硝子製造人

世間我救世教を以て、他の新興宗教と同様のレベルに見てる人がその殆んどであらうし、少しましな人の解釈でも斯んな処かも知れない。新宗教の中でも救世教は、多少レベルを抜いてゐるやうだ。何しろ僅かの間に兎も角あれだけの地位を獲得したのであるから、どこか違った処があるに違ひあるまい。勿論終戦後の社会混乱に乗じて、巧みに人心を捉えた教祖独特の手腕は、買ってもいいだらう位に見てゐる事は、私にも大体分るやうな気がする。

中には“アメリカを救う”とか、“結核信仰療法”など、社会をアッと言はせるやうな題名の著書を出した宣伝政策など、医学の医の字も知らない癖に、随分思ひ切った事をするものだ、というやうにその方の怪物視してゐるらしい。従って此医学が進歩した時代によくも思ひ切った非科学的な説を堂々と唱えるなどは、甚だ怪しからんと癪に障る人や、鼻の先で嗤ふ人もあるであらう。之等が私といふ者の見方であらうが、此見方の見方を茲にかいたのである。

之に就いて私は、今思うままをかいてみるが、右の見方は決して無理とは思はない。仮に私が普通社会人としたら、ヤハリ同様の見方をするかも知れないからである。そうしてブチマケて曰えば、先づ私なるものの正体は、一寸やそっとでは分る筈がない。本当に分る人は先づ世界に一人もないといっていい。恐らく人類史上私のやうな人間は未だ嘗て生まれた事がないからである。故に私こそ謎の人間と思ってゐる。然し自分から謎といふのは可笑しな話だが、それが一番ピッタリしてゐるやうに思う。今迄にも私の事をかいたり、噂をする人の言を綜合してみても、全然見当違ひで、微笑まずには居れないのである。

茲で私は偉い人達の御気に障るか知れないが、右の謎の意味を最も分り易い譬えを以てかいてみよう。それは現在のどんなに偉い学者、政治家、宗教家でも、ジャーナリストでも、硝子製造人と私は思ってゐる。というのは今日迄の世界は硝子で作ったダイヤモンド、即ちイミテーションを有難がり、満足してゐたからである。そこへ最近御膝元の日本に本当のダイヤモンドが生まれたのであるから、本物を見た事のないイミテーションに馴れた目には、サッパリ見別けがつかない。

何しろ数千年もの昔から、本物を知らない人間は、ダイヤモンドとは硝子で作るものとしか思ってゐなかったので、そこへ私は之が本物だと説明するんだから、疑ひが先に立ってどうしても信ずる事が出来ないのである。然し中には親しく手に取上げてみる人もあって、硬度といひ、光沢といひ、今迄見た事もない素晴しさなので、成程本物は異うといふ事がよく分り、欣喜雀躍有難涙で分けて頂き、珍重愛玩措く能はざる事になる。

といふ次第で、何れは誰にも知れ渡る時が来るに違ひないから、その時になって吃驚仰天、之は一大事と急に随喜の涙を零して、世界中から続々頂載に来る事にならう。その様が眼に見へるやうだ。茲に到って長い間の硝子時代が終りを告げ、愈々天然ダイヤモンド時代に移るといふ事になる。以上の如くで私は現在どれ程偉い人をみても、硝子製造人としか思えないのである。

(昭和二十八年八月二十五日)