御 教 え 集 第二十六号

昭和二十八年九月御教え

九月五日

医学に対しては始終いろんな角度から批判していますが、いくら書いても後から後から出てくるのですから、内容に余程種々雑多なものを含んでいるのです。これも今までの見方と違った見方で書いたのですが、つまり医学というものは素晴しい封建的のものです。ところが今は素晴しく進歩したものと思っているのです。そこにおそろしい食い違いがあるのです。では一体何処が封建かという事を書いたのです。

御論文〔⇒医学封建〕【註  栄光二二七号】

これは「医学革命の書」の中の一項目です。今読んだとおり医学というものは文明の一部なのです。それを全部と思ってしまったところに誤謬があるのです。文明を進歩させる全部と思って、実は一部の城廓に楯籠(タテコモ)って、そうしてその城廓の中に入っていない人間を自由にしようとする、そこに大変な間違いがあるのです。地平線の下にあるのが万物ですから、それはどんなにでも自由にできるのです。人間は地平線であるからして、地平線の上に人間を救うべきものがあるのです。つまり地平線が人間とすれば、下に行くほど獣になって行き、上に行くほど神に近くなるのです。結局最高は神であり、人間は神と獣の間にあるのです。それで人間を救うというのですから、人間以上の存在でなければ人間を救う資格はありません。それを今の医学は獣の救いを人間に当て嵌めようとしているのです。医学は猿やモルモットや兎や二十日鼠を試験して、それをそのまま人間にもってゆくのですから、つまり地平線に居る人間としたら、それより以下は獣ですから、獣を材料とするのは当り前ですが、それをもって来て人間の病気を治すというのは、およそ見当違いです。今読んだのはそういう意味のものです。だからして医学が如何に一生懸命にやっても、全然見当違いを一生懸命にやっているので治るはずがありません。それでは今まで何故そういう愚(オロカ)な事をやっていたかというと、地平線の上にあるものが見えなかったのです。見えなかったというよりか、実際は見せなかったのです。これは実際神様も人が悪いのです。しかし、見せては神様の方で都合が悪いからです。これを見せては、今までの物質文化を発達させるに都合が悪かったのです。どうも人間は、物質文化を発達させるには、神様のような最高のものを見せない方が、物質を進歩させるという精神力は非常に強くなるのですから、神様はそういう手段を選ばれたのです。しかし神、仏と、宗教は出しましたが、あんまり上のものを出しては物質的の進歩は形式がちになるから、何処までも最高の神という事は隠(カク)して、二流三流のものを出して、これが神であり、これから生まれたのが宗教だというわけで、悪く言えば人間は神様に瞞(ダ)まされていたのです。しかしそれは仕方がないので、そうでなかったらこれまで物質文化は発達しなかったのです。ですから非常に素晴しいトリックというわけです。そして今までの人間が神をみる、神観というものも間違っていたわけです。キリストでも釈迦でもマホメットでも、偉いには違いないが、やっぱり二流三流の地位だったのですから、本当のものはぼかしてはっきりはしなかったのです。ただそれでよかったのです。そこで私は宗教では救えないという事を言うのですが、宗教で救えれば、今までに天国になっているのです。宗教があれだけ沢山出ても相変らず地獄という事は、つまり今までの宗教では救う事ができなかったわけです。これは超宗教でなければ救えないわけです。そこで救世教というものは超宗教であり、これが初めて出来たわけです。そこで宗教と言うから他の宗教と同じに見られるのですが、今のところは致し方がないが、いずれはだんだん分って来ます。そういう意味ですが、それを分らせるのが仕事なのです。それはなかなか難かしいのです。やっぱり本物のダイヤモンドは今まで見せなかったので、つまりガラスに角度をつけて、これがダイヤモンドだと言っていたのですから、本物を分らせ、信じさせるという事はなかなか骨が折れます。しかしその代り、今までにないような奇蹟や、いろいろなものを見せるからして、信者になる人はそれが分るから入信するのです。ですから非常に面白くもあるし難かしくもありますが、しかしどうしてもこうしなければ、こういう時期を越さなければ救えないのだからしかたがありません。

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それから何時も言う話ですが、ちょっと面白く書いてみました。 

御論文〔⇒毒塊人間〕【註  栄光二二六号】

これについて、昨日元日活の社長をした人が来ての話で“実は今度素晴しい計画をした。それは東京に立派な娯楽場のような物をこしらえて、そこでいろんな享楽をさせる計画をしているが、それに賛成してもらいたい”と言うのです。その裏には援助してもらいたいという事なのでしょう。しかし私は“それは止した方がいい。どういう訳かというと、それは罪を作るからだ”と言ったのです。そうしたら非常に感心して“一言でピタッとやられて、どうも今までこんなにはっきり言われた事はない”と言って非常に感心していました。その人はお寺の息子でお寺の出なので、仏教の事もいろいろ聞いているが、確かに罪を作るという事はいけないと言ってました。それで“これからやるなら、良い事と悪い事があるが、全部良い事は世の中にはないから、良い事が幾らかでも悪い事より勝っていれば、差し引いて良い事の方がオツリが来るから、プラスになるから、それならよい”と言ったら、“なるほど”と言ってました。なおいろんな事を簡単に言ってやりましたが、驚いてました。結局今の人は急所を掴んでないのです。急所を掴めないのです。急所を掴むほどに頭が良くないのです。ですからいろんな事を見ていると、余計な事をしたり、骨折って失敗したりして、カラカサ屋の子僧式が多いのです。偉い政治家などはみんなそれです。又そのとき共産主義の話も出ましたが、その人は右翼団体を作るというのです。その人はなかなか覇気(ハキ)はあるのです。相当に腕もあるようです。けれどもやる事がみんな見当違いや無駄があるので成功しないわけです。それで右翼団体を作って共産主義と戦うと言うのです。それについては次のように言ってやったのです。即ち“共産主義と戦うのもよいが、そうすると結局争いになるではないか。争いでもよいから成功すればよいが、成功しない。一方が勝ち、一方が負ければ、負けた方は悔(クヤ)しがって又勝つ事を考える。つまり仇討(カタキウ)ちと同じで、一度殺すと、その伜が悔しがって仇を討つ。そうすると負けた方は又悔しがって、その又伜がやるという事になり、それではしようがない”と言うと、“なるほど”と言ってました。第一共産主義というものは失敗するに決まっているから、私はよく共産主義の事を聞かれるが、気にしないでいる。つまり共産主義というものはスターリン一代限りのもので、今にだんだん衰えてゆくから、問題にするにあたらないと言ったら、感心してました。そして私は何時も仕事をするのに、ただ急所だけをチョッチョッと手を打っておくだけです。ですから私は随分いろんな仕事をしているが、あせったりしないで、何時も悠々(ユウユウ)としているが、それは肝腎な急所だけをちょっとやっておき、あとは人にやらせればよいのです。人間は急所を見付けるのが肝腎だから、あなたもそういうようにしなさいと言ったら、非常に喜んでいました。それを連れて来たのが日置という人で、何時かサンデー毎日に私の事を書いた人で、この人もそれを聞いて、笑って感心したような顔をしていました。そういうようで、信仰でも何んでも一切は急所です。ですから急所を見付ける能力を養うわけです。それには頭が良くなくてはならないのです。頭が良くなるという事は、頭の薬毒を早くとるという事です。ですから熱が出て頭が割れるほど痛いという事は非常によいのです。それは頭の深い所の毒が溶けて出│  る時は非常に痛いのです。神経の側だからです。頭の外側の場│  合はそうでもありません。そういう割れるように痛いのは頭の奥の方だから、それは非常によいのです。それを知らないから医学の方は氷で固めるので駄目になるのです。だから日本脳炎というのは、このくらい結構なものはありません。子供などで日本脳炎をやったら、必ず学校の成績が良くなります。そういうようなわけで、浄霊でも急所です。やっぱり病気にはみんな急所があります。又その急所がとんでもない所にあるのです。これなども意外なのですが、ロレツがうまく廻らないで舌がつる、という原因は何処にあるかというと、鼻の奥(アデノイド)の又奥にあります。ですからそういうのは鼻の其処を目掛けて浄霊すると治ります。それから鼻に関係した事で、臭覚がないとか、始終風邪ひいて水洟が出たり、鼻がつまりますが、それは此処(小鼻の両側)をやればよいのです。前からやってもよいですが、その場合其処を押すと痛いですが、蓄膿などは此処が原因です。鼻から出ようとして此処に来るのです。鼻がつまった時には此処が多いです。それから他の鼻は此処(後頭部)です。此処から前の方を目掛けてやると霊が通ります。そういうようで、思いもつかない所に原因があります。だから急所と言っても、分り易い急所と分り難い急所があります。又病気ばかりでなく、いろんな事情も、意外な所に急所がありますから、それを発見しなければならないのです。それにはやはり智慧正覚です。智慧が働かなければならないのです。この智慧が働くという事は、頭の中の毒素と、その人の精神状態にあります。ちょっとでも不純なおかしな野心でもあると智慧が曇るから働かないのです。その人の考え方にそういった不純が無く本当に世の中人のために尽くすという気持だと智慧も働くのです。だからやっぱり心の悪い人は必ず失敗しますが、それはそういうわけです。だからさっき言ったように共産主義は必ず失敗するという事はそういうわけです。それは不純だからです。本当に世の中のためになり、多くの人を幸福にするという考えはないので、自分の利益のためには人を殺すのはへでもないのです。粛正と言って非常に多くの人を殺してます。中共などもやってますが、中共もそういうようで必ず倒れます。もう長い事はありません。ですから朝鮮問題にしても結論から言うと中共の大失敗で、アメリカの大成功です。韓国がまさに風前の燈(トモシビ)という事になった時に、もう一息で成功するところだったのですが、ドッコイとアメリカが遠くから援軍を寄越して間に合って、とに角押し返して封じ込めたという事は、アメリカの方が正義があって、中共の方が不正義だったからそういう結果になったのです。だから共産主義を恐ろしがってますが、共産主義は恐れる必要はありません。そういうのは決して成功するものではないので、或る時期までなのです。だから先が本当の正義でやればそれは恐ろしいです。と言ってもこっちは恐ろしくはないので、悪人には恐ろしいのです。そういうようで、悪い奴はそんなに恐ろしくありません。そういうような見方も、やっぱり急所です。どっちが不正義かという事です。日本が戦争に負けたのも、日本が正しくなかったから負けたのです。それで日清日露の戦争は日本の方が正しかったから勝ったのです。ですから日本は神国とか言ったところで、これは人間の都合のいいように解釈したので、つまり正義の方が勝ったわけです。だからそういうように考えてゆけば、正義の方が勝ったとすれば、正義は神様だから神国には違いないです。つまりそれが物事の判断の急所です。

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それからこれは参考になるからちょっと話しておきますが、この間或る支部で、一生懸命に働いていた人が、ちょっと理窟に合わない変な事があったのです。その事情は言えませんが、それで私は変だと思って、その支部を監督している中教会長とその変な人もチャンと良くなって一緒に来ましたので聞いてみると、其処は出張所になっていたのです。――中教会は地方にあって、東京に出張所をやっていたのです――。出張所をおくという事は別に悪くないが、其処の支部長がいないのです。支部長が無くて出張所があったのです。それは嘘であって、それを知らせるために神様がなさったのです。ですから支部は結構ですが、支部長が居なければならないのです。支部長が居なければ、若しかそこの信者が病気とかいろんな事があった場合に、中教会は地方にあるのですから、支部長という責任者が無かったら、空(カラ)ッポのようなものですから嘘なのです。支部と名のつく以上は必ず支部長が居なければならないのです。それで“それは閉鎖しろ、支部長ができたらやるように”と言ってやりました。ですから理窟に合わない時には必ずお知らせがあります。ちょっとでも変な事があると、それをすっかり調べてみると必ず何か間違った事があります。ですからそういう理窟に合わない事や、何かおかしな事があると思ったら、そこを考えて、何処かに間違った事があると考えると必ず何かあります。それもこれもやっぱり智慧正覚がないとそれを発見する事ができないのです。ですから急所を発見する事と、それから順序を間違えない事です。この順序を違えるという事はよくあります。違えるという事は、気がつかないのです。それから知らない事があります。例えばこれを先にやり、こっちを後からやるという区別が分らなかったり気がつかない事がよくあります。そういう事はちょっと面倒なようですが、それを知ってしまうと無意識で順序を正しくします。霊界は霊主体従であると共に、それから体主霊従の事も沢山あるのです。しかし結局は霊主体従になりますが、一時的には体主霊従の事があるのです。というのは最近の事で、この間放送局で録音をとりに来たのです。――その放送の予定は明日の午前十一時半ですが、これは私と、立正交成会の会長の庭野という人、PL教団の三木徳近、もう一人日之教とか言うそこの教主と、四人が出る予定ですが――最初十日くらい前に来た時に喋ったところが、どうも思ったように喋れないのです。何んだか圧迫感があるようなのです。それで私は気に入らなくてしようがないのです。だからテストしてみて工合が悪いと思ったらもう一度やるから、遠慮なく来てもらいたいと言ったところが、先方でもそう思ったせいか間もなく来て、今度は私は無事にやれたのです。それで前にやった時にはどうして思うようにゆかないかというと、坐る位置が違っていたのです。先方が上座でこっちが下座になっていたのです。ですから仮りに坂なら、先方が上でこっちが下です。その時には気がつかなかったのですが、後でさっきはどうも変だったなと思ったら、順序が違っていたなと思ったのです。それは上座でなければならなかったのです。このことは無理にしなくてもよいが、肝腎な時にはその位置が非常に影響するという事がよく分ります。ですから浄霊の場合にも上座に坐ると効きが大変違います。上座から下座に向ってやると効きが大変な違いです。しかし急な時にはそうはゆかない事があります。怪我をして出血が多いという時には直ぐにやらなければならないが、やっぱり臨機応変にやらなければならないのです。こういう事も急所なのです。前に信仰雑話にも書いてあったと思いますが、「順序」というものが如何に影響があるかという事です。今の人は順序という事には全然構わないのですが、今一番いけない事は、建築をする時に大抵な所は子供の部屋を二階にとるのです。これが大変な間違いです。それで親不幸が出るのです。それで不断居るという事より寝る所が大変なのですが、親よりも上に寝るという事は、形では分らないが、霊界ではそういうようになるのです。霊界は出鱈目(デタラメ)ではないので、実に厳格になってますから、霊主体従の法則によって、順序が違っているとそれだけ影響がきますから、苦しかったり思うようにゆかなかったり、何んだか気持が悪いものです。ですから、私がこうして高い所で喋るから、喋りよいし、又あなた方も聞きよいのですが、これが逆になったら変なものです。ですから「神は順序なり」で、神様は非常に順序がやかましいのです。仏様を拝む度に祖霊が沢山来ますが、それは実に順序がキチンとしています。大先祖は上段に居て、それからだんだん新しい先祖ほど下にゆき、親子兄弟、親戚と、その順序は正確に並んでいるわけです。だから家庭でもいろんな場合は、親子兄弟の順序を出鱈目にしないようにするのです。そうすると何時も気持よく平和にゆくのです。争いや言い合いがあったりいろいろしますが、そういう時には坐る事とかいろんな事でみんな順序が違っているのです。それで親が座る所、長男、次男の坐る所と、決まっているのです。それで食事の時に順序がチャンとしていると気持よくゆくのです。それが順序が違っていると食事中に喧嘩したり気持が悪い事があるのです。そういう事は些細(ササイ)な事のようであって、大きな事です。ところが霊界にはいろんな邪神も居るし、反対派の方の霊が居て、それが順序を壊そうと始終やっているのです。それが体に写っていろんな事があります。それで私を邪神は始終狙っています。しかし光が怖いから側には来れないが、遠まきにやっているのです。何かあると、これは邪神がやっているなと直ぐに分りますが、それでとんでもなく順序を変えるのです。詳しく言うとこんな事で影響するかと思いますが、私を下にしようとするのです。と言っても目に見えるようにではないので、それは実に微妙なものですが、そうすると私の光がちょっと跡切(トギ)れるのです。それで跡切れるほど邪神の寿命が延びるのです。それはどうせ自分達はもう長くないという事は分っているのですが、やはり邪神としての権力を持ってますから、その権力を一日でも長くさせたいのです。そこで私の光を妨げるのです。今までのいろんな事件もみんなそれです。それによって一時延びるのです。しかし私の方がだんだん強くなって、しまいには先が往生します。それからがミロクの世になるのです。

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九月六日

今書いているのは、何時かも話した「医学革命の書」ですが、この間は「序文」を読んだので、その次に載せるので一番根本的のものが大体出来上りましたから読ませます。

御論文  医学革命の書〔⇒現代医学論〕

これらのことは信者の人は大抵分っている事ですが、根本は一般の人に読ませるのですから、こういうふうにすっかり書かなくては分らないので、こういうように書いたわけです。

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それから注意しなければならない事ですが、名前は言いませんが、中教会が地方にあって、東京に出張所がある所で、その出張所で熱心に働いている信者の一人が、最近信者としてはちょっとあり得べからざる事をしようとしたのです。それは神様から止められて事無きを得たのですが、そういう事はあり得べき事ではないのです。そこで呼んでよく調べてみたところが、其処は出張所になっていて支部長が居ないのです。つまり支部であって支部長が居ないという事が大変な間違いなのです。支部はよいのですが、しかし支部長はちゃんと居なければいけないのです。というのは支部長が居ないと、其処に属している信者に何かあった場合には、出張する先生を待たなければならない。ところがそれが地方なのですから、そうすると支部はガラン堂と同じです。ガラン堂では支部としての機能を発揮する事はできませんから、それは嘘なのです。そこで私は、“その支部を止せ、それで支部長になるべき人ができたら又開けばよい”と言ってやりました。そういう嘘をやっていたから、そこであり得べからざる間違いが起こりかけたのです。そういうようなわけで、これもやっぱり理窟に合わない事です。だからやはり、支部なら支部とすれば、その機能を発揮する事ができるような組織ができていなければならないのです。それを全然そういうような出鱈目でいるという事は許されないのです。よく医者などでは出張所という事がありますが、それと同じように思ったのでしょうが、神様の方はそれと同じようでは全然いけないのです。そういうようで、何か問題があるとか何かある場合に、それを調べてみると必ず間違ったところがあるのです。それを神様が教え注意されるのです。この間もあった事ですが、私の写真を支部長と信者と両方でいただいて帰ったのですが、いただいた写真が同じものだと思って、両方で間違えて持って帰ったのです。そうすると信者の方の写真に皺(シワ)みたいな物ができてしまって、とても掛けておけないような見苦しさでそれがはっきり分るのです。それでどういう訳かという質問があったので、とに角こっちに持って来て見せろと言って調べたのです。それは同じ写真だからよいと思って交換したのでしょうが、それはいけないのです。それで神様がそれを知らせるためにそういう皺ができてしまったわけです。そうしてそれでお知らせになったわけです。そういうようで、いただいたものを、同じものだからと言って替えるという事は大変間違った事です。それをいただいたという事は、その瞬間にその人の護り神なのですから、人が違えば全然意味が無くなり、結局無駄になるわけです。それも、チャンといただいた以上は自分の将来を御守護して下さると思えば、そういう事はできないわけです。つまりそこに心に隙があるか、或いは軽く見ているわけです。それでウッカリとそういう事をしてしまうのです。ですからこの間も言ったとおり、チャンと理窟があるのですから、ちょっとでも理窟に外れた事はいけないのです。ですから信者さんのいろいろな事を見ていると、つまらない、どうでもよい事に非常に重きをおいて、ちょっとした事が御無礼になったのではないかと心配して質問して来る事があります。それで非常に重要な事を割合に軽く見ているのです。その区別を割合に知らないのです。ですから重要な事とそうでない事との差別をよく知らなければならないのです。今の私の写真というのは一番重要なのです。「光明如来」と御掛軸を書きますが、あれは私が書くのですから、光明如来様よりか私が上なのです。ところが人によると光明如来様の方を上にして、写真の方を下にするのがありますが、これは大変な間違いです。ですからそういうように理窟を考えると直ぐ分るのです。ところが昔からのいろいろな宗教はそれがなかったからなのです。しかし昔でも、仏体とかそういう場合には管長なり教祖が魂を入れるという事になってますが、やはりそういったのは、形とか彫物とか絵というものは坊さんにはできないので、魂だけは開祖なら開祖が入れる事になってますが、やはりそれと同じようで、私が書くという事は、それが最高のものとして見なければいけないのです。ですからそういうような理窟に合わなければいけないという事をよく心得ておかなければいけません。

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それから今日の十一時半から放送があるのですが、これは放送局が最初言った事と大変違うのです。こういう事なら私は録音はとらなくてもよかったと思うのです。最初の話では、私と、立正交成会の会長の庭野日敬、PL教団の三木徳近という事を言うので、私も喋ったのですが、今日発表したところによると、庭野という人だけで、あとは全然名も知れないような人です。修養団捧誠会総裁出居清太郎、日之教教主管者佐久間俊一というのですから、全然知らない人です。ですからどうも甚だ感心しませんが、今となってはどうにもならないから、やむを得ません。そういうようですが、十一時半になりますから、ちょっと聞いてみようと思います。ラジオをかけさせます。

(NHK第一放送ラジオ・アンケート)

やっぱり救世教を主にするつもりだったわけです。ですから他のは、つき合わせです。時間を見たら、やっぱり私のを倍以上長くしてました。先方の考えでは救世教だけにするつもりだったが、そうすると宗教宣伝になるので、それではいけないため、他のを混ぜれば新宗教としてとか、今のように「世直し」というような意味になりますから、今のようにやったわけです。他のは決まりきった事を言ってます。私はもっと言いたかったが、これは喋り難い事なのです。というのは、どうしても自分の宗教が一番だ、他のは駄目だと、思いきって話せば話せますが、それではどうも工合が悪いのでそういうように言わないで、人に悪い感じを与えないようにするためにああいうようにヨドミヨドミ話したのです。それで自分が病気を治す力を神様から与えられたという事もあんまり言わないようにするので実に話し難いのです。それから他の話もしましたが、美術館の事や農業の事はスラスラ話したので聞き易いのですが、一番苦手と言うか、言い難い事を話すので困りました。そうかと言って或る程度は医学の間違っている事や、こっちでは病気の治る事も言いたいが、それもあんまり言う事ができないわけで、随分厄介な問題でした。それも世の中が変って来て、救世教が社会から認識されれば、それは思いきって言えるが、今のところは実にどうも変な工合です。ですから又ああいった変な話し方になったわけです。でも幾らかは病気に対する世の中の見方と違うところが出てましたから、幾らか役に立つでしょう。

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それから病気に対して少しお話ししますが、今はどんな人でも、とに角一番の病気の原因は頭で、それから頸から肩の凝りです。ですからどんな人でも頭が痛いとか、或いは食欲がないとか、体がだるいとか、いろんな事は殆んど微熱です。いわゆる神経衰弱というのがそれです。それは今言ったとおり、頸の廻りとか肩とかの凝りです。それについて書いてみました。

御論文〔⇒医学封建〕【註  栄光二二七号】

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九月七日

昨日のラジオを聞いたでしょうが、あれは何時かの鹿児島の問題で、こっちからウンとかけ合ったところが、放送は取り消す事はできないので、詫びる意味で何んとか致しましょうという事になっていて、それが昨日の放送になったのです。本当は救世教だけでよいのですが、これは又妙なもので、救世教だけとすると一つの宗教宣伝になるわけです。一つだけの宗教の宣伝になるとそれがいけないので、他の宗教を入れれば一般的の意味になりますから、新宗教とか或いは昨日の題のように“世直し”というような意味で理窟はつくわけなので、ああしたわけです。だからこっちの方は丁度九分で、他のは三つで五分半くらいでした。しまいのは時間がなくなったので、話をしている中途で、気の毒ですが中止するようなわけだったのです。とに角こっちに対しては非常にプラスになったわけです。これは、甚だ下等な言い方ですが、やっと胸がすいたと言うか、とに角よかったです。本教に対しとに角世間は余程見方が変って来たという事は確かです。ですからこの頃は、新聞や雑誌に時々出ますが、以前のような愚弄(グロウ)したような事や、悪い感じを抱くような事は殆んどなくなって来ました。どっちかと言うと幾らか言い方や見方がよくなって来たという事は確かです。今度「婦人生活」の十月号に、七頁というのですから相当長く出るのでしょうが、これも割合によく書くらしいです。それもこれも、美術館などが非常にいい影響を与えていると思うのです。私の考えとしては、一般新宗教と同じに見られないように早くなりたいと思います。救世教というのは新宗教なみに見る事はできない、むしろ既成宗教でもとても敵(カナ)わないというように見られるようになると、こっちがやりよくなるばかりでなく、私の予定のとおりになるわけです。それには結局ハワイとアメリカの発展が一番効果があると思います。これだけは他の宗教では全然手が出ないのです。それも神様がいい塩梅(アンバイ)にする事は間違いありませんが、話をしてみればそういうようです。昨日のラジオでも医学に対する事を一番言ってありましたから、相当の成果はあったと思います。しかし医学に関する事、他の宗教に関する事は、実に話し難いのです。あんまりコキ下すような事を言っては、やっぱり悪感情を持ちますし、又世の中の一般の人でも医学というものを絶対に信じてますから、そういう点も考えてやらないと逆効果になるといけませんから、非常に話し難いのです。ですから外の美術館とか農業の事の話はスラスラとゆきましたが、医学や既成宗教の事の話をしてくれと言うのですが、その点は、非常に話し難いので、録音をとる時も非常に渋滞(ジユウタイ)しました。それもやむを得ません。それで何んとしても医学について分らせなければしようがないと思って、いずれ「医学革命の書」の本が出ますが、これが相当問題になるだろうと思ってます。医学に対してできるだけ各面から見て批判しようと思って今書いてますが、これはその中の一つですが読ませます。

御論文〔⇒医学封建〕【註  栄光二二七号】

これほど進歩した医学が封建というのは随分おかしな話です。それで封建時代には人を殺すのは何んとも思わないで、そのために主君のためとか何んとか言って殺された人間はどのくらいあるか分りません。これは内容は医学とは違いますが、しかし結果から言うと医学の方はもっと大量の殺人をしているのですから、これは大変な恐ろしい問題です。戦争が人を殺すと言っても、医学から比べたら鼻クソみたいなものです。そういうように世界の人類の大量殺人をドンドンやっているのです。それでこれを進歩したと言い、これを進歩させなければならないと言って一生懸命にやっているのですから、無智と言ってよいか野蛮と言うか分りません。尤も野蛮人のやり方とは違うのですから野蛮とは言えないでしょう。しかしそれは文化的にはなってますが、野蛮よりもっと酷いもので、何んと言ってよいか分りません。野蛮というのは虐殺ですが、これは非常に柔らかく、理智的に、形よく、結果において殺してしまうのです。ここまで知らせなければならないが、いきなりこういう事を言っては喫驚(ビツクリ)して、どういう態度に出るか分らないですから、ここだけの話ですが、だんだん分らしてゆくつもりです。それで結局アメリカあたりでアメリカ人の信者が沢山できて、そうして救世教の勢力というものが認められてゆくようになれば、それからだんだんとこっちは本音(ホンネ)を説いてゆこうと思います。それこそ原子爆弾どころの騒ぎでなく、世界中の問題になるのです。それは無論神様の方ではよい工合にやりますからよいのです。私はあの人は幾つで死んだという事を聞くと直ぐに、又医者に殺されたなと思うのです。ところがそれがもっと困る事には、普通はいろんな人殺しをするのは、殺そうという意識でやるのですから、かえって罪は軽いのです。ところがこの方は助けようとしてやるのですから厄介です。要するに善意の殺人です。殺人に善意というのはないのですから、善意の殺人というのは変ですが、はっきり言えばそうです。しかしそうもはっきり言えないので、この頃は善意の罪悪と言いますが、そういうわけですから、実にこれほど大きな問題はありません。

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それから昨夜ちょっと感じたので書いてみた事があります。

御論文〔⇒本教発展の主因〕【註  栄光二二八号】

昨日もアルゼンチンから手紙が来ましたが、これは今年の六月にあっちからの手紙で、是非救われたいと言うので、御守を送ったり御神書を送ったりしましたが、昨日の手紙では、その人も大分熱心に働き出したのですが、遠からずアルゼンチンにも始まるだろうと思います。これは手紙でやるのが一番よいのです。一々遠くに行くのは大変ですから、手紙だけであっちに信者ができると、いずれは誰かが行く事になりますが、そういった準備をしておけば、あとが楽です。神様のやる事はなかなか気がきいていると思います。とに角神様というのは気がきいているものです。しかし古い昔の神様は気がききません。人間を苦しめたりいろいろしますが、救世教の神様はとに角力があるわけですから、何んでも自由自在です。この間も歌でよみましたが「泣くが如く訴ふが如き祈りこそ小乗宗教のしるしなりける」というのです。キリスト教なども“泣く如く訴うるが如き祈り”というのは沢山あります。路傍で牧師などが説教しているのも、実に哀れむべき声を出してやってますが、あれは神様に力がないから、自力が加わるため、自力を主にするからです。そういうようにして救われるというのは、やっぱり一つの地獄的のものです。ニコニコして笑って救われてゆくのでなければ本当の天国的宗教ではありません。私は前にキリスト教の婚礼に招れた事がありますが、婚礼とお通夜と同じです。尤もお弔いの時には、この頃はあんまりないが、昔はお菓子をくれます。キリスト教の婚礼式にはお菓子をくれます。それからこれはキリスト教の一派ですが、笑いは罪悪としてあります。ですから前に私が笑い冠句をやっている時にクリスチャンの人が来て、キリスト教では笑いを罪悪としているのに、此処は笑いを奨励している、全然違うと言ってました。そういうわけで、よくも違っているのです。ですからそういった宗教が世界的に大いにやっている時は、やっぱり世界は地獄的になるのも、丁度合っているわけです。尤もそれでも悪い奴に苦しんだりしているよりも、宗教的に苦しんでいる方がずっとよいです。しかし神様の方から御覧になれば、やっぱり人間が喜んで歓喜に溢れている世の中にしなければならないのです。ですから救世教のようなのは今までに全然ないのですから、いろいろ誤解されたり、間違った眼で見られたりするわけです。昨日のラジオでも、他の宗教は戒律を守らなければならないとか、道徳上から言うと、こうとか、いろいろ言ってましたが、今まではみんなそういう説き方だったからそれでよいのですが、戒律というものはやっぱり一つの自力です。丁度分り易く言うと、誰も人の見てない所に金が落ちている、そうするとこれは拾いたい、欲しいと思うが、これを拾っては罪をつくる。だから我慢して押さえるのですが、それは戒律です。ところが本当言うと、落ちていても、これは自分のものではないから拾わないに決まっているのだから、それを何んとも思わないで拾わないで行くというのが本当です。戒律があるから、したい事もしないという事は本当ではないのです。だから我慢しなくてもよいのです。自然にやらない事に決まっているのですから、何んとも思わないで通り過ぎて行くというのが救世教のやり方です。ですから戒律がないのではなくて、戒律は要らないのです。ところがつまり、酒が飲みたい、飲みたいけれども、これは神様に悪いと言って一生懸命に我慢するが、それでは本当ではありません。だから酒は飲みたくない、飲もうと思わないというのが本当です。私は酒を飲むなという事は言った事はありません。酒が好きな人には飲みなさいと言うのです。それでも飲みたくなくなるのですから、それが本当です。ですから自分から自然に悪い事をしない、ずるい事をしない、酒が飲めなくなる、というようにできる宗教が今までになかったのです。そこで、なかったという事は神様に力がないからして、そういう人間にする事ができなかったわけです。そこで一生懸命に外部的に押さえつけるというように、総て外部的のそういったやり方だったのです。これも今までの文明は全部そうです。だから医学でもそうです。苦しみが出るからその苦しみを押さえつける、熱が出るから氷で冷すというのと同じです。宗教もそうなっていたのです。外部的に押さえ、そうしてよい行いをさせるようにするというのです。ですから本当のものではないのです。大体ずるい事をするのでも悪い事をするのでも、あれは一つの趣味です。とても面白くてしようがないのだそうです。巾着切でも、ああしてちょっと人のものをかすめて盗るという事が、実に何んとも言えない面白さがあるのです。ですから真面目に稼げば一万円稼げるものを、ああやればもっと少ないのです。何時か泥坊が、平均してみると普通の労賃よりも少ないというのですから合いません。それでその間に懲役に行ったり、いろいろの事を計算に考えると、一日幾らにもつかないというのです。それでは止めたらよいだろうというが、止められないというのは趣味があるのです。趣味というのはつまり副守護神です。副守護神の方が支配して勝っているからです。ところが趣味が無くなるという事は、副守護神がいじけてしまって、人間を支配するのではなくて支配されてしまう方になる。そこで趣味がなくなるのです。又よく嘘をつきますが、嘘をつくというのは偽るのですから、一つのずるさですが、これも趣味です。それでどうも嘘が止められないという人が沢山あります。それで何時か聞いた事がありますが、君は嘘をつくが一体何が面白いかと言うと嘘を言うと相手が驚いたり、耳を傾けたりするのが面白いというのです。嘘と言ってもいろいろありますが、一番始末が悪いのは人を喜ばせる嘘です。「今度こういう信者ができて、この人が信者になったら、一度に信者ができる。こういう勢力があって、こんなに金がある。こんなに仲間を集める」というのです。それで私を喜ばせようというのです。その時分には私も、それは大したものだなと言って喜ぶのです。そうすると何時かしら煙(ケム)になってしまうのです。そういう事が幾度もありました。それは喜ばせる嘘です。これは喜ばせる代りに、嘘という事が分ると、こっちは余計ガッカリします。更に又喫驚させる嘘があります。「今度はこういう方面で救世教をやっつけようとしている、こういう計画をしているというから、余程気をつけなければならない。然し私にはこういう手があるから、この方から手を廻せば押さえられない事はないが、とに角お気をつけになった方がよいです」というような事を言うのです。ですからこっちは言葉どおりにウッカリ信ずる事があるのです。それで私がそれに耳を傾けると、それに興味を持っているのです。それも一つの大きな罪悪です。それらは何かと言うと、つまり副守護神が面白いのです。新聞などにいろんな事が出てますが、みんなそれです。ですから詐欺師とか、いろんなインチキでウンと金を集めたりして面白おかしく遊ぶ奴がよく出てますが、みんなそれです。ところがそれは副守護神がのさばっているからなのです。それをキューッとやってしまえば、そういう事がつまらなくなり馬鹿々々しくなります。そうすると頭がはっきりして来るから、そういう事をしていてはつまらないという事になって、それよりか人の信用を得てよい地位になった方がよいという、算盤という事がはっきりして来ます。ですからそういう人間に限って算盤をとらないのです。ですから私は何時か“算盤をとれ”という論文を書きましたが、算盤を正確にとれる人は、やっぱり曇りが少ないわけです。

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それからこの間あった事ですが、地方にある或る中教会が東京に出張所をつくっていたのです。その出張所によく働く熱心な信者があったのです。それが事情は言えませんが、ちょっと信者として考えられないほどの事があったのです。あったと言うよりか、ありそうだったのですが、それは御守護でうまく何事もなく済んだのです。これはおかしいと思って中教会長とその人間を呼んで聞いてみたのですが、其処は支部であって支部長が居ないのです。ただの出張所になっていたのです。それがいけなかったのです。右につき心得ておかなければならない事は、かりにも支部と名のついたものは、必ず支部長がなければならないのです。出張所だけというのはいけません。お医者さんなどには出張所という事があって、何時から何時までは院長が出張するという事になってますが、宗教ではそういう事はいけません。どんな時に病気が起こるか分りませんから、支部長が居れば直ぐに呼ぶ事ができますが、居ないとその支部としての機能を発揮してゆく事ができないから、それを神様が教えるためにそういう事があったのです。ですからちょっと気がつかないような事でも、案外大きな事があるからして、何時かも言ったとおり、理窟に合わなければいけないという事で、つまりその理窟を考えるのです。考えれば分るのです。若し分らないとすれば智慧正覚が鈍っているからです。鈍っているという事は霊に曇りがあるのです。だからできるだけ曇りを取らなければいけないのです。それにはできるだけ御神書を読むのです。そうするとそれだけ曇りが取れて智慧正覚が発達しますから、よく気がついたり、理窟が分りよくなります。それで理窟どおりにゆけば総てが順調にゆくのです。時々いろいろな事の質問がありますが、何かある時には調べてみると必ず何処かに理窟に外れている事があります。だからこの理窟を知る事です。理窟を知る事は、要するに気のつく事です。だからお釈迦さんは“悟りを開け”“覚者になれ”と言ったのです。“覚者になれ”という事は、今言った智慧正覚がある程度まで発達する事です。ですから仏教の方ではよく“智慧”という事を言ってます。お釈迦さんの説いた事の眼目は殆んど“智慧”でしょう。そういうようで、“智慧”という事は、今言った智慧正覚、つまり“覚り”です。覚りという事は、あきらめという事ばかりでなく、“自覚”“覚者”という事ですから、それは大きい小さいにかかわらず何んでも理窟に合わせなければならないのです。そうするとその人のする事が、そう骨折らないで総てがうまくゆくのです。それについて一昨々日、前の日活の社長をしていた人で、なかなかやり手ですが、その人が私の意見を聞きに、他の人に連れられて来たのです。その連れて来た人も相当な人です。それで最初言うには“銀座辺りにモナコのようなビルディングをこしらえて経営しようと思う、それに賛成してくれ”と言うので、私は“賛成できない”と言うと、“どういう訳か”と聞きますから、“そういう仕事は罪を作るからいけない”と言ったところが、その一言でハッと思ったらしいのです。尤もその人はお寺の生まれで、仏教の事も相当知っているので、罪を作るという一言で目が覚めるように分ったのです。いろんな話をしましたが、私が一々急所々々を言ってやったところが、非常に恐縮して、自分も大いに覚りを得たと言って喜んでいました。そういうような工合で、急所を見付けるという事がやはり智慧正覚ですから、そういうような人間になれば何事でも急所の発見が早いです。だから無駄がないわけです。それからその時にも言ったのですが、私はこれだけ大きな仕事をしていても、別にそうワサワサと忙がしそうにしていない。始終割に悠々として、美術を楽しんだり庭を楽しんだりいろいろしている。それでいて仕事は十人前くらいやりますが、それは何故かと言うと急所をやるので無駄をしないからです。それで急所をやるという事は、急所を発見するからです。この間の論文にも書きましたが、今の人はつまらない事や簡単に分る事を、大勢で毎日会議をして結論が出ないというのは、それはつまり急所の発見ができないからです。できないという事は曇りきっているからです。この間も読んだとおり今の人は毒塊人間だからして、霊の方もやっぱり曇りの固まりみたいなものですから、そこで今言う急所の発見が少しもできないわけです。しかしだんだんそういう人間が増えているのです。つまりだんだん薬毒が多くなって来るからして血が濁る、そこで霊が曇る、という事になるからして、例えてみれば政治家にしても昔の政治家の偉い人は、一人で随分目覚ましい仕事をしたものですが、今の政治家というのは年中ゴテゴテと始終相談したりしてますが、さっぱり成績が上らないのです。ですからどんな相談でも纏まりというのがつかないらしいのです。鳩山自由党と吉田の方とが、昨日は合同する事になるだろうというような事だったが、私もそうなるべきだと思っていたが、さっきのラジオで聞いてみると、今日は駄目だというのです。そういう事が最初から分っていれば相談もしないのですが、それが分らないのです。それで年中、くっつきそうで離れるのです。これは改進党と自由党も同じです。それから社会党の右派と左派もそうで年中くっつきそうで離れているのです。これを見ても如何に智慧正覚がないかという事が分ります。見込があればやり、見込がなければ最初からやらないというのがよいのです。尤も、そういう事があって料理屋に行って酒を飲む、その方があてかも知れません。中には恐妻病か何かで、うまく口実をつけなければ怖いから、毎日相談とか会議という事を言って、料理屋に行くのもあるかもしれません。

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九月十五日 

今理論物理学の研究があって世界中から偉い学者が寄って、日本でも非常に喜んでますが、これは私からみると、丁度東京に行くのに、やっと北海道を出て津軽海峡を渡ろうというくらいの所でしょう。だから未だ東京は見ないから、東京の話をしたところで分らないのです。そうかと言って、宗教家がそんな事を言っても、テンデ振り向きもしないから、幾らそう思っても何んにもなりません。今物性論というのを盛んに唱えてますが、これはこの間も話したとおり、丁度宗教の方に入るちょっと手前なのです。だから未だ内地には入れないのです。北海道の函館辺りで切符を買っているようなものです。それが丁度物性論の所なのです。馬鹿々々しいものです。私は昨夜ちょっと書いたのですが、間に合わなかったので、ただ出たままを書いたのです。題を「超愚」としようと思います。「馬鹿以上」と書こうと思ったが、どうもそれではあんまり酷いので「超愚」という題にしました。愚かを「超越」しているというわけです。つまり、考えてみても、馬鹿というのは割合にそう困るほどではないのです。よく“馬鹿の一つ覚え”という事を言います。でも、一つでも覚えるという事は大したものです。だからそう馬鹿にできません。ところがそれどころではないので、とに角それに合う言葉は日本語にはありません。英語にもないだろうと思いますが、それほどの馬鹿は今までにないからです。では一体それほどの超越した馬鹿は何処にいるかというと、無論世界中にいます。日本でも、とに角学校教育を受けた者ほど超馬鹿なのです。そうなるといよいよ分らなくなりますが、これに気がつかないのです。それはどの点にあるかというと、その事について書きましたから読ませます。

御論文〔⇒超愚〕【註  栄光二二九号】

病気によって薬をのむという事は、つまり始終薬をのんで健康だった、それがたまたま薬を止したために病気になったというのです。丁度不断メシを食っているのでピンピンしているが、ついメシを一度か二度抜いた、だから弱って働けない、それで早くメシを食って腹をくちくしろ。それで食うと、くちくなって働けるという理窟です。だから薬をのんでいたために達者でいたのだ、ところが薬が切れたので弱ってしまった、要するに病気になった。だから薬を入れれば又達者になる、という理窟と同じ事です。ここをよく考えてみると分ります。浄化作用という事を知らないで、ごく常識的に平凡な理窟で考えてみてもわかります。“あなたはこの頃大変体が弱ったようですね”“ええどうも薬が切れたのでこんなになりました”“では薬を沢山なるだけ強い薬をのみなさい”というので強い薬を沢山のんだら快復した、というのが今の人です。ところでごく山奥の人や、下層階級の人や、又全然何も知らない人は、薬をのまないから、そういう人は体が弱くなっていなければならないのです。それから昔は弁慶とか、いろいろ強い人が居ましたが、そういうのは薬をウンとのんでいなければならないのです。ところが文明時代と言われるようになってからだんだん弱って来ているのです。それで今は世界中が大騒ぎになって薬をのませようとしているのですから、これはどうも変な話です。それで薬をのまないから丈夫で、丈夫だから薬をのまないという人が沢山あります。ところがどうも不思議なのです。“大体薬をのむから丈夫なのではないですか。あなたみたいに薬をのまないで丈夫という事はおかしいではないですか”という事になったら、これは大変におかしい事になります。だからそれだけの簡単な理窟が分らないのです。そうして今度は浄化作用が分ってからの話ですが、そうすると、その薬をのむと、近頃のように新薬などがドシドシ出て――新聞広告などは薬の広告で埋まってます――そうしてのんで、結局命まで無くするのですが、平凡に考えてさえその馬鹿さ加減が分ります。今度はそれ以上にマイナスになるとしたら、全く馬鹿を通り越しているわけです。そういう事の理窟が分らないだけは馬鹿で済みますが、今度はそうして苦しんで命を縮めるという事は、馬鹿よりか以上です。そこで「超愚」という題をつけるよりしようがないのです。これは独り医学ばかりではなく、何んにでも言えます。今年などの米は、今日の新聞では五千九百八十万石と言ってます。それでいろんな対策を講じてます。特に人造米というのを作ってますが、人造米は栄養がどうとか味がどうとか言っても駄目に決まってます。これが米だからいいようなものの、外の物だったらおかしなものになります。菜葉や沢庵とかを人造にしても、そういうのは……。たとえ食えるとしても手数がかかってしようがありません。それよりか土から自然にとれるのがどれだけよいか分りません。なるほど今年は水害がありましたが、しかしこれは全体からみれば一部です。今年の不作の原因は、何んと言っても虫害です。だから虫害を無くしさえすれば大変な増産になるわけです。それを幾ら言っても――農業特集号などを全国の農家などに一万部以上配っても――殆んど反響がないのです。尤も今までの迷信が急には抜けないから、首をひねらせるだけの効果はありますが、それがだんだん育っていって、だんだん分るような時期が来る事にはなります。そういうわけで「超馬鹿」は農業の方にもあるわけです。そういった原因というのは、やはり科学迷信です。それを破るのが根本です。とすれば、有神思想を養う事で、というのは神様が在るという事を見せるよりないのです。ところが神様を見せるという事は救世教よりないのです。それには奇蹟よりないのですが、奇蹟というのは外の宗教にしても全然ないのですから、どうしても救世教が救わなければしようがないのです。それについて書いてみました。

御論文〔理窟で人を救えるか〕

“救世教が非常に僅かの間に大きくなったという事は不思議だ”と、そういう事を思っている人も大分あるようですし、時々聞かれもします。それで私は“それは病気が治るからだ。それでその感謝感激が献金となるので、それで金が集まる。それが急激に発展する一番の動機だ”と言って話してやりますが、あなた方もそういう事は始終聞かれるでしょうが、それについて書いてみました。

御論文〔⇒本教発展の主因〕【注  栄光二二八号】

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さっきの「⇒超愚」の中でもう一つ、気がつかない事でこういう事があります。新聞などを見ると売薬の広告が目につきますが、これは昔と違って余程書き方がうまくなりました。昔は“何んでも治る”というような事を書きましたが、今は“特種な病気に”というように書いてあります。ところがその薬は一つとして本当に治るものはありません。これは売薬に限らず、信者は知ってますが、どんなに立派な医者が高価な薬とか進歩した世界で有名な薬とか言ったところで、結局病気は治らないのです。若しそれで治れば、救世教の信者は一人もできません。治らないからこうして信者が増えるのです。そうしてみると売薬の広告は全部詐欺です。ですから高い薬を買って治らなかったり悪くしている人は詐欺にかかった被害者です。あなた方は皆そうです。薬の詐欺にかかったのです。しかしこれには誰も気がつかないでしょう。信者の人でも、そう言われなければ気がつかないでしょう。そうしてみると、ああしてデカデカと詐欺行為を許しているというのは、これは当局も知らないからでしょうが、当局も詐欺の被害者なのです。そう考えてみると、これも「超馬鹿」の中に入ります。私は前に“大抵な宗教は詐欺だ”という事を言った事があります。宗教の詐欺というのは珍しい言い方なので、初めて聞いた人は喫驚します。というのは、病気の時にどうしても治らない、お医者でも治らないというので、信仰を求めるというと、まずどんな宗教でも“信心すれば治ります”と言うのです。よくこういう事があります。即ち随分一生懸命に信心しても良くならないと言ってこぼすのです。そうしてその宗教の先生に言うと“それはあなたの信仰が足りないのだ、もっと信仰をしなければいけない”と言うのです。この“信仰が足りない”という事は、結局金の上げ方が足りないという事なのです。それは信者をつくるという手もありますが、それは相当の先生格にならなければなかなかそうはゆかないです。救世教では直きに信者をつくれますが、外の宗教ではなかなかそうはゆきません。だから手取早いのは何んと言っても金を上げることです。この方の親玉は天理教です。その金の上げ方のひどいのになると、前によくこういう事がありました。“あなたは幾ら幾ら金を上げなさい。そうすればきっと治る”と言うので、その人はひどく工面して、借金したり質に入れたりして、先生の言う額を上げたのです。そうしても治るわけがないから結局死んでしまったのですが、そこでどうせ死んでしまうのなら金を上げなければよかった、と言うのです。“それは神様の詐欺にかかったのだ”と言ったら、“神様が詐欺をしますか”と言うから、“神様は詐欺はしないが、神様を取次ぐ者が詐欺をするのだ”と言ったら“へえ、恐ろしいものですね”と言ってました。これは売薬の詐欺よりもっと上のものでしょう。ですから世の中には大中小様々の詐欺があるのです。それを見別けるだけの目がないわけです。だからとに角今の世の中というのは殆んど詐欺の世の中と言ってもよいのです。話は違いますが、道具屋はいろんな物を持って始終来ますが、私は道具屋に“道具屋というのは、うまく法律にかからない詐欺だ”と言っているのです。というのは、持って来る物は殆んど贋物なのです。十品持って来て、本当の物は一品くらいなものでしょう。あとは怪しげな物です。品物だけが詐欺ならまだよいが、値段が詐欺です。仮に品物を百万円と言って持って来るので、こっちは驚いて突き返すと、早いので数日、遅いので数カ月後に、他の道具屋がそれを持って来て、百万円と言った物を二十万円とか言いますが、それでも買わないと、今度は又他の道具屋が持って来て、八万円とか言って来ます。そうすると最初の百万円というのは大変な詐欺です。――それからこういう事を聞きます。相当に力のある人が美術館を造ろうとしているのですが、それができないのです。というのは、本物ばかりでなければ公衆の観覧物とはできないのです。この間も小林一三氏が来て、四時間此処に居て非常に喜んでいました。あの人は他所(ヨソ)では大抵五分か十分しか居ないそうで、こういう事は例がないと、随行の人が言ってました。それで美術館以外の物も見せてやりましたが、よくもこんなに集まった、と言ってました。あの人は古くから買ってますから、数はあるので、量においては私なども負けます――。道具屋が知らないで持って来るのならよいですが、それを知っていて持って来るのです。長年来ている者が、一杯食わせようと思って持って来るのですから、実に恐ろしいものです。今の売薬の詐欺は命に関わる事ですから悪質ですが、詐欺の点においてはポチポチです。お医者さんはもっとはっきりした詐欺をしてます。“あなたは入院すれば治る”“この薬をのめば治る”と言っていて、そのとおりになった事はおそらくありません。これはお蔭話にも始終あります。それは医者は長年経験しているのだから、治るか治らないかは、はっきり分るに違いないのですが、そうしてみると“試しにやってみよう”“うまくゆけば治るだろう”というわけですから、これは立派な詐欺です。ですから今の世の中の人で少し懐の温かい人は殆んど詐欺の被害者です。それがはっきり分るのは救世教信者だけです。殆んどの人は詐欺を見破る事ができないで、詐欺のために命までに関わっている人が沢山あります。そこで神様はそういう事をはっきり暴露するのです。その詐欺の本元は邪神ですが、霊界では邪神は救世教というのが随分怖いのです。しかしだんだん邪神の方が力が弱って来つつありますから、別に大して心配はありませんが、話をすればそういうことになるわけです。

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九月十六日

今理論物理学の研究のため、世界中から偉い科学者が集まっていますが、これは北海道から東京に来るとすると、丁度津軽海峡を渡ろうとして函館で話し合っているようなものです。この津軽海峡を渡ると、つまり霊界――宗教の方になるので、丁度科学は今宗教の手前まで来ているわけです。物性論というのはそういうものです。つまり物質から、そろそろ霊界の方に入りかけている所です。つまり霊界の方へ入らせてしまえばよいのですが、それは結局私がやるより外にしようがありません。つまり物質の世界と霊界とを結びつけるわけです。開会の時に湯川博士が“丁度今は闇の中に居て、各々皆が明かるい所を目差しているが、どっちの方に行ってよいか分らない。そうかと言って、何処かに行かなければならないから、思い思いに闇の中を杖を突いて歩いている。科学界は今そういう状態だ”というような事を話していましたが、うまい事を言ったので、全くそのとおりです。それで私が、こっちだと言って明りを見せているが、なにしろ色盲ではなくて、未だ盲ですから、その光が見えないのです。だから見せても駄目なのです。もっと見える時期が来なくては見えないのです。そうかと言って、いずれは見えるのだから明りだけはつけているのです。そういう状態です。それでその盲のために闇の中を迷って、そうして下らない事をしているのです。それがわれわれから見ると“馬鹿”と言いたいが、馬鹿どころではないのです。馬鹿よりももっと馬鹿という事は、昔からそういう事はなかったから、未だ言葉ができていないのです。それで今日になって馬鹿以上の馬鹿ができたので、新規に言葉をつくるよりありません。それで私は「超愚」としました。「超馬鹿」と言っては、あんまり恰好がよくないから、恰好がよいように「超愚」として書いてみました。

御論文〔⇒超愚〕【註  栄光二二九号】

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今日の新聞にもデカデカと出てましたが、今年の不作の原因は東北地方の冷害だというのです。尤も昔からよく東北地方の冷害というのはありますが、今年は余程酷かったのでしょう。それでこの冷害というものはどういう訳かと言いますと、無論霊界が寒いのですが、ただ普通の寒いのとは影響が違うのです。さっき藤枝さんから聞いたのですが、信者の田は普通の人の田より二度高いそうです。又今年の強羅の温度は鹿児島より高い時があります。今日でも鹿児島は二十三度で、此処は二十三度五分です。平均したら、鹿児島や福岡には負けますが、東京よりは高いです。日本でも一番高い方でしょう。こういう事は今までにない事です。それで此処は避暑地ですが、そんなに温度が高いのに凌(シノ)ぎやすいという事は湿度が低いからです。南洋などでも凌ぎやすいというのは湿度が低いからです。それで乾いているからです。美術館などでも、此処は湿気が多いからカビが出るだろうと言いますが、全然そうではないのです。私は此処で毎年試していますが、湿気を嫌うのは、一番は掛物類です。それが熱海ではカビが生えるのです。ところが箱根はそういう事はありません。ですから箱根の方が乾燥しているのです。大体高山というのは乾燥地帯です。それで霧があるから、見たところは湿り気があるようですが、霧は一時的のもので、晴れれば、あとは又乾燥してしまいます。だから強羅はそういった湿気は少しも心配ありません。それで今言った“此処が高い”という事は私が居るからです。つまり私の光は熱ですから、霊界が暑いから、そういうわけで影響するのです。ですから信者の田が二度高いという事は、やはり光明如来様から光が出ている事と、それから信者になると曇りが減るからして、それだけ霊に光が出るわけです。ですから其処の霊界が明かるくなると共に、温かくなるわけです。今年の信州辺りも非常な冷害でやられているそうですが、無論越後辺りもそうに違いありません。そうすると其処に居る人達に愛が欠乏しているという事になります。愛が少ないと、其処の気候が、気候と言っても物質的の寒暖計で計るのより、霊の方の暑い寒いの方が影響がずっと甚だしいのです。そこで霊界がつめたいために作物が冷害を受けるという理窟になります。ですから根本は霊界なのです。そこでそういう結果になるのです。これはそういった作物に限らず、人間の生活でもよく気をつけると、そういう事があるのが分ります。其処の家に入ると、なにかつめたいような、さびしいような家がありますが、それは其処の主人公に愛がないからです。つまり自分さえ良ければ人はどうでもよいというつめたい心、要するに冷血動物です。だから其処の家がつめたいのです。人間でもそうです。あの人に会うと、何処かしらつめたい、又温かい人だ、という事が分ります。それは霊で、その人の霊が受ける感じです。ですから受ける感じが温かければ愛が多いのです。万事それで分ります。支部でも、発展する支部と発展しない支部という事も、最も主要なる原因はそこにあるのです。愛が多く愛が強いという事は、光が多いという事です。そこで人は光に憧れて集まるという性質を持っているから、どうしてもそういう温かい所には足が向くという事になります。オレの喋り方が悪い、場所が悪い、家が狭い、という事も多少はありますが、根本的のものではありません。根本は其処の支部長の愛が強く、そうして人を引き付けるという事です。それでこれは言霊から言っても面白いのです。太陽は火ですから熱で、又熱の事を火と言います。その反対に月は、私の本に書いてあるとおりに、氷の固まりですからつめたいのです。それで「ツキ」という事は「ツク」という事です。ですから人が寄ろうとするのを寄らせないようにするのです。それから「ヒ」は「ヒク」です。これは天理教でも――そこまで詳しくは言っていませんが――そういう事を言ってます。「ヒ」は「ヒク」「ツキ」は「ツク」と言ってます。だからつめたい働きは「ツク」働きになり、温かい者は「ヒク」働きという事になります。それはチャンと言霊に出てます。人間の話になってしまいましたが、作物も同じです。ですから作物が良く出来るのも、愛が強く多いという事が大いに影響するのです。東北地方は気候も寒いのですが、その外に、つめたい人が多いからという事です。しかしそういった気候も関係するようです。大体共産主義というのはつめたいもので愛がありません。スターリンが居る時分に、片端(カタハシ)から人を殺してしまいましたが、中共もかなり真似をしたようですが、スターリンほどではありません。スターリンはちょっと疑わしい者は、それこそノミでも潰(ツブ)すように簡単に殺してしまいましたが、それはつめたいからです。感情があり、愛があったら、とてもそういう事はできません。そういうのも気候から受ける影響もあるわけです。そういうわけで、今年などの米のとれないのは大変な問題です。それで最初の発表が六千百八十万石というのです。私はそういう馬鹿な事はないと言ったのですが、これは陸稲を入れたのです。そうして誤魔化そうとしたのです。だから私はあの時に、「農林省は陸稲を入れて誤魔化そうとした」と言ったのです。それには農林省内にも大分非難があったので、今度は五千九百八十万石となったのです。しかし五千九百八十万石としたら大変な不作です。去年か一昨年かには六千四百万石までゆきましたから、五百万石の不足です。人口はドンドン増えているし、米はだんだん不作なのだから、昔だったら百姓一揆(イツキ)という事になります。今は輸入という事をやってますが、これが自給自足だったら餓死(ガシ)するのが大変です。その点から言っても、実に大変な危機です。

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それから土について前にも言いましたが、強く言ってないので、今度栄光にも出そうと思ってますが、土に対して連作という事が大変な意味があるのです。米なら米を毎年作っていると、土そのものに米がよく育つような性能が自然にできて来るのです。だから麦との二毛作はいけないという事はそのためです。折角土が米を育てるような性能になったところに麦をやると、ガラッと変って来る。そうすると今度は麦を育てる分子になる。というわけで、二毛作はいけないのです。これは分り易く言うと、人間が仕事をするにも、一つ仕事をやっていると職工なら熟練工になるわけです。毎年同じ土で一つ物を作っていると、つまり熟練工になるわけです。時間がかからずに良い物が出来るというわけです。新しい土というのは素人というわけです。そこで毎年やっていると土が熟練して来て、その性能が増して来るのです。ところが折角熟練工になった土を、たまたま肥料をやったりしては元の木阿彌にしてしまうわけです。ところが厄介なのは、信者の人でも肥料迷信から抜け切れない人がなかなかあるのです。それで科学肥料などはいけないが、今まで使っている厩肥とか魚カス、油カスとか、そういう物ならいいだろうと言って幾らかやるのですが、それが大変に影響するのです。だから自然栽培になっても、どうも他所(ヨソ)の人のように成績が上らないのはどういう訳でしょう、という疑問を起こしている人がよくあるそうですが、そういうのをよく調べてみると必ず何かしら使っているのです。そういうように肥料迷信から抜け切れないのです。丁度医学迷信と同じで、浄霊で治りながら、やっぱり“長い間のんだ薬が効いて来たのだろう”とか、“時節が来たのだろう”とか言っているのです。これはお蔭話によくあります。そういうようで、この迷信を打破するのは実に大変なものです。最近の中部日本新聞で発行している雑誌に「農業日本」というのがありますが、これは何んでも四万くらい出ているそうです。これに自然農法のことを大分トップに出てますが、それを読んでみると――救世教信者の良い方の面は成績もずっとよいけれども――最後の方に官吏の説が書いてありますが、それは“農林省でも今まで無肥料で幾度も作っている。しかしどうも成績が悪い。だから駄目だ”というわけです。これは前から聞く事ですが、つまり彼等のやるのは種に肥毒があって土に肥毒があるのです。そのためにうまく出来ないのです。これは最初の一年目には苗が黄色くなって針のように細くなって心配するというのがありますが、それなのです。やっぱり麻薬中毒と同じで、麻薬が切れると、一時馬鹿みたいになってしまうのと同じで、根本を知らないから一年か二年の成績が悪いと、それで悪いものと決めてしまうのです。つまり熱冷ましをのんで熱を冷ますと一時よい、それで熱冷ましを止めると、今度はもっと高い熱が出るが、それを通り越せばよいが、そこまで頭が働かないからそういう事になるのです。それからもう一つ官吏の言っている事は“明治初年あたりには反当一石くらいだった、それが科学肥料を使うようになってから俄然として成績が良くなった。だからそんな無肥料という事は絶対に駄目だ”という事を言ってます。しかし明治初年には一石というのは少し大袈裟な言い方で肥料を使うようになってからとそんなには違わないが、しかし一時は違ったです。それはどういうわけかというと明治までが無肥料でやって来たのならそれは学者の言うとおりです。しかしそれまでに散々人糞をかけていたのです。だからそれが妨害していたわけです。それで科学肥料をやるようになってからは人糞の害から免れたので良くなったのです。これはやっぱり病気と比べてみるとよく分ります。つまり日本人の体力というものは漢方薬によって非常に弱らせられていたのです。というのは漢方薬は量が多いのです。ところが西洋の薬になると量は実に少ないのです。漢方薬からみると、その百分の一か千分の一くらいなものです。ですから西洋の薬が相当に毒があっても、量が少ないために一時は良くなったのです。ですから最近言われている“日本人の寿命が延びた”という事はそれがためです。近頃になっては、みんな漢方薬をのまなくなって西洋の薬をのんでます。そこで薬毒が減ったから寿命が延びたわけです。更に西洋の薬も止めてしまえば、もっと寿命が延びるわけです。迷信というのは妙なもので、それに限ると思ってしまうと、理窟の多い方に理窟をつけるのです。そういったような迷信を分らせるのだから、とに角私の仕事というものはそれは大変なものです。

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もう一つ面白い話があります。これは今に書きますが、詐欺の時代という事です。というのは今の人間は殆んど詐欺の被害者です。それが詐欺という事が分ればよいが、それに気がつかないのです。一番大きな詐欺は薬です。これは新聞広告にも沢山出てますが、“この薬をのめば病気は良くなる”と言ってます。“治る”とは書きませんが、それは本当は治らないからです。そこで“良くなる”とか“好転する”とか書いてます。それはそうでしょう。薬をのんだ時は一時気持が良くなるからそう書くのです。それで“治る”とは書かないが、“治りそうだ”という事を書いてます。“この病気に対して、これほどよい薬はない”と言ってますが、本当は治らないのですから、治らないのに治るという事を書いているとしたら、立派な詐欺です。ですからみんなは詐欺の被害者なのです。それから医者が“この病気はとても重いから、入院して手術しなさい”と言う。“それでは先生、入院したら治りますか”と言うと、“それはやってみなければ分らない。しかし入院すれば、入院しないよりはよい”というように言います。それがおかしいのです。自分に見込がなくてありそうに思わせるという事は立派な詐欺です。お蔭話にも始終ありますが、“入院しろ”と言うから入院したところが、かえって悪くなって、入院した時には未だ起きれたのが、とうとう寝た切りになったというのがあります。これは恐ろしい詐欺です。世の中にある普通の詐欺は金を損するくらいですが、これは命をやられるのですから詐欺取財でなく詐欺殺人です。それから“あなたは一週間通いなさい、まあ治るでしょう”とか、“この注射を一カ月続ければまあ治りますよ”と言うが、それを続けて治った事はないのです。これも立派な詐欺です。ところが又、宗教の詐欺が大きいし恐ろしいのです。“信仰しなさい。あなたの病気は信仰しだいで治ります”と言うが、この“信仰しだい”というのが臭いのです。それで“先生どうも良くなりません”と言うと、“それはあなたの信仰が足りないのです”と言うのです。この“足りない”という事が遁辞で、腹の中からそう思っているのではないのです。最初にああ言った手前ちょっとまずいから、そういった詭弁(キベン)を使わなければならないのです。救世教の方は信仰が足りても足りなくても治りますが、普通世間の宗教での一番の逃げが“信仰が足りない”です。このために被害を受けているのが大変なものです。ところが前にも話した事がありますが――ある大きな宗教での事です――其処の妻君から聞いたのですが、親父が病気で“二百円寄附すれば治る”と言うので、一生懸命に金をこしらえて二百円寄附したのです。ところがそれから間もなく死んだのです。“どうしたものでしょう、掛け合おうと思ってますが”と言うから、“掛け合いなさい、しかしおそらく返さないでしょう”と言ったのです。それで“信仰には懲り懲りした”と言ってました。“それでは神様が詐欺をするようなものです。しかし神様はそんな事はしないが、神様を看板にしてその教師が一つの詐欺をしたのだ。これは相手が信仰だから、まさか裁判に訴えるわけにゆかないし、そういう法律もないのだから、しようがないですね”と言ったのですが、そういう事があるのです。そうすると宗教を看板にして詐欺をするわけです。この被害が又大きいのです。大体一番大きな害というのは、それがために宗教の信用を傷つける事で、これは大きいのです。これもお蔭話によくありますが、救世教の信仰を奨められて、今までいろんな宗教で懲り懲りしたというような事を書いてあります。そういうようで、つまりこっちが大いに宣伝したり拡張する場合に、この宗教の妨害というものが大変です。宗教というものは駄目だ、おまけに新宗教というのはみんなインチキだ、と思わせるような事です。それは言論機関などもそう言います。それから又自分が信仰してみて、御利益があると言っていながら、ないという事もありますから、救世教をあんなに奨められたが、やっぱりそんなものだろうと思う、その妨害というのが大変なものです。一番変な新宗教による害の方が一番大きいくらいなものでしょう。そういったいろいろな妨害を排除して、そうしてだんだん発展してゆくという事は、神様の御力が強いからです。なかなか大変なものです。それについてちょっと書いてみました。

御論文〔⇒本教発展の主因〕【註  栄光二二八号】

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九月十七日

今世界中の有名な科学者が日本に集まって、理論物理学の知識の交換をやってます。ところがこの骨子は物性論ですが、これはこの間も書いたとおり、顕微鏡で見えない粒子があると仮定して、物性即ち物の性質を理窟だけで掴まえたわけです。ですから理論物理学というのは理論です。その理論を実験するという実験物理学にまではまだ行っていません。そこで浄霊は、理論物理学に対する実験です。これは科学者が発見したのではなく、私が発見したのです。そこで病気が治れば実験が完成したわけです。ですから私がやっている事より、科学はまだまだ遅れているのです。世界中の偉い科学者は今やっと小学校です。だからどうせそれを知らせても信ずるわけがないし、又宗教家がそんな事を言っても、科学の事が分るものかと言って馬鹿にして聞くわけもないから、今のところはどうする事もできないのです。丁度日本の本州を霊界とすると、先生らは北海道の函館辺りに来ているわけです。これから津軽海峡を渡って本州に入ろうとしているわけです。それで私は東京にいるわけですが、あの人達を急に東京に引張って行くわけにもゆかず、これから船に乗り汽車に乗って、何時かは来るわけですが、そういう状態です。ですから私からみると、子供ならまだよいですが、非常に幼稚なものです。それだけならよいが、あんまり先方が低級なために間違った事をし、その間違った事が結局、病気と人間――これに対して私はいろんな面から説いてます。最近書いたもので、これは信者の人でも気がつかない事です。それを読ませます。

御論文〔⇒超愚〕【註  栄光二二九号】

この事はちょっと気がつかない事です。これにも書いてあるとおり、メシを食っているから達者で働けたので、食わないと腹が減ってヒョロヒョロしてしまう。それで早速メシを食って元通りピンピンする、というわけです。これを薬に当て嵌めると、薬を始終のんでいたからピンピンしていた。そこで薬を止めたから弱って来たので、早速薬をのまなければならない、という事と同じ理窟になるわけです。そこで人間が不断薬をのんでいて健康ならばそれでよいのですが、病気になったから薬をのむという事は理窟に合いません。簡単な事であって、今までみんな気がつかないのです。では腹が減った時にメシを食ってピンとなるように、薬をのんで病気が治って達者になるようならそれでよいです。ところが薬をのんでもなかなか良くならないのです。昨日聞いた話ですが、“この薬をのめば、何時間とかで良くなる”と言ったそうですが、その時間が来たら死んでしまったという事があったというのですから、変な事になります。そういうようで簡単で分りきったような事が分らないで一生懸命に薬を進歩させたりいろんな事をしてます。だから馬鹿ではなくて、馬鹿を通り越してます。馬鹿くらいで済めば結構です。“馬鹿は死ななきゃ治らない”というが、これはおそらく死んでも治らないでしょう。

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それから自然農法についてですが、この問題は大分注目されて来たようです。おまけに今年は非常な不作です。最近の発表が五千九百八十万石というのですから、平年作が六千三百万石ですから、四・五百万石減っているわけです。これは去年広川弘禅氏が農林大臣の時に五カ年計画で三割増産という案を立てて、予算なども組んだのです。それで今年は二年目ですが、凡そ逆という事は驚いたものです。これも今の「超愚」の方でしょうが、困ったものです。しかし今年は東北地方の冷害が一番の原因としてますが、確かに冷害も影響があったに違いないのです。冷害のために虫害が酷くなるのです。天日にドンドン当てると虫は弱りますが、天日に当らないと虫は増え放題になるのです。結局において根本は虫害です。最近聞いた話で、栄光にも出しますが、こっちの人が調査に行った時の事ですが、信州辺りで、相当広い所ですが、朝起きて田に行ってみると稲が白くなって、全然みのらないという事が分って、フラフラとなり夫婦心中したものがあるそうで、又それから自殺したのもあるようです。とに角一年米がとれなかったら、税金は免除されたとしても、借金をしなければ食う事はできない事になります。大体が農民は借金が多いですから、一年とれなかったら餓死するより外ありません。だから自殺するという事は当り前で、馬鹿ではありません。われわれにしてもそうかもしれません。そういう事がよくあるのですが、秘密にしているらしいのです。そういうわけですから余計自然農法というのに騒ぎ始めたのです。それから昨日聞いた話ですが、中京の方で座談会や講演会をすると、聴衆の内の九割が未信者で、その内の一割くらいが信仰に入るそうです。それで素晴しい勢いだそうです。それで岐阜県で一番の篤農家の人が今度県の地方本部長になって大いに活躍する事になってますが、その人はどうしてそうなったかというと、最初信者の人が其処から種をもらったのです。そうして今年で五年目ですが、こういう稲が出来たと言って見せたのです。そうするとその篤農家の人は驚いたのです。自分の種で今までこんなに立派な稲が出来たことはない。それで聞いてみると、こうこういう訳で、自然農法でやったと言うと、非常に驚いて、それでは自分はこれに一生を捧げようというので、会長になった由です。そういった人では一番信用があるのだそうですから、素晴しい結果をあげ得ると言って喜んでます。そういうようで最近は信者でなく、そういった信者以外の人が大分刺戟されて、会員になる人が非常に増えたそうです。そういうような工合で、神様は如才なくやられるので、どうしてもこっちの自然農法にならなければならないようにし向けるわけです。或いは今年の不作も神様がうまくやられているのかもしれません。そういうようなわけで、非常に面白くなって来ました。それで今まであんまり言わなかったが、連作ですが、百姓は昔から連作はいけないと言う。ところが一番の連作は稲です。これに気がつかなかったのです。若し連作がいけないものなら米はだんだんとれなくならなければならないのです。それから以前私は米と麦との連作はいけないと言ったが、これもそうです。土に稲を育てるような性能が出て来ると、今度は麦になるから、今度は麦を育てるような性能に変化して来る。そうするとどっちも駄目になるのです。それで土は、毎年同じ物を作っていると土にそれを育てるような性能が出て来るわけです。丁度米を作らない土は素人とすると、毎年稲を作ると、土の方が熟練工になって来るのです。それでだんだん良く出来るというわけで、その理窟を知らなければならないのです。ですから肥料ですが、例え堆肥でもやると、土が大いに熟練になるところを邪魔する事になるわけです。だから本当は堆肥もやらない方がよいのです。だから気候の暖かい所は堆肥、藁などもやらなくてよいという事を私は言いました。ところが長い間の肥料迷信のために、信者で作っている人でも、それに囚(トラ)われて堆肥を入れるのです。ですから畑でも堆肥をやらない方がよく出来るのです。ただ土が固まったり乾いたりする所は、そのために堆肥をやるのです。それもできるだけ腐って土みたいになった堆肥がよいのです。ところが堆肥という事に囚われて、木の葉でも未だ筋があるような物を何貫、何十貫やった、という事を言ってますが、これではわざわざ、金肥人肥ではなくして、一つの妨害をしているわけです。それからもう一つはこういう点があったのです。前には「無肥料」という名称をつけましたが、そうすると進駐軍の方で、一つの規則のようなものがあったのです。作物は肥料をやれという事があるのだそうです。そこで無肥料というと、それに引掛るというので「自然栽培」という名前にしたのです。ですからそれまでは無肥料と言っていたのです。それで大分そういう事を邪魔しようとして進駐軍に投書したりするのがあるのです。本当言うと「無肥料」ですから、堆肥も何もやらないのがよいのです。それでこそ本当に土の活動力が増すわけです。それからもう一つは、無肥料と言うと誤解をするのです。というのは頭から全然肥料をやらなくて出来るものかと言うのです。今の自然栽培でも随分反対する百姓もありますが、自然栽培と言うときこえが良いからやっているのです。ですからやっぱり自然栽培でよいのですが、堆肥迷信を減らすという事です。それから冷害と言うことは、つまり熱がないのですが、これを普通の人は知らないのですが、霊界は――霊界には限らないが、熱いのは火の物質です。そうすると火の霊は肉体には……少しは熱いですが……それほどは感じないのです。しかし少しでも熱いという事は、大変な力があるのです。これは物質の熱よりかもっとずっと力があるのです。ですから一番分りよい事は、今年の強羅の暑さは、東京と同じか、強羅の方が勝っている時の方が多いかもしれません。今日も此処は二十三度で、鹿児島が二十四度で、鹿児島を除いたら二十三度が一番高いのです。ですから強羅が、丁度福岡とか和歌山の辺と同じなのです。東京も今日は二十三度でしたが、そういうような工合で、高いという事は私が居るためです。それで私から出る熱というものは霊の熱が出ますが、これが幾分物質化するために暑いのです。田で試験したのですが、信者の田は他の人の田より二度高いのです。だから米もよく出来るわけです。これは霊の物質化です。ですからこう(浄霊)やって出るのは火素ですが、これは霊にある曇りを焼くのです。ところが普通の火や電気の熱でやっても、霊の曇りを焼くだけの力はありません。ですからこの力というものは霊主体従の法則によって、つまり体的よりか強いわけです。そこでレントゲン写真に写らないという事は、霊の光がレントゲンの光よりか強いからです。そこで冷害という事は気候が寒いという事以外に、霊の光が足りない、少ないのです。それで霊の光と言っても、人間は曇りの少ない人は霊的光が強いから、そこで温かいわけです。人間でも、つめたい感じの人と温かい感じの人がありますが、温かい感じのする人の方が霊に火素があるわけです。だからそういう人は愛がある人です。それで愛というものは心臓から出るもので、これが愛の熱です。だから恋愛もやっぱり心臓ですが、恋愛のシンボルはハート形になってますが、しかしこれは限られた熱です。恋している人に対する熱で、一般人にはゆかないのです。つまり利己的の熱だから問題にはならないが、そうでなく、多くの人を愛するという愛のある人の側に行くと温かい感じがするという事は、その人に火素があるからです。だから冷害で不作という事は、その土地の人に愛の熱がないからです。つまり人はどんな事になっても、オレさえ良ければよいという了簡の人が非常に多いわけです。それで東北の人は、気候の関係の外に、そういう人が多いわけです。しかしこれは又一面には気候の影響も受けるのです。ですからソ連は寒い国ですが、そこでああいう寒い国の人は愛が少ないのです。だからスターリンが在世当時、まるで虫ケラ同様にやたらに人を殺しましたが、これはつまり愛がない証拠です。まあ愛がない親玉です。これが少しでも愛があったら、可哀想で、そうやたらに人を殺すという事ができるものではありません。それが平気なのです。そういうような工合で、人間の愛の熱というものは非常に影響するものです。これはそこの家庭に入っても分ります。玄関に入ってゆくと、主人公に愛のある家だと何んとなく感じが良いですが、入って行ってつめたいというのは――つめたいと実にいやなもので、それがありありと分りますが――それはやっぱり主人にあるものです。そういう事が農作物にまで非常に影響するのです。だから信者になった人の作物がよく出来るという事は、無肥料のためと、もう一つは主人公の愛です。それで畦(アゼ)一つでチャンと区切っていて、隣の田とはまるで違うそうですが、それはそういうわけです。霊界が違うわけです。それからもう一つ気がつかない事に、これは今に書きますが「⇒詐欺時代」というのです。というのは今の世の中は殆んど詐欺ばかりなのです。そう言うとちょっと訳が分らないでしょうが、一番の詐欺は売薬です。新聞広告に盛んに出てますが、読んでみると、“治る”とは書いてありません。しかしうまく書いてます。“これはその病気に非常に適合している”とか、或いは“のむと快くなる”とか、“治りを促進する”とか、“とに角病気が緩和される”とか、そういう事は書いてありますが、“治る”とは書いてありません。ところがそれで治るかのように思わせようとしているのです。ところが実際において治るわけがないのです。薬屋も実際において治らないという事は知っているのです。それで売薬法では、害にならなければよいという事が条件になっているのです。効くという事は、つまり薬は毒ですから、毒の分子があるほどよく効くのです。だからそれではいけないという規則になっているのです。しかし幾らかは効かなければ、みんな買わないから、ただ医者が盛る薬より毒が少ないだけです。それで、実際には治らないのに、治るかの如くに思わせて金をとるのですから、詐欺取財です。それからもっと酷いのは、お医者が“あなたの病気は一週間で治る。まあ二週間続けたらよいでしょう”と言うのですが、これは始終お蔭話に出てますが、実際にそのとおりになった事はありません。それでお医者も確信があるわけではないので、“多分治るだろう”というわけです。しかし若しお医者が本当の事を言って“あなたのようなのは治らない。今までこういうのを経験しているが、一人も治った事はない”と言うと、メシが食えないから、これは詐欺ではないので、やむを得ない罪悪です。そういうやむを得ない罪悪というのは沢山あります。パンパンガールもそれです。パンパンガールは威張って言います。“私達が居るから娘さん達が安心して外を歩けるのだ。若し私達が居なかったら、どんな事をされるかも分らない”と言ってます。これも命に関わる罪でないからまだよいが、命に関わる罪があるのです。お医者が“あなたの病気は重いから入院しなさい”と言う場合、“では入院したら治りますか”と聞くと、“いや、それは分らないが、入院するより外ない”と言うのです。“あなたは入院しなければ駄目だ。入院すれば治る”と言うのならよいですが、“やってみなければ分らない”と言うのです。それから“先生、手術すれば治りますか”と聞くと、“いや手術してみなければ分らない。しかし強いてあなたの方で手術してくれと言うのならやりますよ”と言うのです。それで手術をする時には、どんな事になってもよいという証文をとります。そうしてみると詐欺です。確信がないのに、漫然として入院させて、高い金をとるのです。そうして大抵な者が悪くなるのです。入院する時には歩いて行ったのが、帰る時には大抵自動車です。そうすると少なくとも詐欺被害者です。それで一番酷いのは宗教の詐欺で、これが又沢山あります。“先生私は最初治ると言うから信仰に入ったが、どうも思うように治らない”と言うと、“それは信仰が足りないのだ”と言うのですが、この“信仰が足りない”というのがいい逃げ場なのです。前にも話した事がありますが、或る大宗教で“あなたの病気はあんまり欲張ったためだから、その罪を神様にとっていただかなければならない”と言うから、“どうすればよいか”と聞いたのです。その時分はまだ物価の安い時ですが、“二百円寄附しなさい。それで治りますよ”と言うので、そこはあんまり裕福ではない人ですが、どうにかして二百円つくって上げたのです。それから一週間たたないうちに死んだのです。それで私は相談をかけられたのです。“とり返すわけにはゆかないでしょうか”と言うので、“どうも信仰の方ではそういう話は聞いた事がないから、駄目でしょう。諦めるより外ないでしょう”と言ってやったので、仕方がないと諦めたようですが、これは立派な詐欺です。これは神様をカタにして詐欺をするわけですが、これは詐欺取財でなくて、宗教的詐欺取財、詐欺殺人です。だから非常に悪いのです。そういうようで今日よく検討してみると、詐欺的の事が普通常識のようになってます。政治家にしてもそうです。全部がそうではないが、かなりあります。ですから選挙運動の時には、“こういう政策をする”とか“わが党はこういう方針である”とか言っても、つまり不渡手形になる事の方が多いくらいなものです。選挙運動をする時には、棚から運が落ちて来るような、ボタモチでホッペタをたたくような事を言っていて、さて当選して議員になるといい加減な事を言っているのです。これもやっぱり一つの詐欺です。ですから調べてみると、そういった詐欺的な事が実に多いのです。しかしあんまり多いために気がつかなくなっているのです。そういうものだと思い込んでいるのです。世の中の事は本当の事はないというような事になってしまったのです。それで私は、そういう小さい事もですが、特に肝腎な事はドンドンついて、それを暴露しなければならないと思ってます。暴露戦術という事をよく言いますが、神様の方で暴露戦術と言っては、甚だ恰好が悪いから、なるだけそういうふうには見せないようにうまくやっているつもりです。ですから本当言うと、医学というものは「病気製造」或いは「官許殺人だ」という事を書きたいのですが、それではあんまり酷いです。前に書いた事がありますが、とうとう出せなかったのです。だからだんだん読んでゆけばそうなっても、今のように超愚的に書くわけです。結局馬鹿を通り越した、とんでもないものだと、婉曲(エンキヨク)に言うので、そこに難かしい点があるのです。ですからこの間のラジオの放送の時にも、美術館の事や自然農法の事はスラスラと話せたのです。それを出すかと思ったら、医学の方の事でした。それで医学の事に関しては実に話し難いのです。それで非常に渋滞でトギレトギレ話したので、どうも面白くなかったのです。しかしあんまり医学をコキ下しては刺戟しますから、できるだけ緩和して話したために話し難かったのです。ですから私は原稿を書くにも、外の事はスラスラとゆくのですが、どうも医学の事は厄介なのです。

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二、三日前にロスアンジェルスからお蔭話が来ましたが、素晴しくよく治るのです。こっちのお蔭話に負けないくらいなものです。それでこっちの方も随分浄化が強くなったので、奇蹟も著(イチジル)しくなって来ました。これは始終お蔭話を読んでいると分ります。ですからキリストと同じような事は、それこそ日常茶飯事です。今私がこれから書くのは「キリストは三日で作られる」という論文です。三日間の教修をしますが、そうするとキリストと同じような奇蹟が出せるのです。ですから“歴史は夜作られる”という題の映画がありました。この頃は化粧品の事で“美人は夜作られる”という事を言ってますが、私の方は“キリストは三日で作られる”という事を書こうと思ってます。この頃は普通の真面目な書き方は始終書いているので飽きて来ましたから、それよりか飛び離れた題の方が興味がありますから、この頃はそういうように書いてます。この前の「神と硝子玉」とか「硝子製造人」とか、そういう方が興味もあるし、かえって分りよいです。ただあんまりそういうようにやると、いたずらに人をおどかすとか興味を引くとか野卑(ヤヒ)に見られますから、そう見られないように気をつけてます。今の“キリストは三日で作られる”という事は、あんまり飛び離れているので、題だけ見たら変に思うかも知れませんが、しかし魅力はあると思います。つまり誰でもキリストになれるという事なのですから。或る教師の人は、往来を歩いていたり汽車に乗っていて、病人があってやると、立ち所に治ってしまうというのですが、そういうのはキリストと同じです。それからロスアンジェルスでは教修をしただけで盛んに病気が治るのです。しかもロスアンジェルスと言えば日本から大変な遠くです。普通から言えば、幾ら霊線でもあんな所まで大変だろうと思うでしょうが、ところが神様の方の霊線は時間、空間を超越するのですから、浄霊の霊というのは、アメリカまで霊線が行くのに一秒もかかりません。もっと速いので、一秒の何百分の一か何千分の一くらいに速いのです。ですからあっちの方のお蔭も日本と同じです。かえって向うの人の方が素直で疑いがないから、かえって日本のお蔭よりか著しいでしょう。これもだんだん栄光に出ます。従って発展し始めたら、発展力がずっと早く強いでしょう。ですからこれからが大いに楽しみです。

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秋季大祭御教え

九月二十三日

今日は珍しく雨ですが、雨が降るということは、光が強くなるほど降るのです。光が強いという事は、やっぱり熱が強いのです。今日は此処は二十度で、東京は十七度なのです。ですから東京より三度高いのです。大体今年は平均して東京よりも強羅の方が暑いのです。こういう事は今までにないのです。けれどもその割には東京よりも涼しいという事は、空気が乾燥しているためです。空気の乾燥という事は、暑さに余程違います。五度以上は違います。箱根は霧があったりするので、大変湿るように思ってますが、実は高山地帯というのは乾燥しているのです。それから又今年は方々に水害があって非常に雨が多いですが、これも霊界に火素が増えたわけなのです。今日は時間があまりないのに、お話しする事の項目が多いので、簡単に要点だけをお話します。

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自然農法の事ですが、普及会の会員も大いに増えて、大分そういった方面の注目を引いて来ました。又今年ぐらい不作の年はありません。昨日の発表でみると五千八百五十万石というのですが、そうすると最近一番とれた年が六千六百万石ですから、七百五十万石の減収です。それがヤレ農地改良だとか、いろんな施設をしたり、肥料なども今年は今までで一番多いそうです、それにもかかわらず、かえって逆になるのですから、やっぱり私の言う説のとおりになっているわけです。なるほど九州の水害は相当影響しましたが、しかし全体からみるとそれほどでもありません。むしろ東北地方の冷害の方が大きいです。この冷害というのは、ただ冷えるだけでなく、冷害のために害虫が死なないのです。天候や何かで害虫が弱ったり死んだりしますが、この冷害のために虫が弱らないのです。その害が大きいのです。ですからただ寒いだけでとれないものなら、昔から有名な越後や信州や秋田でもとれないわけです。寒いためにとれないという事は、結局虫が減らないからなのです。そういうわけで害虫の影響が一番大きいのです。という事は、肥料がわかせるわけです。それから、こういうふうに不作にすれば早く分るという、神様の一つの御仕組と思ってもよいのです。しかしどうも、神様は随分ひどいと思うかもしれないが、本当に知らせるには、やはり病気と同じようなもので、人間苦しまなければ分らないのです。だからこの苦しみは一時的で、結局将来は非常に大きな良い結果になるのですから、これもやむをえません。

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それから米国への布教ですが、先月からロスアンジェルスで始めたのです。まだ幾らにもならないが、シヤトルとサンフランシスコにも非常な奇蹟でどっちも信者が三人ずつできたのです。ですからこれも近々支部ができると思います。即ちロスアンジェルス、サンフランシスコ、シヤトルに支部ができて活動を始めるわけです。非常に早いです。今年一ぱい――と言って年末までですが――には相当に何カ所かに拡がると思ってます。それであっちが燃え始めたら、とても日本どころではありません。非常に早いです。おまけに、あっちの方は大分遅れていますから、神様の方は非常に急がれています。来年あたりは目覚ましい発展をするわけです。それからハワイは無論ドンドン発展しつつありますから、非常に面白いと思います。何時も言うとおりアメリカで発展する事が日本の発展に一番刺戟になるのです。アメリカの物なら何んでも良いと思っているのですから。……化粧品の広告などを見ても、“アメリカ、アメリカ”で、必ずアメリカ製とか、アメリカで流行るという事が出てますが、あれを見ても如何に日本はアメリカ崇拝が盛んかという事が分ります。ですから宗教も、大いにアメリカ人に発展するという、それだけでも、一番の宣伝になるわけです。

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それから美術館もだんだん知れて来て、観覧者も増えつつあります。特に外人が来るようになりました。この間の日曜には十三人来ましたし、殆んど毎日何人かは必ず来てます。これも大変面白いと思います。来年の計画は桃山展をやろうと思ってます。去年でしたか、東京の或デパートで桃山展をやりましたが、間に合わせのようなものでした。こっちのは、ちょっと驚くような計画です。そういった品物も相当に集まっていますし、前からそういうような計画がありましたから、なるだけ見せないようにして、“これは”という物は出していないのです。ですから相当に評判になると思ってます。それからもう一つは近代名品展というのをやって、明治以来の総ての傑作品を出そうと思ってます。これも今まで門外不出の物が殆んどなのです。近代美術でこんなにも良い物が出来ていると驚くような物も相当にあるつもりです。例えて言えば工芸品は蒔絵の白山松哉(シラヤマシヨウサイ)、彫金(チヨウキン)の加納夏雄(カノウナツオ)、彫刻の佐藤玄々(サトウゲンゲン)、竹細工の飯塚琅斎(ロウカンサイ)、陶器は板谷波山(イタヤハザン)、堆朱(ツイシユ)は楊成(ヨウゼイ)、――これ等の人は明治以来の工芸では第一人者ですが――そういう人達の特に傑作ばかりです。ですからその道に趣味のある人には垂涎物ばかりと思います。それから絵の方では栖鳳(セイホウ)、大観(タイカン)、玉堂(ギヨクドウ)、春草(シユンソウ)、雅邦(ガホウ)、芳崖(ホウガイ)、抱一(ホウイツ)、そういう人達の傑作ばかりを出すつもりです。それで桃山展は会期中やりますが、今の近代名品展というのは六月七月の二カ月の予定です。それから浮世絵展がばかに評判がよいので来年もやりたいと思ってます。それに新しい物も入ってますから、そこで第二回の浮世絵展を八、九、十月にという予定です。

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それから今世界中の学者が来て会をやってます。これは湯川博士のあれだけの功績に対して、そういった学者が日本に集まるというわけで、これは日本としてもその方面だけは漸く世界の水準になったので、大変結構です。ところで今中心となっているのは物性論です。これはつまり素粒子論から物性論に入って来たのですが、物性論というのは、まだ顕微鏡などでも分らないもので、けれども有るという物の性質、つまり霊です。そこに入って来たわけです。それでそれから先には進めない。ここで行詰まっているわけです。ですからこの間の発会式で湯川博士が、“丁度暗闇の中をみんながどっちに行こうかと迷っているようなものです。それが今の科学界だ”と言ってましたが、うまい事を言ったもので、全くそのとおりです。それで今の科学では物性論から先には行きようがないのです。そして今のは理論物理学ですが、私のは理論神霊学です。それは理論物理学から先に行くと理論神霊学に入って来るのです。それはもう科学ではないから宗教には違いないが、しかしそれは今までの観念で見る宗教観とは違うのです。というのはまだ宗教でもそこまでは分らない世界です。それで今までの宗教は水準がまず科学と同じくらいなものですから、私はその先を説くつもりです。そうなると神様の解剖という事になって来ますが、これはまだ誰もやった事がないのです。それがすっかり分ると、浄霊で病気が治るという事も何んでもなく分ります。従っていくら科学者でも、浄霊で病気が治るという事だけはどうしても想像がつかないのですが、それを説くつもりです。何処まで説けるか、なにしろ難かしいのです。そうすると善と悪の根本もすっかり分ります。ですからこれは大変な未来の学問です。

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それから二、三日前に光明台に行って、大体地面の設計だけはしました。三十分くらいで、すっかり言いつけてしまいました。これはどうしても三年ぐらい先になりましょう。丸い家が建ちます。大体建築は三千坪ぐらいで、一万人収容の予定です。それから家の外の廻りに立てるのが二万人くらいのつもりです。大体形やいろいろな事はすっかりできましたが、なにしろ一万人の人間が、四角のでは遠過ぎてとても駄目ですから、そこで、そう遠くならないようにしなければならないのです。それには円形より仕方がありません。丁度外観は前の国技館というような形になりましょう。そうして大体全部丸いのでもなく、半円形でもなく、三分の二くらいの丸さです。そうしてそれは扇形、末広形になります。というのはこれ(扇)形は末広がりで、非常に発展する形なのです。富士山は末広と言います。それでここに要(カナメ)がありますが、ここに非常に神秘があります。それはいずれ話します。要というのは大変な意味があります。大体今度の光明会館はそういったような形になるわけです。それはずっと先の事で熱海が出来た後の事です。それで神様は総て順序ですから、チャンと順序が合わないとスラスラと行かないのです。だから何んでもやってみてスラスラと行かない事は、みんな何処かに、霊的に間違ったところがあるからです。そこに気がついてやり直し、計画を変えるという事が肝腎です。そうするとスラスラと行きます。だから楽に行く事でなければ、うまく行くものではありません。苦しむようでは決してうまくは行きません。箱根が出来て熱海に移り、熱海が出来て今度は又箱根に行く、という順序なのです。それで私のやっている事は肝腎な経綸ですから、ちょっとでも順序が違うと直ぐに神様からやられてしまうのです。これは古い信者の人はよく知ってますが、とても面白いのです。

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それから私のお腹にある光の玉は大分大きくなってます。ドンドン大きくなりつつありますが、これが世界的に大きくなった時がミロクの世です。そこまで大きくならないうちに、いけない者は片付いて行くわけです。まだ今のところの大きさは、この会場くらいの大きさですが、これがドンドン大きくなって行きます。という事は火素が増し浄化が本当に強くなるという事です。そこで自然に善い悪いの差別がついて来るのです。それを知っていて世の中を見ると、もう二、三年も先になると大分はっきり分って来ます。題目みたいな話になりましたが、時間がないからそのくらいにしておきます。

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九月二十四日

今年のお祭は珍しく雨が多いですが、これはやっぱり光が強くなった関係なのです。これは此処ばかりではなく、今年になって全国的に雨が多いのです。それは霊界で火素が多くなった関係なのです。この分で行ったら今に雨ばかりになってしまう事になるが、そんな事はありません。今年は光が特に強くなり始めたというわけで、つまり火素が多いという事は水が動くのです。溶け易い、流れ易い、つまり活動が強くなったというわけなのです。人間なら心臓が強くなるので肺の活動が旺盛になるという意味なので、これは当然な話ですが、しかし光が強くなったという事は確かです。

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それから今年は驚くほど米が不作です。なにしろこの数年のうちで一番とれたのが六千六百万石です。今年は農林省の発表では五千八百五十万石ですから、約七百万石違うわけです。というと大きなものです。それが毎年農地改良だとか何んとか言って非常に増産になるような方法をとりつつあるにかかわらず、結果の方は馬鹿々々しいマイナスになっているのです。丁度病気を治そうと思って大いに医療や薬をやるほど、だんだん病気が重くなるというのと同じです。農業も、肥料をやらず何もしなければもっとずっと豊作にもなるし、又人間は健康にもなるわけです。この間「⇒超愚」という論文を書きましたが、つまり超馬鹿――馬鹿を通り越しているわけです。カラカサ屋の小僧と同じで、骨折って叱られるというわけです。ですから懐手(フトコロデ)していた方が余程ましです。それが文化が発達してみんな大いに教養を得て、一般的の智識なども向上したというわけなのですから、如何に見当が違っているかという事です。本筋を行ってないのです。それだからわれわれが大いに救う必要があるのです。しかしみんなが超愚でなく利口だったら敢えて救いの必要はないかもしれません。とに角今年の不作という事の原因は、東北地方の冷害、九州、近畿の水害、あとは病虫害という事になってますが、このうちで一番影響しているのが病虫害です。これは何時も言うとおり肥料が作っているのですから、それを分らせるためにみんな一生懸命になっているのですが、しかし今年のこの不作のために自然農法が注目されて大いに拡がるという、いい結果、いい効果がありますから、われわれの方から言うと、今年の不作という事は、やはり神様が如才なくおやりになったという事がよく分ります。そういうわけで信者以外で自然農法の普及会の会員になる人が各地とも非常に増えつつあるようです。ですからもう二、三年もたつと大変な勢いになるだろうと思ってます。医学の方と違ってこの方は案外早く全般的に知れ渡ると思います。今日は短い時間でいろんな事をお話しようと思ってますから、ラジオニュース的に簡単にお話します。自然農法の事、米国の布教状況、美術館の事、理論神霊学―今大騒ぎをやっているのは理論物理学です。光明台の建設。

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そこで次の米国の布教状況ですが、先月からロスアンジェルスに支部ができて活動を始めました。ばかに成績がよいのです。それで樋口さんは一旦ハワイに帰って十一月あたりに又ロスアンジェルスに行くつもりです。それで今度はサンフランシスコ、シヤトルにどっちも信者が三人ずつできたのです。ですから近々サンフランシスコとシヤトルに支部ができるわけです。とに角来年あたりの米国の発展は素晴しいものだと思つてます。私が一番狙っている、と言うとおかしいが、狙っているのはアメリカですから、アメリカにウンと救世教を弘めると、これは世界的になります。結局においてアメリカ人を信者にしなければならないのです。今までの日本の文化は、とに角白人に頭を下げさせたというのは僅かに古美術品ぐらいなもので、外にはありません。勿論宗教的や何かでも全然ありません。ところが救世教は白人に頭を下げさせるのです。つまり間違いを直し、救うのです。そしてこの間の戦争は武力で頭を下げさせようとしたので失敗したのです。今度は反対の平和で頭を下げさせるのです。これなら先方は大いに喜ぶのですから結構な話です。その意味でやるのです。それで勿論ハワイもドンドン発展してます。つまりハワイが発展すれば米国はそのとおりに写るわけです。ハワイは米国の種みたいなものです。米国の雛形(ヒナガタ)こみのようなものです。と言うより、むしろ世界の雛形かもしれません。それはハワイぐらい世界各国の人種が集まっている所はありません。そういうようで、外国の発展はいよいよこれから軌道に乗って来るわけです。それでアメリカ人が救世教に入れば、日本人の特にインテリ階級の目が覚めますから一番よいです。つまり逆輸入です。救世教が舶来宗教になるのです。これが一番効果があるのです。

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次に美術館は大分世間から認められるようになって、観覧者も非常に増えつつあります。それは去年とは比べ物にならないほど増えました。それから外人の方にも大分知れて来たとみえて、毎日何人か必ず来てます。そこで、今年はもう僅かですが来年の計画は、一番の呼び物、と言うと興業みたいですが、やっぱり美術館というのは、ごくお上品な興業です。あんまり下劣な興業物が多過ぎますから、少しは上品な興業もなくてはならないのです。向うは肉体的のストリップなどですがこっちは絵でストリップを見せるというわけです。それで浮世絵展が非常に効果があったのです。非常に吸引力があります。ですから来年も第二回の浮世絵展をやろうと思ってます。それから来年は桃山展をやろうと思ってます。これは会期中を通じて本館の方でやります。別館の方では近代名品展をやろうと思ってます。それは明治以来のいろいろな良い物です。ところが東京などでやっている近代美術品展というのを見ると油絵が多いのです。ですから近代美術品展と言うのは嘘です。近代外国美術品展とするならよいです。日本でそう言うのなら日本の物を並べるのが本当です。ところがあれでは日本を全然無視しているのです。しかし実際言えば外国のより日本の方が上なのです。上のものを無視して下のものをやっているのです。これは時代がそうなっているので、舶来崇拝の結果です。それは間違ってますから、私は日本美術を主にした東洋美術に力を入れているのです。日本の近代名品展は六、七の二カ月やり、八、九、十の三カ月は第二回の浮世絵展をやるつもりです。ところで日本の近代美術というのは素晴しいです。これは殆んど門外不出のような物が多いのです。明治以来の名人の傑作を私は心掛けて集めたのですが、美術工芸品などではみんな知らない物が多いのです。例えば蒔絵では白山松哉、赤塚自得(アカヅカジトク)、植松包美(ウエマツホウビ)の三人が明治以来の名人です。その他彫金の方では加納夏雄です。彫金にもいろいろありますが、加納夏雄がとに角頭角を抜いてます。それから陶器では板谷波山ですが、去年幾らか出しました。彫刻では佐藤玄々。次は平櫛田中(ヒラクシデンチユウ)です。それから堆朱は楊成。竹細工では飯塚琅斎(ロウカンサイ)。絵の方では抱一、是真(ゼシン)、雅邦、芳崖、栖鳳、鉄斎(テツサイ)、春草、大観、玉堂です。そういう人達の作品を出します。これは相当に評判になるだろうと思います。不断ちょっと見られない物です。こういう物を外の美術館などで出した例はありません。博物館などでも出した事はありません。それはなかなか良い物があります。

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それから今世界の有名な物理学者が五十数人来て会をやってますが、新聞などでも度々出てます。この理論物理学というのは湯川博士が世界的に有名をはせたので、それが機会で日本で開会する事になったのですが、とに角そのために日本が科学界の世界的水準というような地位を占めたという事は、その湯川博士の功績は大したものです。ところで理論物理学者の一番の主力としては物性論です。これはこの間も話をしましたから知っているでしょうが、つまり素粒子論から物性論に進んで来たのですが、素粒子というのは物質の最も微小なもの、顕微鏡ではまだ本当に掴まえられないくらいの小さなものです。それから物性論というのは物の性質と書くのですが、顕微鏡では把握できないが、つまりいろいろな試験によって、あるべきはずだ、なくてはならない、というような仮定的の理論です。その物性論というのについてのいろんな変化などをいろいろと発表してますが、まだ確定はしていません。みんな想像です。ですから開会式の時に湯川博士が“丁度今の物理科学は暗闇の中をみんなであっちに行った方がよいとか、こっちに行った方がよいとか、各々その人の考えで見当をつけているような状態だ”という事を言ってますが、全くうまく言ったと思います。そういうわけで、物性論に行くと、その先はもう科学では駄目なのです。今科学は、つまり科学と宗教の丁度結び目に来たわけです。それで物性論の先に行けば、どうしても霊界に入ります。ですから私の言う霊という事はずっと先の事を言っているのです。それで浄霊で病気が治るという事は物性論よりずっと先の事なので、その間にもいろいろあります。それで、これから理論物理学のもっと先に行った理論神霊学というのを書こうと思ってます。つまり科学者に対する指導的理論なのです。けれども私が有名な科学者ではないので、どうせ新宗教の教祖なんていい加減な迷信鼓吹なんかやっているようなもので、ちょっと毛の生えたようなものとしか見ていませんから、ああいう人達に認めさせるという事はなかなか不可能です。しかし将来いずれ此処に来るに決まってますから彼等の行く先、つまり終点の駅の所在と駅のいろいろな構造を説明しておくというわけです。いずれは其処に行くのだから、其処に行ってから喫驚して、なるほど神はある、科学では駄目だという事になるのです。それで宗教と言ったところで、今までの宗教は其処まで行ってないのです。今までの宗教は科学のちょっと先、物性論の一歩先までしか行っていないのです。ですから結局において負けてしまうのです。というのは宗教の方でも低いわけです。というのは宗教のうちの一年生ですからどうしても力が足りないのです。それと、徹底的に分らないために、どうしても科学に負けるのです。今まで科学に負けつつありますが、しかし科学よりは少し上の所がありますから負け切りにはなりません。従って救うという事はできないのです。それで救世教の方は科学よりずっと先の深いもので力があるから、科学で治らない病気が訳なく治るという事は、そこに力の相違があるわけです。そうしてだんだん科学の方でも行き詰まって来ます。これは湯川博士も“理論物理学は行き詰まっている”という事を言ってます。それでは止したらよいだろうが、止すわけにはゆかないのです。何んとなれば、終点の立派なものをまだ見ないから見当がつかない。そこでかじりついているのです。医学もそうです。とに角それを見せておけば、何時かは彼等が分る時が来るのと、それから分る人が増えますから、そこで刺戟を受ける機会もできるというわけで、あとは神様がうまくやりますから、案外早く分るようになるかもしれません。そういう事がアメリカの科学者あたりに知れると案外早い事になるかもしれません。とに角この間も言ったとおり、素粒子にしろ物性論にしろ結局微粒子の問題で、細かいものが分るとか、細かいものを掴まえようとしているのです。ところが細かいものと言っているのは手前の事で、結局は無限なので、科学で掴まえようとしても掴まえられないのです。そうなると粒子ではなくなり、無限力です。それが分れば科学も本当に分ったのです。そこでこの無限粒子というものが一番力があるのです。それが、粒子なら粒子を把握していろいろしても、結局原子科学などが最高なものです。今言っては少し言い過ぎるが、原子爆弾というのは少しも怖いものではありません。これを遁(ノガ)れる方法は何んでもありません。しかしそこまで行くと誇大妄想と間違えるから言いませんが、つまり科学界というのはそういう状態です。そこで、とに角超宗教の分野に入りかけつつあるという事だけ知っていればよいわけです。まるで学術講演のようになって、神様のお祭に相応(フサ)わしからぬ話になりました。

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それから、ついこの間光明台に設計に行ったのですが、大体一万人入る殿堂を造ろうと思ってます。今までは長方形に造りましたが、そうすると多人数は入りません。入れれば入らない事はないが、それではあんまり遠くになって実用になりません。私が話しているのを双眼鏡で見るような事になって、それではいけません。そこで今度は円形にします。つまり末広形(スエヒロガタ)にすると一万人ぐらいは差し支えなく入ります。そこで半円形でもなく、三分の二くらいが丸くなる扇子形です。この形は末広がりで発展する形です。この末広というのは大変な意味があるのです。よく目出度い時に白い扇子を持つという事はそういう意味なのです。ですから婚礼の時には白扇を持ちます。いろいろに使いますが、末広がりと言って、この形がよいのです。それで三分の二ぐらいに椅子をおきますが、そうすると一万人ぐらいは何んでもなく入ります。それで地形などもすっかり設計ができたので命じました。一番先にケーブルの下を通るトンネルをやりますが、それを言いつけました。そうして取った土を、今植木畑になっている所に埋めて、平にするのです。そうして其処に天理教でやっているような休憩所を幾棟も造って、これは勿論教団の経営ですが、一時凌ぎとしてはそれでよいでしょう。それから一万人入る殿堂の廻りに、二万人の人が立つだけの広さのものを造るつもりです。今では大きすぎますが、だんだんに丁度よくなります。それも熱海が出来てからでなければ順序がつかないのです。熱海は、会館と展望台は一緒に出来、その後に美術館が出来て、それから光明会館――或いは光明殿とするかもしれませんが――にかかりますが、大体そういうような計画です。これは霊的には大変な意味がありますが、それはだんだんに話をします。それで敷地だけに三年ぐらいかかりますから、建築にかかるのは三年ぐらい先になりましょうが、決まっただけを発表しておきます。

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九月二十五日

今年の秋は珍しく毎日のように雨ですが、霊的には大いに理由があります。とに角これも浄化作用ですから、浄化が強くなったという事が最大原因です。今年の農作物の虫害が多いという事も霊界における火素が増えたために、善いものと悪いものとの区別がはっきりするわけです。丁度今までは薬をのむと一時固まったものが、だんだん固まらなくなるのと同じように、農作物に肥毒の害がはっきりと著(イチジル)しく現われるわけです。それで今年は非常に雨が多いという事も、やはり雨で洗うべき汚(キタ)ないものが沢山溜まるという事に対する、当然起こるべき浄化作用です。そういうように、いろいろな形で浄化作用が現われるわけです。なにしろ今年から本当に世界的大浄化の活動が始まったわけです。それを知っていて見ればよく分ります。そういうわけで、今年の不作というものは予想外に酷いのです。そこで自然農法の理由がよく分ります。今年ほど虫害の多い年はありません。それから今年ほど肥料と害虫駆除の薬の量を多く使った年はないそうです。ですからそういった薬や肥料と、不作という事が丁度つり合ってますから、非常によく分ります。だから各地方とも信者以外の農民で自然農法普及会に入会するのが非常に多いようです。こういうような結果が現われるという事は、神様の方で如才なく“これでもか、これでもか”と、分りよいようにいろいろやられているのだろうと思います。つまり浄化作用ということは、神様はどうしても、間違った事は正さなければならない、汚ないものは掃除しなければならない、という事と、一人でも人間を助けようという両方なのです。「大慈大悲」という事を昔から言われてますが、「大慈」というのは助けてやろうという大いなる愛です。それから「悲」というのは、それにはどうも犠牲者が出る、可哀想だ、そういう御心の現われが「悲」です。ですから「大慈大悲」というのは、意味から言うと逆のようですが、そういうように考えてゆくとよく分るわけです。だから観音様に「大悲菩薩」という御名前があり、大いに悲しむというわけです。これからは犠牲の方が多いから「大悲菩薩」のお働きというわけです。今日は少ない時間で話す項目が多いので、ニュースの放送みたいなものになりますが、簡単に要点だけをお話します。自然農法の事、米国の布教状況、美術館の事、理論神霊学―今騒がれているのは理論物理学です。光明台の建設―仮に「光明会館」と名をつけますが、出来上る時には又変るかも しれません。

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自然農法については、まだ信者の人の中に迷信があるようです。それは堆肥迷信です。何時も言うとおり堆肥には肥料という意味はないのです。ところがやっぱり肥料迷信が根強く入っているために、堆肥も肥料のように思ってやり過ぎるのです。ですから堆肥をやると、それだけ根伸びの邪魔をしますから成績が悪いのです。本当言うと何もやらない方がよいのです。土ばかりがよいのです。そうすると一番よく出来ます。ただ、ごく寒い寒冷地では温めるために使うという意味と、乾く土地の場合に乾かないように堆肥を厚くしておくとよいです。そうすると湿り気があるから乾き気を防ぐという事になります。新しい土などは非常に固まり易いのがあります。特に赤土がそうですが、土が固まるといけないから、固まらせないために堆肥をやるのです。その場合には堆肥を非常によく腐らした方がよいです。あらかた土に変化したくらいに柔らかくして、それを混ぜるのです。大体堆肥はそれだけの必要からやるのです。ですから飽(ア)くまで土を生かすという事を考えるのです。それから土を生かすという事について、こういう事を考えなければなりません。それは連作をしなければならないのです。よく連作がいけないと言っているが、おかしいのです。昔から一番連作をしたのは稲です。それで連作はいけないと言いながら一番肝腎な米だけは連作をやってますが、これには気がつかないのですから滑稽(コツケイ)なくらいです。その場合に、連作をすると土の方にその作物に適当するような力が出るのです。丁度人間の仕事と同じで、一つ仕事をやっていると熟練して来ます。商人だと年々御贔屓(ゴヒイキ)が増えて来て、商売のコツも覚えて来るというようになります。土も同じです。豆なら豆を育てるような性能が出て来るのです。そういうようで、連作をするほど良くなるのです。今まで連作を嫌ったのは、肥料の害を受けている土だから連作はいけないと言っているのです。これが一番分りいいのは、薬です。特に胃の薬ほど分りますが、一つ薬をのんでいると効かなくなります。そこで薬を変えると一時効くのです。というのはその成分に対して体の方が、つまり抵抗力と言うか、慣れてしまうので効かなくなるのです。それで今“肺病で死ぬのが延びた”それから“寿命が延びた”というこれがその理由なのです。最近ストレプトマイシンとかパスという新薬は、抗生物質と言って、今までとは全然違った成分の薬なのです。それで抗生物質が非常によいという学説になっているようです。というのは今までのんだ薬とは全然違った成分だから効くのです。効くという事は浄化停止の力が強いのです。そこで浄化が弱るからして死ぬのだけは延びるわけです。だからこれを続けて何年か後には、抗生物質に人間の体の方が抵抗するというようになるから、そうなると元(モト)の木阿彌(モクアミ)になります。そこで今は、肺病などにストレプトマイシンをやると数カ月後には菌の方の活動力が非常に強くなって、これをどうしたらよいだろう、というのが今の医学界の問題なのです。そういうようで、作物に対する肥料というのも同じです。そこで土の力を増すようにすれば、いい意味のそういった働きが出るのです。

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米国の方は先月からロスアンジェルスを根拠として活動を始めましたが、予想以上にだんだん発展しつつあります。最近サンフランシスコ、シヤトルに信者が三人ずつできて、近々どっちにも支部ができるつもりです。そうすると支部は三カ所になるわけです。それから又ドンドン増えますから、アメリカは割合に早く各都市に支部ができるでしょう。大本教のお筆先に「燈台下は真暗がり遠国から分りて来るぞよ」という事と「遅れただけは一度になるぞよ」というのがありますが、これはよくそれを示しています。ですからハワイは勿論ですが、アメリカなどは遅れているわけですから、発展が急激になるのです。と言ったところで、今のところは在留の日本人ですが、それは一つの足がかりで、やむを得ません。しかしいずれはアメリカ人の方に広がってゆくわけです。それで今まで日本の文化で外国に影響を与えたというようなものは殆んどありません。漸く、日本の古美術ぐらいなものでしょう。あとはみんなこっちの方で先方の後塵を拝しているわけで、情ない話です。そこで今度は救世教が外国の人に頭を下げさせるような事になるわけですが、或る意味においては大いに痛快な話です。

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美術館もだんだん知れ渡って来まして、観覧者も大いに増えつつあります。勿論非常に評判もよいです。来年あたりになったら、又ずっと増えるだろうと思います。それから外人の間にも非常に知れて来て、殆んど来ない日はないくらいなものです。この間の日曜には十三人来ました。私は外人の方に知らせたいと思っているのですが、とに角日本人の優秀性を知らせるには美術館がごくよいのです。いずれは医学や自然農法なども知らせますが、とに角最初としては日本の美術が一番手取早いのです。外国の新聞雑誌などにも時々は出ているようです。そうして美術館の来年の催物(モヨオシモノ)としては、桃山展をやります。桃山時代のいろんな良い物が大分集まってます。去年東京の或るデパートでやりました。私の方のも少し出しましたが、ごく貧弱なものです。こっちでやる桃山展は、それから見ると段違いで、素晴しいものです。私はそういう考えで居たので、今まで美術館には桃山時代の物はあんまり出さなかったのです。ですから来年は門外不出の素晴しい物が出るはずです。桃山時代で一番の代表とも言うべき物は屏風です。桃山時代に一番豪華な屏風が出来ました。絵では宗達(ソウタツ)が一番です。それから光悦(コウエツ)です。茶器類、茶碗では、利休(リキユウ)や遠州(エンシユウ)という人達が大いに骨折ってます。楽茶碗とか尾張の陶器といった物ですが、私もできるだけ集めてありますから、そういう物を出します。ですからこの桃山展は世の中の人が大いに驚くだろうと思ってます。それから別館の方では六、七月に日本の近代名品展というのをやろうと思ってます。明治以来の名人の作った傑作品展です。蒔絵では、松民、松哉、自得、包美。彫金では加納夏雄という人が一番の名人です。陶器では板谷波山。堆朱は堆朱楊成。彫刻は佐藤玄々、平櫛田中。外にもいろいろありますが、私が見る眼ではこの人達が一番の名人です。世の中の眼のきいた人、慧眼者はやはりこういう人達の作品に大騒ぎをします。絵では抱一、是真、雅邦、芳崖、栖鳳、春草、大観、玉堂というような人達です。これも相当見るべきものに違いありません。むしろ門外不出の物が多いです。こんな良い物が何処にあったろうというような物が大分あります。それから浮世絵展は非常に評判がよいです。それで今此処にあるだけの浮世絵は日本では一番だそうです。日本で有名なのは松方コレクションで、これは博物館にそっくり来てますが、ほとんど版画です。それは、数はありますが、此処にあるのは一品ぞろいだそうです。尤も私は厳選しました。それからもう一つは版画で、現代版画が素晴しいものです。今は注目されて来ました。特に吉田博(ヨシダヒロシ)のは素晴しいものです。この人のは今外国では非常に騒がれていて、非常に高く売れるそうです。それが大分集まりました。吉田博のを一列そっくり並べたので、見れば分りますが実にうまいです。外にも新人でなかなかうまいのが出て来たようですが、これからは現代版画というものが立派な地歩を得る事になるだろうと思います。この間ラジオで聞きましたが、近頃は小学校などで会をつくって、版画が相当に流行(ハヤ)って来たそうです。これは非常に簡単で金がかからないので、ごくよいわけです。ですから版画流行時代というものがこれから来る事になりましょう。それからまだ美術館に出さない版画の一品も時々買いつつありますが、今年は間に合わないから、来年にしようと思ってます。この第二回の浮世絵展は八、九、十月に開催しようと思います。美術館についてはそのくらいにしておきます。

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今度外国の偉い学者達が日本に来て会合を開いた事は、新聞雑誌でよく知っているでしょう。これは湯川博士がノーベル賞を得て、日本人にもそういった能力があるという事を示したのが原因でしょう。それであの会の狙い所は何んと言っても物性論です。これはつまり素粒子論から進んだものですが、素粒子というものは、粒子の最も小さなものです。これは顕微鏡で見えないくらいの小さなものですが、確かにあるという事はよく分るのです。素粒子の濃厚なのや固まったのは顕微鏡でも発見できるのです。ところが物性論というのはまだ分らないのです。これは物の性質ですが、というのは気です。われわれの方で言うと霊ですが、其処に入って来たわけです。だから科学の方は今丁度、宗教と科学、或いは物質と霊という所の継ぎ目の所に来たわけです。これから科学が進むと、もう科学ではなく宗教の分野に進むわけですが、其処までは気がついてないようです。この間の発会式の時に湯川博士が“今は皆が暗闇の中でどっちに行こうかと迷っている”という事を言われましたが、うまい例えで、全くそのとおりです。つまり想像で行く所が沢山あるのです。それで此処なら確かだという所は一つもないのです。ですから科学者が研究する場合に、研究が多方面だというのと、全く五里霧中(ゴリムチユウ)だというのと両方ありますが、それはそういった意味です。そこで私は、今書いている「医学革命の書」の次に「理論神霊学」というのを書こうと思ってます。これは今言う理論物理学のずっと進んだ所です。というのは今の理論科学が進んだ所が理論神霊学だという事を知らせるためです。そこでこれについての最もの急所――肝腎な所は、今までの物理学は結局は力なのです。今度も力の粒子について説明した学者があるようですが、つまり量子科学です。力の発見によって、力の運用によって初めて効果があるわけです。だから原子爆弾も力です。爆発によって火の力が最高度に達したものです。ところが私の理論神霊学の骨子は無限力です。力には有限力と無限力とがありますが、科学で作る力は有限力で、限りがあるものです。つまり粒子となれば、要するに粒々ですから、それで限度があります。ところが無限力というのは粒子ではないのです。もっと奥のものです。そこで浄霊で病気が治るという事は無限力の発揮です。それで医者の方のラジウムとかレントゲンというものは有限力です。そこが大変な違いです。そこを説けば浄霊で病気が治るという原理は分ります。まるで大学の講義のようで、学術会議のようになりました。お祭にしては少し固苦しい話ですが、今度理論物理学会があったばかりですから、一つの時期に合うと思って話をしたわけです。まだ話す事がありますが、時間がないのでこれだけにしておきます。

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九月二十六日

今年の六月十五日の時に“これから浄化が本当になるから、何があるか分らない”と言いましたが、それから間もなく九州の水害があり、それから今度の颱風も、その掃除がなかなか念入りになって来ました。今年のようにしつこい颱風はないでしょう。やはりいろいろ汚ないものが溜まるからですが、土は肥毒が溜まり、人間は薬毒が溜まるのだから、どうしても神様は、だんだんきれいにするについては、いろんな方法で掃除をしなければならないのです。昨日の演芸で柴田早苗という有名な人が来ましたが、夜眠られないと言うので、頸をちょっとみてやりましたが、その薬毒の固まりというものは大変なものです。それで“あなたは今日本では国宝みたいなものだから、治してあげるから月に二、三回来なさい”と言ってやりました。それから堤真佐子という人が、私もついでにみてもらいたいと言うので、みてやったところが、早苗ほどではないが、物凄いのです。ああいう人は始終いろんな薬をのんでいるので、本当に浄化が始まったら命はありません。だから柴田早苗にも言ってやりましたが、非常に喜んでました。ですから現代人での少し新しいような、気のきいたような人間は、みんなこういうようだと思えばよいです。そういうようなわけで、土は肥毒が固まっていてどうにもならないし、人間は薬毒の固まりみたいなものですから、前途が思いやられます。

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自然農法ですけれども、大分注目されて来たようです。今年はいろんな害がありますが、特に病虫害、冷害、水害と、主な害が三つあります。そこであのとおり不作なのです。いろんな数字がありますが、結局七、八百万石の減収は確かだと思います。ですから一割ではきかないです。とに角大問題です。それで又こういう事情になればなるほど、自然農法の方が分りやすいのです。そんな影響で各地ともその土地の篤農家とか有力者というのが余程分って来たのです。ですから会員もドシドシ増えてますから、この分でゆくと、全国的に普及されるのは案外早いと思ってます。今日は僅かの時間しかないので、ラジオのニュース的に要点だけをお話します。

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米国の方の布教は着々と発展しつつありまして、近々サンフランシスコ、シヤトルに支部ができるだろうと思っています。どちらにも信者が三人ずつできました。それで現在のロスアンジェルスと三カ所で本格的に活動を始めるだろうと思ってます。だから来年あたりになったら目覚ましい発展をするだろうと思います。

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次に、この間世界中の科学者が日本に集まって理論科学の会議がありました。これについて私はもう少したったら科学の理論を書こうと思ってます。今度世界中の科学者が集まっての論議の中心は大体物性論です。湯川博士などは特にこれに力を入れてますが、この物性論というのは素粒子論から一歩進んだものです。物性論というものは今まで発見した微粒子より一層細かいものです。しかしまだ実験物理学では把握(ハアク)できないものです。それで素粒子というのは湯川博士がノーベル賞をとったのですが、宇宙線を写真に写す時に六つか七つの粒子が写って、それが中間子という事になったのですが、それは実験物理学で発見して確定したわけです。ところが物性論というのはもう一層細かいものです。そこで理論だけでは確かにあるというけれども、まだ実験の証明はできないのです。素粒子までは今言う宇宙線によって物理的に分ったけれども、物性論の方はなかなか難かしいのです。というのは、もう霊の方に入って来ているからです。ですから科学というのは大体物理科学ですが、科学は今、量子科学の方に入りかけて来たのです。ですから科学がこれから先に行けば行くほど、だんだん分らなくなって来ます。というのは結局お辞儀するより外ありません。それで私が書こうというのは物性論から先の分野です。それでこの間も顕微鏡何万倍という事を書きましたが、あの理窟なのです。ですからこれから進んで行くと、ますます分らない所に入って行きます。それについて京都での開会式で湯川博士が“今の科学は丁度暗闇の中にみんなが集まっていて、各々どっちの方に行ったがよいかという事を考えたり論議している状態で、何処かに行かなければならないが、しかし何処が確かだという事は分らない。五里霧中(ゴリムチユウ)だ。それが今の科学界の現状だ”という事を言いましたが、うまい言い表わし方だと思います。そこで科学はつまり霊界に入って来たのです。即ち自分の受持でない所に入りかけて来たのです。そこで結局何処まで行くかというと、この間も言ったとおり無限界です。科学というものは例え素粒子だとか物性論だとか言ったところで、又そのものが発見できたところで、それを如何に全人類に役立たせるかという事が最後の問題です。それには力です。それについてはこの間も科学者で量子力学を話した人がありますが、結局量子力学で、力です。その発見した物質なり粒子なりの力をどうすれば出せるかという事です。要するに原子爆弾も原子科学から力を発見したわけです。これは私はその原理は信仰雑話にも書いてあるとおり、地球から水分を抜けば一瞬にして爆発するというそれです。これだけの範囲の中から水分を抜いて空にしてしまうというのです。全然水分を無くすれば気体が爆発します。そうすると沢山の核というものがあって、次のを爆発し、又次へと行く。それがある程度に行くのです。私はこの理論は二十何年か前に書いているのです。その方法を科学の方で発見したわけですが、これは科学の方でもかなり成功した方です。今のは原子科学の力を出したという事ですが、それとても一部です。よく、水素爆弾を東京で爆発させると沼津あたりまで破壊するという事を言ってますが、しかし日本全土を破壊する、或いは東洋全土を、世界全土を破壊するというわけにはゆきません。それはつまり物質の力だからです。物質の力というのは有限力なのです。有限力とは限りある力ですから知れたものです。ところが科学が自分の分野でない霊の方に入るとなれば科学ではなくなるのです。結局科学は粒子ですから、これは数えられるわけです。何億何十億の粒子だとて計算ができますが、そうすればそれで限度があるのです。ですからどうしても無限でなければならないのです。無限粒子というわけですが、しかし粒子という名もつけられません。要するに無限力です。それで浄霊で病気が治るという事は無限力です。この無限力というのが神様の力です。ですからロスアンジェルスも最近非常な奇蹟のお蔭が幾つもありましたが、そうすると私から発する霊がロスアンジェルスまで行くのだから、とても原子爆弾どころの小さなものではありません。そこに有限力と無限力との違いさがあるのです。それでやっぱり有限力では限度があるから、人を救うとか世の中を良くするという事はできないのです。ある程度まで、ある範囲までという所ですから、それでは駄目です。丁度今、共産主義とか資本主義とか言って争っているようなものです。そういう主義というものが有限なのです。それで世の中は良くならないのです。それで一つの主義をよくすると他の主義をやっつける事になり、それでは全体を良くするという事はできません。ですから世界人類を救うという事は、世界全土に力が行かなければならないのです。それが神様の力です。そういう事を昨夜大下宇陀児さんに簡単に話したところが“これは救世教を見直さなければならない。科学のそんな奥の方まで言うとは、今まで考えていたのはまるで間違っていた”と、つくづく言ってました。それで浄霊でどういうわけで病気が治るかという事を、今言った理論科学的に誰にも納得のゆくように詳しく書くつもりです。そうするとどうしても神様の解剖という事になるのです。そこで神様を解剖すると言っても、主神は別ですが、いろんな神様の種類があるし階級もありますから、そういう事もよく分るように書きます。そうすると宗教も科学も別々に見る事はできないのです。結局同じではないが――大きく言えば同じですが――ただ価値から言うと安いものと高いものとの違いです。つまり科学は安物なのです。それで神霊の方は、あんまり値打がありすぎて値段をつけられないくらいなものです。そういう事も書くつもりです。お祭の話のようでなく、大学の講義のようになりましたが、丁度この間科学の会がありましたし、これは学問上から言っても新しい説で、これほど新しい説はないのだから、早くお話しようと思って話をしたわけです。

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美術館も大分知れ渡って来て、観覧者もだんだん増えて来ました。特に外人の間にもだんだん知れて来たとみえて、必ず何人か来ます。そういうわけで、来年あたりになると一層認められるようになるわけですが、それについて、来年の計画としては第一番に桃山展をやろうと思います。これは去年東京の或るデパートでやり、私の方でも少し出しましたが、あれはごく貧弱なもので、ただ一般の客寄せみたいなものでした。来年こっちでやるのは素晴しいものになると思います。門外不出の、誰も知らないような物が相当にあります。そういう物だけは、いずれ桃山展をやる時にと思って、今まであんまり出品しなかったのです。ですから来年出す時には殆んど見ない物ばかりと言ってもよいのですから、大いに楽しみに待っていてよいと思います。それから六、七の二カ月は近代名品展というのをやります。そうして八、九、十の三カ月は第二回の浮世絵展をやろうと思います。今年の浮世絵展は非常に評判がよかったし、それから又奇蹟的に良い物が随分集まって、まだあそこに出さない物が相当にありますから、来年は全然変った物を出すつもりです。近代名品展の方は明治以来の名人の傑作品というわけです。工芸品の方は、蒔絵の松民、松哉、自得、包美。彫金は加納夏雄です。幾人も居ますが、明治以来の名人としては夏雄が傑出してます。彫刻は佐藤玄々、平櫛田中。陶器は板谷波山。堆朱は楊成。竹細工は飯塚琅斎(ロウカンサイ)。絵の方は、抱一、是真、雅邦、芳崖、栖鳳、鉄斎、大観、玉堂、春草。大体そういうような人達のを出すつもりです。この中には門外不出の物が随分いろいろありますから、これは又素晴しいものになると思います。

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それから熱海の方も大分進捗しつつありますが、今やっている「救世会館」は来年の春という事になってましたが、どうも神様の方では余程念を入れて、あんまり急いでやって欠点のあるようなものになってはいけないというので、なかなかゆっくりされるのです。それで間違いのないところ秋に開館式になるというようなわけです。景観台のガラスの家は訳なく一緒に出来るでしょう。その次に美術館ですが、美術館は勿論此処のより大きい事と、総ての点において、此処の見本で分りましたから、一層良いものを造るつもりです。それから今度は箱根の光明台ですが、其処の敷地もこの間行って土地の設計だけはやりました。これは丸い家ですが、半円形ではなく、円形がもっと多く三分の二くらいの円形にして、外観を見ると丁度昔の国技館というような形になります。つまり末広形です。なにしろ人数は一万人を入れるつもりですから、長方形や四角ではうまくありません。そこで円形にして、此処に私が坐って、廻りに丸くゆくと大勢入れるし、話もよく聞けるわけです。こういった四角なのは間抜(マヌケ)なのです。椅子も直線にしてますが、これが丸くなると遠くからも放射状的に向い合えますから、これに限るのです。今まで世界でもそういうような建て方はあまり見ないが、尤もそんなに大勢入れるつもりもないのでしょうが、これも新しい企画だと思ってます。それには何んと言っても向うに突き抜ける道が先の問題ですから、そこでケーブルの下のトンネルをこれからやるつもりです。そうして今花畑になっている所に広い広場を作って、其処に信者の宿舎を、会別か県別にするかして、少なくとも一万人以上泊れるくらいのものを造りたいと思ってます。しかし或いはそれは難かしいかも知れませんが、はみ出た者はやっぱり宿屋の御厄介になるかも知れません。尤もあんまりこっちばかりでやると、宿屋の方で期待していたのがまるっきり駄目になって、困るというので、又嘆願書などが出ますから。それで殿堂には一万人ですが、多くなった時には、テントを張って二万人ぐらい入るような広さにするつもりです。約五千坪ありますが、家が二千五百坪か三千坪です。約半分くらいで出来ます。そういう計画で、これから土地を作るのですから、建築はどうしても三年ぐらい先になりましょう。又丁度その時分にはそのくらいのものが適当するような情勢に神様がされるでしょう。なにしろ神様の計画は大体出来上っているのですが、ただ時期です。時期が来ると私にそういう指図図をするというようなわけですから、何時も言うとおり、甚だ気楽な話です。それだけ設計するのに、ちょっと行って三十分ばかりで済まして、明くる日にはその仕事をする植木屋や土木の方に命令しました。

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九月二十七日

今度の颱風もなかなか損害が大きいようで、今朝のラジオで聞いてみると、死者が六百五十人だそうです。行方不明というのは、やっぱり死んだのです。つまり死骸の上らないのが行方不明なのです。田畑の損害が二十五万町歩というのですから、この前の颱風と大体同じくらいです。そういつた数字に現われない損害も大変なものです。橋とか堤防とか、そういうものの損害は数知れずで、そういう間接的な損害も大変なもので、又復興するまでの間仕事を休まなければならないし、何んだ彼んだと、いろいろな損害を計上したら大変なものです。ところが水害対策と言って、橋を直すとか堤防を築くとか海岸の防波堤を作るとか、いろいろやってますが、そういう事は膏薬張りで大した効果はないし、それも、充分にやろうと思っても金がないのです。なにしろそれだけの費用を計上して、その予算は実際において全部の十分の一だそうです。大体の見積りが八百何十億というのです。それに対して予算が、一年の間に支出したのは八十何億というのですから、やっと十分の一になったくらいで、問題になりません。ですからどうしても颱風が起こらないようにしなければならないのです。ところが、何時も言うとおり颱風をつくっているのです。やっぱり医学と同じで、対症療法で、根本的ではないのです。ただ表面に現われたものだけを一生懸命に工夫してやっているだけであって、発生の因を何もしないのです。という事は分らないからですから仕方がありません。それを私は教えようと思っていろいろやっているのですが、なかなか急の間に合わないので、当分はやっぱり、まだ何年かはこういう颱風の苦しみというのは無くなりません。これは以前よりも余程増えたようです。以前はこんなに毎年はあるものではありません。昨日の余興の演芸の時に志ん生が“自分等の若い時分にはこんな颱風というのは聞いた事がない。風が吹いて雨がジャンジャン降って来ると嵐になるんだな、と言って、それで済んでしまう。今のように雨が降るというのは変だ”という話をしてましたが、それを聞いて私も思いますが、以前はこんな死者何百人とか田畑の損害が何十万町歩という事はありませんでした。それは人間の頭数が増えたからでしょうが、その数よりか被害の方がずっと多いです。というのは以前よりか汚す量が多くなったのです。大体風の方は人間の想念の悪いのと言霊の悪いのが、霊界に曇となって溜まるので、それを吹き払うわけです。それから水で洗う方は田畑の肥料を流すのです。昔は人糞だけだったからまだ少なかったが、今は化学肥料とか人間を殺すホリドールとか言う凄いのが出来て、それが土に入って行くから、神様の方ではどうしてもそれを洗わなければならないから、そこで大雨を降らすのです。又近頃の雨ときたら、馬鹿々々しく量が多いのです。この間の京都での、大正池という池が氾濫して何十人という人が死んでますが、これは雨の量が多いためです。ですからつまり颱風の起こる原因を人間がつくっているのだから、どうも仕方がありません。そういう事を書いた論文をこの次に栄光に出します。しかしなかなかそのくらいの事では大した効果はないわけです。けれども神様がだんだんうまくやられますから、別にそう心配は要らないが、ただそれまでの間みんなが苦しんだり、いろんな被害を考えると誠に可哀想なので、つい心を傷めるのです。というのは今日の文化というものは霊を無視しているのです。因が霊界の方にありながら、因の方を無視して結果の、現われた方だけを一生懸命にやっているのだから、やはり一つの無知蒙昧です。この前読んだように“超愚”“超馬鹿”です。だからなかなか厄介なのです。

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自然農法も大分注目を浴びるようになって来ましたが、それには今年は特に米の不作なども大いに刺戟を与えたわけです。又今度の颱風でも刺戟を与えますが、今度の十三号で稲作の見積り減収百万石というのです。そうでなくてさえ、政府の発表が五千八百五十万石ですが、それが百万石減ると五千七百五十万石という事になります。ところが政府でなく地方的な見積りを総計してみると五千三百何十万石というのですから、政府の方の予定と七、八百万石の開きがあるのです。そこで中間をとっても五千五、六百万石という事になります。ですから平年作が六千三百万石ですから大変な減収になります。豊作の時から比べると、最近の豊作が六千六百万石ですから丁度一千万石違います。人間の方は毎年百万人くらい増えるが、米の方はそういうわけですから、とに角この問題は大悲観です。ですからそうなればなるほど自然農法が普及するのが早くなるわけだから、一時は苦しくても実に結構なわけです。今日は短い時間で幾つもの項目がありますから要点だけのお話をします。

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次は米国での救世教の発展ですが、これは先月からロスアンジェルスに支部を作って活動を始めましたが、勿論素晴しい勢いで発展しつつあります。今度はサンフランシスコとシヤトルにも非常に熱心な信者が三人ずつできましたから、近々やはり支部ができると思います。ですから三つの支部が大いに活動を始めるのは近いと思います。それにアメリカの他の都会にもできるでしょうから、一年もたったらアメリカの発展は素晴しいと思います。大本教のお筆先に“遅れただけは一度になるぞよ”というのがありますが、丁度そういうような形です。それで日本を救うには、とに角アメリカに信者が沢山できて発展するのが一番効果的です。なにしろ今の日本の各面におけるアメリカ崇拝熱は大したものです。昨日もラジオの街頭録音で、学生がジャズをやるのは良いか悪いかという問題が出ましたが、ジャズというものは少しも良いところはないのです。第一あれは音楽ではありません。私はジャズというのはアメリカの八木節だというのです。ですから音楽ではありません。ただ踊る時の一つの調子をつけるための、リズムというだけのものです。それが日本の若い人達の間に非常に流行っているというのはアメリカ崇拝の結果です。何んでもアメリカのものなら良いという流行的な、ごく単純な心理です。ですから化粧品の広告などを見ると、アメリカ式の何、アメリカで大いに流行っている、というような広告しかありません。ところが又一方アメリカの女性が近頃顔の膚(ハダ)が荒れるので困っていると言って、最近の療法というのは、皮膚をヤスリでこするのだそうです。つまり皮をむくのです。この次はカンナでけずる事になるでしょう。それはやはり化粧品に強い薬が入っているから荒れるのです。それを日本人が有難がって真似するのですから、やはり超愚の方です。だから宗教も、アメリカに救世教の信者が沢山できれば、日本人は一番にそれに食い付きますから、これが一番です。神様がうまくやられるでしょう。

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美術館の事ですが、美術館の来年の計画は桃山展をやろうと思います。桃山時代の良い物が集まっていて、今まであんまり出してないのです。前からそういう計画があったので、なるだけ見せないようにした方がよいから、出さないでいた物があるので、来年はアッとするような展覧会を見せようと思ってます。これは会期中ずっとやります。その外には六、七の二カ月を別館で近代名品展というのをやります。これは明治以来の日本の絵画、彫刻、美術工芸という物を開催しようと思ってます。これは門外不出の物が多いですから、日本での良い物は古い時代ばかりに出来ると思ったが、近代の明治以後にもこんなに良い物が出来るかと喫驚するだろうと思います。それで大体名人の傑作品ですが、工芸品の方は、蒔絵は松民、松哉、自得、包美。彫金は加納夏雄、これはこの人より外に名人はありません。あとの人は普通ですが、夏雄のは、夏雄彫りと言っているくらいです。夏雄という人の今まで世間に出ているのは小さな物です。大抵女の帯止めというような物ですが、私の方にあるのは硯箱とか置物とかの大きな物ですから珍しい物です。彫刻では佐藤玄々、平櫛田中。堆朱は堆朱楊成。陶器は板谷波山、明治以来の名人としては何と言っても波山です。あとはみんな一段落ちます。竹細工は飯塚琅斎(ロウカンサイ)。そういうようで、全部珍しい物が多いです。絵の方は抱一、是真、雅邦、芳崖、栖鳳、鉄斎、大観、春草、玉堂。そういう人達の傑作品です。これは前に集めた物ですが、今では到底手に入る物ではありません。それから八、九、十の三カ月は第二回の浮世絵展をやろうと思ってます。浮世絵は誰にでも分りいいものですから、人気があるのです。浮世絵展のために見に来る人が大分あるようです。それで第二回をやろうと思ってます。それに今まで飾った物以外に相当ありますし、それから持っている人で、なかなか立派な物を出してもらいたいというのが時々あるのです。それで来年は今年とはなるだけ違った物を出そうと思ってます。そのようなわけで、大いに注目を浴びるだろうと思います。美術館もだんだん世の中に知れて来て、観覧者も去年とは比べものにならないほど増えました。それから外人の方にもだんだん知れたとみえて、増えて来て、毎日殆んど幾人か来ない日はないくらいなものです。そういうようなわけで、来年あたりは一層評判になるだろうと思います。そうして美術館が宗教的に非常にプラスになっているのです。おまけにどっちかというと中流以上の人達が何んとなく好感を持っているわけです。それでないと、やっぱり世間に多くある新宗教というと、何んだかインチキ迷信を直ぐに思い出すわけです。そういう点において、これだけの美術館という事は、一般的のそんな新宗教とは違うという一つの信用と、それから又相当の名士とか智識階級の人達が大分来ますから、その方面に大分しみ込んで来たようです。この人がというような案外な人が来てます。だからそういう方面によい影響を与えるという事は大変力強いわけです。何んと言っても社会の指導階級の人を分らせるのが一番効果があります。この頃の言論機関の記事なども以前のような嘲弄的(チヨウロウテキ)の書き方が殆んど消えて、どっちかというと良い書き方の方が多くなって来ましたが、こういう事は大変結構だと思います。この上は、ハワイ、アメリカなどに大いに発展すると、日本人は一度に頭を下げます。それも時の問題だと思ってます。案外早いのではないかと思います。

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今度世界の科学者が五十五人ですか日本に集まって、いろんな会をして、それぞれの説を唱えていますが、これは非常に結構な事で、とに角日本もその方面では世界的水準になったわけです。それも因は湯川博士がああして名声を博したという事が因ですが、それで又湯川博士の刺戟によって日本でも若い科学者が随分できたようですが、非常に結構な事です。それについて私はこれから書こうと思ってますが、それは今の科学界の現状は、何んと言っても物性論が研究の中心になってます。それで物性論というのは素粒子から次に入ったものですが、これはわれわれの方で言うと、そう難かしい事はないので簡単な事なのです。科学者などというのは、簡単な事でもややこしく言って、その方が値打があると思っているのです。簡単に分り易く言えばよさそうなものだが、妙な理窟をつけてやってます。尤もそこまで行ってないからでしょうが、大体素粒子というのは物質の粒子の最も細かいもの、微少なものです。微少ではあるが、物質までにはゆかないものです。つまり物質の少し手前のものです。とに角宇宙線の写真に写ったくらいのものですから、写真に写るだけの一つの個性は持っているのです。ところがそれから先に行くと一つの気体みたいなものになります。分り易く言うと、人間の病気の因は霊に曇りを生ずる、というその曇りの粒子なのです。それがまだはっきり把握できないために、物性――物の性質というような意味になっているのです。これはこういうふうになるほど粒子は細かくなるのです。けれどもつまりはっきり掴む事はできないが、いろいろな操作によって有るべきはずだというわけです。だから物性論というのは非常に変化があるというのです。いろいろな性質があるというのです。甲の場合の物性論と、乙の場合の物性論とは性格が違うのです。それで所によって性質が違うというので、今度の科学者の会では「場」という事を言ってます。場によって違うという事を言ってます。元は一つですが、或る物を通す時に変化するのです。つまり病気と同じで、医学では病気によって治し方が違ってますが、われわれの方では何病気でも同じ方法です。これ(掌)から出るものは一つで、何病気でもそれで治るというわけです。物性論の研究をみても、これと同じ事になってます。ところが例えそういった粒子を発見しても、それが役に立たなければ何んにもなりません。そこで役に立つという事は、それから発する力です。そこで今度も外人で量子力学という事の講演をしてます。そこで量子力学が結びつかなければならないというのです。ですからやはり浄霊というのも一つの力学です。力です。ただこれだけは知っておかなければなりません。それは、科学で作る力は限度があるのです。幾ら顕微鏡が精巧になっても、一ミリの中に粒子が何万個、何億万個と言っても、そういうように数えられればそれが限度ですから、それだけの力しか出ません。原子爆弾が如何に素晴しい爆発力があっても、それは局部的のもので、地球全体を壊すという事はできません。それは物質で作る力だから有限力なのです。ところが神様が作る力は無限力なのです。最近ロスアンジェルスでは素晴しいお蔭話が出たのですが、そうすると私の力がロスアンジェルスまで何んでもなく行くのです。これは無限力だからです。この無限力というのは時間空間を超越したもので、それは神様の力です。だから現代の科学というのは結局有限力の研究です。いずれ或る程度まで行けば、頭を下げるよりしようがないのです。その物性論というのは、霊界と現界、霊と体の丁度中間になっているのです。物性論が進めば要するに科学は宗教に入って来るのです。科学が宗教に入って来ればもう科学ではなくなるのです。私はこれから書こうと思っているが、科学が物性論に入り、その先はどうだ、又その先はどうだ、と何処までも行くと、結局神霊――神様の所に行くわけです。これはなかなか説明し難いのですが、できるだけ書こうと思ってます。とに角今は科学と宗教の結び目に来ているわけですから、それを予め知っておけば、どんな学者が質問して来ても何んでもありません。だから今の科学は丁度、やっと幼稚園を卒業したくらいのもので、これから小学校に入るというくらいのところです。この間京都での開会式の時に湯川博士が“今の科学界は丁度暗闇の中でみんながどっちに行ったらよいかと、これから行く道を見当付けているようなものだ”と言ってますが、うまい言い方だと思って感心しましたが、丁度そういうような状態です。ですから科学者の説によると“これから研究する事が非常に多い”と、これは日本の科学者も言ってます。又他の学者には“そうではない、物性論を進めて行けばよいのだ”と言うのがいますが、これは暗闇の中で見当を付けているのですから分るわけがありません。だから私はその暗闇の中で探し求めているものはこれだ、と書くには書きますが、しかしあの人達の目や耳に入れるという事は出来ないのです。それは、現代の少し有識者は新宗教というと馬鹿にして、まるで何をたわけた事を言っているかくらいにしか思わないのですから、これは何んにもならないが、とに角信者さんだけに知らせれば、信者さんは信ずるのだから、将来これが拡がって行けばよいのです。なにしろ私の説く説というのは古往今来ない説ですから、早く分らせようという事は不可能ですが、しかしいずれは分るに違いありません。幾人かの学者に分れば、それは燎原(リヨウゲン)の火の如くに世界に知れるに違いありません。というのは各国の学者というのはそれを探し求めているのですから。結局そういう工合につきつめてゆくと、宗教と科学とは同じ事です。むしろ科学が求めていたものが宗教という事になります。しかし宗教と言ったところで、今までの宗教では其処までは行っておりません。今までの宗教では科学のちょっと先くらいの所です。だからむしろその力によって負けてしまうのです。ですから私の説というのは宗教ではないのです。しかし宗教の分野に入るべきものですから、そこで書くわけです。

(教二十六号  昭和二十八年十月十五日)