詐欺時代

これも可笑しな題だが、実は本当の事であって、只一般が気が附かないだけの話である。それは何かというと今日の社会は真実そのものは至って少く、大部分といっていい程大なり小なり詐欺的手段が公然と行われている。それを今かいてみるが、例により医薬の面で先ず薬である。毎日の新聞の広告欄を見ても分る通り、薬の広告が大半を占めている。このような莫大な広告料を払ってまで割に合うのだから、如何に売れるかが分る。これでみても今の人間が服む薬の量は大変なもので少し有名な売薬は、五段抜き二つ割大の広告を毎日のように出しているが、この広告を吾々の見地から検討してみると、殆んど詐欺ならざるはないと言っていい位である。

例えばこの薬をのんだら何病に効くとか、何病の発病が予防出来るとか、血が増え肉が増えるとかサモ素晴しい効果がありそうに思われるが、悉くは売らんが為の欺瞞手段である。というのは第一当局にしても薬の効く効かないは問題ではない。只害にさえならなければ許可する方針だというのであるから、売薬業者もその点充分承知している筈であるから怪しからん話だ。尤も昔から売薬の効能といって誇大が当り前のようになっているのは誰も知っているであろう。これ等も公平に見て一種の詐欺的行為といえよう。然も人の弱身につけ込んで金儲けに利用するのだから、その罪赦し難しであろう。次は医薬であるがこれも大同小異で、只世人が気がつかないだけの事である。例えば貴方の病気は一週間通えば治るとか、この注射を何本射てば快くなるとか、この手術なら、この薬を続ければなどといって患者に安心させるが、恐らく言葉通りに治った例しは極く稀であって、大部分は見込違いであるのは医師もよく知っている筈で、これをパーセンテージで表わしたら、意外な結果であろう。してみればこれ等も善意の詐欺といえない事はあるまい。

故に“貴方の病気は私には分らないから確かな事は言えない、服み薬でも注射でも何々療法でも、治るとは断言出来ない、入院しても確かに治るとは請合えない”と言うのが本当であろうが、それでは患者は来なくなり、忽ち飯の食い上げとなるから止むを得ないとは思うが、患者こそいい面の皮であり、医師の立場もサゾ辛いだろうと御察しする。又手術にしても一回で治らず、二回、三回というように回を重ねても治らず、酷いのになると一週間の入院で治ると請合っても治らず、二週間、三週間、遂には半年、一年となっても治らない例もよく聞くのである。これ等に至っては多額の入院料を払いつつ、長い間散々苦しんだ揚句、病気の方は入院当時よりも悪化し、結局退院か死かのどちらかというような人も随分多いようで、結果からいってヤハリ詐欺になり患者は被害者になる訳である。そのような事が何等怪しまれず公々然と行われている今日であるから、実に恐ろしい世の中と言わざるを得ない。処がこういう場合医師は巧く逃げる。曰く貴方は異常体質だ、手後れだったのだ、非常な悪質な病気だ、万人に一人しかない病だなどといって済んでしまう。中には良心的な医師もあって、自分の見込違いだったという事もないではないが、これ等は極く稀である。

次は政治面であるが、政府の公約も、議員候補者の選挙演説なども、国民や選挙民に誓約した言葉などその場限りで忘れてしまい、何等責任を負わないのが通例となっている。又政党なども口では国家本位などというが、実は我党本位であって、是々非々も御都合次第で、いつかは煙になる事が多い。又商工業者の見本と現品の違う事など当然のようになっており、手形の不渡の多い事などかけば限りがない程で、只法に触れるか触れないかの際どい詐欺は 当然のように社会一般に行われている。というように今日の世の中で正直明朗は殆んど見られない。今一つの驚くべき事は宗教にも詐術があると聞いたら誰しも意外に思うであろう。それは何かというと、例えば貴方の病気を治すには、幾ら幾ら金を献げなさいという宗教がある。併しその通りに上げても治らず、死ぬ事もあるから、これ等は神の名を利用した立派な詐欺であろう。そうかと思うと御利益のない内から信じなくては治らないというかと思えば、御利益のないのは信仰が足りないからなどと逃げるのも、厳密にいえば詐欺でないと誰か言い得よう。

こうみてくると今日の世の中は、真実は絶無とは言えないまでも、洵に寥々たる有様で殆んど嘘つき瞞し合いが普通の事のようになっている。全く闇の世の中である。この闇の世の中を明るい世の中に切替えるのが我救世教の使命であるから、世間でもお光様というのであろう。

(栄光二百三十一号 昭和二十八年十月二十一日)