世のインテリ族に物申す

凡そ世の中に命の要らない人は一人もあるまい(自殺者は別だが)。処がこれ程尊い命が救われ、その原因である病気が治ってしまうとしたら、それで問題解決何も残らない筈である。とはいうもののそんなドエライ治病法がこの世の中にある訳がないから、そんな戯(タワ)けた事をいった処で始まらないと誰しも言うであろう。勿論科学の努力と雖もこの事以外にはないが、今日迄の処それは全然不可能であった。処がこの解決方法が発見されたとしたら、これこそ二十世紀の大問題であり然もその発見者が我救世教であるという事が判ったなら、何人も驚嘆到底信ずる事は出来ないであろう。それは事実が証明している。例えば医学で見放された重難症患者が、疑っても信じなくとも容易に全治するという素晴しい医効は、古往今来絶対あり得ない事で、全く夢の現実化である。寧ろ余りの偉効に逆に疑いを抱く人さえあるが、それも無理はない。何しろ現代人は子供の時から、病気は医者と薬で治すものと教育され、常識となっているからである。従って本教浄霊医術は、原子爆弾がブッ放されない以前、いくら説明されても分らないと同様であろう。

そのような訳でインテリ族中の丁髷の人々はどんなに説明しても事実を目の前に見せても、信じ得ないその頑迷さは全く不可解である。それ処ではない、専門家の医師でさえ自分で見放した病人が浄霊で助(タスカ)った奇蹟を見せられても、只首を捻り溜息を吐くばかりで、進んで研究しようともしないロボット的態度である。恐らくこれ程の迷信は人類史上類例があるまい。処がそれと同様の不思議さがまだある。それはインテリ中の宗教学者である。彼等は曰く、元来宗教が病気を治すのは間違っている。元々宗教は精神的救いであって、肉体的救いは医師の領分であるというのである。成程一応は尤もらしく聞えるが、一歩退いて考えれば斯うなるであろう。それは医学で真に病気が治るとしたら問題はないが、事実は何程医学を信じ、博士や大病院にかかり、言う通りに最新の療法を受けても一向治らない処か、反って益々悪化し、命までも危うくなるので、医療を諦め吾々の方へ来るのである。処が浄霊を受けるや忽ち奇蹟的に全治するので吃驚して入信する。という訳でそれを聞き伝えた人々は後から後から来る。これは当然であって何等不思議はない。本教異常な発展がそれをよく物語っている。

これを春秋の筆法でいえば、新宗教少なくも本教の発展は、全く医学の無力の為であるから、結果からいって医学が新宗教を発展させている訳である。故に若し医学が吾々の方で治らない病気を治すとしたら、患者は何を好んで世間から疑惑に包まれている吾々の方へ来るかという事である。そうして医学も宗教も、その目的は人間の不幸を除き、安心立命を得させる点に於て同様であり、その根本が健康である以上、他の如何なる条件が具備しても零でしかあるまい。この意味に於てどんなに有難い経文でも御説教でも、立派な学説でもそれだけでは幸福は得られない。単なる精神的慰安でしかないのは、今日の既成宗教を見ればよく分る如く、その殆んどが衰退の一途を辿っている。これに気附かない限り、遂には潰滅の運命あるのみと言わざるを得ないのである。

それに気が附いてか附かないでか、宗教学者は口を開けば現当利益は低級なりと非難し、額へ八の字を寄せなければ読めないような活字の羅列を以て高級宗教のあり方としているが、これこそ現実離れの御道楽か、自己保全の御念仏でしかあるまい。若しこれで救われるとしたら、それは大衆ではなく、一部の食うに困らない閑人か、都会の仙人位であろう。君等がそういう原稿を書きつつある間にも、大衆は病に悩み、貧に苦しみ、押寄せる社会不安に怯え、東奔西走しているのが現実である。然もこれに対し数百数千年以前の教説の焼直しをしたとて、何の役に立つかと言いたいのである。

以上思うままをかいたが、これも世を憂うるの余りで諒して貰いたいのである。茲で重ねて言いたいが、医学でも宗教でも他の如何なるものでもいい、兎に角人間の最大悩みである病を治す事で、只それだけである。先年毎日紙で懸賞募集した標語の第一等は「先ず健康」の四文字であった事を覚えているが、これだけで多くを言う必要はあるまい。

(栄光二百二十号 昭和二十八年八月五日)