私は之迄悪に就ての根本理論として、悪が必要であった事、悪によって今日の如き文化の進歩発展を見た事をかいて来たが、茲で今一つの重要な事をかかねばならない。それは有史以来今日迄幾多の宗教が生れ、其説く処は例外なく善を勧め、悪を極力排斥したのであった。勿論之は悪其ものを除くのが宗教の建前であるから勿論当然であるが、それに就て私はよく斯ういふ質問を受けたものである。“一体神や仏は愛と慈悲の権化であり乍ら悪人を作ってをいて罪を犯させ、それを罰するといふのは大いに矛盾してゐるではないか。それならいっそ最初から悪など造ってをかなければ、罰を当てる必要もないから、それこそ真の神の愛ではないか”といふのである。成程此質問は尤も千万で一言もないが、実をいふと私にしても同様の考へ方であるから、其都度私は斯う答へる。“成程それには違ひないが、元々私が悪を作ったのでないから、私には説明は出来ない。つまり神様が何か訳があって悪を作られたのであるから、何れ神様はそれに就ての、根本的理由をお示しになるに違いないから、それ迄待つより仕方がない”と曰ったものである。
処が愈々其時が来たので神は其事を詳しく啓示されたので、私は喜びに堪へないのである。そうして右と同様の疑問を有ってゐる人も多数あるであらうから、之を読んだなら、暗夜に燈火を得た如く豁然と眼を開くのは勿論であらう。では何故今迄の宗教開祖の悉くが悪を非難したかといふと、曩にも詳しくかいた如く、或期間悪が必要であったから其深い意味を主神は知らさなかったのである。従って仮令正神と雖も知り得る由はなかったので、正神は何処迄も正義のみによって天国世界を作らんとするに反し、邪神は何処迄も目的の為手段を撰ばず式で、悪によって野望を遂げんとしたのである。処が愈々悪の期限が来たので、主神の直接的力の発揮となった事で、茲に私といふ人間を選び、善と悪との根本義を開示されたのである。それといふのは今迄の各宗開祖は力が足りなかった。其最もいい例としては彼のキリストである。キリスト自身は贖罪主といったが、救ひ主とは曰はなかった。贖罪主とは読んで字の如く、罪の贖ひ主である。つまり万人の罪を一身に引受け、主神に謝罪をし、赦しを乞ふ役目である。早くいえば万人の代理者であり、赦される側の神で、赦す方の神ではなかった。其為罪の代償として十字架に懸ったのである。
此理は仏教に就てもいえる。彼の釈尊が最初は仏教によって、極楽世界を造るべく数多くの経文を説き、専心教へを垂れたのであるが、どうも予期の如く進展しなかった処へ仏典にもある通り“吾七十二歳にして見真実を得た”と曰はれた通り、此時自己の因縁と使命を本当に知ったのである。そこで之迄の誤りを覚り、極楽世界出現は遙かに先の未来である事が分ったので、之迄説いた処の経説には誤謬の点少なからずあり、之から説くものこそ真実でありと告白し、説いたのが彼の法滅尽経であり、彌勒出現成就経であり、法華経二十八品であったのである。一言にしていえば釈尊は仏滅即ち仏法は必ず滅するといふ事を知り、其後に至って現世的極楽世界である彌勒の世が来ると曰はれたのは有名な話である。只茲で時期に就て注意したい事は、釈尊は五十六億七千万年後ミロクの世が来ると曰はれた。併しよく考えてみると、いくら釈尊でも其様な途轍もない先の事を予言する筈はない。第一そんな先の事を予言したとて、何の意味もないではないか。何故ならばそんな遠い時代、地球も人類もどうなってゐるか、到底想像もつかないからである。之は神示によれば五六七の数字を現はす為で、此数字こそ深い意味が秘めてあった。即ち五は日(火)、六は月(水)、七は地(土)であり、之が正しい順序であって、今日迄は六七五の不正な順序であった。之は後に詳しくかく事として、兎に角キリスト、釈尊の二大聖者と雖も、真理は説けなかったのである。何よりも経文やバイブルにしても明確を欠き、何人と雖も到底真理の把握は不可能であったにみて明かである。勿論時期の関係上止むを得なかったのである。
処が茲に主神は深奥なる真理を愈々開示される事となった。此著に説く処明快にして些かの疑点なく、何人も容易に真理を掴み得るのである。そうして今迄強大なる悪の力が一切を九分九厘迄掌握し、後一厘といふ間際に来て、意外にも茲に一厘の力が現はれ、邪神の謀略を一挙に覆へすのである。つまり悪主善従であった世界が、善主悪従となるのである。そうして之を具体的にいえば斯うである。即ち九分九厘の悪とは現代医学であって、之も曩にかいた通り必要悪であるから、今迄はそれでよかったのである。然し其結果として人間の最大貴重な生命を完全に握って了った。若し医学が誤ってゐるとすれば、生命の危険は言語に絶するといってもいいであらう。之程世界人類から固く信じられてゐる医学を是正するのであるから、容易な業でない事は言う迄もない。
(文明の創造 昭和二十七年)