この文は医学革命の書中の一項目である
医学封建といったら全然耳新しい言葉なので一寸見当はつくまいが、これを読んだら成程と思わない人はあるまい。それというのも今日知らるる如く、実に病気の種類は固より病人の数も多い事である。そうして病気の場合十中八、九は持病又は重難症であって、根治する者の殆んどないのは、医師もよく知っているであろう。そうして常に患者に対してはより速かによりよく治そうとし、最新の療法を以て出来る限りの努力を払うに拘らず、思うように治らない。最初診察の際何週間、何カ月なら治ると予定し、患者にもそれを聞かせるが恐らく見込通りに治った例しは殆んどあるまい。それというのもこの薬なら、この方法なら学理上では治るようになっているので、その通り実行するが中々治らないのは、患者も医師も常に経験している筈である。
その様な訳で一時的には確かに学理通りに治ったように見えるが、それが長くは続かない。時日の長短こそあれ必ず再発するかさもなくば他の病気に転化する。これも医師なら数知れず経験しているので分っているであろう。従ってこの事実に対しては医師も常に疑惑を抱き、不思議に思っているのは想像に難からない。それこそ全く医師が信じている程に医学は進歩していないからであって、進歩していると思うのは、錯覚以外の何物でもないのである。その為絶えず学理と実際との矛盾の板挾みになっており、それを知らない世の中からは尊敬され、確固たる社会的地位を占めているのであるが、胸中の煩悶苦悩は並大抵ではあるまい。併しいつかは医学の進歩によって、解決の日も来ると思う一種の自慰観念によって、淡い希望を繋いでいるに過ぎないと私は思っている。従ってこの説を読み、今迄の疑惑のヴェールが剥ぎ除られるとしたら、茲に白日の如き真理の光に誤謬が浮かび出され、愕然として目覚むるのは勿論である。処がこの迷盲こそ文明の進歩に対する一大障礙となっている為、これ程科学が進歩しても人類の幸福は増進しないに拘らず気がつかないのである。これが為この私の説に対しても全然検討もせず、宗教家の説なるが故に非科学的であり、日進月歩の今日進歩した科学の理論を裏切るものと決め、採り上げようとはしないのである。つまり科学迷信の黒眼鏡をかけているから、正確には見えない筈である。
ではその黒眼鏡とは何かというと、医学者の根本的考え方が最初から人間の生命を、他の物と同一レベルにおいており、病気も科学によって解決出来るものと信じている事である。処が私は神示によって知った事は、成程人間以外の他の悉くはそれに違いないが、独り人間のみは根本的に異っていて、これだけは科学の分野ではないからである。例えば人間の趣味嗜好、喜怒哀楽、恋愛等は固より、智性、芸術、神秘性、人類愛等高度の思想など、他の動物には全然ない事で、これだけにみても他の動物との異いさが分るであろう。というように科学は人間の特殊性を無視し、動物並に扱っている事が大いなる欠陥である。然もそれが医学の根本理念となっている以上、科学の枠の中に立篭り、他の世界が見えなかったのである。これを別の面から見ても、仮に人間のレベルが地平線とすれば、それ以下が物象であり、以上が人間であって、これが宇宙の法則である。この理によって地平線以下の悉くは人間の自由になるが、以上はその反対である。故に人間が造った科学を以て人間生命を自由にする事の不可能なのは当然であって、何よりも無病である事も長命も意の如くならないに見て明らかである。とすれば人間が人間の病気を治そうとするのは下剋上で逆であり、神位の侵犯である。
この理によって人間の生命のみは世界中の学者が如何に努力しても、徒労以外の何物でもないのである。それに気附かず、見当違いの横道をひた走りに走っているのが現在の医学であるから、その無智なる実に哀れむべきである。私は思う、今日の医学者こそ科学の亡者であり、邪教迷信者と同様の心理である。又彼の封建時代武士道を以て最高道徳とし、主君の為なら殺人行為も敢えて差支えないばかりか、団体的大量殺人者程賞讃され、栄誉を得たのであるから、今日から見れば野蛮というより外はない。つまり公然罪悪が奨励されたのである。この事を医学に当嵌めれば尚よく分る。
以上によって科学を以て最高の治病方法としていた事は、狭い封建の殻から脱け切れない盲目であった。処が実は未知の素晴しい世界があり、其処に真の医術があって完全に病を治し得る事を私は知ったので、この一大福音を普く世界万民に知らせるべくその前提としてこの説を全世界の医学者に向って発表するのである。
(栄光二百二十七号 昭和二十八年九月二十三日)