今日の社会を見ると、何でも彼んでも科学といふ言葉が入ってゐると安心し、信用するのである。といふ事程科学を絶対なものとしてをり、宗教信者が神を信じてゐるのと、何等変りはないといってもよからう。之は日本も外国もそうだが、此科学信仰によって、神仏を信ずる人々が大いに減った事は言う迄もない。謂はば流石の宗教も科学といふ恐るべき強敵が現はれたので、漸次敗北し、現在は気息奄々として、僅かに命脈を保ってゐるにすぎないのである。
之に対し幕末から明治にかけて、天理教、黒住教、大本教の如き新宗教が現はれ、相当科学の陣営に打撃を与へたのは勿論であるが、実をいふとその戦法が極端に科学を否定しすぎた嫌ひがあった。之はその信者はよく知ってゐるだらうが、文化的凡ゆるものを思ひ切って否定した。一例を挙げれば私が大本教に居た当時は、肉食を厳禁し、洋服を着る人がなかった。当時私一人は洋服を着てゐたので、その点で有名になったものだ。
又旅行の時皮の鞄は持ってはならないといふ事になってゐた等、一時は行き過ぎになって了ったが、私が脱退する頃は余程文化的になって来たので、私もそうなるべきだと思ったのである。又天理教などは今だに信者は、老幼男女が印半天を着てゐるが、之も一種の宣伝にはならうが、普通人からみて少し行過ぎではないかとさえ思はれるのである。
以上の如く科学に対する一種の反感的思想が多分にあったが、それ位の事で滔々たる科学の牙城は揺ぎもする筈はないのである。茲で私の考え方をいってみると、科学文明に対し、その偉大なる恩恵は、最大級の讃辞を呈してもいいのである。只現在の如く何も彼も科学によらなければ、解決出来ないとする科学一辺倒が誤りである事を知って貰ひたいのである。何となれば人生の悩みの殆んどは、此科学迷信が原因してゐるからである。
以上のやうな訳で、私は此科学の人類に幸福を与える面は、多々益々進歩させると共に、その反対である不幸を与へてゐる面を打破し、潰滅させるべく努力してゐるのである。といっても現在の学者の頭では、有益な科学と有害な科学との正確な判別が出来ないが為、只科学でさえあれば、一様に有益と思って進歩に努力してゐるのである。処が幸ひにも、私は神から科学に対する善悪正邪をハッキリ分らせられたのである。換言すれば宗教は科学的に九分九厘迄敗北の運命に立至った今日、一厘の神力を持って、勝軍となるのであるから、此意味を知って最近出版した“アメリカを救う”著書、“結核信仰療法”の著書の那辺にあるかが充分頷れるであらう。
(昭和二十八年)