昭和二十八年六月御教え
六月五日
だんだん霊界が明かるくなるに従って邪神の方は大変なのです。七転八倒してます。つまり医学を利用して人類の健康を弱らせようという大謀略なのです。それを私に見付けられたのです。と同時に霊界がだんだん明かるくなってくるので、折角二千年以上かかってやった計画を一挙に覆えされるという断末魔にあるのです。そこで何とかして傷つけなければならないのです。というのは邪神の方では気付いてはいるのです。しかしそれを一日でも延ばしたいのです。それで中には降伏する者も相当ありますが、巨頭連が頑張っているのです。何とかして再び取り返そうというわけです。それですから救世教を邪魔するのに、以前は官憲を使ったり新聞社を使ったりしてやったが、両方とも成功しなかったのです。それで昨夜はラジオの放送局を使ったのです。これで先方の使う武器はおしまいです。だから昨夜の放送を聞いてみると、作り事をやってます。嘘をやっているのです。それで嘘を自分で暴露してます。医者も出ましたが、手術すれば助かったのだという事を言ってますが、よく聞いてみると最初医者は駄目だと言ったのだそうです。それはそうでしょう、なにしろ高い所から落ちて人事不省なのですから、医者で治るということは有り得べからざる事です。それを昨夜は手術すれば治るという事を言いましたが、それは嘘をついてます。少しばかりでも嘘を言うようでは、自分から悪という事を自白してます。そうして面白いのは、最後に、救世教では十日生き延びたという事は浄霊のためだと言っていると言うのですが、医者の方でも一週間は生きていると言ったという事を言ってます。そうすると医者の方でも一週間は生きているという事は、一週間以後は死ぬという事になります。だから手術すれば助かるという事とは、自分から嘘だという事を自白してます。どこまでも嘘は嘘です。それから船大工だったが、救世教を信仰したから頼み手が非常に無くなった、それから世間から相手にされないで孤独だと言うのですが、いろいろ聞いてみると、みんな嘘なのです。ですから弁護士に頼んで、名誉毀損の告訴をするつもりです。そうしておかないと、あと又そういった嘘で固めて、こっちの妨害をする者が出るといけませんから、その予防もありますし、怖がらせておいた方がよいと思って、そうするつもりです。医者とか天下の放送局というものがそういう出鱈目を言って、新宗教に打撃を与えようというその行為は実に憎むべきものです。というのは邪神の方でもだんだんやっつけられるので、苦しまぎれにそういう事をやるわけです。それはみんな邪神の眷族がそういう連中に憑って、そうやらせるのです。ところにもっていって、一般の人間は、新宗教なんていうのは虫が好かないというので、何も理窟はないので、ただ虫が好かないから何か折があったらやっつけてやれと思っているところに、何かやっつけられそうな材料がはいると、よしこれでやっつけてやろうという種に使うわけです。だから他愛ないわけですが、しかしそういう事も邪魔になりますから、そういう事のない方が一人でも余計救われますから、そういう事があると知らない人はやっぱりウッカリそれに乗ります。だからまだまだ或る時期までは問題を起こさないように大いに注意した方がよいです。なにしろ先方は武器を握っているし、こっちは無手ですから、振り廻されると怪我をしますから、なるだけ怪我のない方がこっちはやりよいのです。それで昨夜の放送を聞いてみても、別に医者にかからない、診てもらわないという事は言いません。実際に診てもらっているのです。ただ手術は嫌だ、それから薬は、若しか死んでも死ぬ時に穢すから、穢されないように薬をのまないというのですから、これは尤もな事です。そこで放送局の連中も警察署長にいろんな事を聞いていましたが、やっぱり放送局の連中も新宗教が憎くて堪まらないので、公平なるべきその職務を忘れて、警察に行って、何か問題を起こしたいと思っている事が明らかです。ところが警察署長の答弁は実によいです。少しも不公平はないので、実に公平で法律上から言って法に触れないと言うのです。ところが何とか問題にしたいようにいろんな事を質問しましたが、問題にならないような答弁をしたのは、聞いていて痛快になりました。なにしろ邪神はそういった言論機関とか放送というのを自由に使うのです。使うという事は邪神の眷族が憑っていろんな事を喋らせるのです。それは信仰のない者は邪神にとっては楽なのです。それもこれも霊界がまだ本当に明かるくなっていないからです。ところが霊界は日に月に明かるくなっているのです。それが一番分るのは、あなた方が浄霊しても分るでしょうが、一年前からみてもずっと治りがよくなっているでしょう。という事は火素が増えつつあるのです。これはまだまだどこまでも治りよくなります。それこそミロクの世になるまで、だんだんよく治って行きます。そうするともうじき、今のところは信者に浄化が強いのですが、一般人に浄化が起こってくるとバタバタとお陀仏になってしまいます。そうしてお医者は手も足も出なくなります。病人に触(サワ)れば死んでしまうという事になります。注射などをしたらみんな片端(カタハシ)から参ってしまいます。そうなると“医学はもう駄目だ、何か他に代るべきものはないか”という事になりますから、それまでには救世教は陽として知れ渡りますから、“救世教の言うとおりだ、救世教に限る”という事になって、みんな救世教に頭を下げます。スッタモンダの問題が起こるのもそれまでの事です。もうそんなに長くはありません。だからむしろ可哀想なくらいなものです。結局最後の審判にはいって行きますが、それについて信者を作る場合に、今までは一人でも多く救いたいとしてましたが、これは当り前の話です。しかし、神様は大きな愛だから、どんな気の毒な者でも救って下さると思ってますが、それは間違ってます。神様は、救う者と救わない者とをチャンと分けるのです。ですから救われない運命の者に骨折るだけ無駄になるわけです。救わるべき者と救われない者との判別、その考え方が大いに必要になるのです。それで救われそうな人は、そんなに手数はかからないのです。それだけの因縁がありますから直ぐに分ります。それから迷ったりいろいろゴタゴタするのは駄目なのです。そういう者にかかり合わないようにするのです。その事を書きました。
御論文〔⇒最後の審判とは何か〕【註 栄光二一三号】
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出版の話になりますが、今度発行するのは「世界救世教奇蹟集」ですが、これは又素晴らしい本です。これはこれから新しく入信する人などにも、全部に読ませるつもりです。その次に出す本は、今書いてますが「⇒医学の革命書」という本です。その序文だけを読ませます。
御論文〔⇒医学の革命書 序文〕
これはできるだけ簡単に分りやすく、現代医学論という論文を書いて、あとはお蔭話の顕著なものを一つ一つ批判して、解剖的に書いて、それを百例つけて、医学、病気というものが大体分るように、そういう本を作りますが、この秋あたりになると思います。そうして、どうしても医学の方との戦いになるようになりますが、けれどもそれも大して長い事もありません。何故なれば医学の方はだんだん浄化が強くなるに従ってヘコタレて来ますから、医学の固め療法が固まらなくなるから、どうしても先方が頭を下げざるを得なくなります。それまでの間一時は昨夜の放送のような問題も、何だ彼んだと起こるとみなければなりません。しかしだんだん先方が弱って来たからそれも大した事はありません。日本はそういうような工合で、だんだんこっちが勝って行きますが、今始めたハワイの方、その次は米国の方ですが、ハワイは素晴らしい成績です。これは栄光に時々出しているから分っているでしょうが、しかし又邪神の方でも大変ですから、妨害しようとして何かやっているのです、ですから無論スラスラとは行きません。いろんな困難な問題が起こります。けれども神様の方の力もだんだん増して来ますから、やはり私が救世教をこれまでにするのに、最初はいろんな苦労をしましたが、そういうような形が、その国、その時期相応に出るとみなければなりません。これもだんだん時節が近付いて来ますから大した事はありません。なにしろ非常なお蔭をいただくので、その点は日本より都合がよいのは、民衆の叫びを非常に重く用いるから、そこで官憲の方や何かで圧迫しようとしても、民衆が承知しません。だから治って熱心になった人が増えればしようがありません。それは民衆の声が高まって来ればキリスト教でも何でもだんだん衰えて行きます。それでハワイならハワイだけが大いに救世教信者が増えて、動きが大きくなって来ると、今度はアメリカの方で問題になって来ます。しかしアメリカにはいろんな制限があって、或る点は日本よりか喧ましいくらいです。それは日本はやたらに新宗教というのが出ても許可しますが、アメリカはなかなかたやすくそうしません。どこまでもキリスト教一本で通そうとしますが、又一方民主主義ですから、民衆の声というのに重きをおきます。日本のようにそういう事に頓着なく、気に入らなければやっつけてやれという事はないから、その点はよいです。しかしアメリカの布教も容易ならんものがあります。とに角、ハワイならハワイに燃え上がるようになると、それだけでアメリカの方でも相当重視するわけです。ですからこれは日本を開拓した今までのそういう経路のようなものよりずっと楽に違いありません。
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それからちょっと面白く書いた論文を読ませます。
御論文〔⇒近頃の世相〕【註 栄光二一四号】
今の人間の頭の働きの悪いといったら大変です。つまり頭の活動が鈍いからして、それが挙動、行動に現われて来るのです。運転手などが敏速に避けるとか、そういう事に対する事が敏感にいかないのです。それで事故を起こすのです。それから火事の起こる原因というのは、ちょっとした火に注意すれば何でもないのに、そこのところをウッカリしてしまうのです。それで消す所を消さないのです。山火事の原因は煙草の火という事を言われてますが、ちょっと消せばよかったものを消さないのです。それで大山火事になったりするのです。この間の北海道の大山火事は約二万町歩というものでした。それから家が建っても建っても焼けるのですが、三分の一くらいは焼けているでしょう。それで住宅難で困ると言うが火事さえなければ住宅難という事はありません。チャンと人数だけの予定をとっているのですが、又この予定という事がおかしいので、今一カ年何十万戸要るから何十万戸建てれば住宅難は解消すると言ってますが、火事という事を予定に入れていないのです。だから足りないのです。東京都などでも抽籤(チユウセン)でやってますが、十回なら大抵当るという事になってますが、今度は十一回になって、それでも駄目で、これからは十二回で当るという事は、出来るのよりか要求する方が増えて来るのです。そういうようでいろんな面に対する事故ですが、病気ばかりでなくそういった事も大いにあるのです。それはみんな頭の働きです。その原因は後頭部、延髄にある薬毒です。今の文化生活というものは本当の事が分ったら滑稽なものです。それでこれは世間の事でもそうですが、私などは日常生活で、今の人間の鈍感さには驚いてしまいます。驚くよりも困るのです。それは何でも遅いのです。ノロマな事と頭の働きが悪い事です。へのような事をやり損ったり遅れたりするのです。それも此処の毒が無くなればそんな事はありません。私はあんまり早いので、廻りの者はまごついて困るのです。何処かに行くのにも、大抵用意ができていると思って行ってみると、人間も居ないし用意もできてないのです。それで私は又戻って、少し昼寝をして行こうかと思うくらいです。それで後頭部の毒が無くなれば、大抵な人はそのくらいな事はできるのです。歩くにも私は速過ぎるので、若い者と歩くにも加減して歩いているのです。“どうも明主様はお速い、間に合わない”と言うから、“それは年のせいだ”と言うのです。私は早過ぎる早過ぎると言われますが、それは毒が無くなると、誰も彼もというわけにはゆかないが、大抵な人はもっと早くなります。それに頭が働くと非常に能率が上がって無駄がないから、経済的に得です。私ほどにはゆかないが、もっと敏感にはなるはずです。これはやはり薬毒のためです。信者の人などは薬毒は余程減っていてそのくらいですから、世の中の人は如何に鈍感か分りません。そういう人達が自動車の運転手ですから事故が起こるのは当り前です。その原因を今読んだのですが、そういうような工合で浄霊は病気を治すばかりでなく、そういった事に対しても大いに効果があるわけです。
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それから美術館の話ですが、一年前のあの辺の状態から見ると、あまりに変ったので皆びっくりしてます。これも今の頭の働きと、早いという事が大いに原因しているのです。職人の仕事などをいろいろみてますと、やっぱり頭の働きが悪いと余計な事をしたり余計な物を作ったりするのです。それを私はみんな省(ハブ)いてしまうから早いのです。それで出来上がってみるとかえってよいのです。ですから人は驚いて大変だろうという事が、私には何でもないので、ほとんど考える事もいりません。あれだけの別館を造るにも、此処に足を運んだのは二度くらいです。最初指図して、熱海に下りて、それから一度か二度指図しただけです。丁度医学で何日も何十日も治らなかったのが浄霊で一日か二日で治るというのと同じ理窟です。それで品物を集めるにも、道具屋なら道具屋に対しては急所の事を言って、それからいろいろ持って来る中から簡単に選択をし、値段とかいろんな事も急所だけをチョッチョッと言うだけで、割合に良い物が安くはいるのです。一番早かったのは、去年第一室に出してあった友松の屏風ですが、墨絵で簡単に楼閣を画いてあるあれを買った時は、京都の博物館に屏風が六本あるから見てもらいたいと言うので、宜しいと約束したが、他に廻る関係でどうしても博物館でそれを見る時間は五分しかないので、五分でやってみようと思ったのです。その六本も拡げてあったらよいが、たたんであったのです。それで拡げて見て友松のは幾らかと言うと七十万と言うから、少し高いから五十万に負けたら買うからという事で買ったのです。それで丁度五分で済んだのです。だから六本の屏風を五分で選択したのです。そのくらい早いのですから、美術館もああいうように出来たのです。この間も報知新聞で谷川徹三さんかが、普通ならこれだけの美術館はまず一代かかってやっと出来るくらいなのが、わずか数年で出来るという事は実に不思議だという事を言ってましたが、普通からみれば確かにそうです。それもやっぱり早いからです。
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こういう論文を書くにも急所々々を書くのです。だから早く書けて簡単に済んでしまうのです。そのやり方を一生懸命に学ぶようにしなければなりません。原稿を書くにも余計な事を書かないでつまり正味だけを書くというようにしてもらいたいと思います。というのはお蔭話がだんだん増えて来るので、栄光に出す場合にお蔭話以外の普通の記事を余程少なくしなければ追い付かないのです。それと共に、お蔭話も割合よく書いてあります。農村の人などでもなかなか書き方がうまいのです。しかし一層簡潔にしてもらった方が、それだけ余計に出せます。それに書きようで、なるべく無駄のないようにすれば、もっと簡単になります。そうすればまだまだ寄書でもお蔭話でも掲載する事ができるわけです。そういう工合にしてもらいたいと思います。
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六月六日
四日の晩のラジオは聞いたでしょうが、なにしろ邪神の方も苦しまぎれにいろんな事をやります。四、五年前は新聞で随分挑戦して来ましたが、遂々こっちが勝ってしまったのです。その次は官憲を利用して丁度三年前にああいった裁判をやりまして、それでも結局先方は負けてしまったのです。とに角救世教をつぶしてしまおうというのです。そうしなかったら邪神の方が滅びる事になりますから、霊界では死に物狂いになってやっているのです。それで新聞では駄目、役人を使っても駄目なので、今度はラジオを使ったわけです。そういうような工合で、だんだん霊界が明かるくなりますから、邪神の方はだんだん手も足も出なくなってくるのです。そこでだんだん死に物狂いになって来ます。しかしそうなればなるほど、神様の方の力が強くなって来るのです。それでドンドン進んで行きますからよいのですが、先方の一番致命的な事は、医学を暴露されてやられる事が一番つらいのです。医学というものは邪神が人類を弱らせてヒョロヒョロにしてしまおうという計画なのです。そうして最後に或る強い民族が、弱っているのをやっつけてしまって、そうして世界の覇を握る、というのがその計画です。ですからそこで医学を暴露される事によって先方の目的が駄目になりますから、そこで先方にとっては大変なのです。なにしろ明日から薬の週間という事でやってますが、これは救世教に対抗する目的なのです。今まではそんな事はした事はないのです。ですから先方はあの手この手で、どこまでもやろうというので、これまでに弱らしたのにピンピンにされたら大変だというわけです。しかしヨーロッパ方面はほとんど半分以上は目的を達したのです。だから何時も言うとおり、イギリス、フランスあたりの、あの弱りさ加減はないです。まるで、どんな事をされても戦争がない方がよいというので、諦らめるあの形は、イギリスのチャーチルなどが始終喋ったり、やっている事を見ると可哀想になります。ただどうやらしっかりしているのはアメリカだけですから、そこで邪神の方でもアメリカの国民を弱らせようとして大車輪をかけているのです。今アメリカでは薬が進歩して、新しい薬をドンドンこしらえているのは、みんな邪神がやっているのです。そこで私は、まず第一歩として「⇒アメリカを救う」という本を出したのです。なにしろ中共が北朝鮮を侵略して、ほとんど自分の植民地のようにしてしまったのです。ですからこれは国際正義の上から言ってもやっつけなければならないのです。ところがイギリスは逸早(イチハヤ)く承認してしまったのです。何でもよい、平和にさえなれば戦争なんかオレは大嫌いだ、という事になったのです。ところがアメリカはそれを許したら、世界に侵略は公認される事になるから、承認する事はできないと頑張っているのですが、そこがアメリカの値打のある所です。今休戦会談ができそうになりつつありますが、これは一時的なのです。今アメリカはアイゼンハウアーになってから、大々的に中共征伐をやり始める準備をしているので、今アメリカに攻められたら息の根が絶えますから、これは大変だと、そこで何とかして一時でもこれを引延ばす政策をやったのです。アイゼンハウアーはなかなかそんな事に誤魔化されないで、ともすればやっつけるぞという気勢を見せる。これは今までのトルーマン大統領のような時を稼ぐなまぬるいやり方では追いつかない、又先方は一時でもよいから休戦の条件に判を捺しておいて、もっと気長に準備をしなければならないというのが、今休戦会談が纒まろうという状勢になっているのです。本当に平和にしようというのでも何でもないので、危ぶないから一時窮境を逃がれ、それと三年の間朝鮮や連合軍と戦って、瘡痍(ソウイ)も相当深いから、それもなおさなければならない、そうして国家をもっと充実した状態にして、それからアメリカと戦おうというわけなのです。だからこの休戦会談というものは一時的のものです。そこにもっていって、今言うようにイギリス、フランスあたりが弱りきってます。しかしフランスはインドシナ辺りが大問題で、あそこに全力を尽くすよりしようがないのです。だから朝鮮問題の方はまずイギリスより他にないが、そのイギリスがグニャグニャなのだから、そこで米国も、此処は輿論の国ですから、連合国の他の国がみんなグニャグニャしているのでは、米国だけがやるというのは面白くないというので、では一時お前達の言う事を聞いておこうというわけです。だからアメリカの方でも、マッカーシーなどは強硬で、連合国を脱退してアメリカ独自でやろうという事を言ってますが、アメリカとしてもただアメリカだけが立つのでは万事都合が悪いので、やっぱりいろいろな関係で、戦争で戦うばかりでは駄目ですから、世界的輿論を大いに尊重して、まず戦争をやるにはできるだけ一致をしなければならないから、アメリカは心ならずして一時休戦に応ずるというのが、今の態勢です。おまけにソ連の方はスターリンが生きていればもっと腰が強いが、スターリンの没後はずっと腰が折れてますから、とに角一時収めた方がよいというように、蔭から中共を牽制(ケンセイ)しているに違いないです。それでまず米国とソ連が戦争をしたら、ソ連に勝ち目はありませんから、もっと充実しなければ駄目なのです。そんなようで一時休戦によって小康を得るでしょう。そうしておいて今度はソ連がどういう手を打つかですが、或いはインドシナからタイの方に侵略を始めるか、それは分りませんが、とに角これから大いに複雑な、結局アメリカを消耗させるという戦術を続けるに違いないです。その手腕たるや、なかなか予想外の手を使うかも分りません。けれどもどっちにしろ、何時かも言ったとおりスターリンが死んだ後は骨抜きみたいになりますから、結局何だ彼んだと言いながら、ソ連滅亡の時期が来るのです。それはまだ相当先の事で、そう急なわけに行きませんが、共産主義がなくなるという事は、神様の方ではチャンと決まっているのです。それでこれから一番面倒な問題は、たとえ休戦になったとしても、朝鮮が南北に分れていては、これはアメリカとしてはどうしても黙まっては居られないので、どうしても合併しなければならない、合併するとすれば中共の勢力を北鮮から抜かなければならない。要するに中共を中国に引込ませるという事になるが、この問題が大変です。アメリカは余程強行にやるでしょうが、そうかと言って中共の方では易々諾々(イイダクダク)と引込むわけはないから、ここで又非常に面倒な問題が起こるに違いありません。そういうようで又ややこしくなって来ます。或いはアメリカが武力をもって解決しようという態度に出るとすると、又戦争が始まるかも分らないが、どうしてもそういう動き方になるわけです。それで中共が引込んで南北朝鮮が合併するという事になれば問題は解決しますが、中共も折角朝鮮に半分勢力を入れた以上、そう易々とは引かないで頑張るでしょうから、そう簡単には解決しないので、朝鮮というものがガンになります。どうしても解決しないという事になると、戦争より外にない事になります。無論アメリカもその準備をしているから、案外急速な場面が出るかも分りません。だから傍観者としてはなかなか興味津々(シンシン)たるものがあります。話はラジオ解説のような事になりました。社会の窓のNHKのやり方に対してもこれは許すべからざる事ですから、無論名誉毀損の告訴をします。それを読ませます。
御論文〔⇒ジャーナリストに愬う〕【註 栄光二一五号】
とに角現在のジャーナリストというものは、新宗教を非常に軽蔑しているのです。それで他の事なら、こんな事は決して出るものではないのです。とに角新宗教というと非常な軽蔑をするのですが、軽蔑という意味は、彼等は新宗教なんてものは、この科学の時代に非常に間違っている、こういう非科学的のものはぶっつぶしてしまった方がよいと、それを良いと信じているのです。しかしそれも無理はないのです。世間の新宗教で、これはというものはないです。ですから私は、若し救世教というものがなかったら、私もやっぱりそれと同じように、新宗教をつぶした方がよいと思います。実際ロクなものはありません。そうかと言って旧宗教は眠っているようなもので問題にはなりません。ですから私などでも無論無信仰者になります。そう考えてくると、彼等の考え方も決して咎める事もできないが、ただ救世教というものは他の宗教とは違うという認識がないのです。認識がないという事はロクロク調べないからです。この放送もロクロク調べないから、凡て悪意にとって、こんなものに迷わせられてはいけないという、一つの警告を与えるつもりですが、では何故認識しないかというと、他のものがつまらないもので価値がないというので、救世教もやっぱりそれだという事に頭から決めてしまっているのです。そこにわれわれにも非常に損な点があるのです。しかしそれも長い間こういうような宗教が出なかったのだから、これはやむを得ないでしょう。ですから或る時期までは、こっちが苦しんだり、誤解されたりしますから、分らせるまでは非常に骨が折れる事は仕方がないと思います。そうかと言って、こっちは金であるのに、金をメッキと思われるのですから、それはどうしても黙まっては居られないのです。金は金として大いにそれを言わなければならないのです。そこで骨の折れる点もあるのです。そうかと言って、事実は病気の解決はできるのです。病気の本体が分り、病気の心配がなくなるという、こんな素晴らしい事というのは今までにはないのですから、結局は皆頭を下げるに決まってます。それまでの間は、アブやハチがブンブン飛んで来て、刺したりいろんな事で、こっちに痛みを与えますが、これはやむを得ないわけです。それでできるだけそういったハチに刺されないように追って行くというよりしようがありません。そうしてだんだん時がたつに従って分って来るというわけなのです。この事も、ハチに刺されたので、再びハチが来て刺さないようにハチの奴を一発叩いてやるというわけです。まあ蝿叩きのようなものです。
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それから今までもそうでしたが、これからは信仰の話をしても分らない人はあんまり追いかけない方がよいです。追い放した方がよいです。というのは救世教は素晴らしいものだ、神様は大したものだと言うが、それには違いないが、今度の最後の審判というものは、審判は善悪の裁きだが、普通は一人でも多く、ほとんど世界人類が救われるように思いがちですが、救われる人はごく少いので、あとはみんな駄目になる、滅びるのです。それをよく分っていなければならない。だから少し話して分らない人は放してしまった方がよいです。それは閻魔(エンマ)の帳の方ではチャンと消してあるのです。かえってその方が楽で、そのために救われるべき方の人が遅れたりするからいけないのです。ですからそうした方が非常に楽で救われるべき人が早く救われます。その事を書きました。
御論文〔⇒最後の審判とは何か〕【註 栄光二一三号】
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それから今の人は非常に頭が鈍感になっているので、そのために火災だとかいろんな事故が起こるのです。信者は知ってますが、その原因を書いてみました。
御論文〔⇒近頃の世相〕【註 栄光二一四号】
この薬毒が減ると体が非常に軽快になります。ですから挙動が敏捷(ビンシヨウ)になるし、頭も同じように敏感になります。ところが今の人は薬が一ぱいありますから頭が鈍感で挙動が鈍重なのです。ですからいろんな事故が起こるのは当り前です。自動車や汽車を運転しても、挙動が敏感だと、見た瞬間にヒョッと避けてしまいます。それが挙動が鈍重だから見た瞬間に避けられないのです。それから火事でも、この間の北海道の山火事など約二万町歩も焼けたのですから大変なものです。この原因の大半は煙草の火という事になってますが、吸殻を捨てますが、注意力があればこれは危ぶないと思ったらちょっと消しますが、その注意力がないわけです。アメリカなども非常に事故が多く、自動車事故も非常に多いようですが、これもアメリカ人の鈍感なためなのです。そういった頭の悪さが社会のいろんな損害や不安の原因なのですから、その点から言っても薬というものは恐ろしいものです。それなのに明日から又薬を大いにやるというのですから、馬鹿と言ってよいか何と言うか、言いようがありません。私も昔は随分薬を飲んだが、私は鈍感というよりか、凡てが不精になりました。だからやっぱり結果においては鈍感と同じようなものです。ところが始終自分でも浄霊してますから、だんだん薬が減るに従って敏感になるのがよく分ります。だから今の若い人に比べても非常に違います。若い人はノロイのです。歩いても若い人がついていると私は加減するのです。“明主様はお速いですね、とても自分達はついて行けない”と言うから、“それは年のせいだ”と言うのです。だから毎日のようですが、もう来て用意をしていると思って行ってみても、来ていないという事がよくあり、私の方が早いのです。ですから調子が合わないで困る事があります。この間も若い者に言ったのですが、お前達は巾着切のようにならなければいけないと言ったのです。私などは巾着切になったら随分成功する、それは逃げるのも早いです。だから巾着切のような了簡でなければ駄目だと言ったのです。ただ人の物を取らなければよいのです。他の事は巾着切と同じでよいのです。つまり敏捷になる事です。そういうようになると、物事の急所などが早く見付かりますから、無駄がなく能率が上がります。身魂が磨けるという事はそういう事なのです。何にでも気がつく事です。大本教のお筆先に“何事も気配り心配りをして下されよ”というのがあります。ですから気のつく事です。ところが気のつかない人が非常に多いのです。ちょっとした事に気がつかないのです。それは頭の働きが鈍いからです。そういう事を心掛けて練習しても余程違います。つまり人が何か言いますが、一言で直ぐに見当がつく事です。こういう事を言うから、ああいう性質を持っている。又来た人の話をちょっと聞いても“ははあこれはこういう目的で来たな”という事を早く覚るという事は非常に役に立ちます。又他の家に行っても、はいっていきなり下駄を見ると、腐ったような体裁(テイサイ)の悪いのがあったら、これは懐が楽ではないなと思う、子供が食っている菓子でも、つまらない安い菓子を食っているのを見ても、ははあと分るのです。私はよくネクタイの柄を見ます。これは趣味の高い奴だ、低い奴だと分ります。それからキチンと締めていると、これは几帳面な者だ、或いはだらしがない者だという事が分ります。そういう事を見ると、凡てにおいて便利で得です。それで先方の心が変ったりいろいろしたり、想念が変り、信仰なら信仰が進んだり鈍るが、その事で見当がつくのです。それでおかしな事で、霊的にいろいろな事を見るという事は止めた方がよいのです。それは特別な能力を持っていなければならないから駄目です。私は分りますから、よくやりますが、物質的に見る事も大いにやらなければならないのです。これは科学的の方です。ですから霊的と科学的と両方なければならないが、まず科学的にやる事です。又これは誰にでもできる事であり、非常に肝腎な事です。ですから私が美術館を造るにも、何を造るにも非常に早くて手取早いのです。それは物事の急所を見てしまうのです。別館を造るにも、最初大体二十分ばかり見当をつけて指図して、その後二度来て二、三十分指図しただけで思ったとおりに出来たのですが、それは急所を見て急所を指図するから能率が上がるのです。だから病気を治す場合にも、私は何時も額を触りますが、額の熱で大体分ります。又熱にもいろいろあって、深い所の熱浅い所の熱があります。浅い所の熱は、芯の方の深い所は熱くないのです。それから深い場合は芯の方から熱くて、浅い所は大してないのです。これは質(タチ)が悪いのです。こういうのは浄化が重いのです。そういうように重さ軽さが分ります。又咳が出る痰が出るという事も直ぐ分ります。此処だと思う時は必ず咳が出、痰が出ます。そうすると其処に毒素があるのです。そういうようにやると浄霊の場合も早く効果が上がります。それも神経の敏感さです。ですから何事にもそういうように心掛けると余程違います。それは初めからそうはゆきませんが、そのつもりで心掛けると、それに慣れるに従って無駄がなくなります。それから行ってみて神様の話をしても、先方が興味を持ってくるか、お座成り的でいやいややっているかを見通さなければならない。それでお座成り的だったら止して、そうでなかったら熱心にやってやるというようにするのです。それで急所がありますから、その急所をやると先方はハッと分って、信仰にはいろうという事になります。そういう事を心掛ける事です。
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六月七日
今日は面白い奇蹟がありました。さっきこの人が今日の参拝の人数を報告に来たのですが、その時に五百六十七名というのです。私は何時もそういう数字が出るとよいと思ったが、今までそういう事は一度もないのです。それが今日に限って五百六十七名というのです。その数字が言葉に出た以上は、その後は増えても構わないので、五百六十八でもよいのです。ところが今日その数字が出るところに意味があるのです。というのは今度の六月十五日は箱根地上天国の完成記念祭です。ですから此処は、つまり地上天国の模型が出来たわけです。それで地上天国というのはミロクの世ですから、今日ミロクの数字が出るという事はそれに関連した大変な意味になるわけです。それで十五日の意味の原稿を昨夜書いたのですが、それは十五日に読ませますけれども、大体の意味は、まず地上天国の模型が此処に出来たとすれば、これからそれが左進右退によって、だんだん拡がって行くのです。これは何時も言うとおり、「ゴーラ」の「ゴ」というのは「火」です。「ラ」というのは「螺旋」と言って「廻る事」です。それで左進右退に廻っているのです。それで左進右退に廻るのは拡がる事です。右進左退はすぼまる事です。だから「ゴ」「霊」で、霊的に拡がって行くというわけです。霊主体従ですから、霊が先です。此処が先に拡がり出して、体的には熱海ですが、熱海はもう少しですが、とに角この十五日からミロクの世になるわけです。尤もこれは小さい型ですが、やがてだんだん拡がって行くわけです。ですからそうなると今度は浄化作用が又本格的になりますから凄い事になります。だから間違った事は全部訂正されてゆくわけです。その代り人間でも、善は残り悪は滅びるという事になります。これが本当の建替え建直しというわけです。今日はこの話はしないわけだったので、十五日にするつもりだったのですが、今日の人数の数字が出たので、もう話をしてもよいわけなので簡単にお話したのです。ですから十五日というのは非常に目出度い日なのです。これは世界の紀元節というわけです。それでそれについてと言うか、関連して、一昨日からこの原稿を読んでいるのですが、もうその時期になったわけです。そのためにこういう原稿ができたのですが、余程重要な意味があります。
御論文〔⇒最後の審判とは何か〕【註 栄光二一三号】
つまり神様の方が激しくなるわけです。大本教のお筆先に“神激しくなれば、人民穏やかになるぞよ”というのがありますが、なかなかうまく言ってあります。そういうようなわけで、曖昧(アイマイ)であったのがはっきりしてくるというわけです。だから分る人は救われる人で、分らない人は滅びる人と、こういう工合にだんだん決まってくるのです。ところが分らない人の、滅びる方がずっと多いのです。ですからどんな人でも救われると思う人が、今までは大部分でしたが、そうではないので、救われる人の方が少ないのです。ですから救ってやりたい救ってやりたいと、こっちで思っていても駄目な人は駄目なので、諦らめるという事が肝腎です。それでミロクの世という素晴らしい世の中ですから、あんまり汚ない、訳の分らない人間は、かえって邪魔になるわけです。神様の方では人口を増やすのは何でもないのです。今でも増え過ぎて困るのです。ですから倍くらいにするのは何でもないのです。又、将来その方が有利です。捨てられて滅びる人は実に可哀想なものですが、これはどうも仕方がありません。ですから、その点をよく心得ておくべきです。これは何時も言うとおり、今度の御神業は、人がやるのでなくて、神様がやるのですから、骨を折らなくてできる御神業です。ですから骨の折れるような難かしい事は避けた方がよいです。楽にスラスラと行く事だけをやればよいのです。だからかえって楽で非常によいです。そこが天国を造る宗教としての適ったやり方になるわけです。今までは地獄の中で天国を造ろうとするのですからして、まだまだ天国を造る時が来てないのです。地獄の中で天国を造るのだから、苦心惨憺(サンタン)して非常に骨が折れるのです。人間はそういうのを長い間見て来ましたからどうしても苦しむ事がよいように、つい思うのです。だから今言ったような事を本当に意識するには、なかなか骨が折れますが、その点はよく気がつくように心掛けて居なくてはいけません。だから美術館や庭や何かが早く出来たので、信者でない人などが、これほどにするには随分苦心しただろうと言いますが、実は少しも苦心も何もしないのです。楽過ぎるくらい何も考えないで、その都度気の向いた時にちょっと指図するくらいで、それでチャンと出来てしまうのです。やはり苦心して造ったものは、それを見た感じは、やはりその苦心が移りますから、あんまり楽しい良い気持はしないものなのです。こういう事も今まではみんな知らなかったのです。私は展覧会などに行って、いろんな絵を見ますが、非常に嫌な感じがします。というのは、どうかパスされようとして苦心惨憺するのですが、その苦心がチャンと絵に現われているのです。ですからそれから受ける感じは、作者の苦心がこっちに来ますから、少しも良い気持はしません。楽しみ楽しみやった良い作品は、それがやはり移りますから、見ていて楽しい良い気持がします。そういう事も世間にある美術館の人などは知らないのです。要するに霊的智識がないので、形だけに囚(トラ)われているからです。根気良く苦心惨憺(クシンサンタン)して作った物が良いというように思うのです。そこに今までの考え方と余程違う点があります。ですからミロクの世というものは、地獄の世界を天国にするのですから、まあ人類肇(ハジ)まって以来の大革命です。これほど大きな革命はないと共に、これほど楽にできる革命はありません。無血革命という事を言うが、無血革命というのは争闘をしない意味ですが、そんなものではないのです。無血革命でなくて、最も楽にできる革命だからして天国的革命とでも言いますか、そういうようなわけです。それが十五日を契機としてだんだんそうなって来るのです。それが霊主体従の法則によって霊界の方がそういうようになって来ます。ですから物質界、現界の方にそのとおりに映って行くというわけです。だからその点においては、傍観していてもよいくらいです。ただ神様から与えられた仕事をすればよいわけです。ぶっつけられた仕事をすればよいわけです。だからその点において、あんまり人間の智慧や考えは出さない方がよいです。たとえば病人が来ますが、この病人を救えばこういうふうになるだろうとか、そういう事は考えない方がよいです。ぶつかって来た人は救えという事なんだから、それはやればよいです。それから嫌ったりする人は、これは神様はお助けにならない人だと考えて追いかけたりしない方がよいです。その方が楽に行きます。それを人間的考え方で、“この人を救えば大変発展する、信者が沢山できる”という事をよく考えますが、それがいけないのです。人間には分るわけがないのです。ですから“こんなつまらない人が”というのが案外役に立ったり、“この人は”と思う人が駄目だったりします。それは人間と神様の考えの違う所です。
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それから四日にラジオの社会の窓で大分出鱈目を言いましたが、だんだん救世教が発展するに従って邪神界の方は大変なのです。大恐慌を来たしているのです。どうせ邪神の方では、自分の方は駄目という事は分っているのですが、一日でも寿命を延ばしたいというので足掻(アガ)いているのです。最後の足掻(アガキ)です。それで以前は大新聞などを大いに動かして散々悪口言ったり、いろいろしましたが、これでも駄目なのです。それから役人を動かして、救世教をやっつけてやろうという裁判の事件ですが、これでもやっつけられないので、今度はラジオを使ったわけです。これでもう他には使う道具がないから、おしまいでしょう。それで今度の問題は九州の鹿児島県ですが、九州は西ですからもうおしまいなのです。“西の海へ捨ててしまう”というような事をよく言います。それで西の方は月も太陽も引込む方で出る方ではないのです。しかも鹿児島はごく西の果(ハテ)です。又鹿児島という所は、日本では大変な意味があるのです。日本の国で一番先に開けたのは鹿児島です。それは日本の紀元以前の一番最初です。それから明治維新もとに角薩摩が元だったのです。それから日の丸の国旗を作ったのは鹿児島の島津藩です。それから日本で金を取り始めたのもやはり薩摩なのです。ですから薩摩というものが日本の入口であり出口であるわけです。そういうようで西の果ですから、あれでおしまいなわけです。それでいよいよミロクの世が始まるのです。ですから私は今度のNHKの放送について、やっつけてやろうと思って原稿を書いたのですが、神様の方から止(ト)められたのです。その書いた原稿をちょっと読ませてみます。
御論文〔⇒ジャーナリストに愬う〕【註 栄光二一五号】
それからこの事に限りませんが、今のジャーナリストという人達が、感情的に新宗教というものに反感を持っているのです。だからこれらもその組です。とに角“救世教なんかは非科学的の事を唱えて、そうして人心を惑わし、半文化的の事をやっている、実にけしからん。こんなものはやっつけてやった方が国家社会のためだ”という考え方になっているのでしょう。だから自分では非常に良い事と思っているのです。こんな新宗教に惑わされていてはいけないから大いに警告するというので、良いつもりでやっているのです。これも無理がない点もあります。というのは新宗教が随分出来、今も出来つつありますが、それは遠慮なく言えば実に低級なものが多いです。だから仮に私がジャーナリストとして、救世教というものを知らないとしたら、新宗教で信者になろうと思うのは一つもありません。ですから、自分でやっていておかしな話ですが、若し救世教なるものがないとしたら私は無信仰者であったに違いないです。それで大いに新宗教を非難攻撃したに違いありません。だから救世教も世間一般の新宗教と同じようなものだと決めてしまうのは、これも無理はありません。ただ救世教というものは全然違っているという事の認識がまだできないのです。認識ができないという事は研究しようとしないのです。研究しようとしないのは、やはり他の新宗教の有様(アリサマ)を見て決めてしまうのです。だから自分を離れて公平に見れば、このラジオの放送も左程咎める気にはなりません。ならないから気張るわけにもゆかないのです。ただ今後こういう事があると、やはり影響しますから、そういう事のないようにと思って、名誉毀損で告訴までしてやろうと思ったのです。ところが神様の方から、“そんな事をやっても全然何にもならない、それどころではない、これから十五日を契機としてミロクの世の建設が始まるのだから、どんな邪魔者でも取り払われるから、そんな問題にする必要はない”というわけだったのです。それで又一方人間的に考えてみると、やっぱりNHKの感情を害すると、お祭の時の余興にもやっぱり影響します。二十の扉をという場合に、いやそんなもの止した方がよいというようになりますから、ここで泣き寝入りした方がよいですから、そうするつもりです。
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それから今社会では、事故だとかいろんな事がありますが、信者の人は大抵知っているでしょうが、新しい信者の人に対しても知っておかなければいけないから、ちょっと書いてみました。
御論文〔⇒近頃の世相〕【註 栄光二一四号】
今の人は頭の働きが悪いのです。敏感でありません。だからどうしても事故などが起こるわけです。この間の北海道の山火事で約二万町歩と焼けたのですから大変な損害ですが、この一番の原因は煙草の吸殻という事になってますが、山で煙草を吸っていて、吸殻を捨てても、気がつくならば、其処が枯草の上かどうかという事にヒョッと気がつきますが、それが頭の働きが鈍いから気がつかないで、捨ててボーッとして行ってしまうのです。ですから自動車を運転していても、向うから何か来るとそれをヒョッと避ける敏感さがあればよいですが、避けようとしてやるのに時間がかかるから衝突してしまうのです。何事にもノロイのです。それは昔のように自動車も何もない駕籠などの時代ならよいですが、今日のような非常なスピード時代になっているのに、頭の方が追いつかないのです。追いつかないどころではないので、追いつけないようにしているのです。だからどうしても後頭部に毒がないようにしなければならないのです。ところが薬毒をつぎ込んで薬毒を溜め込んでいるのですから、今の人間は骨が折れます。体の方がノロイのに歩く方を早くしなければならないのですが、実に悲惨です。信者の人は余程薬毒が減っているから余程よいわけですが、普通の人と来たら実にノロイです。ノロイからして頭の働きが悪いのです。だから何事を見ても聞いても、頭の悪さがよく出てます。ちょっとした事に気がつかないのです。その辺を歩いてみても、町でも田舎でもそうですが、細い道や、おかしな道がありますが、木を切るとか草を取るとか、石が転がっているのをちょっと取ると、歩きよい道になるのに、それをしないのです。何でも気がつかないのです。ですからちょっとした所に気をつければ、非常に便利になったり、良くなったりするのに、それすら気がつかないのと、億劫(オツクウ)なのです。厄介だという、不精という点が非常にあります。周囲の事でもそういう事がよくあります。ちょっとした事で、ちょっと其処に棒をつけるとか、ちょっと取り除くとか、上げるとかすると非常に便利になるのに、そういう事に気もつかないし、つい億劫でそうしているが、これは薬毒のために凡てが働かないのです。ですから今の人の歩くのでも、ノロイです。その点において私は何時でも困るのです。私が早過ぎるのかも知れませんが、だから凡て先にやっておくべきものをやっておかないうちに、私の方が先に行ってしまうので、それで何時でも叱る事があるのです。そういうような事で、いろんな事故が起こるという事は当り前なのです。そのためにその損というものは非常に多いです。それから又その他にもまだあります。それは邪念が多過ぎるのです。何か誤魔化そうとか、おかしな考えをしているために、よい方の頭が働かないのです。つまり邪の方の頭が働くためにそこで物事がうまく行かなかったり、故障が起こったりするわけです。その根本としてはやはり薬毒ですから、その薬毒を除る事です。私も昔は薬毒が沢山あったが、自分で浄霊してだんだんとって行くために、だんだん体も軽くなるし、頭の働きもよくなりつつあるわけです。だからこの間も小言を言った事がありますが、それは男の連中に言ったのですが、お前達は巾着切のようにならなければいけないと言ったのです。鋭く素早くというわけです。しかし巾着切をしろというのではないので、巾着切のように敏捷にならなければいけないというのです。よく私はそう思うのですが、オレは巾着切になったら随分成功するなと思います。逃げる時の速さは目にも止まらないくらいです。そんなような工合で、それによって非常な利益を得ます。それで巾着切などは、これは幾らくらい金があるという事が分るそうです。紙入を持っただけでどのくらいはいっているという事が分るそうですから、そのくらいにならなければいけないのです。信仰していても、話をしていても、これは神様の話が分る人間か、どうしても分らない人間かという事が分るのが早いです。そうするとさっき読んだとおり、これは救われる側になっている、或いは救われない側になっている。という事が分ります。病気でも、頭が痛いとかケツが痛いという時に、原因は何処にあるかという時に、この人の性質はどうだ、又苦しみ方はどうだという事で見当つきます。それから顔色で分ります。顔色の非常に悪いのは漢方薬の中毒です。西洋の方は顔色にはあんまり来ません。害が酷いのはどっちかというと漢方薬です。近来寿命が延びたという事は漢方薬をのまないからです。現在の人は漢方薬をのまないで西洋の薬をのみますが、それは顔色が悪くならないという事と、病気が早くなおるのです。しつこくならないのです。ですから寿命が延びたという事を言いますが、それは漢方薬をのまないで西洋の薬をのむからというので、これはちょっと気がつかない事です。そういうようで、顔色が悪くなるのは漢方薬のためです。ですからアメリカ人などは割合に顔色がよいですが、それは西洋の薬のためです。非常にしつこい病気は漢方薬の中毒が多いのですが、しかし西洋の薬もこの頃は負けずに注射などをやっています。
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六月十五日 (箱根地上天国完成記念祭御教)
いよいよ地上天国の模型が完成したので、その記念祝典という意味ですが、つまり真善美のうちの美の型が出来たわけです。ところで昔からいろいろな宗教がありましたが、真善はあったが美は作らなかったのです。何故美を作らなかったかというと、本当の天国の宗教でなかったからです。時期が夜の世界のために天国を造る事ができなかったのです。そこで美が欠けていたというわけです。それについて書きましたから、今読ませます。
御論文「⇒神仙郷地上天国の大いなる意義」【註 栄光二一六号】
この終りの所にあった事が大変なのです。以前も言った事がありますが、「ゴーラ」というのは「ゴ」は「火」です。それで「ゴー」と引張るのはパッとした火でなく、持続的な火です。「ラ」は「螺旋」と言って渦巻く働きです。火は左進右退ですから、これから左進右退のリズムが霊界に始まるのです。そうすると霊気というのは、太陽の霊気は火素だからして、この渦巻の中にある汚ないものはみんな整理されるわけです。今までは霊界があべこべの右進左退の渦巻だったのです。そしてこれは月の精のリズムですから、言わばごく弱かったのです。つまり夜の世界のリズムだったのです。だから汚ないものや間違ったもの、悪に相当するものは或る程度は許されていたのです。しかし今度の太陽の世界は、昼間の光線と同じですから、どんなものでも分ってしまうから、汚ないものはみんな御取り払いになるわけです。このことは、汚ないものにとっては怖い事です。しかしきれいなものは、あべこべに有難いのです。それが最後の審判なのです。ですから今日を契機(ケイキ)としていよいよ最後の審判にはいって行くのです。だからだんだんそれが形に現われて行きますから、よく分ります。それと共に、どうしても救世教にお辞儀しなかったら、つまり生きて行けない事になるわけです。随分バタバタする者が沢山できるでしょうが、これは神様がやっている事で、私がやるのでないから、どうも仕方がありません。その前に一応は知らせなければならないというので、それが聖書にある「遍く天国の福音を宣べ伝えらるべし、しかる後末期到る」というこれです。そこで“天国の福音を遍く宣べ伝えられる”という事は、「⇒アメリカを救う」はそのごく最初の一段ですが、今度「世界救世教奇蹟集」が出、その次には「⇒医学の革命書」が出ますが、これはみんな英文にして世界中に配るわけです。それから最後に「文明の創造」が出るわけですが、これらが天国の福音となって、世界中に読ませるわけですが、これを全部読ませるまでに行くか、それとも、「医学の革命書」だけは充分ですが、「文明の創造」が間に合うかどうかという事は、ちょっと分りません。そういうわけで、いよいよ霊界が一大転換をするのです。それが現界に写るからして、そのつもりで居なければなりません。それで、「力」という事について話をしますが、今までの世界は本当の力というものが出なかったのです。力と言っても、それはいろいろあります。人間の力の「腕力」。それから兇器を使ったりして大いに暴れるのは「暴力」。それから馬の力の「馬力」。それから今は「機械力」で、これが非常な活動をして世界的にいろんな文化を進歩させていますが、これも結構です。ところが現代の宗教のような力は「微力」と言います。甚だ弱い力です。それから人間を大いに自由にしているのが「政治力」。それから「金力」ですが、この「金力」というのがなかなか恐ろしいものです。この金力を善が握れば結構ですが、今までの金力は悪の方が多いのです。善もありますが悪の方が量が多かったのです。この金力に私なども随分いじめられました。それからいろいろ問題にされたり裁判所に引張られたり、言論機関が大いに圧迫したりするのは「権力」。それから「経済力」というこれも、今までは良い方より悪い方に使った方が多いです。そこで「金力」は「経済力」に附随してますが、「金力」というのは大変な力を持っているのです。ソ連が共産主義によって世界の覇権を握ろうとし、朝鮮戦争を起こして、それをアメリカがくい止めましたが、アメリカの何の力がくい止めたかというと「金力」です。それは他にもいろいろありますが、その最も根本的力と言いますか、それは「金力」で止めていたと言うか、「金力」で平和を維持したというわけです。だから今までの世界では「金力」が一番力があったわけです。それから戦争をやるのは「戦力」。その戦力を行使すると「破壊力」。それから又文化の力というものには、学問の力の「学力」。その学んだ結果の智恵の「智力」。智恵にもいろいろありますが、これは前にも言ったから、今は言いません。それから「智力」を応用して考える「思考力」。それから「筆力」。筆の力ですが、これが又恐ろしいのです。今の世界は「金力」が主で、「筆力」がその次と言ってもよいと思います。それから「宣伝力」。これも大変な力があるものです。それから引く力の「引力」。押さえる「圧力」。まだまだ沢山ありますが、大体そのくらいで分ると思います。ただ、今までなかったのは神の力の、「神力」です。全然ない事はないが、薄かったのです。強く発揮ができなかったのです。というのは夜の世界のため、つまり月の光は、光から言っても太陽の六十分の一ですから、余程弱かったのです。それがいよいよ時期が来て、今度は火の力、太陽の力になって来たのです。それが昼間の世界と言うのです。それで浄霊して病気が治るという事は太陽の力だからです。今までは、救世教のように病気を治すという力はなかったのです。というのは月の力だからして、見らるるとおり、本当に病気を治す力はないし、それから又病気というものの根本は何かという事も発見されていなかったという事は、力もないし光も薄いから、つまり見得る事ができなかったのです。それが根本だから、それが分れば浄霊で病気が治るという事は訳なく分るわけです。それで救世教の信者はキリストと同じような奇蹟は毎日のようにやっているという事だけでも、その力たるや大変なものです。それで今までは、宗教が本当に救う事はできなかったのです。現在救われているのは各宗の教団の方です。仏教にしても、仏教がその信者を救っているのではなくて、その本尊が信者から救われているのです。これは別に悪口を言うわけではないので、事実を言っているのです。というのは闇の世ですと月の光だけでも結構なのです。だから闇の夜道を歩いている人は、月の光によってとに角安全に歩けるというわけです。そこにだんだん太陽が出て来ると、月の光は薄れて来、ついには無くなるというようなわけですから、そこで霊界では非常に明かるくなって来ているから、月の光というものがもう駄目になったというわけで、それが現われているわけです。だからして結局火の力を行使する事は、私という者が出て、初めてその力を与えられたのです。つまり「力」です。ところが「力」というものと「光」というものとは同じなのです。つまり「火」と「水」の密合したものが「光」であり又「力」なのです。だから「力」という字はよくできてます。経と緯、火と水が十の字に組むのです。そうするとそこにズーッと曲線がつながって、跳ね返ってますが、とに角文字というものは神様が造ったのですが、実によくできてます。ですから文字と言霊が分れば、宇宙のいろいろな神秘は分るわけです。私はそういった事を書こうと思ってますが、どうしても書けないのです。やっぱり神様はどうしても、それを分らしてはいけない事があると見えます。そこで経が先で緯が来て結ばり、曲って、跳ね返っているが、これは左進右退のリズムが現われてます。ですからさっき言ったとおり、この地上天国の模型が中心になって、左進右退的活動が始まるという事は、これが真の力なのであります。つまり救世教というものは力の宗教と言ってもよいのです。この力が本当の神力です。経緯結んだ火と水の力です。「カ」は「火」で、「ミ」は「水」ですから、「カミ」の力です。この力を行使したという人は世界肇って以来ないのです。それで言霊から言うと「シン」の霊返しは「ス」になりますから「神力」は「主の力」とも言えます。それで何時も (ス)は丸にチョンと書きますが、チョンが火で、丸が水になります。太陽の黒点はチョンになります。学者はあの黒点を研究してますが、それは今言った事なのですから、こっちは別に研究の必要はありません。この太陽の黒点のチョンが大変なものです。つまり宇宙の魂です。果物なら種です。それで今までの世界はチョンがなかったのです。丸だけだったのです。要するに空(カラ)だったのです。それでいよいよ私が世界にチョンを入れるわけです。この神仙郷はチョンなのです。ポチなのです。その意味において非常に重要なわけなのです。その始まりの今日は非常な意味があります。それから六月十五日というのは天照大御神様の誕生日になりますが、誕生日という事は日が出るわけです。これは私の本にあります。前に房州の日本寺に行った時が昭和六年六月十五日ですが、これがつまり日本の日の出になるわけです。そしてそれが世界の黎明です。その時もいろいろな神秘な事がありました。それから三月と三日たった九月十八日に満洲事変が起こりましたが、この満洲事変という事が大変な意味があるのですが、これについてもそのうちに書きます。それから日本寺という寺の名前も、これは日の本で、あそこから日が出たのですから、寺の名前も、日本寺となっており、この名前は外にありません。おまけに乾坤山というのですが、乾坤という文字は「天地」という事ですから、あの寺というのは大変な意味だったのです。そこで非常に神秘な事がありました。これはまだ書いてありませんが、もうそろそろ書いてよい時期ですから、もうじき書きます。
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それから一昨々年の静岡の裁判で、警察に留置されている間に素晴らしい神秘な事がありました、その事を簡単にお話しますと、連れて行かれたのが五月二十九日かで、その時神様に此処に居るのは何時までだと訊いたところが十八日間だというので数えてみれば六月十五日になります。その日は非常な神秘な事があったのです。それは天照大御神様が生まれるというわけです。これは一言だけ言いますが、その時面白いのは差入れする弁当屋の内儀さんが非常に太った人で、大変世話を焼いてくれたのですが、この人は踊りを習っていて、前の晩大いに踊ったのです。明くる日に自慢そうに話をしましたが、それは何かというと、岩戸開きの時の天宇豆売命が舞い踊り足を余り高く上げた為陰戸が見えたので大勢の神々が大いに笑った声を聞かれ、天照大御神様は岩の戸を細目に御開けになったのを逸早く手力男命が御手を取られ外にお現われになった事が古事記に出ていますが、この型であります。それで六月十五日の朝方に夢を見ましたが、前にも話した通り富士山に登った事でそれが関連してます。それから、此処に渋井さんも居ますが、あの時引張られた連中は五人なのです。それで岩戸開きの時には五伴男(イツトモノオ)と言って、五人の男の神が御供になるのです。まだいろいろありますが、そういう岩戸開きの型があったのです。それで今日は、丁度三年目になるわけです。やはり神様の事は非常な神秘な事が関連しているので面白いです。ですからこれからだんだんリズムが拡がって行くにつれて、それが具体的に現われます。それでリズムというのは最初小さく、だんだん大きくなって世界的になって行くのですが、とに角素晴らしいわけです。又面白いわけです。信者の人などもそのつもりで、世の中を見ていると分ります。今日はこれだけにしておきます。
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それから話は違いますが、結核は必ず治ると言いたい事を今日発表しようと思います。今まで大体そうは思ってましたが、やっぱり時期があって、どうもその気にならなかったのです。というのは、これは皆経験しているでしょうが、病気がだんだん治って行くのに、衰弱のために倒れて行くというのが殆んどです。だから結核でも、病気が重くなって死ぬという事は殆んどありません。みんな衰弱で死ぬのです。病気はだんだんよくなって行っていて、衰弱のためにやられるのです。そういうわけですから、衰弱さえせず命さえ続いていれば、だんだん毒素は減って行きますから治るわけです。では衰弱は何かというと食べ物です。食べ物さえ食べていればよいのです。なにしろ食べ物が少ないのと、熱のために食欲がなかったり、咳をしたり睡眠がとれないという事でやられて行くのです。ですから、むしろ食欲が減らないようにするのです。それには肩です。結核の人は必ず肩が固くてコチコチです。結核の人で肩が柔らかいという人はありません。拳骨を入れたような人がありますし、まるで骨としか思われないような人がありますが、これが食欲に一番関係するのです。だから結核の人は何がなんでも肩を柔らかくする事です。それを溶かす事です。そうして肩さえ柔らかくなれば必ず食欲が出ます。だから結核とは肩の凝った病気と思っていれば間違いありません。そうすると按摩さんがよいように思うような事になりますが、按摩さんは一時ですから、除ることはできません。よくスポーツマンなどが割合に早死だということ、それから必ず結核で死ぬのですが、この事は私は前に書いた事がありますが、やはり肩が凝っているためです。特に水泳の選手がそうです。非常に肩が凝っています。これは腕を使いますから、どうしても毒が肩に固まります。そういうわけで、つまり肩を柔らかくするという事を、一つ心得てやる事です。そうして肩が柔らかくなれば、必ず食欲は出るし、熱も減ります。肩からの熱が一番多いのです。それで肩が柔らかくなれば、此処(頸)も柔らかくなります。ですから大体結核というものは胸の病気ではありません。肩と頸の病気なのです。だから此処で溶けたものが肺にはいって痰になって出るのですが、医学の方では此処(頸、肩)の方を見ないのです。此処のが溶けて肺にはいって痰になって出る、その出ている所を見て、胸の病と言うのですが、こっちの方が元なのです。だから結核は肩というように思っている事です。それからついでに話しますが、息切れは何処に原因があるかというと、これもよく知っておくとよいです。これは肋間です。息切れのある人は横腹に毒が多いですが、押してみると必ず痛い所があります。骨に固まっているというのが多いのです。それで歩いたり急いだりすると、肋骨にからんでいた毒素の固まりが、少しでも溶けますが、溶けると出そうとして肺が引張るのです。それが息切れです。だから特に喘息などはそうです。よく肺病の人に息切れが多いですが、あれは肩が少し溶けたものが此処に来て固まるのですから、やはり元は肩にあります。結局結核は肩が第一、それから頸の廻り、それから肋骨附近と思って、その浄霊をすれば、まず治ると言ってよいです。ただ衰弱が或る程度を越えて過ぎていると、浄霊を始めても間に合わない事がありますから、それだけは心得ておかなければいけません。やはり肩をやっても、肩で溶けたものが一旦肺にはいって痰になって出るのですから、衰弱しきっているのをやっても間に合いませんから、それだけは心得ておくとよいです。それから食欲がないという事は肩のためという事を知っていればよいです。ですから胃を浄霊するより肩を浄霊した方が食欲はつきます。それからもう一つは頭ですが、結核の熱というのは頭が多いですから、これは肩をやれば頭もよくなります。けれども前頭部を触ってみれば熱があるのは分りますから、それも一緒にやれば、より早く治るというわけです。
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六月十六日
昨日のお祭りは、箱根地上天国模型完成祝賀記念祭ですが、これは大変な意味があって、つまりいよいよ世界にミロクの世が生まれたという意味になるのです。その事を書きましたから、今読ませます。
御論文〔⇒神仙郷地上天国の大いなる意義〕【註 栄光二一六号】
今読んだように、これは何時かも話した事がありますが、「ゴーラ」という言霊は、「ゴ」は、「火」で、「火」は「霊」です。それで「ゴー」と続けるのは、火が続く事です。「ラ」は「渦巻く事」「螺旋」です。霊界ではいよいよ左進右退的活動が始まるのです。そうするとそれはどういう結果になるかというと、火の霊気はつまり火素ですから、浄化作用が強くなるわけです。そうするとこの左進右退の渦巻が一切のものに行って、或る程度浄化されたきれいなものは中にはいれますが、汚ないものは外にはねられてしまうのです。大浄化作用です。ですから残ったものは善で、はねのけられたものは悪ですから、自然に善悪の立別けがついてしまうわけです。それでこの渦巻を自然に通って、はねのけられない人を作るのが救世教の信仰です。あなた方ははねのけられないでしょうが、しかしあんまり慢心したり取違いをしたりすると危ぶないですから、そこをうまくやってもらえばよいのです。それで中にはスーッと通る人もあるし、通っても閊(ツカ)えたりして、かなり苦しむ人もあります。それでそれが一番現われるのは病気です。これはあなた方が始終浄霊していて、だんだん浄化が強くなって、強くなるとどっちかに片付くのが早くなるのです。助かる死ぬという事がはっきりするのです。これは日のたつに従ってそういうようになって来たという事で充分わかるわけです。ですからこれからは非常に面白くもなるし、恐ろしくもなるし、間違っている間違ってないの結果が早く分るわけです。けれども、私の話をよく聞いて御神書を読んで居れば、そう難かしい事はありません。それで今までの小乗宗教と違って窮屈なやかましい事はないのですから、本当の意味さえ分れば楽々と峠は越せるわけです。一番肝腎な事は、小乗的に物事を決めない事です。というのは、一番分りやすいのは、人間の考えでは分らないと思えばよいのです。ところが小乗的考えの人は、自分で理窟をつけてそれが本当だと思い込んでしまうのです。だから一生懸命にやりながらかえって間違ってしまうのです。これは大本教のお筆先にうまい事を書いてあります。“人民が良いと思ってした事は、神の眼から見れば間違っている事が沢山あるぞよ”というのがあります。だから良いと思い善と思っている事が、実は神様のお邪魔になる事があります。それは自分の思う事が本当だと思うからです。そう思うという事は慢心なのです。だからお筆先には慢心取違いを一番注意してあります。それで“人民の眼で分るような、そんなチョロコイ仕組は致してないぞよ。神界の事は、分らんと思いたる人は分ったのであるぞよ”というのがありますが、御神書を読めば何処かしらにチャンとありますから、それさえよく気に止めて判断すれば、別に難かしい事も何もないので、かえって楽なのです。だから間違っている事をやっている人は、骨折ってます。いろんな苦しい事をし骨折ってやってますが、それは間違っているからです。楽々と行くのが本当なのです。それが今までの宗教とは違います。今までの宗教は地獄的宗教であって、天国的に救う事はできない宗教です。というのは力がないのです。救世教は天国を造る宗教であるから、そのやり方も天国的やり方でなければならないのです。結局力です。今までの宗教は力がなかったのです。キリストにしろ釈迦にしろ力がないのです。だから理窟はいろいろうまく説くが、実際の力がないから、本当に救えなかったのです。というのは夜の世界ですから、今までの力は月の力ですから、ごく弱かったのです。だから極楽や天国を造ろうと思っても、どうしても邪神に邪魔されて、思うようにゆかなかったわけです。ところが今度神様は私にその力を与えられてますから、それはなによりも、弟子がキリストと同じような奇蹟を盛んに現わすのでも明らかです。キリストを作る力ですから、それは大きなものです。それで力というものは霊体一致すると力が出るのです。今までは霊体が一致しなかったのです。霊体一致という事は、火と水がチャンと結ぶと本当の力が出るが、今までは結ばなかったのです。というのはキリストは緯の教えを説いて、釈迦は経の教えを説いて、離れ離れになっていて結ばなかったから力が出なかったのです。ですから力という字は、経の棒を引いて緯を結んで十の字になっているが、結ぶと初めて力が出るのです。そうして左進右退に廻り始めるのです。ですから力という字は、十の字になって左進右退に廻るのですが、文字は神様が作ったのですが、実によく出来ているものです。人間でも「人」という字が霊と体になってます。尤も今の人は逆で「入」の字になってます。そういうわけです。そこで箱根は今も読んだとおり東西の中心です。東が経で西が緯ですから、此処がつまり十の字の真中になるわけです。それで十の字の真中になっている所に初めて地上天国の模型が出来たのですから、いよいよ世界に地上天国が出来るというわけです。ですからこれが大きくなれば世界的になるわけです。そこで開闢(カイビヤク)以来ない結構なものが出来たわけです。非常に目出度いわけで、昨日という日は丁度、建国祭と言えば日本ですが、世界の建国祭、世界の紀元節みたいなものです。ですから本当言うと、一九五三年はもう終りになって、今年は新紀元の元年になるわけです。この間の歌に、新しい紀元が出来るという事を書きましたが、それが分るとなかなか面白いというよりか、はっきりするわけです。そういう事も神様は前から決めてあるのです。ですから此処に天国を造るために、石でもこんなに沢山ある所は箱根中にありません。それで此処だけはそういうようにしてあるのです。又石の種類も多いのです。下の強羅公園も石は多いですが、種類は一色で同じような石です。しかし此処にある石は随分種類がいろいろあります。そのために随分面白く出来ました。それから渓流でも何でも、丁度うまく嵌まるように準備されているのです。そして強羅は下からだんだん上って来て、此処に来て初めて広い大きな平面の地所があるのです。これは何十万年、何百万年前に神様はこういう形を用意されたわけです。だからそういう事をよく考えると、実に深遠微妙なものです。それで箱根は「火」で「五」ですが、熱海は「体」で「六」になるので海があるわけです。それで京都が「七」になり、これでミロクになりますが、順序は此処が完成すると今度は熱海はどんどん進んでゆくわけです。熱海の地形にしても、皆知っているでしょうが、ただ面白いと思うのは、箱根は夏涼しくて、熱海は冬暖かいのです。それで里数から言うと僅かで、隣合っているのです。数里離れて気候がこれだけ違ってしまうのですが、こんなに隣合っていて、夏と冬と別々になる気候というのは、外国は知らないが日本ではないと思います。しかもどちらも温泉があるし、風景が絶佳だという事なども、神様がよく準備された事には実に驚きます。又箱根、熱海という所は日本の京浜京阪です。関東関西のごく繁華な中心地の丁度間にあるのです。つまりどっちからでも天国に遊びに行けるという交通の便利なども、余程うまく作られてます。其処に救世教が地上天国を造るという事も、実に神様の用意周到な業を、実際的に造ったわけです。その始まりが強羅で、それから熱海、それから京都、それから世界という順序で出来るわけです。それで世界的ですから、今度は大きくなるわけです。この神仙郷を世界的にもっと大きくしたものも出来るわけです。それはおうよそは分ってます。あとは時が来ればチャンとそういうような準備がつくわけです。それは大いに楽しみであり、興味のある事です。それでこれだけを見て、普通で言えば何年何十年とかかる大変なもので、とに角財閥か何かの財力でなければ出来ないと思うようなものですが、それがとに角、神山荘に初めて越して来たのが昭和十九年五月ですから、まだ十年にはなりません。この五月で此処に越して来てから九年というわけです。しかし最初は微々たるもので、おまけにその時代には新宗教というのはとてもやかましいので、手も足も出ないので、宗教という事は言えなかったのです。そこで治療ですが、日本浄化療法という民間治療で誤魔化していたのです。その時分は当局は信仰というものを非常に恐れたのです。ですからどうする事もできなかったのです。それで十九年五月に此処に来て、その年の十月に熱海に越しましたが、その時分には信者といったところで、宗教ではないから、信者らしい者でも百人とは居なかったでしょう。ですからそれこそオッカナびっくりでやっていたのですが、熱海に越したところが、私は警察のブラックリストに載ってますから、東京の警視庁からその土地の警察にすぐ通達が行っていまして、前科者ではないまでも、同様の嫌疑を持たれていたのです。だから熱海の東山荘に居た時は、熱海の警察から来て、塀の穴からのぞいて、今日は男が何人女が何人合計何人と報告するのです。そうして時々は特高などが来ていろんな事を聞いて、年中白い目でギョロギョロ見ているのですから気持が悪かったです。それが終戦になって、よい塩梅(アンバイ)に信仰の自由が許されたので、二十二年八月にやっと宗教法人として宗教的にやる事を許され、それから本当の活動を始めたのです。そうしてみると丁度この八月で六年になります。五年何カ月かでとに角これだけのものが出来、熱海もあれだけに出来たのですから、実に驚異的です。しかもその間それこそ脱税問題とか新聞雑誌のいろんな攻撃、静岡の事件と、いろいろとギューギューの目に遭わされたのですが、そういう目に遭わされながら、とに角これだけに進展して来たのですから、おそらく世界に例がないでしょう。なるほどキリスト教、仏教にしても、日本での宗教の大道場としては本願寺などは信者も相当居ますが、法然、親鸞、蓮如上人が中途に出て、千年以上かかってます。高野山でも千年はかかり、日蓮宗でも六百何十年とかかってます。それでも今のような状態です。割合に進展したのは天理教ですが、それでも百年以上かかってます。ところがこっちは今言ったとおり、精々正味六年です。その前から言ったところで、それまでは民間療法でグズグズしていたのですから、結局十年とはかかっていません。それでこれだけの舞台が出来たわけです。ですから現在でも既成宗教の本山というものに劣ってはいません。これは時代も違いますが、そういうわけで、この力というものが如何に素晴らしいものかという事が分ります。というのは今までのあらゆるものは月の力だったのです。それで救世教が初めて日の力を現わしたのです。それが今言ったような工合にはっきり具体的に現われているのです。そこで日の光がやっと昇ったばかりですから、これからだんだん天の中心に行くに従って光が余計増しますから、それに準じてやはり発展もそうなるわけです。それで本当に日が出たのは、私の自観叢書にありますが、昭和六年六月十五日に房州の日本寺が始まりですが、あの時は霊界の奥の方、最奥霊界が黎明になったのです。今度は現界の霊界に日が出たのが一昨々年の私が庵原警察の留置所の中で、日が出たと言えばおかしいですが、非常に神秘があったのです。日が出るという事はやはり天照大御神様です。これは古事記にもありますが、天照大御神様が御生まれになる時には、最初天宇豆売命という女の神様が非常に舞うのです。これは岩戸開きですが、それで天照大御神様はその岩の戸を細目に開けて御覧になると、いきなり手力男命が行って手をとって引張るわけです。そうすると五伴男の神様と言って、五人の男の神様が守護して世に出られるという事がありますが、これは勿論寓意ですが、それと同じ型が出たのです。あの時に、知っている人もありますが、差入屋の婆さんで五十近い未亡人ですが、舞いが非常に好きで、舞いを習っているのです。そうして前の晩に大勢呼んで随分舞ったという事を聞いたので、これはいよいよ岩戸開きだなと思ったのです。それで当時引張られた教団の幹部の人が五人ですが、最初は四人だったので、おかしいなと思っていたら、最後に渋井さんが引張られて五人になったのです。そこで五伴男命という事は、梅の五弁になるわけです。大本教のお筆先に“三千世界一度に開く梅の花、艮(ウシトラ)の金神、梅で開いて松で治める神界の世になりたぞよ”というのがありますが、梅というのは非常に重大な意味になっています。それで兄の花姫というのは、兄の花と書くのが本当です。木の花咲爺姫とは違います。これは桜で仏界の働きなのです。兄の花というのは、梅が一番先に咲くから兄の花です。あとはみんな弟になります。桜の方は妹、女の方になります。そこで梅の花が開いて、散りて実を結ぶというのは、梅の花の実は主の種と言ってチョンです。それで、今度の歌にも主の種という事がちょっとありましたが、主の種の花が咲いて、そうして四方に香るという歌が昨日のお祭りの歌の中にありますが、そういうわけです。そこであの当時散花結実というのを書いてみんなに上げましたが、これはその意味なのです。つまり梅の花が散つて、これから実が成るという意味を歌ったものです。これは非常に神秘な話です。そうしてあの時の手力男命は望月という弁護士です。あれが私を引張り出したのです。その時初めて天照大御神様の霊が私の腹に宿るという事になります。それが今だんだん大きくなりつつあります。もう余程大きくなって居ます。それで光がだんだん強くもなるし大きくもなります。その代り浄化も強くなります。しかし別に私がそうするわけではないので、神様がそうするのです。そういうようで、力という字は、「チ」は「霊」で、「カラ」は「体」という事を言いますが、「空ッポ」という事です。そこに「チ」「霊」がはいるので、生きた人間というわけです。そこで霊と体が組んで、初めて力が出るのです。それでスというものは世界です。それで今までの世界というのは空ッポなので、まだ魂がはいっていなかったのです。肝腎な中身がなかったのです。そこでお釈迦さんはうまい事を言いました。“この世は仮の娑婆だ”と言いましたが、確かに仮の娑婆です。本当ではない、一時の間に合わせというわけです。私は「文明の創造」を何時か読んだ事がありますが、“今までは間に合わせだ、本当のものではない”という事を書いておきました。そこでお釈迦さんは“仏教は真如だ”と言った。真如というのは真の如しであって真ではない、仮であって本当ではないというわけです。仏教の方では「実相真如」という事を言いますが、これはあべこべで、「真如実相」が本当です。実相とは本当の魂のはいったものを言います。それで最初真如が出て、それが済んでから実相になるのです。仏の世が済んでから実相世界、神の世界になるのです。そこで大本教のお筆先に“今までは仏の世でありたが、仏力と神力は違うぞよ”というのがあります。それで今までは要するに仏力、月の力です。今度は神力、神の力です。それで神というのは、「カ」と「ミ」、「火」と「水」ですから、やはり経緯という事になるから、本当の力です。ですからつまり仏力という事は本当の力でなかったのです。それで佛という字が人偏という事は、これは人間の力です。この文字はなかなか分り難いですが、片方の弗という字は弓という字なのです。弓に二本の棒を引いてあるのです。弓という事は月の事です。よく弓張り月という事を言いますが、弓の形が月の形になるのです。ですから弓をしぼるとやはり月と同じような形になります。それから神という字は示偏に申としてありますが、これは申ではないのです。やはり○に十で、上下に突き通っているのです。ですから経緯に結んで、これを世界に示すというわけです。神というのは、どこまでも十なのです。バッチの十もその意味なのです。
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結核について話しますが、何時か浄霊は一週間に一回くらいという事を言った事がありますが、だんだん浄化が強くなるから、その方針を変えなければなりません。というのはこれからは浄霊は幾度やってもよいのです。その代りこういうやり方をしなければならないのです。一番主にする所は肩です。というのは、浄霊すればそれだけ病は治りますが、一番厄介なのは衰弱する事です。熱が出る、咳が出る。そのために睡眠不足するというわけで、食欲が減るのです。そのために物を食べないから弱るというわけで、病気で死ぬのでなく、衰弱で死ぬのです。それがほとんどです。そこで食欲を減らさない方法は、肩を柔らかくするに限るのです。これは大体人間の健康を調べる健康診断の一番確実なのは肩を見る事です。肩が柔らかければ必ず健康です。ところが結核の人に限って肩が固いのです。中には膿が固まって骨みたいにコチコチしているのがあります。この肩の固いのが食欲に一番影響するのです。その意味でこういう事も知っておく事です。それは肩の柔らかい人は随分酷い病気でも、結局治るのです。それから肩の固い人はそれほどの病気でなくても、悪化してコロッと死ぬのです。これは私は沢山経験がありますが、又神様の方の医学から言っても、そういうようになっているのです。ですから肩を最も主にする事です。殊に結核はそうです。胃病でも胃もやるし肩もやると非常によくなります。ですから肩を柔らかくするという事が一番効果があります。だから結核は肩を充分やるにおいては、幾度浄霊しても構いません。そういう事にするのです。というのはだんだん霊界の浄化が強くなるにつれて、もう固まらなくなるのです。それで、あんまりやってはいけない、一週間に一回という事は、溶かすと浄化が強くなるから、溶かさないようにというわけでしたが、もうそんな事は言って居られないので、結局溶かす手段をとるのです。それで溶かすとやはり熱が出、咳が出、衰弱をしますが、それで物を食べればよいのです。それには肩を柔らかくすればよいのです。だからこれからは、結核患者は肩が固いですから、或る程度まで柔らかくなると食欲が出ますから、ずっと応(コタ)えが出て来ますから続くわけで、そこで治るという事になります。これからはむしろそういうやり方でやると、今までよりずっと治ります。結局結核でも必ず治るが、折角治っても再浄化で駄目になるというような事のないようにしなければなりません。この間は信仰的に結核の再浄化の事を言いましたが、今日は体的に話したわけですが、そういうようにやる事です。と言ってもやはりあんまり運動はさせない方がよいです。浄霊は幾らやってもよいが、寝たり起きたりくらいの程度にしておくのです。あんまり荒ッポイ事はさせない事です。そうすると浄化が又強くなりますから、そこの調節をうまくするという方法です。それで非常に効果がある事になります。それで結核が治ったという人、いろんな病気にしても、肩が非常に固いですから、それを自分で浄霊すると再浄化でも軽く済みます。それからもう一つは息切れですが、この息切れの原因はいろいろありますが、一番の原因は肋間神経痛です。痛まないのは痛とは言わないが、とに角肋間の骨に毒が固まっていて、少し運動をしたりすると溶けるのです。それを肺が引張るので、これが息切れです。ですから息切れのある人は自分で触ってみても必ず痛い所がありますから、其処が因ですからそれを溶かすようにするのです。他に息切れの原因があるように見えますが、しかし一番の原因は肋骨です。ですから肺病と言っても一番は熱は無論ですが、熱も肋間の熱が多いです。熱と食欲ですが、熱は固まりさえ溶かせば下がります。しかしとに角症状としては熱と食欲の不振、息切れが結核の一番のつき物ですから、その原因についてお話したわけです。
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六月十七日
此処の地上天国が出来上がったについて、その深い意味をお話しする前に、その事を書いたので読ませます。
御論文「⇒神仙郷地上天国の大いなる意義」【註 栄光二一六号】
終りにあった渦巻というのは、浄化作用なのですが、この浄化作用というのは、つまり太陽の精、火素です。火素の火の渦巻です。旧約聖書に“ヨハネは水の洗霊をしキリストは火の洗霊をする”というのがありますが、水の洗霊という事はノアの洪水になるわけです。つまり形があるのです。火の洗霊というのは火素の洗霊なのです。これはつまり目に見えないわけです。ですから浄霊で浄めるという事は火の浄霊なので、これはやっぱり火の洗霊というわけです。浄霊の仕事というものは火の洗霊の仕事なのです。この火の洗霊はキリストの救いになるわけです。だから救世教はキリストの仕事をしているわけです。しかし以前のキリストは形の方においてそれだけの力を与えられてなかったのです。ところが何故その力が与えられてなかったかというと、つまり夜の世界だったからです。そこで以前のキリストは月の力だったのです。そこで磔(ハリツケ)などになってしまったのです。ところが今度は火の洗霊で太陽の精ですからして、月とは全然力が違うわけです。何時も言うとおり、光で言っても六十倍は違うのですから磔(ハリツケ)などにはならなくて済むわけです。これがその時代だったら、やはりキリストと同じように十字架にかかったかも分らないが、今度は神様の力がずっと強いから、そういう事はなくて済むわけです。というのは以前は夜の世界だったからして月が主だったのです。これからは昼の世界になるのですから、渦巻という事は、つまり火の洗霊がだんだん拡がって行くというわけですが、これは浄化力が強いのです。そこで霊に穢れのあるものは、火の洗霊によって霊界が浄まって来るからして、それに相応しないで非常に違ったものは亡びる、つまり押し倒されてしまうというわけです。この渦巻に押し倒され、はね飛ばされない人間が残るというわけです。今此処に居る人は、はね飛ばされる人はないわけですが、ただし余程身魂が浄まってないと、骨が折れるという人はあるわけです。楽に鼻唄でそこを逃れるようにする事です。大本教のお筆先に“いよいよ建て替えが始まりても、神に縋りて居りたる者は高見で見物を致させるぞよ”というのがありますが、そうならなければならないのです。やっぱり芝居なのです。これが最後の審判というものですが、これは世界的の大芝居です。その芝居を桟敷で見るようにならなければならないのです。どうせ芝居です。善人と悪人との争闘ですから、いよいよ芝居が済めば、目出度し目出度しという事になりますが、そこで悪役が酷い目に遭って滅ぼされるという悪役に廻った者は可哀想ですが、ところが今度のこの大芝居は悪役の方がずっと多そうなのです。だからこっちが磨けていて桟敷に居るようになれば、実に面白い大芝居です。それはこれほどの劇はとても見られるものではありません。ところが助かって残るという人を作らなければならないから、それが神様の大慈悲なのです。そういう助かる人を一人でも多く作るというのが信者さんの使命なので、これは分りきった話ですが、そういうように大きな浄化作用がいよいよこれから世界的に拡がって行くという事を知ればよいわけです。それでそういう意味において、此処の地上天国が出来たという事は大変な事だというお話をしたわけです。
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それで力ですが、その力というのは神力、神の力です。この神力というものは今まで出なかったのです。今までの宗教でも一切は月の力ですから仏力です。仏力というのは、つまり月の光ですからして、非常に弱いのです。それでお釈迦さんが言った“この世は仮の娑婆だ”という事は、確かにそうです。仮りだったのです。ですから今までの医学なり文化というものは、本当のものが出るまでの間に合わせだという事を書きましたが、それはそういうわけなのです。そこですっかり精算して、そうして本当の仮りでない永遠の世界、永遠に真の行われる所、それが地上天国なのです。それで真善美がチャンと行われるという事になるのです。此処の美術館というのは、地上天国の真善美のうちの美の型です。ところが今まであらゆる宗教は真を説き善を説いたけれども、美だけは、これは説くのでなく形に現わすべきものですが、形で現わせなかったのです。お釈迦さんなどは祇園精舎を作ったというが、これは宗教的建物です。しかしこれも大したものです。それを真似したのが聖徳太子です。法隆寺というのは、つまり日本の祇園精舎です。ところがキリストは何も作らなかったのです。尤も、もっと寿命があったら作ったでしょうが、早死したのです。三十三というのですから、これからという時です。そういうようで、美を作るという事は、宗教は芸術なりという事を言うくらいですから、そうは思っていたでしょうが、この、美を作るという事が一番難かしかったのです。それでとに角日本では、聖徳太子があれだけのものを奈良の都市に残してますが、あれだけのものを作ったという事は偉大なものに違いありません。大体日本における美術の始まりというのは仏教美術ですが、仏教美術は聖徳太子が作ったのですから、やはり美としての神様です。そんなわけで、最近の新宗教でも美術館を非常に造りたがっていますが、金が要る事と鑑識がきかなければならないので、なかなか難かしいのです。天理教でも造ろうとしてボツボツ品物を買っているそうです。私の方は随分と厳選をしますから、道具屋が悲鳴を上げてます。何を持って来てもお気に入らないと言うのです。あんなに沢山あるのだから、無い物なら買う、と言うと、そういう物はありません、と道具屋は弱ってます。私の方では、後はいくらも買わないから、天理教に大いに売りなさいと言っているのです。そういうようで、どの宗教でも腹の中では、美術館をこしらえたがっているが、手が出ないので悔しがっているようなわけです。それでこれは大したものだと、近頃になってだんだん認めて来たようです。宗教に関係なく、ただ美術館としても、これほど完備した美術館、又周囲の庭園の状況なども、皆見るとおり素晴らしいものとなっています。この美術館などは、実は見本としてこしらえたものです。私が思い切ってやるのは熱海の美術館ですが、これは来年あたりボツボツやるつもりですが、これは此処の三倍くらいの大きさになります。それに此処で経験を得てますから、凡てにわたって最も完備したものを造るつもりです。此処のでも相当世界的なものですが、これからだんだん外国にも知れて行くような様子ですが、熱海に出来る美術館こそ、世界一と言ってもよいでしょう。建築の豪華なのはアメリカにもありますが、なにしろ中身が肝腎なのです。結局美術は東洋美術です。西洋の油絵やガラス器具、陶器と言っても此処に出ているエジプト、ギリシャ、ペルシャといったような物で、大した物はありません。支那陶器は英・米に一番集まってますが、それとても日本に比べたら劣ります。ただ日本は方々に散らばってますが、一カ所に寄せたら断然世界一です。それでその一カ所に寄せるそのために私は骨折って支那陶器を集めていたのですが、今まで集まったまでの支那陶器のレベルとしても、アメリカに比べて劣る所もあるし勝る所もありますが、平均して少なくとも負けてはいません。或いは幾らか勝っているかも知れません。それで日本にはまだ隠れた支那陶器が相当あるのですから、それが僅かずつでも集まって来つつあります。これは私が集めるのでなくて神様が運ばしているのです。ですから何処に何があるという事は大体分ってますが、なかなか売らないのです。私は、神様はどういう手続きでこっちに寄越すかと興味を持って見てます。そういうようで熱海の美術館こそ素晴らしいものが出来ると思います。それからまだ負けていると思われるのは銅器ですが、しかし日本全体から言えば負けてはいませんが、一カ所に集めているというのではアメリカのフリヤー美術館が一番です。日本にもありますが大分散らばっています。今度少し並べましたが、あれではまだまだ一級品ではありません。あの中での一級品は二、三点くらいです。あれよりかもっと良い物があります。これは少し人が悪いが、先方の懐が楽では駄目なのですから、どうしても売らなくてはならないというような状態にならなければならないのです。これは別に私がやるのではないので、神様がやるのです。又中には、自分の家の先祖からの秘蔵品だから売らないと頑張っている婆さんや爺さんがあるのです。それで伜はそういう事は何もないので、売って事業に使った方がよいというので、もう少したって婆さんが死ぬまで、と言っている所もあります。そういう事なども結局神様はうまくやるものです。それからお寺でも、お寺の宝物や本尊様というのがありますから、どうしてもそれを売らなければならないようなお寺の状態になるのです。つまり屋根が漏るとか修繕する所が出来てくるのですが、修繕するにはどうしても金が要るので、檀家の方に言うと、檀家の方では額を寄せて相談しても、出るのは溜息ばかりで、とても金が集まるわけがないので、それでは寺の何かを売らなければならないというので、取っておきの物を売らざるを得なくなります。そうかと言って、そういう物の買手がないのです。そういうのはいずれ国宝ですから、国宝は外国に売る事はできないのです。アメリカでは非常に欲しがってますが、そういう規則のために買えないのです。では日本ではというと日本で買う者は何処にもないのです。それは仏像の大きな物を普通の個人で買ってもしようがないのです。床の間には飾れません。そうすると美術館よりありませんが、日本の美術館では油絵を買う所はありますが、そういう古美術を買う所はありません。だから私の所で買うよりありません。そういう売物も相当ありますが、私の方では、わざと安く値をつけて放っておくのです。そうすると最初は文句を言ってますが、放っておくと結局だんだんまける事になります。まだ相当各寺にいろいろあります。又各寺の本尊様がこっちに来て御用をしたら、霊界にいるそこの宗祖、開祖などは非常な喜びなのです。その手柄によって上人とか大師が救われるのです。それによって仏滅の境い目に救われるわけです。だから今度の歌にもあるとおり、みんなそういう人達が救世教の手柄をしたいと大騒ぎをやっているのです。それにはそういう寺の宝物を、つまりこっちに差し上げるという事が一番ですから、結局そういう事にな
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それから話は違いますが、肺病に対する治し方について、これは私は前からそう思っていたのですが、やっぱり時期の関係で充分徹底して話ができなかったのですが、今度神様の方でその事を催促(サイソク)と言いますか、そういう事が分ったので話します。結核は浄霊すればしただけは毒が減ってゆきますから治りますが、ただそのために衰弱して、衰弱で参ってしまうのです。衰弱するという事は食欲が減るためです。だから食欲が出るようにすればよいわけです。それにはどうすればよいかというと、根本は肩なのです。結核の人は必ず肩が固いのです。中には骨みたいに固い人があります。骨と間違える事があります。私なども元結核をやりましたから、肩胛骨のちょっと上の所に骨か肩胛骨の続きだと思っていたが、押すと痛みがあった所をだんだん溶かしていたら、これはやっぱり薬毒の固まりです。それは非常に固いものです。だから肩を主に溶かすのです。それで肩が柔らかくなると食欲が非常に増します。私は前に“やせるのも太るのも自由自在だ”という事を書きましたが、そういうようで、肩さえ柔らかくすれば食欲は幾らでも出ます。これからは結核患者は肩の固い所を一番主にして溶かす事です。それで食欲さえ相当にあれば結局衰弱しないから治るに決まっています。今まで気がついては居ましたが、それほど強調しなかったのです。今度はそれを最も強調するというわけです。ですから肩が第一、それから頸です。大体この淋巴腺とか耳下腺の毒は、肩の毒が行くのです。薬毒が体の中にはいると、薬毒というものは一番最初は腎臓に行くのです。腎臓が薬毒を無くする働きをするのです。それで腎臓は或る程度までで、腎臓で固まるか固まらないうちに、みんな頭を使いますから頭に上って行くのです。頭に上って来ると肩に集まるのです。これは手を使ったり、根(コン)をつめたりすると肩が凝ると言います。それが出ようとして鼻になったり痰になったりして出ようとして、これが頸の方まで行くわけです。それで頸が凝るというわけです。ですからとに角肩です。肩を第一にして、頸の廻りを第二にすれば、これで肺病は大体治ります。それでこれが又心配したりして頭を使ったりすると、結核になってからですが、“結核だと言われた。オレはもう結核だ、どうしよう”というような心配をすると、前頭部に集まって来るのです。それを溶かすには此処(頭の中心)をやればよいが、そうすると熱が出ます。それで体温計をやると、その反響が脇の下まで来てますから、七度五分とか八度とか言うことになります。此処(脇の下)に熱があるからお医者さんは胸だと間違えるのです。肺病というのは胸の病気ではないのです。頸の病気、肩の病気、中には頭の病気と言ってもよいです。ですから頭を浄霊すると盛んに咳をし痰が出たりします。そういうようで、結核は胸に関係はあるが原因はありません。これが熱で全部溶けると、一旦肺にはいって、咳と痰が出るのです。それで此処(胸)をレントゲンで見ると其処にあるから、それで此処が悪いと考えるのです。実に単純な考え方です。ですから胸の病気ではないのです。これは本に詳しく書いてあります。それから頭を溶かしますが、これが痰になるのは早いもので、間発を入れずに肺にはいって出ます。それから股(マタ)とかお腹をやると、すぐ溶けて腎臓に行きますが、この速さは一秒の何分の一という速さです。その場合には管とか筋とかは通らないのです。一ぺんにパッと来るのです。これは霊的に来るのです。そうしてそれが物質に変化するのですから、実に神秘なものです。何処かがちょっと痛いとすると、その痛いと感じるのは頭ですが、それは一秒の何分の一か何百万分の一か分らない速さです。痰もそうです。何処かで溶けるとパッと肺に来るのです。そして肺から出るのです。ですからこの辺の毒が痰になるのもすぐです。それからもう一つは息切れというものは、大体肋骨です。肋間神経痛と言えば痛みですが、肋間神経痛みたいなもので、肋骨に固まった膿が溶けるのです。それが息切れです。よく息切れで咽喉がヒュウヒュウすると咽喉が悪いと思ってやりますが、これは咽喉ではないのです。それは下痢しても別に肛門が悪いわけではないというようなものです。ところがよく医者の方では咽喉が悪いと言います。咳が出ると気管支が悪い、気管支喘息などと言いますが、それは気管支ではないのです。気管支はただ痰をつり上げるためのもので、それでゼーゼー言ったりするのです。ですから息切れというものは肋骨附近にある毒の固まりが、歩いたりすると息が切れるという事は、歩くと軽い浄化作用が起こりますから、此処にある物が少し溶けるのです。溶けると肺が吸収しようとして引張るのです。それで息切れがするのです。ですから息切れのする場合に押してみれば必ず痛い所がありますから、其処を浄霊するのです。そうすると息切れはずっと良くなります。これが根本です。それで一番多いのは横腹です。脇の下なども多いです。それで息切れをして、今にも息が止まりそうなのは、ちょっと触ってみると固まりがありますから、それを溶かすとスーッと良くなります。ですから、息切れはそう心得ておかなければならないです。それから、そればかりでなく横隔膜の毒がやっぱり息切れの原因になります。これは喘息に一番多い症状です。それから息切れは腹にあるのもありますが、これはごく軽いものです。姙娠した婦人が、腹が大きくなって肩で息をすると言いますが、これはずっと楽なものです。一番息切れが起こりやすくて苦しいのは肋骨附近と思っていればよいです。ですから結核というと胸をやりますが、おうよそ見当違いと思うくらいなものです。それから咽喉が悪く、咳や何かが出ると、喉頭結核とか言いますが、これも見当違いです。ただ、咽喉が悪くても、ジフテリヤは咽喉そのものが悪いのです。これだけ心得ていればよいです。ジフテリヤの症状は息をするのに非常に苦しいのですが、一種の特異的症状です。子供などで息が詰まりそうな状態になりますが、これはジフテリヤです。ジフテリヤと百日咳だけは違いますが、その他の息切れというのは今お話をした意味ですから、それを知っていれば、別に大した厄介なものではありません。今言ったようにやれば結核はまず治ります。ただごく酷くなって、末期になった者はしようがありません。骨と皮になって、熱が高くて、もう医者は見放したというのはしようがありません。これは程度を越してしまっているのです。それでも治ると思ってやると飛んだ目に遭います。つまり、やはり肩を或る程度柔らかくするまで生命が持続するというのが根本ですから、肩を柔らかくし、食欲が増すまでに間に合わなかったら、これはしようがありません。そこのところをよく見別けるようにしなければいけません。それから肩の柔らかい人はかなりのものでも治ります。しかし肩の固い人はそれほどでなくても急に悪くなって死んだりします。ですから肩の固い柔らかいという事が、その人の健康を見る一番の根本です。ですから私は何時かも話した事がありますが、偉い人になったとか出世した人とかを私は昔やった事がありますが、そういう人は必ず肩が柔らかいです。肩が柔らかい人は精力があります。つまり持続性があるのです。そこで結局成功するのです。くじけないで耐久力があるのです。それは必ず肩が柔らかいのです。それからおかしな話ですが、年をとってその道において非常に精力の強い人はみんな肩が柔らかいのです。これは随分有難い話です。それから今までは結核は一週間に一回くらい浄霊をするという事を言いましたが、これは取り消しにして、これからは、浄化がだんだん強くなりますから、あの事は浄化が強過ぎるから、浄化を緩(ユル)めるために言った話なのです。これからは浄化を緩めるという事はだんだんできなくなりますから、今度は逆に、できるだけ浄化を促進させて積極的にきれいにするという方がよいです。それでさっき言ったように肩を主にしてやると共に、毎日浄霊してもよいのです。それから入信している者は、自分でも肩の浄霊をやるとよいです。できるだけそういうようにさせるようにした方がよいです。それで肩というのは非常に固いものですから、こっちで浄霊してやるよりか、本人が暇があれば始終やっている方が効果があります。そういうようにしてやった方がよいです。
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六月二十五日
何時も奇蹟はありますが、最近のお蔭話の中に奇蹟中の奇蹟というのがありました。それは、六つになる子供ですが、普通医学上では小便が出ないのは八時間以上は危険だとなっているのですが六日間出なかったのです。それで命は取り止めました。ところが睾丸と陰茎が、膿がひどく出るために根本から取れてぶら下って、何にも無くなってしまったのです。だから其処から腸が出ないかと心配したくらいです。その跡が握り拳ぐらいあったのです。それが僅かの間に元通りに生えたのです。その批評をつけたお蔭話を今読ませます。これは毎日新聞に話して出したいと思います。又出す値打があります。しかし又宗教宣伝になるから出さないかも知れませんが、出さなければ出さないで新聞社の連中だけに分らせるだけでもよいです。それから、これは駄目でしょうが、岡田道一さんに医師会に発表できるかどうか聞いてみようと思います。そうすれば相当な幹部のお医者さんが見ますから、それだけでも効果があると思います。
御論文〔⇒超奇蹟〕【註 栄光二一八号】
今読んだとおりで、驚くべき奇蹟です。今までにもいろいろな奇蹟はありましたが、こんな素晴らしいのは初めてです。
「五月十五日に行って参りまして本人の陰部を見て参りましたが、陰茎は一寸五分くらい、睾丸は小さな盃くらいで三分の二くらい下がつております。誠に有難うございました」
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それから私は前から言おうと思ってはいましたが、これで気がついたので言います。重病の場合でもう治る見込がないという時に“どんなになっても、まだそんな失望するにあたらないから、しっかりして居ろ”と言って慰めますが、これは本当言うといけません。やはり生の執着が御守護の邪魔をするのです。治すのは、正守護神が神様の方から力をいただいて、自分がお取次して治すのですが、その場合に生の執着があると、正守護神の思うとおりにならないのです。本人や周囲の者の執着心が邪魔するので、治る場合も治らないという事も大いにあります。ですからこれからは、もう駄目だと思ったら、早く本人に諦らめさせるのです。“これはもう駄目だ、死ぬ覚悟をしなさい”と言った方が、かえって助かるのです。この事は私も経験がありますが、私は二十八の時にチフスをし、自分でもとても助かるとは思えないので遺言をしたのです。それは前の家内の時で、当時小間物屋だったが、“自分はもう駄目だから、自分が死んだら商売は誰々に任して、こういうようにしろ”と言ったくらいですから、全然生の執着が取れたのです。それで知っている人の兄が医学博士で、病院が近くにあるので其処に頼んだのです。そうするとその医者が来て診た結果、これは入院しても助かる見込はない。助かる見込のない者をみすみす入れるという事は病院の信用を落すからお断りすると断わられたのです。ところがその頃の私の家は狭くて、起居する部屋は二部屋しかないので、若しもの時に大勢人が来ても狭いから、死んでもよいから入院させてくれと、院長の弟が友達だったからその方から頼んで、やっとはいったのです。それでその当時は自動車はなくて人力車でしたが、人力車にも乗れなかったので、担架に乗って担いでもらって行ったのです。そして寝ながら町を歩いている人を見て、これで人を見るのも見おさめだと思ったのです。そうしたら夢とも現(ウツツ)ともなく墓場が見えてしようがなかったのです。それで自分は駄目だと余計思われました。しかしどうやら息はつながっているのです。そうして非常に強い薬で、この薬が効かなければもう駄目だと言われたが、それをのまされるとその苦しいの苦しくないの、実に苦しかったです。それでも死なずに居ました。そこで係の医者が、最初の見立ては肺炎だというのですが、その医者は肺炎とは思えない、チフスと思うから試験してみようというので、発泡薬というのでツユを取るのですが、ツユを取って顕微鏡で見たら、確かにチフスだという事で、チフスの手当をしなければならないという事になったのです。チフスは絶対流動物であって、チフスには薬はないのです。それから絶対流動物で、だんだんよくなって治ったのです。そういうようで、生の執着を取った事がよかったのです。 それには本人が肝腎なのです。本人に“あなたはもう駄目だから諦めなさい”と言い渡した方がよいです。それから本人ばかりでなく、親や周囲の近親者も大事なのです。近親者の執着の霊が邪魔します。ですから霊の邪魔というのが非常に重大なのです。それはそれとして、家の中に非常に反対している者がある場合に、反対している者は“若しか治ると自分が恥をかいたりするから、どうしても治らないように”と一生懸命に思うその霊が又非常に邪魔をするのです。そこで、執着は何にでもいけませんが、執着はどこまでも逆効果になるという事を心得ておかなければいけません。これは病気ばかりでなく、他の事にもあります。よく、金が欲しい金が欲しいと思いますが、その金の執着がある間は金ははいらないのです。その執着が邪魔するのです。まして信仰にはいって居ればなおさらです。そういう事は忘れてどうでもよいと思うようになるとはいって来るので、実に皮肉なものです。ですからあの人に信仰の事を分らせよう分らせようと思っていると相手は分らないのです。勝手にしろ、それだけの御守護があれば分るし、さもなければ駄目だから、と忘れてしまうのです。そうすると先方で信仰にはいりたいと頼みに来ます。ですから良い事でも執着は邪魔するのです。或る程度骨折って、あと思うとおりゆかない時は放ったらかしておくのです。そうすると案外よいものです。
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それからこの前の時に“結核は浄霊するだけは毒が減ってゆくから病気が治りつつあるのに悪化する”という事について話しましたが、それは衰弱のためです。という事は食欲が減るためです。再浄化の時にはよくあります。再浄化の時には、長くのんだ薬毒が咳になり痰になり、又熱が出る。そうすると咳で夜も眠られないとか、非常にセキ込んで体力を非常に消耗します。それから熱というものがやはり体力を最も消耗するものです。そのために薬毒はだんだん取れつつあるにかかわらず衰弱を増して来るのです。それを補うには食事より他にありません。その食欲を出すには、一番に肩を柔らかくするのです。これは結核ばかりでなく、何病気でもそうです。胃が悪い人でもそうです。肩を柔らかくすると非常に食欲が増します。ですから胃病の人は胃をやるより肩をやる方が効果があります。前に言った事がありますが、健康診断は肩で分ります。肩が柔らかい人は健康です。病人で助かる病人と助からない病人は、肩が柔らかい人は随分悪くても助ります。それから肩の固い人はそれほどでなくても駄目になってしまいます。健康上一番重要なのは肩の固い柔らかいという事です。それからもう一つ面白い事は、成功者の人の肩は必ず柔らかいのです。私は以前相当偉い人を時々治療しましたが、成功した人は肩が柔らかいです。今でも覚えているのは、近頃の特需で軍器製造をやっている、前の三菱重工業の社長で、今再びそういう地位になっている郷古潔という人の肩は非常に柔らかくて、固い所は少しもありません。それからこの間大臣になった田子一民という人の肩も柔らかいです。それから大分県の人で前の内務大臣の後藤文夫という人も肩が柔らかいです。その他にもまだ居ますが、最近社会に出た人だけを例にあげたのです。そういうようで、成功する人は肩が柔らかいのです。何故かというと、肩が柔らかい人は非常に精力が続くのです。だからどこまでも突進して行くから成功するのです。それで大抵な人は相当にやっても途中で挫(クジ)けるのです。いい加減な所で妥協してしまうのです。欲が制限されるのです。それだから中途半端(チユウトハンパ)になってしまうのです。それは肩の原因が大いにあるのです。だから子供などの肩を柔らかくしてやるという事が、子供が社会に出て出世するとか、或いは学校の成績がよいという事になります。これからは病気についても、一切は肩を柔らかくするという主義でやらなければいけません。これは私は前から知っていますが、どうも今まではいい加減にしていたのです。それで最近、私は薬毒が沢山あるので方々を浄霊しているうちに、肩が非常に固くて骨みたいな物があります。それを去年あたりから肩を中心にして浄霊していたら、近頃は柔らかくなって、食欲が倍くらいになって、体の工合が非常によいのです。それで前から知りながら今さらのように気付いたので話をするのです。人の肩もそうですが、自分の肩も固い人は自分でやればよいです。それから私は何時か此処に居る三尋木さんをやった事があるが、柔らかいよい肩です。ですから事実において健康です。それから肩の柔らかい人はみんな太ってます。それは食欲が増えるからして太るわけです。そういうようで、まず肩を柔らかくすると凡てにおいてよいです。
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六月二十六日
今読ませるお蔭話は非常な奇蹟で、到底あり得べからざる事です。
御論文〔⇒超奇蹟〕【註 栄光二一八号】
今読んだとおりで、素晴らしい奇蹟です。陰茎の方は中頃くらいで切っても元通りになるものでこれは医学でも分ってますが、睾丸が元通りになるという事はどうしても分らないことです。ですから大奇蹟です。それで今もここに書いてありました執着ですが、この執着が非常な災をするのです。それについて考えましたが、死ぬような危険な病人に明白(アカラサマ)に“あなたは駄目だ”とはどうも言えないのです。それに、そう言ってガッカリさせてはいけないと思うのです。それで“なるだけ気を丈夫に、悲観しないように”と力をつけるのです。ところが実はこれはあべこべなのです。誰でも、生きたい死にたくない、と思うのは当り前ですが、それに対して“あなたはもう駄目だ、覚悟をしなさい”と言って、本人が死ぬ覚悟をすると、本当から言うとその方がかえって治るのです。これは今言う生の執着です。これは病人に限らず一切がそうなってます。例えてみれば、金に苦しんでいるとか、金に苦しんでいなくても、“金が欲しい欲しい”と思っている時には金がはいらないのです。それで“もう金なんかどうでもよい”と諦らめてからはいって来るものです。これは誰でも経験があるでしょう。“こういう物が欲しい”と思う時には来ないもので、“もうどうでもよい”と思うと来るものです。私もそういう経験は沢山あります。なにしろ二十年間借金で苦しんだのですが、その時には金が欲しくてしようがなかったのです。少しでも返さなければ差押えで危ぶないのです。その欲しいと思っていた時には不思議にはいらなかったのです。それで“神様が何とかしてくれるから、そんな執着は捨てた方がよい”と、昭和十六年から金の執着は捨ててしまったのです。それでもう金の心配はないという時になって、それからドンドン金がはいって来たのです。それから映画を見ると、この事がよく出てます。映画の脚本というのはほとんどそうです。即ち男の方が女に惚れて大騒ぎをして追いかけると女は逃げるのです。それで今度は女の方が大騒ぎをして男を追いかけると男が逃げるのです。これが映画の筋です。男に恋するが男は冷淡でいる。そうして何かのときに今度は男が大騒ぎをやって来ると、女の方は喜んで結合しそうなものですが、そうなると今度は女の方が逃げるのです。不思議なものです。それは今の執着で、逆効果なのです。私は二十八の時にチフスをやって、自分の体の様子でゆくともう助かるはずはないというので遺言しました。その時は小間物屋をやっていたので“オレが死んだらこういうようにしてくれ”と前の家内によく遺言して、死ぬ覚悟をしたのです。ところが家が狭くて、若しか死んだ時に人が大勢来ると狭いので、死ぬなら病院で死んだ方がよいというので、近くに私立の内科病院があったので其処に頼んだところ、これはもう駄目だと断わられたのです。私立は官立と違って、死ぬ事が分っていて入院させて死なれると、病院の評判が悪くなるからというので断わられたのです。ところがその院長というのは、私の同業者の兄貴になるので、その方から頼んで、病院で死なしてもらいたいと頼んだところが、その義理で、“では”と承知したのです。それで当時は人力車の時代ですが私は衰弱して人力車に乗れないので、担架に乗せられて運ばれたのです。そうすると町をいろんな人が歩いてますが、これで町を見るのもおしまいだと思って、実際心細い話です。そうして入院して二、三日の間は大した違いはなかったのです。ところが肺炎だという診断だったので、肺炎ならこの薬をのめば必ず治る、これで治らなかったらもう駄目だというので、その薬をのむと非常に苦しんで、その間夢現(ユメウツツ)に墓場が見えるので、オレはもう死んで行くのだ、それで見えるのだと思ったのです。そうしたら、その明くる朝になったら係の医者が来て、院長は肺炎だと言うが、僕はチフスではないかと思うからチフスの試験をしてみようと思うと言って、発泡薬といって、膏薬を張って其処から水を取り、その水を試験したのです。そうしたらこれは肺炎ではない、立派なチフスだというのです。それでこれはチフスの手当をしなければならないということになったのです。ところがチフスには薬はないのです。強壮剤に葡萄酒をやって、牛乳とか肉汁をやるのです。それを飲まされてそれでだんだん良くなって治ったのです。それで今考えると、遺言して死ぬ覚悟をしたのですが、それがよかったのです。そういうようで、これからは、危ぶないという病人にはかえって“駄目だ、死ぬ覚悟をしなさい。神様はあなたに御用があれば助けて下さるし、御用がなければしようがない”というように宣告した方がよいです。それで又家の人の執着も大変な災をするのです。“助けたい助けたい”という霊的の執着が邪魔します。神様の御守護によって助けるという事ですから、家の人が執着でそう思うと、その家の人の霊が本人に行って取り巻いたり、霊につながります。そこで神様の方と言っても正守護神ですが、正守護神が働けないのです。又特に家の中に反対者がある場合、医者にかかれ、かかれと言っても、かからないでいる。それで助かると自分の面目にかかわるから死ぬようにと思うから、これは余計強い妨害になります。ですから、どっちも執着は妨害になります。だから病人をできるだけ忘れるのです。忘れるという事は、死んでもよいと言って葬式の考えでもした方がよいです。そうすると執着の霊がつかないから、そこで正守護神が充分に活動できます。ですから今言ったとおりに知らせるという事は非常によいのです。ですからそういう方針にした方がよいです。
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それからこの前も話したが結核の場合、病気は治ってゆくが、食欲がないと、どうしても物を食べないから衰弱し、衰弱によって倒れるのです。しかも浄化は、熱が出ますから熱というのは体力を消耗します。熱が出れば痰が出るから睡眠もよくとれないというので非常に衰弱して、衰弱で倒れるのです。ですから一番よい事は食欲を大いに出させるのです。食欲を出させるには肩を柔らかくするのが一番です。ですから胃弱で食欲のない人は、胃を浄霊するより肩を浄霊する方が効果があります。それで気がつきましたが、私は昔偉い人を治療した事がありますが、最近よく知られている人で三人ばかり思い出したのです。郷古潔という前の三菱重工業の社長と、それからこの間大臣になった田子一民、それから前の内務大臣の後藤文夫という人、この三人を浄霊した事がありますが、三人とも揃いも揃って肩が実に柔らかいのです。大抵な人は肩には固まりがありますが、今言った人達はブヨブヨです。世の中で成功している人は肩が柔らかいと思いました。まだ他にもありましたが、今の三人は時の人で、一番よく分りますから話したのです。そういうようで柔らかい人に限って成功するというのは、肩の柔らかい人に限って健康なのです。つまり精力があるのです。此処に居る渋井さんは肩が柔らかいのです。ですから四、五年前の中風も余計順調に治ったのです。随分酷い病人でも肩の柔らかい病人は助かります。それから、それほどでなくても肩の固いのは駄目になります。大した病気でもないのに急に悪くなって駄目になるのがありますが、そういうのは必ず肩が固いのです。私は前に言った事がありますが、健康診断は他を調べる必要はない、肩をみて、肩の柔らかい固いで健康を決めれば一番間違いはない。と言った事がありますが、そういうようで肩というのは非常に重要なものです。では何故前からもっと強く言わなかったかというと、私は去年あたりばかに食欲が減って来た、これはきっと肩に違いないと思って、やっぱり私は肩が固いので、それから自分で肩を浄霊しているうちに、だんだん柔らかくなって、今はすっかりではないが、半分くらい柔らかくなって来たのです。それで食欲がドンドン増したのです。今は場合によると五割増しくらいの時もあります。それで自分で経験して、これは肩だという事がはっきりしたのです。ですからこれは大いにやらなければならないというわけなのです。そこで結核に限らずどんな病気でも、肩を柔らかくするという事が一番です。それで肩というと按摩さんみたいに揉(モ)まなくてはならないように思うかも知れませんが、その必要はありません。後方から肩の所を目がけて浄霊すればよいのです。それで着物の上からでも押してみて、痛いか凝っているかという事を聞いてもよいです。その方が尚はっきり分ります。それで場合によっては肩の上から霊を入れ、又後方からやってもよいです。とに角肩を柔らかくするという事です。よく子供で腺病質と言いますが、腺病質というのはみんな肩が固いのです。肩をよくやるのです。それから風邪を引くのは一番は肩の凝りです。この凝りをとれば風邪引くのも軽く済むか、或いは引かなくなります。それから頭がそうです。首の廻りの毒というのは、最初肩に行って、肩から行くのです。ですから何にしても肩を柔らかくするのが第一番の健康法です。これからはそれをやる事です。それから近頃流行っている精神病も肩に非常に関係があります。精神病は側ではなかなか浄霊をやらせないのが多いですから遠くから肩を狙って浄霊するのです。そういうようにして大いにやるとよいです。肺病は胸の病、精神病は頭の病というように思い勝ちですが、実は肺病は胸の病ではないので、胸は中継所です。肺病の人はやっぱり肩と頭です。その毒が溶けて一旦肺にはいって、それから痰になって出るのです。肺は中継ぎですから、肺病は胸が悪いのではありません。胸が悪いというのは肋間神経痛ですが、これはよく肺病と間違えられやすいのです。それから精神病は頭の病でなく肩と延髄の病気です。その元をはっきり知ると、べつに治し難い病気ではないのです。精神病の人は必ず延髄附近にコブがあります。それを取ればよく眠れるようになって、そうなれば治ります。それから今年は赤痢が非常に流行りそうです。丁度年々倍くらいになってます。去年は十一万人という事になってますが、今年は二十万人という当局の見込です。そうすると来年は四十万人という事になり、今に何百万という事になります。これは笑い事ではありません。倍くらいの増え方ならまだよいが、四、五年たったらほとんど国民の半分くらいが赤痢にならないかと思います。それに赤痢の製造をやっているのです。これは延髄附近に溜まった毒が下痢になって出るのですが、薬をのんで頭を使うから頭に集まって、それが毒血で出るのです。薬をのまないで頭を使わなければよいが、今はますます頭を使ってます。子供のうちから大人のような教育をしてます。子供でも親父をへこますような事を言ってます。そこにますます強い薬をのませているので、赤痢の原因を作っているのですから、これでは増えるわけです。
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六月二十七日
今度素晴らしい奇蹟のお蔭話がありました。大抵な奇蹟には驚きませんが、これだけは何と言ってよいか、一言も言葉が出ません。これは日刊新聞に出したいと思って毎日に相談したところが、調べた結果サンデー毎日にでも出そうかと言って、これから調査するのですが、そうして世の中の人に知らせるだけでも大したものです。最初に私の批評を書きましたから、今読ませます。
御論文〔⇒超奇蹟〕【註 栄光二一八号】
今読んだとおりですが、陰茎の方は、三分の一くらいを手術で切って元通りに伸びたという事は以前聞いた事がありますが、睾丸が取れて元通りになったという事は実に奇蹟以上です。よく昔から“睾丸を一つつぶせば命はない”と言われてますが、金玉一つどころでなく二つとも無くなったのです。それで生きているだけでなく元通りになったのですから、どう考えても分らない事です。ですからこれは世界的問題として大いに人類に知らせる必要があると思います。この事は神様の方ではチャンと分ります。しかしこれを説明したところで、あまりに神秘でちょっと信じられないというかも分りません。いずれ時期が来たらこういう説明もしますが、今のところは致し方ないわけです。それでこういう場合に一番肝腎な事は執着です。神様に非常にお願いし祈るという事も結構なのですが、そこに難かしい点があるのです。というのは、あまりに“助けたい”“助かりたい”というその執着が邪魔する事になるのです。だからお願いしお祈りするのはよいですが、或る程度までであっさりとしておくのです。“どうしても助かりたい、助かりたい”という強い執着は取るのです。むしろそういう時には“命のないものなら早く霊界にやらしていただきたい、助かるものなら助けていただきたい”とあっさりするのです。そういう時にあっさりするという事は非常に難かしいですが、その執着の心が非常に邪魔するのです。そういう時に助けるのは正守護神で、正守護神が神様に力をいただいて助けるのですが、正守護神の霊が働くのです。そういう時に側の者があんまり強い執着ですと、正守護神が働く場合に邪魔になるのです。そこで逆効果になるわけです。その点をよく知らなければいけません。丁度、人間が死にますが、死んでからその人を忘れられないと、霊界に行った霊は早く忘れてくれればよいと、非常に迷惑するのです。これは何時かのお蔭話にありましたが、あんまり思うとかえっていけないのです。よく赤ん坊などが死ぬと、親は忘れられないで、赤ん坊のことを強く思うのです。そうすると赤ん坊は割合に早く生まれて来るのです。そうすると霊界でまだあんまり浄化されないで生まれて来るから、甚だ不仕合せな事になるのです。ですから子供としてはあんまりよくないので、迷惑な事です。だから親が早く忘れてくれれば霊界で充分浄化が行われて、浄化がすめば霊界の良い所に行きますから、それから生まれて来ると体も非常に健康で、よい子供が生まれるのです。そういうようですから執着というのは逆効果になりますから、そこをよく心得ておかなければいけません。それでよく危ぶない病人に“気を確かにしろ”とか“きっと治る”とか“気を強く持て”とか言いますが、それは考えものです。むしろ“あなたはもう駄目だ、諦らめなさい、死ぬ覚悟をしなさい”と言った方がかえってよいのです。これは非常に言い難い話ですが、出し抜けではいけないが、霊界の事などを説いて、そうして“あんまり生きたいという事は、その執着によってかえって、治る病気も治らない事になる”ということを聞かせるのです。ですから死ぬ覚悟をするとかえって助かるのです。私はその経験がありますが、二十八の時にチフスでとても悪くなるばかりで、どうしても近い中に死ぬより他にしようがないというので、死ぬ覚悟をして、前の家内に遺言をしたのです。私は死ぬから、死んだら後はこういうようにしろと言い聞かせたのです。私は割合にさっぱりした性質ですから諦らめがよいので、その時分には信仰も何もなかったが諦らめたのです。それで非常に狭い家なので、若しかの時にいろんな人が来ると狭くてしようがないので、病院で死んだ方がよいというので、病院に入院しようと思って、近くに内科の病院があったので、そこに頼んで医者に来てもらったのです。そうすると医者は“これはもう駄目だ、死ぬのが分っていて病院に入れるのは困る”というのです。それは私立ですから、官立の病院ならよいのですが、私立だから、死ぬのが分っているのに入院させるのは非常に困るというので断わられたのです。ところがその院長の弟というのが私の知っている小間物商で、その方から頼んでやっと許されたのです。その時分は自動車はなく人力車ですが、人力車にも乗れなかったので、担架で寝床をそっくり担がれて行ったのです。それで私は往来を歩いている人の、上の方は見えないので足などを見て、こういう状態を見るのもこれが見おさめだと思いながら入院したのです。その時の診断は肺炎だったのですが、非常によい薬がある、これをのんで効けばじき治るし、若しこれでも駄目なら諦らめるよりないという事で、非常に強い薬ですが、その時は注射はなかったので、それをのむと何とも言えず気持が悪いのです。それで半死半生でウツラウツラとしていると、墓場が見えてしようがないのです。それでどうせ此処に来るのだ、いよいよ近寄ったと思ったのです。それでも死なずにどうやら持ててたのです。ところが係の医者が来て、実は院長は肺炎だと言うが、僕はどうしても肺炎とは思えない、チフスと思うからチフスの試験をしてみるからと言って、発泡薬といって膏薬をお腹に張つて数時間すると水を吸い出すようになっているのです。その水を少し取って顕微鏡で見ると、確かにチフスだというので、チフスの療法をしなければいけないという事になったのです。それで今でもそうですが、チフスには薬がないので、強壮剤として葡萄酒だけを飲んだらよいというので、毎日葡萄酒を一ぱいずつ飲んで、あとは流動物に限るというので、牛乳と肉汁を飲んだのです。そうなってからだんだんよくなって来て、確かにチフスであったわけです。それで二月ばかりで治りました。そういうようで、私が死ぬ覚悟をしたという事がよかったのです。まず生の執着を取るほどよいのです。又家族の者が“どうか助けたい”というその執着が、やっぱり邪魔します。それから更に又家族の者に信仰に反対の者がいる場合に、若し治ると自分の面目がつぶれますから、どうしても助からないようにしたいという執着は一番恐ろしいです。これは一番悪性です。治らないようにする執着ですから一番悪いのです。ですから家族に反対者があった場合には結果が悪いのはそういうわけです。だから何事も執着が非常に災するのです。特に信仰はそうです。例えてみれば“金がない、金が欲しい、神様金を何とかしていただきたい”と思う時には来ないものです。“これは忘れよう、どうせ神様がいいようにして下さるのだから”と金の事など忘れると金が来るものです。実に皮肉なものです。おそらく神様くらい皮肉なものはありません。しかし私でもその執着というのはなかなか取り切れないものです。“ああなればよい、こうなればよい”と思うが、どうもうまくゆかない。そうだオレの執着が邪魔しているからだと、“どうにでもなれ”と思うと、忘れた時分に予期した以上のものが来るのです。そういう事は始終あります。美術品でもそうです。見せてもらって欲しいなと思い、アレが何とかして来ないかと思っている時には決して来るものではありません。そんな事は神様にお任せしてしまおうと忘れていると、先方で是非買ってくれと前より安くする事があります。この事は人間の命ばかりでなく、如何なる事でもそうです。あなた方でも人に信仰を勧めますが、例えば親父が反対して駄目だ、妻君が反対して駄目だ、というので、信仰にはいったらよいと思い勧めますが、そういう時には決して駄目です。“信仰にはいるもはいらないも知った事か、勝手にしろ”と知らん顔しているとはいって来るもので、実に面白いです。私は映画を見る度にそう思いますが、男が女に大騒ぎをすると女は男に振り向いて来ないのです。又男もそうです。それで面白い事には、男が女に惚れていると女はウンと言わないのです。それで男が怒って勝手にしやがれとなると、今度は女の方が急に寄って来るのです。映画の脚本はほとんどそういうのが一番多いです。見ていて馬鹿々々しくなる事がありますが、しかしそれが事実というものです。ですからそこのところをうまく考えて利用するのです。そうするとよい結果になります。ですから男でも女でも、非常に愛している時には逆に“勝手にしやがれ、お前なんか愛しているものか”というようにするのです。ここのところをよく心得ていて、そういうようにやると、何事にもうまく行きます。とに角これを信仰的に言うと、“神様々々”と勧めますが、そうすると安ッポクなります。安ッポクなるという事は信仰の値打を下げる事になります。ですから私が何時も言うとおり、それこそ十万円のダイヤモンドを千円で売るようなものですから、勧めるという法はありません。ですから話だけをして、十万円のダイヤモンドを千円で売るようなものだという事を言って、その選択は先方に任せるのです。男が女に惚れて大騒ぎをすると、男の値打を下げてしまいます。恋愛というのは尊敬が根本なのです。男が何とか言って惚れたところで短期間なものです。だからきれいな男だからといって女は惚れるものではありません。これは恋愛哲学ですが、とに角安ッポクなるのです。安ッポクなると尊敬がなくなります。そういう場合に“オレは、ヘン、お前なんかに惚れるものか”というと安ッポクなりません。そうすると女の方で敬うようになります。何事でもそうです。私はそういう事をよくやりますが、欲しい物があっても欲しい顔をしないのです。そうすると先方で是非買ってくれと言って来るのです。一切万事がそうですから、これだけ知っても役立ちます。今言う“是非命を助けていただきたい、病気を治していただきた”いというと、神様の方では“お前は信仰にはいっているのだろう。オレの方でうまくやってやる。そんなにセッツイテ頼まなくてもよい。そんなにオレを不人情に見られては面白くない。お前の方で頼っている以上、オレはお前の命はどんなにしても助けてやる”という事になります。従来の信仰で、水浴び、断食、お百度参りなどをしたら助けてやろうというのは本当の神様ではないのです。やっぱり邪神です。それで神様の愛は大きく深いのですから、人間次第なのです。人間の方で頼ってお任せする以上、神様は任せられる以上は助けないわけにはゆかないというわけですから、神様としては任せられる以上一番責任が重くなるわけです。ですから神様にお任せするという事になると、神様の方でも大いに助けよいのです。その考えですが、やっぱり小乗と大乗の考え方です。それで神様としては、神様の役に立つ者はどうしても助けます。それから邪魔したり役に立たない人間は、その人間が分るまでは手を引かれて時を待たれるのです。神様というのは、今の睾丸が出来たというように、大変な御力で、助けようと思えば何でもないのです。ただ助かる条件が揃わないのです。ですから人間の方でその条件に持って行けばよいのです。私は以前、まだ信仰の浅い時分に、神様の方ではオレを殺したら大変なマイナスだ、だから神様の方で助けるのが当り前だ、というように思った事があります。これはどっちかというと私の自信です。それで神様はそれに対して気持を悪くはなさらないのです。“ヨシ、お前にそのくらいの自信があれば助けてやろう”という事になります。オレを失ったら神様の大変な損だ、だから神様はオレを助けなければならないというそのくらいの自信がなければ、本当はいけないのです。ですから神様に対する観念、見方というものを本当に知らないのです。という事は、昔からの宗教で神様を見る神霊観というか、その本当のものが出来てないからです。そこで神様の方も今までの神様はみんな枝の神様ですから、神様の考え方もまだ本当のところに行っていないのです。だから今までの神様というと、大抵天狗とか狐とか龍神が多いです。ですから本当言うと、神社が百あると、本当の神様は十も難かしいでしょう。あとはみんな邪神系です。邪神系でなくても、邪神のために神様が瞞まされているのです。そういう神様も沢山あります。そこで本当に縋れるという神様は幾らもありません。それでむしろボロボロになった神社で、あんまり構われないような神社に、よく本当の神様が居ります。伊豆の伊東に玖須美神社というのがありますが、古いやつれている方が本当の神様で、一方の公園にある普請した方は枝の神様です。それを見た時に、私はつくづく思いましたが、かえってよい神様の方がやつれているのです。というのは約三千年前に日本系の神様が押し込められて、外国系の神様の方が来て、それが日本を統治したのです。そのために今言ったような形になったのです。こういう事は相当面白いのですがただ必要がないから私はそういう事を説かないのです。それにそういう神様の詮議立てをしたところで、それがために体が健康になったり、人間の不幸がよくなるわけではないのです。それで今まではよくそういう事を説いてありますが、救世教としてはそういう事は必要がないからやらないわけです。一つの参考とするか、というくらいの程度で沢山です。話はいろいろになりましたが、ただ神様の見方、神様の解釈、要するに神霊観を、今までの考え方と違えなければなりません。それで一番神様の思召しに適うという事は、多くの人を助け、人類を救うという事です。ですから一人でも多く信仰に導いて救ってあげるという事が一番です。だからして自分が救われたいというのは、神様のお役に立つ人間になる事です。神様が、その人を見放しては神様の方に損が行くというような人間になればよいのです。それが神様の御心です。ですから神様の心を心としてというのは、その点にあるのです。だから一生懸命に拝んで、ただ祝詞を沢山奏げるという事は、決して悪い事ではないが、そのために多くの人が助かるという意味にはなりません。ただ自分が早く助かつて多くの人を助けるという動機になるわけです。ですから、自分の罪をお許しいただきたいというのは結構ですが、ただ自分の罪を許されたいというだけでは、一つの自己愛ですから、自己愛では駄目です。ですから私は前に大本教にはいった頃に、家内が“自分はどうも地獄に行きそうだから、天国に救われたい”と言うから、“オレは地獄に行っても結構だ。世の中の人をみんな天国にあげてやって、それで地獄に行くのなら行ってもよい。君とはあべこべだね”と言ったのです。そうしたら“それはあなたは男だからです。女はそうはゆきません”と言うのです。ですから地獄に行きたくない天国に行きたいという事と、自分は地獄に行っても人を天国にあげたいという事は根本的に違います。ところが実は、人を天国にあげたいと思うような人なら、自分も天国にあがります。それで自分が天国に行きたいと思う人は、地獄に行く事はないでしょうが、天国の下の方か中有界ぐらいでしょう。
(教二十三号 昭和二十八年七月十五日)