御 教 え 集 第二十五号

昭和二十八年八月御教え

八月五日

終戦後封建性が壊れて、今は自由主義になったと言って大変結構としていますが、誰も気がつかないところに非常な不自由主義があります。そしてこれは解決不可能として誰も関心を持たないのですが、それも無理はないのです。人間はできるだけ自由主義ならよいですが、絶対できない自由主義だから諦らめているよりしようがないのです。ところが私はその自由主義はかえって今の社会的、政治的のそういう自由主義よりもずっと楽に解決できるというわけなのです。それは何かと言いますと、健康自由主義です。今は健康に対する自由がないのです。それを書いてみました。これを読んでみると、なるほどと思うのです。それで救世教の有難い事はこの点に大いにあります。ところがそう言われてみないとちょっと気がつきません。「医学革命の書」の本ですが、前に「医学の革命書」と言いましたが、これを「医学革命の書」とします。その中に入れるものです。ですからちょっと分りきったような説明も書いてありますが、そのつもりで聞いてもらいたいと思います。

御論文  医学革命の書〔⇒健康の自由主義〕 

今読んだようなわけで、今の人間が安心して生活できないという事は、何時病気にかかるか分らない、風邪を引いたら大変だ、食い過ぎるとお腹をこわすとか。ともすれば、頭が痛んだり、目がクシャクシャしたり、ヤレ神経痛が起こるとか、どうも体が重いとか、腰がフラフラするとか、何かしらで年中無事息災だという人は殆んどありません。又それだから一生懸命に医学衛生をやるのです。うっかりすると伝染病になるかも分らない、何時赤痢が起こったり、日本脳炎が起こるかも分らない。子供などはうっかりすると寝冷えするとか、アイスキャンデーを食ったので腹を下すとか、ヤレ生水を飲むなとか、親の子供に対する心配は病気だけです。これが年中ピンピンしていれば、子供などは放り出しておいても育つのです。ところがそれではいけないと、頻りに政府始めお医者さんが注意するのですから、今の人間くらい年中ビクビクして生きているものはないと思います。ですから今の人間が一番心配な事は病気なのです。つまり主治医とか言って、今までは少し裕福な人はお医者さんとは親類みたいになってます。現に私が昔はそうだったのです。人間は何時なんどき病気が起こるか分らないから、夜中でも電話一つで飛んで来るようなお医者と懇意にしておかなければいけないというので、親戚みたいにしていたのです。今の家内の仲人はそのお医者さんなのです。ですからそういうような人が沢山あるという事は、私の経験から言っても当り前なのです。そのくらい医学を信じさせられ、病気を怖がらせるという教育を叩き込まれてますから、みんなそうなってます。ですから他の事はどんなに安心ができても、このために人間が心配し苦しんでいる事は大変なものだろうと思います。ですから、この事から解放されるという事が幸福のまず第一番のものを握ったわけです。これは別に言う必要はないくらいですが、救世教の信者になると、その点が実によいわけです。反対の考えですから。このノンビリした気持というものこそ本当の自由です。ですから丁度自由主義が生まれ又自由主義が有難いというのは、つまり封建的の政治でいろいろ窮屈な事を上からやられて、そうして苦しんでいた者が、(民主主義ですから国民の方が主人だという事で国民の自由を得て)、非常に恵まれたわけです。ところがそれはそれとしても、今の人は健康の方で何時もおどかされて、そうしてアレを食ってはいけない、これをしてはいけない、あれがどうだと、ビクビクしているわけです。そうしてみると、これは封建制度よりも、むしろ恐ろしいわけです。ところがそれを解放されるとしたら、こんな結構な事はありません。そこで健康の自由主義という事を書いたわけです。けれどもこれはそう言われればなるほどそうだと思いますが、世間一般の人は“そんなうまい事ができるわけはない”と、病気は怖いものではない、病気は浄化作用だから結構だという事は知らないし、又信じないから、大変な医学封建に苦しめられているわけですから、大いに健康の自由主義を世の中の人に知らせなければいけないと思っているのです。

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それから先に話をしようと思っていた事ですが、昭和二十二年八月に私のやる仕事が宗教法人になったのですから、この八月で丁度満六年目になるわけです。六年間でこれだけの仕事が出来た、と言うよりか、これだけの規模になった事ですが、私が自分でやっていながら、振りかえってみると驚きます。というのは、六年間としても、無事で来たわけではないので、いろんな事があったのです。これはみんな知っているとおり、ヤレ脱税問題とか、三年前の静岡の事件では私なども二十二日間暗い所に入れられて、散々苦しみましたが、そのための世間から迫害せられて警戒せられたその打撃というものは非常に大きなものです。この打撃は少なくとも半年や一年では、拭ききれないくらいなものです。そういう事や、又その間にいろいろと新聞などでいろんなデマを書かれました。それからもう一つ大きな事は、私が疥癬になった事です。二十二年から約一年くらいの間というものは、寝たり起きたりでした。全く半年くらいは寝たきりだったのですから、何もできなかったのです。勿論信者の面会などもできませんでした。兎に角正味一年くらいは何も活動はできなかったわけです。だから六年としても、一年は駄目として正味は五年くらい働いたわけです。それでこのくらい発展したのです。無論私がやっているのではないので、神様がやっているのですが、この神様の力たるや実に驚くべきものだと思ってます。ですからこれから先五年も過ぎたらどんなになるか見当もつかないと思います。おまけに今度は日本ばかりでなくハワイやアメリカと行きます。樋口さんは今月アメリカに行く事になってますが、ハワイのことは、この次の栄光に出ますが、素晴らしい発展です。とに角相当広い所の支部もできました。向うで宗教法人というような許可も、もうじき下りるらしいのです。そういうようで、とに角ハワイの発展ぶりというのは大変なものです。だからアメリカの方の発展は、国が大きいだけに一層素晴らしいと思います。日本は無論の事ですが、これからはつまり鼠算的にゆきます。たとえば十のものが倍になれば二十で、十増えただけですが、百のものが倍になれば百増えた事になるわけですから、大きくなり出す勢(イキオイ)というものは大変なものです。又そうならなければならないし、神様はそういう予定ですから別に不思議はありませんが、余程腹を大きくしてないと面くらうようになると思います。だから何時も言うとおり、小乗ではいけない大乗でなければいけないと言うのは、腹を大きくするという事です。ですから凡て、物事の解釈にも、全体的に、一番大きな見地から判断してゆくという事が間違いないです。まあ一種の全体主義です。全体的と言うと、世界的という意味です。そういうようで、規模はだんだん大いに大きくなるのです。それには一番の武器は浄霊ですから、そこで病気を治すという事が根本ですから、そのつもりで、だんだん病気についての知識……と言っても、これは医学的でなく、神様の方の病気に対する知識というものを豊富にしなければいけません。何時も言うとおり、急所を見付けるという事は、やはり知識が豊富でないと見当がつかないわけです。ですから病気に対する研究会とか座談会というものもやると結構だと思います。それから又病気に関しての分らない事は、書面でもよいですから聞くようにする事です。というのはつまり本当の医学、霊的医学、新しい医学をつくるようにしなければいけないと思います。それは医学と違って、そう解剖学的に知らなくてもよいのです。勿論、ただ霊的ばかりでも、治るには治るが暇がかかるわけです。同じ浄霊するにもピタッと急所に見当がつけばずっと早く治ります。それを、見当はずれなどをやっていると非常に暇がかかるわけです。だから霊的と体的の両方の事をよく知った方がよいです。時々質問などで、分りきったような事を質問する人があります。この間の質問事項などは、何処の支部長でも分るような事を質問したりしてました。そういうのは“支部長に聞け”という返事をしました。それから又御神書に幾つも書いてある事などを質問するのがあります。それから又あんまり分りきった事、つまり一年生の生徒が質問するような事を質問するのですから、如何に病気に対する頭が貧困かという事が分ります。ですから教師などは病気に対する知識をできるだけ磨くようにしなければいけないと思います。それで今書いている「医学革命の書」は心血をそそいで書いているので暇がかかりますが、これは将来世界的の聖書みたいにするつもりです。つまり医学の革命という事を、現代のどんな人が見ても“なるほど”と思わざるを得ないように徹底的に書こうと思ってます。いろいろな角度から見た批判をしてます。その序文と現代医学論という題のが大体これで出来たので読ませます。

御論文  医学革命の書〔⇒序文、⇒現代医学論〕

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八月六日

この八月で宗教法人になってから丁度満六年になります。その初めの頃の事を考えると、実に想像もつかない発展をしました。その間にも、私は疥癬で丁度半年ぐらいは寝たきりだったのです。非常に重い疥癬でして、ブラブラしていて、信者さんとの面会も約一年くらいはできませんでした。それから二十三年の脱税事件とか、三年前の静岡事件とかで、暗い所にも二十二日間入れられました。その前後にもいろんな事があって、相当暇をつぶしたり、又精神的に何も仕事ができなかったり、何だ彼んだと、そういったマイナスの時を合計しても結局一年間は何もできなかったというわけです。加えるに新聞などのいろんなデマとか何だ彼んだの妨害は大変なものでした。ですから本当に活動ができたのは正味四、五年くらいなものです。しかし四、五年の間にこれだけ発展したという事は、無論例はないし、私としてもあんまり予想はしてなかったのです。〈神様の事は予想の必要はないからですが〉しかしこれほど早く発展するという事は夢想だもしませんでした。全く人間業ではないからこんなになったわけですが、反対からみたら“アレヨアレヨ”と言っている間に上の方に上ってしまったというような恰好だろうと思います。勿論奇蹟から奇蹟で、やっている時よりも、ふりかえって見た時の方が奇蹟の多いのには驚ろきます。

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それについてハワイ、アメリカですが、ハワイは今年の三月から樋口さんと安食さんが行って開拓を始めたのですが、今度はあっちで相当に大きな支部ができて、とてもこっちに報告を出せないくらいに忙がしいのです。又その発展の素晴らしさは、これこそは予想もつかなかったくらいです。そういうわけで、至る所支部とか出張所というものがドシドシ出来てます。あっちで新しく信者になったハワイの人で、夢中で働く人が随分できてきました。だからこの分でゆくと、どれほど発展するか分らないくらいで、又非常に早いのです。いろんな報告を見ると、病気などでもかえって日本よりもよく治ります。よく治ると共に信者になる人も、簡単に信者になります。ではどういう訳でそうかというと、神様は、敢えて特別に力を与えられるわけではないのです。むしろ日本の方が中心ですから、神様は力を与えられるが、ただ日本は邪魔が多過ぎるのです。ハワイは邪魔がないのです。ありのままに受け入れるのです。“病気が治る、それは大したものだ”“医者で治らなかったものが治る、それは素晴らしい”と、そのまま受け取るからドンドン発展するのです。ところが日本となるとこじれてしまっていて、実にしようがありません。なにしろ新聞雑誌で散々いろんな事を言われて、それに噂が尾鰭(オヒレ)をつけて拡がったり育ったりしますから、そのためにみな誤解してしまってますから、救世教でいくら治そうとどんなお蔭があろうと、なかなかそのままは承知しないのです。ですからお蔭話にもそういう事が沢山あります。一旦治って、それなら信じそうなものだが、それが再発したり又新しい病気が出ると、やっぱりお医者の方に行ってしまうのです。だから丁度惚(ホ)れた女がついているようなものです。どんなに美人でも、どんなに言っても、やっぱり元の惚れた方に行ってしまうのです。そういうようで始末が悪いです。それで散々やって懲りて、やっぱり救世教がよいという事が分るのですが、それまではやっぱりいろいろなややこしい経路をへる人が多いのです。それでも信者になる人はよいですが、分らなくてアノ世に行ってしまう人があります。ですからとに角日本のやり難(ニク)いという事は大変なものです。救世教も最初のうちはハワイと同じように面白いように出来ました。その時分には何にも問題はなかったのです。問題というと、こっちで作ったようだが、こっちには何もないが、先で問題を作ったのです。問題をこしらえていろんな事で悪口を言ったのです。ですからそれからだんだんやり難くくなって来たのです。そういうようなわけで、日本とハワイの違いさは大変なものだと思ってます。それからもう一つは国民性にも大分あります。ハワイはそうでもないでしょうが、アメリカは特にそうだと思います。アメリカにも今月から樋口さんがロスアンジェルスに行く事になってますが、それについて非常に驚く事があります。というのはこういう点が大いにあるようです。即ちアメリカの人はアメリカ風と言いますか、そういった気風というものは非常に単純なのです。どんな偉い人でも、日本人みたいに変なこだわりがありません。良ければいいではないか、治ればそれでいいのだという頗る単純です。右か左か早く決まりがつくのです。つまりイエス、ノーの判断が非常にはっきりしているのです。ところが日本人は、そんな新宗教などで病気がそんなに治るという事は変だ、やっぱり精神的にそういう工合にうまい事を言われてウッカリ乗って、それで治るのだという、考えをややこしくもって来るのです。日本にはそういう事があります。そのためにアメリカがあんなに発展したのでしょうが、これは日本ばかりでなく、古い国の一つの非常に悪い癖です。ヨーロッパなどもそれが大いにあります。今度の英国の戴冠式などを映画で見ても、それは何百年前のいろんな形式を尊んで、それを大いに誇りとするような点が見えるのです。尤も伝統的にそういったような誇りをもって国民の忠誠とか植民地の尊敬という事に対しての一つの利用という意味でしょう。その為にかえって進取的な、新しく進むとか進歩するという事が、非常に力が弱くなってしまいます。フランスなどもそうですが、これはフランスに行って来た人によく聞きますが、フランス人はよく次の様に言います。“アメリカ人というのは、美術とかそういうものはよく分らない、つまりあれは田舎者だ”と、田舎者視しているのです。つまり古い国というのは伝統を重んじ、伝統にこだわって、どうも進取的の気分が少なくなっているのという事がかえって国の発展を妨げているという点があります。ですから日本人などもそういった気分が多分にあるから、病気を治したり新宗教などというと、どうも区別したがるのです。それで古い宗教から離れるという事がとてもできないのです。これは始終ある事ですが、救世教の宣伝する場合などに、その家族の一人が奇蹟的に病気が治っても、自分の所は先祖代々南無阿彌陀仏だから、それは結構だが、その信仰にはいるという事は自分にはできないとか、自分は何代前から南無妙法蓮華経だから他の新しいものは駄目だと、そういう事が大いにあります。だから日本で発展するには非常な困難があるわけです。つまり理窟どおりにゆかないわけです。ところがこれは簡単に考えると、新宗教でもオマジナイでも何でもよいから、治ればよいのです。治って仕合せになればそれでよいので、他には何もありません。日本人は簡単なようで、進歩的考えが起こり難いのです。そういう人はない事はないが、ごく少ないのです。それについて昨夜これを見たのですが、非常に面白いのです。これは去年の十月に、ロスアンジェルスの女の人で、やはり病気で治りたいのと、信仰にはいりたいというので手紙が来たのです。それでこっちも、教修を受けさせる事はできないため、手紙と御守と出版物若干を送ってやったのです。その御守をかけて、御神書を読んだりして、大分わかったとみえまして、それから自分の病気が治るし、それから人を浄霊しても治るのです。その結果なかなか面白い事になったのです。

(米国通信  五)【註  栄光二二三号】

それで又面白いのは、樋口さんが今月の四、五日頃ロスアンジェルスに行く予定になってましたから、丁度此処に足がかりができたわけです。神様のやられる事は実に行き届いたものです。つまりこのために此処を根拠として仕事ができるわけです。それが、こっちの信者が行ってそういう工合に準備したわけではなくて、手紙だけで、教修も受けないで、そうしてこれだけの仕事が出来たという事は、実に素晴らしいものだと思ってます。大本教のお筆先に“神様の事は遅れただけは一度になるぞよ”という事があります。だからして、やっぱり丁度よい時と、遅れる時も、神様の時期は伸縮自在なのです。これもお筆先に“何事も遅し早しはあるなれど、これも神様の都合のことじゃ”という事があります。つまり遅い早い、遅れたり早かったりはあるのです。しかし決まる時期はチャンと決まっているのです。何年何月何日までにこの仕事、次はこうという事は決まっているのです。その間の進んだり遅れたりは幾らかあるわけです。ですからよくその時に考え違いをする事があります。ちょっと後戻りするように見える事がありますが、行く時になるとスーッと早く行くのです。尺進寸退というわけですから、それを心得ていなければいけないわけです。従ってアメリカなども、つまり遅れているに違いないですから、それだけ早いです。ハワイなどは勿論そうです。私は去年でしたか、アメリカの何処が根拠地になるかという話が出て、ロスアンジェルスだと言ったのですが、その時にはロスアンジェルスには何もなかったが、やっぱりロスアンジェルスになりました。それから又丁度二年くらい前でしたが、ハワイの仕事は樋口さんと決めたのですが、そのときはそのような様子がないのです。つまり神様はそういうような事情をつくってゆきますが、そういう事は少しもないのです。ところが一年以上たってから、いろんな順序がついてきて、やっぱり樋口さんが行くような順序になりました。つまり神様の方はその時に決まったのです。それが一年以上遅れたのです。そこでその取り返しのために早くなるわけです。そういう事をよく見ると実によく分ります。それからもう一つ考えられる事は、これからだんだん世界的に発展するに違いないから、一々先方が日本に来るのも大変ですし、又辺鄙(ヘンピ)な所に行って教修を受けるという事もなかなか大変ですから、このように手紙で済んでゆくと非常に簡単で楽に発展する事ができるわけです。私はこれが大変面白いだろうと思ってます。その見本としてこの人がこうしたわけです。つまり神様は臨機応変、自由無碍です。これが実によく現われているのです。いろいろなややこしい事も、抜く場合には抜く、それから決めなければならない時には決めるという、自由自在の点が、実に面白いと思います。

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それから今日は、日本も昔と違って民主主義になった。民主主義は自由主義で、束縛がなくなった。封建的が壊れたと言うが、封建的という事は、分りきった話ですが、つまり何事も自由を押さえる、非常に窮屈な、のんびりしないという一つの制度もあるし、仕来(シキタリ)もあるし、実に人民の幸福をそれだけ阻害しているわけです。そこでだんだん文明になると、人間は非常に自由を欲するという事は当り前です。ところが、今日の自由主義という事は政治的の自由主義です。しかし政治以外に自由主義のある事にみんな気がつかないのです。そしてそれは政治の封建よりかもっと恐ろしい封建なのです。それは何かというと健康の自由主義です。今は健康に対する封建です。自由主義はないのです。これに気がつかないのです。ところが気がついてもどうにもならない点があるのです。そこでどうにもならないから、気がつかないというよりか、気をつけ得ないのです。たとえてみれば、ヤレ予防注射をしなければいけないと言うが、これが封建です。いやだと言っても、規則だからやらなければならないと無理に強制的にやりますが、これが健康に対する封建です。それから病気になったら医者にかからなければいけない、衛生上こうしなければいけない、こういう物を食ってはいけない、こういうようにしろ、という事を一々注意したり、半強制的にやっているわけですが、これは立派な封建です。私はその封建を破ろうとしているわけです。それで健康保険にはいらなければいけないというのです。ところがそういう封建をしなければならないようにするという事は、つまり健康を守るべき方法がないからです。又その方法と思っている事が医学であって、その医学がとんでもない間違いだから、そこで間違ったそれを間違っていないと思い込んでしまっている一つの迷妄が根本になって、そういう手数だけかけて何にもならないような〈つまり医学の封建制度というものはそれですが〉そういうものを作って人間を苦しめているわけです。この点も分らせるべく、私は書いたのですが、これは「医学革命の書」の中にはいるものです。だから信者の人は知っているような事が大分ありますが、最後の方に今の意味が書いてあります。

御論文  医学革命の書〔⇒健康の自由主義〕

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それから話は別ですが、今年の米作は余程悲観すべき状態にあるようです。水害は別ですが、害虫は大変らしいです。どのくらいの減収になるか、相当の減収になるだろうと思ってます。丁度医学と同じ事で、虫害のために減収になるのです。その対策として、虫を殺すという事に一生懸命になってますが、これは近頃この二、三年前からやり始めたドイツで出来た何とか言う恐ろしく毒のある薬で、手に触っただけで死んでしまいますが、それを使い始めてます。それくらい強烈な薬です。それで虫だけを殺せばよいと思ってますが、それが土にはいって行くと大変です。ですから実に単純な考えで、要するに浅薄極まるのです。それで益々薬を強くするのです。そうすると益々害虫が発生する事になり、その競走になってます。丁度麻薬と同じ事です。麻薬が、最初は一日に一回でよかったものが、二回になり三回になり、しまいには何十本と打つようになる。それと少しも違いません。ですからこれを早く防がないと、今に大変な事になります。今年あたり虫害のために減収になったら余程考えるだろうと思いますが、どうしてもこっちの方で、できるだけ分らせるような方法をしなければならないと思ってます。ところがこういうわけです。霊界がだんだん明かるくなると、結果が非常に早くなります。今までは毒の効き方も遅かったために、虫なら虫を殺すだけの効果があって、それが土にはいって、土を穢して、又虫をわかせるというのに暇がかかるから、一時虫が死ぬからそれでよいと思っていたが、ところがだんだん霊界の浄化が強くなるに従って早くなるのです。つまり毒が集まって行くのに何年もかかったのが、それが早くなって、つまり毒の結果が早く来るのです。これは丁度浄霊と同じで、浄霊も年々治りが早くなって、治る人はドンドン治り、死ぬ人は早く死ぬというようになってます。ですから善悪をはっきりさせるという事になるのです。そこで以前は肥料の毒をそれほどと思ってないのが、肥毒というのがますます著しくなるから、どうしても分らないわけにはゆかなくなるのです。丁度医学の薬が今までは固め方法だったのですが、その固め方法がだんだん効かなくなるのが早くなって、今度は固めようとする傍(カタワラ)から溶かす方が早くなって駄目になるというように、肥料の方もそういうようになって来つつあります。そこでどうしてもこっちの言うとおりにしなければならないようになって来ます。それもそう長い事はありません。そうなったら、私が著(アラ)わした本を見ればすぐに分るようになります。今私が本を書いているのは、今信者の人に読ませるという事は一つの準備行為で、その時に一般人に読ませて目を覚まさせるという事が本当の狙いどころになるわけです。ですから今年あたりの虫害が非常に酷いという事は、一歩それに近付いたわけです。これはいろんな方面に現われていきますが、とも角肥毒のために今でさえ米が足りないとして、近頃は人造米などを大いにやろうとしているらしいですが、しかし人造米の原料でも、やっぱり米と麦ですから、大した節約にはならないわけです。しかも余計な手数をかけて不味い物を食わせるのです。これはどうせ自然とは違うに決まってますから、美味い事はありません。それで栄養が何%あるとか言ってますが、それは自然の栄養とはまるっきり違います。そういうわけで、それだけの経路を経なければ本当に分らないのだから仕方がないわけです。私の方でやっている仕事はその時期とチャンと合ってゆくわけですから、可哀想でもあるし愉快でもあるという、複雑な感じです。しかしそうなっているのですからどうにもなりません。土を浄めるためにこの間のようなああいう大水が出たわけですが、だんだん浄化という事がいろんな事に現われて行くというように見ていればよく分ります。

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八月七日

二十二年八月に宗教法人になってから、今月で満六年目になるわけです。六年のその間にも、私は疥癬で約半年は寝たきりで、あとは寝たり起きたりくらいで、信者さんの面会もできなかったわけです。その他にも脱税問題とか静岡問題というために暇を欠いたし、それから又いろんな精神的打撃を受けたりして、約一年くらいというものは無駄に費(ツイヤ)したようなものですから、正味五年になります。それで二十二年八月までは浄化療法で、民間療法的にやっていて、信仰の方はごく表面的でなく、蔭でやっていたのです。それも漸く終戦になってから信仰の自由を許されたので、ボツボツ信仰的になったのが二十二年の春辺りです。そこで準備をして、二十二年八月に法人の許可を受けたわけです。ですからその当時はごく微々たるもので、二十二年八月からやっと表面的にやれるようになったのです。それが僅か五年でこれだけに発展したという事は、古い信者さんなどもそうでしょうが、私が一番驚いているくらいです。それは将来は素晴らしいという事は大体神様からお知らせされていますが、しかしこう早くこんなに素晴らしい発展をするという事は全く想像以上なのです。ですからこの発展の仕方から言うと、これから五年もたてばどんなになるか見当がつかないくらいです。それで日本の方は、箱根はとも角此処だけは出来上りましたし、これから熱海をやり、次は京都という工合にだんだん出来てゆきますが、なにしろ世界を救うのですから、外国の方も肝腎です。ハワイの方は今年の三月に手をつけ始めました。ところが又馬鹿々々しく発展してしまったのです。それと信者も沢山出来ますし、なにしろ樋口さんと安食さんと二人ですから、体が幾つあっても足りないくらいの忙がしさで、こっちへの報告の手紙を書く事もできないくらいの有り様です。ですから樋口さんからの報告は先月は来なかったと思います。つい二、三日前に久しぶりで来ましたが、あっちも支部とかそういったものが大分出来てきました。そうして最近は相当広い家を借りられて、其処を本拠にする事になったのです。それで支部長もハワイ在住のハワイの人で信者になった、随分熱心な人が後から後から出て来て、今のところは出張所のようなものですが、そういう人がみんなで支部をつくってます。そうして向うは島が沢山ありますから、何とか島と言って小さな支部のようなものが出来つつあります。ですからこの分で行ったら、今に大変な事になります。又ばかにお蔭があるのです。そうしてお蔭があると直ぐにも信仰にはいるのです。この点は日本とはまるっきり違います。けれども日本も最初はそうだったのです。最初渋井さんなどが主になってやった時分には面白いように信者が増えたのです。ですから別に日本がハワイとそう違うほどの事もないのです。ところが相当発展しかかった時に、第一番に脱税問題が最初ですが、それに新聞がデカデカに書く、それから何だ彼んだといろんなデマを飛ばしたり、まるっきりインチキ邪教というように盛んに宣伝したのです。それでこっちは順調に発展したものを、そこでガンと鉄槌を下されたようなものです。それでそれをしのいで、そこを起き上がろうとすると、又何だ彼んだといろいろな事の妨害があり、そこにもっていって静岡問題が起こったのです。これこそ一時は殆んど致命的なくらいでした。そういうような事があったために一般が非常に警戒心を起こしたので、あなた方が随分病気を治したり奇蹟を現わしたりして、そのために重病が治っても、警戒心を緩めないのです。それで治ったら、そこで素直に信じそうなものだが、なかなか信じない。そこにもっていって周囲の人が“新聞にあれほど盛んに出ているのだからロクなものではない。気をつけなければいけない”といろんな事を言う。そこでこの次に病人が出たり、自分がどうかしても、救世教で治った事を忘れて、やっぱりお医者に行くのです。お医者に行くと悪くなるに決まってますから、そこでやっぱり救世教でなければ駄目だと、それから本当に分って来て信仰にはいるというような経路は、始終お蔭話にも出てますから分りますが、そういうような工合で、非常に宣伝がし難いのです。いろいろなモジャモジャが始終障(サワ)っています。けれどもなにしろこっちの神様の力は素晴らしいですから、そんなものはドシドシしのいで、先が幾らギューギュー押さえても、発展の力の方がそれを突破してしまうわけです。宗教というものは昔からそういうものです。けれども今日は磔(ハリツケ)になったり島流しに遭ったりという事がないだけに大いに楽です。ハワイなどはそういう事が全然ないです。二、三新聞に少し書き出したので、奴さん達始めたなと思ったので、早速こっちの出版物を送ったのです。そういう時はこれに限るのです。そうするとそれからはピタリと沈黙してしまいました。尤もハワイはちょっとまずい事があるのです。それは踊る宗教などが行って、かなり新宗教に対する軽蔑心をつくったのです。それから他の宗教が行っても、今まで永住しないのです。少しやってみては帰ってしまうのです。だからハワイの人は救世教などもいい加減やって金を集めたらドロンを決めるだろうというので、その疑いが多分にあったようです。だからやはり支部なら支部をしっかりつくればその点に安心しますから、そこで支部を急いでつくろうとしたところが、丁度適当な所が見付かったものですから、これからやります。なにしろ最初の家は小さな所で、一軒というわけではないが、一間か二間使ったが、来る信者が多くなったので家の中にはいりきれないで外に立っていたが、今度の所は大分はいりそうです。これとても間もなく足りなくなるに決まってます。まあ神様がいい工合にするでしょうが、実に凄いほどの発展ぶりです。ところでアメリカの方はいろいろな事情のために、やっと今月の月初めという事ですから、もう行ったでしょうが、ロスアンジェルスを本拠にして活動をする事になってます。ところが神様はなかなか気がきいてます。つまり足掛りをつくったのです。その人は無論日本人ですが、相当長くロスアンジェルスに居て、以前多分樋口さんから聞いたのだと思いますが、自分の病気をどうしても治したいというのです。ところが日本に教修を受けに来る事はできませんし、それから樋口さんはまだ何時行くか分らないというので、何とか便宜を与えて信者にしてもらいたいというわけなのです。それでしようがないから昨年十月に御守を送ってやったのです。それをかけると自分の病気が非常によくなったのです。それから御神書などを読むというわけで、人の病気もやってみるとよく治るので、だんだんに知れて来たとみえて、現在十人以上が教修を希望しているそうです。その報告がつい二、三日前に来たので読ませます。

(米国通信  五)【註  栄光二二三号】

今のような工合で、非常に面白いのです。これからだんだん世界的になるに従って、辺鄙な所や変な所は、先方からもなかなか来るわけにもゆかず、こっちから出張するのも大変ですから、そういう場合手紙で教修させられるようなわけです。それでそういう人が活動して、だんだん信者をつくると便利です。実に楽です。これは昔の宗教の教祖にはこういう事は全然できなかつたと思います。尤も交通とか郵便という文化的の施設がなかったから仕方がないが、こういうようで発展できるとすると、少なくとも飛行機、無線時代に相応(フサワ)しいと思います。ところが他の宗教は今もって昔のやり方をしてますが、或いは他の宗教ではそういうやり方はできないかも知れませんが、とに角面白いと思います。と共にこれが世界的に知れたら“なるほど、これは大したものだ、今までの宗教とは全然違う”という事が、よく分るわけです。ロスアンジェルスでは大変な金持が息子を頼みたいという事を言ってますが、これがアメリカ人に分り出したら、これは又大変です。それにアメリカ人くらい分りのよい人間はありません。分りがよいという事は、つまり国が新しいためです。日本は無論そうですが、古い国というものは、つまり伝統的に自分の国の歴史とかそういう事を非常に重んじていて、だから他の国から良いものが出て来ても、容易にそれに手を出さないという点が大いにあります。現在の日本は別です。今はアメリカの物でさえあれば何でもよいと思って飛び付きますが、それは他の国にはないようです。というのは中国では今もって西洋の医学を取り入れないのです。やはり漢方医学です。これは医学ばかりでなくあらゆる文化が、中国はどういうものだか取り入れないのです。そのために文化が遅れるという点も大いにあるから、決してよい事はありません。ところがその点においては日本は非常に結構なわけですが、ただ日本は少し行き過ぎという事が今日の悪い点です。けれども行き過ぎたとすればそれを訂正されるに違いないから、その点はよいです。これは東洋ばかりでなく、西洋もヨーロッパ辺りの事をよく聞いてみると、お国自慢というか国粋主義という事が大いにあるのです。フランス辺りの事を聞いても、アメリカの真似はしないのです。特にフランスは服装や芸術方面ではアメリカなどを非常に軽蔑して、アメリカ人は田舎者だと、全然相手にしないそうで、田舎者扱いです。これを日本人にも少し取り入れたいと思うくらいです。何というか、ケバケバしい垢抜けのしないような今の婦人の服装は、アメリカ式を取り入れているからです。これをフランス人辺りが見ると問題にならないでしょう。しかしどういうものか映画女優などはフランスに行きたがります。それから芸術家は勿論フランスですが、これは非常に結構だと思ってます。そういうようで、国が新しいと“良くさえあればよい、病気は治ればよいではないか”という単純な考え方ですが、しかしこの単純が本当なのです。ところが日本人はその単純を嫌うのです。何でもややこしい事がよいと思っているのです。ですから医学なども、微に入り細にわたって細かいです。黴菌医学という事を非常に有難がるのは、細かい事がよいと思っているおかしな考え方のためです。

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それについて書いてみましたが、健康の自由主義という事です。と言っても、これはみんな知らないのです。それは日本にはないからです。ところがこれが大いにあるのです。普通の自由主義、これは封建に対する反対のものです。ところが封建というものは、勿論人間の“したい、やりたい”という事を、それはいかんと制限されるのです。非常に窮屈にするのです。そこでそれに反抗してできたのが自由主義ですから、実際日本でも現在自由主義のお蔭で大いに楽になったわけです。ところが昔の封建よりかもっと封建なのがつまり医学なのです。この医学封建というものは大変なものだが、みんな気がつかないのです。尤も気がついてもどうにもならないから、それで満足はしなくても、諦めているというわけでしょう。ところが神様の医学からみると、それが人間の非常な苦しみになっているわけです。食いたい物が食えない、したい事が出来ない、無理してはいけない、人混みに行っては空気が悪い、そうしてそれが命に関わるような事を言っておどかすのです。ですから人間は震えあがって、ちょっと汽車や電車に乗っても、隣に変な者がいて青い顔して咳でもすると、これは肺病ではないか、うっかりして伝染するといけない、窓を閉めきると空気が悪くなるからいけない。そういったような恐怖は大変なものだろうと思います。その事を書いてみましたが、これは「医学革命の書」にはいる一節ですから、分りきったような意味も少しありますから、そのつもりで聞いて下さい。

御論文  医学革命の書〔⇒健康の自由主義〕

今読んだような工合で、ますます医学はそういう面倒臭い事や、ややこしい事を進歩した事だと思っているのです。そうしてはヤレ注射だとかヤレビタミンをのまなければいけないとか言ってます。今度は人造米というのが出来るそうですが、これにはビタミンを入れるようです。そういうようで、われわれからみると実に滑稽(コツケイ)に思うくらいです。何でも彼んでもややこしく変テコにする事がよいと思っているのですから始末に負えません。全く馬鹿と言ってよいか可哀想と言ってよいか分りません。それでそうすればするほど、だんだん弱い人間が増えて来るので、これは丁度農業で肥料をやるのと同じ事です。逆効果になってゆきますが、その逆効果を妨ぐのに又逆方法をやりますから、そうなると、そういう点における文明というものは実に困りものです。それをだんだん教えて、要するに教育してゆくわけです。そうしてこれだけ知っただけで、生きているのがどれほど楽か分りません。ビタミンも蛋白も何もないので、何でも食いたい物を食えばよいのです。水は生水を飲んではいけないと言いますが、これは生水の方がずっと生きてますから、体によいのです。一々沸かしたりすると水が死んでしまいます。つまり水の精がなくなるのです。死んだ水になりますから大変悪いのです。そういう事を知らないから、何がなんでも顕微鏡式にやる事をよいと思っているのです。この間も言ったとおり、黴菌というのはごく粗いものだ、つまり本当の原因というのは無限粒子だという事は、つまり霊です。霊と言ってもまだピッタリと来ないかも知れませんが、「気」と言った方がよいかも分りません。ごく稀薄な目に見えないものです。それで一番目に見えない掴めないものは、あらゆるものの一番根本です。ですから「力」というものは一番目に見えないものです。稀薄なものです。そして一番稀薄なものというのは人間の想念です。心でいろんな事を思うという、これは形ではどうしても掴めるわけはありません。そういう気がするというものです。

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美術品についても、この頃つくづく思われて来たことは、学者の鑑定はどうもいけないです。ですから私はこの頃学者の言う事は否定する事がよくあります。今来ている宋時代の赤絵の壺ですが、“これはもと白い壺で、日本で絵をつけた”というのが学者の説で、陶器の方では小山富士夫という一番有名な人の説では、後絵と言って明治時代に絵を画いたというのです。そのためにわざわざ注意に来てくれた人があります。これはそういう事は決してないのです。私は六感で言うのですが、では何故そういう説を言うかというと、今までの宋時代のものにはそういう物がないのです。学者が研究してもそういう物はないから、これは宋の赤絵ではないと言うのです。ですから学者の言う事は何時も困る事があります。或る作者なら作者がこしらえると、この作者はこれとこれと、こういうように作ったというように説を立てるのです。ところが画家にしろ工芸家でも、自分がずっとやっていて、これは面白くない、こうした方がよいと思えば、グッと変えることがあります。それを幾度も変える人もあります。それを変えると、学者の方ではこれは違うと言うのです。一つの物でなければいけないのです。よくそういう事があります。例えば今美術館に出ている又兵衛の「山中常盤」ですが、これが今もって作者が決まらないのです。又兵衛の物であるという説と又兵衛の物でないという説が今もって決まらないのです。決定すれば、あれは重美か国宝になる物ですが、そのためにならないのです。これは又兵衛の落款がはいってないせいもあります。ところが巻物には作者は多く落款を入れなかったのです。それは巻物は本当の絵としては位が下がる事になるのです。掛物が本当の絵という事になるのです。それはそうでしょう、掛物は掛けて楽しむので、巻物は拡げなければならないからです。それと、他の又兵衛のは、別館にもありますが、線が細くて柔らかく上品で垢抜けて画いてあるのです。ところが山中常盤の巻物の方は非常に油ぎって強く、活気凛々(リンリン)としているのです。だから又兵衛ではないと言うのです。ところが私の鑑定では山中常盤の方は若い時分に画いた物で、掛物の方は年をとってから画いたのです。そこで違うのです。それで今はどういう説になっているかというと、“山中常盤は又兵衛ではない、しかし又兵衛と同じくらいの腕がある名人がその時代に居たのだ”という説が一番多いのです。私は藤懸博士か誰かに親しく聞きましたが、しかし又兵衛と同じような腕のある画家がいたとしたら、有名になっていなければならないのです。しかし無名ですから、そんなはずはありません。それが分らないのです。そういう事が沢山あります。いろんな研究をしてますが、そうかと思うと光琳の琳派物ですが、これが始終問題が起こってます。宗達の有名な物に関屋の屏風というのがあって、去年私の所に来たのです。それは実によくできていますが、私はどうも納得ができないので、借りて三、四回見たのですが、だんだんアラが見えて来たので返してしまったのです。それを安田靭彦先生が素晴らしいと大変に褒めたのです。又他の画家も鑑定家も褒めるのです。ところがあれは駄目だと指摘したのは私一人です。そして或る弁護士が直ぐに買いました。ところがそういった方面の評判では、とに角あれはみんなが良いと言うのに、箱根の美術館長だけが“あれはいけない”という事を言っているというので、一しきり随分ガヤガヤしたものです。そうするとだんだん“いけない”という私の方の組が増えて来て、今丁度半々になっているのです。それでこの間藤懸博士と熱海で、こっちに来る前に議論した事がありますが、あれは立派な物だと言うから、駄目だと言ったら、何処が駄目だと言うから、三、四カ所、これとこれとこれが駄目だと言ったら、“フーン”と黙まってしまいました。そういうようで、これは何事にもそうで、医学でも農業でも、学者の説はそういうようなものです。

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八月十五日

つい最近発行したシカゴ・トリビューンと言う新聞があります。その日本版という東京イヴニング・ニューズと言うなかなか有名な新聞ですが、その記者が此処の美術館を見ての感想が出てます。なかなかよく書いてあって、ちょっと見たところでも、鋭い批判がよく合っているので、むしろ驚ろいたくらいです。それを読ませます。無論全部英文で、それを飜訳したものです。

(東京イヴニング・ニューズ八月七日付掲載の記事)【註栄光二二四号】

外人は外人なりの見方をしている点が面白いと思います。この感じたままを卒直に表現する点が、日本人とは又違った味があります。これは切抜いた写真ですが、柿右衛門の壺と阿彌陀さんの像が出てます。これは素晴らしい広告文になります。これが出てから外国人の見物人が増えてきました。

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今「医学革命の書」を書いてますが、できるだけ分りやすく、つまり第三者が見て分りやすく念を入れて書いたのですから、私としては一大論文と思って書いてます。その序文の次のもの、論文としてはトップになる論文ですが、これを読んだら、大体は分ると思います。

御論文  医学革命の書〔⇒現代医学論〕

この次にはもう一層細かく部分々々にわたって説くつもりです。これは医学界に対する水素爆弾です。

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話は違うがハワイの方面も相変らずますます発展しつつあって、今度お蔭話をいろいろ送って来ましたが、むしろ内地以上に素晴らしい状態です。それで今度なかなか立派な家が手にはいったのですが、これはハワイの本部になるつもりです。手紙の様子では相当立派なものらしいです。無論神様が準備をされたものです。又各所に支部が出来てきましたが、なにしろこっちから行ったのは樋口さんと安食さんとで、あっちで入信した人達がみんなで支部を作ったり支部長になったりして自然になったので、別にこっちで頼んだわけでなく、みんなでだんだん盛上げて行ったものです。だから誠に手数がかからないで、放っておけばドンドン発展してゆく状態になってます。尤も遠く離れた所とすれば、そうでもなければ大いに拡がるというわけにはゆきません。そして随分素晴らしいお蔭もあります。お蔭というものの元は光で、光の活動なのです。ところが日本ならとも角、ハワイとなると随分離れてますが、そこまで光が漲(ミナギ)っているわけです。これは時節の関係もありますが、それから如何に霊界は違っているかという事が分ります。ロスアンジェルスの方も、この間も話をしましたが、ロスアンジェルスの或る婦人で、去年の十月に病気で私の方のことを聞いて、是非入信したいのだが日本まで行くわけにはゆかない、どうしたらよいか、ということだったのです。それでお守と御神書を送ってやったのです。それで御神書を読み、御守をかけると、自分の病気は治ってしまったのです。それから人の病気を頼まれてやるとよく治るのです。それでその人が信者のようなものを作ってしまったのです。そうして樋口さんが行くのを待っていて、第一回の教修をするつもりで、その教修の希望者が十数人できているそうです。だから実に便利で簡単です。ただ郵便だけでそれだけ開く事ができるのですから。今までの昔からのどんな宗教でも、こんなに手取早く簡単に救うという事はありません。ないばかりでなく、想像もつかないくらいです。そういうわけですから、今度樋口さんが行ったら、定(サダメ)し素晴らしい発展をするだろうと思います。それで樋口さんは六日にロスアンジェルスに行きましたが、一、二カ月くらいで、又一旦帰るという話です。それからまだ他にも許可があり次第日本よりハワイに行く事になってますから、だんだんとあっちの方面も開けてくるに違いありません。「アメリカを救う」の本も読ませたいのですが、規則とかいろいろな事がありますから、余程用意してからでないと、何かあると困りますから、あっちの医学博士の何とか言う人に読ませて、すっかりと見極めがついてから、あっちに売り出す事になってます。そういうようなわけで、あっちの方面も着々と軌道に乗りつつあるわけです。とに角ハワイの方面などは実にお蔭があります。ですから熱心な人が随分できつつあります。それで今あっちで、いわゆるこっちで言えば宗教法人というような許可を、大手を振ってやれるような許可が今月の末にとれる事になってますから、そうすれば一層活動がしよくなると思ってます。あっちに発展するという事は、それが日本人に分るとしたら、又素晴らしいものです。とに角薬の広告を見ても分るとおり、アメリカの医者が大賛成をしたとか、アメリカでは流行るとか、新聞の広告にはきっとはいってますが、それを見ても日本人はアメリカの息がかかったものは何でも飛び付くというくらいにアメリカ崇拝になってますから、あっちで大いに有名になるとしたら一番大きな効目(キキメ)があると思います。ですから始末が悪いようでいて考えようによっては始末がよいです。つまり逆影響です。いずれはアメリカ人の信者なども沢山できるようになりますが、そうしたらしめたものです。日本も、なにしろ今まで邪神の方でいろんな活動をしていましたから、それで押さえ押さえされて来たのです。しかしやっぱり光が、霊界の方で強くなると、邪神の活動も萎縮してきますから、やりよくなるし、それが結果に現われてきますから、もう一息だと思ってます。だんだん浄化が強くなり、今年あたりは颱風などが非常に多くなりました。今言っている七号は恐ろしいらしいですが、これは外れるらしいです。まだ八号も出来つつあるという事は、それだけ浄化が強くなったのです。浄化が強くなったためにいろんな伝染病なども増えます。日本脳炎なども今までで去年の十倍だというのですから、いろんな方面に、稲作なども今年はばかに減収らしいですし、そういういろんな事も浄化が強くなったためなのですが、これはまだまだこんなどころでなく、結局は二進も三進もゆかないところまで行くのです。それと正比例してこっちもだんだん発展して行くという見方で見るとよく分ります。

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八月十六日

昨日、睾丸が落ちて後から元通りに生えたという子供を招んで、医学博士が七人、岡田道一さんの骨折りで来て、すっかり診察したのです。その前に私が見ましたが、どういうふうに生えたかよく見たところが、なにしろまだ元通りと言ったところで、やっぱり相当に引き吊りみたいな凸凹になって、後から生えたという事がよく分るようになってます。かえってあんまりきれいだと疑いが起こるが、あれなら無論後から出来たという事が分ります。それでお医者さんが見た結果、この部屋でいろいろな説明をしたのです。ところがなかなか説明ができないのです。実に気の毒なくらい苦しんでいました。それで博士が一人一人批判をしましたが、小便が止まったというのは、腎臓結石だとか膀胱がどうだとか、そういう事はなかなか詳しく話しましたが、さて落ちた睾丸と陰茎が後から生えたという説明にはとても骨が折れてました。それで結局二人ばかりの医者が一人は睾丸は吊れて奥の方に引込んでいた一人のお医者さんは陰茎まで引込んでいたと言うのですが、それがなかなか苦しそうなのです。この問題の重点というのは“陰茎と睾丸が落ちて後からそれが新しく出来た”要するに新生という事が重点ですが、どうもそこにゆくとはっきり言えないわけです。それで結局において“不思議だ、奇蹟だ”という事になったのですが、奇蹟だという事を言う時には殆んど聞えないような小さな声で言ってました。だから多分そう言ったのだろうと、私は推察したのです。尤もこれは医学的説明は無理なのです。だから“医学では分らない、実に奇蹟だ”と言えば簡単に済んでしまうのですが、それを言う事ができないらしいので、そこに何とか彼んとか理窟付けようとする、それが実によく分るのです。それから教団の幹部の人との質問応答が二、三あり、最後に私がその説明というわけですが、説明して分るはずはありません。これは何でもない事で、霊主体従の法則さえ分れば何でもありません。それで私もかなり皮肉に言ってやりました。この問題の重点は睾丸と陰茎が落ちて、それが新生した。それでお医者さんの方では“無くなったものが出来るという事は、睾丸を包んでいる袋が伸びる事はあり得る”というのです。それから“陰茎の皮も新生するという事はある”というのです。“けれども睾丸の玉と陰茎の棒、おまけに亀頭は新規には出来ない”というわけなのです。“だから外にある程度皮などが出来る間、奥に引込んでいた”というのです。ところが中の棒、亀頭の方がずっと伸びているのです。そうして皮の方が足りないのです。だから私は聞いたのです。子供というのは皮の方が長くて包んでますが、目下あべこべなのです。だから相当皮肉に言ってやりましたが、結局私の方から見ると新生だ、医者は新生という事はあり得べからざる事だと言うが、あり得べからざる事だから奇蹟というわけなのだ、私の方ではあり得べき事になっているのだから別に不思議ではない。しかしあり得べき事を、あり得べき事と言えないのは、科学がそこまで進歩していないからだ。それについて私は今「医学革命の書」という本を書いているからして、それが出来たら、お送りするから見てもらいたいという事を言っておきました。結局においてこの原理というものは、つまり湯川博士が唱えられて居る物性論というのは、中間子の事で、中間子からヒントを得たのです。そこで物性論というものは、つまりまだ目には見えないという事を言われてますが、これは細胞の霊なのです。つまり黴菌の霊です。だからこの物性論がもう一層進むと、科学は又深い所に行くわけです。それから又進み進みして、ごく深い所に行き、そこまで私は書くから、それを読めば、この子供の道具が新生したという原理は分るから、というように話したのです。だから今信じられない、つまり奇蹟だ、理窟がつかないという事は丁度“原子爆弾を発見する前にそれを説明しても、誰も本気にする人はない。しかし一つ落せば一度に分るようなものだ”と説明したのです。この睾丸について説明しても分るはずがないから、いっそ、そういった大所高所から、根本的の事だけを言うより他にないのです。そういうような意味の事をちょっと話してやりましたが、後で聞いてみるとお医者さんも分ってはいるのでしょう“が、分ったとは言わないのです。そこに傍聴に来ていた産業経済の記者などはよく分ったそうです。お医者さん以外の他の人達はよく分ったらしいのです。お医者さんも分ったらしいのですが、分ったとは言い難いので、分ったとは言わないのでしょうが、とに角そういったお医者さんが此処に来て私の話を聞くという事だけでも大したものです。以前に私は“とに角今に大学の講堂に行って、少なくとも五、六十人の博士を集めて、その前で私が医学の講義をするようにならなければ駄目だ”という事を言った事がありますが、昨日のは、その小さい最初の型だと思います。ですから非常に結構な事だと思ってます。結局お医者さんが分るという事が根本です。それからこういうふうにしておけば、これから思い切って医学のいろんな事を書いても、当局にしても余程見方が違うわけです。こっちに余程自信がないと、それだけのお医者さんを相手に、此処まで集めて、一つの奇蹟的の効果を検討させるという事はできないので、その点十分昨日の収穫はあったわけです。そういうようなわけで、これからもいろんな奇蹟が出るでしょうが、とに角進んでゆくわけです。

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二、三日前にハワイから来た通信によっても、ハワイの方でも盛んに奇蹟が起こるのです。そのために何処までも非常な勢で発展しています。今月の六日に樋口さんはロスアンジェルスに立ちましたから、もう着いているだろうと思ってます。ロスアンジェルスは、この間も話したとおり、去年の十月にあっちの方の婦人で話を聞いて、自分が長い間病気にかかっているのを是非治りたいというようなわけで、それから教修を受けたいというのです。しかし日本に行くわけにもゆかず、まだ私の方ではあっちに行きませんから、何とか方法がないかというので、御守と御神書を送ってやったのです。ところが御守をかけて御神書を読むようになって、自分の病気は間もなく治ったのです。それで人の病気も治せるというのでやったところが、とてもよく治るのです。それで今度樋口さんがあっちに行くについて教修を受けたいというのが十人以上できているのです。それが一カ月くらい前の状態ですから、もっとできているでしょう。ですからつまり教修も受けないで、ただ郵便だけでとに角教修の希望者が十数人もできてしまったのです。そのできたという事は、自分が浄霊すると非常によく治るからです。ですから神様くらい気のきいているやり方はないと思います。これなら世界中何処へでも信者を増やす事ができます。わざわざ遠い所まで行かなくてもよいのです。結局世界中を救うとしても、そういった郵便でやれれば何でもないわけです。ハワイなどもそうです。近頃になって方々に支部が大分できてますが、それはハワイの人で非常に熱心な人ができて、次から次へと支部を作っているのです。無論浄霊も盛んにやってます。だから自然にハワイの人達がだんだん固まりを大きくして行くわけです。それと最近大変立派な家が手にはいったのです。それは借りるのでなくて買うのですが、建築も相当で、かなり広いようですから、あっちの本部として当分はそれで間に合うと思います。そういうような工合で、予想以上の、神様の方の経綸が進んでいるわけです。ですからアメリカに火が付いたら、とてもハワイぐらいの事ではありません。手紙の中にも(これは樋口さんの手紙でなく)今度十何人かの教修生をつくったという、郵便で教修生をつくった人の所に、ロスアンジェルスの非常な金持の息子の病気を頼みたいという事で、きっと樋口さんが行ってやるでしょうが、そういうような事も書いてありました。だんだん面白くなってきます。

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美術館の話になりますが、アメリカのシカゴ・トリビューンという有名な新聞の東京支社の、東京イヴニング・ニューズという新聞の八月七日付に出てますが、大分大きな写真が出てます。柿右衛門の壺と鎌倉の阿彌陀さんです。その記事を飜訳したのを読ませます。

(東京イヴニング・ニューズ八月七日付掲載の記事)【註栄光二二四号】

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今日はいろんな話がありますから簡単に話しておきますが、昨日京都で百何十人か水で死にましたが、みんな知っているでしょう。これで随分不思議と思う事は、大正池という池ですから、湖水ではないからそう大きなものではないでしょう。それがちょっと大雨が降って、僅かの間にとに角家が二百軒か流され、百何十人か死に、行方不明が二百人かありますが、行方不明というのは大抵駄目ですから、三百人というのが瞬く間に流されてます。他にもその附近でちょいちょいありましたが、こういう事はちょっと珍らしい事です。京都府下で、ちょっとの間にそういう水で死ぬという事は、これはやはり九州も和歌山もそうですが、僅かの間にこう頻繁(ヒンパン)にあるという事は、如何に浄化作用が激しくなって来たかという事の現われです。この浄化作用は汚(ヨゴ)れた所を洗うわけです。その一番汚れたという事は肥料で土を汚すという事ですが、これはどうしても水で洗わなければしようがないからです。そういうわけで、今年あたりの米の不作は大変なものだと思います。水のための不作も相当ですし、それから虫害が今年は又ベラボウに多いです。それに引替え自然栽培の方は又ばかに成績がよいそうです。こういう事で良い悪いがはっきり区別がつくわけです。まだまだこの浄化はごく序の口であって、これから時がたつに従ってだんだん物凄くなってきます。それで人間がどうしても分って、もうカブトをぬぎ往生するというところまで浄化が起こるのです。それで結局どうにもならなくなって神様に頭を下げるという事は、救世教信者になるわけです。そうならなければしようがなくなります。神様はジリジリとそういうようになさるわけです。ですから案外な事や予想外の事がだんだん出て来る事と、だんだん大きくなってきますから、実に可哀想でもあるし、良くなるのですから気持のよい事でもあり、いろいろありますが、こっちの方は洗われる方ではなくて、洗う方になりますから、気楽なものです。

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ちょっと面白い事を書いたので読ませます。

御論文〔⇒神と硝子玉〕【註  栄光二二五号】

これもさっき話した「医学革命の書」の中にはいる論文の一つになりますが、あらゆる角度から科学の根本をすっかりほじくり出して、遺憾なく、分るようにするつもりです。今読んだとおり結局今の医学は顕微鏡というガラス玉なのですから、それで黴菌を探し出して、それで進歩したと言って有難がっているのですから、実に子供だましにもあたりません。それで今年は今までで日本脳炎が去年の十倍だというのです。ところが一年おきに流行しているという事になっているので、今年は流行しない年になっているのですが、流行しない年が流行する年の十倍だから、何が何だか分らない事になります。今度は一年おきの事をあべこべにしなければならない事になります。それほど浄化が強くなっているのです。それで今もって蚊の媒介などと言ってますが、蚊の媒介という説は何処から出たかというと、日本脳炎と言うくらいですから、西洋にはないので、日本だけにあるのです。ところが西洋では設備をよくしてあるから蚊や蝿がいないのです。それで日本は今もってブンブンと、それこそ夏、場末にでも行くと大変なものです。私も昔は蚊の一番多い所に居ましたが、夕方に家にはいろうとすると顔にぶつかる蚊が大変なものです。そういうようで日本には蚊が多いから、蚊の媒介と狙いをつけたわけです。それなら蚊の多い所ほど日本脳炎が出そうなものだが、そうではないので、蚊の少ない所でも同じように出るのですから、いい加減なものです。これは何時も言うとおり、頭を天日で照らすために後頭部に毒素が集中するわけです。その毒素というのは背中の毒が多いです。人間は背中の方がずっと毒が多いのです。何故背中に毒が多いかというと、人間はうつぶせに寝る人はないので仰向きに寝るから、背中に溜まるのです。それで背中一面から肩にある毒素が、頭を照らされるので、上って来るのです。それで人間の体はうまく出来ているので、後頭部まで来ると外に出される事になっているのです。それで後頭部から頭脳を通過して目脂(メヤニ)や洟(ハナ)になって出るのです。それで出る場合には必ず血が混じっているのです。それは此処の毒血が出るのです。これが出るだけ出れば治ってしまうのです。それを氷で冷やし、いろいろして出さないようにするから、此処に固まりが出来てしまうのです。治ってから馬鹿になるとか、首が自由にならないとか、手が痺れてしまうというわけです。それは固めるからで、放ったらかしておけばあんなものは治るに決まってます。それが日本脳炎ですから、こういう結構なものはありません。日本脳炎をやれば、この辺の毒は余程減ります。それが分れば何でもありません。それが分らないために大騒ぎをやって今は血清注射などを試験的にやってますが、本当の泥縄です。もっと早いうちにやっておけばよいが、流行してから血清(ワクチン)をいろいろやっているのです。

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八月十七日

今日の参拝の人数は五百六十七名だそうですが、今までに五百六十七という数字は一度出ましたが、今日もその数字が出たのです。おまけに今日は五、六、七の七日です。そうして今日は宗教法人になって六年目の二十八年八月です。それに今日は急にお天気が良くなって、余程お目出度い日というわけです。

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シカゴ・トリビューンという有名な新聞の東京支社みたいなもので、東京イヴニング・ニューズという新聞の八月七日付に、此処の美術館を記者が見た感想を書いてあります。なかなかよく書いてあります。やっぱり外人は外人らしく、感じたままをごく卒直に単純に言っているところが非常に面白いと思います。その飜訳したのを読ませます。それでこういうように大きな写真を出してありますが、柿右衛門の壺と鎌倉の阿彌陀さんです。

(東京イヴニング・ニューズ八月七日付掲載の記事)【註栄光二二四号】

これが大分広告になったとみえて、これが出てから殆んど毎日外人が幾人か来ます。

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それから睾丸が取れて生えた子供が居ましたが、それについて岡田道一さんの骨折りで一昨日、いろんな病院の院長とか、厚生省の技官とか、みんなで七人の博士が見に来たのです。本人が来て居てよく調べたのですが、昨日の産業経済新聞の夕刊にその時の部屋の様子が写ってます。その時に、その感想と医学的の見方を一人一人話したのです。ところが公平にみて、非常に苦しそうなのです。“最初尿が六日も出なかったという事は、腎臓結石が尿道につかえたのだ”と言うが、そんな事は当り前の事です。そういう事は非常によく説明しているが、肝腎な睾丸と陰茎が無くなったという事を詳しく徹底しては話ができないので、甚だ苦しい説明なのです。それで二人ばかり滑稽なのは、“睾丸と陰茎が中にはいっていたのだ、沈んでいたのだ。それが後に出て来たのだ”という説明でしたが、これは噴飯ものです。それから父親と支部長に聞いてみると“睾丸の取れた所が殆んどすっかり落ちて、残っていなかった”と言うのです。そうするとお医者さんは“いや、つまり陰茎、特に亀頭と睾丸がすっかり取れたものは、後から出来る事はない、つまり新生する事はない”と言うのです。“ただ、袋と陰茎の皮だけは出来る”と言うのです。つまり伸びて来るわけです。つまり、吊れているのが伸びるような工合になるのです。だから“他の中身の固い物は新生する事はないのだから、多分袋の方は縮まっていて、中身の方は奥に押し込まれていたに違いない”と言うのです。それからそう言いながらも、少し苦しい事になると“不思議だ”とか“奇蹟だ”と言うのですが、その事だけはばかに小さく、聞こえないくらいに言うのです。ですからそれを卒直に思ったとおりに、“これは新生だ、奇蹟だ、あり得べからざる事だ”と言えばそれで済むのです。そういったところでそれで別に値打が下がる事はないのです。医学上にはない事なのですが、医学上で何んでも解決できると思っている手前から、医学で説明するような説明は、できないのでなくて、やらないのです。やると、沽券(コケン)に障るとか、つまり医学というものが非常に遅れているというような理窟になりますから、そういうところがさぞ苦しいだろうと思って、お気の毒なように思います。それが済んでしまってから、二、三の幹部の人の質問応答がありましたが、最後に私が話しました。どうせそれを説明したところで分るはずはないのです。というよりか、分っていて分らないというわけです。腹の底は分っているが、上面が分らないというわけです。それからそれに触れないで“とに角これは新生だ、一旦取れた物が、あと快復するまで睾丸や陰茎が引込んでいて、外がよくなって来たので出て来たというものではない。これは全然無くなったものが新規に新生したものだ。しかしそれはあり得べからざる事があったのだが、まだ科学はそれを説明するだけに進んでいないのだから、今私はそれを「医学革命の書」というのに書いている。出来たらお送りするから、それを見て下されば分るわけだ”と言ってやりました。それで科学の方で今一番進んでいるのは、物性論なのです。湯川博士がノーベル賞をもらったのは、素粒子つまり中間子の発見でなったのです。最近は湯川博士も物性論というのを重要視してます。物性論というのは一歩進んだものです。それほど詳しくは話さなかったが、その事を言って置きました。つまり素粒子というものは細胞のごく細かいものなのです。ですから顕微鏡とか写真とかで試験はできるのです。これは宇宙線撮影の時に七つかポツポツが見えて、それが素粒子という事になったのです。だから写真とか顕微鏡で見えるのです。ところが、見えなくても確かにあるというのが理論物理学で、物性論として唱えているのです。それは霊なのです。ですから物性論からもう一歩進むと霊界の方になるのです。しかしこれから先へは科学では行けないのです。それで物性論からその次があって、又その次があって、その一番の奥まで私の本には書いてあるから、それを読めば“睾丸が新生する、という事は当り前の事で、何も難かしい事はない”と話してやったのですが、野蛮国に行って今の文明国の説明をするようなものだろうと思います。又“今私の言った事は、原子爆弾を落さない前に原子爆弾を説明するようなもので、恐らく誰も本当にする者はないだろう。丁度それと同じようなもので、今は信じられないけれども、その本を読めば大体は分るわけだ”と、そのくらいの話をしてやりました。それについて論文を書きましたから読ませます。

御論文〔⇒神と硝子玉〕【註  栄光二二五号】

つまり医学の本性というものは、顕微鏡で細かい菌が見えるという事です。だから今医学で何か分らないものがあると、みんなヴィールスにしてます。近頃流行している日本脳炎にしても何でも、つまり顕微鏡で見え難いものはみんなヴィールスにしてます。ところがヴィールスよりもっと細かいものという事に気がつかないのです。それを見るには顕微鏡の進歩よりないのだから、結局根本はガラス玉なのです。それでこっちの方は顕微鏡で見えないような細かいものでも、別に見るわけではないが、分ります。つまり科学の方よりももっと細かいものをこっちは把握(ハアク)できるというその違いさが、片方はいくらやっても治らないが、こっちは簡単に治るというように、実際的結果によって分るのです。それをお医者さんに言っても分らないから言わなかったが、睾丸が出来るという事は何でもない事で、霊主体従の法則によって出来るのです。睾丸が取れても、霊の方は取れてないのです。そうすると霊の形だけはだんだん埋めてゆくわけですが、これは当り前の事です。ところが医学の方は、そういう場合に薬をつけますが、そうすると埋めて行こうという作用を遮断してしまうから、押しつけてしまうから駄目になるのです。それともう一つは、医学の方で切っても、その後出来るものもあるのです。指位は切っても必ず元通りになるのは何でもありません。ところが医学の方では薬をつけるから、そこで止まってしまって片端(カタワ)になるのです。というのは霊があるので埋めてゆくのですから、埋まるに決まったものですが、埋めるには霊の力が相当に要るのです。ですから普通放っておくと暇がかかるのです。そこで浄霊すると霊の力が出るからして埋めるのが早いわけです。ですから睾丸が落ちても、自然に放っておいて何にもしないでいると、十年も二十年もして出来るのですが、それを浄霊したために十分の一、二十分の一も早く出来るのです。それを説明すれば分るのは当り前ですが、そういう事をお医者さんに言っても無駄だから言わなかったのです。一番分るのは、手を切りますが、肉体の先の方の、何も無い所が痛む人があるのです。私は以前よく患者から聞いたのですが、それは霊があるからで、霊があるからつながっているのです。睾丸が取れた人に聞いてみると、白い細い物が残っていたというのですが、それは神経なのです。しかしその神経が取れてしまってはちょっと難かしいですが、簡単なものは出来ます。重要なものはちょっと難かしいです。それが医者が切断したものだと神経も切断してしまいますから出来ないが、そういうのは神経が残っているから出来るのです。指などは神経を切っても埋まってくるものです。それが霊主体従の法則です。その原理さえ分れば何でもなく分ります。それからもう一つは、みんな分っている事ですが、第三者にも分るようにはっきり書いたのです。

御論文〔⇒毒塊人間〕

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話はいろいろになりますが、つい二、三日前の京都、奈良附近の水害です。瞬(マタタ)く間に百何十人が死亡、二百何人が行方不明、両方で四百人ぐらいになりますが、行方不明というのは殆んど死んだので、死骸が見付からないから行方不明というわけですが、そこでこんなに水害がある事は今までに例がありません。それもこれも、つまり浄化が強くなったという事は、“神様の方は、この六月十五日以後だんだん左進右退的リズムが強く大きくなる”という事を私は言いましたが、やはりその現われです。今にこれがだんだん大きくなりますから、どんな事が始まるか分らないというわけです。昨夜私の写真が大分剥げたものがあったので、どういうようにしたらよいだろうという御伺いが来たので、見たところが大分破損しているから、大事にしまって記念としてとっておきなさいと言ったのですが、聞くところでは、それは和歌山の水害の時に、それを抱いて相当時間水に流されて、命が助かったのです。それは神様の方で、私の写真を沈めてしまうといけないから、それはどうしても助かるに決まってます。前にも或る婆さんで、何処かの連絡船に乗る時に落ちて、其処は相当の船が浮んでいるのですから、かなり深い所ですが、それが落ちた所に又浮んだので引上げたというのですが、落ちた所に浮き上がるという事は潮流の関係でないそうです。その時船の底にでも行っていたらおしまいです。それで調べてみると、その時はまだ御守をやらない時で、麹町の頃と思いますが、懐に「おひねり」を入れていたのですが、他はすっかりぬれていたのですが、「おひねり」だけはぬれてないので、不思議だという事になってました。だから洪水でどんなに水に流されても御守さえあればよいのです。そうすればきっと助かります。

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又話は違いますが、今年は日本脳炎が非常に流行(ハヤ)って、去年の何倍という事になってますが、信者の人からみれば日本脳炎というのは結構です。これは大体肩から背中の毒が頭を照りつけられるので寄って来るのですが、後頭部に寄って頭を抜けて目脂と洟になって出て来るのです。その時に医学では冷やしたりするから、頭の何処かに固まるのです。そこで後(アト)が片端みたいになるのです。此処(前頭部)に固まれば目が見えなくなるとか、横の方に固まれば耳が聞こえなくなるとか、頸の方に固まれば手が痺れるとか、そういうわけです。ですから何にもしなければ、出るだけ出て治るに決まったものです。それで死亡率も相当あります。一割以上あるようです。それは蚊の媒介(バイカイ)と言うが、そんな馬鹿々々しい事はありません。若し蚊の媒介とすれば、東京では本所、深川辺りが一番起こらなければならない。ところが本所、深川が一番少ないのです。むしろ他が多いです。それから又若し蚊の媒介とすれば、冬は起こらないわけですが、冬も起こっているのですから、実に笑うべき事です。よくお蔭話に出て来ますが、多分日本脳炎だろうという事は、延髄が動かなくなりますから、はっきり直ぐ分ります。そういうわけですから、日本脳炎などには大いにかかるようにした方がよいです。頭がよくなります。学校の生徒は日本脳炎をやると、後がきっと成績がよくなります。優等になります。実際言うと、子供より大人の方がかかった方がよいくらいです。

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八月二十五日

一昨日ハワイの観光団が三十人ばかり来て、その中に団長と夫婦一組の信者がはいっていまして、その時の話によりますと、ハワイの信者は七百五十人ぐらいできているそうです。私はよく知らなかったので、そんなにできているとは思わなかったのでびっくりしました。その時に話してあげたのですが、つまり何時も言うとおり、アメリカは緯で日本は経だからして、経と緯を結ぶというその仕事をするのがハワイなので、ハワイは非常に重要な所だ、という話をしたのです。そういうわけで、日本とアメリカを繋(ツナ)ぐとも言えるし、結ぶ役とも言えるわけです。即ち緯の文明と経の文明を結ぶというわけなので、それは救世教がやるのだということで、バッチの形になるわけです。それでこのバッチの真中の丸が伊都能売で、赤いのは日本で、黄色いのは私という事になります。つまり黄金です。そういう意味だから、大いにハワイは重要な責任があるという事を話してあげたのです。樋口さんは今月の六日にハワイを立って、今はロスアンジェルスで活動しているはずですが、これ又目覚ましい成果をあげるだろうと思ってます。

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それから来月は「⇒救世教奇蹟集」という本が出来て、出版になる手筈になってますが、これは素晴らしいものです。とに角今まであった奇蹟の顕著なものを選(ヨ)って、病気以外の奇蹟を五十例、病気に関したものを七十例載せてあります。これは一般人には勿論、新しい信者の人などが読むには最も適当しているわけです。それで病気の奇蹟だけは、一々私の説明を添えてありますから、余計分ります。それから、来年になるだろうと思いますが、「医学革命の書」という本が出ます。これには私は心血をそそいで書いてます。もう三分の一ぐらい出来て、あと三分の二をこれから書きますが、来年の春あたりに出版できるだろうと思ってます。その序文を何時か読んだ事がありますが、どうも気に入らないので書き直して、今度やっとよいと思うような序文が出来ましたから今読ませます。

御論文  ⇒医学革命の書〔序文〕

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それからちょっと面白い論文を書いてみました。

御論文〔⇒硝子製造人〕

つまり今までの文明というものは、全部と言いたいほど間に合わせものです。つまりイミテーションです。だから医学というものも、病気が治りそうに見えて治らないのです。それはイミテーションだからです。ダイヤモンドほどの硬度がないからガラスを切る事もできないし、切れそうに見えていて切れないというわけで、本当のダイヤモンドなら切れるのです。そういうようなもので、本物がなかったのです。それをお釈迦さんはちゃんと言ってます。「真如」という事を言ってますが、「真如」というのは、真理ではないので、真理の如くというのです。だからやっぱりダイヤモンドが真なら、ガラスで作ったものは真の如くです。うまい言葉をつけたと思います。仏教の方で「実相真如」と言いますが、これは逆様(サカサマ)なので、「真如実相」が本当なのです。つまり真の如きものが出て、それから後に実相が出るのです。仏教の方では大抵逆になってます。私が善言讃詞に「大千三千世界」という事を書いてますが、仏典の方では「三千大千世界」となってます。これはあべこべです。「大」という字は「一人」と書きますが、つまり「一人」とは「主」ですから、これが元です。それで「三千」というと「三界」です。現幽神、或いは天地人で、三つに別けてあるわけです。最初は一で、それが三つに分れるのが本当です。ですから三つの方を上につけるという事は間違いです。それで一は太陽で三は月、一は火で三は水ですから、大千三千世界というのが本当です。ですから私はそう書いたのです。ところがそれを見て質問したり疑問に思ったりするのです。この間信者でない人から手紙が来て、「大千三千世界」というのは間違っている、けしからん、という事を言って来ましたが、そういうようで、今までのあらゆるものはみんなあべこべになっていたり、仮のものです。だからお釈迦さんは“仮の娑婆だ”と。今読んだ中に「病」が生病老死の四苦の中にはいっていて、四苦だけはどうにもならないとお釈迦さんは言ったのです。ところがこれが解決され、しかも百歳以上生きるとすれば、どうにもならない方には、入らないわけです。病気は勿論無くする事ができるのです。これが「真如」ではできなかったが、「実相」ではできるのです。そういう意味を書いたものです。他の発明発見にも、人間に害を与える方が多かったのです。これは使う人の善悪にもよりますが、素晴らしい発明だと言った原子爆弾が、あのとおり恐るべき殺人器です。そういうようなわけで、逆になっていたわけです。それの一番肝腎なのは人間の生命ですから、そこでこれを根本として一番主力をそそいでいるわけです。次もちょっと面白い論文です。

御論文〔⇒神と硝子玉〕【註  栄光二二五号】

今のはやはり「⇒医学革命の書」の中にはいる論文です。睾丸が落ちてしまって、それが元通り生えたというお蔭話がありましたが、その子供を呼んで十五日の午後から、方々の病院長とか博士が七人来て、最初に復活した子供の睾丸、陰茎の状態をよく見て、それからその感想を一人一人話をしたのです。それが実に苦しい話し方です。何故ならば分らないからです。そうかと言って分らないと言っては、お医者さんも立場に困りますから、それを医学的に一つのこじつけをするのです。なにしろお医者さんの言うには、医学上睾丸を入れてある袋と、陰茎を包んでいる皮だけは脱落しても復活する、元通りになる。しかし陰茎と亀頭、睾丸の一旦取れたものは新生しないと言うのです。だからこれは腐ったようになって脱落した時に、陰茎の皮と睾丸の袋だけが脱落して、陰茎と睾丸は腹の中にはいっていた。それが、袋が出来たので、腹の中に引込んでいたのが出て来たと言うのです。実に馬鹿々々しい事です。結局お医者さんの意見は、みんな大体それと大差ありません。医学では分らないと言ってしまえば、それで簡単に済むのです。ところが実際は、分らないと言えば立場上工合が悪いし、おまけに宗教の前で分らないと言っては恥ですから、分ったらしくしているのですが、その言い方が苦しそうなのです。結局二、三人のお医者さんが、これは奇蹟だ、あり得べからざる事だと言った人もありましたが、それを言う声がばかに小さいのです。殆んど聞こえないくらいに言ってました。ですから一度は聞き損なったくらいですが、実におかしかったです。それで最後に私としての立場から言ったのです。あの人達に説明しても分るはずはないから、大所高所からズバリと、これは新生だ、あり得べからざる事だ、だから奇蹟だ。それでこれを分るまでに科学はまだ進歩していないのだ。結論として、今の物性論というのは何故唱えたかというと、中間子、素粒子というのは細胞の又ごく微小なもので、それから物性というのはヴィールスでもない、顕微鏡にもはいらないものだが、有るという推定です。だからこれは霊なのです。そこまでは言わないが、とに角物性論にその奥がある。それからその又奥があり、その奥がある。そうしてそのごく窮極のものが科学で分るようになれば、この“新生する”という事が分る。だから今は科学がそこまで行ってないという事だけを言ったのです。そういうようで、医学でそういう事を説こうとか分ろうとするのは無理なのです。それを説明するだけに行ってないのです。又若しそれを説明できるまでに医学が行っていれば、医学を止(ヤ)めてしまいます。そうしてやっぱり救世教の方のやり方になってしまいます。だからこれは時節を待つより仕方がないのです。それにはお医者始め一般人にも分らせなければならないという事が、さっきから読んだ「医学革命の書」で、これをできるだけ世界的に読ませて本当のものを見せるというわけなのです。これも無論英文に訳して、米国のみでなくヨーロッパの方にも、世界的に配ります。そうしてやっぱり実例を百つけて、その一つ一つの病気に対する批判も添えるつもりです。今五十ばかりできました。それでこれを一冊読めば恐らくどんな人でも分らないはずはないというように徹底的に書くつもりです。しかしただ、今言ったようなごく根本の深い所をあんまり強調すると宗教論になりますから、そう深い所まではゆきませんが、ただ実際的に今の人が分る程度に説くわけです。そうすれば結局世界的の問題にならないわけにはゆきません。神様もそういう経綸です。大本教のお筆先にうまい事を言ってます。“この事が分りたら世界は動くぞよ”とありますが、つまり今言ったように世界中が動揺するというわけです。だから何が大問題と言ったところで、人間から病気を無くし、寿命が百以上になるというこのくらい大きな問題はありません。結局それを目標に進んで行くのです。そして人間がやるのではなく、主神がやられるのですから、神様の方から言えば訳ないことなのです。しかしそれにはやはり順序があり、天地の律法、神様の法律があります。それを破るわけにはゆかないからして、やはり相当の手間がかかるわけです。いくら神様でも桜の花を冬咲かせたいと思っても、咲かせるわけにはゆきません。ちゃんとその季節に咲くように作ってあるのだから、それを壊すわけにはゆきません。太陽は何時何十分に出るというように決まっているのですから、それを一度でも狂わせる事はできないので、それが法則です。御神業の事でも、よく未信者の人の言葉に「そんなに立派な医学なら何故ドンドン知らせるようにやらないのだ」と言うが、それは人間が我が儘でやるのなら一時的にドンドンやるでしょうが、神様の方はそういう法則に外れた事はできないのです。しかし非常に早いのは早いです。神様の力が如何に素晴らしいかという事は、今度の栄光に出しますが、ハワイのお蔭話なども実に素晴らしいものです。日本に負けないほどの奇蹟がドンドン出てきます。ロスアンジェルスでも素晴らしい奇蹟があって、この次あたりの栄光に出します。そうすると私が日本の此処に居ても、其処まで光が届いているわけなのです。つまり神様の力というものは遠い近いの差別は殆んどないくらいのものです。つまり時間空間を超越するというのが真理ですから、丁度この事が空間を超越しているわけで、殆んど隣と同じようなものです。時間も同じで、一瞬です。ですからいずれはアメリカあたりの人もアフリカあたりの人でも、御願いすれば直ぐに御利益があるというような工合になりますから、そこでどうしても世界中を救わなければならないのです。この間の手紙だけでロスアンジェルスで教修者を作る人ができたようなわけですから、実に驚くべきものです。

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八月二十六日

ロスアンジェルスに行った樋口さんからの第一信が来ましたから読ませます。

(米国通信  六)【註  栄光二二五号】

文中にある渡辺晃子という婦人は、この間話した、最初手紙で御守を送って、それで自分の病気が治って、いろんな宣伝をして教修生を作った人です。それから古い信者というのは、去年の初め頃に嵐さんが布教してできた人です。

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「救世教奇蹟集」は来月出版になるそうです。これは素晴らしいものだと思います。それから今書いているのは「医学革命の書」ですが、これは今までに一番力をそそいで書いているのです。これは医学の罪悪を徹底的に書いてありますから、随分手酷く書いてありますが、しかし何処からでも一分の隙のないように書いてあります。おそらく突込んで来る事はできないと思いますが、突込んで来れば結構です。なにしろ大変な啓蒙書だと思ってます。今までの序文はどうも気に入らないので、すっかり書き直して、これなら大抵よいつもりです。

御論文  ⇒医学革命の書〔序文〕

この次の項目は「現代医学論」というのですが、これは一大論文のつもりです。それはこの次あたりに読ませます。次のも「医学革命の書」の中に入れるつもりです。これはみんな知っている事ですが、又書き方を少し変えてあります。 

御論文〔⇒毒塊人間〕

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話は違うが自然農法の事で、堆肥迷信が大分あるのです。どうも土ばかりでは気が済まないで、何か肥料というものが頭の底に残っているのです。どうも堆肥という物に、そういう考えがはいるのです。ところが実は堆肥も本当はいけないので、土ばかりがよいのです。以前にも書いてあるとおり、土が肥料だから、土を邪魔するものはみんないけないのです。堆肥も土を邪魔するからいけないのです。ではどうして堆肥を使うかと言うと、土が固まると根伸びが悪くなるから、固まらせないために堆肥を用いるというわけです。その場合にも堆肥はできるだけ腐蝕させて繊維(センイ)の無いようにしなければならないので、半分土に化したくらいの物がよいのです。ところが葉の筋があるのや、落葉でもまだ相当固いのを使いますが、そこで畑作での相当よい成績の報告がないのはそのためです。ですから若し土の固まらない所では〈それは古い土は固まらないから〉堆肥もやらない方がよいです。若しやるとすれば、大根、牛蒡、人参という根の物には、一尺以上の下に、これはそう腐蝕しない落葉や草でもよいですから、それを床にするのです。そうすると非常に温まるので成績がよいです。そういうように堆肥を使えばよいのです。あとは土に混ぜるのですが、土に混ぜる場合にはできるだけ腐蝕させるのです。それからもう一つは乾く土地がありますが、これは天日に当てると乾きます。そこで堆肥を敷くと水分を保つから、雨なども乾かないで止まっているから、そういうためには結構です。果樹などの根の際(キワ)には堆肥を大いにやった方がよいです。これは水分が長持ちします。それは乾かさないためです。そういう工合に、堆肥もよく考えて適当にするようにすれば結構なのです。それを堆肥が肥料のように思って、何でも彼んでも堆肥さえ使えばよいと思っている事が間違っています。

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それから信仰上からも一番肝腎な事は、天国という事は一言でいうと“相応の世界”なのです。凡て何事も“相応”しなければいけないのです。相応するという事は、つまり理窟に合うという事です。そう見てくると、人間が薬をのむという事は相応しないのです。理窟に合わないのです。というのは薬というのは木や草、葉とか、鉱物を粉にするとか、ペニシリンのように水苔からとったり――今度少し書きましたが――水苔というのは、神様は魚の餌にこしらえたのです。淡水魚、鮎のようなものの食物として出来ているのですから、人間が横取りするのは間違ってます。とに角病気というのは、人間の生命に関することですから、人間の生命を救うのに木の葉や草にその力があるわけはありません。生命を壊すには力があるかもしれません、毒ですから。しかし命を救うという力がそういう物にあるわけがありません。それは人間以上でなければその力があるわけはありません。人間以上とすれば神様よりありません。即ち薬をのむことは理窟に合いません。そういう理窟に合わない事をやっているのですから、全く今日の人間は何と言ってよいか、馬鹿を通り越してます。“馬鹿は死ななきゃ治らない”というわけで、つまりそれで早く死んでしまうわけです。これは信仰の面においても言えます。その家なりその人なりによって、御神体は相応しなければならないのです。最近も信者でちょっと危険な事がありましたが、御守護でうまく行ったのでよかったのですが、それはあり得べからざる事があったのです。よく聞いてみると、その人にしろその家にしろ相応しない御神体を御祀りしてあったのです。やはり大光明如来様も、小さな家や資格のない所に御祀りするのは間違ってます。それは相応しないからです。支部とか、或いは教師とか、或いはそうでなくてもその家が立派なら、大光明如来様でもよいですが、やはり相応しなければいけないのです。以前に、私が観音様の絵を画きましたが、横向きのはそうでもないが、前向きでアグラをかいた大きな絵のがあって、それが雨染みで汚れてしまったというのです。おかしいと思って聞いてみると、小さな農家で、御掛軸だけが馬鹿に立派で、相応しないのです。そういう事がありました。やはり何事も相応しなければいけないのです。相応するという事は理窟に合うという事で、そうすれば決して間違いありません。それと同じように、姓名がそうです。ただ良い名前をつければよいと思って、良い名前をつけるとかえっていけないのです。名負けがするのです。なまけ(名負け者)というのはやはりそういうわけかもしれません。それで私も以前は、ただ良い名前をつけるとよいと思って良い名をつけましたが、やはり良くないです。それはやはり良過ぎてはいけないので、相応しなければいけないというわけです。これは人間の名前でなくても、会名に「天」の字をつけますが、それはきっといけないです。それはやはり名前が良過ぎる、高過ぎるのです。私は経験がありますが、大本教にいた時分に、とてもよい名前をつけているので、さすがに名前は良いなと思っていましたが、ああいう事になりました。そういう事も、そういうためにそういう名前をつけたと言えばそれまでですが、やはりあんまり良過ぎたのです。だから名前をつける場合には良過ぎてもいけないのです。そういうようなわけで、何事も相応という事を忘れてはいけません。その人の行いでも、あらゆる生活でも、収入に相応し、身分に相応し、位に相応し、丁度それにピタッと合うくらいになら何事もうまくゆきます。それから、何か少しおかしいなと思う時には、相応しているかしていないかという事を考えてみれば気がつきます。相応という事が理窟に合うのだから、昔から言う“分相応”という事はよい言葉です。それから行いも、その境遇、環境、その場所、相手、いろいろな事に外れないようにする事です。だからよく言う“突飛”という事ですが、突飛な事でうまく行った事はありません。日本の大東亜戦争なども、これは大きな突飛です。とに角日本の国力として相応しない事をやったのです。まだ国力がそれほどでもないのに、東亜を征服して、しまいには濠洲辺りまで侵略しようとしたのですから、これは突飛であり相応しない事です。それからヒットラーがああいう事をやったのも突飛です。片方でイギリスと戦いながら、後の方でソ連と戦うというので、振り返って拳骨(ゲンコツ)をかざしたのですから、突飛の最も大きなものです。そういう工合で、ちょっと人を驚ろかせるような、アッと言わせるような事を好む人間がありますが、これはみんないけません。だから、ありそうな事をやるという事がよいのです。そこで私はいろんな大きな計画などをしますが、決して出し抜けに、アッと言わせるような事はやらないように注意しているわけです。さっき読んだとおり、これからアメリカに布教するのですが、随分突飛なようですが、しかし神様からいただいた力と、アメリカの状態という事を照らし合わしてみて、相応しているわけです。決して食い違ってはいないからして、うまくゆくに決ってます。そこで、行(ヤ)るにもパッとやってはいけないので、樋口さんがたった一人で行って、さっき言ったとおり一カ所で、そこからコツコツやり始めるのです。こういうのは失敗がありません。後戻りがないから順調に行きます。ですから私がやるこの地上天国の事などもみんな見てびっくりするような事をやっても、細心の注意を払って順序と相応という事を忘れずにやっているのです。ですからこの方が非常に順調に行って、後戻りがないから早いです。ですから支部をこしらえるにも、パッと大きな計画をしたりしないで、だんだん順序を踏んで相応してやって行けば、うまく行くわけです。大きくしようとすると大きくならないので、大きくしようと思わないで、小さくならないようにと思えばよいのです。だから私は商売などを始める人によく言うのですが、儲けようと思ってはいけない、損をしないようにと思えば決して間違いないと言うのです。というのは、成功した事を考えないで、失敗しない事を考えるのです。これは少し苦労した人はよくそういう事を言います。うまくやろうとか、成功しようという事は思ってもよいが、それはごく軽く思って、本当に強く思う事は、失敗しないように、後戻りしないようにという事を思っていれば決して失敗はありません。これはちょっとした事のようではあるが、根本的なものです。だから損したらどうする、どう逃げる、という事を考えていなければならないのです。私なども若い時分には随分金儲けをやりましたが、その時分にそういう事を考えてやっていれば随分儲けたが、その時分には儲ける事しか考えなかったのです。日本の戦争でも、負けたらどうするかという事を考えていたらよかったが、そういう事は全然なく、ただ勝つ一方の事しか夢見ていなかったから、ああいう悲惨な目に遭ったわけです。そういうわけで、相応の理という事と、失敗してうまく行かなかったらどういうように逃げるかという事を考えてやると、かえって成功する事にもなり、順調に行く事にもなるというわけで、これは宗教でもあり哲学でもあるわけです。ですから結果は、逆結果になるわけです。ですから私は最初に始める時分には、なるだけ世間に知れないように、目立たないように目立たないようにしろと言ったところが、一番世間に知れてしまったわけです。そういうようで、ちょっとした事ですが、結果において将来において大変な違いになるわけです。相応の理という事は、人間、相応者にならなければなりません。何事も相応しない事はいけないのだから、何事も相応するように心掛けるという事が最も肝腎な事です。それから病気を治す場合にもそういう事がよく当て嵌まる事があります。話が長くなりますからこの次にしますが、簡単に言っておきますと、この病気は薬毒の浄化だけれども、その人はどうして浄化が起こったか。それから、此処に現われている病気は、因(モト)は何処にあるのか。或いはその環境――他の家族などはみんな賛成しているか、邪魔はいないか。という事など、ちゃんと食い違いがないと、割合にうまくゆくわけです。それが相応するという事です。よく浄霊で、どうしても治らなくて、それから神様に御願いすると直きに良くなるという事は、浄霊ばかりに偏(カタヨ)り過ぎるわけで、肝腎な元を忘れて枝の方を重視するから工合が悪いのです。そういう点も、どういうふうにやるのが理窟に合っているか、相応するかという事を考えると、割合に楽で、うまくゆくというわけです。

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八月二十七日

ロスアンジェルスに行った樋口さんからの手紙が来ましたから読ませます。

(米国通信  六)【註  栄光二二五号】

今読んだとおり、これでアメリカの救いの第一歩を印したわけです。丁度赤ん坊が生まれたようなわけで、これからだんだん育ってゆくわけなのです。なにしろなかなか神様は急がれてますから、割合に早く発展するだろうと思ってます。ハワイなどはあのとおりなのですから。この間も三十人ばかりハワイの観光団が来ましたが、その中に信者が三人居て、今度支部長になる人も居ました。その人が三十人を引連れて来て、美術館などを見たりしましたが、これが又、観光団の人達が帰って大いに話をするでしょうから、今までにハワイに行った踊る宗教とか、そういったヒョロヒョロしたものではない、しっかりしたものだという事が、あっちの人にも大いに分るだろうと思います。それで今度ハワイにあっちの本部ができましたが、これは相当立派な家で、とても安く買える事になったのです。それも神様が前から用意されたものに違いありませんが、とに角五万弗というのですから千八百万円ですが、大変安いのだそうです。家もなかなか良い家だそうです。勿論洋館ですが、詳しい事はまだ分りませんが、人間も相当はいれるようです。今までハワイに行った新宗教などは直きに帰ってしまって、試しに行っているようなもので腰をすえないから、土地の人も新宗教というと馬鹿にして、あれも直きに帰ってしまうのではないかという目をもって見てますから、そこにいって救世教がじっくりと腰をすえると、これは本当だと思うでしょう。今言った観光団の信者の人の話では、もう信者が七百五十人くらいできているそうです。本当に始めたのは三月ですから、まだ半年にならないくらいなので、とに角何もないところから、それだけできたわけですから実に早いです。ですからこの分で行きますと、増え方が鼠算で行きますから、大変だろうと思ってます。それでアメリカの方は又今に物凄い事になると思ってます。そういうわけで、だんだん面白くなって来ました。

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「⇒救世教奇蹟集」の本ですが、これは素晴らしい本のつもりです。来月出版になります。相当認るだろうと思ってます。なにしろ「アメリカを救う」なども割合に売れましたが、あれが売れたために、あれに似たような本を出してます。私は新聞広告で三つほど見ました。あなた方も見たでしょうが、売れたものは、あとその真似をするのは、何んでもそうですが、本などもやはりその行き方です。この「奇蹟集」の本は、今までのお蔭話にある奇蹟の中から最も顕著なものを選ってますが、私なども今見て驚くぐらいです。そういうようなわけで、相当の効果があると思います。それからその次には、来年の春あたりになると思いますが「医学革命の書」というのを出しますが、これは私は心血をそそいで書いてます。これは将来はバイブルのようなものになるつもりです。今までその序文を読んだ事がありますが、どうも気に入らなくて、最近できたのは大体これならよいと思うのが書けましたから、それを読ませます。

御論文  医学革命の書〔⇒序文〕

この次のは「現代医学論」です。それで大体分るわけですが、それはこの次に読ませます。ちょっと面白い論文を読ませます。

御論文〔⇒硝子製造人〕

これはこの前書いた「神と硝子玉」という論文の続きみたいなものです。これはやっぱり「医学革命の書」の中に入れるつもりですが、とに角できるだけあらゆる面から又角度から批判して、これでもかこれでもかというようにいろんな例をあげたりして、分るようにするのですから、おそらくこれを読んだら分らない人はないだろうと思います。それでいろんなお蔭話からとった一つ一つの病気にはみんな私の批判をつけて出しますから、どうしても分らないはずはないわけです。

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話は違いますが、自然農法も各地に大分反響を起こして、その土地の有力者だとか、或いは役人という連中が相当に研究をし始めたような話を聞きます。それで稲の方は大分顕著な報告を聞きますが、畑作の方はあんまり聞かないのです。多少はありますが、もっと素晴らしい成績が現われなければならないのです。現われないということは、これを一言でいうと堆肥迷信が大いに災(ワザワイ)しているのです。金肥や人肥ではないが、堆肥迷信になっています。どうも肥料という事の迷信が未だ本当に取り切れないのです。だから堆肥などで騒ぐ人がやっぱりまだ大分あります。ところが本当は堆肥もいけないのです。堆肥なしの土ばかりがよいのです。堆肥が土を邪魔するのです。前にも書いたとおり、土というものが肥料の固まりなのです。それで堆肥をやると、土の肥料がそれだけ減るのです。それを、堆肥からも肥料がとれるように逆に考えているのです。ただ堆肥というのは、固まり易い土が固まらないようにするために混ぜるのですが、そのためにはできるだけ腐らせて、葉の繊維などが無いようにしなければならないのです。それで根が伸びる場合に、柔らかければ伸びますが、ちょっとでも固いものがあったら伸びません。堆肥は固まらせないためのものですから、その必要がなければ、土が肥料なのですから、やらない方がよいのです。そういうところが、何でも反対になってます。それからもう一つは、土が天日で乾きますが、日当りの良い所は土が乾きますから、土の湿気を保たせるために堆肥をやりますが、これは木の葉でも何でも、湿気を保たせる目的でやるのですから、腐らせなくてもよいのです。果樹などは特によいです。水分を保たせるために落葉を厚くやりますが、それはよいです。堆肥というのはただそれだけのものです。それから堆肥は、大根、人参、牛蒡といった根の物には、土を温めるために、少なくとも一尺か二尺くらいの下に、木の葉がよいですが、一尺くらいの床を作るのです。そうすると其処から温みが始終ありますから非常によいです。大根などは、どんなに太く長くなるか分りません。それからもう一つは、私は芋が好きで、薩摩芋を毎日食べるのですが、実におかしいのは細長い薩摩芋があるのです。これが無肥ですと太って丸い薩摩芋が出来るのです。前に私が宝山荘で試験した時に、太って丸いのです。それで或る人が薩摩芋が欲しいと言うので一つやりましたが、なにしろ普通の五、六本分の量があります。それは金時ですが実に美味いのです。この頃は金時は作らないようですが、まるで金時のように白く粉をふいたようになってますが、殆んど農林一号です。それで美味そうに見えるが、食べてみるとそうでもありません。味が悪いのです。最近は金時はだんだん止(ヤ)めて来たようです。ところが芋の作り方が違うのです。無論肥毒があるのです。その肥毒を消すために窒素肥料をやりますが、これが大変悪いのです。それで薩摩芋はできるだけ高畝(タカウネ)にして、横から日が当るようにするとよいです。それからよく蔓を切ったり裏返したりしますが、そういう事は決してしなくてもよいのです。そうして何処までも自然にするのです。それから間(アイダ)も詰めなくて、開けておいてよいのです。一番肝腎なのは高畝にして日を横から当てる事です。そうしたらウンと大きな物が出来ます。金時でも立派に採算(サイサン)がとれます。私は金時ばかり作りましたが、今言ったように大きなのが出来ました。それから薩摩芋は特に肥毒を嫌うのです。それから土の固まるのを嫌います。ですから幾らか砂気がある方がよいです。そこで薩摩芋は海岸が割によく出来るのです。そういうような工合で、今言ったようにして金時を作って試験してみる事です。きっと良いです。お蔭話にありますが、堆肥を一反分何貫目入れたとか、何畝に何貫とか言って、大変な事です。如何に堆肥を重要視しているかという事が分ります。ですから今後はできるだけ堆肥も使わないようにして、土ばかりにするようにする事で、そうすると又よく出来ます。これは去年の佐渡では、堆肥もやらない方がよく出来たと報告がありましたが、その方が理窟に合っているのです。なにしろ人間は間違ったいろんな習慣のために、それがこびりついてしまって、どうも切り替えなどもはっきりしないのです。これは農業ばかりでなく、薬などはその最もの親玉です。そういうようなわけですから、今の人間の頭というものを、つまり作り直すようなものです。

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それから最近あった事ですが、私の写真を二人で(二人共資格者ですが)いただいたのですが、帰るとき違えて持って帰ったのです。即ちAの人に上げたのと、Bの人がいただいたのが、あべこべになってしまったのです。これが普通の写真なら何でもありませんが、ところが神様の方は、その人に上げたら、その人の護り神になりますから、他の人に行くと駄目なのです。ところが一方の人の写真に折目のような皺(シワ)が出来たのです。それを私の所に持って来て、こういうふうになったけれども、どうしたらよいでしょうと言うから、そんな事はない、余程間違った事があるというので調べさせたら、今言った事が分ったのです。それは神様が、それは注意しなければいかんというおしめしです。それでその皺は神様がつけたわけです。それで今度、一方を新しくチャンとやり直すようにしました。又最近こういう人がありました。その主人公は相当古い信者で、神様のお手伝いなども時々するようですが、大酒が止まないのです。それでこの間大酒を飲んで、飛んでもない間違いをしそうになったが、それは神様がうまく止められました。しかしそれはおかしい、そういうはずはないからと、よく調べてみると、あまりに小さな家のくせに「大光明如来様」を御祀りしてあったのです。この事が又大変にあるのです。支部なら勿論結構ですが、家があんまり小さいとか、座敷の小さいとか、床の小さいのに、大光明如来様は相応しないのです。それからその信者の資格の上下があります。その代り立派な家で、大きな座敷でなら、大光明如来様も結構です。ですから総て相応しなければいけません。食い違えば、何処かに故障が起こるというわけです。前にも、平塚の方の百姓で、以前に観音様の絵を画いた時分に、横向きのならよいですが、正面向きの「光明如来様」と言っていた正面向きの大きなのに、非常な雨染みができて、それがちょっとくらいのものではないので、どうしたらよいかと言うので、調べてみたところが、百姓屋の甚だお粗末な所に、今言った光明如来様を御祀りしてあるのです。それで、もっと小さいのにしたらよいと、そういうように改めた事があります。ですからただ立派なものならよいというだけでは駄目なので、相応しなければいけないのです。人間はよく間違えるので、ただ立派ならよいと思うのです。やっぱり昔から言う“相応”とか“程々”というそういう事に外れてはいけないのです。人間万事相応の理です。この相応という事は、つまり理窟に合う事です。何時も言うとおり、理窟に外れてはいけないという事は、相応しなければやはり理窟に外れるわけです。それから又理窟に外れると無理をするという事になります。だからよく昔から“ぶるな。らしくせよ”という言葉がありますが、先生ぶってはいけない、先生らしくしろという事です。信仰を鼻の先にぶら下げて――これは救世教信者にはありませんが、他の信仰に見られますが――信者ぶるのです。そういうようで、“らしくする”という事は“相応する”という事ですから、丁度よいという事です。そうすると万事うまくゆくわけです。順調に進んでゆきます。ですから私がやっている事は、別にそう急ぎはしないので、ゆっくりやっていて結果が早いのです。それは後戻りがないからです。普通は急いでも後戻りをするのが多いのです。ですから遅くても確実にというわけです。これはイギリスの格言にありますが、“遅くても確実に”という事があります。これはイギリスが世界一になった第一でしょう。私は昔からイギリスの「コモンセンス」と「遅くても確実に」という格言を非常に尊んでいましたが、今でも非常によいです。ところが今のイギリスは「遅いために不確実」という事になってますが、これは医学のために国民の健康が弱った事によるのですが、それは今の話とは全然別です。そこをよく考えて、智慧正覚を働かしてよく考えて、そうするようにして総てをやってゆくのです。そうすると、あせらずゆっくりしながら、ドンドンうまくスムースに運んでゆくわけです。

(教二十五号  昭和二十八年九月十五日)