昭和二十七年八月御教え
八月五日
この一日の晩に大浄化が起きて夜中中下痢で、寝たのは朝の三時頃です。それも時々痛む、ウトウトすると腹が痛む。それから凄い下痢でして、何処に斯んな材料があるかと思う位です。食物にあたつたかと思つたが、若し食物にあたつたとすると、他の人もならなければならないが、私丈ですからそれでもない。一昨日は一日中何も仕事しないで寝たり起きたりしてました。アメリカ人が美術館を見に来たので仕方なしに二度行きましたが、私としては大変なのです。今日はあらかた良くなりましたが、良く調べてみると此処(後頭部)に元から固りがある。八つ頭の小さい様なもので、固くて骨みたいなものです。之は何んだと言うと以前歯の薬をつけた、それが此処に固まつてそれが溶けて来た。だから非常に良い事なのです。そして少し原稿なんか書くと、直き此処(後頭部)が凝つて来て、三十分は書けるが一時間は難かしい。そうすると後三十分か一時間休まなければならない。処が下痢の為に之が大分小さくなつたので昨日も書いてみたが非常に工合が良い。頭の働きが良いのです。だからもつと出たら尚良いと思います。未だ可成りあります。そんな様な工合で私が何時も言う、赤痢は頭の浄化だと言うがよく合うのです。之は赤痢ではないが、兎に角後頭部に浄化しているのです。ですから近頃は非常に浄化が強くなつて来て、家の太田が非常に強く下痢して日に十数回あつたが、之は頭なのです。だからお腹なんかも頭をやると治つて来るのです。以前ですとそういう浄化はなかつた――頭が痛いとかガンガンするとか、そんなだつたが、今のは頭の浄化で下痢をするのです。之は早く治つて大変良いのです。そこで今の人の浄化は殆ど頭と頸です。ですから一番先に此処(前頭部)をみて、熱ければ此処に浄化が起きています。それから頸をみて、何処かしらに熱がありますから、それを浄霊する。そうすれば下痢も治ります。私は斯んな事は五、六年振位です。私は斯んな浄化は大抵一日です。で、普通の浄化は大抵半日かゝる。之は私丈でなく、何んな人でも体の毒が或程度迄減つていくとそういう風になるのです。ですから病気は恐ろしいどころでない、甚だ簡単なつまらないものなのです。ですからその後非常に工合が良いから大いに病気を礼讃して良い。病気位有難いものはないのです。健康には最も良いものです。ですから之丈の事を知ればどれ位人間は幸福だか分らないのです。恐ろしいものが有難いものだから、凡そ違い差がひどい訳です。それで苦痛で仕様がない時以外は我慢が出来る丈働いても差支えないのです。だから病気になつたとすれば、もう治るに決つたものなのです。だから何んでもないわけです。之丈を世の中の人に分らせたら大変な仕合せになります。
それから浄化が強くなつたりするに就いて、肺病の治し方を変えなければならない。一番怖いのは結核の再浄化です。一旦治つてから暫く経つてから又起きるのです。あれが一番怖い。ですから再浄化になつた場合には浄霊を一週間に一回位にするのです。そうして安静にする。安静と言つても医学の様に床縛りになる様なそんな安静ではない。まあ床の上で寝たり起きたりする位で、便所位は行つても構わない。そうして浄霊を一週間に一回位やる。そうすると段々熱が冷めて来ます。そうして熱が冷めたらボツボツ動き出す。そうして浄霊も一週間に二回か三回やつても良い。浄化が強くなつて来たから、再浄化の場合には衰弱してそれで参つて了うのです。それには浄霊をしないで安静にする事です。そうして熱を無くする。というのは再浄化が起る様な人は薬毒がうんと入つてますから、以前ですと薬毒がチビチビ出たが、今は薬毒がチビチビでなくてドシドシ出ます。その為に熱が出る、咳が出る、痰が出る、食欲が減りますから、そこで衰弱してそれで駄目になる。ですから今はそういう様にゆつたりと極く気長に、早く治そうとしない――そういうやり方でも、良い加減浄化が起るのです。兎に角それが一番順調に行く方法ですから、そういう風にやる事です。
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此間も言いましたが、今「⇒文明の創造」を、今度は仕上げをしようと思つて書始めました。以前のは気に入らない処が沢山あるので、可成り根本的に書直した点があるのです。それを今序文から読ませます。
御論文「⇒文明の創造 序文」【註 栄光一七○号】
御論文「梗概」
馬鹿に真面目で丸で教科書みたいですが、今度は少し砕けて書いたのです。之は文明の創造ではないのです。つまり今の文明というものは、道具立ばかり良くしてあるのです。道具立が良ければ良いと思つているのですが、道具立を良くするというのは、もう之で良いのです。つまりそれは人間の運営にある。悪に利用するから何んな良い組織でも駄目なのです。処がその悪の急所を分られるのが苦しいものだから、目立たない様にして制度の方ばかり良くするのです。それがつまり急所なのです。邪神の急所なのです。だからそういつたずるいやり方が良く思われているのです。医学でもそうです。注射をしたり薬を飲ませて一時良くなる様にみえるでしよう。そうして次の病気になる様に作られているのです。それが分らない。要するに世界中が瞞されている。要するに邪神のずるさに世界人類が瞞されている。やれ共産主義が何うだ、資本主義、社会主義が何うだと言つているが、共産主義、社会主義で立派に立つている。只それを用いる者の腹の中が悪い。だから破壊活動をしたりする。共産党だつて立派で、貧乏人を仕合せにしようとするのです。それを、つまり暴力を振つてやるのが悪いので、つまり心の根本的の悪がいけなくしている。そんなつまらない事でゴテゴテ日本中大騒ぎしているのです。馬鹿の骨頂です。ですからいろんな道具立は実に良く出来ている。道具立が良くても、使う者が間違つたら良い働きはしない。悪い働きをする。そこに気が附かないのです。情ないものです。というのはつまり神というものは無い、と――神が在るという事が怖いのです。そうすると自分の悪をみんな暴露して了うのです。そこで神が在る事と悪を追放する事とが大事なのです。尤も神がある事が分れば悪は追放されます。それ丈で良いのです。それが根本です。そうすれば病無き世界が出来て皆健康になる。病気は浄化作用で有難いものだという事がはつきり分るから、人間の病気は無くなり、不安は無くなるのです。それを上手(ウマ)く隠蔽しているのです。お医者さんも――処がそういう心があつてやつているのではないが、良いと思つてやつている。又瞞されているという事を意識しないでやつている。それが怖いのです。だから瞞されているという事を教えて、それを暴露するのです。浄霊という事はそれを分らせる一つの手段です。それを神様がやられている訳です。それを分り易く書いたのです。
御論文「⇒悪の追放」【註 栄光一七三号】
之も一寸知つて置いて良い事なので――。
御論文「⇒御説教」【註 地上天国第三十九号】
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八月六日
一日の晩に腹が痛んで下痢をして夜中中――四回でしたか、随分沢山――斯んなにもあるかと思う位出たのです。で、何かにあてられたのかと思つて食物を考えてみたが、それらしいものもない。若しあてられたとすると、同じに食べた人もそうなるが、ならないからどうもそうでない。で私は後頭部に固りがあるのです。八つ頭の小さい様なものですが、之は先に一年間歯の薬を毎日つけ通しだつた。之は私の書いたものにありますが、之が此処(後頭部)に固まつていた。之が長い間固まつていたのが、去年あたりから私の浄霊で溶けて来た。之が下痢になつていた。ですから毒というものは――今度知つたものではないが、此位のものが溶けると、此位(多く)になります。薬だつて、仮に薬一合飲みますと一勺よりもつと小さく固まるものです。三十分の一か五十分の一位に固まります。ですからそれが溶けると、何十倍というものになります。之は信者さんは皆知つてますが、毒は溶けると実に多いものです。痰などいくら出しても出るし、それから膿でも何んでも、いくら出ても出ても後出来ます。その位増えるものです。そうして後見ると少し小さくなりましたが――十分の一あるかなしか位に小さくなつたが、未だ相当あります。そうしてみると人間の毒の量というものは大変なものです。だから今信者さんも、特に幹部の人なんかは特に猛烈な浄化が起つて驚いている人がありますが、そういう人は神様の事に働いた色々な功労によつて浄化が早く来るのです。逆に考えると良いのです。あれ丈一生懸命やつて、あんなに酷い浄化で苦しむのはひどい、とあべこべに考える人があるでしようが、その逆です。あれ丈一生懸命神様の事をやつたので、浄化を早くして戴くという訳です。之をもう一層深く考えると、一般の社会の人間がいずれはそうなるのです。ですからそうなつた時の想像をしてみると、助かる人というのは先ず幾らも無いでしよう。それも、早く浄霊すると良いがやつぱり医学の力に頼りますから、そうすると一時抑えをやる。処がもうそういう時になると浄化の方が強いですから、一時抑えが反つて逆作用になつて苦しんで死ぬというのが多いです。ですから病気になるかならない内に片つ端から死んで了います。そういう時が来るのです。特に怖いのは結核なんか近頃死亡率が減つたとか言つてますが、あれが怖いのです。あの結核の新薬というのは、今迄の薬より毒が強いのです。毒が強いから、一時止(ト)めるから死ぬ人が一時延びるのです。それで喜んでいるとその毒の浄化が起ります。そこにもつていつて浄化が激しくなつているからして、それはもう悪性の結核が沢山起ります。当局もまごつくし、一種の恐怖時代が来ます。それが最後の審判です。之は二千年も前から神様の方ではちやんと警告を与えてあるのです。で、日本人なんかでも極く上等で三分の一――三割助かつたら極く上等です。或いは助かるのは一割位かも知れません。何しろ今の一般人というのは固まり健康です。固まつて僅かに健康を保つているのですから、溶け出したら想像もつかない位の大悲劇が起ります。実に恐ろしい話なのです。で、今私はそういう事を書いてますが、今書いて来たのを読ませます。之は「文明の創造」の中に入る項目です。
御論文「病気と寿命」
それから何時も言う通り、下痢――赤痢もそうですが、これは頭の浄化作用という事は良く分るのですが、之を知らない人なんかは、今度の私の浄化でも、無論何かにあてられたに違いない。或は虫ではないか――蛔虫とか十二指腸虫という様に考えるし、お医者もそう思います。まさか頭の毒が溶けるなどとは夢にも思いません。それは以前は下痢というと、腹の固まりそれから背中の固まり――そういうのが多かつたです。頭の下痢は、近頃浄化が強くなつた為です。今年は赤痢が多いのもそういう関係です。そこで下痢の本元は頭だという事は大発見という訳です。今、太田という男がそれと同じ様な事をやつてます。昨日浄霊してやつたが、熱があるのです。見ると頭に熱があるのです。この下痢は昨日から今日にかけて三十分置きです。それはあの人は頭に特に毒が多いのです。そういう訳だから、之から下痢患者は頭を浄霊する。そうしてお腹の方や何かは簡単で良い。頭を主にする。頭も前頭部の方と後頭部の場合がある。前頭部は触つてみると熱が強い、後頭部は固りがありますから、それをやると一時は余計下痢をしますが、後治りが良いのです。その代り頭が良くなります。私も、昨日あたりから原稿なんか書いても非常に工合が良いのです。それ丈を覚えて置くと良い。
それからもう一つは結核の再浄化――一旦良くなつてそれから再浄化が起つて、それが反つてしつこくて、症状も熱が出、咳と痰が出て、食欲が減り衰弱が強い、という事は御決(オキマリ)のようになつてますが、それはやつぱり浄化が強くなつているのです。そこで浄化が激しい為に、それに堪えられなくて命迄無くするという事がよくあるのですから、之からは再浄化の場合は――之は再浄化に限るのです。最初は今迄通りで良いのですが、結核の再浄化の場合は一週間に一度です。その位にする。
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処で、私の話を間違える人が非常にある。私は随分はつきり言うのですが、昨日も一週間に一回と言つたら、今日は二回という人がある。一週間に一回と二回では倍違います。頭に就いて、信者さんの頭が――信者さんの頭許りでなく、世間の人は信者さん以下ですが、信者さんでも非常に頭が悪いのです。というのは私の言う通りに考えないのです。明主様は斯う仰つたが、あれは斯ういう意味なんだ。斯ういう意味というのを自分で作つて了うのです。それで間違う事がよくある。それで又私の言つた通りをやるという事は自分が値打がなかつたり頭が悪かつたりする様に思うのです。ですから私の言つた通りにやる人が少いのです。私は何時も言うのですが、私が思う通り言つた通りにする人は英雄と言うのです。偉いです。処が一般は必ず違います。之は信仰ばかりでなく、庭の方でもそうです。私の言う通りにやる職人というのは一人も無いです。之を此処にやれと言うと、必ず此処にやる人はないです。こつちにやるとか、あつちにやる。私がこつちにやれと言うとあつちにやる。だから職人には手を焼いているのです。処が私の言う通りやるのが一番易しいのです。その易しい事を嫌うのですから不思議です。植木屋で一人斯ういうのがあつたのです。此の石を一尺こつちにやれと言うと、一尺やれない。二、三寸しかいかない。それで私が、何うして一尺やらない。こつちにやれと言うと、今度は五、六寸やつた。それから、駄目だもう一度やれと言つた。すると今度は斜(ナゝメ)にやつた。斜にしては駄目なのです。之で三度駄目なのだから、四度目に違つたらその職人は断るからと言つた。言う通りにやれそうだが、その通りにやらない。何故かと言うと、自分は手を引いて親方に頼むと言うのです。親方に斯うやつて呉れと言つてやつたら二、三時間で出来ました。処が先にやつた人は三、四日かかりました。そういう事があるのです。特に日本人はどうも言う通りにやらない、言う通りに考えない、という一種のくせみたいな、病気みたいなものだと思う。だから私が何時も話する事がよく違つて了うのです。だから明主様が斯う仰つたので斯うやつたがどうも旨くいかない。そういう筈はないと、良く聞いてみると違う。今の病気の事もその通りです。私は決して駈引や嘘はないのです。それは、よく昔からの偉い人でも、いろいろ――何と言いますか、有の儘でなく幾らか形容したり色々そういうきらいがありますが、私はそれが嫌いで、何んでも有の儘卒直に言いますから、その通りにやれば必ずうまくいきます。今の結核の話も、それを間違えない様にその儘聞いて、その通りやつて貰いたいと思います。そうすればきつと旨くいきます。そうして再浄化の場合には、熱が一番出るから溶けるのだから、それで咳と痰が出るのです。そうすると食欲が減つて体が弱る。そこで熱を無くするのです。何うして無くするかというと、安静です。だから再浄化で熱のある間は安静にする。安静にすると言つても、医学でやる様に床縛りみたいにするあれではない。寝たり起きたり位です。それで熱が無くなる迄――無熱になる迄そういつたブラブラ安静を続けている。そうすると熱が無くなりますから、浄霊をするし、ボツボツ運動をするという様にして、又熱が出たら安静にするという様にすると、長くはかかりますが必ず治ります。之から浄化が強くなるに従つて余計その方針でやらなければならない。ですから今再浄化を急にやろうものなら馬鹿に浄化が強いです。ドンドン衰弱していく。
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美術館も中々外国の偉い人がちよいちよい来ます。昨日来たのはニユーヨークのメトロポリタン博物館――アメリカでは一番ですが、そこの東洋美術部長という人が来て、中々良く見て、私も大いに款待してやりました。中々目が利いていて、日本人より目が利いてます。この部屋で之が一番良いと言う、それが合つているのです。日本人でもそう言う人は無かつたです。それから二、三日前に来たのはフリーヤーという個人の美術館ではアメリカで一番です。其処の図録を私は見た事があるが銅器が一番良い物がある。支那の銅器では世界一です。之は自分でも言つてました。私のはアメリカ一だが、世界一と言つても良いでしようと言つてました。そんな工合で銅器は非常に良い。私の処に一つ疑問の銅器があつてそれを見せましたが、それは日本の学者で京都で一番の梅原何んとか言うが、之は関西の方では一番の支那銅器の目利きなのです。東京では田沢金吾と言つて、こつちの顧問になつている。梅原の方は素晴しい銅器だと言い、田沢の方はイミテーシヨンだと言う。両方の意見があるので、道具屋が美術館に出して呉れと言うのです。そうすると誰か分る者があるからと言うが、何しろ狭いので出せない。丁度フリーヤー美術館の館長でウェンリーと言つたが、見て貰つた処、之は良い物だ立派な物だ。と、それを説明して呉れましたが、中々大したものです。字が書いてありますが、日本人では字の意味が本当に分らない。処が其人は之は斯ういう字が書いてある。之は斯ういう文字、とか。之は最初からの字ですが、大抵持主の字を入れますが、それは入つてない。斯ういう字は何時頃出来たという様な事が実に精しい。之は周の何年と。それから色んな銅器を見せましたが、之は明の時代に写した物とか、之はずつと新しいイミテーシヨンと、そういう様な工合に実に研究している。そんな様な工合でアメリカ人の方がどうも分るらしいのです。昨日の人なんかも急所々々をピタピタと言うのです。それは随分驚く事があります。今度は、ワーナー博士という人が来ますが、あの人は中々分ると思う。皆非常に驚いて、斯んな素晴しい美術館が日本に出来るとは思わなかつた。アメリカに帰つて一つ大いに好きな人とか権威者という様な人に言つて寄越す様にするから、色々頼むという事を頻りに言つてました。ですから私の思つた通り相当認めたに違いないです。で、良く聞いてみるとアメリカにあるのは、日本のは鎌倉以後桃山あたりから、支那では明以後――そういうのは相当数があるそうです。然し古い物は寔に数が少いそうです。今度其人達が来たのも、アメリカで今度日本の美術展覧会をやるので、それの用で来たのです。それ等の人は皆アメリカの美術の権威者です。ですから益々日本の美術というものに関心を持つて来たという事は充分分ります。で、今迄日本の美術を見なかつたのです。ですから蒔絵にしろ陶器にしろ絵画にしろ、未だ見た事がない、と随分言つてました。ですから分ると言つた処でそういつた局部的に分るので、全般的には初て見たものが多いのです。斯ういう事も、向うの一般的に分る様にしなければならないと思うし、それの一つの機関として非常に良い役目をするわけです。
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それから之は一寸面白い論文です。
御論文「⇒悪の追放」【註 栄光一七三号】
御論文「⇒御説教」【註 地上天国第三十九号】
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八月七日
今年は赤痢が大いに流行(ハヤ)つてますが、赤痢は頭の毒血の浄化だという事は言つてありますが、一日の晩に私が今迄に経験した事のない様な下痢で、四回――よくも斯んなにあると思う位下痢したのです。目が眩んで来て、便所に行くのに壁に掴まつて行く位で、便所に行つても良く物が見えない。斯んな事はないのです。それから食当りかと思つて考えてみても、それらしいものがないのです。若し食当りなら、食べた人は皆そうならなければならないが、私丈というのは変だ。それで翌る朝迄眠らないで只ウトウトしてました。それから頭をみてみると後頭部に瘤の様な物が出来ている。之は昔本にも書きましたが、歯の薬です。歯が四本痛んで、一年間程薬を続けたので、それが頭に上つて頭の中が薬の刺戟で変になつた。一時は発狂すると思つた位です。頭が自由にならないのです。考え様と思う事が考えられないで、飛んでもない事が浮んだり考えたりするのです。ですから之はもう精神病になる一歩手前だと思つた。それに歯の痛みが毎日ですから、発狂か自殺かどつちかだと、斯ういう風に覚悟したのです。処が其為にこの薬毒を知つたのです。だからやつぱり神様にそういう苦しみをさせられた訳です。処がそれが此処(後頭部)に固まつていたのです。その浄化が起つた。其為に此処が大変小さくなつたのです。で、非常に頭の工合も良くなつたのです。そうして嘔吐をしそうになつたから、嘔吐丈は自分で浄霊して、しない様になりました。それで熱が出て、やつぱり汗をかいたりしますが、その臭いが――丁度歯の薬――それはチモールと言つて殺菌剤の強いものです。で、その臭いが丁度三十七年前――大正三年ですから、三十七年前のその臭いが消えない。其時の臭いを想い出す位によく臭うのです。ですから薬毒というものは三十年以上経つても変らないという事がよく分つたのです。如何に恐ろしいものかという事が分つた。今では大分柔くなつたが――尤も之は去年あたりから浄霊しているのですから少し宛小さくなつていたが、今度は大分柔く小さくなつた。今でも半分位は残つてます。今でも浄霊すると直き下痢したくなるので、厄介だからあんまり浄霊しないでいる。下痢するとやつぱり食欲が減りますから、やつぱり舌の方の楽しみがなくなりますから、それで両方を旨く調和させてやつてます。だから下痢というものは、頭の病気であるという事は、もう間違ないです。私の場合は赤痢でないから、それ丈に之は良いとも言えず悪いとも言えない。本当は赤痢の方が楽なのです。というのは赤痢の方は薬毒が割に新しいのです。それから赤痢でない方は薬毒が古いのです。毒血が古くなると段々膿になるのです。で、新しい内は赤いのです。処が赤痢の方は新しい薬毒ですから、本当はその方が早く済むから良いのです。私のは古い丈に反つて上等ではない。そういう訳なのです。それと、以前は下痢というと腹の――腹膜です。慢性腹膜という様な固まりが多かつたのです。近頃の下痢というのは殆ど頭の浄化が多いのです。之からは下痢の患者は頭を浄霊するという事を良く心得ていると良いです。それから家に居る太田という男が、私以上の下痢なのです。三十分置きなのです。みると頭の浄化です。頭にうんと薬毒がある。顔が土気色(ツチケイロ)している。で、頭をやつてやるが急に治らない。それで可笑しいと思つて背中をやると、背中にうんと浄化が起つている。ですから之は頭と背中と両方の浄化です。ですから先ず頭をして、背中の浄化の処をやる。それから肋間神経痛なんかの胸の毒も、之が下痢になる。そういう様にみて、触つてみれば熱がありますから直き分ります。着物の上からでも触つてみれば温いですから、それが浄霊の本元です。そうすれば何んな下痢でも治ります。やつぱり霊界の浄化が強くなるに従つて起る場所が違つて来る訳です。以前は頭の毒は中々溶け悪(ニク)かつたが、此頃は溶け易くなつた。だから今は、何処か悪い人というと必ず頭と頸です。斯ういう処にとても熱がある。之から段々頭と其の為の下痢が多くなると見て良いです。
それからもう一つは結核の再浄化ですが、之は皆知つてますが、一旦治つてから暫くすると、今度は再浄化が起つて来る。之は最初の浄化よりもつとしつこいです。で、其場合之からは方針を変えるのです。というのは、一週間に一回位浄霊するのです。そうして安静にさせるのです。つまり再浄化で一番いけないのは熱が出る為に咳と痰がうんと出るというので、食欲が無くなつてそれで衰弱するのです。衰弱で参つて了うのです。だからそうしない様にするには熱を無くするのです。それには安静に限ります。安静と言つても医学の様に床縛りみたいでなくて良いです。寝たり起きたり位の程度でそうして熱を冷すのを主にするのです。そうして熱が無くなつて――無熱になつてからボツボツ運動をし始める。それで又熱が出そうになつたら安静にする。という様に気長にゆつくりやるのです。そうすると心配なく必ず治ります。で、浄化が強くなつてますから、うつかりやると浄化が強過ぎるのです。此間私が、相当古い中教会長ですが、非常に工合が悪いというので、こつちに泊つていて二、三回やつてやつた。そうすると馬鹿に浄化が起つて了つて、それは食べ物もろくに食べないで、ドンドン衰弱してゆく。之は大変だと、あなた帰りなさい。帰つて寝て居なさいと言つてやりました。で、浄霊もあんまりやつてはいかんと言つてやつたら、それから段々良くなつて、その危険がない状態になつた様ですという事を聞いたので、まあ大丈夫という処に来た様です。ですから斯ういうのはもう一層やると危なかつたのです。そんな様な工合で如何に浄化が強いかという事と、それに対するやり方――そういう事を考えなければいかんという訳ですから、それ丈の注意をして置きます。段々霊界が変つて来ますから――変つて来るという事は浄化が強くなるという事です。その代り治りもずつと早くなります。浄霊の効目が強くなりつゝあります。之はあなた方でも良く分つていると思いますが、先よりかずつと治りが良くなつてます。短期間で同じ効果がある。近頃御蔭話を見ても、皆そういう風に書いてある。直きに治る。そういつた御蔭が多いです。そんな様な工合ですから一方やり良くはなりました。それから進んで行くと医学の方と逆になつて行きます。今迄効いた薬――効いたというのは薬で固める方法ですが、それが固まらなくなるから、段段々々薬で治らなくなる。つまり一時抑えが効かなくなるのです。此頃はストマイなんかも、もう駄目だという説が大分多くなつた。B・C・Gとかヒドラジットなんかも怪しくなつてます。ヒドラジットが意外に売れないので困つているのです。そんな様な工合で薬というものが効かないという様な例が非常に増えて来た、という事は面白いと思います。もつと進むと今度は薬は恐ろしいという時代が来ますから、それからがこつちの領分です。メシヤ教の治し方より他は駄目だという時代がいずれは来ますから、それからは目の廻る程忙がしくなります。それが段々近寄りつゝあります。人の憂を喜ぶのではないが、楽しみもあります。
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之は「文明の創造」の中ので、今文明の創造を書始めましたが、前のとは又書き方を変えてやつたので、序文も違いましたから一度読ませます。
御論文「⇒文明の創造 序文」【註 栄光一七○号】
御論文「梗概」
之は「文明の創造」ではないのですが、一寸面白いものです。
御論文「⇒御説教」【註 地上天国第三十九号】
それから人間は病気さえ無くなれば百二十歳迄は必ず生きるのです。病気というのは薬毒ですから、つまり薬毒が完全に無くなつていけばまさに百二十は生きられるのですから、長生きしたかつたら薬毒を抜くのです。薬毒を抜くには出来る丈多くの人を助ける。そうすると薬毒は抜けるのです。だから大いに活動する人は反つて病気が起るのです。教師なんかになつて非常に活動する人はよく浄化が起り易いが、之はそういう訳なのです。反つてボヤボヤして居る人の方が割合に起らない。その理窟が分れば何んでもないのです。だから浄化が起るという事は非常に結構なのです。あの人はあんなに働くのに何うしてあんなに病気が起るのだろう、という様な疑問が起る人も無いではないが、そういう訳です。そこで出来る丈薬毒を無くする様にするのです。本尊である私が、さつき話した様な大浄化が起るのですから――只私は簡単に早く済んだのです。ですから今度の事なんか普通から言えば大病です。大病ですから一日丈仕事をしなかつた。ゴロゴロ寝たりしていた。でもアメリカ人の偉い人が来て一緒に食事をして、又三十分位案内したり話したり――それが一番苦しい日でしたが、そんな事で済むのです。それで、一つは病気に対する観念ですが、之は結構だ、毒が出て了えばもう治る、という絶対の信念がありますから恐怖は少しもない。それから何んなに酷い浄化でも精神的には大丈夫ですから、何んでも出来るのです。病気の苦しみというのは恐怖感です。重くなつたら命に関わらないか、もつと重くなるのではないか、という恐怖感が精神的に弱らせるのです。ですから其点をはつきり分つて絶対の信念さえあれば、肉体的の苦しみはありますが、精神的に苦しみは少しもないから楽に済んで了います。で、文明の創造の中から、病気と寿命という事を書いたのです。
御論文「病気と寿命」
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八月十五日
今度アメリカから帰つて来た人で、あちらの大学に行つていた信者がありますが、其人が此間あつちの病人の状態を色々細かく統計的に書いて来たのを昨夜読んだのですが「栄光」にも出すし、それから小冊子の様な物を作つてアメリカに配ろうと思つている。大変な病人なのです。日本に負けない位なものです。現在医者にかゝつている人が千七、八百万人居る――人口が一億五千万人ですから、一割強がお医者の御厄介になつている。それで一番多いのは胃癌、小児麻痺――之はアメリカ特有のものです。それから結核が中々多いです。その他にも肝臓だとか喘息だとか色々な病気がありますが、一番困つているのは小児麻痺です。小児麻痺も、聞いてみると殆ど疑似小児麻痺です。霊の憑らないものです。大抵足が痛くて動かない――先の、死んだルーズヴェルトなんかそれでしたが、それなのです。原因は無論薬毒です。大体注射です。それに全然気が附かないので、やつぱり薬で治そうとするが治る筈はないのです。そういう事――病気の原因を精しく書いて、アメリカ人を救わなければならないと思つているのです。今此の儘で行つたら、もう百年位でアメリカ人は亡びて了うでしよう。その為、病気の為に色々な方面に影響を及ぼしているのです。で、強い薬を飲んで一時抑えをやつているのです。一時抑えが効かなくなつたら大変です。つまり薬の迷信にかかつているので実に可哀想なものです。今、世界ではアメリカが医学は一番進歩している。ドイツを凌いでいるという事になつてますが、結論としては医学が進歩するから病人が増えるのです。そこに気が附かないのですから厄介なものです。処で、段々霊界が変つて来るに従つて浄化が強くなつて病気が起る。そうすると又強い薬で抑え様とするが、抑え切れないから薬の毒を余計強めるわけです。処が又、霊的には余計浄化が強くなるから、薬と浄化との闘いです。現にもう闘つている訳です。ヒドラジットなんかも、此間――或病院での研究によると、用いた後は一時良くなる。そうすると大抵二、三週間、長いので二カ月位で、一旦減つた菌が又増えて来る。その菌は非常に強い菌なのです。それで、そういつた菌が強くなる――つまり悪化するのが、今迄の統計では約三割増えてます。で、未だ今は三割ですが、之が段々浄化が強くなると、五割六割にもなつて、結局あれを使つてはいけないという事になります。何時か書いた「⇒結核新薬を嗤う」というあの論文の通りになります。そんな様な工合で、いずれはアメリカあたりで大変な問題になると思います。その前に警告を与えて置こうと思つてます。そうしていずれ「英文栄光」というのを作ろうと思つている。今の処の予定は、ハワイで丁度適当な人がありますから、そういう人にハワイで発行させて、こつちの栄光の飜訳と、特にアメリカ向きの記事も書こうと思つている。そうしてアメリカ人を救うという事の仕事をしなければならない。やはり今世界をリードしているのはアメリカですから、世界を救うという事は先づアメリカ人に分らせるという事が一番効果がありますから、そういう方法をとろうと思つてます。それで、反つてアメリカの方が分つて来ると日本人が分るのです。何うしてもやつぱり輸入しなければ駄目なのです。舶来中毒にかゝつているから、やつぱり舶来迷信でしよう。他のものはそうでもないが、あゝいつた学説とかいうものは、やつぱり舶来迷信にかゝつている。まあその迷信を利用するよりないのです。講和以前はそういう事はやはり言えなかつたのですが、もう講和になれば言つても差支えないのです。兎に角日本人というものは非常に霊的に優秀なのです。之は一層深く話しすると分るのですが、日本人というものは何故優秀か――段々そういう事も話します。もう、世界では一番なのです。ですから美術でもそうです。今、美術は日本が世界一という様な世界的な輿論になつてます。今度アメリカで日本の美術の大展覧会を開催するので、それに就いて此間来たワーナー博士、フリーヤーという個人の美術館の館長のウェンリーという人、それからニユーヨークのメトロポリタン博物館――之はアメリカでは一番ですが、其処の東洋美術部長のプリースト氏・ウェンリー氏とプリースト氏は此間来て非常に褒めてました。ウェンリーという人に、此の美術館で此処がいけないという処が何かあつたら遠慮なく言つて呉れと言つた処が、別に大してないが、皿みたいな物を見ると疲れるから、自分の処では目の角度に合わした様な陳列の仕方にしている。と、そんなものだと言つてましたが、それは私も承知してますが、巻物だとか皿は立てゝはやはり面白くないのです。皿としての意義が違うのです。皿は上から見るのが、皿としての鑑賞の仕方で、斯う(立てる)やつては額みたいになつて、どうも感じが良くない。巻物でも同じです。でも、巻物は幾らか斜に拡げてあるから良いのです。其人は日本通で、御飯を御馳走しましたが、坐つて――其時一番美味いと言つたのは鰻です。蒲焼です。それからテンプラを食べ、奥さんと両方ですが、箸で食べているのですから、余程日本趣味が多いのです。そういう人はアメリカ人でも相当あるようですが、特に日本美術と日本建築、斯ういう事に非常に関心を持つてます。そんな様な工合で日本人の美術的感覚は兎に角断然世界一です。日本の次は支那ですが、全般的には日本人の方がずつと上です。之は段々話しますが、西洋ではそういつた美術とかいう気性の高いものは日本人ほどにはいかないです。兎に角――今朝もラジオの趣味の手帳で亀井勝一郎と言う人が昨日、今日、明日と、奈良の仏像に就いての批評をしましたが、今日は法隆寺の中宮にある彌勒菩薩を話してましたが、あれは観音だろうという説もあると言つてましたが、彌勒菩薩と観音様は同じで、その区別を知らないのだが、あれをロダンの彫刻と比較して言つてましたが、ロダンのは「考える人」という彫刻ですが、考えるのにロダンのは苦悩が表われている。苦心が表われている。処が中宮寺にある観音様――彌勒菩薩というのですが、考えるというよりか、瞑想にふけつているという、如何にも穏かな柔い感じがする。と、そんな事を言つてましたが、之は上手(ウマ)い評です。実際日本美術というものはそういつた平和の感じを非常に良く出しているのです。 又私は、終戦直後「栄光」に出そうと思つて、音楽の事を書いた事があります。歌うという事は日本の音楽が歌うのだ。西洋の音楽は、男の方は吠える、それから女の方は悲鳴を上げるという様に書いたのです。で、歌うというのは日本の音楽は本当に歌うのだという様に書いた。処が栄光の編輯をしている人が、つまり日本人の優秀性を書くと、進駐軍の方があるから今の処は止した方が良いと言うので止しましたが、兎に角美術というものは平和の感覚を表わすのが本当です。つまり苦悶とか或は闘争とか、そういうものを表わすという事は本当の芸術としての本質ではないのです。話は横道に外れましたが、日本美術というものは未だ未だドンドン世界に認められます。今度なんかも、先方は大分要求が多いのですが、良い物を見せて呉れと言つている。日本でも中々それに応じ兼ねるのです。それは日本には素晴しい物がありますが、或程度迄以上の物は承諾しないだろうと思つてます。こつちにもそういつた様な物は四、五点ありますから、言つて来ないかと思つてます。承知する事も出来ないだろうと思つてます。一つか二つは良いですが――。向うでは大変な大仕掛な事をやつて、品物を運ぶのに間違があつては大変ですから、軍艦で運ぶのだそうです。で、向うの主催者は、ワシントンの博物館、それから今のニユーヨークのメトロポリタン博物館、ボストン、シアトル、それからシカゴですか――五カ所の博物館と美術館が主催者なのです。それでアメリカ中約十カ所位を順次に開催して、一年の予定です。あつちの人は今日本の美術に対して非常に憧れているのです。今迄支那美術は知つてますが、日本美術は本当に知らないのです。去年のサンフランシスコの展覧会で喫驚して、もう一つあれ以上のものをして貰いたいという要求になつたのです。そんな様な工合ですから、まあ面白いのです。今度私は――医学に就いて日本は優秀どころではないのです。丸で桁が違つているのですが、それも大いに吹込もうと思つている。それから農作物。それから段々政治、社会、経済問題、そういうのも段々「文明の創造」の論文の中に書いていきます。というのは何時かも話した経緯の結びの時期になつて来たのです。アメリカが緯で日本が経でそれが結ばるという、そんな事がそういつた面から基いて行くわけです。やつぱりバッチもそれを表わしているのです。神様の方ではもう決まつているのです。
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それから、よく社会事業に就いて、メシヤ教は社会事業をやらないのは何ういうわけかということを時々聞かれる、という話をよく耳にするのです。それに就いて徹底的に書いて置いたのです。
御論文「⇒本教と社会事業」【註 栄光一七一号】
之は少し強い言い方ですが、ずつと先の事――予言です。それを書いてみたのです。
御論文「⇒医学関係者に警告する」【註 栄光一七一号】
之も一寸面白く書いてあります。
御論文「⇒宗教と妨害」【註 栄光一七二号】
今読んだ様なわけで、宗教として法人になつて発足したのが二十二年の八月ですから、今年は丁度五年目になるのです。五年目での此の発展振りというのは例がないと思うのです。その頃は――最初は観音教と言つたのですが、殆ど世の中で知つている人はない位です。それが、その翌年の秋、脱税問題が起つてから、知れ方は悪いのですが兎に角知れるには知れたのです。やつぱり、あれも一つの神様の仕組なのです。そんな訳で、良い事は知れ悪(ニク)いのですが、悪い事の方は悪事千里で知れるのが早いのです。悪事千里なんて言つて――こつちは悪にされた方です。そんなわけで僅か五年で之丈の発展をしたのですから実に素晴しいものです。感慨無量という処です。ですから斯ういう風で後五年もしたら無論世界的に発展します。何しろ世界を救うのですからその位の早さでいかなければ到底駄目です。そんな様な訳で、本当言うと之からが面白くなるのです。之からが本舞台になる訳です。今迄は楽屋で支度していた様なものです。やつぱり世界的にならなければ本舞台ではないのです。日本丈では、やはり今迄の――在来の宗教と同じです。処がメシヤ教は在来の宗教ではないと言つているのです。宗教以上のものだと言つているのですから、世界的に飛躍するという事が当り前なので、神様の方ではちやんとそう決つているのですから、愈々之から脂がのつて来るわけです。時間が来ましたから――。
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八月十六日
宗教法人になつてから、今月で丁度満五年目になるのです。最初は二十二年の八月でした。それ迄は浄化療法というので、信者というわけでなく弟子ですが、それが数百人位です。充分とみて五百人と思つて良いでしよう。それが五年で兎に角協力会員が十万。それから教修を受けた者は四、五十万位あるようですが、準信者としては四十万位あるだろうと思います。ですからその急速な発展は、何時も言う通り例がないのです。で、新宗教の中で割合に急速に発展したのは、立正交成会です。あれは割に早く発展したが、それは何かというと、日蓮宗の分派なのですからして、日蓮上人が法華経によつて六百年も前から宣伝しているのですから、それ丈の歴史があつてみれば新しい宗教とは言えないのです。日蓮宗の一派としての霊友会から又別れたのですから、霊友会の信者が大部分らしいのです。ですから全然新しく出発した訳ではないのです。処がメシヤ教の方は本当の新しいものです。つまり無から有を生じた様なものですから、其点に於て大変な異いです。ですから此の分で段々行きますと、此次の五年位には何んなに発展しているか見当がつかないと思うのです。で、其時分には無論外国にも発展するでしようが、最近アメリカに行つている信者で、大学に行つている人がありますが、帰つて来て、此間あつちの事情を聞いてみたが、色々統計的に調べてそれを書いて持つて来ましたが、みんな英語で書いてあるので、今度日本語で書く様にそう言つて置きました。いずれ書いて来れば、それに色々解説をつけて「栄光」にも出します。それからアメリカも大変な病人なのです。私は日本が一番多いかと思つたら、或いはアメリカの方が多いかも知れない。医者にかゝつているのが千七、八百万人――人口が一億五千万人とすると、一割強はお医者の御厄介になつているのです。で、病気の種類は胃癌、小児麻痺、結核――そういうものです。尚、心臓病だとか黄疸だとか喘息だとか、そういうものも中々あります。それの原因や何かを精しく書いてパンフレットか小冊子の様なものを作つてアメリカの主な処に配ろうと思つている。勿論英語で書きます。それから「英文栄光」をあつちで発行しようと思つている。最初はハワイが色んな便宜がありますし、ハワイは信者が今四、五十人出来てますから――。で、アメリカを急速に救わなければいけないのです。此分でアメリカがずーっと行つたら、もう百年も経つたら殆ど亡びる様な状態になるでしよう。何しろ非常に薬を使うのです。処が今薬の進歩はアメリカが一番と言つてますが、薬の進歩した国は堪らないです。ドンドン弱つて了うのです。で、それに対して目を覚まさせる様に宣伝しようと思つている。何しろアメリカは世界の文化をリードしているのですからアメリカ人を救いアメリカ人を解らせるという事は、世界人類を解らせる一つの有力な手段になりますから、何うしてもそうしなければならない。それから何時も言う通り、十字――経と緯を結ぶという事は、日本とアメリカを結ぶ――之が最初だと以前から言つてますが、そういつた意味にもなります。
それから今言つた様な、五カ年で之丈発展したけれども、その間に色々な妨害があつたのです。二十二年の八月に宗教的に発足して、一年あまり経つた二十三年秋に脱税問題で可成り苦しめられました。その代りそれ迄誰も知らなかつた――其時分は観音教と言つてましたが、観音教も一躍して世の中に知れたのです。然し其時は良い知れ方なら良いが、甚だ悪い知れ方でありました。けれども知れる丈は知れました。どうも、知れるという事は悪い事でなければ早く知れないのです。で、神様はそういう手段をとつたのだろうと思います。そこで其次が二十五年――一昨々年の五月に、やゝこしい事件ですが、世の中に知れるには最も良いです。無論知れる丈は知れましたから、今度は悪い知れ方でなくて良い知れ方をするのです。美術館なんかというのは良い知れ方なのです。そういう邪魔が無かつたら、もつと何倍に発展したか分らない。それ丈酷い目に傷めつけられ乍ら発展したという事は、つまり神様の威力が素晴しかつたという事が分る。善悪の闘いですからつまり悪魔の方では何処迄もこつちをやつつけ様とするし、又神様の方では――やつぱり一時は今迄の善は負けるのですが、今度はそれを凌いで勝つて行く。よくバイブルなんかに、勝利という事があります。勝利の都に降るとか――結局は悪魔に勝つ事なのです。それに就いて一寸書いてみました。
御論文「⇒宗教と妨害」【註 栄光一七二号】
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それから、よく社会事業の事に就いて――そういう事を質問される場合に、よく合つた説明が出来る様に書いてあるのですが、斯ういう意味で言えば必ず分る筈です。
御論文「⇒本教と社会事業」【註 栄光一七一号】
今読んだ通り、私は今「 (ス)の文化」というのを書いてますが、今の社会事業の様なものは結局に於て、今迄のやり方は現われたものを抑えつけるとか、それを一時的良くするとかいう、そういうやり方ばかりですから、やつぱり医学の対症療法と同じで、痛いからそこを注射で痺らして一時苦痛を取る。熱が出るから冷したり熱冷しをやるというようなやり方です。丁度社会事業は、不幸な人が出るからそれを救うというのと同じです。処がそれは因(モト)があるのです。その因の方にさつぱり気が附かないという事は、気が附かない一つの癖がついた様なものです。そういつた因を考えるという事もしないのです。金が無ければ借金すれば良い、金を借りれば良い。と――経済界もそうなつてます。何か事業をするとか、何かというと直ぐ銀行から借りるのです。その大きなのが外資導入です。何うしても自分で稼ぎ出すという事は、寔に乏しいです。で、犯罪者が出来る。そうするとそれに刑罰を喰らわして酷い目に合わして、懲りさせてやろうという、そういう様な事や、兎に角外殻――外側丈のやり方です。処が中心があるのです。今言う魂です。それを閑却している。ですから丸のポチが今迄無かつたのです。ポチが隠れていた。ですからこの輪(○)――つまり言わば空つぽです。ですから今迄は空つぽ文明です。そこでポチですが、ポチは一厘なのです。之(丸)が九分九厘なのです。九分九厘と一厘というのはそういう訳です。で、一厘の仕事をするのが私の使命なのです。今の社会事業にしろそういつた肝腎な魂、それから病気なら薬という様な、そういつたものですが、今薬に就いては根本から書いてます。そうすると薬も必要だつたという事も分ります。キリストが言つた「禁断の木の実」という事は薬なのです。禁断の木の実を食べると人間に悪が生まれる。悪が発生する。悪の発生源というのは薬なのです。薬を人間が使わなくなれば悪が無くなるのです。之も今細かく書いてます。今迄そういう様な肝腎な中心丈が隠されてあつた。それがつまり夜の世界だつたのです。暗闇だつたからして見えなかつたのです。
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之は一寸面白いもので、今のお医者と薬の将来は何うなるかという事です。
御論文「⇒医学関係者に警告する」【註 栄光一七一号】
今読んだ通り医学の寿命というのは割合早く来るのです。で、斯ういう事があります。近頃、今迄効いた薬が効かなくなつたという事をよく聞くのです。ヒドラジットにしろ、あれ程大騒ぎをやつたのがもう駄目なのです。此間何処かの病院で統計をとつた処が、大抵二、三週間か一、二カ月で最初は結核菌が非常に減つたのが、今度は又非常に増えているのです。そうすると菌が前よりか非常に強いのです。何んとか言う言葉ですが、そんな様な工合で、それが大体三割そういう人が出来てます。三割という事は未だ日限が少いからです。之が日限が経つと五割にも十割にもなるのです。そうすると之は反つて何んにもならないという時期になるのはもう直きです。ですから何時か書いた「結核新薬を嗤う」というあの通りになつて行くのです。近頃お医者さんで薬に疑いを起したのは随分あるのです。前には効いたが、此頃は効かないというのは、つまり霊界の浄化が段々強くなりますから、固め療法で段々固まらなくなつたのです。つまり人間の毒素丈は、かんてんやところてんと違つて今迄通り固まらないのです。そうすると、もう薬を飲む事や注射をする事が危なくて出来なくなる。此間の新聞にも、注射して何十分かで死んだのです。で、それを告訴するというので、お医者さんの意見が出てましたが、やつぱり特異体質とか言つて逃げてましたが、そんな様な事が段々増えて来る。そうするとお医者さん自身が医学を疑つて、もう斯んな事では駄目だ、怖くて医療は出来ないという事になりますから、そうすると別に外殻から医学を何うするのでなくて御自分の方で医学を捨てゝ了うという事になります。それも大して長い事はないのです。だから今書いたのはその警告ですが、そういう訳ですから、そうなつてからメシヤ教は大変な事になります。さつき論文にもあつた通り、世界中の引張凧になるという事がありましたが、そういう風になる訳です。ですから其時になると忙しくて大変ですから、今の内に出来る丈御神書を読んでその用意をして置くという事が肝腎です。今「文明の創造」を書き始めたのですが、今度のは中々面白い書き方になつてます。序文丈を、短いから一寸読ませます。
御論文「⇒文明の創造 序文」【註 栄光一七○号】
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八月十七日
メシヤ教も宗教になつてから、今月で丁度満五年目になつた訳です。最初は二十二年の八月でしたが、其時は浄化療法――民間療法をやつていて、信者といつた様な者が数百人あつた位です。斯ういつた参拝――面会の時は二、三百人位しか無かつたのが、今日は五年で本当に固まつた信者――協力会員は十万出来ましたし、その他の準信者とも言うべきのが四、五十万位あるでしようから、僅かの間に驚くべき発展をしたのです。で、信者の数ばかりでなく斯ういつた地上天国、美術館――そういうものも出来たし、熱海の方は今大体敷地其他のものは大抵今年一杯くらいで出来る予定です。熱海の建築の予定は此の秋あたりからと思つてますが、其時になれば神様がちやんと指図されます。もう後二、三年経つたら又素晴しい事になると思つてます。然も順調に行つたわけではないのです。宗教法人になつて、そうして発足して一年余り経つた翌年の秋には脱税問題で大いに打撃を受けました。その代りそれ迄殆ど誰も知つてなかつた――其時分は観音教団と言つてましたが、一躍世間に知れ渡つたのです。知れ渡つたには違いないが、良い意味でなくて悪い意味で知れ渡つたのです。然し只知れるという意味からだと、悪い知れ方の方がずつと早いです。良い事というのは寔に知れないものです。良い事という事に興味を持たないのです。どうも人間は悪い事の方に興味を持つのです。だから新聞なんかでも、良い事は報道しないのですが、悪い事の方は輪に輪をつけて報道するのです。そうすると興味があるのです。そういう風に人間がなつているのだから仕方がないのです。兎に角知られるという事には大いに効果があつたわけです。そうして次は一昨年――一年置いて、廿五年の五月に贈収賄問題というのですが、それで大いに叩かれたのです。これは私も随分いじめられました。普通では、メシヤ教は駄目になつて了うのではないかと思つた人が随分あつただろうと思いますが、そういうことも凌いで――その間にもちよいちよいありましたが、それにも拘わらず斯うして素晴しい発展をしつゝあるのは、つまり邪神に対して神様の力が如何に強いかという事です。之は闘いです――霊的の闘いですから、邪神の方では実に一生懸命に力を振つているのです。それが又、邪神はあの手この手で色んな――大きい事小さい事を実にやつてます。之は私でなければ分らないが大変なものです。それに就いてざつと書いたのですが、今読ませます。
御論文「⇒宗教と妨害」【註 栄光一七二号】
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最近アメリカに行つていた信者の大学生ですが、此間帰つて来て医学上の調査――数字も色々統計的に書いて来ました。日本と違つてあつちの良い事は、何んの病気は現在患者が何人居るとか、何んの病気は何年前に何ういう数字があつたとか、それが増えたとか減つたとか、それがちやんと統計に出るのです。だから非常に分り良いわけです。それによると今アメリカで医者にかゝつている人は千七、八百万人居るそうです。人口が一億五千万人ですから一割強はお医者さんの御厄介になつているわけです。それで色んな病気の統計をみると、年々増えているのです。減つているのはペストとかコレラとか野蕃国の病気は減つてます。それから一番多いのは胃癌、小児麻痺、結核――これ等が一番多いです。その他色々な病気がありますが、之はいずれ「栄光」に出します。そうしてアメリカでは病気に対して非常に苦しんでいるのです。私は、色んな病気は日本が一番多いと思つた処、どうしてアメリカの方が日本より多いかも知れないです。それは何かというとアメリカは薬が一番進歩しているからです。昔は薬はドイツが世界で一番進歩していたが、今はアメリカが一番進歩している。斯ういう説になつている。つまり医学が進歩している国程病気が増えるのです。之は間違ないです。そうして見るとアメリカの人を先づ救わなければならない。何しろ世界の文明をリードしているのはアメリカですから、世界を救おうとしたらアメリカを一番先に救うという事が一番効果的です。私は其統計を基にして“斯ういう病気は斯うだ”“之は斯ういう事だ”という事をすつかり書いて、小冊子にしてアメリカの大統領始め偉い人達に配ろうと思つてます。それから、「栄光」も、「英文栄光」というものを作つてあつちに大いに宣伝して、読ませ様と思つている。丁度良い塩梅に、そういつた極く適任者が二、三人居りますから、今ハワイに信者も四、五十人出来てまして、今非常に発展の気勢がみえて来たのです。そんな事で、足掛りも丁度良い工合になつているので、そこでこつちの支社の様なものを――尤も支部も作る積りです。支社を作つて大いにアメリカに宣伝しようと思つている。そうすると日本人より反つて分りが早いから、案外良いと思つてます。で、アメリカで一番困つているのは小児麻痺です。之は、死んだルーズヴェルトの小児麻痺は有名なものですが、今度の報告を聞くと本当の小児麻痺ではないのです。殆ど疑似小児麻痺です。疑似小児麻痺というのは無論薬毒ですから、それを良く解らせれば案外早く解るのではないかと思つてます。つまり足が歩けないのです。之が一番多いのです。然も注射が流行りますから益々増えるわけです。それから親の遺伝薬毒もありますし、それですからアメリカの小児麻痺というのは浄霊しても全部治ります。何んでもないです。大抵膝の辺に薬毒の固りが出来るのです。それから癌というのは、根本は肉食です。あれは肉食病ですから、野菜をもつと多く食べれば胃癌は無くなるのです。それらも簡単な理窟です。結核は今度の「結核信仰療法」を読ませれば良いのです。斯ういう意味を根拠として“凡ゆる病気は薬毒だ”という事を書けば相当解るだろうと思つてます。で、之は先から言つている通り、アメリカが緯で日本が経で、そこで、之を結ばなければならないという、そういつた一つの根本的の仕事ですから、やはりそういつた時期が来たわけです。で、アメリカが解ると日本はとても早く解ります。何しろ今以て舶来崇拝が大いにあるのですから、どうしても逆輸入する。そうする事が一番早いです。映画の「羅生門」みたいなものです。あれだつて外国であゝして大騒ぎをやられたので、日本人も気が附いたのです。そう言う私もそうなのです。先に見た時には大したものと思わなかつたが、あつちで評判になつたので何んだかもう一度見たい気がして、そう思つて見ると成る程良いです。
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昨夜から今朝にかけて面白い論文を書いたのですが、未だ仕上げをしてないから読み悪(ニク)いのですが――。つまり薬というものは毒ですが、毒を薬の様に思わせたのは誰かというと、神様なのです。だから一寸意外な説なのですが、処が之を充分解ると根本的に分るのです。何しろ悪魔というのは神様が作つたのです。斯ういつた説き方は主神の説き方なのです。今迄の宗教にしろ何にしろ、主神の教えでなかつた。つまり善の側の神様が出て説いたのですから、悪というものを一概に全然いけないと排撃したのです。之は善悪両方の神様が拵えたのです。善の方の神様はキリストとか釈迦を使つて説かせたのです。処が私は善悪両方の主神――その神様の計画を説くのです。そこで悪を否定するのでなくて悪を肯定しているのです。そうすると毒を薬として飲ませるのは何ういう訳だという、そういう意味も知らなければならない。それを書いたのです。
御論文「文明の創造 人類と医学」
之は一寸知つて置く必要があると思つて――。
御論文「⇒薬毒の恐怖」
御論文「⇒医学関係者に警告する」【註 栄光一七一号】
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それから社会事業に就いてよく聞かれますから、その説明を書いてあります。
御論文「⇒本教と社会事業」【註 栄光一七一号】
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八月二十五日
此の頃聞いた話ですが、病気なんかに就いて私の言う事を間違う点があるのです。それは斯ういうことの間違があるのです。私が「人間の健康には無理をした方が良い。無理をしなければ丈夫にならない」という事を前から言つているのですが、之は健康の人に言つているので、病人に言つているのではないのです。処が病人に対して「楽にしてはいけない。無理をしても身体を動かさなければならない」と、斯ういう人が居るのです。これは大変な間違です。結局根本は自然が良いのです。起きるのは大儀だ、寝て居たい。というのは寝ているのが良いのです。自然なのですから寝て居る様にする。それから身体に元気が出てもうじつとして居られない。寝て居られない。どうしても起きたい、歩きたい。というのはもうそれで良いのですから、そうすれば良い。飽迄(アクマデ)自然でなければならない。ですから病人に対して言う事と健康な人に対して言う事とは逆な事が沢山あるのです。それを一緒にして了うのが一番困るので、飽迄自然です。一番滑稽なのは、昔私がリンゴを食べなかつた。すると「明主様は何うしてリンゴをおあがりにならないのです」と言うから、私は「リンゴは旨くないから――つゆ気がないから――私は、つゆ気がある物が好きだから」と、その時分は盛んにミカンを食べたものです。それが大変な事になつて「明主様がリンゴをおあがりにならないのは、リンゴは毒だから」と言う、そういう事があつたのです。随分私は取消したが、今以つてあるのです。そういうのは未だ良いが、斯ういう人があるのです。之は、地方の者ですが「リンゴはよく医者や何かで薬になると言つている。だから医者なんかはリンゴを食えと言う。リンゴが薬になるということをみると、その薬毒の害を蒙る。薬の気があるというのだから、リンゴを食べれば薬毒の害がある」と言うのです。そこ迄来ては、何と言つて良いか分らない。之も自然に反するのです。リンゴでも柿でも、神様は人間に食べさせる為に作つてあるのですから、リンゴがいけないとか柿がいけない何がいけないという事は大変な間違です。リンゴというのは人間が食べる為に出来ているのです。つまり味というのが大変に必要なものなのです。ですから農業の方は自然農法と言いますが、医学の方でも健康に就いてはやはり自然が良いのです。食物も自然、それから運動とか動作というものも自然です。又熱があつたり風邪を引いて色んな事があつても、立派に仕事が出来る、それ程苦痛ではない、という人は仕事をしても良いです。私は随分風邪引とか熱があるとかしても、構わず仕事をしてます――それ程苦痛ではないから。それはそれで良いです。そういう風に飽迄自然です。それで、起きているのは嫌だ寝ている方が良い、というのは寝て良いのです。その事で、医学の方で間違つているのは「起きて居てはいけない、絶対安静だ」と言つて、フウフウ言つて寝ているのです。私の本にも書いてありますが、ピンピンしているのが、健康診断で肺に曇りがある、絶対安静でなければならないと言つて、段々弱らせて命迄亡くしたという人がありますが、之は反自然だからいけないのです。そういうわけですから、此点を間違つている人は大いに訂正しなければいけないと思う。
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それから話は違いますが、昨日奈良の薬師寺の管長で、橋本と言う坊さんが訪ねて来ました。薬師寺は、私は禅宗だと思つて居たら、そうでない。法相宗というのです。それは何うでも良いですが、管長の橋本さんですが、実に顔色が良いのです。可成り肥つてますが、実に人相が良いのです。丸で絵に画いた大僧正みたいな感じです。頭も非常に良いです。仏に関して――特に仏教美術に関して中々深いのです。薬師寺の由緒だとか、それから色々な仏教美術に関する事を聞きましたが、大変参考になりました。只驚く可き事は、非常に顔色が良いのです。それから肥り工合といい、皮膚の工合といい、まあ理想的です。今時あんな人は見た事がないです。実に気持が良いです。明るい顔でして、話しの工合でも頭の良い点、中々――私も随分頭は悪くないつもりですが、話があの人はよく合うのです。それで聞いてみると絶対に菜食なのです。こつちでお昼を御馳走しましたが、カツオブシもいけないと言うのです。カツオブシを止して別に捌えたのですが、あれを普通の人がみると、栄養が良いなと思いますが、処が実際はカツオブシも駄目だから、今なら栄養不足というわけです。だから実際栄養という事は如何に出鱈目かという事が分るのです。で、良く聞いてみると、生まれてから未だ薬を飲んだ事がないそうです。又病気もしないから――。尤もあゝいうのは、小僧の内に禅宗寺なんかにやられて修業するのです。で、沢庵に麦メシかで、それは禅宗寺というのは酷いものです。それで叩上げられるから、病気なんかしないのです。ですから菜食というものは如何に良いかという事が分るのです。その話に就いて、私が十八の時結核で医者より見離された時には、絶対菜食です。カツオブシも止したのです。三カ月絶対菜食にして――之は私の本にも書いてあります。只菜食は精神的に非常に違うのです。菜食しているうちは、凡て――欲望というものが非常に薄くなるのです。何事にも満足するのです。「之ではいけない」というのでなく、「之で結構だ」という様な気持になるのです。ですから昨日も、今は何故菜食をしないかと言うと、大抵な事は諦める。覇気――そういうものが薄くなる。私は始終悪魔と闘つて、之からも大いに悪魔と闘わなければならない。それで、いろんな――文明の革命だとかそういう事もしなければならない。大人しい、諦めの精神が多くなつては困るから、それで私は九十迄はやつぱり肉も魚も食べ大いに闘争力を強くする。九十より先は絶対菜食にして――我々の事だからブラブラするわけにいかないから仕事をしますが、仕事もそういつた欲望の強いものでなく、風月を楽しむとか適当な事をやる積りだと言つて話したのです。そんな様な工合で、健康上から言うと菜食が一番良いのです。ですから私は今でも出来る丈偏しないのです。野菜とそういつた動物性の物と、大体半々にしてます。処が料理をする人は、御馳走と言えば何んでも魚や肉だと思つて、そういうのが多過ぎて困るのです。それで始終小言を言つている。私は野菜を多く食べなければ困るのだから、野菜を多くする様に考えて呉れと始終言つている。栄養は野菜だが、文化生活をする上に於てあんまり大人し過ぎても仕事が出来ないから、そこで動物性の物を食べるのです。それを心得てやれば丁度良いわけです。で、競争心は結構ですが、それがもつとひどくなると闘争心です。闘う方です。だから肉食人種は闘争心が強いわけです。今アメリカで一番困つているのは胃癌です。日本は割合に癌は少いです。之もアメリカ人は菜食が足りない為です。之は今度書いてアメリカに出す積りです。それから之は「文明の創造」の中の「人間と寿命」というのですが、寿命というのは人間が年をとつたら菜食にすればよい。薬を飲まないから薬の気が無くなる。そうして先ず八十過ぎ位から菜食にすると、百以上は必ず生きるのです。昨日も、官休庵というお茶の宗匠で、今十二指腸潰瘍と言つて青い顔をして、酒が好きな人ですが酒を一滴も飲まず、煙草ものまないで、食物も制限していたから、原因は薬だという事を言つてやつた。それで私の経験を話してやつた。私は四十迄は殆ど薬詰めであつたが、薬の害を知つてから今年で三十六年ですが、一滴も薬というものを飲まない。それでも未だ薬毒はありますから始終自分で浄霊してます。其為に年々丈夫になつてます。今七十ですが、暇があれば庭で木の枝を切つたり色んな事をやつてます。重労働ではないが軽労働と重労働の間位の事をやつてます。それで皆は草臥れた草臥れたと言つてますが、私は別に草臥れたという事はないのです。何ういうわけかと言うと、やつぱり薬毒が無くなつたせいです。だから人間は薬毒が無くなれば非常に丈夫になるのです。今でも私は足が早いのです。若い者と歩く時は、私は加減しているのです。若い者が追附かないのです。どうした、年の加減だろうと言つてますが、あべこべなのです。それで又薬毒が無くなると頭が良くなります。頭が良くなるから、仕事が沢山出来ます。それに就いて「文明の創造」の健康と寿命という一節を今読ませます。
御論文「⇒文明の創造 健康と寿命」
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それから (ス)の文化、主神とか主と言いますが、丸にチョンを打つて我々は「ス」と読んでますが、之は凡ゆるものを簡単に表わしているのです。それを今一寸読ませます。
御論文「⇒ (ス)の文化」【註 栄光一七三号】
それから「文明の創造」の中の一つで「九分九厘と一厘」という事を書いたので、それを読ませます。
御論文「⇒九分九厘と一厘」
之に就いて知らなければならない事は、今迄の宗教で悪を肯定する宗教はないのです。全部悪を憎み――憎むのは当然ですが、悪だから悪いけれども――そうして攻撃――敵(カタキ)の様に宗教自体が言つていたのです。又悪の方では宗教を悪く言つて、そうして神は無い――それは今でも盛んに言つてますが、神があると言う奴は迷信だと、そんな様にして両方を闘わせたのです。というのは今迄の宗教の開祖というのは善の方の神様です。善丈の神様と、今の様な悪の方の――邪魔するサタンと対立していた。処が両方を造られたのは、真中に居る主神なのです。そこで主神の見方から言うと違つて来るのです。そこで私の今の、悪が必要であつた。医学という、要するに薬というものは人間を弱らすもので、人間を弱らせなければ文化というものは出来なかつた。という様に説いてあるのは、主神から出る教えです。要するに善悪の根本を説いているのです。そこで分らなければならない。今迄のは善丈の教えです。そこで悪を説かなければならない。悪というのは主神が作つたのです。主神は斯ういう必要があつて悪を作つたのだ、斯ういうわけで許したのだ。善と悪とを対立させた事、そういう事を「文明の創造」の最初に説くのです。然し悪は文化の進歩に或程度迄必要であつて、天国要するに地上天国に必要である程度の文化を作る迄の必要であつて、それ以上はいけない。だから悪の期限が来たという事も説いてあります。それで悪というものは必要であつたという事と、悪の期限が来たという事で、始めて根本が分るわけです。だから医学というのは人間を弱らせる為に必要であつたという様に説けば、一寸医者の方では怒る事も出来ないのです。然し今日ではもういけないのです。もう弱らせる事は止(ヤ)める時期が来た。だから止(ヨ)せと、斯ういう意味です。ですから之を知つて居れば、何んな質問が出ても困る事はないです。その意味を話すれば良い。今迄は結構だ、結構だがもう然し人間を弱らせる方法は済んだ。と、そう言えば一寸文句は言えない。それを説いてあります。最初は拳固を握つても、読んでいるうちに段々溜息に変ります。
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八月二十六日
病気に就いて注意したい事があるのです。私が今迄色々言つた事をその儘用いれば良いが、之はどうも人間の一つの癖ですが、人に依つて色々――誇張したり縮めたりするのです。大抵誇張するのです。それで飛んだ間違があるのです。特に日本人はそうらしいのですが、物事を有りの儘考えたりしない一つの癖があります。というのは、私は色んな報告を聞きますが、その報告が人に依つてみんな違うのです。非常に掛値を言う人と、割引をする人と両方ある。之は一つの例ですが、私の山をやつている者が二人あるのです。すると一人は非常に内輪に悲観的に言うのです。一人の方は、拡げて楽観的に言う癖がある。それで私は両方の丁度間をとつているのです。斯ういう癖は非常にあるのです。人に依つては馬鹿に大袈裟に言つたり、加減したりする。以前或人で、今は信者の幹部になつている人ですが、何かの報告の時に、あの人があゝ言うのだから大抵三割位割引をして思えば丁度良いと、よく言つたものです。そういう様な工合で、病気に就いてもよくあるのです。
最近聞いた話ですが、私が「大いに無理をしなければならない、無理をした方が健康になる」という事を言つているのですが、之は健康の場合には――丁度スポーツマンがレコードを作る様な工合で、無理をした丈宛は健康になるのですから結構ですが、病人は違うのです。肺病なんかの場合に「安静にしてはいけない、大いに運動しなければいけない」と言うそうです。病人の場合はとても大儀で苦しいのです。そういう工合で反つて浄化が強過ぎて衰弱しますから悪いのです。要するに根本は自然が良いのです。大儀で起きて居るのがつらい、寝たいと思う時は寝たら良いし、それからもう非常に工合が良くて寝て居てはつらい、起きて歩きたいという様なのは起きて歩けば良い。要するに自然です。自然というのは、自然農法ばかりではないのです。病気に関しても自然です。だから食べたい物は食べたい丈食べれば良い。処がよく今迄の習慣で、食べたい物を、よく毒だからいけないとか、食べたくないのにそれは病気に薬になるから食べろというのは間違です。食べたいのは身体が要求しているのですから――咽喉が乾いて水を呑む様なものですから、そこで要求している通りにやれば良いのです。そこで今の、寝るとか起きるとかも身体の命ずる儘にやれば一番良いのです。それを、どうも人間は自然がいけない様に色々教育されてますから、反つて自然に逆らつて苦しんだり、我慢したりする事が良いと――医学なんかは非常にそういうやり方になつてますが、今言つた通り何処迄も自然に、心のおもむく儘にやる事を心得て置くと良い。又滑稽なのは、昔私はリンゴを食べなかつたが「明主様はリンゴは召上りませんが、リンゴは身体に悪いのですか」と言うから「そうではない、私はつゆ気の果物が好きで、リンゴはつゆ気が無いから食べない」と話した事がある。それを何う間違えたか「明主様はリンゴを召上らないのは、リンゴは悪いのだ」という様な宣伝が出来たのです。ですからメシヤ教信者はリンゴを食べないという事になった。実に滑稽なのです。リンゴでも柿でも何んでも、みんな神様が人間の食べる物に作つてあるのですから、リンゴが美味いという好きな人は大いに食べて良い。処がもつと滑稽なのは、最近聞いた話で「リンゴは医学の方では薬になる」と言つてますが「医学では薬になると言う処をみると、つまり薬になるのだ。するとリンゴを食べると薬毒が残る」と、斯う言うのです。だからリンゴを食べてはいけないと言つて、貰つたりしても、リンゴを腐らせるのです。之は相当古い信者なのですが、そこ迄いくと、実に何んと言つて良いか分らないです。そういう様な工合で何時も言う通り常識です。凡て美味いという味は人間に必要だから神様は作られたのです。だから不味い物を我慢して食べてはいけない代りに、美味い物は大いに食べて良い。それから、よく偏食がいけないという事を言いますが、偏食がいけないという事はないのです。あれは偏食が其人に大いに必要だからするので、それで良いのです。で、その必要が無くなれば普通になるのです。よく子供なんかで、線香を食べたり壁土を食べたりするのがありますが、之は其人に虫の霊が憑いているとか、或いは虫に生まれた事があるとか、そういう様な為なのです。だから段々浄化して行くにつれて、そういう霊はやはり人間に溶け込んで了います。つまり人間と同じ清さの霊になりますから、そういう事はなくなる。だから若しそういう事を矯正するとすれば、その本人を刺戟しない様に柔かにやる位で良いのです。で、人に依つて色々あります。そういつたものでなく普通の食物でも、魚が嫌いだとか臭い葱とかそういつた物が嫌いだとか、色々な癖の人がありますが、みんなそういつた霊的関係と、必要に依つてそういう癖があるのだから、そういうのはやつぱり信仰を長くして居れば段々普通になるわけです。
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一昨日京都の薬師寺の管長で橋本さんと言う人に就いて、一寸面白い事があります。此人は絶対菜食なのです。それで私の処で昼御飯をあげましたが、カツオブシも入れてはいけない。それで居て相当肥つて居るのです。実に顔色が良いのです。あれなら言う処はないです。普通の人であの位顔色の良い肉附きの良い人は無いです。丸で昔の絵に画いた大僧正という様な、実に顔を見た丈でも明るい、何となく親しみを感じる良い顔なのです。で、そういつた菜食一方で如何に――菜食の為もありますが、生まれてから未だ薬を飲んだ事がないそうです。だから病気をした事がない。で、頭も非常に良いです、随分仏教に関した事――美術品なんかに中々明るいのです。私も大変参考になりました。ですから菜食は如何に良いかという事が分つたのです。その話の際に私が十八の時に肺結核で絶対菜食を三カ月やつた。だから今でも菜食をすれば身体の工合が良い。何うして今はそういう良い菜食をなさらないかと、側で聞いた人がありますが、私は言つたのです。菜食をすると非常に身体の工合が良い事と、冬でも非常に温い。その時分はユタンポを入れなければ寝られないのが、菜食をするとそういうものは要らないのです。よく肉食をしなければ身体が温まらないと言うのですが、それは一時的なものです。それから酒を飲むと身体が温まると言いますが、菜食をすると身体の芯から温まるのです。だから良いのです。然し菜食をして居れば気持が違うのです。あんまり不平不満が無くなる。怒らなくなります。諦めが良く、それから無抵抗になつて、凡てに満足するという気持に変ります。それは実に著しいです。それですからして非常に苦しみがなくなるのです。つらい事がなくなる。我慢がし良いのです。ですから根気がなくなる。だからあゝいつた坊さんなんかには極く良いです。処が私などは未だ之から大いに闘わなければならない。闘うと言つても悪魔との闘いです。だからして大いに勇気や胆力も必要だし、それから色々之から医学を革命するという一つの闘いになりますから、大人しかつたらそれをやり遂げられないから、やはり肉――動物性の食物も必要です。私は九十迄は大いに仕事をする積りですから、九十過ぎたら大いに菜食をすると言つたのです。そういう様な工合で、そういつた様に大いに闘つたりしない人は、成可く菜食を多くした方が身体には良いし、無論長生きもするわけです。序(ツイデ)ですから、私は薬師寺は禅宗だと思つたのですが、そうではないのです。薬師寺は法相宗と言うのです。橋本さんと言う人はその管長です。之は日本に於る一番古い仏教です。ですから他の――真言宗とか真宗とか禅宗とか言うのは其後に出来たものです。それで法相宗は奈良時代に出来たものですが、その時代に一番流行つたのは法華経なのだそうです。法華経というのは、前からお釈迦さんが説いたからあるには違いないが、大いに弘通したのは日蓮上人かと思つたら、そうではない。奈良時代に大いに法華経を弘めたのです。だから日蓮宗は最後なのです。そうしてみると、其時分のお経というのは大抵法華経です。美術館にもありますが、法華経が多いです。私が持つているお経が少しありますが、結局法華経です。で、やはりお釈迦さんが説いた内で法華経を、最後に説いた一番重要なお経という事になつてますが、日本でも古い時代からそういう事になつているのです。
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それから九分九厘と一厘という事を始終言つてますが、九分九厘と一厘に就いて出来る丈解り易く書いたのです。
御論文「⇒ (ス)の文化」【註 栄光一七三号】
丁度医学に世界中塗りつぶされた様なものですが、そこに私が段々九分九厘の医学をやつつけて行くのです。で、九分九厘と一厘という事で一番の問題は医学なのです。之さえ本当になれば、無論貧乏も無くなりますから、戦争なんかも無くなるのです。医学と言つても、問題は薬なのです。人間の身体から薬を抜けば全然病気をしなくなるから、貧乏もなくなるし、争いを嫌いになるから戦争も無くなる、という事ですから、九分九厘と一厘という事の一番重要な根本は医学の革命なのです。之でミロクの世が出来るのです。では何故にそういつた医学にしろ薬にしろ、そういつた間違つたものがあるかという事と、それに対して神様との関係は何うだ、という疑問が起りますが、それを今「文明の創造」の中に書いてあるのを読ませますが、それですつかり分るわけです。面白いのは、今迄の宗教は残らず悪を非常に非難したり、排撃している。そうして善一方で説いているのです。之は宗教に限らず、道徳でも何んでもそうなつてます。処が今度私が説くのは、悪も肯定し悪は必要だつたという事と、薬は神様が人間を瞞まして飲ませたのだという事を書いてあるのです。之が大乗の説き方なのです。それは何ういうわけかと言いますと、今迄は主の神様の教えは説かなかつたのです。主の神様が善と悪と両方拵えて闘わせて文化というものが今日のように発達したのです。今迄の宗教の開祖なんかは全部善の棒の神様なのです。それから色んな悪の方の、悪魔はこつちの棒なのです。之が始終闘つていた。闘つているので文化が発達して来た。之が闘わないで善ばかりだと、人類は原始時代と同じで少しも発達が無かつた。其為に主神は両方作つて闘わしたのです。それで今迄の宗教は善の神様だから、こつち(悪の棒)を悪く――徹頭徹尾非難したのです。処が主の神様の教え――私の教えは両方説くのです。処が之(悪)も必要だつた。大変な良い働きをしたのです。然し何時迄も斯うしていると、ミロクの世――理想世界は出来ないのです。今度は――悪の方は全然無くなるのではないが、斯う(善の棒が悪より一寸上に)なるのです。斯う(善の方がずつと上に)なるのはずつと先です。今迄は斯う(悪の棒が上に)なつていたのが、善の一寸下になる。之で良いのです。之で立派にミロクの世になるのです。善が勝てば良いのです。之(悪)が斯う(善)追抜くから、人間に苦しみや不幸やいろんな禍が出来るのです。斯う(善が上に)なると、之(善)で止めて了います。本守護神と副守護神があると、本守護神が勝てば良いのです。副守護神の方は間違つた事や悪い事ばかりさせ様として色んな策略をするのです。そこで本守護神が負けるからそうなるので、本守護神が勝てば良い。或程度迄行くとキユツと押えつけるのです。だから善の方が悪より幾らか勝てば良いのです。世の中も、今言つた様に善の方が勝つとなれば良いのです。そうすると争いは無くなるのです。善の方は争いを抑えますから――。今迄は悪の方が争いをやつていたのです。又、悪の方は大いに貧乏にしようと思つてます。然し、悪の方が負ける期限が来たのです。悪の方の任期は終つたのです。今迄は悪とか医学とか言うのは必要だつたのです。然しもう必要が無くなつたのです。それを根本に説いてあるのです。その内の薬と悪ですが、それに就いての一節ですが今読ませます。
御論文「文明の創造 ⇒九分九厘と一厘」
之は一寸面白いと思いますから読ませます。
御論文「⇒悪の追放」【註 栄光一七三号】
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八月二十七日
病気に対して注意したい事があるのです。それは、私の言う事を非常に大袈裟に考えたりするきらいがよくあるのです。よく聞く話ですが、例えてみれば私が「人間は無理をした方が健康を増す」という事を言うのですが、之は健康な場合はそうなのです。つまり無理をした丈――丁度スポーツマンがレコードを作る様なもので、あれは無理をするので段々レコードが増していくのです。そこでそれが身について、古橋みたいになるのですが、今度古橋が振わなかつたのは原因があるのです。やつぱり薬毒なのです。注射をよくやつたのです。その為に弱つて了つたのです。大体、外国に行く場合には、規則的な注射をやりますから、そういう事と、それからレコードを作る為に非常に、強力剤という様な注射をやるのです。それで段々弱つて了つた。普通ならあんな馬鹿な話はないです。医学迷信の為にそういう事になるわけです。だから健康の場合には大いに無理をした方が良いのです。処がそれを病人に対してそういう事を言う人があるのです。で、結核なんかとても大儀で、身体がだるくて仕様がないのに「寝ていてはいけない」と無理に動かそうとするが之が大変な間違です。そういう事は、やはり自然が良いのです。自然農法ばかりでなく自然療法です。そういう風にしなければいけない。だから身体が大儀で寝たいという時には、つまり寝ろと身体から命じられる様なものです。非常に水分が飲みたいという場合なんか、よく医者は止(ト)めます。あなたは水気を飲んではいけない、と――おまけに赤ん坊なんか下痢やそういつた場合に非常に止(ト)めますが、それで反つて赤ん坊が弱つて死んで了うという場合があります。そういう様で自然に反する事がいけないのです。身体が、起きたくて歩きたい動きたいというのを、絶対安静とか言つて医学の方でやる様な、押え附けて寝かせて置くというのは非常に悪いのです。起きたくない時には寝ているし、それからもう寝て居られない、起きたくて歩きたいという時はそうする。自然にすれば良いのです。それをどうも極端に考えたがるのですが、之は信者さんばかりでなく、大体世間の人というのはそういう人が多いのです。之は特に日本人はそういう傾向があるのではないかと思うのです。物事を有りの儘見て有りの儘感じて有りの儘話をするという人は寔に少いものです。それから私の鉱山をやつている係の者が二人ありますが、その報告を聞くと一方は凡て悲観的に言うのです。一方は楽観的に言うのです。それで私はその間をとつてやつてますが、あゝいう事が可笑しいのですが、そういつた癖が皆あります。物事そのものを実際通り言う人は、それは偉いです。それは意識的にやる人もあるし無意識的にやる人もあるのですが、一つのそういう癖でしよう。知らず識らず言つて了うのです。それから良い事を言うと人が喜びますから悪い事を言わないで良い事を言う人があるが、あれもいけないです。それから喜ばせるのが嫌いな人がある。人に心配させるというのもある。
「明主様御伺い申し上げます。病人が衰弱して居ります時に、食物は栄養の物を摂らして戴きます事は――」
栄養とは何んですか。
「牛乳とか卵とか与える事は宜敷いのでしようか」
栄養とは野菜です。卵とか牛乳は極く薄いのです。
「素人考えで、楽に摂れるのではないかと考えまして――」
それも自然なのです。というのは長く寝ていて非常に胃腸が弱つてますが、そういう人は固形物だと一寸合いませんから、やつぱり胃腸なんか弱つているから、流動物とかお粥とかやります。それから下痢の場合にはそれに合う様にして良いのですが、それは下痢にも依るのです。私なんか此間非常な下痢をしましたが、普通の物と同じです。というのは下痢の正体が分つたからです。此処(後頭部)の毒が溶けて下痢になつているのだから、食物は関係ない。只斯ういう場合に気を附ける。潰瘍です。始終胃の薬を飲んで――胃の薬というのは消化薬で、消化薬は重曹が元ですから、重曹というのは柔くする癖がある。そうすると胃壁や腸を段々柔くして了うから、胃の粘膜が一寸触つても切れる様なそういつた習慣になつてますから、固形物が其処につっかゝると、傷をして出血したり痛んだりします。それから十二指腸潰瘍もそうです。そういう場合丈です。そういう場合は分ります。出血があります。喀血するとか――胃潰瘍の喀血ですが、それから便が出るとかするから其時は潰瘍が出来ているのですから、其時はそれに障らない物を食べる。それから腸チフスは、やつぱり腸の粘膜が柔くなるのですから、そこでそれに虫が湧くのです。そうして穴があくのです。そうすると、固形物ですと其穴に入るのです。そうすると熱が出るのです。そこで、医学でもそうですが、流動物をやるのです。然し浄霊すると直き治ります。腸チフスは、病院に入院している人はそうはいかないが、何でもなく治るものです。病院に入院している人は、腸に穴があいているのが容易に治つてませんから流動物です。だから症状に依つてそれに合わせる食物を摂ると良い。
「胃腸の衰弱の場合にも流動物で――」
今言つた様に急に固い物をやると無理だから、それは加減してやるというわけです。それから別に症状がないのは、消化の良い物ばかり食べているから弱つているものもありますから、そういうのはお茶漬が反つて良いのです。だからその見別けは別に難かしい事はない。良く聞いて之は之だなという事で分ります。それから食べたいというのは身体が要求しているのだから、それで良いのです。よく食べたくないのに無理しておあがりと言うのは、あれはいけない。一週間やそこら断食しても何でもない。日本での断食のレコードは三十何日間かです。何処かの国で断食のレコードを破つたのは七十何日間です。之は世界一です。普通の人ではそうはいかないが、それでも先ず三週間は大丈夫です。だから成田の不動さんの断食のお籠り堂は三週間迄は良いと許可を得てます。それまで食べなくても大丈夫です。食欲の無い人――病人は衰弱しているから無理でしようが、食べたくない人は三週間やそこら食べなくても大丈夫です。それからもう一つ斯ういう事がある。私は以前リンゴを食べなかつたから、信者の或人が――其時分は大先生と言つたが――「大先生は何うしてリンゴはおあがりになりませんか」と言うから、私は「リンゴはつゆ気がないからあんまり好かないから食べない。だから食べたい人は食べても良いが、私は食べない」と、よくリンゴを持つて来ますから一寸言つて置いた。それから斯ういう事を言つた。「よく医学の方ではリンゴは薬になると言うが、別に何の果物が薬になるという事はないので、神様は必要があつて拵えたのだから、それの好きな人は食べて良いので、リンゴが薬になるという事はないから」と言つた事があるのです。そうすると何う間違えたものか「明主様はリンゴはいけないと言つた」という事になつて、それは可成り広まつたものです。私は其都度取消しましたが、可成り伝播力が強かつたとみえて取消の方が効果がないのです。その挙句最近面白い事を聞いたのです。之は地方でですが、リンゴは医学では薬になるというのだから、リンゴを食べるとやつぱり薬毒が害をするから、其処の家ではリンゴを貰つても食べないで腐らせるというのです。何んだというと薬毒が怖いというのです。そういう滑稽な事があるのです。だから私が言つた事や書いてある事を其の儘受取ると良いのですが、それにおまけをつけて段々誇張して、口から口へ伝わる為に段々育つていつて飛んでもない事になつて了うのです。だからそういう馬鹿々々しい様な事で案外間違つた事がありますから、凡て何でも何時も言う常識です。神様は人間に美味しい味のある物は、之は食べろ、味というものが栄養になるのだから、味のない苦い物とか不味い物は食べてはいけない。そういう為にあるのだから、それを我慢して食べるのは間違つている。という事は本にも書いてありますから、それをその儘とる様にすれば間違ないのです。だからつまり自然という事を忘れない事と、常識で判断する事を守つて居れば、先ず間違ないという事です。それ丈の注意です。
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それから栄養に就いて面白い事がある。一昨々日奈良の薬師寺の管長が来たのです。私はあゝいう寺は禅宗だと思つていたらそうではない。法相宗と言うのです。禅宗は大体京都の大徳寺の大燈国師です。大燈国師は開山ですが、あそこを作つたのはその一寸前の何んとか言う――名前を忘れましたが、その人が開祖で大燈国師は開山です。そう古いものではない。そうして奈良で聖徳太子が作つた仏教は法相宗というのです。その管長さんで、中々立派な人です。其人は絶対菜食で、私の処でお昼の御飯をあげましたが、カツオブシもいけないというので、カツオブシも入れないで致しましたが、その位厳格なのです。処がその顔色というのが実に良いです。あの位の顔色は滅多にないです。肥つてますが、肉の附き方は実に良いです。あれは理想的な健康法です。日本人の模範的な人でしよう。顔を見た丈でも実に気持が良いです。そうして話でも実に頭が良いです。ちやんと話が合つているのです。それに美術館を観て、実に又良く知つているのです。多く仏教的な事です。あとはお茶の事、それから支那の事。支那には長く居たので、何んでも支那の「ボタイサン」で修業したというのです。日本では其人ともう一人、二人で「ボタイサン」で修業したそうで、中々方々で修業された様です。随分知つている人で、あの位の坊さんは私は見た事がないです。実に立派な坊さんで、あれなら全く頭が下る様です。其人は病気をした事がないそうです。又薬を飲んだ事がないそうです。尤も薬を飲まないから病気もしないし病気をしないから薬も飲んだ事がないのですが、だから栄養は野菜にある事と薬を飲まなければ病気をしないという事を実によく表わしているのです。ですから栄養というのは野菜なのです。私は、之は本にも書きましたが、十八の時に結核で菜食療法を三カ月やりました。カツオブシも止(ヤ)めました。今何故やらないかというと菜食をしていると非常に無欲恬澹(テンタン)になるのです。欲望というのは非常に薄くなるのです。凡てに満足して競争とかは、之以上何うするという事は非常に薄くなる。処が私は今そういう気になつては困るのです。何しろ悪魔と闘わなければならない。悪魔と始終闘つてますから、今の様な事では到底太刀打ち出来ないから肉も食べるし魚も食べるのです。それで九十迄はそうする積りです。九十過ぎてからは菜食にします。幾つ迄生きるか分らないが大いに菜食をする、という話をしたのです。そういう様で、何故に菜食が良いかという事ですが、一番良い事は菜食をすると非常に温いのです。其時分はユタンポを入れなければ寝られなかつたが、菜食をすると入れなくてもポカポカするのです。よく寒いという人は肉を食べますが、あれは一時的なものです。やつぱり薬毒と同じです。だから年を取つた人で、そう欲張る必要のない人は出来る丈菜食にすると温いです。話は横に外れますが、第一よく昔の絵を見たりすると――源氏物語なんかにもよくありますが、其時分には障子というのが無かつたでしよう。それから蒲団が無かつた。板丈だつた。偉い人丈は、お雛さんみたいに厚い畳の様なのに坐つて、あと家来は板の間に坐つて居た。少し進んでから茣蓙を敷く様になつた。それで障子は無くて、御簾を垂らしていた。吹曝しです。今の人なら一時間と居られないです。気候は今と同じですから――。それで偉い人は十二単なんてのを着るが、あれは寒い為でしよう。そういう様に我慢出来るというのは、みんな菜食をするからです。今の人は肉を食べるから寒がりなのです。外人は特に寒がりですから、部屋を締切つてストーブを焚くという保温装置が出来たのです。日本人は障子なんかでやつているのは割合野菜を食べるからです。そういう点も色々知つて置かなければいけないです。病人なんかでも非常に寒がるのは野菜を多く食べさせるのです。
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それから九分九厘と一厘という事は、つまり私のやつている仕事というのは一厘の仕事なのです。九分九厘に対する一厘です。メシヤ教というのはそういう意味で出現したものです。之もよく話しましたが、極く分り易く書いてみたのです。
御論文「⇒ (ス)の文化」【註 栄光一七三号】
之は「文明の創造」の中にある一節ですが、それを読ませます。
御論文「文明の創造 ⇒九分九厘と一厘」
つまり「文明の創造」の一番肝腎な事は悪を肯定する事です。今迄の宗教は悪を全然排撃したのです。悪はいかんと排撃しても何んでも、悪の勢は善を押しつぶす力強さがあつたのですが、それで人間は悪に苦しめられた。不幸だとか災難――凡ゆるものはみんな悪の被害です。ですから悪の被害者が大多数です。それが不幸になり、地獄世界というものです。それは悪が作つたものです。それなら神は愛だとか、そんな事を言つて人間が苦しむのを許してあるのは――何故作つたかという事になりますが、つまり悪はいかんと善を奨め悪を懲らすというのが、全部の宗教の根本だつたのです。私は悪は必要だつた、悪に依つて之迄の素晴しい文化が出来たという事を書くのですが、何ういう訳だというと、今迄主神は善と悪を両面作つて闘わせたのです。それで今迄の宗教の開祖というのは善の方の神様なのです。それから共産主義とか色んな、戦争を起すあゝいつた悪虐な思想――凡て悪に属する方は、邪神と言つてやはり神様です。之が闘つていた。それが今迄悪の方が上になつていた。善の方が下だつた。之が九分九厘です。こつちの方は一厘丈残つた。之が今度はずつと上になつて来て悪よりか一寸上になる。之で勝つのです。聖書に“勝利の都に降臨する”というのがありますが、勝つという事はそういふ事です。今迄は悪が勝つていたのが、今度は負けて、善の方が勝つのです。ミロクの世というのはそういう事です。然し全然無くなる事はないので、只悪の方が善に負ければ良いのです。善の方が勝てば幸福な世界が出来る。そこで私が書いているのは主神の経綸ですから、善と悪と両方書くのです。之も必要だつたのだ、之もオレが拵えたのだと仰言るわけです。之も必要があつたので或時期迄は勝たせていたが、もう必要がないので善の方が勝易くなるというのが最後の時期で、之からです。その意味が分れば、今迄の悪――悪の内の一つの仕事が医学ですから、医学というのは邪神が作つたのです。つまり人間を弱らせる為です。此間も読んだでしようが、人間は何んな者でも百二十才以上は生きることになつてますが、それを半分に――今日は六十才ですから半分に縮めていた。こゝいらで宜敷い、人間の寿命を縮める間に之丈の文化を作つたので、もう良いからと元の百二十才に戻すという神様の御意志です。それは薬を全然飲まないで、今言つた通り菜食と動物性の物を同じ位に食べて居れば良いのです。アメリカで一番困つているのは胃癌ですが、一番数が多くて治らないのです。之は肉食の為です。アメリカは肉を食べ過ぎた為です。日本は胃癌というのは無かつたのです。近年はありますが、昔は無かつたのです。之は肉食の為です。之は私はアメリカにも教える為に方法を考えてます。そういう様に天理に合つたやり方をして居れば、年中健康で百二十才迄生きるのは当り前です。別に難かしい事はない。それを薬を飲んで弱らせる様に神様にさせられたのです。そこで、大乗の考えというのは普通人間には分らないというのはそこです。そういう点を今度「文明の創造」に色々書きます。で、世界中の人間に分らせるのです。というのは、今書いてますが、最後の審判――世の終りというのは、之は又大変なのです。それは世界的大浄化作用です。今それを書いてますが、今度あたり読ませます。之は第三次戦争は起るか起らないかという事ですが、之は一番知りたい事ですから、此の次迄のお楽しみにして――。
(教十三号 昭和二十七年九月二十五日)