となるのである。何故なれば、一時は胃薬に由って消化は旺盛となるが、日を経るに従ひ、胃自身の活動力は漸次衰退するのである。それは薬剤が消化して呉れるから、胃は活動の必要がないから衰耗するのは当然な理である。其結果として、胃薬の効果が漸次薄弱化し、食欲不振となるから、愈々胃薬を服用させるといふ循環作用に由って、胃は終に睡眠状態となるので、それが病勢を悪化さす事は、実に致命的でさへある。現在頗る多数に上りつつあるといふ胃疾患の原因も、之で肯けるであらふ。
其他、下痢、喀血、盗汗等の原因及び療法等の誤謬も、右と大同小異であるから略する事とするが、要するに以上に依っても判明さるる如く、現代医療は驚くべき錯覚の道を歩んでゐるのである。之を一言にして言へば、人体に病気が発生するや、それを治癒しよふとするその方法が治療の妨害となる事であって、特にその妨害の最も根本ともいふべきが解熱剤と氷冷である。故に、忌憚なく言へば、人体自身の治癒工作と治癒をさせまいとする医療との闘争で、其結果としての結核増加である。
然らば、如何にすべきが最善であるかといふ事である。それは先づ風邪に罹るや、発熱を尊重して、其儘放置してをけばいいのである。そうすれば、汚濁は順調に解溶排泄さるるから根本的に頗る順調に治癒するので、勿論、再発の素因は消滅さるるきである。之は実験するに於て一点の誤りの無い事を知るのである。
此理に由ってみても、結核激増の真因は、全く解熱剤がその第一歩である事が知らるるであらう。故に、解熱剤禁止と氷冷法廃止と風邪非予防だけを行ふ事によっても、恐らく結核患者は三分の一以下に減少する事は断言して憚らないのである。実に、医学が結核患者を作りつつあるといふ、信ずべからざる程の戦慄事が、国家の保護の下に公然と行はれつつあるといふ事である。
然し乍ら、医学に於ても、一部の進歩は認め得らるるのである。それは、器械の巧緻化と療法の複雑多岐と、薬剤の多種多用になった事である。然し乍ら、根本である病原を錯覚してゐる限り、夫等は唯人々を幻惑させるに過ぎないのであって、反って夫等に没頭し、満足しつつ終に根本に遠ざかって了ふといふ危険さへある事である。それ故に、病原の確定的発見さへあれば、器械や薬剤は寧ろ不必要の存在でしかなくなるであらふ。
次に、現在医家の診断に誤謬の多い事は、実に驚くべきものがある。余が診査するに、官立の大病院に於る診断でさへ、殆んど七、八十パーセントは誤診である。之を読む人は信ずる事が出来得ないであらふが、事実は儼として動かす事が出来ないのである。それは医学に於て、唯一の診断法としてゐるレントゲン写真でさへが、決して正確ではない事である。それは、前述の肋骨及びその外部に滞溜せる膿の固結と、未固結の膿汁のそれが、雲状に顕出するのを肺の疾患と誤る事によっても明かである。尤も写真映像は平面であるからであらふが、之等も一大自覚の必要があるであらふ。又、ラッセルに於ても、肺胞の場合もあるが、右の肋骨附近の水膿による場合も多いのである。又、肺胞にラッセルがあっても、肺患でない場合も多くある事を知らねばならない。又、微熱であるが、之は殆んど肺が原因であるのは十人に一人もない位である。其殆んどは頸腺及び肩部、肋骨部、胃部、腹部、腰部等である。是等の発見に因る時、医学の診断の余りにも幼稚である事は不可解と思ふ程である。故に、現今、肺結核とされ、悲観してゐる多数の患者は、実に肺に異常のない肺患者であると言ってもいいので、其事に就て何時も笑ふのである。
余が治療しつつある肺患の治病率は、その悉くがあらゆる医療を受けても治癒しないで、拗れた難治症のみであるに不拘、治癒実績が実に八十パーセント以上を挙げつつあるのは、何が故であるかといへば、肺に異常の無い、所謂肺患者であるからである。
次に、今一つの誤療を指摘してみよふ。それは病気軽快と治癒との判別がなく、混同してゐる事である。抑々、病患とは前述の如く、それは浄化作用であるから、発熱、咳嗽、喀痰、喀血、盗汗等の種々の苦痛、それは其患者の活力が旺盛であればある程、苦痛現象が猛烈である筈である。然るに其場合、医療は苦痛緩和の為の対症療法を頻りに行ふのである。其療法とは、薬剤と獣性滋養食及び絶対安静法等である。然るに、前者は血液を溷濁させ、後者は全身的活力を衰耗させるのであるから、浄化力は薄弱化するのは当然である。其結果として熱は低下し、咳嗽も喀痰も減少するので、病症は確かに軽快し、治癒に向ふ如く見ゆるので、時により殆んど治癒されたかと思ふ事さへもある。が何ぞ知らん、之は浄化停止の為の一時的緩和であって治癒ではないから、再発か又は現状維持のまま、全治もせず悪化もしないで数年に及ぶのであって、此様な患者は頗る多い事は誰もが知る処である。之は全く自然治癒妨止のそれであるから、斯の様な経過中に於て、患者が運動をすれば直ちに浄化力が発生するから発熱する。それを医家は驚いて病気悪化と誤解し中止させるのである。近来泰西に於て業務に従事しつつ結核治病をせよといふ説が現はれたのは、此絶対安静の非に目覚めた證拠である。
以上の如き、診断の不正確と病原の錯覚と治療法の誤謬等を綜合する時、現代医学なるものは一大革命をしない限り、国家の損失と民人の不幸は測り知れないであらふ。此真相を徹底把握するに於て、誰か寒心せざるものがあらふ乎。茲に吾人は一大警鐘を鳴らして、当事者に一大自覚を促さざるを得ないのである。
表題の、「医学は退歩した乎」といふ事は、之に依て明かであると思ふのである。(S・11・6・10)(新日本医術書 昭和十一年四月十三日)

誤診誤療の実例 一、

之は実際、私が手掛けた患者であったが、それは本年正月四日に、三十二才の婦人が来たのであった。其話によれば、今度の月経が例月よりも日数が多く掛ったので、心配の余り某医師に診断を乞ふた所「之は大変である。子宮外姙娠であるから、急いで手術をしなければ、生命に係はる」との事を言渡されたのであるが、念の為と、兎も角私の所へ来たのであった。私が査べた所、全然、外姙娠などの徴候はない。唯僅かに、腎臓の下部に、些かの水膿溜結があったばかりであった。それも二回の施術によって、痕方もなく治癒されたので、其夫人の喜びは一通りではない。正月早々大手術をされ、入院もし、其苦痛と費用と日数を無益に費消し、傷痕まで附けられなければならなかったのを、僅か二回で済んだのであるから、喜ぶのも無理はないのである。之等の事実を検討する時、外姙娠すべき位置より、三寸以上隔ってゐる皮下に膿結があったばかりで、専門家として誤る筈が無い訳であるに係はらず、右の様な事実があったと言ふ事は、どうしても不可解と今も思ってゐるのである。(新日本医術書 昭和十一年四月十三日)

誤診誤療の実例 二、

本年卅七歳になる某上流婦人が私の所へ来たのである。其婦人の曰く、肩の凝りと頭痛が持病であった所、最近、月経がいつもより日数が多かったので、某博士の診断を受けた所、「右側の卵巣が、左側のよりも三倍もの大きさに腫れてゐる。それが原因であるから、早速切開して剔出しなければならない。頭痛や肩の凝りも其為である」と言ふのである。然し、手術が嫌さに躊躇してゐる所へ、私の所を聞いて来たのである。私は入念に査べてみた所、卵巣は左右共異状なく、全然、腫れてゐる形跡はないのである。又、頭痛や肩の凝りは、卵巣とは無関係で、別箇の病気である。何となれば、卵巣部へ手を触れない内に、肩を治療した所、頭痛、肩の凝りは即座に軽快になったのを見ても瞭かである。そうして、四回の治療によって全治したので其驚きと喜びは想像に余りあるのである。右の事実によって考ふる時、異常なき卵巣を腫れてると言ひ、卵巣と関係のない肩の凝りを関係あるといふ、其誤診の甚しいのに至っては、実に驚くべきである。設し、其患者が私の所へ来なかったとしたら、健全である卵巣を剔出され、一生不具にならなければならなかったのである。私は実に慄然として膚に粟を生じたのである。(新日本医術書 昭和十一年四月十三日)

誤診誤療の実例 三、松田文相の死

西洋医学に於る健康診断は、未だ不完全であるといふ事を断言したいのである。 最近に於るそれは松田文相の死である。新聞紙の報道によれば、医学界の権威として帝大の古参教授として、令名の高い真鍋博士が死の三時間前に健康診断をしたといふ事である。之は軽々に看過出来ない重大問題である。三時間後に死ぬといふ事を予知出来得ない健康診断なるものは果して何の価値があるであらふ乎。健康診断を受けよふとする目的は、病気の前兆を知る事であり、病気の前兆を知らふとする事は、万一の事態を免れんとする意図である事は言ふ迄もない。
然るに、其最後の目的である死そのものが、三時間前に予知出来得ないとしたら、それは、健康診断などをしないのと同じ結果である。之によってみれば西洋医学は、もっともっと進歩しない限り、其健康診断は未だ信頼するに足りないと言ふ事が出来る。
又之等の問題に対して、当局も世人も余りに冷淡ではなからふ乎。他方面に於る割合小さい問題にも必要以上に神経を尖らす現在の社会が、事医学上に関する一切は、不思議な程寛大であるのは、どうした事であらふか。此余りの寛大さに蔽はれての為かは知らないが、赦すべからざる程の誤診誤療が頗る多いといふ事である事は想像され得るのである。帝大の権威でさえが、今回の如き不明である以上、一般医師の診断の如何なる程度であるかは予想し得るであらう。然し之は、医師を責むるのは当らないかも知れない。実は、罪は西洋医学にあるので、それは世人が想像する程に進歩してゐないと見るのが本当ではなからふか。要するに、西洋医学過信の罪が種々の形となって現はれ、それをどうする事も出来ないのが現在である。
注射の誤りや手術の誤りに因る急死、其他の確かに医師の過失と認むべき事実に対し、死者の家族の憤慨談や又、訴訟事件等の新聞記事をよく見るのであるが、此場合、何故か、医師の方が有利な結果となるやうで、其為かどうか知らないが、大抵は泣寝入りとなる場合が多いやうである。尤も医療に干渉し過ぎる事は、医師の治療に於る支障ともなるのであるから、一概には言はれないが、何事も程度があり、程度を越えれば、弊害を醸すのは当然である。併も事は人命に関するといふ重大事に於てをやである。(新日本医術書 昭和十一年四月十三日)

誤診誤療の実例 医術で不具になった話

之は某看護婦の話である。七歳の女児、右頬に腫物が出来たので、入院して手術をしたのである。然るに、手術時期が早期の為、眼瞼下に、又別に腫物が出来たので、早速それをも手術した処、結果不良で悪化し、終に最初の箇所と次の箇所と連絡して了ったのである。其上手術によって、自然排除を防止された膿は、眼からも、鼻孔からも、絶えず溢出するといふ苦痛をさへ、加重せられたのである。そうして、漸く数ケ月にして、治癒された結果はどうであったらふ。大きな引吊りの為に、俗に謂ふ「ベッカンコウ」の様な醜くさの顔になって了ったのである。それが為に、其母親が歎いて医師に訴えた処、医師は「いづれ整形外科へ行って、治して貰ったらいいだらふ」との事であった。
之に就て批判を加えればこうである。其腫物の原因としては、自然浄化によって、膿が頬から排除されやふとして腫物が出来たのであるから、何等の治療を加へず、其儘放置してをけば良かったのである。そうすれば、腫れる丈腫れて小さい穴があいて、そこから膿が全部排泄され、完全に治癒されて、痕跡も留めないやうになるのであって、其期間も長くて一ケ月位で済むのである。それに何ぞや、多額の費用と日数と、より痛苦を与へて終に生れもつかぬ不具者たらしむるといふ医学は実に恐るべきものである。
誤れる医術の弊害を、世人に知らしむる事が、刻下何よりの急務である事を痛感するのである。(新日本医術書 昭和十一年四月十三日)