観音力療病術などと言ふと、甚だ迷信臭く響くので、其名称に就て種々苦心したのであるが、些かの粉飾も無く、其実体を言表はすとすれば、そう言ふより外は無いのである。
茲で、今日迄の凡ゆる治病法を検討する必要がある。それは先づ大別すれば、物質療法と精神療法とである。物質療法とは言ふ迄もなく洋漢両医術であり、其他それに類似の鍼灸、電気等である。精神療法としては、信仰を本意とする加持祈祷は固より、観念や信念に依る治病である。
然るに本療病術は、其孰れにも属しないものである。然し、近時行はれてゐる指圧や掌療法と酷似してはゐるが、本質は全然異ふのである。此故に、本療法は未だ曽て歴史にも経験にも絶対無かったものである。全く新しい医術であり、治る医術であり、明日の医術である。
一名、岡田式指圧療法とも言ふが、之は便宜上附した迄であって、適切ではないのであるから、本療病術が全般に知れ弥る迄の間、右の名称を用ひるまでである。
観音力などと言ふに於て、信仰的でないとは言えないが、別に観音を信仰しなくても治るのである。又、診断の場合、医学以上正確であるし、発熱は解熱させ、痛みは去らしめ、膿を除去し、下痢を止め、咳嗽を無くす等、凡ゆる病苦を除去し得、又、病原に就ても実證的に、微に入り細に渉って説明なし得るので科学的でもある。此点、現代医学の方が非科学的である。何となれば、現代医学は、成程、末梢的には或程度の説明をなし得るが、根本的説明は不可能であるからである。又実際上病理といふ名称の下に、病理は説いてゐない。それは、病気現象の説明でしかないのである。故に、医学が病理と病原を説こうとすれば、今の処どうしても非科学的になって了ふ。
本療病術は、凡ゆる病理病原を、徹底的に実證的に、科学的に(機械的ではない)説明なし得るのである。随而、科学的とも言ひ得るが、無薬、無器であるから、非科学的でもある。
是に於て、本療病術は信仰的であって、信仰的でなく、科学的でもあるが、科学的でもないといふ、一種の不可説、無碍療法である。
古来、観音信仰によって、奇蹟的治病を受けた実例は頗る多く、あらゆる信仰中、断然一等地を抜いてゐる事は人の知る処である。然し、此事実を観念に由る一種の精神治病と片付けて了ふ或一部の科学者には、受入れ難いであらふから、それ等の人へ対しては、軈(ヤガ)て目覚める時期を待つ事として、今一歩進めて説いてみよふ。
観世音菩薩の御救は、誰もが知る如く、今日迄は、木仏、金仏、絵画等の偶像を介して施与せられた事である。然るに、現在誤まれる医療や迷信等によって、病者衢(チマタ)に溢れつつある火宅の如き娑婆世界に対しては、偶像を介しての救は、最早病者の氾濫と、それに由る人間の困苦を喰止める事は、不可能である。是に於てか、どうしても生きた人間を機関としての、治病的一大救済を行はなければならなくなったのである。それが不肖仁斎創始の観音力療病術となって現はれたまでである。
(S・11・4・6)
(新日本医術書 昭和十一年四月十三日)