御 教 え 集 第二十四号

昭和二十八年七月御教え

七月五日 

浮世絵展の方は時々陳列替えをしますが、今日から三回目の陳列替えをしましたから、この前までのとはまるっきり違います。そのつもりで見てよいと思います。今度も博物館のと、それから個人でちょっと持っている人のが幾らか混じりましたが、とに角ドンドン集まって来るのは奇蹟なのです。今浮世絵で集まっているのでは、日本で一番だそうです。それが一年とはたっていないので、去年の今頃はまるっきりそういう物はなかったのですから、七、八カ月で集まってしまったのです。実に不思議なのです。それについて、最近歌麿の霊が憑って、喜んで言った事と、その意味を書いたのを読ませます。

御論文〔⇒美術品蒐集の奇蹟〕【註  栄光二一八号】

今霊界では自分の作った美術品や何かを競走で此処へ持って来ようとしているのです。ところが持って来る者はみんな慾張りですから、大いに儲けようとするのです。そこで私は高い物は買いませんから、霊は大いに煩悶しているわけです。私の方は、あせらないで放ったらかしておくと、結局だんだん安くして納めざるを得なくなるのです。これはなかなか面白いのです。又少し高くしたり、怪しげな物を持って来たら、きっと知れるのです。誰かが知らしてくれるのです。それが丁度、私がチャンと知っているかのようにゆくのです。私が気に入っても、高いと思って買おうかどうしようかと迷っている時は、必ず誰かが来てそれは前に幾ら幾らで売物に出ていたと言って、道具屋がウンと儲けようとする事を暴露するのです。ですから私の手にはいる時はチャンと相場なのです。それで私は別に相場を外して安く買おうとは思いませんが、そうかといって相場外れの物は嘘ですから、買わないでいると、そうすると実にうまく気持よくゆくのです。ですからいろいろな種類がありますが、浮世絵にしろ外国の美術品にしろ去年の今頃はまるっきり知らなかったのです。それが、私としても急に分るわけはないのです。それがそういうようで、私が実によく分っているかのようになるのです。ですから商売人などが“ホホー、どうしてあんなにお分りになるのだろう”と思っているようですが、こっちはそうではないので、フッとそういう気になったり、他の人にヒントを与えられて、それを選ってゆくのです。それが長年研究しておそろしく目がきいているかのように見えるのです。そういうところがなかなか面白いのです。なにしろみんな高いものが多いし、私の方でもだんだん厳密になってゆくので、大抵な物は買いません。天下一品という物でなければ買わないようにしているのです。ですから偶にあるとみんな高い物ばかりです。

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ですから金には実に苦しむのです。これは求めて苦しむのだから、別に悲観的な事はないので、やっぱり嬉しい悲鳴なのです。それで金の使い方やいろいろな事は、私は自分ながら随分うまいつもりなのです。行き詰らないように、道具屋の方の払いなども無理のないようにうまくやり、苦しめないような工合にやっているのです。ですから金の繰り合わせ方は、私は大いに自信があります。それもこれも昔大いに金に苦しみ、その修業をしたというためもあります。というのは借金で二十何年間苦しめられたのですから、それが今日非常な学問になっているわけです。やっぱり神様は、金の使い方やいろいろな事を大いに修業させられたのだと思ってます。それについて書いてみました。

御論文〔⇒借金二十年〕【註  栄光二一七号】

これは金に関した事ですが、やはり一切がそうなのです。病気治しでも、“是非治したい”とあんまり思うとかえって治りが悪いようなものです。それからあんまり“助かりたい”と思うと、かえって反対の結果になるようなもので、やっぱり何時も言うとおり執着が邪魔するわけです。

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この前にも“結核を治すには肩をやるのが一番だ”という事を言いましたが、これは結核ばかりではなく、心臓病なども必ず左の肩が凝ってます。ですから心臓病はやっぱり肩の病です。この肩の固まりが少しずつ溶けて下に垂れて行って心臓の附近に固まって圧迫するのです。ですから心臓病は肩を主に浄霊すればよいのです。それから胃病の人は必ず肩が張ってますから、それを浄霊すると必ず食慾が増すという事はそういうわけなのです。ただ肩に関係のないのは中風だけです。これはむしろ肩の柔らかい人が多いのです。というのは肩の柔らかい人は健康ですが、中風というのは健康な人ほど起こるのです。弱っている人には起こらないものです。結核で痩せた人というのは決して中風は起こるものではないので、中風というのは、かっぷくのよい脂(アブラ)ぎった血色のよい人に起こるものです。その代り中風の人は頸の廻りに必ず固まりがあります。それは右か左です。それから後頭部ですが、これも右か左にあります。つまり毒素が下に行くべきが、上に行って其処に固まってしまうのです。これはその人の職業的の体の使い方によって其処に固まるのです。そうしてこれが急に溶けて来て頭の中にはいるのが脳溢血です。そうして右が凝っている人は左の手足がブラブラになるのです。中風だけは肩でなく、今言う頸の固まりです。そういう人はごく少ないので、一番多いのは結核、肺、心臓病、胃腸、それから今流行っている赤痢です。赤痢は何時も言うとおり後頭部の毒血が溶けて肛門から出るというものです。ですから大抵な病人は、まず一番最初首を下げさせて頭の中心を浄霊するのがよいです。この奥の方です。此処が人間の一番の中心ですから、この真中が体全体に影響するのです。此処を浄めて、それから肩ですが、肩は前から其処を狙ってやり、それから後から其処を狙ってやるのです。それから着物の上からでもちょっと触って、ごく凝っている人は肩の上からやるのです。そうして肩を柔らかくすると頸の廻りの固まりもずっと溶けますし、又溶かしよくなります。それから手足の工合の悪いのもやっぱり肩です。ですから足が工合が悪いという人は、肩をやると足の工合がよくなってしまいます。それから頭は、前頭部と後頭部とは違うのです。後頭部は赤痢か痔で毒素が出る順序ですが、ここで心得ておかなければならない事は、肩をやりますと胸が悪くなる事があります。胸がむかつくとか軽い嘔吐感があります。これは溶けたのが胃に集まって来るのです。そこで今度は其処を浄霊するのです。浄霊しなくても下がりますが、そうするとお腹が痛くなります。ですから肩とか頸をやりますが、それが溶けると胸がむかつく事と、その次にお腹が痛くなる事があります。それを知っておかなければなりません。頸が悪いというのにお腹が痛いというのはどういう訳かという事を聞かれるが、それは溶けたものがお腹に下がって下痢になって出るのです。男の方はそうですが、婦人の方は下痢でなく前の方から出る事があります。コシケとか、あとは皮膚の粘膜から出るのです。その場合にはピリピリするとか痒いという感じがあります。男は下痢一方です。そういうように心得ていると大体間違いなくゆくわけです。それが普通ですが、人によると腰に溜まる場合があります。これは腎臓ですが、薬毒は最初腎臓に集まって、腎臓が薬毒を処理する所です。ところが僅かしか出ないで、それが肩に行って固まるのです。それで肩に行って固まる時と、それが腰に行って固まる事があります。それはその人の職業によるので、手を使ったり根(コン)をつめたりすると肩に固まるのです。それから農業をする人は非常に腰を屈折したり、坐る仕事でも腰に力を入れる人は腰に集まります。そうして腰に集まったものが少しずつ溶けて足に流れて行き、そこで足が悪くなるというわけです。脚気というのはそういうわけです。それからよく足が吊るとか、痺れるとか、だるいとか、膝がガクガクするとか、凡て足に関係したのは、一旦腰に集まったものが足に流れて行くのです。ですから足に関係したのは、まず腰の中心、尾 骨(ビテイコツ)を狙って背面から浄霊するのです。そうすると足をやらなくても足がずっと軽くなります。それからこのことが息切れに関係するのです。というのは腰から足が悪い人は、歩いたり坂でも上ると非常に骨が折れるのです。軽くゆかないのです。その軽くゆかないのが息切れになるのです。とに角心臓を大いに骨折るために、その力が心臓に影響するわけです。そのために息切れがするのです。この息切れという事は肺ですが、肺の呼吸が頻繁になる事です。というのは心臓は火で肺は水ですから、心臓が骨が折れると、心臓の火、熱が、肺を活動させる力が薄くなるので、肺の活動が悪くなるのです。そういう理窟になります。こういう事もお医者の方では全然分りません。ただ部分々々で研究の結果を発表するに過ぎないのですから実に幼稚なものです。今話をしたのはごく大づかみの大体の事ですが、それが分っていれば、他の事はそれによって解釈すれば、元が分るから浄霊の場合でも非常にやりよいわけです。

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何事でもそうですが、まず急所です。浄霊の場合でも急所を発見する事です。急所を発見するという事は、今言ったような事を大体知っていると急所が非常に分りやすいわけです。自分で自分の健康診断をする場合にも、体中を触ってみて熱のある所に毒素があるのだから、触ってみてずっと冷たければよいですが、何処かに熱がありますから、其処が急所です。それから押してみて必ず痛い所があります。人によってはまるっきり痛くない人がありますが、これは何かというと毒が無くて痛くない人はまずないでしょうが、毒が固まりきって少しも浄化が起こってないのです。それで痛いという事は固まりに幾らか浄化が起こっているから痛むのですが、浄化が全然起こってないと痛まないのです。ですからこういうのはかえって危ぶないのです。そういうのはかえって信仰にはいると、痛みのない人が痛みが出て来ますが、これは其処だけが活動を始めたのです。しかしそういう人はごく少ないので、大抵な人は何処か痛いのです。そういう所を自分で浄霊するなり、後の所は人にやってもらうなりすると、それは健康になります。それで自分で浄霊するにも一番は肩ですが、肩で固い所がありますから其処をやればよいです。そうしてごく小さい固まりがある事がありますが、それを浄霊するには、指から霊を出すのです。これは何時も言うとおり触ってはいけません。二本の指でこうやって、中指から霊を出すようにするとよいです。この指から出る霊は強いですから、小さい固まりはよく溶けます。そういうようで何でも急所です。ところがこの急所を外れている事が多いのです。これは病気ばかりではないので、日常の事や話や、いろんな事、又宣伝の工合でも、人が“信仰にはいろうか、どうしようか”と迷っている時に急所をピタッと言えば、“では、はいろう”という事になりますが、その急所を見付けるのがなかなか難かしいのです。しかしその人の智慧正覚が進むと、急所の発見が早くなります。どんな事でもその急所をやる事です。それから急所が見付からない時に、あせってやってはいけません。それはまだ時期が来ないとか、いろいろな事情があるのです。ですから不断心掛けていれば、時期が来さえすれば急所は見付かるものです。ですから病気でも、どうも熱が冷めないという時に、ちょっと急所に来ると冷める事があります。これはあなた方でも経験する事があるでしょうが、急所を発見するという事が、人間人生の最大の条件です。ですから今の政治、経済、外交という事も急所を外れているために、随分間抜な事をやっているわけです。私はよく新聞ラジオで聞いてますが、政治家が大勢で毎日いろんな事を会議したりしてますが、急所を外れてます。とに角偉い人達が大勢寄って相談してますが、急所の他の事を相談しているのです。ですからよい案が出ないのです。というのは頭が悪いわけではないので、頭は良いのですがただその頭も外側が良いのです。中身が悪いので、外側ばかりをいろいろ論議して、中身を論議する人はないのです。やっぱり (ス)のポチが分らないのです。ですから人間は急所の発見ができるような頭を作る事です。信仰もその修業です。救世教というものは (ス)ですから、今まではみんなこれが分らなかったのを、これを分りこれを主にして救うという事が根本なのですから、そういった頭で物事をみたり、いろいろやったりすると素晴らしいものです。これはなかなか難かしいですが、せめて急所に近い所が直ぐ分るようになれば結構です。

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七月六日

今度の九州の水害はどういうわけかというと、やっぱり浄化作用ですが、つまり土を肥毒で穢してしまったから、これ以上穢すと作物が出来なくなってしまうのです。そこで一寸やそっとの雨くらいでは追いつかないから大水を出して肥毒を流したのです。一時はああして作物に影響するようですが、あれだけ浄めたので当分は作物が出来るわけです。だから肥毒をやらないようになれば水害はずっと減ります。しかし水害が無くなる事はありません。というのは、やっぱり悪い了簡を持っているから、田畑の売買の場合に金に不正な分子があるとその浄化が起こりますから、その分だけは儲けさせないようにするわけです。とに角凡て今のいろいろなやり方は、霊を無視して体ばかりを目標にしているから、護岸工事とか川を修整して深くするというような、つまりオッツケ仕事だけです。やはり医学と同じで、熱が出ると氷で冷やすという事と同じで、つまり霊を無視しているから根本的の方法は知らないわけです。それで都会は都会で近年火事が非常に多いのです。今は陽気がよくなったからよいが、寒い時分に非常に多いという事は、焼けるような家はみんな不純な金、金の霊が穢れているから、そこでそれがだんだん年限がたつに従って穢れに利子がついてゆきますから、だんだん穢れが多くなるから、或る程度までゆくとどうしても焼いてしまわなければならないような規則があるのです。それは神の律法と言って、神様の方の法律です。人間の方の法律は幾らでもくぐる事はできるでしょうが、神様の方の法律は逃れる事はできないのです。ですから都会は火の浄化、農村は水の浄化というわけです。今度の田畑の水害などは何十万町歩というような事を言ってましたから大変なものです。そこにもっていって水に流されて溺死した者も相当あります。行方不明というのは結局みんな死んだのでしょう。死者が六百幾らですから、結局千人以上は死んだのです。そういう人は何かというと、やっぱり罪を重ねているから、その人の霊が穢れきっているためで、どうしてもそういう命に関わるような、水なら水に呑まれてしまうわけです。死ぬだけの資格を持っているわけです。命を保つだけの条件が無くなっているのですから、これは致し方ありません。それから家が押し流されたり、潰(ツブ)されたりしますが、これも家というものの霊が穢れているから、浄化の時の膿や毒血みたいなもので、どうしても滅びなければならないわけです。それから、よく山林の火事などがありますが、そういう事も最初買う時に、山の木を買う時、或いは山を買う時に〈大体山の方が多いでしょうが〉不正の金で買うためです。それも信仰にでもはいって大いに浄化すればよいが、そういう事はないからますます溜まるばかりです。それで厄介な事には、善い事でも悪い事でも、時がたつに従って利子がつくのです。だから利子がだんだん溜まって元金より多くなると、人間界でも破産し身代限りするようなもので、やっぱり山の身代限りです。そうすると燃えてしまうのです。それで燃えるにも、燃そうと思って燃すのではないから、つまらない事で火事になってます。煙草の吸殻が一番多いとされてますが、煙草の吸殻を道端に捨てて、それが枯草について拡がるのですが、あんなに拡がるという事は常識で考えても有り得べからざる事です。ところがそれが威勢よく燃えてゆくのです。それは其処の浄化をするために、霊界での役目があって、山のそういった役目、つまり浄化係で、これはみんな龍神がやってます。火龍と言って火を扱う龍神です。それが人間にちょっとやって、枯草に火がつくと、龍神がドンドン燃すのです。そうして火の粉を出して枯草にドンドンつけるのです。それはみんな龍神がやってますが、それが龍神の役目なのです。今度の水害は、同じ龍神でも水の方の水龍です。不思議な事に水が来ないという所があります。低い所に水が来なくて高い所に水が行くという事がよくあります。それから門司の山津波にしても、それから関門トンネルの中に泥と水がウンとはいって行ってしまうという事も、有り得べき事ではないのです。トンネルを作る時に、そういう事があってはいけないからと、入口もチャンと高い所に作ったに違いないでしょうが、それが高い所に水がはいって行くという事は実に不思議ですが、それはみんな浄化係の龍神がやるのです。そうしてその龍神の指図をするのが祓戸四柱神という浄化の神様です。要するに結局神を無視したその罰で、致し方ありません。それでミロクの世になればそういう事がないということは、そういう穢れを作らないからです。人間は悪人の方がずっと少なくなるから、そういう浄化の必要がないから、そういった天災地変が無くなるという事になります。天災地変というものは自然現象ではなくて人為的現象です。人間が作るものです。結局世界のあらゆる事はみんな人間が作ったり壊したりしているわけです。それを“天を怨み地を呪い”という言葉がありますが、大変な間違いです。“自分を怨み自分を呪う”のが本当なのです。責任は凡て人間にあるのです。だからああいう天災地変も本当に大乗的に言えば、あれできれいになるのですから結構なのです。その最も激しいのが戦争です。戦争で焼けたり破壊されたりするのもみんな浄化作用です。それでヨーロッパなどは不燃焼建築と言って、焼けないように造ったと喜んでいると、別の方法で壊されるのです。ロンドンは焼ける都会ではないのだそうです。ロンドンの家というのは百年以上の家というのが沢山あるのです。それで大いに威張っていると、今度は爆弾で壊されたという事になります。

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話は変りますが、美術館の美術品が僅かの間にあんなに良い物が沢山集まったという事はみんな不思議に思ってます。浮世絵などは去年の今頃はほとんど無かったのです。版画などは一つも無かったのです。それが一年たつかたたないうちに急に来てしまったのです。それで今此処にある浮世絵は、日本で一番だそうで、これだけ良い物が集まっている所はないそうです。だから到底人間業ではありません。ではどうして人間業でないように集まったかというと、無論霊的ですが、そのよい例が出たので、その事を書いてみました。

御論文〔⇒美術品蒐集の奇蹟〕【註  栄光二一八号】

この中で“自分のような職人風情の者”と言ってますが、これは全くそのとおりなのです。昔浮世絵を画く人は、美術家と職人との間ぐらいだったのです。つまり本当の絵師とは違うのです。ですから版画と言って、木の板にああいった彫刻を彫師が彫るのですが、その元を絵師が画くのです。それも美人とか俳優とかを表現するのです。だからごく格の高いものではありません。それは山水や花鳥格の絵とは違います。ですから自分達のような職人風情という事はよく合っているわけで、別に特に卑下しているのではありません。浮世絵師というのは、格が下がっているという事を言っているのです。

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それから土の事ですが、さっき藤枝さんから聞いたのですが、中京で花物を作っている所で、非常に成績が良いところは毎年客土をするのだそうです。ところが客土というのは、つまり肥毒のない純粋の土だからよいわけです。しかしそういう面倒くさい事をするという事は、やっぱり肥料をやっているから客土の必要があるので、肥料をやらなければその土自体が客土と同じ事なので、そういう点が徹底してないので、やっぱり肥料迷信が取り切れないのです。ところが客土をしただけでは本当から言うとまだ足りないのです。その土自体が活動を起こすという事を知らないのです。この事は私はざっとは書いてありますが、充分に書いてないから、まだ本当に分るところまでゆかないかも知れませんが、ある作物を作ると、毎年連作をする事によって土自体にその作物を作る力、その作物に適当した力が発生するのです。そこで一つ所に一つ物を作っていればだんだん増えるのです。ところが今までの農家は、畑の物は連作はいけないと言って始終変えてゆきますが、これは全然あべこべなのです。連作がいけないというのなら、一体稲はどうしたものかと言いたいです。稲は連作をやってます。連作がいけないものなら、稲はいけなくなるはずです。それなのに畑は連作はいけないと言っているのです。茄子はいけないと言ってますが、茄子などは連作にすると、とてもよく出来ます。実際迷信というものは恐ろしいものです。そういう訳で、土が変化して作物に対して適当した養分が生まれて来るのです。ですから客土は悪い事はないが本当から言うと足りないのです。その理窟が分らないのです。それで百姓が客土をする理由というのは、一つ土で作っていると土の養分を吸ってしまうから客土するというのですが、それは養分が抜けるのではなくて、肥料を入れるから駄目になるというので客土するというわけで、それに気がつかないのです。そういうようで土の能力を発揮させると、稲なども倍くらいは何でもありません。倍額増産ですが、今度の特集号にちょっと書きましたが、効果をあんまり立派に書くと疑うのです。現に私の書いたものを読んで、簡単に大病が治る、素晴らしい、とあると、かえって不思議に思って信じないのです。何かこっちの頭でも変に狂っているように思うのでしょう。だから割引して書いた方が本気にするくらいなのです。実に始末が悪いです。

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話はいろいろになりますが、ちょっと面白い論文を書いたので読ませます。私の借金の苦しみを書いてみたのですが、聞いた人はいろいろ参考になるそうです。

御論文〔⇒借金二十年〕  【註  栄光二一七号】

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それからこの前“結核は肩が肝腎だ”という事を言いましたが、これは結核ばかりでなく、心臓病、胃にも非常によいです。心臓病の人は必ず左の肩が凝ってます。それが少しずつ溶けて心臓の附近に垂れて固まるのです。それが因(モト)ですから、心臓病の人は左の肩が一番肝腎です。それから胃の悪い人、特に消化不良には素晴らしい効果があります。胃をやるよりか、かえって肩を柔らかくした方がよいのです。それからみんな頸の廻りに固まりがあります。これがいろんな病気の原因になりますが、これは一旦肩に固まった物が頸の方へ行くのですから、肩をやると頸の廻りの固まりも非常に溶けやすくなります。ですから肩こそあらゆる病気の急所です。且し中風だけは駄目です。中風の人はかえって肩が柔らかいのです。健康な人ほど中風は起こるものです。弱い人には起こらないものです。健康でかっぷくの良い脂ぎった人に起こるものです。そういう人は体の毒が、肩を通り越して頸に集まるのです。それで肩が柔らかいから非常に健康なのです。その代り頸に固まるから、それが溶けて脳の中にはいって行くのです。だから中風の人は頸と後頭部の右か左にコブみたいな固まりがありますから、それさえ溶かせば必ず治ります。それで一番肝腎な事は、ウンと固ければ固いほど力を入れてはいけません。ところが固いと固いほど溶かそうとするのに力を入れてしまうのです。だから溶けないのです。これは溶けないなと思う時は必ず力がはいっているのです。だから力は、ほんのあるかなしかくらいで、はいっているかいないか分らないくらいにフワフワとやるのです。そうして想念だけは強く通す気持ですればよいのです。力を抜くとずっと治るのです。そういう工合で、肩を柔らかくするという事が一番の急所だと思っていればよいです。それから熱ですが、頭や方々にある熱も肩をやると大抵は下がります。だから健康診断をみるには肩をみるに限るのです。柔らかければ、きっと健康です。私は以前三菱重工業の課長をしている須長という人で、剣道の達人で何段かで、好きで始終剣道をやってました。体格がよくて隆々としてました。ただ不思議な事に肩が非常に固いのです。これは肩に力がはいるから肩が固いのです。水泳の選手もそうですが、水泳の方は片方に行くのです。近頃はクロールだからそうでもないが、以前は片泳だったから片方が固いのです。ところが剣道は両方とも固いのです。その頃は私も下手だからよく溶けないのです。ところがその人に猛烈な浄化が起こったのです。丁度私が昭和十五年の暮に治療を廃業してそれから間もなくだったのですが、それを頼まれて弟子をやりました。これは何でも、聞いてみると敗血症とは違うが出血する病気で血を吐くのですが、死にました。死ぬような人ではなくて実によい体格でした。その頃は私は分らなかったが、その後になって肩という事が分ってから、なるほどあの人は肩が特別固かったと思ったのです。それから試してみると、肩の柔らかい人は随分重い病気でも治りがよいのです。それから肩の固い人に限って治り難いのです。そういうようですから、肩がまず健康の急所です。

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病気などは特にそうですが、急所の発見という事が一番肝腎なのです。それからこの前も言ったとおり、理窟に合わない事はいけないと言ったが、いくら一生懸命にやっても、その人を浄霊すべき条件が窟屈に合わないと、いくら一生懸命にやっても治らないのです。これはこの前話したから大体分っているでしょうが、その理窟に合わない事という一つの条件というのは、神様の事を知った人と全然知らない人とは大変違うのです。知らない人は大変無礼な事をしても、これは知らないから許されます。ところが信仰にはいって相当たって、知っているはずのところの人が、理窟に合わないとお蔭がないわけです。そういう事もよく考えるべき事です。やってみて、どうしても思うようにゆかないという事は、自分の浄霊の霊力が弱いのだろうとかいろんな事を思うが、そういう事はごく少ないので、本当は急所を外れている事と条件が理窟に合わない事が一番多いのだから、そういう事に気がつくようにならなければならないです。それはその人の智慧正覚です。だからまず智慧正覚を磨くという事が一番肝腎です。智慧正覚が磨けると急所の発見が早いのです。これは何事にも非常に関係があります。だから信仰に関係のない事で、大きく言えば政治、経済の事でもそうです。偉い人がいろいろやってますが急所を外れている事が非常に多いのです。たとえば今度の木村保安庁長官などが盛んに言われている事なども、最初にちょっと急所を打てばそれで済んでしまう事です。それは謝罪すればよかったのです。“確かに自分が悪かった、謝罪して取り消す”と、それでよいのです。それをしないで誤魔化そうとしたのです。そうしていろんな事を言ったから他の人の感情を害したのです。それで今もってやっつけなければ承知しないような工合になっているのです。吉田首相の馬鹿野郎問題もそうです。“自分はあの時実に不用意にああいう事を言って悪かった”と謝罪すればよいのです。それをどこまでも覆い隠そうとするのですが、大勢の前で天下の公道で言った事はしようがないので、あやまるよりしようがないのです。それをグズグズしていたものですから、解散になって選挙までやったのです。そのために多数党で勝つべきだったが落ちてしまったという事なども惜しい事ですが、どうも急所を見る事を知らないのです。という事は智慧正覚が働かないからです。という事は、簡単に言えば頭が悪いという事です。という事は頭に薬毒が溜まっているという事です。これは日本の政治家ばかりではありません。世界の堂々たる政治家でも随分急所を外れているのがあります。アイゼンハウアーは割合に急所を外れていないが、それでも少しまずい点があります。今度の朝鮮での事で李承晩が怒ってああいうひどい事をしても、アメリカの方でウンとやる事ができないのです。というのはトルーマンの時に“中共を侵略国とみなす”という国連の一つの宣言が非常にきいているのです。何かと言えば李承晩はあれを持ち出すのです。アメリカは侵略国と宣言していて、それと妥協しているという事は非常に間違っていると言って威張るのですが、あれをアイゼンハウアーが一言いえばよいのです。即ち“前に中共は侵略者とみなした、という事は事実だが、その後世界の情勢が非常に戦争を嫌うという事と、中共がスターリン歿後平和的に転換した。だから以前はスターリンの意志であって、これは跡を継いだ人の意志ではない”という事を宣言すればよいのですが、それをやらないのです。どうも急所を言わないのですが、おかしいと思います。それから日本の再軍備に対する憲法改正も、肝腎な事を言わないのです。その肝腎な事を言えばよいのです。“あの憲法をやった時にはソ連が侵略行為をしてなかったという情勢によってあの憲法が出来た。ところがソ連のやり方が変って、中共をおだててああいう侵略をするという事によって、はじめて日本も考えなければならない。だから憲法改正も必要だが、それをやろうとしても、まだ日本の輿論が、特に選挙権を沢山持っている婦人の方が理解してない、だから今憲法改正をしても、国民投票の場合に成り立たない。政府はそれが熟するまで待つ方針だ”と言えばそれでよいのです。その肝腎な事を言わないのです。そうして急所を外れた事ばかりを言っているから、年中ゴタゴタしているのです。

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七月七日

今度の九州の颱風については分っているでしょうが、その事を分りやすく書いてみました。

御論文〔⇒颱風の霊的考察〕【註  栄光二一九号】

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それから美術品の集まる訳ですが、この間歌麿の霊が憑って、非常に喜んで話をしたのですが、それを例として美術品の集まる理由ですが、これは何時も言うとおり不思議なほど良い物が集まるのです。浮世絵は昨日から陳列替えをしましたが、浮世絵は去年の今頃はまるっきり無かったのです。その後一年もかからないうちにああいうように良い物が集まってしまったのです。それで今は此処の浮世絵は日本で一番だそうです。陳列も博物館の専門の人が来て飾ったのですが、博物館の人がそう言うのだから間違いありません。実に不思議なものです。その原因を書いてみました。

御論文〔⇒美術品蒐集の奇蹟〕【註  栄光二一八号】

今読んだような訳ですが、私の欲しい物が世の中にはまだ沢山あります。中には売ると言ったのが売らなくなったり、それから欲張ってどうしても手放さない人があるのです。そういうのは霊の方では売るようにしなければならないから、経済的にいろんな手段で苦しくして売るようにしてしまうのです。だからどうする事もできません。偶には“美術館に永久に残るのなら値段はとも角是非買ってもらいたい”というごく奇特な人もありますが、大抵な人は救世教は金があるのだからと、つけこんで、大いに高く売ってやろうという事もチョイチョイあります。石黒忠篤という人の息子か甥で、ヨーロッパに行っていろんな美術品を買って来て、日本で初めてですが、それを芝の西洋骨董屋に陳列してあって、私の所に持参した二、三点を買い込んだ人が紹介者と一緒に来て、ポンペーから掘り出した土に画いた油絵で、なかなか良い物ですが、値段を聞くと百二十万円と言うのです。それではとに角置いていってくれ、と置かしたのです。それから二、三日たって、私の方のその方の係の者が来て、この春行った時に七十万円の値段だったと言うのです。買うなら四十万円くらいでしょう。四十万円なら買うと言って、一旦返して下さいと言うのです。七十万円でも高くてなかなか買手がなかったのだそうです。ですから人を馬鹿にしてます。そういう事は沢山あります。救世教というのは金が沢山ある。それもどうせ信者からもらったような金だから、取るだけ取ってやろうという腹です。しかし私は逆に言ってやろうと思っています。自分で儲けた金なら幾ら高くても買ってやろうと思うが、信者が心血をそそいだ零細(レイサイ)な金だから、アダやオロソカに買えない。相場だったらよいが、少しでも高かったら、信者に対して悪いから、相場以外のものなら絶対に買えない、と先方の考えと逆に言ってやるつもりです。私はよくそういう事を言うのですが、こういうのはまだ穏やかな方で、もっとひどいのが多いです。こういうのは普通の道具屋ではないのです。何故というと、大学出のインテリなのです。それでスでもコンニャクでもまるっきり喰えない道具屋のやり方です。そこで冷水三斗を浴びせてやりたいと思います。だからそういうつけこむやり方だったら、到底これから取引はできないから、真面目にやればよいが、さもなければ駄目だからと言ってやるつもりです。それでだんだん分ってくると真面目になるのです。そういうのは一つの教育をする必要があります。そういうようで、世の中にはまだ欲しい物があります。中には、これは良い物を沢山持っている所ですが、主人が死んでしまって、主人の弟は売りたがっているが、婆さんが頑張っているのです。主人が死んで、自分が跡を継ぐようになってからそういった品物を手放すという事は面目に関わるから、自分が生きている間だけは絶対に売らないでくれと言っているのです。ですからそういう人は長生はできない事になるのではないかと思ってます。そういうようで、何だ彼んだと売らないようにしても、結局売らざるを得なくされるわけです。それは神様がされるのではなくて、其処の祖霊が霊界で早く自分が手柄にしようとして売らせるようにするわけです。だから私は心の中では欲しいと思っていても、別に手段はとりません。ただ待っているのです。だから皆が、どうしてこんな良い物が集まりましたか、と驚きますが、つまりこれは人間業でないという証拠です。それで聞いてみると、良い物というのはなかなか手にはいらないものだそうです。だからやはり神様がこの美術館を造り立派にしつつあるわけです。

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それから自然栽培をやる人で、まだ徹底しないところがあります。それは土を生かすという事です。今まで金肥、人肥で土の力を殺していたというのを、今度は反対に土を生かすようにするという場合に、連作が非常によいのです。それはどういうわけかというと、土自体が植物なら植物を育てるような一つの性能をだんだん発揮して行くのです。それで農村では連作を嫌って年々畑を変える事をよいとしてますが、そういう事を言うとちょっとおかしいと思う事は、米くらい連作しているものはありません。先祖代々昔からやってますが、若し連作がいけないものなら年々悪くなるはずです。尤も今は肥料で悪くしていますが。とに角肥料をやるために土が変質してしまうのです。そのために連作が悪いように、土が一種の片端になったようなものです。だから二毛作で米と麦を半々にやる事をよいとしていたのを、私が二毛作はいけないという事を言って一毛作にして非常に成績がよいという報告がありますが、そういうようで無肥料にして連作をすれば、土は幾らでもその作物に対する性能が増して行くのです。だから実際言うと米にしてもだんだん増えていって、今の三倍くらいになります。最近来たお蔭話で、その人は七年目ですが、最初一、二年というものはやはりどうしても無肥料が信じられないで、何か他の肥料も時々混ぜたようです。それが分って、三年目くらいから本当に全然無肥料にしたのですから、とに角正味五年目くらいでしょう。それで去年は反当十俵幾らというのです。それで他の近所の収穫は五俵幾らというのですから、丁度倍は穫れたわけです。そういうようなわけで倍くらいは何でもありません。私は五割増産としましたが、本当は倍と書きたかったのです。しかしあんまり穫れ過ぎるように書くと、かえって本当にしないのです。何か常識外れのように思われますから、割引して五割としたのです。それで農村の人はなかなか肥料迷信にかかってますから、本当に全然無肥料に切り替えるのはなかなか難かしいのです。というのは土が連作によって今言うようにその作物に合うような力が出るという事を本当に知らないからです。そこでそれをよく知るように今話もし、又書くつもりです。この連作により土の性能が増すという事をよく心得てもらいたいと思います。

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ちょっと面白い論文を読ませます。

御論文〔⇒借金二十年〕【註  栄光二一七号】

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それからこの前も“結核は肩を主にして浄霊する”という事を言いましたが、これは結核ばかりでなく、心臓病でも胃病でもこれが最も効果があります。心臓病の人は必ず左の肩が凝ってます。これが溶けたものが心臓の廻りに固まって圧迫するのです。それが心臓病です。喘息も無論それです。喘息の方は横隔膜の方に固まるのです。ですからよく医者の方では心臓性喘息と言います。それで心臓の活動が悪くなるから肺の活動が悪くなるのです。これはみんな知っているでしょうが、肺は水で心臓は火ですから、火が多くなれば水がよく活動しますから肺にもよい影響がゆくわけです。そういうようで肩を柔らかくすると肺が良くなるという事は、心臓が良くなるからです。それから肩が柔らかくなると非常に腹が減るのです。私はいろいろと昔の薬毒がウンとあります。順繰りにとれてますが、去年の秋あたりから肩を柔らかくするために肩を浄霊しました。それでごく固い所は指から霊を入れるのです。そうするとだんだん柔らかくなるのですが、今は去年からみると食欲は倍くらいになりました。そうして非常に美味いのです。そういうようで食欲が増えるという事は胃の活動がよくなるわけです。ですから肩を柔らかくするという事は、肺と心臓と胃が良くなります。ですからこの三つが良くなるという事は、他は問題ではありません。他の事は附録みたいなものです。肝臓が悪いと言ったところで、やはり肩から下がって行って溜まるのです。それから腎臓が悪いと、こういう所(腰)に溜まりますが、それも肩から下がって来るのです。それから糖尿病は膵臓ですが、左の方です。此処も肝臓と同じようなもので、肝臓が悪くなるから圧迫されて、胆嚢も起こり黄疸も起こるというわけですから、大体肺、心臓、胃とこの三位一体が良くなれば問題はありません。あとは頭ですが、今は頭を非常に使わなくては生活できません。昔のように暢気な時代ではないから、どうしても頭を使います。それで頭を使うと、これに固まりが来ます。これは大体は肩に溜まったものが、頭を使うので此処に来るのです。ですから肩を柔らかくすると、これも柔らかくなります。それで後頭部に溜まったものが溶けると赤痢ですが、今は赤痢が流行ると言って大騒ぎをやってますが、当局が一番注意している事は、手をよく洗えという事で、実に滑稽です。手が赤痢の原因と言うのですから、私は現代医学というのは子供瞞ましだと昔から言ってますが全くそうです。そうすると手に黴菌がついて、それが口からはいるというような訳でしょうが、これがおかしいので、そうすると人間が凡て手掴みで食べ物を食べると思っているのです。尤も南洋のタイだとかマレーの方では、私は何時か映画で見ましたが、みんな指で食べてます。その理窟で行くと、向うは赤痢がウンとあるわけです。しかし日本人は、箸かフォークかサジで食べます。手掴みでは食べないから、手だけ洗えという事は変です。これは分らないからで、一つの気休めです。多分手だろうというわけです。実に可哀想な、一つのナンセンス的なものです。しかし赤痢は頭が良くなりますから、赤痢くらい結構なものはありません。これは最初は肩からだんだん行くのです。そこで肩を柔らかくするという事が根本です。それでただ肩に関係のないのは中風です。中風の人はかえって肩が柔らかいのです。その代り中風の人は頸に固まりができます。中風の人は健康な人に限ってます。弱い人は決してなりません。健康で威張っている人が必ずなります。脂ぎった赤ら顔の頑健な人に起こります。簡単に言うと、健康な人は中風になり、弱そうな人は結核になるというわけです。中風と結核は極端に反対な病気と言ってもよいのです。そういうようで中風だけはかえって肩の柔らかい人が多いのです。あとはみんな肩の固い人です。前に三菱重工業の課長で立派な人でしたが、非常に剣道が好きな人で毎日やってました。その人は肩が非常に固くて、イカっているのです。この人もよく浄霊してやりました。丁度私が昭和十五年の暮に治療を止めてから、その人は私の治療を受けなくなりました。それから確か半年くらいたってから急に変な病気が起こって非常に血が出るのです。それで私は弟子を治療にやらせましたが、とうとう死んでしまいました。そんな死ぬような人ではなく、非常に健康そうな人でした。しかし肩が非常に固かったのです。だからスポーツマンが割に早死というのは肩が固いからです。砲丸投とか棒高飛とか水泳とか、みんな肩に力を入れるから肩が固いのです。又スポーツマンに限って結核になります。これは肩に固まったものが、浄化熱が起こって溶けて咳と痰が出ますから、それは医者に行けば結核にされます。そういうようで肩が柔らかいという事が一番です。子供でも学校の成績の悪いのは必ず肩が固いです。腺病質という、青い顔してヒョロヒョロしたのはみんな肩の病気です。子供などは簡単に肩をやってやるのです。それで浄霊の場合に、前から肩を狙ってやり後からやり、酷い人は上からやれば、だんだん柔らかくなって来ます。大抵本人が肩が凝るという事を言いますから、それで分りますが、子供は触ってみればすぐ分ります。それから赤ん坊に沢山あります。カン持ちや、ジレたり、非常によく泣くのはみんな肩が固いのです。それからよく熱を出すのがそうです。それから扁桃腺は子供に多いですが、やはり肩の毒が行くのです。結局上は肩を主にして、それから頸の廻りです。それから頭は脳天の奥に毒がある人が多いです。これは始終心配すると此処に行くのです。それから頭を使うと此処に寄ります。本に書いてあるとおり、記憶とか、本を読むとか、学問をするとか、そういう考えるのは前頭部です。後頭部は感情です。ところが心配するのは感情と智性と両方使うから脳天に来るのです。そこで此処の中心が重い人や苦しい人は沢山ありますが、それは此処です。それから後頭部、延髄という順序でやって行けば何病気でも良くなります。今のは上半身ですが、下半身は、腰の悪い人は足が悪いのです。よく、くたびれやすいとか足がだるいとかです。それから腰が悪いと息が切れます。じっとしていると切れないが、歩いたり坂などを上ると息が切れますが、それは腰です。即ち腰が悪いと心臓の毒血が此処に固まるのです。それで足の悪い人は、尾 骨(ビテイコツ)をやれば必ずよくなります。尾 骨(ビテイコツ)を中心にやって、それから腎臓ですが、そういう人は腎臓の下部の方が多いです。それからお腹のはる人は、無論腎臓です。それからもう一つはお腹のはる人は小便の出が悪いのですから、臍の下から下腹の中心をやればよいです。みんな此処に両方から尿毒が寄って来ますから、そこの中心をやればお腹はずっと軽くなります。むしろ下の方がよいです。恥骨と言って毛の生えている所の辺がよいです。そうすると膀胱の毒がとれてゆきます。それから足のあがきの悪い人は腿の外側を押せば固いですから其処をやるのです。それから膝から下の悪いのは膝の裏をやるのです。

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七月十五日

「医学革命の書」の中に入れる論文ですが、これは非常に科学的に説いたのです。今の科学特に医学の考え方は非常に幼稚なものでお話にならないくらいです。よく“科学的々々々”と言いますが、今の医学は科学としてはごく手前のものです。これを分りやすく急所だけを書いたので読ませます。

御論文〔⇒科学で病気は治らない〕

この後「神霊の解剖」というのを書くつもりです。つまり神様を解剖するわけで、随分変った事ですが、神様を解剖するなどというと、今までの人は恐ろしくて罰が当っては大変だと、そういうものに触れる人はないのです。けれどもそこまで分らなければ信仰の真髄は本当に分るわけがありません。神様というと、ただ漠然として有難いような恐ろしいようなものになって、それに人間は触れる事はならないように思われて来たのです。というのは今まで神様を本当に分っていた人は無かったのです。つまりキリストでもお釈迦さんでも、どうも徹底しては分っていなかったらしいのです。神様が分らないと、病気、人間の生命力という事が分らないわけです。なにしろ人間の生命は神様が造り、神様が握っているのですから、神様の根本が分らなければ生命に関した事も分らないわけです。ですからそれを説いた人もないし経文にもバイブルにもそれはなかったわけです。つまり経文やバイブルにしても、もっと低い所です。上面(ウワツラ)の所だけしか説く事ができなかったのです。ですから見真実と言っても、見真実にも浅い深いがあって、深い所までは分らなかったというよりか、分らせなかったのです。分らせてはいけなかったのです。ところが今度は分らせなければいけなくなったわけです。そこで私は知らされたわけです。ですから今読んだとおり医学の考え方は、黴菌というものは顕微鏡の現在の見得る程度は二十万倍というわけですから、二十万倍で分っただけの黴菌を対象として研究しているわけです。ところが顕微鏡が百万倍になっても千万倍になっても、まだ徹底したわけではないのです。それ以上まだ小さいのがあるのです。私が前にも言ったとおり“今ある黴菌というのは粗(アラ)いものだ”と言うのはそういう意味で、細かい点においては何処まであるか、殆んど無限です。一千万倍、一億万倍になっても、もっと細かいのです。細かいという事は無限という事で、つまり数字で現わす事はできません。それが黴菌の本体なのです。だから今の科学というのは実に浅い、浅薄なものです。これで病気を治そうと思っても、治るわけがないのは当り前です。それをよく分らせるという事が根本なのです。それでその無限の小さいそれを浄霊で殺すというのですが、これ(掌)から出る光が無限の細かいものであって、到底数字で表わす事はできません。そういう訳ですから、宇宙というものは凡て無限なのです。「至大無外、至小無内」というわけで、丁度大空に壁がないようなものです。ですから宇宙というものはどのくらい広いものか分らないので、到底数字で表わす事はできません。大空の広さが無限であるのと同じように、小さいものが又無限なのです。ですから黴菌と言っても、病原菌の小ささというものは無限なのです。それを分らせるために今書いたのです。その小さいものが無限であるとしたら、やはり無限な力でなければ病気を治す事はできません。そこで霊主体従の法則によって、此処なら此処の病気が治るという事は、この細胞というものが又無限なので、どのくらい細かいか分りません。ですから医学の方では、細胞の数は何万、何千万と言ってますが、これは滑稽なのです。細胞一つを作っている細胞が又何万、何千万あるか分らないくらいで、その又一つがそれと同じようにどのくらいあるか分りません。ですから凡て一切は無限なのです。その無限であるために分らないので、その分らないところに本当は面白さがあるのです。よく地球の年齢という事を学者が研究してますが、これは無限という事を知らないからです。地球の寿命というものが又無限なのです。ですから人間でも、幾度も生まれ変り死に変り行くのですから、人間の寿命というのは何万年か何千万年か分りません。霊の方は永久なのですから、早死を恐れる事はありません。ただそれが人間の心に記録されてないから、新しく生まれて新しく死ぬように思うので、心細い感じがするのです。そういうふうに考えると、全く医学の研究などというのは実に気の毒なものです。これを仏教などでは大掴みには説いてあります。“一切無だ”と言いますが、一切無だという事は無限という意味を表わしたわけです。何故と言えば、「有る」という事は言えないわけです。つまり「有る」という事は唯物的の観念です。「無」というと唯物的ではないという事を表わしているわけです。その意味が分ればよいわけです。此処(掌)から出る霊光も粒子なのです。粒子という事は無限的粒子です。それでこれが殺菌法です。殺菌というのは、霊の曇がつまり毒ですから、その毒を火素で焼いてしまうというので、それが肉体にも直ぐ写るのです。つまり霊主体従で、そのままに物質の方も従うというそれで病気は治るわけです。これが真理なのですから、治るのが当り前なのです。だからこれが分りさえすれば医学者というのは今言ったとおり幼稚園の生徒です。本当はもっとひどいのですが、言いようがないので“幼稚園の生徒が大学の講義を聞くような”と言うのですが、本当はもっと離れているのです。

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それからこの間の九州を荒した颱風ですが、これも理窟は同じなのですが、しかし人体とは余程違うわけです。この人体と物質の区別は余程違うのですが、言わば同じ粒子としても、人間の粒子というものは一番上等なのです。それから颱風とかそういったものの粒子は上等でなく下等というわけです。それで現われ方は、大体浄化作用という点においては一つなのです。

御論文〔⇒颱風の霊的考察〕【註  栄光二一九号】

よく、火事の時に火に向って浄霊すると助かりますが、それは火事で燃えるという事は霊に穢れがある、それを浄霊されるのですから、霊界のその穢れた分が減りますから、火は焼く必要がないから他に行くというわけです。だから霊さえ分ればチャンと理窟は分るわけです。理窟は今言ったとおりですが、時期ですが、何時も言うとおり昼間の世界になって来ますから、その浄化がだんだん強くなって来ます。世界的にそうなるわけですから、そこでこれから世界的或いは国内的、個人的と、いろいろな形に現われて来るわけです。それは何にでも現われますが、特に一番厄介なのは農作物、米です。米などが今年はイモチ病が各地に非常に現われてます。これは肥毒で穢すためです。ところが国の方では、昨日の新聞に出てましたが、五カ年計画で合計三千億の金を使って食糧増産させるというのです。それでいろんな項目があって箇条書に何箇条かありました。ところが結果においては、むしろ減収になると思います。それは根本に気がつかないからです。それで農業特集号を日本中の農業に関係のある所に配ったが、仕方がない事ではあるが全然と言ってよいほど反響がありません。だからどうしても実際的に各村々で実行者が増え、数字で結果を現わして、それを知って初めて、前にこういう新聞を配って読まされた、そうだ、という事になるわけです。その時に初めて新聞を読ませた結果が現われるわけです。今年あたりは虫害、水害がだんだん増えますから、むしろ減産です。それで政府がヤッキとなっていろんな施設をすればするほど減産になります。やっぱり医学と同じでいろんな新薬や方法をやればやるほど逆効果になるわけです。ですから最近になって結核が又非常に増えて来てます。これは死亡率は減るのですが、患者数はだんだん増えるのです。つい最近何かの新聞に出てましたが、静岡県でしたかB・C・Gなどで厳密に検査したところが四割が結核の疑念があるという事です。それは児童です。その危険がある、或いは疑念があるという事は、それで治ってしまうのなら疑念で済んでしまいますが、医学の方で疑念があると言った以上必ず本物になりますが、実はそれから本物にするのです。できるだけ過激な運動をするなとか、何かの薬をのませるとかして弱らせるのですから、だんだん本物になるのです。ですから四割から五割、六割というような工合に、日本人は殆んど結核患者の方が多いという事になります。それから本当に救世教に縋る事になるのでしょう。けれどもそうならないうちに早く救ってやらなければならないから厄介なのです。なにしろ医学迷信、肥料迷信に囚(トラ)われきっているのですから、極端にまで行くよりしようがないでしょう。お蔭話などを読んでみても、浄霊によって確かに良いという事は分っていて、医者から離れる事ができないでいるのです。そういう人が沢山おります。医者と縁を切るという事は不安で不安でしようがないのです。それで医者から何かやってもらうそれだけ悪くなり、浄霊では良くなりながら分らないのですが、こういう事をみても医学迷信というものが如何に根強くはいっているかという事が分ります。ですから結核がドンドン増えるという事は、大局からみると結構なので、早くそうなると早く分ります。しかし霊界の方はドンドン変って来ますから、そういったように早くなるのもだんだん増して来ますから、神様がうまい工合にやってくれるには決まってますからよいですが、それについてインテリ連中ほど余計分らないのですから、その事を書いてみました。

御論文〔⇒世のインテリ族に物申す〕【註  栄光二二○号】

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病気の事を少し話します。この間の“結核を治すには肩を柔らかくする”という事は分ったでしょう。それで肩を柔らかくすると、第一食欲を増すから衰弱をしなくて済むというわけです。それで今度は頭から頸の廻り、肩という所の毒素が溶けると、一旦胃にはいって、それから下痢になって出るという順序ですが、それがお腹に一旦溜まって、それが男は無論肛門から出るのですが、女はそれがコシケになる方が多いのです。これは男は穴が一つで女は二つあるから大変便利には出来ています。その場合に毒の性質によっていろいろに違います。早く溶けて下りるのとそうでないもの、これは毒の重い軽いという意味もあります。それで重いのは早くいかないからして遅い。遅い時に、人間は使う所に固まりやすいのです。ですから浄霊を始終やっていると、肩の神経を使うからどうも腕に固まりやすいのです。それから割合に背中に固まります。それからそれがだんだん下がって行って腰に固まります。これが息切れの原因になります。背中から脇の下、肋間が息切れの原因なのです。それから喘息の原因にもなります。だから喘息と言っても頭や頸の廻りに非常に原因がありますから、そのつもりで浄霊する事です。それからこの間一度言いましたが、尾 骨(ビテイコツ)の附近に溜まった毒素のために、それが息切れの原因になります。よく、歩いて息の切れる人、特に坂などを上って息が切れる人は、尾 骨(ビテイコツ)の附近に溜まった毒素のためなのです。というのは腰が重いから、それにつれてやっぱり足が重いのです。そうすると骨が折れるから息が切れるというわけです。私はこの年でいて山や坂を上るのに非常に速くて、若い者より速いくらいです。ですから若い者でも弱い者が居ると私の方で加減するくらいです。というのは何かというと、私は始終腰を浄霊してますから、腰が非常に軽いのです。つまり坂などを速く上れないという事は息が切れるためです。というのは腰が痛んだり圧迫されたりするためです。そのために骨が折れて息が切れるのです。そういう人は腰の真中の所を自分で浄霊するとよいです。そうするとウンと良くなります。ですから、汽車や電車に乗る時には人より先に乗れるくらいでなくてはならないのです。そう言うと意地が悪いようですが、そうではないので、今の人は腰が重いから敏捷にゆかないのです。それでこっちは腰が軽いから体が敏捷に運ぶから、人よりか速く乗れるわけで得です。しかしこれは自然ですから仕方がありません。人を押しのけるのでなくて、先がノロイからこっちが速くなるのです。それからもう一つは今の人は頭が悪いというよりか、頭の働きが遅鈍なのです。敏捷に働かないのです。これはつまり頸や頭の毒のために頭の活動が鈍っているわけです。ですから頭も敏捷に働かなければならないのです。それで私は体が軽いと共に頭も敏捷に働くのです。今も此処に出て来る時に、もう一つの羽織を着るとボヤボヤした感じがするのです。狼の衣ひきのようになるのです。それで襟が少し広そうですから“襟が広い”と言うと、女中が比べてみて“いや同じです、変りはありません”と言うから、“いやそんな事はない、物指で比べてみろ”と言うと、物指で計ってみて、約一分違うのです。それはどういうわけかというと、神経が敏捷でないのです。そういう事は始終あります。だから体が敏捷になると共に頭も敏捷に働かなければならないのです。私は何時も女は気がきかなければいけないと言うのですが、今の女の人の頭は敏捷でありません。鈍感です。しかし救世教の女の人はそういう事はありません。ですから体が敏捷に働くと共に頭も敏捷に働くと得です。早く分りますから、ちょっと見て直ぐ分りますから、間違いが減るわけです。だから結局毒素です。今は自動車事故とかが非常に多いのですが、これは頭が敏捷に働かないためです。というのは薬毒が頭に来ているわけです。これは信者はよく知っているから言う必要はないが、結局今のいろんな病気の原因が上から下に下がって行くうちに所々に固まるのです。それから肝臓や膵臓は違います。これは胃です。のんだ薬がだんだん外に流れて行って肝臓に固まると肝臓で、膵臓に行けばこれは糖尿病になります。それから変な話ですが、女のコシケにしてもいろいろあります。それでコシケが溜まった時に熱が出るのです。それで女は下の方に熱が出ると前頭部に反射するのです。この前頭部と陰部は非常に関連してます。だから女で気がふさぐというのは陰部に熱があるのです。そういうのは頭を浄霊すると共に下も浄霊するとずっと良くなります。

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七月十六日

浄霊の原理を分らせるために、黴菌から説くと一番分りよいのです。つまり霊の曇というものは、黴菌の元ですから、黴菌の元というものをだんだん細かく考えるとよく分ります。それを簡単に書きました。

御論文〔⇒科学で病気は治らない〕

今の医学というものは顕微鏡医学です。顕微鏡で微生物を発見し、それによって医学の一種の革命的のものになったわけです。ところが微生物というものはどこまでも小さいのです。私は昔から“黴菌と言うのは大きな物だ、大粒な物だ”とよく言いましたが、今顕微鏡で一生懸命になっているのは大粒の物で、まだまだ小さな物があります。本当から言うと無限なので、教えられないものです。ですから顕微鏡がこれから進歩して、今の二十万倍から三十万倍、五十万倍となるでしょうが、そういう事はごく手前の事です。本当は無限なのです。というのは世界というものを考えてみると、大きく言えば大空が何処まで行っても限りがないのと同じなのです。だから「至大無外、至小無内」という言葉がありますが、小さいのも無限なのです。それが真理ですから、そう考えてみれば、顕微鏡などというのは、他の事には役に立ちますが、人間の生命を扱うべき病気に対しては何にもなりません。何となれば無限を見ようとしてもそれは出来ない事です。丁度大空の壁を見ようとするのと同じようなものです。大空に塀がありやしないかと思って見るようなものです。医学が顕微鏡を捨てるようになれば、少しは進歩するのですが、それを何にもならない顕微鏡にこだわって、それを大したものと思ってますから、今読んだとおり滑稽なものです。そこで、黴菌は粒子ですが、何億万倍、何十億万倍と何処まで行っても分らないくらいなものですから無限ですが、その無限なるもの、一つの気体みたいなもので、空気は割に粗い物ですが、空気よりもっと細かい物で、霊気です。それで霊気というものは無限なものです。そこで無限の病菌というものは、曇で、悪いもので、毒素ですが、無限な毒素です。そうするとこっちでそれを治すという事は、此処(掌)から出るやはり無限なる力をもっているもので焼くのです。昨夜読んだお蔭話の中に、レントゲンがどうしても写らないのです。空洞か何かがあった人ですが、それがはっきりしないと勤務に困るので、はっきり写してもらおうと思ってお守をとって写してもらったらはっきり写ったのです。お守をかけている間は幾度やっても駄目なのです。そうするとお守から出る光はレントゲンより強いわけです。この前にもそういう事があって、今度は三度目ですが、お守の光によって遮られるというわけですが、それはレントゲンから出る光よりかお守から発する光の方が強いわけです。ところがレントゲンは何でも通すという強い光ですが、それが通さないという事になると、お守から出る光の方がずっと強いわけです。そうすると無限の毒素を焼き尽くすという事に不思議はありません。これは科学的説明ですが、科学的と言っても神霊科学ですから、今の科学よりずっと上の進んだ上等のものです。ですからこの神霊科学が分れば、今の科学というものは非常に幼稚なもので、幼稚園程度です。神霊科学は無限なのですから、唯物医学はもっと低い事になります。この原理がだんだん世界に知れたら、それは大変なセンセーションを起こすわけです。

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この次は「神霊の解剖」というのを書くつもりですが、「神霊の解剖」というのは即ち神様を解剖するわけです。これは今までの宗教や何かでは、そんな勿体ない事をして、神様に対して恐れ多いと、テンデ手をつける者はないのです。だから今までは神様を非常に恐れていたわけです。神様に対する親しみというものがなかったのです。ですから“恐れ多くも”という事を書きますが、これは本当ではありません。若し恐れるとしたら、自分を恐れるのです。それは人間くらい恐ろしいものはありません。神様は善ですから少しも恐ろしい事はありませんが、人間は悪だから恐ろしいのです。それは人間は何をするかわかりません。しかし神様はそういう事はないので、何も悪い事はしません。人間は悪の元だから、大いに恐れるというのは自分を恐れるという事です。ですから神様を解剖してもどんなにしても決して恐れる事はありません。決して罰が当る事はありません。罰を当てるという事は、自分が自分に罰を当てるという事です。そういう事もだんだんに書きます。

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それから颱風については、前に書いた事があるから分ってはいますが、又新しく書きましたから幾分かは違った点があるはずです。

御論文〔⇒颱風の霊的考察〕【註  栄光二一九号】

こういう事も知っておかなければいけません。何時も言うとおり、相応の理というものは、何でも穢れれば自然にその穢れを浄化するという、そういうものが発生するのです。ですから世の中に悪い奴が多いという事は、悪い奴が必要なのです。これは大乗的の見方ですが、人間がずるい事をして金を溜め、財産をつくる。そうするとそういうずるい事をしたものは穢れてますから、どうしてもそれを掃除しなければならないのです。そうすると泥坊が必要であり、巾着切りも空巣狙いも必要なのです。必要というよりか、悪い奴がそういうものをつくるのです。掃除をさせるようなものです。ですから悪い黴菌がわくという事は、人間が間違った事をして、毒素や膿のような物を溜めるから、どうしてもそれを掃除するものが自然に発生するのです。自然に発生して、それが伝染して伝染病や何かになって、それによって掃除するのですから、つまり言うと、人間にそういった害を与えるようなものは、害を与えるようなものを人間がつくるのです。だから人間の一切の災(ワザワイ)というものはみんな浄化作用の道具です。己が汚たない物を溜めるから、それを掃除するものがあるので、それが自然に出来るのですが、本当は自然でなくて人間がつくるのです。そこをよく知ればいろんなそういった災というものは仕方がなく、やむを得ないものです。だから九州の大水害にしても、それは人間がそういった大水を出して洗わなければならないように汚ごすからです。汚ごれを溜めるからです。従って颱風は天災ではなくて人災だという事を前に書いた事があります。凡てそういった頭で見るとよく分ります。自分が苦しみ、ナンテ不運だろうという事を嘆く前に、そういった不運やそういう事をつくるという事です。自分がこしらえるのだからして、誰を恨む事もないので、まず己を恨むよりしようがありません。今の人間はそれを知らないからして、自分の罪を棚に上げて、人が悪い、社会が悪い、教育が悪い、政治が悪い、制度が悪い、と何でも彼んでも自分以外に原因があるように考えるのです。それを又偉い学者とか偉い人が〈自分等もそう思うのですから仕方がないが〉大いにそういう事を言いふらすのです。だからみんながそう思い、そう思うから何でも彼んでも人を恨み世を恨み、始終不平満々としている。そのために自分で又罪をつくり、その罪を掃除しなければならないいろんな苦しみや何かを起こす。そこで又恨むというので、結局二進も三進も行かなくなって自殺するとか人を殺すとか、いろんな事になるのです。人を殺すという罪は、自分が霊界に行っていろんな苦しみをするという事になります。ですから根本を間違えているために、どこまでも悪い事をするのです。それと関係のある事で、もう一つ読ませます。

御論文〔⇒世のインテリ族に物申す〕【註  栄光二二○号】

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この前結核は衰弱をさせない事と、それには肩を柔らかくする事を話しましたが、無論肩を柔らかくする事が一番食欲が出ますから、胃病でも心臓病でも非常に結構なのです。心臓病は左の肩が凝ってますから、この肩を柔らかくするとまず治ります。それから他のいろいろな病気などもそれによってよくなります。今どんな人をみても頸の廻りと頭にありますが、これは何時も言うとおり毒素が肩に溜まって固まり、それが頭を使うと頸の廻りから頭に移行して其処に固まるのですからして、丁度肩が頭の一つの入口です。ですから入口をゴミだらけにするようなものです。門の所をよく掃除しないから、風が吹いてゴミが室内にはいって来るようなものです。それから肩は上半身と下半身のつなぎ目になっているわけです。それで肩を柔らかくするという事が一番肝腎なのです。そうして男の場合は肛門ですが、女は前にもう一つ穴があります。そこで頸から頭の毒が溶けると、下から出るのです。だから女のコシケなども大体頭から下がるのです。他からも下がりますが、それは少ないので、大部分は頭からです。それから男の方は赤痢、痔ですが、痔は殆んど後頭部です。それからもう一つ肝腎な事は、女というものは割合にヒステリーなどが起こります。憂欝的になるのです。イライラするとか、頭が重いとか、頭が晴れ晴れしないという事は、女は男よりか自由のないという事もありますが、しかしイライラするという事は大体夫の仕向け方が大いに原因してますが、しかし夫の仕向け方というよりか、妻君が機嫌良く夫に尽くすという事によって非常に違うわけです。ところが妻君が不承々々に扱うとか、イヤイヤお役でやるような事だと、亭主も面白くないという事が、夫婦間の事についても大いに影響し、その原因は何処にあるかというと、そういう女の人は必ず前頭部に熱があります。前頭部に熱があるとイライラするのです。ところが前頭部に熱があるという事は其処に毒があるのですが、この毒というものは何処からかというと下からです。ですから前頭部を浄霊すると共に、下の陰部も浄霊しなければならないのです。陰部を浄霊すると前頭部の熱も冷めます。そうすると気持良くなります。しかしみんな此処に気がつかないのです。これは浄霊ですから離してやるのですから何でもありません。ですからそういう場合には頭をやると共に下の方もやるという事を心得ておくのです。そうすると効果が倍になります。それから頭の中心に非常に毒が溜まりやすいのです。何時も言うとおり、後頭部は感情、前頭部は理性ですが、此処はその真中になってます。だから此処をやるという事は必要です。それからよく頭の芯が痛いとか、芯が気持が悪いという事を言う人がありますが、やっぱりこれです。肺病などにもよくありますが、肺病でどうしても熱が冷めないという事は大抵頭の熱です。ですから肺病の原因は肺にはないのです。肺は中間の機関です。頭から頸の廻りで肺病は大抵治ります。ただ肺は溶けた物が痰になって咳で出るという事になりますから、そこで衰弱しやすいのです。衰弱という事は食欲が最も関係がありますから、食欲さえ多ければ百人が百人みんな治るわけです。浄霊するだけは毒が減って行きますが、ただ衰弱で参ってしまうので、そこで肩という事になります。そういうようなわけで、病気の原因というものは大抵その部分の原因という事はありません。ただオデキや何かはその場所ですが、他の内臓の病気というものは、原因は病気の現われた所ではないのです。これは何でもそうですが、元があるのです。丁度芝居みたいなもので、舞台にいろんなものが出るということは、原因は楽屋にあるのです。楽屋で準備して、そうして舞台においてよい芝居とか悪い芝居ということになるのです。ですからそこの楽屋を見つけて、其処をやるのです。それは大体決まっているのです。ただ肺だけは何処からでも一旦肺にはいって行くのです。頭でも手でも足でも、何処の固まりでも溶ければ一旦肺にはいって痰になって出るのです。ですから肺病は胸の病と言いますが、表面に現われたのが胸だからそう思ってしまうのですが、そうではないので、体中の病と言ってもよいです。それは頸から肩から腹から背中から、溶けた毒はみんな一旦肺に行くのです。ただその場合、多く溜まっている所と少なく溜まっている所の違いはあります。そこで肺病で一番多いのは頸の廻りです。ですから私は結核というものは頸の病だと言った方がよいと思います。又頸の廻りに溜まった毒というものは必ず熱が出ます。それが溶けて痰になるのです。だから人間、頸は非常に肝腎なものです。借金も首、サラリーマンも首で心配してます。よく“首ねっこを抑さえる、首が危ぶない、バッサリと首を切る”と言って首が一番肝腎なものです。それで頸の中にも急所があります。喉頭結核は此処のが溶けて、溶けた物が肺にはいって行って、肺から出る場合に痰に毒があるから、その刺激で咽喉が痛んだりいろいろするのです。それで物が呑み込めなかったり、声が枯れたりするのは、みんな咽喉結核と言いますが、これは頸の廻りの毒が一旦肺にはいって、その痰に毒があるというものです。又頸自身の毒のために喉頭結核になるという人もあります。それからロレツが廻らない人や舌にオデキのある人は、咽喉部の毒のためです。その毒が、廻りくどい(肺を通らずに)事をしなくて直ぐに此処から出ようというのです。その場合に此処に相当固まった奴が舌に固まって、口がきけないというわけです。ですからとに角咽喉部です。それから食欲は肩と心得ていればよいのです。それから淋巴腺ですが、此処に熱が出ると前頭部に直ぐ移ります。この熱が前頭部に一番影響するのです。それは此処の毒が前頭部に始終行くのです。だから頭の悪い人は、気がふさいだり、怒りっぽかったり、気持が悪いという事は、みんなそれなのです。ですから神経衰弱とよく言いますが、これはやっぱりその原因の一番は淋巴腺です。それから中風も頸の横側の人と後頭部(延髄)の人と両方あります。その固まりが溶けて脳溢血になるのですが、こういう人は中風になっている時はそうですが、ならないうちも棒みたいな固まりがありますから直ぐ分ります。

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七月十七日

今の医学は黴菌説ですが、つまり黴菌を殺せばよいとしているのです。ところが黴菌よりもっとずつと細かいもの、顕微鏡で見えないくらいの細かいもの、無限といったものが病気の原因になるのです。ですから今の黴菌説は非常に粗いものです。それを殺そうとしているのですから、間違っているどころでなくてとんでもない事で、実に幼稚なものです。その事を書いてみました。

御論文〔⇒科学で病気は治らない〕

今読んだようなわけで、つまり今の文化が発達したというのは顕微鏡の発達が根本です。いろいろな発明発見にしても、結局細かいものが見える、今まで見えなかったものが見えるという事が根本です。そこで他の事は結構ですが、医学だけは、なにしろ相手が人間ですから、電気の機械や他のいろいろな機械の科学ではないのだからして、人間の生命というものは一番高級、上等なのです。だから細かさから言っても一番細かいのです。たとえてみれば人間の想念ですが、想念も結局細かい粒子なのです。ですからその粒子というものの細かさというものは、天文学的数字でも現わせないのです。無限微なのです。だから顕微鏡で見る何倍とか何百倍とか何万倍とか言っても、それはごく粗いものです。ごく細かいものは見えないのが本当です。やはり無限です。丁度大きくたとえてみれば直ぐ分ります。それは大空に境界線はないようなものです。いくら大空を見ても壁はありません。それは大きな方の無限です。それと同じで、小さいのも無限なのです。その無限の細かい所に病原があるのだから、顕微鏡で見て“これが病原だ”“これを殺せば治る”という事は、粗過ぎてテンデ話になりません。それを医学者は研究室にこもって一生懸命にやっているのですから、実際馬鹿げていて可哀想なくらいです。それで病気が治るとか治そうとか、ヤレ伝染病が流行るから大いに防がなければならない、どういう施設をするとか、ヤレワクチンの注射をしろとか、いろいろな事を言ってますが、神様の御目からみればテンデ可哀想なほど幼稚なのです。そこでどうすれば治るかというと、治す方の道具もやはり無限なるものをもって治さなければならないのです。それで浄霊で掌から放射される光の力というものは無限なのです。だから無限な悪いものを無限なるもので焼いてしまうという事が浄霊の原理なのです。それで火素というものは粒子には違いないが、到底粒子という名はつけられないものでしょう。一つの気体です。ですからこの力というものは大変なものです。二、三日前に読んだお蔭話で、お守をかけているとレントゲンがどうしても写らないのです。それでレントゲンに写ったものが必要なので困って、お守をとってお願いして写してもらったところが、はっきり写ったのです。そこでお守から発する光というものは大変なものなのです。この前もそういう事が二度あって栄光に出してありますが、今度は三度目です。三度ともレントゲンを遮断するという事が実験されたようなものですから、三回の実験でそうなら科学では確定したわけで、定説になったわけです。だからレントゲンの光線を遮断するというと、レントゲンというものはとに角今までの光では一番強いのです。なにしろ大抵な物は通過してしまうのです。けれども科学の力だからして無限ではありません。通過しない物もあるのです。大抵な物は通過するというのですから強いのは強いです。しかしその光線を通さないほどこっちの光は強いのだから、病原である一つの汚ないもの、悪いものくらいを殺すのは何でもありません。レントゲンでは骨を通す事はできませんが、浄霊の光は骨でも何でもドンドン通してしまいます。そういうようでこの光が如何にその効力が強いかという事が科学的にも分るわけです。それについてこれから、もっといろいろな角度から突込んで書きますが、それによって今の科学というものはごく幼稚なものだという事を浮び上がらせるつもりです。ではこの掌から出るレントゲンより強い光線は一体どういう経路を通じてかというと、無論元は神様ですが、ただ慢然と神様の光が人間の体を通すという事では説明が不充分ですから、もっと徹底した説明をしようと思ってます。今の指導者階級そういったインテリの人をだんだん分らせなければならないと思ってます。しかしそういう方面も大分首をひねる人ができて来たようですが、しかしまだなかなか容易な事ではありません。それでとに角救世教では病気が治るという事は大分知れて来たようで、お医者仲間で大問題になって来たのです。とに角一番よい事は医者が分る事です。その次にはインテリです。それについてちょっと書いてみました。

御論文〔⇒世のインテリ族に物申す〕【註  栄光二二○号】

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今書いている「お守」に対する原稿ですが、この次あたりに読ませますが、私がお守を書く場合に、丁度半紙大の紙に「光」という字を書くのですが、一枚書くのに七秒です。この間は急ぎだというので五百枚を五十分で書きました。それで普通宗教でお守などを書くというと、もう斎戒沐浴(サイカイモクヨク)して、羽織袴でチャンと御神前にぬかづいてお願いして書くものです。ところが私は、今時は暑いから上は裸です。まさか褌一つではみっともないからしませんが。それから私は、ただ光を書くだけでは退屈でいけませんから、必ずラジオを聞きながらやるのです。それで早いですから三人がかりで手伝っているのです。そして時によると左の手に煙草をくわえて、右の手で書いたりしてます。だからお守を作っているとは甚だ思えません。それで書き上がって、たたんで、三十枚を一束にして、それに私が霊を入れるのですが、この霊を入れるのは厄介なのです。割に力は全然入れないのですが、やはり相当に疲れます。だからこれは一度に沢山入れるわけにはゆきません。一回霊を入れるのに、丁度三包、九十体ずつをやるのに、一つに五分ですから十五分くらいかかります。それで丁度一ぱいです。それ以上は疲れます。しかしそれだけでレントゲン以上の力が出るのですから、ちょっと理窟はつかないくらいなものです。それで今まではそういう場合に神様にお願いしたりお祈りするのは、つまり神様と人間の方とが離れてますから、どうしてもそうしなければならないのです。ところが私は自分の腹の中に神様が居るから、私がこうやっているという事は、私の体、腹に御座る神様が道具として使っているのです。ですからそういう場合の私の腕というものはやっぱり筆と同じようなものです。筆と墨のもう一つ繋いだ元の方が腕みたいなものです。そこで他の余計な事は何も必要がないので、ただ書きさえすれば腕を通し筆を通して紙に光がはいって行くのです。そういうようなわけですから、今までの宗教の教祖という人達がやった事とは全然違うわけです。ですからキリストにしろ、天の父つまりエホバとかゼウスとか、神様にいろいろ憐みを乞うというか、そういう形式をしますが、私はそういう必要はありません。昔から言う神人合一です。神と人と別に分離していないで、一致しているのです。ですからそういった形式はしないのです。私は神様を拝まないという事はそういうわけです。拝むのでなくて拝ませるわけです。今までこういう事を言わなかったのは誤解するからです。あいつは誇大妄想狂で、頭がおかしいのだと言います。よく知っている信者の人はよいですが、第三者としてはあまりに超越しているから誤解を受けるのです。又これは信者になってチャンとなれば分りますから、それであんまり言わないのです。けれども説明してみれば今のようなわけです。そういう事を面白く書いてみようと思ってます。

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それで光についても或る程度知っておく必要があります。要するに、つまり光と光の戦いです。邪神の光と神様の光との戦いです。邪神の光というが、邪神にも光はあるのです。今のレントゲンの光は邪神の光です。ですから光の喧嘩です。ところがあれは邪神の作ったものだが、邪神にもやっぱり偉いのと偉くないのがあって、大体神様の方の光を押さえる偽(ニセ)の光というものがあるのです。しかし根本において違うわけです。では邪神の光はどういう働きをするかというと、固める働きをします。今までのいろんな事、霊術師とか宗教というのは固める力なのです。固める光です。つまり邪の光、邪光です。だから今までは信心してよく病気が治る場合もありますが、それは固める治りであって、溶かす治りではないから、御利益があったと喜んでいても、こっちで治すのと違い、いろんな排泄物は出ないから、一時治るのであって、根本において医学と変りはありません。物質的光です。だから固める光というが、固める光というのは月の神様から出た光です。ところがだんだん霊界が昼間になって来ると固まらなくなって来たのです。そこで既成宗教というのはだんだん病気が治らなくなって来たというので、どんな宗教でもみんな病院を作った原因なのです。そういうようで、これからだんだん霊界が明かるくなるに従っていよいよ治らなくなるという事は、最近医学の方でも大分現われて来てます。最近の新聞に出てますが、レントゲンを扱った人がだんだん死ぬというのです。その死に方がだんだん早くなります。結局少なくとも、もう数年ならずして扱う人は無くなるかと思います。それまではレントゲンというものは固める力ですから、実によく固まります。それは石のように固まってしまいます。私が何時か治療した人で、瘰癧の人でレントゲンで固めて、砂利がはいっているように固まってます。その時はなかなか溶けなかったですが、今は神様の溶かす力が強くなったからそうでもありませんが、その固める力は素晴らしいものです。ですから今までの信仰でも放射線療法でも、固める事が効果があるという事で用いられたのです。それがだんだん固まらなくなり、それでレントゲンを扱う人がそうなるという事は、固めたものが溶けるから死んでしまうのです。それから溶ける前には一層固まるという事もあるので、これは心得ておかなければなりません。大抵肩などが溶ける前には余計固まるのです。それから浄霊してかえって固まる事があります。これは或る程度まで固まってから溶けるという事が一つの原則なのです。それは少ないですが、ごく固まりきったものは溶けるのに楽なのです。というのは固まりきると、強い熱が出るのです。それからだとよく溶けるのです。ですから溶けるのも限度があるのです。或る程度まで固まって、それから溶けるのです。病気に対してのそういう事もだんだんに説明してゆきます。

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この間肩を柔らかくしろという事を言いましたが、それはつまり食欲が一番出るという事なのですが、どのくらい柔らかくすればよいかというと、触ってみて、或いは本人でも分りますから、本人が触ってみて、フカフカになればよいのですが、ところがそうなるにはなかなか大変です。何処かしらに必ずあるものです。あるばかりではないので、柔らかい所はないくらいなものです。それがうまく一ぱいに固まってますから、それが当り前のように思うのです。それで或る程度半分くらいに溶けて来ると食欲が大いに増えて来ます。そうすると肥って来ます。痩せているという事は肩です。“肥るのも痩せるのも自由自在だ”という事を前に言った事がありますが、それは肩を柔らかくする事だけで肥ります。それが分れば痩せている人は助かります。これは大体人にやってもらわなくても、自分で溶かすと溶けます。手をくっつけないように少し浮かしてやるのです。私も始終やっていますから大分柔らかくなりました。それから上からやってもよいです。とに角食欲さえあれば結局何でも治ります。浄霊すればどんな病気でも治るに決まっているので、ただ治るまでに衰弱で倒れるので、衰弱は食事ですから、そこでこれによって衰弱を防ぐという事になりますから、根本的の事です。それから一番厄介なのは必ず此処(延髄)に固まりがあるので、此処にない人というのはありません。多い少ないはありますが、必ず棒のような人とか石がはいっているようなのがあります。全部柔らかいという人はありません。だから今の人は全部病人です。大体今の人で長生しても大抵七十から八十が長生の方ですが、ところがそういった固まりが無くなると百以上は必ず生きるのです。だから実に大したものなのです。寿命を延ばす事くらいは何でもありません。そこであんまり話がうま過ぎるので、かえつて先方は本当にしないでいるのです。そういうわけで此処(延髄)です。それから近眼、トラホームという目の病気は後頭部に必ず固まりがありますから、これを溶かせば盲目でも必ず見えるようになります。此処に固まっているのはやっぱり肩から来ます。此処に固まりがあって、こういうように肩から来ます。そういうように固まっている人で目の見えない人は随分あります。そういう人はまず目の後、と言ったところで中心がありますから、その交錯した中心の固まりをとれば必ず見えて来ます。ただそれを溶かすには相当かかります。これはできるだけ力を抜いて中心を狙ってやると幾分ずつ溶けて来るから見えて来ます。だから盲目を治すのも別に難かしい事はありません。それから耳では、耳鳴りというのは多いですが、耳鳴りは此処(延髄、頸筋)に必ず固まりがあります。それから中耳炎をやった人で聞こえが悪いというのは耳下腺です。これが中耳炎の筋ですから、こういう所に固まりが残ってますから、それを溶かせばよいのです。それからどんな人でも前頭部に熱があります。脳貧血の人は冷たいですが、普通の人は必ず熱があります。この熱は或る程度はやむを得ませんが、触ってみて芯に熱のある人と上面に熱のある人と両方あります。触ってみて、芯にある人はどこまでも熱いですが、上面の人は何時までも感じません。本当から言えば上面の熱もやっぱりいけませんが、そういうのは別に何でもないと言ってよいです。やっぱりいろんな事を考えると毒が此処に集まるのです。首から上に毒がなければ幾ら考えても集まりませんが、そういう人はないから、いろいろ考えたり心配すると前頭部に毒が集まるのです。それで男はそうでもないが、女のヤキモチは其処に一番集まります。だからヤキモチでなくてヤキ頭です。それからこういう事を考えなければならないのです。人間は上半身と下半身は天地になってますから、天底(額の中央)が丁度女の前にあたる事になってます。もう一層突込んで話をすると、性的の意味は前頭部の此処に関係があるのです。これは男子に多い事ですが、ストリップを見ると、目から前頭部のこの中を刺激するのです。そうするとこれが直ぐに下に行くのです。これは性科学です。男子の性慾というのは、原因は前頭部にあるのです。〈神様の方の医学もやっぱり今流行の性科学の方なのです〉ですから前頭部に熱がある人はやはり下部を浄霊するという事が肝腎なのです。どうも頭痛がして頭が工合が悪いという人は今の下部の急所をやると治ります。ですからこれは天地になっているわけです。やはり病気でも急所があります。つまり楽屋と舞台があります。病気は舞台の方で、原因は楽屋の方です。それで楽屋の方をやっつけなければ根本的には治らないわけです。ですから目の悪いので、此処(後頭部)に集まるこの毒というものは肩です。それで肩の毒というものは大体は腎臓です。薬毒とかいろいろな物を人間の体に入れると、その毒が一旦腎臓に行って、腎臓で処理されるのです。というのは腎臓で小便によって外に出すという働きになるのです。そこで腎臓で処理されない分、それは薬毒とかそういった不自然な物は腎臓に行っても処理されないので余るのです。その余った物がだんだん肩に来るのです。人間は凝りますが、それは腕を使わないから肩に来るのです。足は凝りませんが、これは始終歩いているからです。じっとして手を使うとか、そういうために肩に来るのです。ところが手を始終動かしているとそうでもないが、人間は足だけしか使わないから、肩に来るのです。そして頭を使ったりいろんな道具を使いますから、頸や頭に来るのです。それでこの辺の浄化によって溶けて下に下がるといろんな病気になるのです。けれども他の肝臓とか膵臓とか腸の病というのは又違います。それは一旦胃にはいった物が腎臓に行かないうちに、その辺に浸透して行って固まるわけです。これは次に話しますが、今のは大体肩を中心としたいろんな事をお話したわけです。まだいろいろありますが、追々話してゆきます。

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七月二十五日

何時も言っている事ですが、新宗教に対しての“科学的でない”という事についてですが、この間の子供の睾丸が出来た事などは大変な奇蹟ですから、世界の医学界に知らせたいのです。あれを知らせないという事は非常に惜しいのです。医学の方では、心臓の手術が出来たとか、吾々から見ればつまらないへみたいな事を大したもののように新聞などにデカデカと書いてます。だからこっちの、それの百倍にもあたる奇蹟を新聞に出したらよいだろうと思って、毎日、読売にも言ったのです。毎日ではいろいろ協議したそうですが、まだ出ないところをみると結局出さないように決まったのでしょう。それで本人を調査に行くとか言ってましたが、それもやらなかったようです。ところで新聞の方には〈法規的ではないのでしょうが〉一つの不文律のようなものがあるのです。それは日刊新聞、普通新聞では宗教の宣伝にわたるような事は書かないという事になっているのです。この事は前から聞いてますが、おそらくそのためだろうと思います。結局救世教の宣伝になるからというのです。しかし宗教の宣伝になるとかならないとか言うが、この間の奇蹟というのはそんなチッポケな事ではありません。それこそ医学的どころでなく、世界的の大問題になるべき事です。子供の睾丸から陰茎がすっかり取れてしまったのが、自然に生えて元どおりに育ったのですから、人類始まって以来の奇蹟ですが、要するに宗教宣伝になるというために出さないのでしょう。そうすると文明というものは、宗教とか科学とか言って一つの城廓をつくって、その中に閉籠(トジコモ)って、敵視しているようです。新聞社の方は科学の城廓に閉籠って、宗教という敵の利益になるような事は絶対にやらない事になるからして、考えてみるとおかしな話です。けれどもそれも強(アナガ)ち全面的にケシカランとは言えません。というのは宗教そのものが実に科学以下のものが沢山あります。だから科学の方で軽蔑して、かえって宗教よりも以上の科学を微力なような事を言ったりする事はけしからんと言うのです。要するに科学も宗教であって、ただ形が違うだけです。ですから自分の方の科学宗教を守らんがために〈科学と言っても唯物科学ですから〉唯物科学の城廓を固守し、唯心科学の方を葬ろうとしたり、それから軽蔑して、それに乗るなという事を警告するというので、この間のラジオはそれなのです。ところが本当から言うと唯物科学も宗教もないので、あらゆるものを冷静に批判して、良いものをとって悪いものを捨てるというのが本当ですが、まだ人間の頭脳がそこまで行ってないのです。まだ小乗的文化の殻に閉篭って、そうしてアップアップやっているのですから、われわれからみれば実に可哀想なくらいです。

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医学の方ですが、医学の今の建前(タテマエ)というものは、黴菌即ち微生物が病気の原因であり、それを殺菌するという事によって病気は治るという建前になっていて、結核にしても結核菌を殺す薬、“どうすれば殺せるか”という事を研究しているのですが、このくらい馬鹿々々しい事はありません。体の中にあるものだけを殺すという事は、常識だけで考えてもできるはずはありません。私は前に書いたが、結核菌を殺すには人間を殺せば、それは一匹残らず死にます。そういう馬鹿げた事で世界中の学者が頭を悩めているのですから、宗教の迷信と同じようなものです。しかし宗教の方でも、そのとんでもない医学迷信よりかもっと以下のものが多いです。何となれば病院を造ってます。自分達では病気は治らない、医学でなければ治らないというのですから、医学よりもっと以下なのです。ですから医学が軽蔑するのも尤もかも知れません。医学の方を信じ、医学に手を合わせるのですから、医学の方が教主様になるわけです。そこで医学の一番の根本である黴菌について書いてみました。この前にも読みましたが、まだ分り難いと思ったので、もっと分りよく念を入れて書き直しました。これは簡単な事柄でありながら、なかなか難かしいのです。そこをもう一層深く突込んだのと、両方を読ませます。

御論文〔⇒科学で病気は治らない〕〔⇒超科学〕

これはなかなかややこしいのですが、今読んだように今の科学は素粒子、つまりごく小さい細胞ですが、それは分ったのです。それで今言う物性論というのは、それよりもっと細かい、顕微鏡で掴めないものがあるというのです。一つの理論物理学ですから、これは推理、想像し、実験によって確認されるのですが、それを実験する方法がないのです。というのは、もっと細かい所が見える顕微鏡でなければならないが、そういう顕微鏡は何時作られるか分りませんから、そうすると科学の研究は、今読んだとおり壁にぶつかる手前に来たわけです。それでその次はこうだという事をこれから書きますが、これが出来上ったら湯川博士に送ってやろうと思ってますが、理解できるかできないか分らないが、少なくともヒントを与える事にはなります。ですから世界のそういう偉い哲学者と言っても、私からみればずっと手前のものです。ところが今まで駈け出していたのが息が切れて、これから先は駈け出せないという時期がもうじき来るのです。それでこっちで乗物を与えてやるのです。これに乗れば何処まででも行けるのです。ところでここで始末が悪いのは、その乗物というのは宗教なのですから、科学者は宗教と科学とは別物に思い、或いは宗教の方が下だと思っているのです。しかし偉い科学者はそうは思っていないらしいです。湯川さんなどは宗教に対して相当の認識を持っているようです。パスツールというのは、あの時代に神という事を余程分っていたのです。あの人達は科学と哲学と両方やっていたようですが、パスツールはコッホより先に黴菌を発見した人ですから偉い人には違いありません。そうして結局最後は神だ、それでなければ解決はつかないという事を言っています。しかし一般の科学者はまだまだそこまで行ってないどころか、そういったような目に見えない科学以外のものは全部否定するというのですから、浄霊で治るとかいろいろ言っても、非科学的だと言うのです。ですからそういった科学迷信を大いに自慢しているわけです。そういうようなわけで、ただ有力な哲学者乃至科学者は、結局神、唯心論に行かなければ解決できないという事は朧げながら思っているが、そうかと言ってはっきり掴む事はできないのです。という事は、はっきり説明する人がなかったのです。又説明だけでは、如何に巧妙に言ったところで信ずるという事はできません。ところが私の方では、こうやれば病気が治るという、要するに実験を見せるのですから信じないわけにはゆきません。ただそこまで彼等を導くのが大変です。というのは、この門の中にあるこの扉を開ければ大変な宝があると言っても、そんな事はあるものか、絶対にないと思い込んで頑張っているのですから、その扉の中に誘なうのが大変な事です。しかしそれは神様がやられているのですから、神様がどんなうまい手を打つか分らないし、又手を打つに違いないですから、結論として時の問題です。時の問題と言ったところでそう長い事はありません。若しまだ長いとすると、だんだん浄化が旺盛になってくると死ぬ人ばかり多くなってくるから、人類は死ぬ人が多くなりますから、余程急がなければならないのです。それは分ってますが、もう少したったらはっきり言いますが、私もやっぱりそれを待っているのです。日に月に霊界ではだんだん変化しつつあるのです。それは実に面白いのです。その根本だけは話してもよいですが、その根本というのは力の根原です。それは何かというと太陽の黒点なのです。太陽の黒点が宇宙の支配力の中心なのです。あそこから力が出るのです。それで (ス)のチョンが太陽の黒点なのです。これが大変なものなのです。ですから浄霊の力の元は太陽の黒点から来るのです。だから面白いとも言えます。それで学者もやっぱり昔から太陽の黒点を研究してますが、遠過ぎてそれは到底分りません。私は何時か科学博物館で望遠鏡で見たことがありますが、中に幾つも黒点が大きい小さいのが混じってます。それを綜合してみるとチョンになるわけですが、それが何だという事は、学者がいくら想像してみても、それは到底分るはずはありません。それで昼間の世界ということは黒点が変化するのです。それで太陽の熱というものは、太陽の黒点から放射されている一つのエネルギーですが、火力というものは太陽よりか黒点の方がもっと強いので、それは神秘なものです。その黒点の代表者が主神です。そこから私の体に光が来ているのです。だから病気などを治すのは何でもありませんし、大体病気というのは黴菌が今は二十万倍まで見えるというが、これが千万倍、一億万倍となっても、もっと細かいのです。それは何だというと無限なのです。これは丁度大空の広さが無限なのと同じように、小さいものも又無限なのです。ですからして病原というのは無限なのですから、顕微鏡が発達しようと、どんな機械が出来ようと、それは分りません。それは丁度大空の壁を発見するようなものですから、分るはずがありません。ですから医学が科学的に研究しても何にもならないので、害を与えるようなものです。それを分らせるように今書いているのですが、そこまで信じさせるのは容易なものではありません。ただ神様をどうしても分らなければならないというような事がいずれ始まりますから、そうすれば何でもありません。というのは霊界における太陽の精気、黒点の精気が非常に強くなりますから。あれは学問の方では十一年目に黒点が強く現われるという事になってますが、黒点が強く現われるという事は、これが十一年目にこういうように開くので、強くなるのです。あらゆるものは一定していないのです。即ち呼吸運動が行われているのです。太陽もやはり呼吸運動が行われているのです。十一年目に一回行うのです。拡がったり、つぼまったりする呼吸です。それは何でもそうです。太陽でも月でも地球でも呼吸運動をして、それによっていろんな変化が起こるのです。春夏秋冬の四季も呼吸運動の小さなものです。一年に一度の呼吸ですが、これが十一年目に一度、百年目に一度、千年に一度という大きなものもあります。哲学のような天文学のような話になって、大学の講義のようになりましたが、もっとも神霊大学の講義かも知れません。それ以上のところまで知る必要はないが、ざっと話してみればそういうようなものです。

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それから病気の話を少ししようと思いますが、この間“肩の固いのを柔らかくしなければいけない”という事を言いましたが、肩を柔らかくするのに、よく間違える事があります。というのは肩をもむという事を言いますが、もんで柔らかくするのは按摩です。ところが肩をもむほど余計固くなるのです。ですから按摩を始終やっている人はだんだん肩が凝るようになります。これは私も若い時分に経験がありますが、私は按摩が好きで始終もましてましたら、だんだん固くなって、普通の按摩ではきかないくらいになったのです。それは私が大森に居た時ですが、そこの按摩の家には、なんでも十人前後の按摩が始終いたのですが、そこでは私が一番強いのです。誰が来ても私の気に入らないのです。そうすると、そこで一番強いのがいて、みんなが相談して“一つ岡田の大将を誰かやっつけないか”というので、オレがやろうというのが居て、今夜行って降参させようという相談が一決して来たのです。二十幾つかの者で、それがやったところがばかによい気持なのです。それで“君はうまい、君くらい上手い者はいない”と褒めたのです。それで帰って、始終私のところに来る男に“いや駄目だ、オレは一生懸命やったが、よい気持だと褒めた。強過ぎると言うかと思ったら、気持がよいというくらいでは駄目だ”とカブトをぬいだのです。そういうようだったのです。その時分は分らなかったのですが、今考えると体的にやるから駄目なのです。それで信仰をするようになってからそういう事が分ったので、ごく柔らかい按摩をしました。家の奉仕の若い女の人の素人もみをやりました。そうしているとだんだん柔らかくなって来たのです。それで浄霊を知るようになってから、浄霊でよくなって来て、この頃はもんでもらっても簡単にちょっとやるくらいで、それにいい気持でなくなって来ました。ですからもうじきもむ事もいらなくなるわけです。無論肩を柔らかくするという事も、固いほど力を入れないのです。ところが固いほど力を入れたがるのです。凡て力を入れないのがよいのですが、固いと、ちょっと力を入れたい気になりますから、それを注意して、これ以上力を抜けないというところまで力を抜くのです。そうすると固い肩でも柔らかくなって来ます。それで一番は結核によいです。それから心臓病によいです。心臓病によければ喘息にもよいし、それから食欲が出ますから、胃によいから、消化不良などは忽ち治ってしまいます。それから胃が良くなれば肝臓も膵臓も良くなり、胆嚢も良くなります。それで下の方は何と言っても何時も言うとおり尾 骨(ビテイコツ)の附近を浄霊すると、腰から下の、足などの重いのや、くたびれるのや、息の切れるのに一番効果があります。今話したのが急所です。

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それから近頃は信者の女の人でだんだん化粧しなくなって来ました。オシロイとかクリームをつけない人が増えて来ました。今にみんながそうなるでしょうが、これを少なくとも半年とか一年とやっていると非常にきれいになります。化粧代は要らなくなるし、大体こんな事(化粧の手間)をする必要はありません。それで人に招ばれた時など、ちょっと便所とかに行ってこうやりますが、あれは一つの不正直な行為です。一つの欺瞞行為です。より美しく見せようというのは悪いという事ではないが、しかし実価以上のものに見せようというので、善意の欺瞞です。罪にならない犯罪です。浄霊をやっていると、化粧を止めて当分は真黒で、それこそ南洋の土人か、アメリカのニグロみたいに見えますが、〈私もこの間見てびっくりした人がありますが、これはオシロイを止めたせいだなと思いましたが、それは覚悟しなければなりません〉その代りそれを過ぎると実にきれいになります。それも気持のよいきれいさです。それに始終浄化して血がきれいになりますから、きれいな血が皮膚から透けて見えるのですから、実に感じのよいきれいさです。だから本当は今の世の中に美人というのは居ません。それから形も違うようです。やっぱり性格において、女らしい優しさというのが無くなってます。何でも彼んでも理窟をつけて、男女同権とか言って威張るのですが、高慢な者が出てます。というは、明治、大正時代の女の写真を見ると美しいです。ところが今の女の写真は美しくありません。ブツブツが出たり皮膚が荒れたりで、化粧しなければ見られたものではありません。化粧しないのを側で見たら、美ではなく醜です。だからつまり自然の美、天然の美というものをだんだん失ったわけです。ですからこれを再び自然の美に復活するという事が必要なわけです。それからもう一つは、今のクリームなどはいろんな薬剤を使いますが、それがだんだん強くなってます。この間新聞に出てましたが、アメリカの婦人は顔の皮膚が荒れて困っているという事が書いてありましたが、アメリカは余計強い薬を入れるからに違いないと思いました。そういうようですから、信者の女の人はそういったような事をよく知っていれば、つけるのも少なくなるからよいですが、ずっと少なくして、或る時期に行ったら断然止めて、自然の美人になった方がよいと思います。時間と金の非常な経済になって、夫の愛も増えるというわけですから、一挙三得というわけです。

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七月二十六日

今「医学革命の書」という本を書いてますが、その中でちょっと変った事を書きましたから、それを読ませます。

御論文〔⇒科学で病気は治らない〕

今読んだとおり医学というものは実に馬鹿々々しいものなのです。つまり病気というものは何だか全然分らないでいて、だろうくらいでやっているのです。“この薬が効くだろう”とか“薬で病気が治るだろう”という甚だ確信のない事をやっているのですからして、これが本当に分ったら“とんでもない代物”という事になります。そうして人間を病気で苦しめて命までまき上げるのですから、全くとんでもない代物です。これをだんだんはっきり説いて世界的に知らせるわけなのです。この間ラジオで聞きましたが、湯川博士を囲んでの座談会があったその録音ですが、それについてちょっと面白い事があるので読ませます。

御論文〔⇒超科学〕

この事はちょっと難かしいのですが、一とおりは知っておかないと、ああいう事を聞いたり読んだりした時に全然分らなくてはしようがありませんから。今の科学で最も進歩した説は素粒子論というのですが、素粒子というのはうまい言葉を使ってます。「素」というのは粗いという事で、つまりまだ仕上げができてないというわけです。物質の最も細かい、その物質の粒子を素粒子と言うのです。ところでこれも最初は湯川博士が理論はそうだという考え方だったのですが、宇宙線撮影の時に、写真に六つか七つ写って、それが素粒子だという事になったのです。次に物性というのは、物の性、つまりわれわれから言うと霊で、一つの気体です。これは多分そういうものがあるのだろうという想像なのです。それが粒子科学の今一番進歩した説なのです。ところがその物性粒子よりまだまだもっと細かいものがいくらでもあるので、さっき読んだとおり無限なのです。そこで今の物性粒子より先に行くと科学では分らない、というよりか、どうする事もできないのです。つまり顕微鏡がもっとウンと発達しない限りしようがありません。そうなると一つの気体になるのだから、気体は科学でははっきり掴む事はできないので、“多分あるべきだ”という所まではゆくのですが、ところが気体よりかもっと奥があるのです。つまり霊、霊界と言って、これが何段にもなっているのです。そこで霊にも上中下といろいろあるのです。その霊の根本というのは光なのです。光の根本は太陽なのです。太陽の光の根本というのは、太陽の黒点なのです。これがつまり大宇宙の種の芯のようなものです。しかし天文学ではこれはとても分らないのです。黒点は一つに見えますが、幾つもあるものです。望遠鏡で見るとわかりますが、私は前に科学博物館で見た事がありますが、幾つも散らばってますが、それが纒まつて人間に見えるのが黒点です。この黒点というのが大変なものです。つまりこれが太陽を支配しているものです。太陽の中心です。それで (ス)のチョンが黒点なのです。それで浄霊で病気が治るこの光は黒点から出ているものです。こういう事は説明すれば切りがないし、又そんなに深い所まで知る必要はないのだから、それだけ知っていればよいわけです。今言ったとおり科学の方ではその霊を認識しなければならないという手前にまで来ているのです。ですから科学者の方では、まだ研究する問題が非常に多いという事を、湯川博士なども言ってますが、だんだん研究問題が増えて困っていると言ってます。それから又一方の科学者は、実存主義の哲学の方ですが〈そこまでゆくと哲学も科学と同じですが〉その方は、もうこれ以上はしようがないと行詰っている一派があります。両方とも間違ってはいませんが、むしろ行詰った方が先見の明ありと言えます。その科学が行詰ったその先はどうだという事を書きますが、書いたら湯川博士にも送るつもりですが、どのくらい分るか、分らないか、それは未定ですが、少なくともヒントは得られると思います。それが分れば、浄霊で病気が治るという事は科学で充分説明ができます。ただこっちの方の科学は現代の科学よりずっと進んだものです。そこで薬や機械で病気を治すという事は、実に低級な未開人的なものです。それを薬などを有難がってのむという事は、これが二十一世紀ぐらいになってみると、二十世紀の奴はナンテ幼稚なものだったか、実際あの時分に文明とか文化と言ったが、実際哀れなものだと言って笑う事になります。ただそれを咀嚼するだけの頭脳が今の人にはできてないから、なかなか難かしいのです。けれどもやはり真理ですから、一時は分らなくても結局は分る事は間違いありません。ただそれまで時を要しますが、それを証拠立てるためにこうやって病気が治るという事を見せているというわけですから、その点から言えばそんなに難かしくはありません。ですからそういう意味から言っても、今までの宗教というものは幼稚なものです。ですから本当を言えばキリストでも釈迦でも、それはまだまだごく子供みたいなもので、幼稚なものです。しかしその時分にはやはりそれほど深い所や高い所を人間に知らせる必要がなかったから、あの時代の人間にはああいうような説き方でよかったのですが、もうそんな事を言っては追いつかないからして、結局時がそこまで進んだわけです。文化がここまで進んだという事は、もうそういう事も知らせなければならないという意味もあります。他に悪魔の方の関係もありますが、それは別の話になりますが、今は科学、文化の発達の先をお話ししたわけです。そういうわけですから、もう近い将来、或る時期に行くとだんだん分って来ます。

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この間聞いた話ですが、最近アメリカでは“今の医学は駄目だ。医学でないもの、そういった薬とか機械を使わないで治す方法を研究しなければならない”と言っている一派ができたそうですが、大分近付きつつあるわけです。ハワイは大分素晴らしい成績で、来月あたり樋口さんはアメリカに行く事になってますが、しかしいろいろとなかなか複雑な事情がありますから、簡単にはゆかないが、神様がよい工合にされるだろうと思ってます。今アメリカの人に分らせるのが一番手取り早いですから、神様は予想もつかないような手を打つに違いないと思います。そういうようで、もう一息のところです。

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それから浄化も、本当の浄化が強くなって病人が至る所に続々出て、死ぬ人が大変だという事も、大体その時期は分ってますが、まだもう数年くらいかかるらしいです。霊界が明かるくなるその順序から考えてみると、少なくとも二、三年先になって著しくなり、はっきりするというような順序になってきつつあります。これは最近はっきり分りました。ですから結局今は神様はその準備を抜目なくされているのです。今読んだ論文などもその準備のうちの一つです。これらは時の進むに従って深い所やはっきりした言い方をします。それは分ってますが、文章に書くようにはっきりするのは、やはり時が来るとそうなってくるのです。ですからとに角面白いものです。それで神様の方は早過ぎもせず遅過ぎもせず、丁度うまい工合にやるのです。

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それからこの間も言ったとおり、肩の固いのを柔らかくするについて注意しなければならない事は、肩の固いというが肩の凝りは、昔から凝ると按摩でもむとか、普通よく叩いたりしますが、そういう頭があるために浄霊の場合も力がはいりやすいのです。ところが肩の凝りというのが一番固いのですからして、特にその力を抜かなければいけません。それはどれでも力を抜かなければいけないが、肩はどうも力を入れたい気分になりますから、それを逆に、肩が固いほど力を抜くと効果があり柔らかくなります。私も経験があります。始終按摩をやってましたが、按摩をやるほど、一時は気持がよいですが、後が凝ります。ですからだんだん強くなります。それに気がついてからは素人の女中にもませるようにしたために、それからはかえってだんだん凝らなくなりました。そういうようで、力を入れるのやもむのと反対に、力を入れずに柔らかくするというのが一番なのです。それでむしろ後から、凝りの中心辺りを狙ってやると、割合に溶けます。そうすると、この間も言ったとおり一番は食欲が非常に増えます。だから肺病なら衰弱を非常に少なくする事になります。それから消化不良とか胃下垂とか胃痙攣とかにも非常に効果があります。だから上半身の病気は肩を柔らかくするという事が一番よいという事を知って、肩を中心にやるとよいです。それから次は頸の廻りですが、特に延髄附近から淋巴腺、此処は大いにやらなければなりません。この間面白い事がありましたが、舌がつりロレツの廻らない人ですが、この原因が鼻の奥にあります。舌がつるのは普通は此処(顎下)で、横からつるのが普通ですが、縦につるのがあります。それは医学で言うアデノイドという所の辺からつるのです。ですからそういうのは、此処(鼻と口の真中の奥)と後の真中をやると、そのつるのがずっとよくなります。だからその原因というものは実に案外な所にあるものです。それから足や腰の悪い人で、頸をやってから良くなる人も沢山あります。上半身は今言うとおり肩を中心にするのです。下半身は何と言っても腰の真中で其処をやると足がとても軽くなります。又息切れもとてもよくなります。これは私自身の経験がありますが、前には坂を上ったりすると大分息が切れるのです。原因は肋間などはそれほど関係はないようだから、これはおかしいと自分で、今言う腰の尾 骨(ビテイコツ)の附近を浄霊したところが、足が非常に軽くなって息が切れなくなったのです。ですから今でも、箱根の山は坂が沢山ありますが、上るのに私はとても速いのです。若い人には負けません。しかし今の若い人はもっと酷いのがいて、私の方で加減してやっているのです。“明主様はとてもお速いです。追いつかない”と言う人がありますから、“それは年のせいだ”と言うのです。腰の此処をやるだけでそんなに違います。

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それからもう一つは女の人の化粧ですが、これでいろいろな事があるのです。第一は、化粧品つまりオシロイやクリームを止めると、半年乃至一年は真黒で、南洋の土人みたいになる事がありますが、それを我慢して通り越すと非常にきれいになります。これはこの間のお蔭話にもありましたが、これは化粧できれいになったのと違って、透きとおってきれいなのです。それからもう一つは、近頃の化粧品はいろんな薬毒がはいってますから、それがしみ込んで行って、顔の皮膚病が起こる人が随分あります。それから昔から逆上(ノボセ)性と言って、逆上せると顔が熱くなりますが、これは字で書いても逆上ですから、下から血が上るようですが、そうではないので、顔に浄化が起こって熱くなるのです。これも昔からオシロイはつけており、その時分のオシロイというのは非常に鉛を使います。それで此処に浄化が起こって熱くなるのです。それからもう一つ面白いのは或る立派な中教会長で、幾らか痛みもありますが歯がグラグラになるというので私が浄霊してやりました。それから顔が非常に熱くて熱があるのです。それから熱をとるために浄霊すると歯がだんだん締まって来ました。そうすると歯のグラグラになるのは化粧品中毒なのです。実に恐ろしいものです。これは歯医者に行ったら、全部抜いて総入歯にしてしまうところでした。それからもっと恐ろしいのは、最近の事で、大分年をとった人ですがパーマネントをかけに行って変な薬をつけてもらったのです。尤も近頃は変な薬を使いますが、それが頭にしみ込んだのですが、そのしみ込んだ痛さにびっくりしたのです。それからだんだん浄化が起こって、浄霊しても効かないのだそうです。それでいろんな症状が起こって、霊的ではないかと、私の所に聞きに来ましたが、聞いてみるとパーマネントの中毒に違いないので、或る一定の日数がたって命に別条がなければ大丈夫だ、という事を言ってやりましたが、それから二、三日たって死にました。これも古い人です。ですから近頃はだんだん強い薬になって来たために、とんでもない事になって来たようです。だからして化粧品をつけないという事と、パーマなども薬を使わないでやってもらえばよいです。これは電気でちぢらせるだけですから、薬を使わなくてもできるのです。ただ長持ちをするというために使うのでしょう。とに角化粧品を止めるようにすると、とてもきれいになります。少しの辛抱です。それに大体お化粧するのは時間がかかるために、それは大変な損です。それからあれは又、夫婦喧嘩の一つの原因になります。私も経験がありますが、玄関で待っていて、何時までたっても出て来ないので、あんまり遅いから何をしているかと見ると、鏡台にかじりついて、こうやったりああやったり、自分の気に入るまでやってます。それから何処かに行って、劇場などで便所に行って幕が開いても出て来ないので行ってみると、一生懸命顔をたたいているのです。ですから女の化粧というのは一種の罪悪です。尤も根本はつまり人工的にきれいに見せようというのですが、それを昔から女の身仕舞とか何とか言って、女の道徳のように思ってますが、それはそういう理窟もあるけれども、実際言うとあれは誤魔化しで、一種の欺瞞行為です。これが顔だからよいようなものの、さもなければ、馬鹿な者が利巧に見せようとか、金のない者が金持に見せようというのと理窟は同じになります。大体女は暖かい心になる事です。そこで血がきれいになれば感じが良くなりますから、ただ皮膚だけを真白にしたところで、それよりか感じのよい方がかえってよいです。妙な話になりましたが、結局男でも女でも、感じがよいのが一番です。それは上面(ウワツラ)のきれいという事は、芸者とかパンパンとか女郎という商売女にはよいでしょうが、始終附合うのは感じがよいというのが厭(ア)きません。そこで芯からの美しさです。私はただきれいだけではさっぱり魅力はありません。煽(オダテ)るわけではないが、やはり信者の人は実際感じがよいです。私は随分不思議に思う事がありますが、公平に有りのままを言うと、顔の形はあんまり感心しないのがありますが、その人から受ける感じが非常によいので、不思議なものだなと思う事があります。そういうようで、化粧品も一つの薬毒ですから、そこで急に止めるというわけにはゆかないが、だんだん少なくして、ついには止めるという漸進的手段をとったらよいと思います。その結果は大いにプラスになると思います。現に化粧品を止めたためにきれいになってよかったと言って喜んでいる人があります。しかし薬毒を治すのと同じようで、一時的の事は仕方がありません。それがために利益するのは今言ったとおり大変なものですから、これがだんだん世の中に拡がるに従って、いろんな点に利益があると思います。こういう事もミロクの世の一つの条件かもしれません。

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七月二十七日

医学については、分るようにいろいろな説き方をしてますが、「医学革命の書」に出す原稿で、これは又別の面から説いてみました。人によっては、かえって分りよいと思って書いてみました。

御論文〔⇒科学で病気は治らない〕

固苦しくて学校の教科書のようでしたが、少し面白いのを読ませます。

御論文〔⇒御守から出る光波〕

これは科学的に言っても分りますが、最初に読んだのにあった微粒子というものが、科学で証明できると言っても、科学の理論です。しかし理論でもなお分らない事がありますが、それについてこれを読むと、なお分ります。

御論文〔⇒超科学〕

これは大学以上の講義です。今読んだとおり、今の科学というものは実にお粗末なものです。他の科学は大分進んでますが、特に医学に限っては、まるっきり子供瞞ましくらいなものです。それに貴重な命を任せるのですから、その危ぶない事と言ったら、実にヒヤヒヤします。大本教のお筆先に“今の世は井戸の端に茶碗をおいた如くで、危なうて神は見ておれんぞよ”とありますが、うまい事を言ってます。それで今の医学は黴菌説で、あらゆる病原は黴菌としているのです。それで黴菌というものは非常に小さいものと思っていますが、医学で見ているのは非常に大きなもので、まだまだ何処までも小さいものです。さっき読んだとおり至大無外、至小無内というので、小さいも大きいも無限なのです。大空にたとえてみれば、大空の大きさというのは限りがありませんが、これは科学者も分っているとみえて研究しませんが、しかし顕微鏡の研究の事を考えると、顕微鏡で黴菌を研究するというのは、大空の囲いが何処かにあるに違いないと研究しているのと同じです。ただ黴菌の小さいのを発見すればよいと思って顕微鏡でやっているのですが、何処まで行っても発見されるはずがありません。それは大空の壁と微生物の小さいのと同じ事なのですから、無駄な事を命がけでやっているのですから、勿体無い話です。つまり掌から出す光はレントゲンが通らないという事は、光が細かいからです。レントゲンの方はもっと粗いのです。そうして力というものは細かいほど強いのであり、粗いほど力が無いのです。ですから何馬力と言って、馬力というのは、馬の力ですが、馬というあんなに大きなものの力ですから知れたもので、それがだんだん細かくなるに従って強くなります。ですから掌から出る光は、光としては一番密度が細かく、濃いのです。それでレントゲンの方は粗いからして通す事ができないのです。つまりそういったものは細かいほど高級で上等なのです。だからうまい事を言ってますが、素粒子と言って、「素」というのは粗いという事です。素粒子というのは細胞の小さいものです。それで物性子というのは、物の性質の原(モト)になるもので、これは目に見えないものです。これを見ようとして実験科学をこれからやるのですが、これを掴まえる事はできようがないのです。だからどうしてもこれを掴まえるには顕微鏡で見えない世界にはいるよりしようがないので、その世界というのは宗教の世界です。この宗教の世界といっても、今までの宗教というのがごく下の世界なのです。だから今までの宗教は科学よりかもっと粗いのです。科学が素粒子を発見したとすると、今までの宗教は素粒子よりも粗いのです。大素粒子です。何故と言って、各宗教では今病院を造ってますが、という事は、もう科学にお辞儀をしているのです。科学との戦いに負けているのですから、負けた方は粗いのです。つまり宗教の方は素粒子まで行ってなかったのです。結局科学との戦いで、科学が今までのように進歩してないうちは宗教の方が勝ったのです。昔からの古い宗教はとに角多くの人を救えたのです。ところが今は宗教の方が力が無くて科学の方が力があるから、そこで無神論者が増えるのです。それは科学をやれば無神論者になります。科学を勉強した人だと無神論者になりますが、それはそうなるのが当り前です。そこで科学をやっつけられるのは救世教よりないのです。これは素粒子よりずっと細かいのです。レントゲンで通す事はできないのです。それでレントゲンの光線を作るのに大変な苦心をしてます。先日新聞に出てましたが、レントゲンを扱っている技師は、何十年とやっていると、レントゲンのために命までが無くなっているのです。とに角四十年やれば駄目だと言われてます。そういうように命がけで作る光線より強いものですが、それをさっき読んだとおり裸で七秒間で書いて、レントゲンより以上のものを作るのですから、こっちの方は、丁度軍備で言えばアメリカと朝鮮よりもっと違います。そこで科学でも哲学でも、丁度今は物性子、目に見えない世界の手前に来ているのですから、どうしてもその先を分らせなければならないのです。それでこの論文ができたら湯川博士に送ってやろうと思ってます。湯川博士という人は割合に信仰心のある人で、結局科学も窮極は神だという事を言っている人ですから、割合に分ると思いますが、そうかと言って、科学者が宗教家に頭を下げるのは、どうも体裁が悪い、体面上工合が悪いですから、簡単に頭を下げるというわけにはゆかないが、これからの窮極に対するヒントを与えるという事になりますから、余計な無駄をしなくて済むわけです。そのヒントを得るという事はどういう事かというと、研究を変えるという事です。しかし研究を変えるという事は、医学は科学では駄目だという事です。他の事は科学で結構なのです。いろんな機械にしろ原子科学とかは何処までも進歩させなければならないのです。ただ人間は他の物質と違うという事が科学ではまだ分らないのです。というのは人間は非常に高級な動物だから、人間の病気を治し、生命を延ばすという事は、人間以上の力を持たなければできないのです。ところが其処らにある物質上の発明、電気や動力というものとは全然段が違います。ところがそういうものと人間の体、人間の病気、生命を同じに見ているところに大変な間違いがあります。その認識さえできれば、科学者は医学の研究をやめて他の研究を一生懸命にやればそれでよいのです。そして救世教の浄霊ですが、浄霊で治すという事も或る期間までです。つまり浄霊とは薬毒をとる方法ですから、薬毒を入れないようになれば浄霊の必要もなくなるから、薬毒を入れないという真理さえ分ればよいのです。と言ったところで、そう簡単に薬毒を抜く事も大変です。あなた方が疥癬などで随分膿を出して、もう毒はないと思っても、それからまだまだウンと毒が出て来るのです。それはどんな人でも、自分であきれるほど毒が出て来るものです。私などもそうで、此処(側腹)に固まりがあって始終浄霊してますが、これが五十年前の肋膜の薬毒です。それから始終頭が痛くなりますが、これが三十七年前の歯の薬毒です。ですからどんな人でも薬毒をとるとしても一生涯でとり切れる人はまずありません。三代目くらいで漸くとれるくらいです。即ち薬が毒である事が分ってから、孫の代になってすっかり無くなるくらいなものです。しかしすっかりとれなくても、働くのに差し支えないくらいに健康になればそれでよいです。私などもそんなに毒がありながら、普通の人より健康で働いているのですから、そう悲観する事もありません。そこでこれを知らせ信じさせるのが大仕事なので、それが救世教の第一番の仕事なのです。

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それで今言うレントゲンを通さない素晴らしい光が簡単な文字から出る、その元は一体何かというと、これも意外な所にその元があります。その元は太陽の黒点なのです。太陽の黒点というものが宇宙の中心で、力の根原です。それで太陽は非常な大変な熱い光ですが、この光の元というのは太陽の黒点にあるのです。ですから (ス)のポチは黒点を書いてあるのです。これは黒点と言っても一つではないので沢山あります。望遠鏡で見ると沢山見えますが、この粒々が大変な意味がありますが、それはいずれ発表する事があります。又この粒々が救世教の仕事に非常に関係がありますが、そういう事を言うと、あまり飛躍し過ぎて、フラフラになってしまいますから、分りやすい程度の話をするわけです。そういうようなわけで、黒点というのはあらゆるものの一つの力の根原、精気の根原と言ってもよいです。ですから一切を支配しているのです。それから宇宙の中心と言ったらよいでしょう。それで太陽の熱度というものは大変なものです。ところが滑稽な事は、この頃日本でもそういう会ができるようですが、宇宙何々会と言うのがあって、これの最終の目的は月の世界に行く事だそうですが、月の世界は学者には本当に分らないため、月の世界に行ける、地球と大差ないように思っているらしいのです。だからロケットを作ったり、その中に空気を溜めたりして、そういう研究をやってますが、実に子供がオモチャを作っているようなものです。月の世界というのは氷の固まりですから、その冷たさというものは、太陽の反対ですから、零下何度という簡単なものでは分りません。全然熱がないのですから、若し行けたとしても、行った瞬間、月世界の手前まで行った瞬間凍り付いてしまいます。そういう馬鹿げた事を真面目になって研究しているのですが、丁度今医学者が薬で病気を治そうとして研究しているのと同じ事でテンデお話になりません。だからとに角さっきも読んだように“未開人と同様だ”という事は本当に間違ってはいません。有りのままを書いたわけです。そういう事も、そうつき詰めるほどの事も必要ありませんが、大体を知っていれば、場合によって恐ろしい事も、科学の進歩にのぼせている人を相手にした場合にも、本当の根本を知っていると、へこます道具によいと思って話したわけです。これからだんだんに書きますが、そうなると宗教とか科学とか言うのでは限られます。大体宗教というのは宗祖の教えです。人間はよい事をする、悪い事をしてはいかん、親に孝行を尽くすもの、粗末にしてはいけないという、一つの道徳です。しかしただそれではいけないのです。それはやはり神様があって、神様の教えに基づいてのそういうやり方をするのですが、ただ神様と言っても、今までは最高の神様は出なかったのです。二流、三流の神様です。それで科学に負けるような事になったのです。だから釈迦、キリスト、マホメットと言ったところで、私からみればまだまだ小僧くらいにしか思いません。今度の歌に書いてあります。そういう事を言うと、知らない人が聞くと、あんまり大き過ぎるので、誇大妄想狂で頭がおかしいと誤解されますが、信者はただ知っていればよいのです。

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話は違いますが、この頃信者の女の人で化粧品をだんだん使わないようになって来ました。ところで化粧品中毒が如何に恐ろしいかという事をちょっと話してみます。今日来ているかもしれませんが、その人は歯がグラグラするのですが、これは歯医者に行けばすっかり抜いて総入歯というところです。この原因は何処にあるかというと、この人は顔に始終熱があるのです。浄霊して熱をとるのですが、なかなかしつこいのです。この熱がとれるに従って歯が締まってくるのです。この熱というのが化粧品中毒です。よく昔から逆上症と言いますが、これは逆上というのですから、血が下から上るように思いますが、そうではないのです。昔は昔でオシロイをつけます。これは鉛毒と言って鉛が元になってます。これが皮膚からしみて行って、皮下の中毒になって、そこに浄化が起こって熱が出て、それで顔が熱くなり、逆上せるというのです。これは男にはないので、殆んど女です。これは昔のオシロイ中毒です。今はクリームとかいろんな物ができて、それにいろんな新しい薬を入れるために薬毒が強くなってます。それに舶来の物は大いに薬を使います。よく新聞の広告に、アメリカで流行る化粧品とか言ってますが、薬毒のあるのを知らないから、日本人はアメリカ製ならきっとよいのだろうと有難がって高い金を出して使いたがりますが、ところが今アメリカでは、女の顔が荒れるというので大変な問題になっているそうです。荒れないようにと思いつつますます強い薬を使って逆をやっているわけです。やっぱり肺病の薬と同じ事です。ところが実際において化粧品をやめると、一時は真黒な渋皮みたいな顔になりますが、それを我慢すると、それは非常にきれいな顔になって来ます。本当の肉色になります。それに信者は血がきれいになりますから、余計自然の美が現われるわけです。尤も今の人は顔ばかりでなく、体にも薬を入れるから、そのために顔が汚なくなったり、色が悪くなってます。だから化粧品を使わなければならなくなるのです。そして一番顔色が悪くなるのは漢方薬です。顔の青い、艶気のない、カサカサした人に聞いてみると、必ず漢方薬をのんでます。それから女で真黒な顔の人は漢方薬中毒です。その点においては西洋の薬は顔色にはあまり影響しません。ただ西洋の薬は顔がカサカサになるのです。だから今の女の顔というのは必ずカサカサしてます。滑っこくありません。そこで化粧品を直ぐにやめろとは言いませんが、だんだん少なくして、或る時期に行ったら、大いに勇気を出して全廃する事です。そうすると第一、この中毒が抜けると化粧したよりかきれいになります。それからあらゆる事が非常にプラスになります。化粧品代は要らないし、それから時間が節約になります。特に若い人などのこれに対する時間というものは大変なものです。それこそ少しお洒落な人は二時間や三時間は何でもありません。これは一種の執着です。しかし、これもはっきり話さなければ分らないが、花柳界に居た人はそういう事はなく早いです。素人に限って遅いのです。それは花柳界に居た人は営業上お座敷がかかってくると直ぐに行かなければならないので手早いのです。ところがそうでないお嬢さんとか、少しお洒落な人になると大変なものです。それから外では、劇場などで便所に行って、少し長いと思っていると、手洗所でこうやっているのです。だからそういう人に芝居などを見せても、最初の幕などはちょっと分らないでしょう。始終中途ばかりを見ている事になります。そういうようで、ただ化粧をやめると顔が汚なくなるという一つの迷信があるために一生懸命にやってますが、そうではないという事を教えるわけです。この中毒がすっかりとれると、前に化粧していた時よりきれいになります。それを知ったら安心して化粧迷信から逃がれるようにする事です。これも一種の救いの一つです。

(教二十四号  昭和二十八年八月十五日)