御 教 え 集 第十四号

昭和二十七年九月御教え

九月五日

面白い論文を書いてみたのです。今の世の中は色んな苦しみがあつて地獄の様なものですが、その色々な事の因(モト)がみんな悪から発生しているのです。割合にそこに気が附かないのです。あんまり悪の世の中が来過ぎた為に、それが当り前みたいになつている。だから分り切つた事でうつかりしているのです。それを書いてみたのです。

御論文「⇒悪の世の中」【註  栄光一七四号】

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それから二、三日前のラジオで、スエーデンのハルマンと言う博士ですが、その研究によると地球の温度は五十年前に較べると平均十度高くなつているというのです。之は実に驚くべき事です。何故というと昔から――古い時代から、五十年で十度上るとすると、五百年ですと百度上りますから、大変な事になります。処が最近の五十年に十度上つたという事は、何時も言う地球が昼間になりつつあるという事を科学的に実に良く証明したわけです。ですから今年などは非常に気候が変つて来たわけです。私は前に、気象の温度も――ラジオで言いますが、聞いてみると全国で一番暑いのは東京です。で、九州とかあつちの福岡、鹿児島の方が東京より低いのです。強羅も割に高いです。今日なんかの温度は、東京と強羅が二十四度です。一番高いです。他はみんな二十三度、二十二度、広島なんか二十一度でした。そんな様で強羅に来てから今年の様な年は初めてです。すると強羅の高いのは火素が教線の為に増えたから当り前かも知れないが、昼の世界になりつゝあるという事は、その点でも良く分ります。ですから暖くなると共に段々平均しつゝあります。之は火素の増えた為とか、後は無線電波が発達――ラジオみたいなものですが、之が気候を平均にして来るのです。ですから北海道辺りも非常に暖いに違いないです。で、もう何年か経つとシベリヤ辺りも非常に豊穰な豊作地になるわけです。ですからソ連のそういつた生産でも非常に増えます。アメリカに負けない位になるでしよう。そんなわけで色んな事が変つて来るのです。

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それに就いて第三次戦争の事を書いてみたのです。之は知つて置くべきですから出来る丈はつきり書きました。今読ませます。

御論文「⇒第三次戦争は果して有る?」【註  地上天国第四十号】

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それから之は「文明の創造」の一齣で、先にも話した事がありますが、はつきり書いてみたのです。一寸面白いですから読ませます。

御論文「⇒文明の創造  救い主と贖(アガナ)い主」

之から医学を説くのですが、之は医学を説く前提の理由なのです。只「悪」はいけないとか「医学」がいけないとか言う丈では人は納得しないのです。やつぱり今迄は必要であつて、今迄は人間を弱らせなければいけなかつた。何しろ百歳以上迄作つてある人命を段々弱らせて、到頭今は大体平均六十歳位でしようから、約半分に寿命を縮めたのです。それでみんな病気で苦しんでアツプアツプやつているわけです。ですから之丈文化を進歩発展させる為に何千年もかゝつて人間を弱らせたのです。丁度寿命半分迄弱らせたのです。もう之以上はいけないのです。いけないのではない。必要がないのです。そこで神様はこの位弱らせて置いて、今度は元作つた様に百二十歳迄生きるという人間に立直すわけです。その根本を分らせるのがメシヤ教の使命なのです。だからそこを飽迄分らせる様に書くのです。処がそこ迄は皆分つていないから、今迄は一生懸命に医学に囓(カジ)り附いてやつているのですが、本当の事が分れば危ぶなくて可哀想で見て居られないのです。そうかと言つて無闇にそういう事を言つても、反つて気違扱いにして逆効果になりますから、そこで時期と色々な事情――今此の位メシヤ教が発展して、それから言うと人は耳を傾けます。昔私が始め立ての時分にそんな事を言うと気違扱いにして反つて発展もしないのです。だから今迄は、はつきりと強く言わないで暈(ボカ)したり色々に弱めたりして言つていたのですが、段々社会もメシヤ教というものを認めつゝありますから、それに丁度合う位に医学なんかの事も発表しているわけです。ですから本当の事を言えば、それは大変なものです。最近はそういう様な工合で段々はつきりして来たのです。之はその内の一つですが、薬に就いて、薬の効能に就いてはつきり言つたわけです。

御論文「⇒医学断片集  薬と名の付くものは全部麻薬なり」【註  栄光一七四号】 

つまり斯ういう意味です。今の人間は全部麻薬中毒になつている。只普通の薬は麻薬の様に直ぐ効かないという丈のもので、病気の苦しみというものは薬を飲むと一時楽になりますから、そこでそれを薬で治ると斯う思つて了う。治るのは、丁度麻薬を、苦しくなると一寸注射すると楽になりますが、あの理窟です。ですから麻薬は直ぐ効くが、他の薬は麻薬の様に直ぐ効かないで段々効くと、斯ういうわけです。薬によると少し宛(ヅツ)段々飲んで、半年も一年も飲んでいる。その結果麻薬と同じ様に、いくらか楽になるというわけです。楽になるという事は、溶けかゝつたものを麻薬で固めるわけです。ですからそういう風に説明すると一番分り良いと思います。皆麻薬中毒になつているから、その麻薬が溶け始めるとそれが病気なのです。それが分れば別に難かしい事も何でもないのです。患者に説明するのに麻薬を例にして説明するのが一番良いと思います。それで今の第三次戦争ですが、之は戦争ばかりでなく、その頃になると病気も非常に増えて来る。何故ならば凡ゆる浄化が一緒になりますから、そこで人間はどうして良いか分らなくなる。それが最後――世の終りです。それが非常に近寄つて来ているのです。之は今度「栄光」に出しますが、多賀さんの奥さんに色々な有名な坊さんが近頃憑つて来るのです。法然上人だとか伝教大師だとか――。そうして「愈々仏の時代は終りになつて来た。だから明主様に、自分達が今迄間違つた事をして来た、その御詫をして貰いたい」という事を頻りに頼んでいる。之は本当なのです。今迄は間違つた考えだつたのです。だから今仏界は大変なのです。然し最後の足掻(アガキ)という事がありますが、最後の足掻で活動している仏に関した宗教がありますが、之は仕方がないです。最後の足掻をやつている宗教は殆ど狐です。それから龍神――そういつた霊というものは非常にしつこいですから、何時も言う通り決して諦めるという事はないのです。だからそういう風にみると良く分るのです。

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九月六日

此間ラジオで聞いたのですが、スエーデンのハルマンと言う学者が調べた処に依ると、地球は五十年間に温度が十度増えたというのです。之は大変な話です。この五十年間というものは今迄にない温度の増え方です。若し昔にそういう事があると、五百年で百度増える事になるから大変な話です。五十年間に十度増えたという事は、何時も言う通り火素が増えて昼の世界になつたという事の物質的現われです。無論火素は霊的のものですが、然し物質的にも相当影響はあるのです。よく御蔭話にあるが、私が斯う(御浄霊)やると非常に温いというのです。中には汗をかく人もある。つまり霊ばかりのものである筈だが、幾分か影響があるわけです。だから五十年間に其位増えたとすると、何かに影響がなければならない。そうみて来ると大いに影響があるのです。それは何かというと、近来農作物の害虫が非常に増えた。年々増えて来るのです。で、螟虫なんか今年は多いようですが、螟虫なんかは以前は無かつたのです。聞いた事がないのです。それで害虫の種類が増えてます。ヤレ何んだ彼んだと非常に増えている。螟虫にも色々種類があります。それは肥料の種類が増えたからです。病気の種類が増えるのは薬の種類が増えたからというのと同じ意味で、害虫も肥料が増えた為に増えたという事になるのです。では火素が増えると何故害虫が増えるかというのは敢えて熱の為ばかりではないのです。他に立派な理由があるのです。それを今から話します。大体虫が湧く――黴菌も虫ですが、その湧く理由は浄化作用です。浄化作用とは何ういう訳かというと、汚(キタナ)い物が出来ると、その汚い物を無くする――要するに綺麗にする作用が起るのです。神様はそういう様に物質を造つてあるのです。要するに自然発生です。で、虫は何かというと、譬えてみれば作物に――肥料と言えば毒ですから――毒が作物に吸込まれると、それを掃除しなければならないから、掃除する為に虫が湧いて、その虫が毒を食うのです。ですから毒丈食えば良いが、やつぱり植物の色々な質――言わば植物の肉を序(ツイデ)に食べて了う。だから枯れたり弱つたりするわけです。で、凡ゆる物は、不必要なもの――要するに害になる様なものがそこに増えると、それを消す作用が起るのです。つまり汚(ヨゴ)すから浄めるという作用が自然発生するのです。そういう風に出来ている。そこで肥料という悪い物を作物が吸うから、吸うとそれを浄める活動、作用――その為に虫が湧くのです。そうすると毒に依つて色々な種類があるから、その毒をちやんとうまく食つて消して了う虫があるのです。だからその虫が湧くという事は、霊界の浄化力が強くなると、浄める作用が起る。浄める作用が起るという事は、浄める仕事をする虫が早く湧くという理窟になります。以前は霊界の火素が少なかつた。そこで、夜の世界には、つまり浄める浄化力が弱いからして、それ程の虫を湧かせなくても済むのです。そこで肥料とか薬とかそういう物が一時的に働いたわけです。ですから之から益々害虫が湧きますから、そこで虫害というものは益々増えて来ます。それからもう一つは、近来非常に水害が起るのです。昔は之程無かつたです。昔ではない、我々が若い頃です。今は毎年決つた様に起りますが、之も田畑なんかを肥料で穢(ケガ)すから、それで水で洗うとか水で流すとか、そういう作用が起るわけです。だからして、兎に角浄化力が強くなるに従つて色々そういつた今迄に無い様な事が起るわけです。で、この理窟は農作物ばかりでなく、病気に対する黴菌でもそうです。今年は赤痢とか日本脳炎とか――日本脳炎なんか死亡率は去年の十二倍というのですが、そういう風に起るという事は今言つた理窟で、薬毒に対する薬毒を食う虫が湧き易いという為です。だから結核なんかもそういう理窟なのです。浄化作用が強い為に結核菌が非常に良く湧くのです。で、医学の方では湧かない様にしながら湧く原料を仕入れているわけです。処が今のは虫ですが、人間が同じ理窟です。人間は何かというと、人間の害虫というのは悪人です。之が害虫です。処が人間が間違つた事をするからして其人の霊が穢れる。そうすると人間の霊の穢れを取る為に害虫が発生する。処が人間の害虫というのは、やつぱり人間なのです。人間でそういうのが湧くわけです。そこで悪人が苦しめる――社会を悪くしたり色々苦しめるという事は、浄化を受けているわけです。だから悪人が湧くという事は、必要があつて悪人が湧くのだから、やはり人間が悪い罪を重ねるからで、罪の掃除を悪人がするのです。だから悪人に苦しめられるという事は、こつちに苦しめられる丈の罪穢があるのです。それを掃除して呉れるのですから、悪人も必要――と言つては少し変ですが、まあ合理的なものです。だから社会悪だとかずるい奴や悪い奴が沢山居るという事は、そういう悪人が必要な世の中を作つているわけです。又、悪人が浄化作用して、それが又悪を作るから、それを又掃除する悪人が出来るのです。丁度薬で病気を作り、薬で病気を抑え、それが又病気の因(モト)になるというわけです。農作物に虫が湧くから防毒薬、殺虫剤をかける。そうすると一時虫が死ぬ代りに其毒が染込んでそれから又虫が湧く。そういう様な理窟になつているのです。只それに人間が気が附かなかつた丈のものです。それが分つてみると、結局そういう理窟なのです。そこで悪は悪に依つて制するという事ですが、今迄はそういう方法より仕方がなかつたのです。ですから、本当に善人と言いますか――悪の嫌いな人は、やはり悪人に対する仕事という事は中々出来なくなります。悪い奴は叩いたり死刑にしなければならない。それが、こつちに余程慈悲のある人には出来ないのです。そういう役目にならない。そういう役目になる人は、相当そういう素質があるのです。話は違うが、私が何時か警察に入れられた時にそう思いました。然しやつぱりそういう人も必要です。オワイ屋やゴミ屋や色んな掃除屋が必要な様なもので、やつぱり必要なのです。何しろ今迄の社会は間違つていたので、そういつた色んな間違い“毒を以つて毒を制する”という、そういう方法も仕方がなかつたのです。それに就いて「悪の世の中」というのを書いたのです。

御論文「⇒悪の世の中」【註  栄光一七四号】

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之は一寸参考になる事です。

御論文「⇒医学断片集  薬と名の付くものは全部麻薬なり」【註  栄光一七四号】 

之をよく信者さんなんかに説明してやつて――。胃が悪い、苦しい、気持が悪い、というので胃の薬を飲む。そうすると一時良くなる。頭が痛い。するとノーシンを飲むと一時良くなる。だから一時良くなるけれども、そういつた胃が苦しいとか胃痙攣が起るとか頭が痛いとか言うが、胃病の薬や消化薬を飲んだ其結果です。消化薬を飲むと腹が減つて美味くなるから、うつかりそれに惚れて一寸工合が悪いというとやる。それが麻薬と同じですから、遂にはやつぱり気持が悪くなる。で、一日一服飲んだのが、終いには二服三服と段々薬を強くするが、之は麻薬の経路と同じです。最後には麻薬をやらなければ苦しいので、麻薬を泥棒して迄買つて飲む――そういう風になります。只麻薬の方は急性です。急激に来る。それから他の病気の薬は慢性です。だからして急激に来る麻薬の方は恐ろしがつてジワジワ来る薬毒の方は恐ろしいとは思わないという、甚だ矛盾した可笑しな話なのです。それが現在の有りの儘の姿なのです。だから一切の薬は麻薬と、斯ういう工合に思つて――無論信者の人は思つてますが、そういう工合に説明すると一番分り易いと思います。そこで結核にしろ、ヒドラジットをやつた処が熱が非常に下つて食欲が増えた――それは食欲というのは熱が一番関係があるのですから、熱が下れば食欲は出ます。食欲が出るから肥つて来る。そういう様な工合だから非常に効いた様にみえる。処が最近は二、三週間で元通りになつて、結核菌は悪性になつているという事を聞きましたが、麻薬が二、三週間で効かなくなつたという事です。それに就いても段々霊界の浄化作用が強くなると、今迄半年も一年も効いた麻薬が段々効かなくなつて、今読んだ様に「此頃薬が効かなくなつた」「先には大変効いた薬だ」と言うのを考えてみれば分るのです。考えてみて、何処迄もそこを徹底してみれば分らない筈はないのだが、そういつた観念も起らないのです。只、つまり薬迷信に陥り過ぎてますから、薬の為という事に考え附かないのです。それ程酷くなつているのです。処が人間の身体は、何も二十年前や三十年前と異つたわけはないのです。人間の身体というのは何千年何万年前と理窟は同じです。それが単に十年か二十年前に効いたものが効かなくなつたというそんな馬鹿な話はないのです。処が効かなくなつたという事はよく聞きます。「何の薬はあの時分は効いたが」と、之はお医者さんが言うのだから間違ないです。そうするとお医者さんは人間の身体が変つたのではないかと、それは思わないのです。そうすると何ういう事か?薬が変つたかというと変らない。先と同じ製造方法です。そうすると疑が起る筈です。処がその疑の考えも起らないのです。起した処で分らないのです。どうも何んだか変だがと、それ丈です。そうするとお医者さんが絶対治らないというのが、斯う(御浄霊)やつて半月か一月で治る。之は何うして治つたと、首をひねる丈でお終いになる。だから我々からみると実際馬鹿なものです。わけが分らない。やつぱり肥料も麻薬中毒と同じです。硫安とかをやつた年とか其次の年とかは馬鹿に出来るのです。そうするとそれが良いと思つて、段々やつていると中毒になるのです。そこに気が附かないのです。ですから肥料も薬も理窟は同じです。結局麻薬中毒と思えば間違ないです。

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それから第三次戦争に就いて書いてみたのですが、之も非常に参考になりますから――。

御論文「⇒第三次戦争は果して有る?」【註  地上天国第四十号】

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九月七日

つい此間のラジオで、スエーデンのハルマンと言う学者の研究で、五十年以前の気候と較べると地球は平均十度高くなつていると言うのです。之は研究だから間違ないわけです。そうすると之は大変な問題だと思います。昔に――五十年に十度高くなるとすると、五百年で百度高くなります。そうすると生きて居られない事になる。そうしてみると以前はそういう事はなくて、最近の五十年で急に温度が増えたのです。即ち私が言う、昼間の世界になつて火素が増えたという事が、斯ういつた――科学的に立証されたわけです。で、霊の方の火素が増えたから、体の方は増えそうもないと思うけれども、そうではないのです。やつぱり体にも幾分影響するのです。私が浄霊すると、熱いと言う人が御蔭話なんかに沢山あります。中には汗をかく人もありますが、やはり霊ばかりでなく体も加わるわけです。ですから火素が増えるという事は、之は動かすべからざる証拠があるわけです。それからもう一つ面白いのは、今年は日本中の温度が、此夏は非常に異うのです。一番暑いのは東京です。私は毎日ラジオで温度を聞きますが、今日あたりも東京が暑いのです。今日でも二十二度です。反つて熊本あたりの方が低いのです。広島が二十度かです。それから強羅が高いのです。今日あたりでも二十二度位です。日本でも東京と強羅です。あとはずつと低いのです。強羅の高いのは私が来ているせいです。やつぱり火素が増えるわけです。そんな様で余程面白いです。それから之もよく新聞や何かに出てますし、農村の人は良く知つてますが、害虫が非常に増えて来たのです。害虫は年々増えてます。今年は螟虫が増えてますが、螟虫なんて言うのは聞いた事がないです。螟虫というのは近頃らしいです。何ういう字を書くか?まさか「迷」という字を書くのではないでしようが――。あれは肥料の新しいのが出来る為に、何時も言う通り肥料で虫が湧くのです。今年なんかは尿素と言う、小便――尿素肥料が非常に増産しているのです。で、今硫安は減らす方針です。之は農林大臣なんか言つてますが、硫安を減らして尿素を増やすという事を言われてますが、尿素というのは或いは――螟虫と言うのは尿素から発生するのかも知れません。そうすると一生懸命に色んな肥料で害虫の種類を増やしているわけです。そうすると薬と同じ事です。今のヒドラジツトなんていうのは、今度は黴菌が抵抗性黴菌になつた――抵抗性黴菌というと強い黴菌です。だから今迄の黴菌とは異つた黴菌になるわけです。之も一つ種類を増やしたわけです。だから薬の種類が増える丈は色んな虫の種類が出来るわけです。では薬や肥料で何うして虫が湧くかというと、之は立派に原因があるのです。肥料でも薬でも、言わば汚物ですから、汚い物です。だから汚い物には何うしても浄化作用が起る。要するに自然の掃除が起る。自然の掃除が起る場合に、掃除をする人間――ではない、虫が自然に湧くのです。物質の原則――法則というものは汚い物がそこに溜ると、それを綺麗にすべく作用が起るのです。やはり霊界に曇があると低気圧が起る様なものです。そういう様に作られてある。だから汚い物があると、その汚い物を食つて無くするのです。消すという作用としてその虫が湧くのです。そこで何故汚い処に虫が湧くかという根本的の意味が分るのです。便所に蛆が湧く様なものです。一体蛆は何んで湧くかというと、糞は汚い物だからです。汚いというのは、人間が特に間違つた――今言う、薬や何かを飲むとか或は間違つた行で霊を穢すとかで余計汚い物が出るのです。そこで余計蛆が湧くという理窟になるのです。ですから丁度、薬にしろ肥料にしろ、あれは蛆や虫の原料になるわけです。そうすると霊界に火素が多くなり浄化力が強くなるからして掃除をする虫が早く湧くわけです。湧き易くなる。そこで近来になつて害虫が湧くという理窟になるのです。で、その害虫を殺そうとして、防虫剤だとか消毒薬だとかそういつたような薬を撒くと、それが又土を汚(ヨゴ)しますから、それを作物が吸うと作物自体が――消毒薬の薬が古くなり殺虫剤が古くなると、丁度膿みたいなもので汚物になる。そうするとそれを食つて消す害虫が湧くという順序になりますから、そこで虫が湧き易くなるという事になる。よくそういう事が分つていると、如何に今の人間が愚(オロカ)かということが分ります。骨折つて悪くしている。今の話は虫丈なのですが、之は人間にも当嵌るのです。というのは人間が悪い事をしますが、悪い行をすると其人間が穢れますから、霊的に不潔な人間になるわけです。何うしても其人間を掃除しなければならない。そうするとやつぱり黴菌が必要なのです。黴菌なり害虫なりが必要になります。然し人間は農作物と異つて、害虫という奴が人間なのです。それが悪人です。悪人が其人を苦しめるわけです。苦しめて不潔になつた人間の不潔分丈を掃除するのです。だから無論病気が主ですが、病気以外の色んな災難とか悪い奴が瞞(ダマ)して損をかけるとかいう事は沢山ありますが、そういう事もやはり其人の持つている金が不潔な金、間違つた金、ずるい事をして溜めた金、というそういう不潔な金は何うしても掃除しなければならない。その代りに黴菌人間が瞞して捲上げる。という事は一つの浄化作用です。そうしてみると、あいつに酷い目に遭つたとか悪い奴に瞞されたとか泥棒に盗られたとか、色んな事で損したり苦しめられたりする事は、其人自体に不潔物があるからです。処が面白いのは害虫人間が又浄化される事になるのです。そうするとそれを浄化するのは、やつぱり害虫人間です。丁度薬で病気の苦しみを抑えて、その薬毒が又苦しみを作るというそういつた経路と良く似ているのです。そこで悪い奴が益々増える、益々人間はずるくなる。そうするとその不潔物を食う害虫人間が又増えるという事になつて、つまり今の人間はそういう様な経路が良く出てます。それは、何処の監獄や刑務所に行つても年中満員です。それで警官をいくら増やしても足りないのです。それで世の中が変テコになつているのです。

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日本は軍備をしてはいけないとか、軍備反対などと言つてますが、斯ういう事も可笑しいのです。之を一言いつて置きたいのですが、仮に日本に軍備が全然ないとしたら――軍備反対の連中が中々多いです。国民投票をしたら日本の軍備反対は女が多くはないかと思います。処が朝鮮問題をみれば分りますが、一昨年北鮮軍が南鮮に向つて攻撃した時に、若し南鮮に軍備が無かつたら、二日か三日で釜山迄北鮮軍が侵略して了います。そうして反対する者はみんな海に落して了います。処がアメリカの援助の軍隊が来る迄兎も角持堪(モチコタ)えたのは、南鮮にあつた兵力の為なのです。ですから今ソ連は日本を狙つて、そうして北海道から侵略しようと今準備をしている。樺太なんかに飛行機が何百機とか何千機とか、軍隊が何十万とか何百万とかと、非常に増強している。それから本当には判らないが、島と島とを続けた何かを作つたに違いないと言つてますが、それは未だ分らないのです。というのは潮流が変つて来たのです。潮流が変つて来たから今迄穫れる魚が穫れなくなつた。だから何処かで潮流を遮(サエギ)つたに違いないというのです。然しそれも充分に調査は出来ないのです。何しろソ連の方の事だから――。然し兎に角そういう様な、北海道から侵略しようという計画は充分分るのです。そうするとソ連が日本をやつつける為に、北海道を侵略して来た時に幾分でも日本に軍備があれば良いですが、無ければドンドン入つて来て九州迄行つて了います。それは、共産政治の下に生活して居た人は結構ですが、共産主義よりかアメリカの資本主義の方が余程自由があつて良いのは確かです。どうも我々は共産主義政治にされたくないです。そうしてみると少くとも日本は連合軍の仲間入りして、イザという時に援助の軍隊が来る迄持堪えるという丈の軍備は何うしても無くてはいけない。処がそれを反対するという日本人の気が知れないのです。それは婦人なんかで、伜が兵隊に行くのは嫌だ、夫が兵隊に行くのは嫌だ、というそれも人情から言えば分りますが、然しそれを助けんが為に日本人全体が苦しまなければならない、という事の方が大変に大きいのですから、そういつた大きい小さいを較べてみると直ぐ分るのです。只一時的の感情に支配されて国全体の大きな災(ワザワイ)を省りみないという事は、あまりに――丸で無教育国の人間みたいです。その位の理論さえ分らないかと思われる位です。そういうふうになつたという事は――黴菌とは一寸離れた様な話ですが、兎に角中毒の為に今の人間の頭が非常に悪くなつている。で、日本人の頭が悪くなつたのは、何時も言うのですが酷いものです。身体が汚(ヨゴ)れ切つているのです。然し黴菌の話の序ですから、そういう事も心得て居なければならないので言うのです。政府もそれは知つているのだから大いにやりたいが、やれないという事は、つまり本当に言えば憲法を改正しなければならない。処が民主政治というのは非常に厄介なもので、憲法改正には何うしても国民投票――何ういう方法でやるか、大体国民全部の内の賛成が多くなければ、それは出来ない。然し今選挙権を持つているのは、女の方が二、三百万多いのです。そうすると国民投票をやれば、軍備反対の方が多いですから成立しない。それで政府はそうしたいのだがやれないのです。ですから其点も実に可笑しい位なのです。では黴菌人間は何うなるかというと、それに就いて書いたのです。それから第三次戦争がそういう人間を解決するのです。

御論文「⇒第三次戦争は果して有る?」【註  地上天国第四十号】

それから黴菌人間が今如何に多いかという事ですが、それを一寸書いてみたのです。

御論文「⇒悪の世の中」【註  栄光一七四号】

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それから、よく麻薬中毒という事を言いますが、麻薬中毒と言うと他人事(ヒトゴト)の様ですが、今日本人全部が麻薬中毒なのです。只早く効く麻薬と遅く効く麻薬との異いです。で、みんな麻薬と言つているのは、早く効く麻薬です。それから薬と言つているのは、遅く効く麻薬です。それに就いて書いてみたのです。

御論文「⇒医学断片集  薬と名の付くものは全部麻薬なり」【註  栄光一七四号】 

よくお医者さんなんかゞ「此薬は前は効いたが此頃は効かない」という事を言うのですが、あれはやつぱり麻薬中毒と同じで、麻薬も最初は三日に一本射てば良かつたが、段々効かなくなつて今度は二日に一本、一日に一本という様に詰つてます。あれと同じで、前は風邪の薬を飲んだり胃の薬を偶に飲めば済む位だが、段々頻繁にしなければ追附かない。よく喘息の注射なんか、起る度に射つたのが、それが終いには段々詰つて来て三日とあけず射つ様になる。それで始終射つという事になります。あれは麻薬の作用と同じ事です。麻薬は、終いには射たないと苦しいから、人の物を盗んでも射つ様になります。喘息の注射はそれと同じです。少し注射しないで居ると息が詰りそうになります。そうしてみると一切の薬は麻薬なのです。だから麻薬中毒を恐れるのなら他の薬も恐れなければならないが、只他の薬は麻薬の様に早くない。遅く効くから、中毒になり方が暇がかゝるから、それで気が附かない。実に人間の頭の悪さというのはお話になりません。それから結核の新薬なんかでも年中変つてます。今はヒドラジツトなんかと言つているが、此次は又何か出て来ます。それに気が附かない間はいくらでも薬が出て来ます。然し其内にこつちの説を世界中が信じる様になります。それ迄の間はドンドン新しい薬が出ます。それで新しい薬というのは、麻薬なら麻薬の効きが良くなるのです。だからそれが分れば恐ろしい話なのです。薬の中毒を患者に言う場合に、麻薬を例にとつて言うと分り易いと思います。一番良いと思います。ストレプトマイシンと言う麻薬なのです。ヒドラジツトと言う麻薬なのです。斯ういう風に言うと分り易いです。段々薬の種類が増えると――増えるという事は之も可笑しい事で、よく胃なら胃の薬を飲んでいると、もうそれが効かなくなる。すると、薬を替えると一時効くという事を言いますが、あれが――一つ薬を飲んで効かなくなるという事は中毒になつているのです。中毒というのは身体にそれに対する抵抗力が出来るので効かなくなる。人間の身体というのは、丁度食物や何かで毒のある物を食べていると、段々毒に中(アタ)らなくなるが、あれと同じ事で、一つ事をやつているとそれに中毒をして了う。だから替えなければならない事になる。之は農業の方の連作と同じです。つまり肥料中毒にかゝつているから、そこで畑なら畑を替えると、一時良くなるという意味と同じ事です。そういう点を考えると、薬毒というのは良く分るのです。

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九月十五日

此の間、薬が段々効かなくなるという話をしましたが、今し方の学校放送の時間で、今年の赤痢の多いのは、サルフア剤というのが、前には飲ませると割合に良く治つたが、そのサルフア剤が此頃効かなくなつた。何ういう訳で効かないかというと、医者が言うには、素人が矢鱈に使うから効かないのだと言う。すると素人の手に入ると薬の効目が薄くなるというのは何ういう訳か一寸分らない。反つて医者の方が薬を余計使うのだから、あべこべではないかと思いますが――。それから、素人が使うから効かなくなつた為と、其他もう一つの原因は、効くと直ぐ薬を止(ヤ)めて了う。其為に治り損つて増えると言うのですが、之も其の言う処は分らない。むしろ薬が効いているから、直ぐ止めるのではないですか――。一寸下痢が止るので、もう治つたと思つて止める――それがいけないのだと言うのです。ですから要するに医者の言う事は出鱈目なのです。理窟が一貫してないのです。何がなんだか、さつぱり分らない。そんな事で、もう頭が変なのです。何んと言つて良いか分らない。それだからして、いつも医者が言うのは、手を洗う事、それから食物とか食器に蝿がたからない様に――それより他に仕様がない、という事を言つているのです。実に情ない様な話です。

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それから此間アメリカから帰つて来た立松文二という人で、あつちの大学に日本から選ばれて入つていたのです。カソリックの大学です。処がメシヤ教の事を大分宣伝するので工合が悪くなり、一年位で帰つて来ましたが、其時にあつちの病気の統計を良く調べて帰つて来たのです。それに就いて非常に米国は病人が多いのです。その病気の原因や治し方を色々書いて、向うの大統領とか主な大病院とか、そういう方面に小冊子にしてやろうと思つてます。それに就いて論文を書いたのです。今論文と統計を読ませます。

御論文「⇒米国に於ける驚くべき病者の氾濫」【註  栄光一七五号】

之は未だ統計丈ですから、解決法は次あたりの時に読ませます。今の、如何に酷いかという状態が良く分ります。

寄書「米国に於ける病気状況」【註  栄光一七五号】

今読んだのに就いて二つの問題を認めるのです。それは死亡率が減つて病人が増える――之です。之は何時も我々が言う、固め療法です。それが良く分ります。死亡率が減つて――之は特に結核に多いですが、日本でも二、三年前から結核が非常に減つたという事も、それです。いろんな薬――新薬が出来たり色んな療法が出来ましたが、之は残らず固め療法――固め方法です。固め方法は進歩したのです。そこで溶けるのが激しいと死んで了う。そこで固めれば死ぬのを延ばせる。之は借金に譬えれば一番良く分る。一遍に返そうとするから破産もするし、結局破滅するのですが、之を月賦ですればそういつた危機は一時逃れられるのです。浄化の借金を月賦にするのです。なしくずしにするのです。若しか商人なら商人の借金を一遍に返せと言えば、つぶれるよりない。店を仕舞うよりない。それを、なしくずしにして月賦にしてすれば出来る。そこで死ぬ人が減つたというのは一時的なものです。何故なら、延ばした人もいづれは一遍に返さなければならないからです。そこで数年以内に死亡率が馬鹿に増える時期が来なければならない。そうすると目が醒めるのです。それから今後霊界の浄化が段々強くなるに従つて、今迄固め方法が進歩して来たが、今度はその進歩も出来なくなる。それと、今言つた借金を一遍に返す時期が来ますから、それで恐ろしい程馬鹿に人が死ぬのです。そういう時期が来ます。ですからそれを予め警告して置こうと思う。そうして之をアメリカに配る積りです。之を知つて置くと、其時になつて之だという事も分りますし、それから中には確かにそうだというので、目が醒める人も出て来ます。それからもう一つは家畜に変な病気が起つて、此儘進んだら非常な肉不足になるだろうという事が、今のに書いてありましたが、之は面白いです。アメリカ人の病気が多いのは、無論薬毒が一番ですが、其次は肉を食べ過ぎる為です。之はアメリカに限らずヨーロツパでもそうです。一番肉を食べるイギリス、フランスなんかは非常に弱つて了つてます。特にアメリカで一番恐ろしがつている癌は、此間も言つた通り肉の毒です。肉食の為です。その肉の毒を野菜で消せば良いのですが、野菜の食べ方が足りないから、そこで癌が増えるのです。そこで肉の不足というのは、もう肉を食べてはいけないという神様の調節作用です。そこで、そういう調節されるという事は、一つの摂理です。それから「神を見せる宗教」という論文を書いたのです。之は未信者向きの論文なのです。信者には分り切つた話なのです。

御論文「⇒神を見せる宗教」【註  栄光一七六号】

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それから、之は又話は違うが、今朝の強羅の温度は二十三度なのです。東京は二十一度なのです。東京より暑いのです。此間も一日ありましたが――で、今年の温度は余程面白いので、此処は大抵東京と同じです。東京より低い事は今月に入つてからないです。同じか、今言う様に高い位です。それは何ういう訳だというと、それ丈強羅は火素が多いのです。それに就いて今論文を書いてますが、此間も話したか知れませんが、スエーデンのハルマンという学者で、世界の温度は五十年間に十度増したという事を言われてますが、之程考えなくてはならない事はない。五十年間に十度の割合で行くと、五百年で百度です。処が近年そうなつたので、昔にそうなつていたら人類は暑さの為に参つて了います。百度増えると言つても、百度になるわけではない。今迄の温度より百度増えるのですから、今迄の夏は華子で八十度ですが、すると百八十度で、之では生きていかれない。今迄にそんなに増えたのでなくて、五十年そこそこから、五十年以後増えた事になるのです。それが日本が先なのです。やつぱり日本は火の国です。日の出る国ですから先に火素が増えるわけです。大体日本に火素が増えるという事は要するに昼間の世界になる事です。それは明治から、もうそういう工合に始つているのです。然し之はもつと前からなのです。霊界というものは三段になつてますが、天国でも、第一天国、第二天国、第三天国となつている。それで第一天国が黎明になつて、それから第二天国、それから第三天国、それから八衢になるのです。最高――最奥の第一天国が黎明になつたのが六百数十年前です。日蓮上人の時です。日蓮上人が現われた時が黎明の最初なのです。それ迄の仏教はみんな月の教だつた。南無阿彌陀仏というのは六字の称名と言いますが、それは南無阿彌陀仏は月の教えだからです。之は余程面白いのです。六字の称名と言つて、月は「六」で日は「五」ですから、南無阿彌陀仏が六字の称名、それから妙法蓮華経は五字ですから、五字の称名という事が言われている。月の世界に日が出たというのが五ですから、日蓮上人は妙法蓮華経を唱え始めた。そうして日蓮とは、日の蓮(ハス)です。それで最初安房の清澄山で妙法蓮華経を唱えた。それから日蓮宗を弘通した。それですからして、あの時に最奥天国の中心が黎明だつたのです。それから愈々第二天国が済んで第三天国から、今度は八衢になる時が明治なのです。明治という文字が、「明」は日月で、日月で治める。今迄は月で治めたが、今度は日が入つて日月で治めるという事も非常に神秘なのです。それから大正になつた。大正という事が、「大」が正しくなるというのです。あれは大本教のお筆先に「今迄は大の字逆さになりたるぞ、今度は大の字本様(ホンサマ)にするぞよ」という事があるが、之が非常に面白いのです。神秘なのです。で、「大」というのは一人と書くのです。一人が逆(サカサ)になつていたという、それを真直に直す。それから昭和というのが又非常に面白いのです。昭和という意味に就いて今に書きますが、未だ一寸時期が早い様ですから――。神様はやつぱりそういう風に色んな事で知らされているのです。兎に角昼間になるという事は著々と進んでいるのです。それで、私の自観叢書にある通り、昭和六年六月十五日に安房の日本寺に行つたという事を書いてありますが、あの時にははつきり分つたのです。此時は実に色んな事があつて面白かつたのです。日本寺というのは乾坤山(ケンコンザン)日本寺というのですが、乾坤山という名前が面白いのです。之は安房の鋸山ですが、鋸山というのが又面白い意味があるのですが、いずれは斯ういう事も精しく話します。東京湾から富士山にかけての、斯ういう事も先に話した事があるが、色々な神秘な意味があるのです。乾坤というのは天地という事です。天地乾坤と言つて非常に大きな意味になる。それからお寺の名前で「日本」というのはありません。非常に大きな名前です。あそこから黎明になつた。日本の夜明(ヨアケ)が始つた。それが昭和六年六月十五日です。それから九カ月――三月三日経つてから満洲事変が起つたのです。満洲事変が段々拡がつて来たのが大東亜戦争になつて、そうして日本が革命になつた。日本の大革命です。引繰返つて了つた。之は其時分から、ちやんと順序正しく神様が経綸されていた。斯ういう事を説明すると、実にピツタリしているのです。正しく来ているのです。日本が一番変つたという事は天皇陛下の地位が変つたという之が一番変つている。他の事は講和になつて、段々復古調で以前と同じなのですが、只一つ以前と同じにならないのは、天皇陛下です。之も今の話の事を考えてみると、ちやんと分るのです。之は私は前から調べあげていて、昭和七、八年頃に天皇陛下の地位に変化があるという事を知らされていたが、話す事が出来ないから困りました。之に就いてもいずれ話しますが、実に神秘なのです。つまり之から火素が増え、霊界の浄化が強くなるに従つて、色んな事が起るのです。それに就いて「第三次戦争はある」という事は今度の「地上天国」に出しますが、あれらも、浄化が強くなると当然そういう風になるという事です。

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九月十六日

今度アメリカから帰つて来た立松文二という人が、あつちの病気の統計をすつかり調べて帰つて来たのですが、此間も話した通り素晴しく病気が多いのです。で、此儘進んで行くとアメリカは亡びて了います。だからその原因や治し方や何かをすつかり書いて、小冊子にして大統領とか偉い人、医学界とかに配ろうと思つてます。で、アメリカを大いに救いたいと思つてます。之から書くのですが、序文丈読ませます。処が日本では、アメリカの医学が世界で一番進歩しているというので、一所懸命真似をしようとしてますが、私の考えでは凡そあべこべです。日本の当局の方ではアメリカが先生になるが、私の方ではアメリカは弟子の様に思つているから、逆になるわけです。

御論文「⇒米国に於ける驚くべき病者の氾濫」【註  栄光一七五号】

寄書「米国に於ける病気状況」【註  栄光一七五号】

斯ういう統計ですから「栄光」に出します。後は見て下さい。今言つた通り大変なものです。それが年々増えているのですから、最後を考えると恐ろしい位なものです。それを日本は真似しようとしているのですから実に見ては居られないです。

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それから此間も一寸話した火素が増える事ですが、面白いのは今年の温度ですが、今日もそうですが、東京よりも強羅では二度高いです。こつちが二十二度で東京が二十度かです。斯んな事は今迄にないのです。大抵東京よりも三度乃至五度低いのです。今年は東京と同じか東京より高いのです。実に不思議です。それ丈火素が増えたのです。それを書いてみたのです。

御論文「⇒昼の世界に転換の科学的証明」

昼の世界になつた一番初めは日蓮上人の時で、それ迄の仏教は月の教えだつたのです。本地垂迹(ホンチスイジヤク)と言つて、本地とは日本の事です。之は何時か書いた通り、仏教はお釈迦さんが「仏滅の世が来る、それからミロクの世になる」と言つて、つまり月の教えは夜の教えです。之は字でみると面白いが、「月」という字は下を取ると「日」になるのです。だから月の中に日が含まれているのです。之は中々深い意味があるのです。そういうわけで、仏教の中から日が生まれるわけです。要するに夜の世界が昼の世界になるわけです。その一番初めが日蓮上人です。日蓮上人は妙法蓮華経と唱え且つ日蓮上人自身は「天照大御神様の生まれ変りだ」と、斯う言つていたのです。安房の清澄山で妙法蓮華経を最初に唱え始めて、それから愈々宣伝したという事になってますが、其時にもう日本は黎明期に入つたわけです。黎明期に入つたと言つた処で、霊界の極く奥です。つまり上の方です。最奥の霊界に日が現われたわけです。それが明治になつて一層、又其次の霊界に――霊界も一、二、三。神界、中有界、現界と。それが又三つに分れているのです。天国も第一第二第三となつている。ですから第一天国に日が現われたのが日蓮上人の時です。それから第二第三と――第三辺りが丁度明治というわけです。それで面白いのは、日本が世界から認められた――今迄は極東の隅に隠されていたが、兎に角世界的に現われたのが、アメリカのペルリが来てからですから、結局日本を生んだのがアメリカです。処がアメリカは星の国ですが、「星」というのは「日を生む」と書きます。之も神秘なのです。すると星が日を生むという事ですが、つまり月が隠れると今度は星の世界になるわけです。だから月は英国です。英国が衰えて来て星の国米国が興つたのです。星の国が興つた時が闇の夜ですから、星が光るのです。之は実に良く出ている。英国が衰えるのと逆に米国が光る。月が隠れるに従つて星が光を増すという順序なのです。それが良く国で現われている。それで星が現われて、それから日が現われる――日本が生まれる。斯ういう事になる。日本が段々生まれていく順序は、今言つたとおり日蓮上人――六百数十年前――六百五十年祭を数十年前にやりましたが、それから明治になつて又明るくなつて、それから私の本にある昭和六年六月十五日――今読みましたが、あんな工合に今度は中有界が明るくなつた。それから愈々現界に日が出るわけです。それは之からです。そうすると現界が大変化して来る。それがつまり最後の審判なのです。それで愈々仏滅であり、今度は新しい文化が生まれるという順序なのです。それに就いて最近多賀さんの妻君に対して色んな霊が憑つているのです。仏界の――弘法大師が先に憑つたのですが、弘法大師だとか、役(エン)の行者だとか、臨済宗の開祖で臨済義玄とか、法相宗の開祖は、此間も言つた通り奈良仏教の開祖ですが、そんな様な偉い人が憑つて来て「愈々仏界が滅した。自分は今迄間違つていたから、明主様に御詫して貰いたい。そうして今度メシヤ教の仕事に働かして貰いたい」と言うのです。之は本当なのです。未だ色々出て来るのですが、それに依つても仏滅が良く現われている。そんなわけで、非常に近寄つて来ているのです。近寄つて来るからして、之からもう少し経つとあらゆる面が変化して来ます。本当に変化するのは熱海の瑞雲郷が出来上つて、それから現界的になる。神仙郷は何時も言う通り霊界なのです。それで神仙郷が完成したという事は霊界に地上天国が出来たわけです。今度熱海が完成すると現界に出来るのですから、今度は汚(キタナ)い物が崩壊して、本当のミロクの世の建設が現界的に始るわけです。で、熱海が完成するのは大体再来年でしよう。すると、再来年を過ぎると、今度は素晴しい変化を起します。それは非常に近寄つているのです。之は色々神秘な事がありますが、追々話していきます。それで世界の中心というものは、先にも言う通り、此の神山(カミヤマ)なのです。之は日本の西と東の真中になる。それから日本は世界の型になつているのです。世界の型という事は、天国の型になつている。ですから日本は世界の天国としての小さいものです。日本は世界の公園という事を私は言いましたが、世界の公園が日本なのです。それで日本の公園が箱根なのです。すると東西文明の中心なのです。箱根は東西の中心になり、更にその箱根の中心が神山なのです。で、神山の向うが静岡県でこつちが神奈川県なのです。神山の山の上に何か建てるわけにはいきませんから、其下の強羅が神山の型になるわけです。それで私は「神山荘」と名前を附けたのです。「日光殿」も最初は「早雲荘」と附けたのですが、神山と早雲山の型になる。そうするとあの美術館は世界の真中の型になるわけです。此の神仙郷というのは中心になるから、此処が完成すれば霊界の天国が出来たのです。之が霊界で、之が段々拡がつていく――体的に拡がつていくと、間違つているものや汚いものは自然に無くなつていく。だから破壊と建設が同時に出来ていくという事は、そういう事です。然しこつちで破壊していくのではない。間違っているものは自然にそうなるのです。そうすると大変な現界的な変化になつていくわけです。それをボツボツ書いてます。

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之は「神を見せる宗教」と言つて、信者は良く知つている事ですが、未信者に見せたり話をする場合に、斯ういつた説き方や順序で話をすると良く分るから、その意味で書いたのです。

御論文「⇒神を見せる宗教」【註  栄光一七六号】

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之は一寸面白い論文です。

御論文「⇒調和の理論」【註  栄光一七六号】

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之は美術館の美術品に就いて、その訳を一寸書いたのです。

御論文「⇒美術品の集る理由」【註  栄光一七七号】

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九月十七日

今米国では病人が非常に増えて来たのです。今度信者で米国の大学に入つていた立松文二という人が帰つて来て、あつちの統計を細かく調査して帰つて来たのです。それを読ませます。

御論文「⇒米国に於ける驚くべき病者の氾濫」【註  栄光一七五号】

寄書「米国に於ける病気状況」【註  栄光一七五号】

何しろ色んな病気が増えつゝあるのです。之を一々原因其他を出来る丈精しく書く積りです。そうして送ろうと思つてます。それで丁度、浄化作用――要するに溶け様とする毒を固めて来たわけです。で、病気の種類も段々増えて来るのですが、それはつまり、此の毒が出ようとするのを固めると、其処から出ないから、他から出ようとして変化をするのです。だから色んな病気が増えるのです。それで薬毒が段々増えていくわけです。増えていくので――新しい薬という奴は段々毒を強めて固めるのです。そうすると浄化作用は、段々昼の世界になるにつれて強くなつていく。それに就いて此間も一寸話しましたが、書いてみたのです。

御論文「⇒昼の世界に転換の科学的証明」

昼の世界になつた一番初めは、日本では日蓮上人が出た時です。で、何時も言う通り仏教は月の教えだという事はつまり夜の世界というわけなのです。まあ、闇の世界です。そこで月が有難かつたのです。それが仏教です。それ迄月であつたのが、初めて仏教の中に日が出たわけです。それが日蓮上人なのです。日蓮上人は一番最初に安房の清澄山に登つて、黎明に妙法蓮華経を唱えた。それから法華経を弘通したという事になつてますが、之は事実なのです。そんなわけで日蓮上人は、天照大御神の生まれ変りだという事を唱えていたのです。「我日本の柱ともならん。我日本の大舟ともならん」と言つたのですが、日本の柱という事は日本の天皇という事です。自分は日本の天皇だと思つていたのです。処がそれが間違であつたという事を悟つたのですが、兎に角そんなわけで仏教の中に日が出たのです。だから仏界に於る黎明期に入つたというわけです。それから段々進んで明治に――この明治になつたという事が、そこに又意味があるのです。それ迄は武家の時代だつたのです。武家の時代という事は、武力で天下を取つていたのです。で、最後の武家の天下が徳川時代だつたのです。之は先にも書いた事がありますが、武家の先祖と言いますか、それは素盞嗚尊なのです。素盞嗚尊が神武天皇にやられたのです。まあ、息子の大国主命の時です。之は歴史にもありますが、神武天皇の系統を日の系統だという事があります。天照大御神の系統だという事になつてますが、天照大御神の傍系になつているのです。ですからまあ――系統とも言えるのです。本当の系統は押込められたのです。岩戸隠れになつている。その傍系が神武天皇になつている。そこで大国主命は素盞嗚尊の系統ですから、月の系統になる。そこで日の系統をやつつけ様と思つて、そうして始終闘つていたのです。それが日本の戦争に次ぐ戦争であつた原因なのです。そうして最後が徳川家康です。あれは素盞嗚尊の系統だからです。そこで今度は、素盞嗚尊の方をやつつけて、そうして日の系統が立たなければならないという事が明治なのです。王政復古です。その一番根本的の一つの手伝(テツダイ)、援助者がアメリカです。アメリカから、日本の開国の為にペルリなんかが来ました。それは何ういう訳だというと、月の時代――英国は月の国だという事は私は言つてますが――を過ぎて、月が段々隠れて来て――月が隠れると闇になるから、そうすると星が光つて来るのです。そこで英国が段々衰えるに従つて米国が勃興して来たのです。米国は星の国なのです。そうすると、星が過ぎると日が出るのです。之は天文学的に言つても良く分ります。月が無くなると真暗になり星が光る。そうして今度は日が出る。ですから「星」という字は「日が生まれる」と書いてある。米国は日本の日の系統を生んだわけです。米国が日本を開国した為に、徳川というものは没落したのです。そうして日の系統である天皇の方が天下を治めたという事です。処で之が、この形が宗教的に現われている。というのは一番面白いのは、今何処の宗教でもみんな病院を作り始めている。天理教なんかでも病院を作り始めているのです。それから人の道――PL教団でも、日蓮宗の「霊友会」の一派で最近非常に有名になつて来た「立正交成会」でも立派な病院を作つている。理想的な病院だと、非常に自慢している。これらも、以前は医学が駄目だとか薬が駄目だとか言つていた宗教ですが、今はみんな病院を拵えている。今度聞いた話ですが、「人の道」の教祖の御木徳一という人の時に――二十年前ですか、其時に信者になつた中々有力な人で、金なんかも大変に寄附したらしいですが、其当時に医者や薬はいかんと止(ヤ)められて、その通りにしていたら、間もなく自分は健康になつて、今以つて家族でもなんでも医者にかゝらないで、非常に健康を維持している。処が最近病院を作つた。自分は何処迄も、病気は信仰で治すべきものと思つているので、病院を作つた「人の道」が頼りにならない。そこで今度は、医者に頼らない宗教で、信仰で病気を治すというものを見附け始めた処が、メシヤ教より他にない。そこでメシヤ教に入りたいからと、或る支部に尋ねたというのです。ですから其人の話に依つても、医者を否定する宗教はメシヤ教丈という事になる。私が「大本教」に入つた動機というのは、医学の間違つた事を知つてからですが、お筆先に斯ういうのがある。「外国から渡りて来た、毒にはなつても薬にはならぬ。ヤクザな物に高い金を払つて身体を濁らす馬鹿な人民ばかり、神も困るぞよ」というのがある。そこで私も驚いた。その頃薬は毒だという人は無いのです。それがちやんとお筆先にある。之は大変だと、大本教に入つた一番の魅力だつたのです。大本教もそれ程医学を否定して、あの時分にやつていたのです。処が此間大本教の古い人が来たのですが、真青な顔をして来た。「何うした、あなたは薬を飲んでいるだろう」と言つたら「漢方薬をやつてます」と言う。ですから皆医者にかゝつたり薬を飲んでいるのです。以前は人の道なんかでも、「オフリカエ」で非常に良く治つたのです。それが治らないから病院を作るのですが、何うして治らなくなつたかという事は、今迄の宗教は全部月の系統の宗教なのです。その親玉は「天理教」です。天理教の神様が月の系統の神様です。天理王尊というのは相応した名前です。他の色んな八柱の神という神様がありますが、あれは月の系統の神様です。天理教に古くから会があります――月日会というのがある。私は可笑しいと思うが、日月会としたら良いだろうと思います。今でもあります。それからもう一つは、天理教の標語に「一列揃つて甘露台に」とあるが、甘露台という事は月の甘露です。それから、以前は甘露台と言うと、燈台みたいな物を作つて、入物は皮か何かを置いて、其処に月の夜に露を溜める。それを甘露と言つて大変尊び、病気の時にそれを一滴位飲むと非常に良く治つた。ですから月の系統という事は良く分ります。処が昼の世界になるに就いて、さつき言つた通り明治時代になつて霊界の――八衢(ヤチマタ)の前――八衢は三段になつており、天国も三段になつてますが、言わば第三天国の処に黎明になつた。之は私の本に書いてある通り、昭和六年六月十五日に房州の日本寺に行つた時が現界の黎明になつたわけです。そうして段々日が出て来る――つまり浄化が強くなつて来る。火素が増えて来る。そうして昼間になつて来ると、月の光というものは段々消えて来るのです。ですから月の光で治つた力が、段々無くなつて来て、今は何の宗教でも病気は治らないのです。仕方なしに病院を作るという事になる。処がメシヤ教の方はそれと反対です。毎年段々治つて来るのです。之はあなた方が浄霊すれば分りますが、日に月に治り方が強くなつて来るのです。ですから之が段々進むと、愈々月の系統の方は、全く治らなくなつて来ます。段々そうなつて来てますが、一層治らなくなると共に、日の火素の方が強くなつて来るに従つて浄化が強くなつて来ます。そこで月の方は――医学も月の方ですから、固めるというのですから――。以前よく手の平療法とか色々な療法がありましたが、それは相当効目があるのです。治るのです。然しそれはみんな固め療法です。そして固め療法の親方が医学です。薬で固めるのですから――。処が段々火素が増えるに従つて固め療法が固まらなくなつて来た。之は医学の方でよく現われている。此頃、先には良く効いたが此頃効かなくなつたという事が非常に増えて来た。先に、ヒドラジツトはアメリカでは良く効いたのです。処がアメリカの方は火素が弱いのです。日本から日が出るから日本の方が浄化力が強いのです。そういう訳ですから、ヒドラジツトが日本に来たら固める力が弱くなるから効かないのです。二、三日前の新聞に、今迄の試験では一番大袈裟にやつた様に書いてありますが、効いた人が三割だと言うのです。三割効いたと言つた処で、一時的なものですから、又幾月か経つと元(モト)の木阿彌(モクアミ)になるから、結局一人も効かないという事になります。ですからそういう工合に益々火素が増えつゝあるという事ははつきり分るのです。何にでも現われている。此頃お医者さんの方でも首をひねつて来たのが随分あります。メシヤ教は病気が良く治るという事でも、医学界の方にも大分知れて来た様です。之は当り前の話ですが、喜ばしい話です。そんな様で段々それが著しくなつて来て、終いには注射すると即座に死ぬという事になります。それで始めて、医学はもう駄目だ。では何か他にないかという事になると、メシヤ教は先から斯ういう事を言つていた。それではメシヤ教を研究してみよう、という事にならない事もありません。それからがこつちの出場の舞台になります。みんな鼻をオヤカしておいて――。今に引張ダコにされるでしよう。それ迄我慢して楽しみにしている事です。あまり長くなるから、その話はその位にして――。

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之は一寸面白い論文です。

御論文「⇒美術品の集まる理由」【註  栄光一七七号】

二年前に初版でない再版物の広重の五十三次を持つて来た道具屋がありますが、それは普通の道具屋です。それが二、三年後に本当の初版物が再版物よりずつと安価ですから喫驚しました。

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秋季大祭御教

九月二十三日

愈々神仙郷も完成したのですが、之は何時も言う通り、つまり地上天国の模型が出来たわけです。之がこれから世界に拡がつて行くのです。霊界の方の中心は、もう地上天国が出来ているのです。之が段々現界に写つて世界的に拡がつていくのです。そうすると大変結構な事ですが、その代り立派な上等なものが出来て、拡がるに就いては汚(キタナ)いものや邪魔なものは除かれなければならない。ですから神様の方から言うと非常に結構な代りに、悪魔や邪神の方は大恐慌を来たすわけです。今迄安心していた処を取払いになるのですから――。それが世界的に段々現われて来ますから、悪魔の方は恐ろしくなるし、善の方は有難くなる――愉快になるというわけです。そこで破壊と創造が同時に行われるというのは、そういうわけです。創造が為(ナ)される為に、どうしても破壊が行われるというわけです。それが段々加速度的に速くなつて行く。ですから神仙郷というものは非常に大きな意味があるのです。 それに就いてもう一つは、つい最近京都に丁度良い土地が手に入る事になつたのです。之は何時も言う通り、箱根が五であり、五は火です。それから熱海は六で、六は水です。七は土です。土が京都になるわけです。ですから、箱根は火であり経であるからして一番高い。それから熱海は水があつて、ずつと低くなつている。で、京都の方は平になるわけです。ですから五、六、七でミロクの型が出来たわけです。之に就いては、昨年の春初めて京都に行つたのですが、其時に私が「いずれ京都に地上天国を造らなければならない。それには平な所で、池のある所でなければいけない」と言つたのです。そうするとあの時に釈迦寺に行つて、そこを出て法然院に行つて、途中で左側に大きな池があつて突当りに小さな山があつて、平で非常に工合が良い。此処は気に入つたなと思つて居た。併し売るか売らないかも分らないし、何の位の広さがあるかも分らないが、何んとなくそういう気がしていた。処が今年の春にあの辺に売物があるからと見に行つたのです。併し高い事を言つているので手が出せないので、いずれ神様がなんとかするだろうと放つて置いたのです。処が最近其処を譲りたい――譲りたいという事は去年から言つていたのですが、今度は本気になつて、割合に安く負けると言うので、聞いてみると割合安く、手が出るという様な値段なので、それではというので今取決めに行つてます。無論決ります。そんな様なわけで神様のやる事は、実に判で捺した様です。所は、広沢の池の所の地所です。嵯峨です。京都では嵯峨が一番良いのです。昔から――あれは平安朝時代の中心だつたのです。あそこに釈迦寺があるが、あれも非常に意味があるのです。あそこは、私は今から四十年位前に京都に行つて、嵯峨の釈迦寺に行つて天井の栖鳳の龍の絵を見た事があり、そんな事で非常に印象に残つている。其時にもう結ばれたのです。で、観音が五の彌勒、阿彌陀が六の彌勒、釈迦が七の彌勒になつている。そうすると、あそこに釈迦堂があつてお釈迦さんが毎日居られるという事はそういつた意味です。要するに七です。“嵯峨や御室(オムロ)の花盛り”と言つて、やつぱり桜が仏です。それで法然院が阿彌陀さんです。あそこには立派な阿彌陀さんがあります。丁度その真中が今度の地所なのです。まあ私は観音ですから――面白いのです。坪数は一万八千坪ですから、之もミロクになるわけです。で、後に非常に良い山があるのです。松ばかり生(ハ)えている山があります。横にもあります。それから広沢の池という大きな池がありますが、京都としてはあの辺が一番良いでしよう。それから嵯峨野の秋なんかと言つて、長唄にもありますが、あの辺の秋は非常に良いです。で、偶然かも知れませんが、今朝のラジオの趣味の手帳の話に――秋の虫に就いての話ですが、やはり嵯峨の事を非常に精しく話してました。あそこは虫の声を聞き乍ら月を見て秋草が生い繁つている――つまり秋草の庭で、虫の声を聞き乍ら月を見る。つまり源氏物語時代はあれを非常に賞美して憧れていたという事を言つてました。そんな様な意味で兎も角も五、六、七――ミロクの意味は、緒についたと言いますか、そういうわけです。で、名前は「平安郷」と附けました。それで良い家があそこに建つているのです。それを「春秋庵(シユンジユウアン)」――春秋(ハルアキ)です。それは京都は春と秋です。夏は箱根、冬は熱海、それで春と秋は京都です。昔は平安の都と言つたのですから、それで「平」という字が入らなければ面白くないのです。それに土ですから――。あそこに造るのは純日本的なものを造るわけです。熱海は何処迄も西洋風のものを造るのです。だから今度の会館でも全然西洋風です。展望台とか美術館とか、みんな出来る丈新しい様式のものを造ります。今度の京都のは、出来る丈日本風のものです。処が京都という所は、つまり日本の美的感覚を非常に良く出してある様に思つているが、之は良くみると、案外京都には日本的の美はないのです。あるにはあるが――極く古い、奈良朝時代の仏教美術でしよう。どうも仏教美術というのは、一つの限られたる宗教的なものですから、大きな意味から言うと本当の美ではないのです。それから其次は藤原から足利です。まあ鎌倉時代は鎌倉に多く残つてますが、京都の美としては仏教美術の時代を過ぎて、藤原、平安朝時代――其頃は相当色んな美術が出来ましたが、其時分の美術としては貴族的なものです。それも非常に上品な落着いたもので、良いですが、けれども一般的の美術ではなく大宮人(オオミヤビト)的の美術で、まあ非常に華やかだつたのです。それから足利になると、何んと言いますか、将軍とか当時の主権者が楽しむ為の美です。庶民的な点は少しもないのです。併し、それも非常に良いのです。其次は桃山ですが、桃山が又非常に豪華な立派なものですが、然し当時の主権者の満足を得る為の豪華な桃山美術だつたのです。で、その反動的とも言うべき茶の趣味――そういうものは出たのですが、これも非常に良いのです。それから、次は徳川期に入つてから、元禄時代に至つて非常に庶民的の、良い物を作つた為に、之は今迄の権力者の楽しんだ物とは異つた物が出来たのです。けれども、元禄時代には只庶民的の風俗です。そうして建築とか庭園というものには手が廻らなかつたのです。それはそうでしよう。又そうでなくても、衣服や調度が贅沢過ぎたと言つて将軍から禁止された位ですから、建築迄はいかなかつた。それで庭園でも昔から日本にありますが、庭園としての第一人者は小堀遠州でしよう。京都に遠州の作つたものが沢山ありますが、之は非常に小規模で茶には良いのですが、現代人の見た眼から言えば、それ程褒める価値はないのです。京都なんかでは、桂の離宮なんかゞ非常に大騒ぎをする人がありますが、私の見た目ではあの時代には成程立派であつたかも知れないが、今日の目でみると大して価値がみられないのです。で、只時代というもの――時代の味わいは、之は仕方がないです。他の修学院だとか、まあ平安神宮の庭なんか少しは良いのですが、それとても、自分で言つては可笑しいのですが、此処の神仙郷程にいつていません。そんな様で本当の日本の美を理想的に現わしたという所は京都には無いのです。建築でも、立派な物というとお寺です。本願寺だとか、平安神宮とか立派ですが、やはり宗教的です。そんな様なわけですから、私は今度の京都の今の土地は、日本美術を――建築でも庭園でも今迄の時代々々に出来た物を綜合した、日本の趣味を出来る丈採入れた、日本の綜合美と言うかそういう物を造ろうと思つている。そうして京都としての本当の日本美術都市という様な、そういつた条件に当嵌る様な物を造ろうと思つています。それには水が必要なのですが、良い塩梅に大きな池がありますから、あそこの水を貰えば良いし、山も非常に良く、松ばかりの山があります。今度行けば分りますが、何んとも言えない良い感じがするのです。それから今の嵯峨にも――平安郷ですが、其処にも美術館を造りますが、美術品は大いに仏教美術を採入れて――之は、あつちのお寺と連絡して、そういう物を造ろうと思つてますが、それに就いて霊界の各宗の開祖が大いに働き出しますから、それがみんな自分が作つた寺ですから、そこを良い様にやるに違いないですから、そう骨折らなくても、ちやんと良い物は集りますから面白いです。

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それから今新宗教で目立つて活動しているのは、殆ど日蓮宗の系統です。あとは大本教の系統です。大本教の系統は、メシヤ教と生長の家と、三五教というのがありますが、あれも最近中々やつてます。それで日蓮宗の中でも、最近問題になつたりした立正交成会です。あれなんか此間日蓮の七百年祭のお祝に、江の島の龍口寺――つまり日蓮上人の龍の口の御難の所に出来たお寺で、龍口寺に信者が三万二千人――大勢参拝したと言うのです。兎に角そういう大きな団体が参加したのは龍口寺始つて以来初めてという事です。バスなんかゞ五十台とか、そんな事を言つてました。今東京日日新聞の宗教欄で投票を募集してますが、あの中で目立つて沢山入つているのは、殆ど日蓮宗の系統です。そんな様なわけで、もう仏滅の世が来るというのに日蓮宗丈がそんなに華やかに活躍しているのは、不思議な様に思いますが、之は大変な意味があるのです。その意味を今話しますが、其前に日蓮宗の派で活躍している――活躍していないのもあるでしようが、兎に角も相当に働いている団体を書いてみると、随分あるのです。日蓮宗、法華宗、中山妙宗、本化妙宗連盟、本門仏立宗、顕本法華宗、国柱会、霊友会教団、思親会、立正交成会、久遠妙宗、大日本獅子吼会、仏子道場、霊山会、妙智会――妙智会というのは随分やつてます。仏所護念会、本門法華宗、立正観光協会、唱和本宗、浄風会、本門経王宗、孝道教団――孝道教団というのは横浜に大きな家を作つて大分盛んな開会式をやつてます。観音閣教団、立正安国会、其他。未だありますが、主なものが之丈です。では何故斯ういう事になるかと言うと、こゝに大変な意味がある。之は法華経二十八品の二十五番目の観音普門品ですが、法華経は、之は私が始終言つている通り、華(ハナ)を咲かせるのです。仏華を咲かせるのです。花を咲かせると、実(ミ)が生(ナ)る。その実が観音様です。観音様というのが、このメシヤ教の子供みたいなものです。つまり観音教団で生まれて、それが段々育つて来てメシヤ教になつたのです。そうすると、以前に観音教団が生まれたのは霊界です。今度は現界に仏華が咲いて現界的に観音様が生まれるというわけです。そこで日蓮宗が今盛んなのは、現界に花を咲かせているのです。霊界に仏華を咲かせたのが日蓮上人です。で、今は現界に仏華を咲かせているのです。で、之は散るのです。花が散るとそこに現界の観音の実が出来る。斯うなりますから、その意味で良くみていると、之からその通りになりますから、まあ御苦労なお役目をして呉れるわけです。ですからメシヤ教は之から現界的に段々発展していきます。実ですから、最初からそんなに大きくはなりません。最初は花の中心に一寸出来ます。それが段々現界的に拡がつていくのです。大いに期待を持つて良いわけです。話は其位にして、浄霊を非常に希望してますから、浄霊をします。

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九月二十四日

丁度御祭に際して、報告するのに非常に良い事がありました。それは、今度京都に丁度思つた様な土地が手に入る事になつたのです。今年の春に、京都の嵯峨――広沢の池のある所ですが――あそこに土地を見に行つた事がありました。其時分に気には入(イ)りましたが、高い事を言つているのでとても手が出せないので、まあ時期を待つより仕様がないと思つて、神様が何んとかされるだろうと思つて居ましたが、最近割合に安く手に入る事になつたのです。それに就いて神秘な事があるのです。それは、嵯峨に釈迦堂がありますが――嵯峨のお釈迦様と言つて昔から有名なものです。之は今から四十年位前ですか、私が三十になるかならない時――二十七、八の時ですが、京都の人に連れられて京都見物に行つて、そうして釈迦堂の天井に栖鳳が画いたばかりの龍の絵を見に行つた事があるので、非常に印象に残つているのです。それが去年の春――一番最初京都に行つた時に、釈迦堂にお参りして、それから帰りに法然院で講演する時でしたか、其時に自動車で左手に広沢の池があつたのです。私は此辺は良いなと思つたのですが、それから、どうしても京都に地上天国を造らなければならない、それにはあの辺が良いと思うので、聞いてみると、あの辺が一番京都的感じが出ているのです。手に入れるならあの辺だと思つて居た処が、丁度今年の春京都へ行く前に、あの辺に売物がある、見て呉れと言うので見たわけです。丁度一年目です。そんな様な工合で――坪数は一万八千坪あるのです。私はもつと大きい、三万坪以上のを注文したのです。併しいずれ未だ拡がるわけですから、それ以上にはなりましよう。処がそこで面白いのは、釈迦堂と法然院の間になつているのです。法然院というのは法然上人の居た寺なので法然院と言うのですが、あそこに大きな立派な阿彌陀さんがある。国宝ですから実に良く出来てます。此種の彫刻としては最高かも知れません。大体阿彌陀さんの教え――南無阿彌陀仏を一番弘めたのは法然上人ですから、法然上人が南無阿彌陀仏――六字の称名を弘め出したのです。其弟子の親鸞上人が大いに活動して教えを説かれた。それから六代目の蓮如上人に至つて全国的に方々に寺を作つた。ですから真宗の根本は法然上人です。だからして法然院が阿彌陀さんの中心です。で、釈迦と阿彌陀さんの真中が観音さんになるわけです。で、観音さんは真中で右がお釈迦さんで左が阿彌陀さんです。で、阿彌陀さんが男でお釈迦さんは女になるのです。で、今度の土地が丁度そういう形になるのです。それで京都は仏界の型なのですから、観音、阿彌陀、釈迦と、この仏界の中心がつまり嵯峨になるわけです。「サガ」と言う言霊も、やつぱり釈迦という事です。ですから仏界が開けるという始りになるわけです。で、仏界が開けるという事は、つまり仏滅になるのです。ですから京都にあれが出来ますと、そういつた仏教的の色々な変化があるでしよう。それで之を大きく言いますと、箱根が「五」です。之は山で火ですから五です。で、熱海は「六」です。之は、山も低くて海があるからです。それから京都は「七」になるから土です。で、斯ういう事になるのです。五は神様です――まあ神界になるわけです。それから六が物質界になるのです。要するに科学文化です。ですから今迄の世界は六の世界になるのです。つまり水の世界です。それから七が仏界です。そういう風に考えても良いのです。ですから京都は何処迄も七で、七というのは「地」で、平な所でなければならない。ですから京都という所はそういう意味になつてます。ですから之で京都に地上天国が出来ると、箱根、熱海、京都で五、六、七になつて、つまり三位一体でミロクの形になるわけです。ですから時期に応じて神様の方はちやんと御計画通りキチキチと行つているわけです。そんなわけで面白いのは、其為に来月行く予定ではなかつたのですが、京都美術館が今迄接収されていたのが解除になつた為に、記念として浮世絵展覧会をやろうというので、私の処に画を借りに来たのです。東京の国立博物館と京都新聞――そこの編集長か何かゞ浮世絵を借りに来たので四、五点貸す事になりましたが、そうすると是非行つて見たくなつて行く事に決めたのです。すると意外にも、愈々土地がこつちの手に入つたから一日も早く見たいですから――。そういう処なんかは神様は中々気が利いています。で、名前は、其処の土地は「平安郷」と名附けました。京都は昔から平安の都と言つて、大体平安朝時代に一番開けたのです。それと、どうしても「平」という字が入らなければ面白くないのです。七ですから何処迄も平でなければいけない。それですから平安郷という之が一番適当しているのです。又そこに相当な家があるので「春秋庵」という名前を附けました。春秋(ハルアキ)――つまり箱根、熱海が夏と冬、あつちに行けば春と秋ですから、そこで春秋庵と附けたのです。ですから気候も、春夏秋冬が之で揃つたわけです。で、今度はそこの庭にしろ建物にしろ純日本的なものを造る積りです。西洋臭い物は抜きにしてやります。熱海の方は純西洋式にやろうと思つています。熱海は日本臭い物は抜きにする。今も言つた通り、六は物質文化ですから、西洋の文明だから、熱海はどうしても西洋風にするのが合つているわけです。それで箱根は両方の中心になるわけです。此処は一番の元になるのです。ですからさつき詠んだ大祭の歌にもあるでしよう。此処(箱根)が東西文化の要(カナメ)だという事があるでしよう。此処は両方を採入れてあるのです。それで熱海は、今度の会館にしろ展望台にしろ美術館にしろ、全部西洋風です。京都はそういう訳で全部日本式でやるのですが、然し京都は実に日本のあらゆる文化が揃つている様に見えますが、私から言うと、本当の日本の良さは部分的にバラバラになつていて、綜合された物は一つもないのです。というのは、古い奈良朝時代の美術というと、宗教美術――仏教美術です。ですから特殊なものであつて、一般人が楽しむという事にはならないわけです。其時代のメツカだつたのですから、宗教的に拝むという意味が中心です。其後藤原時代の平安文化にしろ、之は貴族文化で非常に上品で良いですが、之は一般人が楽しむというそういつた様な美術は無かつたのです。それから其後鎌倉時代には鎌倉の方が文化が発展しました。それで足利になつて仏教文化と平安朝文化を両方綜合した様な形式が出来た。之が東山文化です。そこに支那文化の影響を多分に受けて、金閣寺とか銀閣寺とか色々な建物が出来ました。金閣寺、銀閣寺にはそれが良く現われてます。大体形式は支那です。それに対して奈良朝から弘仁にかけての仏教――そういつた様な形式と、それから藤原期の貴族的の御殿風のそういうものを採入れて、それをよく綜合された感じが出ているのです。それから絵なんかも足利時代に、東山水墨と言つて、支那から生まれたのです。支那の絵を学んで、そうして狩野派なんて言う日本画が出来たのですが、そんな様な工合で一般的の、つまり庶民が楽しめるという美術は無かつたのです。そこで桃山期に入つて、秀吉があゝいう偉い人でそれで桃山芸術が生まれたわけです。然し桃山芸術と言つた処で、只豪華で立派な物というのが作られたのです。その内の代表的なものは二条城でしよう。二条城は非常に立派ではあるが、大体本当に出来上つたのは二代将軍の時です。立派ですが、あの位金をかけた割に効果が――品格がないのです。只田舎のという――。それから本願寺の、太閤殿下が色々会議に使つたとか言う、それも立派ですが、金ピカで極彩色の絵を画いた丈で、品位というものがないのです。露骨に言えば下品な所があります。その部屋に入つて落着きとか奥床しさとかそういつたものが少しもないのです。桃山時代のそういつた絢爛たる文化の中に、もう一つはそれと逆の茶の趣味が生まれたのです。之は大した功績です。利休という大変な傑出した人が秀吉の援助によつて茶道というものを作つて、華美なものと逆に佗(ワビ)のものを作つたのです。之は結構ですが、極端から極端のそういつた文化です。それから其後元禄に至つて………それまでは凡て将軍や其当時の主権者が楽しむ為に出来た美術、文化が、初めて庶民的になつて来たのです。当時の金持――そういう人達が楽しむ為に、あゝいつた琳派の絵だとか或いは浮世絵、それから織物――西陣織などが、非常に発達したのです。蒔絵なんかも此処の美術館にありますが、あれは大抵元禄前後が多いです。処が元禄頃は庭園と建築は人民には出来なかつたのです。庶民には出来なかつた。何しろ織物なんかも少し立派な物を作つた為に、贅沢過ぎるというので蟄居になつたり島流しになつたのですから、僅かにそういつた調度、織物、装身具――そんな物に贅沢な物が出来た丈で、あと建築や庭園は相変らず当時の主権者、大名――それが占有していたものです。だから其当時の建築と言えば豪華な――あれはやつぱり寺院建築から出た物ですが、太い柱を使つて、何十畳何百畳という広い部屋を作つて、決(キマ)り切つた――床の間とか違い棚を作つて、少しも進歩というのがない。去年も本願寺を見ましたが、代表的と言えば本願寺式の建物です。それで庭園と言えば、決り切つて真中に大きな池をとつて、両側に石と木を配したという、何処迄も決り切つた物です。寔に進歩が無かつたのです。そんなわけで、今度私は、今の平安郷は日本の庭園と建築を、今迄の色々な部分的の良い処を採入れて、綜合的に一つの本当の日本の美術の感覚を出した様な物を作ろうと思つてます。で、京都にはそういう物が有りそうでいて、良くみると無いのです。部分的の物しか無いのです。それは、色んな――政治其他のものの変化が多過ぎた為に落着いた太平の時代というのは少なかつた。漸く徳川時代になつてから太平が続いたのですが、それ迄は落着いた時代が無かつたので出来なかつたのですが、そんな訳で今度は日本美術の新しい感覚を出そうと思つてます。ですから美術館もいずれ造りますが、箱根熱海の美術館とは全然異つたものを造ろうと思つて居ます。それには色んな計画がありますが、今は未だ発表するのは早過ぎるので、いずれ追々発表していきます。

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現在一寸不思議に思われるのは、新宗教が色々出来ましたが、何んと言つても盛んなのは大本教系統――之はメシヤ教と生長の家です。それから近頃三五教と言うのが出来て、之も中々やつてます。あとは日蓮宗の一派の活動は大したものです。立正交成会なんかも中々盛んなものです。日蓮宗の中の特に霊友会から分れたのが、みんな盛んなのです。此間立正交成会で、江の島に龍口寺というお寺がありますが、龍の口と書いた――龍口寺に記念参拝に行きましたが、今年は日蓮宗の開教七百年祭です。で、大変な参拝者ですが、立正交成会が此間信者が三万二千人行つたのです。龍口寺が始つて以来初めてだとか言つてます。バスが五十何台とかだそうです。何しろ日蓮宗の一派というのが大変な活躍をしている。之が大変な意味がある。今日蓮宗の一派で活躍している主なものを書いて来たのです。日蓮宗、法華宗、中山妙宗、本化妙宗連盟、本門仏立宗、顕本法華宗、国柱会、霊友会教団、思親会、立正交成会、久遠妙宗、大日本獅子吼会、仏子道場、霊山会、妙智会、仏所護念会、本門法華宗、立正観光協会、唱和本宗、浄風会、本門経王宗、孝道教団、観音閣教団、立正安国会、其他。主なもの丈で斯うなのですが、未だ色々ある様ですが、何故斯んなに日蓮宗が活躍しているかと言いますと、斯ういう訳なのです。法華経二十八品の内二十五番目が観音普門品ですが、大体日蓮宗というのは、私の著書に書いてある通り、つまり法華と言つて、法の華(ハナ)を咲かせて実(ミ)を生(ナ)らせるという為に生まれたものなのです。そこで言わば観音を生む為です。ですから斯ういう事も言えるのです。釈迦、阿彌陀というのは観音さんに対して親になるわけです。父と母によつて、つまり観音という子を生むのです。そうしてミロクの世というのは一名実相世界です。「実」というのは、実という字です。ですから今迄は観音さんという実が生れる迄は、仮の娑婆と言つて仮だつたのです。そこでつまりお釈迦さんの時代に観音さんを生んだのですが、之は仏教的だつたのです。処が今度は最後の現界に世界的に観音さんが生まれなければならない。それには法の華――法華経を大いに弘めて、パッと華を咲かせなければならないという事で、今パッと華が咲いている形なのです。ですから軈て――之は此処丈でしか言えませんが――散るのです。それから観音さんが生まれる。そういう形をとりますから見て居れば分ります。そうすると仏界に生まれるのですから、先ずメシヤ教は之から――仏界と言えば、日本ですから――大いに日本中に発展するというわけです。で、もう一つは日蓮宗というのは仏教の内で――仏教は全部月の教えだつたのです。寂光の浄土というのは月です。南無阿彌陀仏というのも月です。それが今から七百年前に日蓮上人が生まれたという事は、初めて仏界に日が生まれたわけです。ですから其時に霊界の極く奥の方では黎明になつたわけです。で、メシヤ教は昼間の世界を作る、或いは昼の文化を造るということで、メシヤ教が初めて昼間の宗教です。処が仏教の方でも、日蓮宗が初めて日が出たのですから、つまりあれは昼の仏教です。で、仏教全体としては、夜の宗教ですから月の教えですが、その月の内の日が出たのです。日蓮宗が今非常に活躍しているというのはそういう意味からも言えるのです。それに就いてもう一つ面白いのは、之は昨日の新聞に出てました。読売か朝日か毎日に出てました。新聞に良く書いてありましたが、英国が非常に衰えて来たのです。英国が財政からあらゆる点に於て喫驚する程衰えて来たのです。むしろ日本よりか悪い様です。ですから英国を何んとかしなければならない。他の世界の各国迄非常に影響すると書いてありましたが、之は当り前なのです。何となれば英国は何時も言う通り月ですから、月が段々西の海に沈むからして月の光というものは無くなつて、そこで英国がそういう風になるに従つて米国が世界的に非常に目立つて来たという事は、月が蔭に隠れると、夜の世界では星しか見えません。そこで今度は星の世界になるわけです。今米国が世界に覇をなしているのはそういう訳です。今度は日が出て来ると、日本文化がどうしても世界的になる。そこで「星」という字は「日を生む」と書くのです。で、米国が日本を援助して――之は徳川末期からそうですが、兎に角日本を援助して、世界に出したのが米国ですから、今度も又米国が日本を大いに援助して段々昔の一等国の様に復活する様に米国がしてます。日本も最近は段々良くなつて来つゝありますが、そういう大きな意味なのです。ですから、どうしても昼間の世界になるというそういう形が世界的に――静かに見ればちやんと良く分るのです。では、今日は之位にして置きましよう。大勢だから浄霊も少し時間をかけてやります。

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九月二十五日

神様のおやりになる事は凡て型でやつているのです。主(ス)の型です。チョンです。このチョンが段々拡がつて行くのです。世界に、戦争だとか思想問題とか色んな変り事がありますが、あれは行成(イキナリ)そういう事が起つて来るのではないのです。地球の中心――世界の中心に最初何かゞ出来るのです。何かと言つて――丁度、植物なら種です。それが拡がつていくのです。断えずそういう工合になつて、世界というものは変化して行くのです。では、そのポチですが、ポチの又ポチという様な、丁度太陽で言えば黒点の様なもので、太陽の黒点というのは太陽の種みたいなものですが、あれが十一年目に拡がるので、見えるのです。それが又斯う(狭く)なる。そういつた周期的にいつているものです。あれが太陽の中心で、それが太陽全体を、あれ丈の火の力を活動させている中心です。そういう様な工合で世界にも中心があるのです。で、中心というものは、今迄神様は人間に知らせなかつたのです。それが時節が来て、その中心が知れる様になつたのです。知れる様になつたと言つた処で、今の処中心が分るのは私丈なのですが、いずれは世界中に分る様になるのです。そうしてその中心は、この箱根の神山(カミヤマ)になるのです。之が世界の中心になるのです。今迄隠されていたわけです。丁度、夜の世界で、闇ですから見えない――まあ見せなかつたわけです。そこで神山のあんな高い処ではしようがないから、その麓の強羅が中心になつているわけです。ですから、この中心に神仙郷が出来たという事は、もう世界中が神仙郷になる様な時代が来ます。それが地上天国なのです。そうすると地上天国の模型が段々拡がつていくわけです。拡がつていくに就いては、之を拵えるにはどうしても――薮やでこぼこで石が其処此処に転つて、見る影もない汚(キタナ)らしさだつた。それを段々石を割つたり、余計な木や草を切つて、そうして綺麗にして了つたのです。斯ういう形に世界がなつていくのです。そうすると、世界には雑草もあるし、邪魔な木もあるし、割らなければならない岩もありますから、その大清潔法――大掃除が始るわけです。で、つまり地上天国の模型が拡がるのと、掃除するのが一緒になつているのです。掃除が出来た丈づつは色々な家を拵えたり、庭の形を作つたりしてやつているのです。最後には美術館なんていう綺麗な美しいものが出来るという事になる。ですから神仙郷が出来たという事は、兎に角地上天国がもう出来たのです。霊界ではドンドン拡がりつゝあるのです。それが今に現界に写つていくのです。そこでいわゆる破壊と創造が実現するという事になる。だから第三次戦争もあるでしようし、それから病気が非常に流行つてバタバタ人間が死ぬという事も出て来るでしよう。で、それがメシヤ教によつて救われるのです。救われると言つても、みんな救われるわけではない。譬えてみれば、この中で残つた木は立派に手入れをして眺める様になりますが、反つて邪魔な汚い木は伐つて了います。そういう――木としての犠牲ですが、そういう事も現われるのです。或いは伐られる木の方が多いかも知れない。で、神仙郷の事はそれ位にして置いて――。

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今度京都の嵯峨という所――広沢の池のある――あそこに思つた通りの土地が手に入る事になつたのです。何しろ、何時でも金は逼迫しているのですから、そんな大きな土地を買つたと言うと威勢が良いが、買う約束をしたのです。で、一万八千坪です。私の予定は三万坪なのですが、いずれ又附近が手に入るだろうと思つてます。然し一万八千坪でも可成り広いです。神仙郷丈が三千坪なのですが、もつと大きく見えるでしよう。此処が一万坪の内の三分の一で、此の上に未だ六、七千坪あるのです。それは、色んな物を拵えると広く見えるものです。之は、あつちを見た人は知つてますが、大変な良い地所です。嵯峨野の秋とか、何とかいう――野原になつてます。で、広沢の池――大きな池ですが、昨年の春初めて京都地方に行きまして、嵯峨のお釈迦さん――釈迦堂と言つて有名なものですが、あそこは私は約四十年位前に京都に初めて行つた時、あそこの釈迦堂の天井に栖鳳が龍を画いたばかりのがあつて、それを是非見ろというので、行つて見たので良く記憶に残つているのです。去年の春に行つた時に、釈迦堂に行つた帰りに法然院に行つて皆に話をしましたが、法然院というのは、法然上人があそこに居て修業されたのです。ですから素晴しく大きな阿彌陀さんがあつて、作も随分良いのです。あんな立派な作は他に無いかも知れません。で、法然上人は浄土真宗の開祖ですから、つまり南無阿彌陀仏を最初に弘めた人です。で、法然の弟子が親鸞です。親鸞から六代目の蓮如上人に至つて全国的に教えを弘めたのです。それが今の浄土真宗です。本願寺です。そういうわけで法然上人は仏教の方では大した仕事をされたわけです。今度の地所というのは、丁度釈迦堂と法然院との間位になつています。そうすると釈迦、阿彌陀、その真中が私の方は観音ですから、それで三位一体の形になつたわけです。真中が観音様で、そうして観音様の左側が阿彌陀さん、右が釈迦と、それが本当の順序なのですが、やつぱりそういう工合になるのです。三尊の彌陀――そういう形になるのです。ですからお釈迦さんは七の彌勒です。仏教の方で言うと、釈迦が七の彌勒、阿彌陀が六の彌勒、観音さんは五の彌勒。日の彌勒、水の彌勒、土の彌勒となつていて、それで五、六、七になるのです。そういうわけで箱根は何時も云う通り「五」になつて、熱海が「六」になつて、今度の京都は「七」になるわけです。ですからそういつた、地理的に日本の中にミロクの姿が出来たのです。兎に角位置丈は現界的にミロクになつたのです。それで去年釈迦堂にお参りして、法然院に行く途中で――私は初めてあそこを通つたのでヒヨッと広沢の池を見て、之は良いなと思つて、廻りを見ると平で突当りに低い山があるので、非常に気に入つたのです。そうすると、京都にいずれ地上天国を造らなければならないが、此の辺が良いなと思つていると、少し経つてから売物があるから見て呉れと言うので、今年の春に行つて見ると非常に気に入つたのですが、とても高い事を言つているので駄目だから打遣らかして置け、要り用なら神様が何んとかするだろうと思つていたら、最近こつちで手が出る様な値段で売りたいと言うので決つたのです。そんなわけで、最初から決つているのですが、時期によつてそういう工合に具体的になつて来るのです。今度なんかも、今年の秋はあつちに行かない積りで居たら、此間京都の新聞社と東京の博物館のそういつた係の人が来て、今度京都で浮世絵展覧会をやる。つまり京都の平安神宮にある美術館が、今迄接収されていたのが今度解除になつたので、その記念として相当張切つて浮世絵展覧会を最初にやる。だから是非出品して貰いたいと言うので、結局四点丈出品する事になりました。ですから私も是非見たいし、大分大仕掛に網羅した様な物が出る様ですから、行きたいと思つて行く事にしたのです。そうすると今の土地が決つたので、丁度神様が、あつちに行く迄に其土地を決める様に、間に合わせる様にやつたとしか思えない。つい昨日か一昨日仮登記したのですが、そんな様なわけで神様のやる事は非常に気が利いているのです。実に言うに言われない面白い処があるのです。ですからそれを考えると、人間のやる事は実に間抜だと思います。よくハッと思う事があります。美術品なんかもそうです。斯ういうのが欲しいなと思うと、パッと出て来ます。最近浮世絵の良い物が非常に入つて来るのですが、之は神様が浮世絵展観会をやれという事です。来年迄に此処に美術館の別館を造る積りです。それは五間に八間です。丁度美術館の広い方の部屋位の物を造ります。其処には特別展――そういう催し物をやる為に必要なので、最初其処で浮世絵展覧会をやろうと思つてます。そんなわけで今度の京都の土地は純日本的の庭園と建物を建てる積りです。之はずつと先ですが、つまりそういつた、神様の方の意味になつているのです。早い話が、箱根はさつき言つた通り全体の中心になるから、此処は西洋風の物と日本風の物――此処は元ですから――。処が熱海は今度は純西洋式の物です。大体熱海は六ですから、六というのは水ですから、西洋の文化、或いは――西洋というものは水になる、六になる。ですから熱海は又徹頭徹尾西洋風です。会館でも展望台でも美術館でも、全部西洋風です。日本風の物は無いのです。それから京都は純日本式にやる積りです。鉄筋コンクリートも使いますが、日本的に使つていく積りです。で、日本的の庭園建物にしようと思つてます。というのは、今迄京都には日本美術が豊富に色々ある様ですが、良く見ると日本美術が綜合されてないのです。部分的に散らばつているのです。ですから、此処は日本美術として良いという所は無いのです。それに時代々々に依つて変つて行つた部分的の物、局部的の物です。それを、もつと綜合した本当の日本美術としての綜合された良さ、要するに調和美と言いますか、そういう物を造りたいと思つている。今京都を見た処で、奈良朝時代の仏教美術です。之は京都、奈良に豊富にありますが、仏教美術は参考には見るが、観賞という事は出来ない。之は余程其道に深い人でなければ――。大衆は美術的には見ないわけです。後は平安朝の文化ですが、平安朝は要するに貴族文化です。極く、やんごとなき御方(オンカタ)の色んな風俗です。それから後は足利義満、義政――あの人が拵えた物ですが、代表的な物は金閣寺、銀閣寺です。そういう様な物で、あれは其時代に支那から受けた影響と仏教的の物と、それから平安朝の貴族文化――そういうのが綜合された様な物です。それに足利時代の特殊な文化です。其次は桃山で、之は秀吉の非常に豪華な、あの人の特異な性格――そういうものを良く現わした桃山式文化です。それからもう一つは、逆の佗(ワビ)――非常に豪壮絢爛たるものに反した茶道を作つた。あれも非常に良いです。今以て茶の佗(ワビ)の芸術としての生命は躍如としているわけです。で、近来アメリカなんかも非常に茶趣味が理解されて来て、いずれは世界的のものになります。と言つた処で、やはり部分的のものです。それから徳川時代に入つて一番華やかなのは元禄、享保です。あの時分には光琳なんて言う素晴しい名人があつて、それから絢爛たる素晴しい物が出来ましたが、そういう風に見て来ると、最初は仏教美術――奈良朝の仏教美術です。其次は平安朝の貴族文化です。其次は足利時代の東山芸術です。其次が桃山、それから後は徳川期に入つてからの元禄美術です。と言つた処で桃山時代迄は庭園建築というのに素晴しい物が出来たというのは、其当時の主権者――将軍や大名とかの階級が作つて楽しんだ物ですから、つまり平民の文化は無かつたのです。それが漸く元禄になつて、平民文化つまり町人の金持が作らせたという様になつたのです。それで庭園建築は、ずつと徳川時代の大名迄余り進歩がなかつたのです。今以て庭園と言えば、大名式の、真中に大きな池を作つて、廻りに石を配したのと、後は茶席なんかを作つて、茶庭もそういうものです。それから建築と言えば木造の大きな太い柱を作つて仏教的の形を採入れて、ソリ屋根の豪華な物を作つて、あとは唐紙とか、そういう様な絵を画いた、それでずつと続いて来たのです。処が今は、日本が世界的になつてあらゆる物が革新されたに拘らず、そういう物は時代感覚に合つていないのです。今、大名式の庭だとか建築だとかお寺芸術とかを見ても、どうもさつぱり現代の感覚にピッタリ来ないのです。だからどうしても日本的の良さ――日本的の特色のある、そういつた様な文化を作らなければならない。と、私はそう思つているのです。そういう意味に於て今度京都に拵えてみようと思つている。その代り建築でも庭園でも、今迄の良い物をみんな採入れて、そうして現代人の感覚にピッタリする様な一つの新しい、古い物の良い処をとつて新しい感覚によつて作る、という様な物を造りたいと思つている。庭園と建築です。美術館も造る積りですが、美術品は京都は大体仏教的です。あれを一々抹香臭いお寺をくぐつて坊さんの承諾を得たりする、あんな事でなく、仏教美術の傑作物を一堂に集めて見られる様な、そういう組織を拵え様と思つている。之は中々難しいのです。処が、各開祖――親鸞とか行基菩薩とか、そういうのは霊界で大いにやろうとして手ぐすね引いて居るのです。だからそういう偉い坊さん達が働き出しますから、之は案外旨くいくと思つてます。あゝいつた偉い坊さん達がそれ丈の手柄をしなければ自分達が救われないのです。つまり仏教は、救つた点もあるし、又つまり之は悪意ではない良いのですが、間違えた点も大いにある。だから大いにその御詫のしるしをしなければならない。ですから之は今にそういう風になりますから、面白いと思つているのです。その話はこの位にして――。

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それから近頃日蓮宗の派ですが、特に霊友会から出た人が非常に活躍している。立正交成会なんかも中々素晴しい活動をしてます。此間日蓮上人の七百年祭で、江の島の龍の口の御難を記念すべく龍口寺というお寺がありますが、あそこに交成会の信者が三万二千人お参りに行つたのですが、大変な騒ぎだつたのだそうです。斯んな事は今迄に初めてだそうですが、未だ他にも色々日蓮宗で活動している団体が沢山あります。ですから他の仏教は寝惚(ネボケ)てますが、日蓮宗丈はえらい活動の形なのです。之は大いに意味がなければならないが、その意味というのは、法華経は法の華(ハナ)を咲かせる――咲かせるというのは、実(ミ)を生(ナ)らせる事です。で、法華経二十八品の二十五番目が実なのですから、そこで観音を生む為に法の華を咲かせるというので、メシヤ教の根本は観音ですから、現界的に愈々生む事になります。そこで早く華を咲かせなければならないというので日蓮宗が活躍しているのです。ですからいずれ華が咲いて了えば、花弁(ハナビラ)は落ちて了います。甚だお気の毒だが、そういう風にお釈迦さんが決めているのです。それから実が生(ナ)るのです。大体日蓮上人が現われた時に、もうそうなり始めているのです。で、私の方で言つている昼間の世界というのは、日が出るのです。ですから今迄の仏教の開祖の中で、日のやり方をしたのは日蓮上人が初めてですから、それで日蓮と言つたのです。それ迄はみんな月の系統の仏様です。そこで日蓮上人が、初めて仏教の中の日のやり方です。日は月に含まれているのです。ですから「月」という字は、下を取ると「日」になるのです。そんな様な工合で、それが開教――七百年前になるわけです。七百年前に日蓮上人が出たという事は、つまり仏界に日が現われて――霊界は何段にもなつてますが、一番上の方に現われて、それで明治から愈々日が現われるわけです。先に書いてありますが、徳川は素盞嗚尊の系統だと書いてありますが、素盞嗚尊は月の系統です。ですから明治になつたという事は、世が明け始めたという事です。それから大正、昭和となつて愈々現界に日が出るのです。日が出るという事は日が生まれるのです。日が生まれるという事は実がみのるわけです。実が生まれるわけです。だからちやんと神様の方のプログラム通りに動きつゝあるという事は、良く分るのです。で、「真如実相」と言いますが、「真如」は月です。「実相」というのは実(ミ)の相としてありますが、実相というのはつまり実(ミ)の世界になるわけです。今迄は仮相世界です。仮りの世界です。ですからそういう事が分ると、何にでもちやんと出てますから、世界が何うなる、文明が何うなる、という事は大体見当が附くわけです。そんな様で――話が長くなると……浄霊があるから、此の位にして置きます。

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九月二十六日

神仙郷も略々完成しました。此処が完成したという事は非常に大きな意味があるのです。大きいというと、つまり世界的の意味があるのです。神様は、地球の経綸――之は地球が始つて以来なのです。丁度丸にポチみたいなものです。或いは池に石を投げる様なものです。それに依つて波紋が起る様なもので、最初は小さい処にやられる。それが段々拡がつて色んな変化が起るのです。それで私はそういう意味の事を神様から教えられて、始終それをみていると良く分るのです。で、今から二十年位前に――昭和六、七年頃に色々世界のそういつた小さい型を見せられました。其為に、今に世界は斯ういう風になる。自分の仕事は斯ういう仕事だ。という事がはつきり分つて、それで見当が附いたのです。其時分に日本の大変化――天皇の地位が変るという事も良く分つたのですが、其時分にそんな事を言つたら大変な事になるから言わずに居なければならなかつたが、何ういう形式でそうなるかという事は知らされてなかつたから分らなかつたが、この終戦で成程と分つたのです。そんな様な意味で、神仙郷が出来たという事は、やはり世界の最初の――何時も言う通り、地上天国の模型が出来たのです。之が段々拡がつていつて世界的になつた時が、つまり地上天国になるわけです。そうすると此処が拡がるに従つて、今度は体的に――此処は霊の中心になるのですから、之が熱海に写るのです。此処が霊界の経綸で、熱海は現界の経綸になるのです。ですから熱海が出来て、それから段々拡がるのに、現界的に拡がつていくわけです。

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今度京都の方に丁度適当な土地が手に入つたのです。で、此処が「五」で、熱海が「六」で京都が「七」になるわけです。丁度ミロクの形になるわけです。日本の国にミロクの形が出来たわけなのです。で、京都は何処迄も日本的に造る積りです。大体土地は一万八千坪ですから充分とも言えるし、まあ神様が何うなさるか分りませんが、大体それで理想的な物が出来るわけです。つまり、箱根が山で経で火です。熱海は水で緯になつて、それから京都が土で平です。ですから神様は、ちやんと日本の国の良い処に、斯ういつた所を造られたわけです。日本で、箱根に熱海、京都としたら、先ず天国的の条件はすつかり備わつているのです。ですから、そうなつてからが日本の地上天国というのが出来るわけですが、未だ未だその極く初めです。初めですけれども、休みなくドンドン拡がつていきます。天国が拡がると地獄は無くなるのです。今色んな汚(キタナ)い物や悪い物は、みんな地獄の物ですから――地獄を造つているものだからして、何うしてもそういう物は無くならなければならない。之から創造と破壊――創造されるほど破壊が始る。まあ汚い、丸でゴミ溜の様な娑婆だつたのですが、そこに綺麗な物を入れる。そうして段々いくと、汚い物は片附けられなければならない。或いは焼いて壊して了うか、そういつた様な大掃除をしながら、良い物が段々出来て来るわけです。壊し、焼かれ、片附けられますが、そういう大掃除が大変なのです。つまり世の終りです。それは一切がそうなるのです。だから第三次戦争も起りましようし、原子爆弾の射合もありましようし、それから病気で片つ端からドンドン死ぬ事もありましようし、それで始めて綺麗な世界になつて、そうして地上天国が出来るわけです。品物は壊せば後で出来ますが、一番困るのは人間です。然し汚い者は取片附けられなければならないのですが、人間が一番肝腎ですから、一人でも余計助けなければならないというのがメシヤ教の仕事なのです。そればかりではありませんが、それが一番肝腎な事です。それが救いです。メシヤ教――救世(キユウセイ)教――世を救う教え――という、ですからメシヤ教は宗教ではない、救いの業(ワザ)だという事は、そういう事です。そんなわけで、之からドンドン時の進むに従つて色んな面に現われて来ます。それで京都の今度の場所は嵯峨ですが、丁度釈迦堂――有名なお釈迦さんの所、それから去年講演をした法然院という所がありますが、あそこの丁度間になる。法然院というのは法然上人があそこに住んで居られた所です。立派な阿彌陀さんがあります。見た人は沢山あるでしようが、あれは素晴しい物です。大体法然上人という人は、阿彌陀教の開祖と言つても良いのです。法然上人の弟子が親鸞です。親鸞から六代目のが蓮如上人です。今の本願寺の開祖と言つても良い位のものです。そんなわけで法然院は阿彌陀さんの居られる所です。それから釈迦堂はお釈迦さんです。で、其真中が、私の方が居る事になると、観音様になるわけです。で、観音様が真中で、観音様の左が阿彌陀で右が釈迦となり、之が本当の三尊の彌陀とか、三尊仏です。本当言えば三彌勒です。で、阿彌陀は法身の彌勒です。ですから法然上人と、「法」の字を使うのも面白いです。そういう意味で、兎に角仏界のミロクの形が出来るのです。それで、之は仏教の方でも言つてありますが、彌勒三会――三人の彌勒が会うという事です。“彌勒三会の暁”という事が、今度京都の嵯峨に私が居る様になると、彌勒三会という事になる。ですから仏界が非常に変るわけです。今仏界の霊界はドンドン変つているのです。だからそれが現界に写るわけです。仏界が変るという事に就いて、今度京都に――彌勒三会になりますと、そうすると今迄の色んな仏教の開祖、教祖という、そういう人達が霊界で非常に働き出すのです。今もちよいちよい信者さんの内にそういつた仏教の開祖が憑つて、明主様に御詫して貰いたいという事を、随分頼みに出て来るのですが、それというのは、今迄仏というものは非常に良い事をした代りに、又神様を押込めたという罪があるのです。あの五男三女と言つて、伊都能売の神様の家来があるのです。八人の家来ですが、それはお釈迦さんが押込めたのです。で、押込められた為に龍になつてミロクの世を待つていたのです。それが八大龍王です。ですからそういう押込めた罪も相当あるのです。けれども罪の中でも、意識的に行う罪と無意識に知らず識らず行う罪と両方ある。それで意識的に行う罪は非常に重いのです。それは現界の法律と同じです。知らず識らず行う罪は、悔悟して御詫をすれば許されるものです。それで今仏教の方の偉い人の罪は、知らず識らず良いと思つて行つた罪だから非常に軽いのです。それと同じ様な意味に於て、医学――お医者さんも、気持は善ですから――動機善だからして、そう深い罪ではないのです。気が附いて御詫して、今度は別の本当の働きをすれば許されるのです。けれども罪は罪ですから、やはり相当の代償がなくては許されないのです。之は別の話ですが、お医者さんの子孫というものは寔に不運です。之は良く見ると分りますが、斯ういう事もそういう現われです。そんな様なわけで、つまり之から色んな事も、そんな様な現われが非常にあるのです。そこで仏界の偉い人達が今度御詫すると共に、その代償として大いに働かなければならない。すると、今にいずれ京都に美術館も造りますから、そんな様な意味で非常に働いて、工合良くいくわけです。京都は無論、拵える物は日本的の物です。熱海は徹頭徹尾西洋風の物です。之は、会館でも展望台でも美術館でも、全部西洋風です。京都は徹頭徹尾日本風にする積りです。箱根は両方です。此処は中心ですから、西洋と日本と両方になつてます。今度美術館の別館を造りますが、それから休憩室と、みんな西洋風にする。そうして此処(日光殿)は日本的の建物です。それで「日光殿」という名前が附いたのです。日の光は、やはり日本です。ですから京都のは、あそこは「平安郷」という名前を附けましたが、平な処ですから、どうしても「平」という字が入らなければ面白くない。昔から平安の都といつているのはそういう意味です。大体、京都と言つても、日本美術の中心であり日本の文化都市としては京都が元ですから、大いに日本的にはなつてますが、今迄の京都の色んな物は甚だ統一がないのです。バラバラです。それは仕方がないのです。京都に於ける太平というものは続かなかつたのですから――。断えず戦争だとか紛争だとか、そういう事が多かつた。で、江戸に来て徳川三百年――そこに来て初めて平和が続いた。江戸の文化は相当でした。京都、奈良は長い間殆ど平和は続かなかつたのです。其為に日本文化というものに統一がなく、寄せ集めです。古い美術と言うと奈良朝時代の仏教美術です。そうかと言うと平安朝の貴族文化です。それから其次に飛んで鎌倉に行きましたが、之は多少は鎌倉に残つてますが、其間京都は振わなかつた。其次は足利の東山文化、室町です。それから桃山という様な、其時分の文化は、つまり貴族文化或いは其時代の主権者の文化です。だから庶民的、大衆的の文化というものは無かつたのです。大衆は殆ど下積にされて、只命令に依つて生きている丈で、後は、今でも残つている様な物は、其当時の主権者が贅沢或いは権力を見せるという様な必要から生まれたものです。それから徳川時代に入つて、今度は大名文化です。大名が、欲しい儘に色んな物を作つたのです。漸く元禄に至つて庶民の文化が出来始めたのです。町家の金持が贅沢と競争――競う楽しみです。そんな様で色々良い物が出来ましたが、之は僅かの間です。直きに幕府から禁止令が出て萎靡して了つたのです。只、桃山文化は非常に絢爛たる豪華な、秀吉の性格を表わしたのが出来たと同時に、反対の佗(ワビ)の文化の茶の湯が出来たのは良い事です。今日でも茶の趣味が残つているばかりでなく、近来非常に盛んになつて、米国辺りでも非常にそういつた趣味が理解されて来たのです。此間此処に来たメトロポリタン博物館の東洋美術部長のプリーストという人も、そういつた佗の茶趣味が非常に強いのです。で、茶席を見せた時が一番褒めてました。そういつたわけですから、又竹を非常に好んで、自分は竹が一番好きだと言い、竹林や三階に竹を植えてありますが、そういうのを喜んで居たが、私は意外に思つた。米国でそういつた佗を好むのは珍しいと思つた。兎に角日本の茶の趣味というのは大変な功績です。之は京都にもよく出てますが、統一された日本文化――それが京都にはないのです。それから大衆的に楽しめるというものも無いのです。ですから私は将来どうしてもそういつた意味の地上天国を造りたいと思つてます。つまり今迄の日本文化の良いというものをみんな採入れて、現代人の感覚に合う様にして、綜合し統一されたそういうものを造ろうと思つてます。そういつた土地の環境から状態が良いです。それは、神様がちやんと仕度してあるのですから、良い筈です。

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それから最近日蓮宗が非常に活動しているのです。メシヤ教は別で、之はナンバーワンという事になつてますが、新宗教の内で兎に角盛んなのは、日蓮宗です。日蓮宗の霊友会一派です。そんな様な工合です。それも近来に至つて急激に日蓮宗が活動し始めたのです。それは何か訳がなくてはならないが、処が訳は大有りなのです。仏教の内で日蓮宗丈は変つているのです。他の仏教は全部月の系統です。大体仏教は月の教え――夜の教えです。処が日蓮宗丈が昼の教え――昼の仏教になるのです。それで日蓮と名前を附けたのです。それで日蓮宗は非常に陽気です。だから仏教の内では昼の仏教に入る。処で、仏教の方で言うと、法華経――法の(ハナ)華です。法華経二十八品の内二十五番目の観音普門品――之が実(ミ)になるわけです。そうすると、実が生(ナ)る前に――実が出来る前には華を咲かせなければならない。というわけで今華やかに活動しているのは、華を咲かせているのです。そうして大体メシヤ教は元は観音さんだつたのです。そこで現界的に観音さんを生むという一つの経綸になつているのです。だから今非常に骨折つて華を咲かせているわけです。大体日蓮上人という人は非常に観音信仰なのです。之は法華経の行者ですから仕方がないです。此間、江の島の龍の口に龍口寺というのがありますが、あそこで龍の口の御難の記念祭で、今年が丁度日蓮上人の開教七百年祭にあたる。それは安房の清澄山で日の出に向つて妙法蓮華経を唱えた其時から七百年になるのです。そこで日蓮上人は自分は天照大御神の生まれ変りだという事を言つて居られたのです。徹頭徹尾日の方の人なのです。そこで法華経――つまり仏の華を咲かせるというわけで、非常に観音信仰が強かつた。それで龍の口の御難で刀で切ろうとした時に雷が落雷して、刀の刃に雷火が中(アタ)つて折れたのです。それで助かつたという謂(イワレ)に依つて出来たのが龍口寺ですが、そこに立正交成会と言う、近頃有名になつた会の信徒が三万二千人お参りしたのです。バスが五十何台とかいうので、斯んな事は初めてだそうです。で、今年が七百年祭で、身延なんかも大変な準備をして随分お参りがあつた様です。日蓮宗が急にそういつた活動を始めたというのは現界的に観音様が生まれられる、要するに現界的にメシヤ教が生まれるという意味になるのです。ですから非常に御苦労なわけなのです。華ですから、咲けばやつぱり散りますから――。それは何ういう点で散るか、何ういう風に実が生(ナ)るか、それは言えないが、そういつた様な事が今後出るわけなのです。そんなわけでそういう点を見た丈でも、之からメシヤ教は何ういう風に発展していくかという事は大分見当が附くわけです。それで、神様の方はちやんとプログラムは出来ているので、只時節に依つてそれが現われて来るのですから、結局コツコツやつていれば良いわけです。神様の為さる事は、一寸見ると遅い様でまだるつこいが、それでいて非常に早いのです。というのは、やり損いがないからです。やり直しがないからです。ちやんと予定通りにいくからです。そこで案外早いのです。

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美術館は何しろ狭いし、それから特別展覧会をやりたいと思つてますから、今あるのを一々片附けてやるというのも厄介ですから、どうしても別館を造ろうと思つている。それで今の萩の家の後手――女の人の宿舎を移築して、その跡に――丁度四、五十坪の別館を造ろうと思つている。そうして特別展覧会の会場にしようと思つている。来年は最初浮世絵展覧会をやろうと思つてます。今度私は来月京都に行きますが、それは京都の美術館で浮世絵展覧会をやるのですが、そこは今迄接収されていたのが解除になつたので、それを記念して浮世絵展覧会をやるので、中々大仕掛にやるそうです。それに四、五点出品したので、是非来て呉れと言いますし、私も是非行つてみたいと思つてます。随分あらゆる物を集めて並べるらしいです。で、そんなわけで行こうと決めると、丁度さつきの土地も手に入る事になつたので、それでどうしても見なければならないという様なわけで行く事になつたのです。つまり私が行こうと思う事は滅多にないですが、今年は行くまいと思つたが、やつぱり神様の方で行く事情を作られるわけで行くのです。ですから人間心で色々計画しなくても良いのです。そういう風な事情になつて来ると、うまく行くのです。そういつた事がなくてやろうとすると、失敗したり無駄をしたりするのです。だから私は、骨折つてやる事はいけないと言うのです。楽に、楽しみにやる事でなければいけない。処が今迄の世の中はあべこべで苦しまなくてはいけなかつた。よく苦心惨憺という事を言いますが、本当は苦心惨憺をしたもので碌なものはないのです。だからよく絵だとか品物を作るにしても、よく苦心惨憺して作りましたと言うのは、私は駄目だと言うのです。苦心惨憺して作ると、作品に苦心が表われますから、そういうものが表われては美術品は駄目なのです。楽しみ楽しみやつた物でなければ駄目です。そうすると見た人が、それから受ける感じが良いのです。そこで何時も言う通り、その点が今迄の事と反対ですから、一寸分り悪いのです。何でも苦しみさえすれば良いと思う一つの習慣です。ですから一番苦しんでやつた事は失敗している。ですから日本の此間の戦争ですが、あの位苦しんだ戦争はないです。昨夜も「黎明八月十五日」という映画を見ましたが、実にあの当時の大臣や偉い人達が、軍人との色んなやゝこしい悶着で、一人近衛師団長ですか殺されましたが、そんな様な場面を見ました。やつぱり苦しむ事はいけないなと、つくづく思われましたが、やはり苦しみというのは地獄になります。よく難行苦行をして苦しんでますが、あれは自分から好んで地獄に落ちるのです。ですからやつぱり天国や極楽は出来るわけはないのです。その点を余程考えなければいけないのです。というのは今迄の宗教で天国を造る宗教は無かつたのです。つまり地獄の儘で、地獄は仕様がないのだから、せめて苦しみを、つらい思いをしないで、つらくない様にしようというのが目的です。ですから苦しみを楽しもうというのが、今迄の色んな宗教です。苦しみを楽しもうという事になると、殆ど人間の頭脳は錯覚しているのです。ですから苦しみは苦しみ、楽しみは楽しみですから、その結果メシヤ教は非常に現当利益がある。処がそんなのは駄目だ、信仰すれば病気が治るとか金が儲るというのは、そんなのは極く浅薄と言わなければならない。そんな事は度外視して精神的に救わなければならないと言つて、額に八の字を寄せて理窟を言う人がありますが、それは今迄はそういう風に、凡てがそうなつていた。楽しんで物事をやるという事は出来なかつたのです。そこでそういう様な変態的になつていた。だからそういう思想――考え方を直すのは中々骨が折れるのです。私なんかも以前はそういう事で随分失敗しました。態々好んで苦しむのです。そういう事のない様にという事は、今のメシヤ教の“神様にお任せして置けば旨く行く”という事です。今迄はお任せして旨くやつて呉れる神様が無かつたのです。力が無いのです。反つてお任せすると飛んでもない事になる。それで余程自力を出さなければならない。と、斯ういうわけです。

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九月二十七日

今日で御祭も終りですが、今度の秋の大祭は特に意味があるのです。この神仙郷が完成した最初の秋の大祭なのです。前にも話した通り此処は地球の丁度真中になるのです。中心なのです。之が講和以前では変な目で見られますから、そんな事を言う事は出来なかつたのです。今だから言いますが、此処が地上天国の模型で、模型が此処に出来て之が段々拡がつて行つて世界的になつた時が地上天国なのです。そういう意味とすれば、非常に重要な意味になるわけです。だからして、段々そういう風に拡がつて行くのですから、非常に結構です。然し良い方はそれで良いけれども、悪い方は――拡がるに従つて、汚(キタナ)いものは取除かれる事になるのです。ですから其結果戦争も起りましようし、それから原子爆弾なんかによるぶち壊しもあるでしようし、兎に角世界的の大掃除が始るわけです。それに就いて、いま多賀という人の奥さんに仏霊が憑つて来て、盛んに明主様に御詫して呉れという事を言つているのですが、之は本当なのです。色んな各仏教の開祖、教祖――それが、中には予期したのもありますし、予期しない霊もあつて、愈々仏界が無くなるというに就いて、今迄良いと思つてやつた事は大変な間違があつた。だから御詫して、どうか今度の地上天国の御神業――昼間の世界になる御神業を手伝わして貰いたいというのが続々と出て来るのです。之は今度「地上天国」に出ます。最近は色んな神様が、御祝い御慶びに随分出て来ます。天照大御神様も御祝に来られたのです。それから月読尊、伊邪諾尊などです。天照大御神は日本では最高の神様としてますが、主神ではないのです。つまり太陽神です。宇宙というものは太陽ばかりではない。月もあるし星もあるし地球もありますから、その全体を握つているのが主神なのです。それで、私は主神の仕事をさせられているわけですから、そこでそういつた今迄の偉い神様も、之からこのメシヤ教の為に大いに働くわけです。そんな様な意味の事を頻りに言つてますが、そんな様なわけで之から本当に現界的に始つていくのです。現界的と言つても、現界の奥の方に始つていくのです。本当に現界に始るのは五、六、七と、それが揃つてからが本当の現界です。で、それに就いての第一段が之から始るわけです。第二段が熱海になるわけです。熱海の地上天国が完成すると本当の現界的になります。何時も言う通り、此処(神仙郷)が霊界になるのです。現界の霊界です。で、熱海は現界の現界です。

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今度京都の嵯峨と言う所に丁度適当な土地があつて、それを愈々契約丈しましたが、一万八千坪あるのです。大きさは丁度良いのです。もつと拡がるかも知れませんが、今の処は丁度良い位の所です。それで、箱根が「五」で、熱海が「六」で、京都が「七」になるわけです。ですから日本的に五六七という形が備わつたわけです。箱根が山で、それから熱海が海で、京都が土です。それで五六七です。ですから、土だからして京都は平なのです。之は私は極く平な所で池のある所というのを注文してましたが、丁度そういう所が決つたのです。之はどうせ神様がやつているのですから自由自在です。時期々々に於て現われて来るのです。その位置が丁度、釈迦堂――嵯峨のお釈迦さんを祀つてある所ですが、之は去年最初にお参りした所です。それから去年講話をした法然院は法然上人の住まわれたお寺ですが、法然上人は浄土真宗の開祖です。で、法然上人から親鸞上人になつて、それから蓮如上人となる。ですから日本に於る阿彌陀さんの本拠です。すると釈迦堂と阿彌陀さんの所との、其間が今度の土地ですから、私の方は観音さんですから、そこで丁度観音、阿彌陀、釈迦と、斯ういう形が出来たわけです。出来たと言つて、形になつたわけです。それで、昔から彌勒三会という言葉があるのです。彌勒が三人会うという事ですが、“彌勒三会の鐘の音(ネ)”とか“彌勒三会の暁”とかいう言葉があるのですが、彌勒三会になつて、それから彌勒の世が始るという事になつているので、その形が出来たのです。大体京都という所は、つまり仏界になるわけです。元は神様の所だつたのですが、神様が引退されて仏の世に渡されたというのが今迄の仏の世ですが、その世が京都に出来ているわけです。そこで京都が仏界で、その仏界が愈々仏滅になつて、そうして今度の彌勒の世になるのですから、そういう意味が根本です。そういう様な意味が之から段々現われて来ますから、その積りで見て居れば分ります。で、今度は京都に、庭園でも建築でも純日本的にやる積りです。何ういう風にやるかと言うと、大体京都の色んな建物でも庭園でも純日本式で、兎に角その意味に於て京都という所は実に良い所ですが、併し日本文化的であつても、現在見るとバラバラなのです。少しも統一がないのです。というのは歴史的にも時代々々で特殊な文化様式になつているわけです。というのは、太平が続かなかつたのです。やつと太平が続く様になつたのは徳川期からです。それ迄は奈良朝時代から平安朝時代、鎌倉時代になつて鎌倉の方が開けたのです。それから東山、桃山となつて、その都度文化が出来たのです。それが京都にバラバラに現われているのです。奈良朝時代は仏教美術です。之は沢山お寺があつて、お寺美術が充分出ています。それから其次の平安朝時代に出来たのは貴族文化です。まあ、やんごとなき御方(オンカタ)が、みんな御殿の奥深く、歌を作つたり――あの時分に色んな有名な歌人が出て非常に盛んだつたのです。それから美術も、絵画、彫刻、全部藤原氏です。非常に良いですが、そうかと言つてあまりに貴族的に偏つている為に、一般大衆にはどうも良く合わないのです。其次が東山時代の、つまり足利です。之は金閣寺、銀閣寺と、中々豪華な物が出来ましたが、之は言わば其時の主権者が楽しんだ、将軍文化です。其次が桃山ですが、桃山は秀吉が作つた様なものですが、只絢爛たるものであり、その又反面に茶の湯という、非常に佗(ワビ)たものを作つた。之は非常に面白いのです。で、相反する特徴のある文化が作られた。それから次に出来たのが徳川時代で、元禄です。華やかな素晴しい物です。其為に現在一番残つてます。今の歌舞、音曲です。それから美術に関した物です。そういう物が今一番残つていて、然も盛んです。それと茶の湯です。で、元禄文化というものは漸く権力者の手を離れて、民衆――之は町家の金持の贅沢力を満足させたものです。併し之は割合短かつたのです。其時分にあまり贅沢にしていたというので幕府が弾圧しましたが、之は素晴しいものです。光琳なんかも其時分に現われた。それから漸く江戸時代になつて、民衆の楽しめる文化が出来たのですが、京都はそこ迄いつてないので、殆ど権力者の贅沢、楽しみと、そんな様な文化が時代々々によつて散り散りバラバラになつているのです。そこで私は今度京都の地上天国は、そういつた古来から出来た文化を綜合して――綜合という事は、良い処をとつて、綜合調和させた様なものを拵え様と思つている。そうしてその上に大体現代感覚にピッタリした様な、そういう物を造ろうと思つてます。理窟から言うと立派ですが、之は中々難かしいものです。つまり日本的の、今迄出来た秀れたものを出来る丈活(イ)かして、欣然たる一つの二十世紀的のものを造ろうと、斯ういう理想なのです。何しろ神様が手伝つているから立派なものが出来ると思つてます。それで真善美が揃うわけですが、大体時期がそういつた様な処迄来たわけです。けれども日本丈ではない、世界を救わなければならないのだから、極く最初の一段階、一つの区切りと言つても良いですが、そんな様なわけで神様は、段々拡がり、形も整うという様な工合にいくわけです。そんなわけで京都は極力日本的に造ります。それから熱海は、之は全然西洋式なのです。今度の会館、展望台、美術館と、日本的の物は殆ど無い位です。火水土と言いますが、外国――西洋は水になるのです。水の文化です。だから熱海はそれになるわけです。つまり六です。火水土のうち、水が西洋になつて、火が日本になるのです。土が東洋になるわけです。それで箱根は元になりますから――中心になるから、此処は西洋風と日本風と両方出来ているわけです。

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今度完成した美術館ですが、之では一寸狭いのと、催し物の時なんか別に見る所がないと、今陳列してあるのを一々仕舞つて又並べるというのは非常に手数がかゝつて工合が悪いので、今度小さいが四、五十坪の別館を造る積りです。丁度萩の家の後手――女の人の宿舎を移築して、その跡に五間に八間という美術館を造ろうと思つてます。之は催し物――特別展という事に使おうと思つている。来年の五月に出来る積りですから、最初の特別展覧会は浮世絵の展覧会をやる積りです。そういう風に計画を立てると、又浮世絵の良い物が集つて来るので、実に神様は気が利いているのです。素晴しい物が出て来るのです。兎に角神仙郷の向う側は西の方で、やはり西洋風の物ばかりです。日光殿は日本になるわけです。そこで「日光殿」と名前を附けたのです。

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それから新宗教も色々ありますが、新宗教と言つてもメシヤ教は別です。之はナンバーワンとされてます。それは断然切離してますが、あとは日蓮宗の派が最近非常に活躍しているのです。之は少し目立つ様なものはみんな日蓮宗の一派です。特に霊友会の分れが非常に多いです。で、今迄斯ういう事はなかつたのですが、近頃日蓮宗の一派の活躍というのは物凄いです。処が之は非常に意味がある。というのは、法華経二十八品ある。その二十五番目の観音普門品――之は法華経――法の華(ハナ)を咲かせて実(ミ)を生(ナ)らせるというので、実(ミ)が観音さんなのです。そこでメシヤ教の元は観音さんです。元と言つても始りですが、観音さんから始つた。そうすると今度現界的に観音様が出られるという意味に於て、日蓮宗で法華経の法の華を咲かせるという、そういう御仕組になるわけです。ですから或時期迄は非常に盛んですが、それから今度は華が散りますから、そうして実が生まれるという順序になるのです。ですからお気の毒ですが、そういう様な時が必ず来ますが、それによつて日蓮上人も大いに救われるわけです。精しく話をすると中々面白いのですが、その話はその位にして置きます。

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それから昨日の余興の時に、内海突破君が此処に来て、二十分ばかりの予定だつた処が、なんだか気持が良いのでウカウカと、四十分か五十分になりましたが、どうも此処に来ると気持が良いという事を言われてましたが、之はそのわけで当り前なのですが、それであゝいう人達――芸能人社会にはメシヤ教は中々認められて来て、ボツボツ信者になる人もあるのです。未だ未だ信者になる人も増えるでしようが、然しあゝいう人達が信者になるという事は大変な力なのです。というのは、話なり歌なりの言霊を発するのに、其人達はそれ丈身魂が浄つてますから、それから発する言葉によつて大衆の魂を浄めるという働きになります。それで、之は耳から浄めるのです。耳から浄化するのです。それから美術館とか斯ういつた地上天国――之は段々箱根から熱海になつて京都にも出来るのですが、之は目から浄化するのです。それから色んな文章――新聞、雑誌というのは、文字から浄化する。斯ういうのは一つの浄化の方法になるわけです。処で、病貧争絶無の世界というのは、凡てそういつた苦しみ悩みというのは浄化されるのです。そうすると人間が浄化されるべき汚い物を持つているから、そこで人間がその汚い物を除るに従つて、浄化の必要がないから、そこで苦しみが無くなつて来るというわけです。だから病貧争絶無の世界というのは、浄化の必要のない世界、浄化が無くなる世界です。それがミロクの世です。で、世の中のあらゆる苦しみは浄化して――茲で知つて置かなければならない事は、今迄は苦しみによつて浄化されたのです。で、中には求めて苦しみをして、そうして浄化される方法もあるのですが、宗教的の難行苦行はそれなのです。つまり浄化――魂を磨く、其為に色んな難行苦行――山に籠(コモ)るとか断食するとか水を浴びるとか、色んな苦しみをして、その苦しみで穢を減らそうというのです。ですからバラモンなんかは、羅漢みたいに難行苦行して悟を開くというのです。悟を開くというと魂が磨けるから、穢が除れる、色んな物が見える、というのでそういう方法をとつたのですが、之は夜の世界だとしたら仕方がないのです。処がメシヤ教はそういつた難行苦行でなく、楽しみながら浄化されていくという方法をとつているのです。それで今言つた様な芸能とか美術とか、そういつた、みんな楽しみつゝ浄化されるというのとは大変な異いです。之はつまり夜の世界のやり方と昼の世界のやり方との異いさです。だからメシヤ教には難行苦行はないのです。だから何時も言うのは、苦心惨憺なんて言葉はないのです。だから斯ういつたお庭だとか美術館を造るのは随分御苦労なさつたでしようと言うから、私は返事に困るのです。御苦労なんて殆どしないのです。楽しみ楽しみやつたのです。処が今迄の事は、何かやるのに苦心惨憺し苦労をうんとしなければならなかつたのです。だからそこの異いさがある。浄霊するにも、今迄の様に力を入れてうんとやらなければいけないというのは、いけないのです。力を入れないで、気楽にすればその方が効くというのだからあべこべです。だから苦労したり色々する事だと旨くいかないのです。此間院展と青龍展に行つて見ましたが、之は普通の人には分らないが、面白いのです。絵が苦心して画いてあるのです。苦心して画いてあると、その苦悶がそこに表われますから、それから受けるから、こつちで見ていると苦悶を感じるのです。それは駄目なのです。それは良い気持で楽しみながら画いてあると、それがやつぱりこつちに写りますから、やはりこつちも楽しめるのです。それが、やはり一つの迷信みたいになつているのですが、それが盛んに努力し苦労してやるので、それが画面に表われているから面白くない。今度展覧会の批評を「栄光」に出しますが、之も随分驚く程の書き方ですが、之は現代画家の一、二流処に配布しようと思つてます。彼等は飛んでもない間違をやつてますから、そうして目を醒まさせ様と思つてます。

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それからもう一つ今書いているのは、此間も言つた通りアメリカの病人の多い事です。だからアメリカを救うという事をしなければならない。もうあらかた出来ましたが、之はアメリカの大統領とか有識者の方面に配る積りです。之も一寸驚くでしよう。日本のくせに生意気な、アメリカが日本を救うと言うのなら話は分るが、敗戦国の日本のくせにと驚くだろうと思います。併し読めば分ります。之は日本人も驚くだろうと思いますが、之はそういうわけだから仕方がないのです。

(教十四号  昭和二十七年十月十五日)