之は今始まった事ではないが、有神論者が第三者に対って神の実在を説く場合、何程種々の例を挙げて説明しても、容易に納得出来ないのは、誰も経験する処であろうが、之は独り本教に限らず、他の如何なる宗教でもそうであるのは殆んど例外はあるまい。処で自画自讃ではないが、我メシヤ教に限って本当に神を見せる事が出来るのであるから、先づ世界に類例はないであろう。之は本教御蔭話を見てもよく分るし、又信者達の経験によっても明かである。そうして最初浄霊を受けに来る患者の、十人が十人と言いたい程大いに疑いを抱いているが、之も無理はない。何しろ医療を始め世の中にありと凡ゆる療法を受けても治らず、散々懲りた揚句とて、本当に治る療法など此世の中に最早ないと決めて了っているからである。という訳で悶々として悲観のドン底に陥っているが、といって現実の苦しみには堪えられないので、何かに縋りたい、死ぬのは嫌だと思う気持が一杯である。其際本教の話を聞き熱心に勧められるので、今一度瞞されてみよう位の甚だ頼りない藁をも掴む心境で浄霊を受けに来るのである。
そこで来てみると只手を翳すだけで、何の変哲もないので、之程の大病が斯んな事で治る道理はない、ア丶馬鹿々々しい、来なければよかったと、後悔する人も少なくないのである。よくそういう人が治ってからアノ時ア丶思ったのは洵に申訳なかったと、お詫びをする事もよくあるが、何しろ今日迄見た事も聞いた事もない行り方で、素晴しい効果を挙げるので、只驚くばかりである。而も多くの宗教が病気を治す場合、必ずと言いたい程最初から疑っては駄目だ、信じなくては御利益はないというのがお定りで、之が一般常識となっている以上、偶々本教の話を聞くと、最初から大いに疑え、本当に御利益を見ない内は決して信じてはならないというのを聞くと余りの異いさに面喰って了うが、中にはそれは面白い、之こそ本当の宗教だ、余程の自信がなくてはそんな大胆な事を言える筈がないとして、反って信用する人もあるのである。
処で浄霊を受けるや二度吃驚、今迄どんな治療でも之程の効果はなかったのに、今度は迚も工合がいゝ、ア丶之で助かった。此世に神様は確かにある。今迄無いと思っていたのは飛んでもない間違いだった、有難い、自分は本当に救われたといって、それこそ手の舞足の踏み処を知らずという有様で、歓喜に浸るのである。之によってみても御利益のない内から信じろというのは、己れの心を偽れというのと同じで、如何に間違っているかが分るであろう。之は自力本意であって、本当の神様の力というのは他力本意であるから、楽々と御利益を頂けるのである。尚注意すべきは仮令御利益があっても、大きい小さいがあるから其見分けが肝腎である。然し世間小さな御利益でも、直に有頂天になる人があるが、之は大いに注意すべきである。というのは医師に見離された大病が治って、神様から生命を頂いた事がハッキリ分ってこそ、全身全霊を打込んでも間違いない信仰である。又神にも上中下の階級があって、小さい神だと小さい御利益で、大きい神程大きい御利益を頂けるので、之が相応の理であるから、此点も充分心得ておくべきである。
以上によって、神を見せる宗教としての我メシヤ教は分ったであろう。
(栄光百七十六号 昭和二十七年十月一日)