現代医学論

此著を編纂するに当って、私は非常な決心をした。といふのは医学なるものの実体を、ありのまま発表するとしたら、何人も驚嘆せずには居れないからである。之程進歩したと思ひ、世界万民が謳歌し、信頼してゐる現代医学に対し、私は真向から鉄槌を下すのであるから、人類救済の為とは言ひ乍ら、洵に忍び難いものがある。併し乍ら神は万人の生命を救うべく、私をしてその大任に当らせた以上、私と雖も絶対者の命に従はざるを得ないと共に、現在病魔の為に地獄の苦しみに呻吟しつつある人類社会を見る時、その原因が医学の誤謬にある以上、到底晏如たるを得ないのである。故に若し現在のままの迷蒙を続けるとしたら、人類の将来は果して如何になりゆくや、思ふさへ慄然とするのである。

そうして之をかくに当っては、先づその根本から明らかにせねばならないが、それには先づ現代人の科学至上観念である。序論にもある通り科学さへ進歩させれば、何事も解決されるとする科学過信の思想であって、その為事実よりも学理の方を重視し、如何なる発見創造と雖も、既成学理に合はない限り拒否して取上げないとする偏見であって、之が文化的と思ってゐるのであるから困ったものであるが、寧ろ之こそ文化の反逆でしかない。何となれば文化の進歩とは、定型的学理を打破し得る程の価値あるものが発見されたとしたら、躊躇なくそれを取上げる、茲に文化の進歩があるのである。処がそれを頭から否認するといふ丁髷思想であって、この代表ともいふべきものが現代医学であるから、偏見を通り越して科学にはない筈の新しい封建である。といふ訳で此著を読んでも、余りの意想外な説に容易に信ずる事は出来まいと思うが、然し事実が何よりの證拠である。それは今日の如く医学が進歩したに拘はらず、至る所病人の氾濫である。ヤレ病院が足りない、ベッドが足りないとの悲鳴は常に聞く処で、現代人残らずといひたい程何等かの病気を有ってをり、真の健康者は殆んど皆無といってもよからう。之等にみても分る如く、若し現代医学が真の進歩であるとしたら、病気の種類も病人の数も年々減ってゆき、病院は閉鎖の止むなきに至り、医事関係者の悉くは失業者とならねばならない筈であるにも拘はらず、事実はその反対であるとしたら、茲に疑問が生ずべきだが、一向そういふ気振はみへない処か、益々迷路を驀進してゐる有様で、その危ふさは到底観ては居れないのである。従って私は之から徹底的に説くと共に、事実の裏付をも添へてある以上、如何なる人でも飜然として目覚めない訳にはゆかないであらう。

そうして現代人の病気を恐れるの甚だしく、一度病に罹るや早速医師の診療を受ける。処が之が又意想外であって、治るやうにみえてもそれは或期間だけの事で、根治とはならない。その殆んどは慢性か再発かのどちらかである。之を常に見る医師は気が付きそうなものだが、そうでないのは之も迷信の為である。そこで見込通り治らない場合、仕方なしに他の医師に助勢を頼むか、他の病院へ行けと勧める。勿論入院すれば多くは手術を伴ふから臓器は除去され、その病気は起らないとしても、必ず他の病気に転化するのは医師も常に経験する処であらう。右は最も普通の経過であるが、中には医師に確信がないまま入院や手術を勧めるので言う通りにするが、確信があってさへ治る事は滅多にないのに、確信がないとしたら駄目に決ってゐる。その結果患者の方から金を出して、モルモットと同様研究材料にされる事も屡々あるが、殆んどは泣寝入りである。処が手術も受け、凡ゆる医療を続けつつも治らないのみか、益々悪化し、金は費ひ果し、二進も三進もゆかなくなり、果ては自殺を図る者さへ往々あるのは、よく新聞に出てゐるが、そこ迄ゆかないまでも病気が原因となって、色々な忌はしい問題を惹起するのは衆知の通りである。今日凡ゆる悲劇の原因を調べてみれば、そこに必ず病ありで、昔から犯罪の陰に女ありを、私は悲劇の陰に病ありと言ひたい位である。それに引換へ我浄霊医術によれば、如何なる重難症でも短期間に、而も僅かの費用で快癒するので、之を医療と比べたら雲泥の相違であるのは、全く真理に叶ってゐるからである。茲に於て如何なる無神論者と雖も、今迄の不明を覚り早速入信、文字通りの安心立命を得るのである。

次に知らねばならない事は、一体人間なるものは何が為に生まれ、誰が造ったかといふ事である。之こそ昔から誰もが最も知りたいと思ってゐる問題であらう。勿論人間なるものは科学者が作ったものでもなく、造物主即ち神が造ったものに違ひないのは、極端な唯物主義者でない限り、否定する者はあるまい。というのは人間は神の御目的たる理想世界を造るべく生まれたものであるから、生きてゐる限り健康で活動出来るのが本来である。然るに何ぞや、病気に罹るといふ事は異変であって、其処に何等か真理に外れてゐる点があるからで、此点に気付き是正すれば治るのが当然である。処が之に盲目なるが為、全然無関係である科学に持ってゆくので、治らないのが必然であって、肝腎な造り主を忘れてゐるからである。

そうして今日迄の病理は、大体左の如くである。即ち漢方医学に於ては、五臓の疲れ又は不調和の為であるとし、西洋医学に於ては黴菌感染によるとしてゐる。此どちらも洵に浅薄極まるものであって、些かも根本に触れてゐない迷論である。而も後者は機械的ではあるが、科学的ではないといったら何人も驚くであらうが、それは事実が語ってゐる。今日医師は患者から訊かれた場合、病理も病原も見込も、科学的に説明が出来ないのは医師も認めてゐるであらう。つまり病気の真因が分ってゐないからである。そうして医学に於ける誤謬の根本は、何といっても病気苦痛の解釈である。即ち医学は苦痛そのものを以て人体を毀損し、健康を破り、生命を脅すものとしてをり、苦痛さへ除れば病は治るものと解してゐる。此考へ方こそ大変な誤謬であって、今それを詳しくかいてみよう。

抑々病の真の原因とは、体内にあってはならない毒素が溜り固結し、それが或程度を越ゆるや、生理的に自然排除作用が起る。之を吾々の方では浄化作用というが、浄化作用には苦痛が伴うので、此苦痛を称して病気といふのである。故に病気とは体内清浄作用の過程であるから、之によって人体は浄血され、健康は維持されるのであるから、病こそ実は唯一の健康作用で、大いに歓迎すべきもので、之が真理である以上、此著を読めば必ず納得される筈である。処が何時の頃どう間違えたものか、之を逆に解釈して出来たのが医学であるから、此逆理医学が如何に進歩したとて有害無益以外の何物でもないのである。

右の如く医学は病気即苦痛と思う結果、苦痛解消には浄化停止より外にないので、此考へ方によって進歩発達したのが現在の医療である。そうして浄化作用なるものは、人間が健康であればある程起るのが原則であるから、之を停止するには健康を弱める事である。そこで弱らす手段として考へ出したのが毒を服ませる事で、それが薬であるから、薬とは勿論悉く毒である。即ち毒を以て浄化を停止し溶けかかった毒素を元通り固めるので、固まっただけは苦痛が減るから、それを治ると錯覚したのであるから、世に之程の無智はあるまい。従って医療とは単なる苦痛緩和法であって、決して治すものではなく寧ろ治さない方法である。故に医師も治るとは言はない、固めるといふにみても明らかである。

右の理によって病を本当に治すとしたら、溶けかかった毒素をより溶けるやうにし、排除を速かならしめ、無毒にする事であって、之が真の医術である。之なら再発の憂ひも罹病の心配もなくなり、真の健康体となるのである。処が一層厄介な事は、右の如く毒素排除を止める為の薬が毒素化し、之が病原となるので、つまり病を追加する訳である。此證拠として医療を受け乍ら、余病といって病が増えるのが何よりの證拠である。本来なら治療をすればする程病気の数は減る筈ではないか。それがアベコベとしたら、之程理屈に合はない話はあるまい。知らぬ事とは言ひ乍ら、医学は如何に迷蒙であるかが分るであらう。

以上の如き逆理によって、毒の強い程薬は効く訳で、服むと中毒する位の薬なら一層効くから、近来の如く注射流行となったのである。又近来続出の新薬も同様、中毒を起さない程度に毒を強めたもので、彼の有名な漢方医の泰斗杉田玄白先生は“病に薬を用ひるのは、毒を以て毒を制するのだ”と曰ったのは蓋し至言である。従って熱、咳嗽、吐痰、鼻汁、汗、下痢、熱尿、各種の出血等、悉くは排毒作用であり、腫物、湿疹、疵や火傷後の化膿等も同様であるから、実に結構なものである。故に何病でも何等手当もせず、放っておくだけで順調に浄化作用が行はれ、速かに而も確実に治るのである。

(医学革命の書 昭和二十八年)