観音力療病は何故治る乎

古来、病気の原因に就ては、宗教上からも医学上からも種々論議されて、今以て尽くる所がないのである。宗教では殆んどが罪穢説であり、医学では大体黴菌説である。然し、医学の黴菌説は、実際から言って疑問の余地が大いに在るのである。何となれば、官民協力し、彼程撲滅に努力しつつある彼の肺結核にしろ、所期の成績を挙げ得ないといふ事は、病原其物は黴菌以外にあるからである。然し、未だ発見されてゐないばかりである。故に、如何程厳重な消毒を行ふと雖も、罹病する者は罹病し、別段、黴菌に介意しなくとも、罹病しないものはしないといふ例は、何を暗示してゐるのであらふか。又、流行性風邪は、殆んど全部の人間が侵されてゐると言って可い位で、此場合如何にマスクをかけ、含嗽を厳重にする者と雖も、斉(ヒト)しく罹病する所を見れば、黴菌罹病論は、病原の一部的説明ではあるが、断じて病原の全体を掴んだとは言えないのである。

それに引換え、宗教の罪穢説は、病原の本体を喝破したるもので、吾人と雖も之に一点の異議は無いのである。然るとせば問題は、其罪穢を如何に払拭し、解消するかと言ふ事であって、之に依て肺結核の撲滅も、其他の伝染病もあらゆる病気の根絶も可能である事は理論と経験によって断言し得るのである。

然らば、其罪穢を解消する方法としては、如何なるものでありや、と言えば、唯一つより有り得ないので、それは、神の御赦しのみである。然し、一口に神と言ふが、神にも八百万あって、それぞれの役目を、分担管掌され給ふのである。そうして、罪穢を赦し給ふ権能を有ち給ふ神は、天地間、唯一柱より在さないのである。それは、宇宙の支配者たる主の神にして、其主の神の表現神で被在らるるのが、畏くも天照皇大神様で被在らるるのである。

天照皇大神様は、独一真神にして、最尊最貴の御神格に被在らるるを以て、直接、人間への御救ひの業は不可能の御事が神律なのである。何となれば、人民とは余りに隔絶し給ふが故である。畏多き例にはあれど、一天万乗の天皇が、御親(ミズカ)ら人民に対して玉手を染め給ふの、不可能の御事と等しいのである。是に於てか、洽く、世界万民を救はせ給ふ御心の現れとして、救ひの執行者を遣はされ給ふたのである。それが観音、阿彌陀、釈迦、基督、マホメット、其他の各聖者達である。

然るに、それ等聖者達が、今日迄主神より委任される場合、其時代と其地方とによって限定された事であって、それは主神の御意図であるから、止むを得なかった事である。

茲で吾々は、現代を凝視する必要がある。それは、一切の機構が世界的となった事である。然るに釈迦も、基督も、マホメットも、凡ゆる聖者の出現した時代は、未だ一切が世界的までには、到達してゐなかった事である。故に、彼等の教や努力は、如何に価値があったとしても、それは、地方的であり、暫定的でもあった事は、止むを得なかったのである。故に元々、地方的、暫定的必要から生れた宗教であるとしたら、今日の如き、世界的の時代を救ふとしても、それは不可能である。力が足りないからである。恰も、一国の必要に由て生れた政治形体を、全世界に行ふとしても、出来得ないと同じ訳である。譬えば、皇道は露西亜人には解せまい。フワッショは、亜米利加には適すまい。共産主義は日本には行ひ得ないやうなものである。

此事に着眼の出来る人は、物象を真に観透す能力者である。それ故に、一切が世界的に迄なった今日の時代としては、どうしても世界的救済力と、其宗教が発生されなければならない事である。唯然し、其時と所とが残された問題なのである。

茲で先づ、其時から検討してみよふ。世界的救済がタッタ今出現したとして、時期は早過ぎるであらふ乎、といふ事である。それに対して、否、と言ふ人は有るまい。何故なれば、現実としての世界人類の苦悩の喘ぎは、最早一日も忽せには出来ない現状である。今にして世界的救済が生れなければ、人類の前途はどうなりゆくであらふ。凡ゆる不健康な人間と不健全な精神と宗教の無力と思想の混乱を見るがいい。又、欧羅巴と亜細亜の動向を認識するがいい。それは、有史以来類例の無い凄惨時代に向ひつつあるではないか。実に、之こそ所謂世界終末の姿ではなからふか。そうして、それを喰止める力、其力の存在は何処にも見当らないのである。是等に由ってみるも、最早世界的宗教が発生し、世界的救済が行はれなければならない処の、時の条件は充分に具ってゐると見るのが至当である。実に最早遅疑を許さない迄に、時は迫ってゐるのである。

次に、所は、何処であらふ乎。之は即座に日本国であると言えよふ。それは、古典や聖者の予言を藉りなくとも明かである。何となれば、東洋の精神文化と西洋の物質文化とを余す所なく吸収し、咀嚼し、万世一系の天皇によって良く統治され、而も、国際正義を遵守し、常に平和と道義の為、努力を続けてゐる国、それは日本を措いて他には類型が無い事である。此点から観ても、所は日本である事に何人も異議は無いであらふ。

故に、時は今、所は日本国に、世界的救済と宗教が生れたとしても何等不思議は無い筈である。而して今や顕現すべき大宗教と人類救済の委任者は、一体無形の神であらふ乎、否仏であらふ乎、又は、有形な人であらふ乎、といふ事である。

無形の神や、偶像的仏体では、此大事業は到底成し得る筈がない。何となれば、今日迄の救済はそれであったが為に、終に今日の如き地獄的世相を実現して、どうする事も出来ない現状ではないか。故に、真の救済力を発揮するには、人としての機関でなければ到底出来得ない事は勿論である。そうして、其機関として選まれたのが、不肖、仁斎の肉体である事である。私は自称救世主の言葉は嫌であるが、右の如く説明するより致方がないのである。

此意味に由って、世界人類を不幸と苦悩の檻から、解放させる時が来たのである。随而、悪魔の意図から出た処の不正堕落や、暗黒思想、極端に歪められた宗教、狂ひ切った人間の行為等、夫等一切の罪悪の根原を打ち断り、本然の正しさに還さなければならない。と共に過去数千年間滞積の罪穢に由て、最早動く事の出来ない万般の行詰りの原因である、一切の汚濁を根本から浄めて凡ゆる不幸を除去しなければならないのである。

斯の如く、救済を要する人類の数限りない苦悩の中で、何と言っても病苦からの解放こそ、最重要なる救ひは他には無いであらふ事である。それが即ち、観音力療病法となって、先づ現はれたのであるから、他の如何なる療法も、較べる事の出来ない程の効果と力があるのは当然である。

罪穢を赦し給ふ権能を行使さるる御仏こそ、実に慈悲の権化とも言ふべき大聖観世音菩薩である。そうして、其救世的活動を仁斎の肉体を通して行はせられるのであるから、真の病原である罪穢の払拭されて了ふ理由は、寔に瞭かな事である。其為にこそ、仁斎の肉体から不断に放射する霊光であって、それに由て一切の曇は解消されて了ふのである。

(S・11・2・17)

(新日本医術書 昭和十一年四月十三日)