昭和二十八年十二月御教え
十二月五日
この間ちょっと話しましたが、ニホン・タイムスという外字新聞の記者が箱根美術館を見た感想を飜訳した記事を読ませます。日本人とは見方が違うところが面白いです。この中に出ているルーヴルというのはフランスの有名な美術館で、ヴァチカンというのはイタリヤにあるものですが、この美術館は有名なものです。
(昭和二十八年十一月三十日付ニホン・タイムス紙掲載の記事)【註 栄光二三九号】
この間この人と会った後で、この時の通訳をした信者で浮世絵を扱っている人が、こういう事を言っていたと話してました。その外人は美術評論家というような地位なのですが、ヨーロッパから総ての美術館を見たけれども、この箱根の美術館というものは、中は人工的の美=室内の美術が並んでいるし、外は石とか木とか苔とかいう天然の美を人工で造った美で、更に遠くを見ると山や海やいろいろな天然の美があり、つまり三段になっている。こういう所は世界にないという事と、熱海にもいずれ美術館やいろいろ出来るとすれば、日本を東と西に分けて、西は京都・奈良に総ての美術=文化的の重要な物があって、それを外人が来て見る。それから東は、結局箱根・熱海がいよいよ完成した暁はそれを見なければならない、というような事になるだろうと言っていたそうです。そいう見方は、外人は非常に慧眼(ケイガン)です。というのは一度で急所を見てしまうのです。ところが日本の新聞記者などもいろいろ来ましたが、そこまで見る人はないらしいのです。若しそこまで見たとすれば記事に書かなければならないが、記事に書いた人はないです。というのは日本人は視野が狭いのです。大局的に見ないのです。というのは、大きな見地から見れば素晴しいものだという事が分るのですが、ただ、おかしい事を考えて“宗教でこんな物をこしらえるのなら大いに儲かるのだろう”とか、“岡田という奴はなかなか金儲けがうまいのだろう”と変なところに考えを持って行くきらいがあるのです。日本人はどうもそういう欠点が非常にあります。これはわれわれの方の事ばかりでなく、政治家にしても、いろんな政策は、国民の利害という事を見ないで、自分の政党のみで、これは自由党が元に戻った方がよいとか、自由党が元に戻らない方がよいとか、改進党が政策は是々主義でゆくとか、社会党が右とか左とか、小さな自己の政党の利害だけを考えて、実に小さいのです。それでアメリカとソ連は根本的にどういう考えだというような事にあまり干渉を持たないのです。特にいろんな色があるのです。それで自分の色で、白紙にならないのです。白いのは太陽ですが、彼等はいろんな色ですから、自分の色と違うものはみんないけないと非難するのです。ですから反対党の言う事はどんな良い事でも、どんなに合っている事でも、全部いけないのです。それで自党の言う事は何んでも良いという、心の狭さです。それが今のこっちの美術館を批評する外人の見方は、アメリカあたりの政治家の見方・批判と同様、実に世界的で、公平に見てます。それで私が何時も一番感心するアメリカの見方は、他の国は全部中共を承認しようとしてます。英国などが特にそうですが、英国は情ない国になってしまったと思います。自国の利害のみを考えているのです。ところがアメリカは承認しないという事は、中共は暴力をもって今の地位を確保したのですから、弱肉強食で、強い者勝という事になる。それを許したら世界の平和は維持できない。それを維持するとしたら、暴力や非合理的なやり方は許さないという正義感です。それをアメリカはガンとして守っているというところにアメリカの偉大なところがあるのです。ところが日本人の中に第二の中共たらんとする社会党左派があるのですが、これに至っては論外です。それを国民の中に支持するのがあるのですが、日本で一番足りないのは正義感です。これは米の不足よりもっと足りないのです。アメリカが兎に角国が栄えてうまくゆくのは、これは正義をもって進んでゆくところに神様の御守護があるのです。私も昔から正義を維持するために随分戦って来たわけです。その代り不利な事もあります。裁判とかいろんな事も、正義を守らんがために強くやられる事も始終ありましたが、しかしやはり神様というのは正義で、正義を無くしたら神様というものとは縁が離れてしまうわけです。ですから自分の考え方、自分の行というものは正義に合うかどうかという事です。しかして正義についてもいろんな考え方があるのです。例えてみれば日本の太平洋戦争にしても、敵を殺して土地を占領するという事が正義だと思ったが、これが大変に間違った正義で、時代に都合のよい正義で、そんな正義はないのです。その間違った点は見方が小さいためです。だからどうしても本当の正義というものは世界人類全体が幸福になるというのが間違いない正義ですから、そこにさえ目をつけていればよいわけです。この結果はどうなるか、こうした結果は日本人だけが都合がよいとか、自分の一族だけの利益でなくて、国全体、世界全体の幸福の増進に合っていれば、これは本当の正義です。そこで救世教というのは世界全体を地上天国にし、世界全体の幸福を目標にしているから、これが本当の正義というわけです。
………………………………………………………………
それから私の光について、今度九つになる子供が実によく見たのです。それでかえって子供だけに無心ですから、神様は子供を使ったわけです。これは大変参考になりますし、早く知った方がよいと思いますから読ませます。
〔⇒私の光について〕御蔭話(御光の霊視能力を戴いて)【註 栄光二三七号】
………………………………………………………………
それから私の文章――書くものについて書いてみました。
御論文〔⇒私の文章とその他〕【註 栄光二三八号】
今読んだような工合で、どっちかというと、私は遊びながら仕事をしているようなものです。苦しみながらしている気はしないのです。道楽みたいなものです。観音様の中に「遊行観音」というのがありますが、丁度そういうようなものです。それで、そういうようにやっているとうまく行くのです。それでいろいろ苦しんだり、気がいかない事をやっているとうまくゆかないのです。この点が今までの世の中の人と反対です。これは信者の人でも同じわけです。だから嫌々(イヤイヤ)やったり、苦しんでやったりした時にはロクな事はないです。病人の所に頼まれて行く場合にも、楽しみながら行く時はきっと治りが良いし、治るから行くわけで、又そうだから良いわけです。だから楽に行けばゆくほど発展するのです。ここが今までの世の中と違うわけです。ところがどうも人間という奴はいろんな癖がついて、どうも苦しむのを平気で、それを当り前のように思っているのです。私も始終そういう事がありますが、どうも思うようにゆかない、うまくゆかないという時には、“オレは苦しんでやっていた”という事に気がつくのです。それでそれを放り出して、他の事をやるという事があります。それから又時節というものが大変なもので、例えうまくゆく事でも、良い計画でも、時節が早いとやっぱり思うようにゆかないのです。それはやる事が悪いのでなくて、時節が来ないのです。そこを見通すだけの智慧証覚(チエシヨウカク)がなくてはならないのです。それから又順序ですが、これが又実に大変なものです。うまくゆかなければならない、こうならなければならないのが何処かつかえている、うまくゆかないのですが、そういう時によく考えてみると順序が違っている場合があります。それで順序を良くするとスラスラとゆくのです。ですからそういうような事を早く発見するという事が智慧証覚です。この智慧証覚というものが又大変な意味――というよりか、物事に影響するのです。それで智慧証覚があると気がつくのです。一番分りやすい話が、浄霊してどうもうまく治らない、おかしいなと思うと、見当が違うとか順序が違うとかいろいろあります。それで順序というものはやはり理窟に合う事です。合理的なものです。だからその病人なら病人が、未だいろいろ反対者があったり、その人の想念がおそろしく食い違ったりする時にはうまくゆかないのです。そのうまくゆかないというところに又一つの理由があるのです。それは、その病人が何も分らない内は疑いもし、反対もし、物は試しだぐらいにやるのですが、それはそれで神様から許されます。それは当り前です。ところが相当に話を聞いたり、御神書を読んだり、中には信仰に入ったりする人がありますが、入っていながら、それに合ってゆかない想念でやってもらうと、そのときは治りが悪いのです。うまくゆかないのです。そういう事に対してチャンと合理的の理窟があるのです。だからかえって疑ぐっていた人が馬鹿に治り、それから相当に信じている人で治りが悪いという事がありますが、それはそういう訳です。全然知らない人はいくら疑ぐっても、それは当り前の事で許されるのです。理窟に合っているのです。ところが相当事実を見せられながら、なお疑ぐっている人は思うようにゆかないのです。そういう事をよく考えてみるとチャンと理窟に合っているわけです。その合っている理窟を早く発見し早く知るという事が智慧証覚です。心の鏡に写るわけです。ですから鏡が曇ると写りが悪いから、始終鏡を磨いているとよく写るから、早く発見するという事になるのです。ここに信仰の、案外軽く見ている事で実は非常に重要な点があります。この事については、仏教で、お釈迦さんが言ってますが、「智慧」という事をよく言います。これはその事です。それでその智慧が或る程度まで働いたのが覚者と言うのです。それで大覚者というと一番偉いのです。それで、お釈迦さんが言ったのに“証覚を得れば菩薩にする――「証覚者」が「菩薩」であり、「大覚者」が「如来」である”という事を言っているのは、やはり覚りという事は智慧です。ですからいろいろと何か気がつき発見の早い人があるが、それは覚者なのだから、覚者というものは心の曇りが少ないわけです。そこでその曇りを少なく、心の鏡がきれいに澄んでいるというためには、御神書を沢山読むという事が一番よいわけです。ですから御神書を読んでも、前にはよく分らなかったのが、その次に読んだら、或いは暫くたってから読むと、“これだ”“こんな良い事がある”“こんなはっきりしているのにどうして自分は分らなかったか”という事があるが、前に読んだ時には曇っていたからです。だからだんだん曇りが除れてゆくにつれてだんだん分りが良くなるという事は、そういう訳です。
………………………………………………………………
十二月六日
この間のニホン・タイムスという外字新聞に箱根美術館の紹介のようなものを写真入りで書いてます。外人の見方は日本人とは変った点があるので読ませます。
(昭和二十八年十一月三十日付ニホン・タイムス紙掲載の記事)【註 栄光二三九号】
これには書いてないが、この人が言った事で、こういう事を言っていたそうです。今書いてあったフランスのルーヴル、イタリヤのヴァチカンなどと違う点は、箱根美術館は室内の人工美を見て、外は天然の木や石や、そういったものを人工的に扱ったものを作ってある。それから、その先の方に本当の自然美、天然の山とか海が見える。こういう三つ揃ったのは世界で此処だけだという事を言っていたそうです。それからもう一つは、日本を東西に分けて、西の方は京都と奈良で美術を味わい、東の方では箱根・熱海が今度出来る。そうすると東西の両文化財の集めてある所というようになるだろうという事を言っていたそうです。この人はアメリカの婦人で、美術評論家で、タイムスの記者をやっているのです。ですから美術に関してはなかなか眼識があるのです。そういう見方などが実によく私の狙い所とピタッとしているのです。ところが日本の新聞記者なども来たり新聞雑誌に出しましたが、その点を見破る人は一人もないのです。だからその点においては、未だ日本人は小学生みたいなものです。大体日本人は今まで、伝統的に視野が小さいのです。大局から見るという、そういう癖がないのです。その癖をつけなければいけないのです。アメリカ人などは総て大局から見るのです。世界的見地から見るというそのために、一度見て私の考えている事と合っているわけです。私は、分っているとおり、総て世界的に見ますから、それで、そういうふうに見るのです。物事の真相=本当のものはそこに現われるのです。ところが、どうも日本の新聞記者というのは“こういう立派な物を造ったというのは余程儲かるな”とか“新興宗教というのは余程金儲けがうまいな”とかいうように見るのではないかと思います。それで“何か特殊のうまい事で人を引付けて、こういう事でおどかしやがる”“兎に角岡田という奴は怪人物だ”とかいうように悪意を持って見るのです。公平に見ないのです。これは、新聞でも悪い事を書かなければならないように、ただ真面目に書くという事はいけないようになっているのです。つまり良い事を褒めればよいのですが、あんまり褒めたり感心したりして書くと“奴は金を貰いやがったな”となるのです。特に宗教的の事はそうで、新聞の宗教宣伝はいけないとなっているのです。これは、宗教宣伝がいけないとかいけるとか、褒めるとか褒めないとかいう事ではなくて、本当に良いものは良いとし、褒めるものは褒めるという公正な見地にならなければならないのです。しかし彼等は何かおかしなものが邪魔するのです。これは島国根性がいけないのです。これはこういう事ばかりでなく、政治でも何んでもそうですが、特に政治家は酷いです。何んでも、国民の利益とか社会が良いとか悪いという事には殆んど関心を持たないのです。“わが党は如何に頭数を増やすか”“わが党は如何に早く政権にありつけるか”“如何に法律に触れないように金を集められるか”という事ばかりを考えているかのように見えるのです。そうではないのでしょうが……。ですから、兎に角本当に国家国民のためになるという事を全然考えないのかと思うような事があるのです。酷いのになると、日本人の中に日本人かロシヤ人か分らないような人も沢山あります。日本の利益よりかソ連邦の利益の方を考えているような行動をしているようなのがありますが、これはどうもおかしいのです。日本人でありながら日本の軍備を無くした方が良いと言うのですが、そうするとソ連が日本を侵略する時には、それは楽です。それでソ連も軍備を無くするのなら結構ですが、ソ連は原子爆弾をドンドン作っていて、日本を無防備にしようとするのですから、そうなれば一溜(ヒトタマリ)もないです。それを威張って真面目で言っているのですから、“あなたの国籍は何処ですか”と聞きたいくらいです。それを新聞などで堂々と書いているのですから、不思議な国です。私は霊的の事を知っているからよいのですが、霊的の事を知らなかったら、実に不可解な国と言うよりないです。これは私は何時か書いた事があるが、日本人の中には、昔コーカサスから渡って来た民族があり、これが日本の土匪(ドヒ)――熊襲(クマソ)==川上鳥帥(カワカミタケル)とか八十鳥帥(ヤソタケル)というものですが、その内の一つがアイヌなのです。これがだんだんあっちに押込められて亡びつつありますが、その霊的の系統がみんな共産主義者になっているのです。祖先はロシヤから渡って来たのだから、本国の利益を図るという事は当り前です。それが分らないと、実に不思議と思うよりしようがないです。
………………………………………………………………
それから光についてなかなか参考になるお蔭話があったので読ませます。
〔⇒私の光について〕お蔭話(御光の霊視能力を戴いて)【註 栄光二三七号】
光がだんだん強くなるのですが、強くなるとどういう結果になるかというと、病気の治るのと参ってしまうのとが、片付き方が早くなるのです。だから将来こんなものではないです。もう二、三年もたつと大変です。そうなるとまず医学で固まらせる事が出来なくなるから、前にも言ったとおり、注射するとか強い薬をやると直ぐに参ってしまうという事になりますから、そうなってからが本当に分らせやすくなるのです。それまでにもだんだんには変って来ますが、そうなってから本当に世の中の人が分って来るという事になります。
………………………………………………………………
それから私の文章は非常に難かしいのです。なにしろ今まで習った事や世の中の事と反対の事が多いのですから……。その反対の事を理解させ信じさせるのですから、一番難かしいと思います。それについて書いてみました。
御論文〔⇒私の文章とその他〕【註 栄光二三八号】
………………………………………………………………
これは浄霊医術に対する、いずれは出て来る事を想像して書いてみたのです。
御論文〔⇒浄霊医術の実験〕【註 栄光二三九号】
今読んだとおり、いずれはこういう時期が来ますが、こういう事は当局でもよく分っているのです。なにしろ栄光新聞はもう三、四年ぐらい前から発行する度に五部宛送ってますから、厚生省の偉方(エラガタ)も読んでいるに違いないです。ですから腹の中では“これに違いない”と思っているのです。若し間違っていると思ったら、こっちに何か言って来るはずです。ところがこっちに言って来ないところを見ると、何も言う事はできないとすれば否定する事はできないというわけです。それで、これは自分達のメシのくい上げですから、それまでやろうという勇気はないのです。という事はそれだけの良心も正義感もないからです。無事に生きておれば良いという酔生夢死的(スイセイムシテキ)の人間が大部分なのです。しかし新しい発見とか学理というのは、その時代に非常に反対であり、その時代から離れているという事に決まっているのですが、又それだけ値打があるのです。だからなかなか大変な仕事ですが、しかしここに難かしい点があるので、つまり私が宗教家だからして、宗教を見る色眼鏡が邪魔してしまうのです。ですから難かしい点はあります。ところが又一方、団体が大きくなればなるほど、団体の力をもってやるという良い点もあるのです。しかも、例えば医学革命というこれほど大きな革命は今までなかったのです。これは全人類の事であって、一国や一思想というものではないのです。そこに非常に大きな点があるのです。さっき言うように、私の書くのが難かしいように、非常に難かしいし、又非常に面白いのです。ですからこんな途轍(トテツ)もない仕事を神様が私に命じられたという事は、自分ながら不思議な人間だ、一体オレという者はナンテ変った運命に生まれたものだと始終思いますが、そうかと言って、これが出来上れば大変なものですし、また出来上るに決まっているのです。それは、素晴しい絶対力を持っている神様がやっているのですから、さっきも書いたようなとおりに、私は何も苦心はしないし、いろいろ考えたり悩んだりする事なく、ただその日その日ぶつかって来た事や、思いついた事、浮かんだ事をやっていれば、ドンドンうまくゆくのですから、実におかしい話なのです。
………………………………………………………………
さっきも言うとおり、日本を東西に分けるとして、京都・奈良に匹敵するような物が出来るとしたら、あっちの方は千年以上の歴史を持っているのですが、こっちは出来上ったところで十年でしょうが、十年でそれと匹敵するような物が出来上ってしまうのですから、何んと言ってよいか、あまりに神様の素晴しい力に、ただ驚くばかりです。それについて日光という事をよく言いますが、日光は外人はあまり重きをおかないのです。前に外人の書いた批評にこういう事がありました。“日光は立派なものだが、オモチャのようなものだ”と言ってますが、それはそうでしょう。ただ金をかけて、徳川氏の勢力を見せるために作ったものであって、そこに本当に高い芸術性━高い智性というものはないのです。ただ徳川氏の威力を見せようという一つの根本的考え方が違うわけです。それで奈良・京都は信仰的につまり荘厳な有難い、そういったような観念を植えつけるというそれが目的で、又そういったような信仰的信念があるために、後人が一生懸命になったというためにああいった立派なものが出来たのです。それが根本的考え方です。それで私の方は――東洋美術も入ってますが――日本美術の素晴しい芸術的効果を多くの人に見せて楽しませて品性を向上させるという事と、今の文明というものは便利になり、科学的に色々そういった方面の生活や何かに非常に貢献(コンケン)するという事は結構だが、美によって文明に役立つという事が、今まで非常に閑却(カンキヤク)されていたわけです。それは今まで戦争とか、そういった事のために十分に発揮できなかったという点を、私の方では要するに欠点を補うという意味で立派なものを造るという事が根本ですから、京都・奈良の方とは違うのです。そこに又時代的に効果があるわけです。それが今言ったとおり、僅かの間に出来てしまうのだから、神様の力たるや実に驚くものです。来年は会館と展望台ですが、展望台のガラスの家は「水晶殿」という名前をつけたのです。これは英国の宮廷の中に「水晶宮」というガラスの家があるのですが、水晶宮と言うと、あまり立派過ぎるから「水晶殿」という名前にしたのです。これは予定よりか大きくして、百人ぐらいが一度に腰掛けて景色の鑑賞ができるわけです。それからガラスは六尺巾の曲線にして、それを接(ツナ)げて丸くします。それで、ガラスはチカチカして見難いのでプラスチックにしました。これは会館と一緒に出来る事になってます。丁度会館の鉄骨が余っているので、それを利用すると割合に安く出来ます。これだけでも出来たら大変だろうと思います。どんな人でも一ぺんは見たいですから、これは美術館以上の魅力(ミリヨク)があると思います。それから美術館の方は箱根の丁度倍の大きさにして、いろいろな点において箱根の経験でよく分りましたから、素晴しいものを造るつもりです。
………………………………………………………………
十二月七日
最近のニホン・タイムスという外字新聞に、箱根美術館の写真と記事が出てますが、これは、この間話したアメリカの婦人の新聞記者が書いたのです。その飜訳したのを読ませます。
(昭和二十八年十一月三十日付ニホン・タイムス紙掲載の記事)【註 栄光二三九号】
外人の見方だけに日本人と違う点があり、又日本人の持たない鋭さがあります。つまり何んにも囚(トラ)われない見方が非常に面白いと思います。そうして割合に公平な見方をしてます。それでこの人が後で通訳の人に話したのですが――通訳と言っても、やっぱり信者で、浮世絵専門の、半分商人、半分研究家というところですが――その話によると、この婦人記者は専門は美術批評家という事になっていて、世界中の美術館を廻って歩いたのですが、一番自分が心を打たれたのは、此処に書いてあるフランスのルーヴル――これは有名なものです。次はイタリヤのヴァチカンで――これはローマ法王の居る所です。それらの美術品などを、私は写真で見ましたが、金のかかったのは箱根美術館の何層倍か分らないです。大理石の素晴しい彫刻が一ぱいあります。それらと同じような感じを受けたのは此処の箱根美術館で、この三つだと言うのです。それで僅かの間に金もかからないで出来た箱根美術館が、世界的なそういう美術館と同列に見られるという事は大したものだと思います。それで箱根美術館が二つの美術館よりか勝(スグ)れている事は、室内美術品を見るのと、室外に目をやれば自然の木や石や草や苔などを人工的に造った自然美があり、もう一つ遠くを見ると山や海の本当の自然美が目に入る。つまり三段になっている。これは他の美術館にはない。だから此処に居ると、つまり美術館のみでなく、そういったいろいろな天然の美と人工美とがよく調和したその雰囲気というものは、実に何んとも言えない魅力があると言うのです。だから随分何時までも居たそうですが、時間がきて半分で帰ったそうです。その気持が去り難いというわけで、これから始終来たいと言ってました。この人の主人はNHKの英語放送をやっている人なのです。それで日本に永住するつもりで、家も買って、畳で日本食といったような、日本的生活を始めたばかりの人なのです。それからもう一つ、こういう事を言っていたそうです。日本を西と東に分けると、西は京都・奈良で古美術特に仏教美術を鑑賞する。そうすると東は、いずれ箱根・熱海という事になるに違いない。だからその点において箱根・熱海という土地を選んだという事は素晴しい慧眼だ。それで此処は温泉があり、夏と冬両方の気候に適している。しかも交通の便利という点から言って、将来東の文化的の都市=文化都市というような意味で非常に重要なものだという事を言ったそうです。これはやっぱり私が計画していたとおりの事を見通したわけです。この点はアメリカ人というのは実に偉いと思ってます。日本の新聞記者も今までいろいろ来ましたが、そこまで気がついている人はどうもないらしいのです。若し気がつけば新聞雑誌に書かなければならないです。あっちの方の人は大局的に見て、そうして公平に批判するのです。これが日本のジャーナリストというのは、何んと言うか、小乗的で、視野が小さいのです。察するに、日本の新聞屋の人は“ナンダ、救世教も新宗教のくせにコンナ立派な物をこしらえやがって、余っ程儲かるんだな”とか“どうも岡田というのは、新宗教のくせに金儲けがうまいんだな”とかいうように見るのです。“しかし成程それにしては素晴しい物を造った。奴も一方の怪物だ”というように見るのです。ですから見方が実に小さい事と、大いに邪気があるのです。邪気紛々(ジヤキフンプン)としているのです。これは、日本は昔からそういったように教育されて、それを伝統としてますから仕方がないのです。ですから日本人の見方というものは、頭がもっと大きくならなければならないのです。特に宗教などの見方も、やっぱり小さいです。日本を主にしているのです。特に神道がそうですが、日本の一つの国粋的のものが非常に強いです。これは無理はないのですが、なにしろお祭と言えば千年から二千年ぐらい前の形式なのです。素焼(スヤキ)の入れ物に生米を入れたり、水を入れたりし、浄衣(ジヨウイ)なども、麻が本当なのですが、麻は絹などがない時分の二千年以上前の形式で、相変らずこれを採っているのです。どうしても小さい頭に出来上っているのです。ですから今もってその気分が大いにあるのです。それでこの間私は書きましたが、日本の封建時代には――これは日本ばかりではないですが――人を沢山殺した者ほど英雄として崇められる。それから武士という階級は一生涯人殺しの稽古をし、その技術を錬磨する。そうして君のために命を捨てるのが偉い、一家の栄誉だとしている、という事を書きましたが、そういうようで、さっき言った見方は日本人にはどうも無いらしいのです。ですから私のああいった批判などは、どっちかと言うとアメリカ式なのです。ですからアメリカの人とは実に話が合うのです。私は日本人でありながら、どうも日本人とは合わないのです。新聞記者などと少し話していると、私の言う事があんまり大き過ぎたり、飛躍するので、目をキョロキョロしているのです。ところがアメリカの人とはピッタリとよく合うのです。そういう訳ですから、日本人に分らせるという事は非常に難かしいのです。今にアメリカの人が分り出したら非常に早いと思ってます。
………………………………………………………………
それから私は始終原稿を書いてますが、普通の原稿――あんまり特色を現わさないような原稿は訳なく面白いように書けるのです。それから歌などは訳なく幾らでも出来るのですが、ただ論文になると実に難かしいのです。まるっきり今までとは違い、今まで絶対に信じていたものを全然逆に書くのですから……。今までのものは嘘で、私の書くものは本当だというように思わせるのですから、反対のものをそうでないと思わせるそこが非常に難かしいのです。そういった事を書いてみました。
御論文〔⇒私の文章とその他〕【註 栄光二三八号】
………………………………………………………………
浄霊医術について、これは結局どういうふうにすればよいか、どういうふうになるか、という事を書いたのですが、かなり徹底したわけです。
御論文〔⇒浄霊医術の実験〕【註 栄光二三九号】
つまり結局において日本人の卓越性(タクエツセイ)を世界に知らせる事なのです。そうして日本のやり方によって初めて本当の文明が生まれて、世界人類は救われるのです。それで本当の事を言うと、日本人というのは人類の内では非常に素晴しいのです。ところが今までは埋(ウズ)もれていたのです。これは世界が始まって以来決まっているのです。日本人が世界をリードするという事に決まっているのです。それを間違えて、戦争で暴力をもって八紘一宇だとか言って覇権を握ろうとしたこれが大変な間違いです。だから酷い目に遭ったのです。それの目的のために天皇を利用した結果は天皇が御退位にというまでなったわけです。それを、そうでなく反対の平和的に日本が世界をリードするというわけです。世界の凡てのやり方、要するに今の文明ですが、この現代文明というものは枝葉(エダハ)の神様が根本となって今日の文明が出来上ったのです。だから幾ら進歩しても本当の幸福は生まれないわけです。それ丈の資格がないという事は、病気を治すにしても、霊力――霊的力(レイテキチカラ)がないのです。そこで物質で治そうとして機械や薬を発明していろいろやっているのです。ところが日本人は一番位が高いのですから、こうやって病気が治るという事は、つまり位が高いからです。それで日本人の内にも、本当の大和民族と、一番多く入っているのが朝鮮、支那ですが、その民族もあります。その内で大和民族が本当の神様の直系なのです。そこで霊力があると共に、凡てのやり方が本当の真理に合っているというやり方です。それで神様は、今まで番頭や使用人が作ったやり方を、今度は神様の直系である主人公が本当の事を教え、本当の事をやる。そうしたら素晴しい世界が出来るわけです。しかしそうするには道具立てや、又物質文化、そういうものが必要だから、それを今まで神様がやらしていたわけです。だからこれまでに出来たわけです。これからは本当の主人公、根本の神様が、今まで出来たいろいろな文化を使って、人を殺すための原子爆弾を人を活かすための、もっと便利なもの平和的なものにするとか、爆弾を落すための飛行機を、それを止めて人間を運ぶ道具にするというように、今まで使ったものを平和のため善のために使うという、それが救世教の役目なのです。ですからそういうように見ると分るわけです。ですから今までのものは無駄ではなかったのです。やっぱり神様は必要があって造ったのですが、それに魂=本当のものを入れないために良い働きをしなかったのです。ですから今までの事を悪く言う事もいけないのです。それを良い事に使えば非常に良い働きをするのです。必要な働きをする事になるのです。そういう根本として一番肝腎なのが病気を無くし人間を健康に育てる事です。健康にすると、つまり霊的に人間が違ってしまうわけです。だから救世教信者になると人間が違ってしまうという事はそういう訳なのです。これは、私はこれから書くつもりですが、今までいろんな良い物が出来ても、みんな悪に使う。それで悪というものは何によって発生するかというと、その人の霊の曇りです。それで霊が曇るといろんな動物霊――副守護神の力が強くなるから、悪い事をするということになる。その霊を曇らせるのが薬です。薬で血を濁し、血が濁るから霊が曇るというわけです。ですから悪を作ったのは薬です。それによって曇りが増えると、霊的の地位が落ちますから、そこで不仕合せが起こるというわけです。人間の運が良くなるのは、霊的の地位さえ良くなれば運が良くなるのです。そういうわけで、人間の不幸、悩みは人間の霊の曇りが根本であるし、それから悪というものがやっぱり薬によって発生するのですから、根本はやっぱり薬という事になるのです。その点を解消すればミロクの世は出来るのです。それでこれは口で言えば簡単ですが、そうなるとして薬屋とか肥料屋とかが大変なのです。これは理窟ではそうなのですが、実際は自分の死活の問題ですから、なかなか簡単にはゆかないのです。そこに又いろんな障害を突破しなければならないのです。しかし、なにしろ神様がやられているのですから、時の推移によって一歩々々、丁度太陽が出てだんだん昼間のようになり、明かるくなるようなものです。
………………………………………………………………
それからこれは是非知らなければならない事ですが、いずれ栄光に出しますが、読ませます。
〔⇒私の光について〕お蔭話(御光の霊視能力を戴いて)【註 栄光二三七号】
………………………………………………………………
十二月十五日
何時も言う事ですが、今の世の中と言いますか、特に日本はそういう状態ですが、つまり正義感が実に少ないのです。本当に正義感のある人というのは無いと言ってもよいくらいです。と言ったところで、正義感というものは表に出すものではないので、心の底にしまっておくものです。表に出すと、かえって結果が悪かったり何かするので、そこに難かしいところがあるのです。それを分りやすく書いてみましたが、これは何んでもなく分りそうな事でいて分らない事です。
御論文〔⇒正義感〕【註 栄光二四○号】
………………………………………………………………
だんだん救世教が発展するに従って一番脅威を感じているのはお医者さんと薬屋なのです。今はまだ大した事はないが、それでも大分注目しているようです。それで相当に対策も講じているらしいのですが、これは当然そこに至るのは分ってますが、なるべく徐々として分らせたいと思ってます。これは考えようによっては余程大きな問題と思います。しかし神様はどうしてもそこまで徹底するのですから、やむを得ないのです。又、別に私がやるのではなくて神様がやられるのですから……。と言ったところで、神様は、間違った事ではない……間違った事は向う様にあるのですが、その事を書いてみました。
御論文〔⇒医業者に警告する〕
………………………………………………………………
それから、真善美の世界を造るという事で、真善は兎も角、美と言うと、美術館とか地上天国という事で、これは分り切った話です。ところが未だ気のつかない美というものがあるのです。美の世界ではないのですが、それは何かと言うと人間の腹の中です。人間の臓物を美にしなければならないのです。まずどんな人でも、一皮むいたら、それはもう血膿(チウミ)で一ぱいです。兎に角筋肉や骨の量と、いまの血膿の量とを比べたら、血膿の方が多い人が大部分です。おそらく、世の中で汚ない物と言えば、血膿だと思います。これは糞小便よりもっと汚ないと思います。馬鹿に汚ない話ですが、その血膿というのは何から出来たかというと薬です。薬が変化したものが全部血膿です。そこで今の人間はウンと薬毒が入ってますから、兎に角毒血と血膿が一ぱいに詰まっているわけです。だから、おそらく一番汚ないのは人間です。いろんな寄生虫がわくというのは当り前です。大体人間の体に虫がわくという事はあり得ないのです。だからみんなきれいな事を言っていても、御自分の腹の中ときたら、それこそ糞溜めより汚ないのです。だから真善美の美の世界と言うが、これはまず人間の腹の中から美にしなければならないのです。その因が薬毒ですから、薬毒から無くしなければならないのです。それで、体の中が汚ないから、そこで想念も汚なくなるわけです。これは霊体一致ですから……。そこで今読んだ正義感の不足というのもやっぱりそのためです。それで神様の話をしても分らないというのは、分らないはずです。それで汚ないものを掃除されるわけですから、それは苦しいです。だから、どうも信じられないとか、分りが悪いというのは、つまりそういう汚ないものは曇り切っているから、それが邪魔していて通じないわけです。それでその掃除が始まると、その掃除を止めようとする。それが又薬ですから、掃除をする働きを止めようとして、又その掃除をすべきものを入れるわけです。やっぱり“超愚”です。そういうようなわけで、美というものは、まず人間の腹の中というこれです。浄霊というものは、つまり美にする働きです。汚ないものをきれいにするというわけです。今の世で心のきれいな人間が非常に少ないという事は、心でなく肉体が汚ないのだから、どうしても浄霊ということによって一番根本的に本当に結果を得られるというわけです。浄霊は人間を使って個人々々に掃除をしてくれる仕事です。神様はそういう方法をとられたわけです。ところが霊界がだんだん明かるくなる、昼間になるという事は、人間の霊体の霊身の方が全体的に浄化されるわけです。そのために、つまりいろいろ病気が起こる。だから神様の方で全体的に病気が起こるようにすると、人間の方で=救世教信者がそれを治し、汚ないものを除る、出してしまうという事で、神と人との共同作業です。ところがその薬毒、血膿というものは非常に多いのです。それは実に想像もつかないくらいなものです。まずその人の一生涯でそれがすっかり除れる人は無いでしょう。私でさえ今もって毎日自分で自分を浄霊してますが、歯の悪いのは今年で三十七年目です。最初から知ったのではないので中途からですが、兎に角知ってからでも十数年になりますが、自分で浄霊を始めたのが約十年くらい前からですが、それで今もって毎日やらなければ、少しずつ始終痛んでいるのです。だから薬毒が自然に除れるという事はまずないです。時々風邪引とか下痢するとか熱が出るという事は、勿論それだけ毒が減りますが、それは僅かなものです。それで浄霊を何十回何百回やるという事はかなり除れます。それから疥癬で体中カッタイボウみたいになりますが、それで相当除れます。疥癬の毒というのは天然痘の毒で、つまり古い毒です。つまり親の遺産で、その浄化です。ところが自分が生まれてから入れた毒が大変なものです。それで疥癬の時に痒いのは天然痘の毒ですが、黒豆のようなものが出来て痛むのは薬毒です。ですから疥癬でも薬毒も相当混るわけです。それで、疥癬でアンナに毒が出たからもうよいかと思うと、まだまだウンとあるので、本当に疥癬で出たのは一部分のようなものです。それから私がやっぱり毎日のように浄霊しているのは、背中と横腹の間に毒があるのです。この頃は大分減りましたが、これは昔肋膜をやった時のもので、私が美術学校に行っていた時に目を悪くして、ヨードカリと言う海藻から取った薬を二、三年毎日続けました。そのために肋膜が起こって、肋膜から肺結核になったのですが、肋膜から水を除ったり、薬も多くのみましたが、やっぱりヨードカリを多くのんだのです。これは弱い薬で、痛んだりする事はないのですが、しかし始終胸が凝ったりするのです。この頃は殆んど忘れてますが、それが約五十年前のものです。ですから三十七年前とか五十年前の薬毒が今もってあって毎日浄霊しているのですから、如何に恐ろしいかという事が分ります。信者などで“あれだけ浄化したから、もう無いと思ったら未だある”という事がありますが、あなた方もそういう事がよくあるでしょう。そういうようなわけで本当に大変なのです。それが一番分るのは何がよいかと言うと寿命です。おそらく今は百歳以上生きるのは、万人に一人か十万人に一人というようなものでしょう。長生をして九十代くらいです。普通は寿命が延びたと言っても六十か七十です。それで死ぬのは全部薬毒のためです。薬毒が全然無くなれば、必ず百以上は生きます。それで薬毒が多いほど早死なのですからして、それで見ればはっきりしてます。しかし、近頃寿命が延びたと言ってますが、それは薬毒が出ようとするのを押えつける工夫が進歩したのです。これは医学で言う抗生物質という今までと全然違うもののためです。その内で特に寿命に関係して早死させたのは漢方薬です。日本人の寿命というのは漢方薬が縮めたわけです。それで近頃漢方薬を止して西洋の薬をのむようになってから寿命が延びたわけです。以前外国の方では日本人より寿命が長いという事を言われてましたが、それは漢方薬を使わないためです。ですから寿命を縮めるのは漢方薬に限るのです。……と言うと変な言い方ですが……。そこで最近の寿命が延びたというのは、漢方薬が無くなったためと、西洋の薬が抗生物質の薬に変ったためです。これは割合に副作用がなく浄化作用を停止するのに効果があるのです。そういうようなわけで、人間の腹の中が汚ないというその事をよく知っておくとよいです。それがために婦人などは顔色が悪いとか顔が荒れるとか唇の色が悪いとか言っていろんな化粧品を使って、そうしていわゆる誤魔化しているわけです。それがために、まず美人というのは無いです。化粧しなかったら、今の女の顔は見られやしません。私はよく、あまり化粧しない女の顔を見る事がありますが、美術展覧会に行くと女の画家が多いのですが、女の画家は割合に顔を気にしないとみえて、化粧しないのです。その代り汚ない顔です。男の方が余程きれいです。展覧会には何時も絵を見に行きますが、つい若い女の顔を見ると、実に汚ないです。だから化粧品が売れるのです。売れるから広告などに大変な金を使うのです。そういうわけで、汚ない――殆んど血膿を皮膚で包んでいるのだから、きれいなはずがないのです。私はよく言いますが“人間気がつかないが、人間の皮膚ぐらい有難い物はない。若しこの皮膚が無かったら、汚なくて、到底人前には出られない。だからその皮膚の恩恵も感謝しなければいけない”と。よく女などに言いますが、そういうようなわけで、つまり美人を見てもあんまり美に酔わされないためには、中身(ナカミ)を考えてみる必要もあると思います。そうなると恋愛という事も、ちょっと熱が冷めます。しかしそうなるとやっぱり精神的に心の方の美を求めるから、かえってよいかもしれません。そういうようなわけで、人間は意外に薬毒が多いという事と、血膿というものは薬毒の変化したものという事と、人間の美というものも体の中がきれいにならなければ本当の美ではないという事です。やっぱり腹の中が美になれば――肉体が美になれば心も美になりますから、そうすると美しいものを好むという事になります。だから美術館などを見る、或いは見ている内に趣味が出て来るという事は、やはりそういったような汚ないものが精神的にそれだけ減ってゆくわけです。つまり魂が美から受けるその作用によって、魂がそれだけきれいになるわけです。非常に必要なことです。神様はそういった、つまり楽しみながら魂をきれいにする、要するに浄化ですが、そういう事をやられるわけです。だからして真善美の美という事の一番の根本は、人間の体の中を美しくするという事で、その方法は、つまり直接には浄霊、間接には教えを耳に聞き、それから美を目から入れるという事です。だからして救世教がやっている事は、本当に地上天国を造る要素なので、他の宗教でそういったような考えでやっているのは殆んどないのです。ただ教祖の教えを丸呑みにして、無我夢中に、禁欲生活をしたり、大きな声をしてうなったり、太鼓を叩いたりいろいろしてますが、それでも無いよりはよいです。それが全然無い人はどんな悪い事をするか分らないし、どんな犯罪者になるか分らないです。兎に角神仏に向っていれば、例え馬鹿馬鹿しい事をやっていても、それだけの心掛(ココロガケ)であれば、兇悪犯罪をするという事はあるわけがないです。何々教信者が殺人強盗をしたという事は聞かないから、これはよいですが、しかし本当に良い世界を造るという事は、救世教のやり方以外にないわけです。ところが救世教をおそろしく毛嫌いするのですが、というのは、つまり身体の中に汚ないものをウンと持っているから、どうも掃除がつらいというわけです。この掃除がつらいというのが副守護神です。というのは、自分にとって勝手が悪い事になるから、極力止めようとするのです。特に狐や狸というのは自分の居所が無くなるようなわけですから、つまり萎縮してしまい、活動が出来なくなるのです。彼等が一番怖いのは光ですが、救世教は光で救うのです。ところが一方祖先とかいうのは、光によって浄められれば霊界の地位が上りますから、救われたいというわけです。よくお蔭話で、祖霊が喜ぶ状態とか、信者にしたいとか、副守護神が邪魔しているのがありますが、それが分って見れば、実によく分ります。近頃非常に精神病が増えたという事は、そういった動物霊が働きやすくなったからです。働きやすくなったという事は、人間の霊が曇ると彼等の活動力が増しますから、此処に汚ない血膿なら血膿があれば霊の方は曇りが強いわけです。それで曇りがあるほど動物霊というのは其処で仕事をしやすくなるわけです。だから了簡(リヨウケン)の間違った者や罪を犯す者は、副守護神、つまり動物霊が働きよい状態に置かれているわけです。だから犯罪者が多いという事や、さっき言ったとおり正義感が少ないという事は、それとチャンと平均しているわけです。だから今日正義感が薄いというのは世界的です。凡て一時的御都合主義で、本当にこれが正しいと言って、それをやろうとする人は殆んど無いです。これは年中新聞やラジオで各政党や政治家がいろんな事を言っても、これなら本当に国民のためになる、世の中のためになるという事はないので、御座成的(オザナリテキ)で、実は、わが党が大きくなるとか、わが党のためになるとか、自分が出世する、というケチな考えで、こういう政策が本当に国民のためになるという事をやる人は、ごく僅かしかないです。そういうようなわけで、心が曇り、肉体は毒で埋まっているという事がよく現われてます。
………………………………………………………………
十二月十六日
今の世の中を見ると、世界中が非常に正義感というものが無くなったのです。何んでも算盤ずくでやっているのです。理窟だけでは、こうやればこうなる、こうやる方がよいという事を、世界中特に日本の政治でも経済でも、みんなそうなってます。ところが (イスカ)の嘴(ハシ)と食い違いで、うまく行く事はないのです。特に政府の政策などがそうで、いろんな案を立てたり、いろんな事をしても、凡そ結果は反対なのです。一番大きな違いは米作ですが、これなども、前の農林大臣の広川弘禅氏の時に、五カ年計画で三千万円を出して三割増産をするという案を立てました。ところがその案に基づいてやり始めたようですが、今年のように馬鹿々々しい違いさです。そういうような例が、貿易にしろ、いろいろな事に、みんな結果が反対なのです。その原因をよく見ると、一番の原因は算盤ばかりで正義感というものが無い、そのためです。今のは大きな話ですが、個人でも、うまく行かないという事は正義感が足りないのです。ところが正義というものは、かえって算盤とは反対の方が多いです。大変損のように思う事があるのです。正義というものを守るという事は算盤に当嵌らないように見えますが、ところが結果においては、ずっと算盤に当るのです。正義が算盤に当るというと変ですが……。そこのところが理窟では分らない面白みのある点です。その事を書いてみました。
御論文〔⇒正義感〕【註 栄光二四○号】
………………………………………………………………
それから真善美の美と言うと、美しいもの、つまり大体目に見えるものです。心の美しいという事もありますが、とに角汚ないものを美しくする、それが地上天国における最も重要な条件です。ところが、そういった自然の美とか人工の美といったものでなく、もっと肝腎な美があるのです。それは殆んど気がつかなかったろうと思うのですが、それは何の美かというと、人間の肉体の美なのです。というのは外面から見た皮膚の美でなく、中身です。皮を一枚剥がした中身の美です。ところがこれが、今の人間は大変な醜(シユウ)になっているのです。これは浄霊をする人はよく知ってますが、人体は実に薬毒が多いです。幾ら薬毒を減らしても、なかなかで、後から後から出て来るのです。オレはあれほどの疥癬をやったから、もう大して毒はないと言って安心していると、さにあらずで、後から後からいろんな毒が出て来るのです。それで今まで疥癬の重いのをやって、もうあら方毒が出たような気持になって、それからそれ以上の病気が出る人もあります。それほど薬毒が多いのです。ですからその薬毒なるものは、つまり分りやすく言えば、血膿――毒血と膿です。ですから人間、一皮むいたら毒血と膿で一ぱいです。おそらく骨や筋肉より多いでしょう。毒血と膿を取ったら骨と皮だけになります。ですから私は言いますが、人間は皮膚の有難みというのに気がつかない。人間、美男とか美女と言ってきれいに思ってますが、一皮むいたら見られたものではないです。昔、骸骨の絵があって、それに皮肉が書いてありましたが、文句は忘れましたが“一皮むけば、人間はこんなものだ、こうなるのだ”と書いてありました。それは骨だけですが、とに角毒血と膿で一ぱいなのです。医者が手術した時もそうですが、これは現場ではなく写真で見ましたが、これは衛生博覧会で模型が出てますが、大変なものです。ですから一番肝腎な事はそれを美しくする事です。つまり毒を除る事です。という事は無論分り切った話で、浄霊でそういうふうにしてますが、ただそんなに沢山あるという事をみんな分らないのです。ですから少しでも毒が減ると、自分はもう大変きれいになったように自惚(ウヌボ)れたがるのです。それが間違っているのです。とても、そんな自惚れどころではないので、肉体的には自分の体に愛想が尽きるくらいです。現に私がそうです。私が五十年前の肋膜の時にのんだ薬ですが、これは水の溜まらないようにとのためでしたが、その前に目が悪くて、ヨードカリという薬を二年ほど続けてのみました。これは海藻からとる薬ですが、これが溜まって肋膜が起こったのです。やはりこれが肋膜の附近に溜まっていたのです。ですから今もって背中と横腹の間にゴリゴリがあるのです。これを三、四年前からやってますが、まだあるのです。それから肋膜の時にのんだ薬がありますが、これが十八の時のですから五十年以上前です。それから三十七年前に歯を悪くしてやった薬が今もってあるのです。近年殆んどのように忘れてますが、それでも毎日のように少しずつ痛みがあるのです。ですから私なども、本当に無くなるには、もう二十年ぐらいかかるのではないかと思います。ですから九十になったら本当に薬毒が無くなり、それから大いに活動――できるかできないか分りませんが……。その代り減るに従って年々体の工合が良くなって行きます。ですからかえって近頃若くなったと言われます。それはかえって薬毒が減ったためです。それほど薬毒というものはしつこいものだという事を知らなければならないです。私も随分重い疥癬をやりましたが、毒にもいろいろ種類があるのです。疥癬の毒と、頭の痛くなる毒とか、腹の痛くなる毒とか、いろいろ種類があるのです。それで、疥癬の毒というのは天然痘の毒ですから、そこで疥癬は痒いのです。まず痒いのは天然痘の毒と思えばよいです。それから疥癬でも、痛いので黒豆のようなものが出来ますが、これは薬毒です。ですから疥癬は天然痘の毒に薬毒が混って苦しむものです。それで毒によって、痒いのと、痛いのと、麻痺したのと、いろいろあります。それは自分のつけた薬やのんだ薬を考えてみれば分ります。それから何時も言うとおり、一番痛い毒は消毒薬です。よくお蔭話とか質問に、霊的の病気のように思っている人がありますが、霊的の病気もありますけれどもごく僅かなもので大体は薬毒なのです。よく病気が思うように治らないというような時質問があり“何の霊でしょうか”とか“霊的でしょうか”というのがありますが、そうではないので、みんな薬毒です。それから霊的の病気があるとしても、やはり薬毒です。つまり霊が薬毒で曇っていると悪霊が憑きやすいのです。ですから薬毒というものを知っているのは、霊の方が知っているのです。狐などは特に薬毒を知ってます。何時か、狐が“コイツをやっつけようとして随分薬をのましたが、この頃救世教に入って薬を止めてしまったので困る”という事を言っていた事がありましたが、薬毒で肉体を悪くし、それで霊を曇らせる。そうすると狐は大いに働きよくなるのです。ですからこの点は人間より狐の方がずっと偉いです。人間の方は、われわれの方で幾ら薬毒を言っても、最初はなかなか信じないのですが、狐の方は知っているのです。医者にかからせ、手術をさせたりするのは、狐がやらせるという事が非常に多いのです。学者というのは狐より以下という事になります。面白いのは、そうやって人間の霊を曇らして、いろんな動物霊が悪い事をさせるのです。だから今言う正義感がないという事は、その原因はやはり薬なのです。薬が悪を作っているという事になります。薬が人間の体を弱らせ、悪を作り、社会を悪くし、世の中を悪くするという事になるのですから、薬というものは如何に大きな罪悪を作っているか分らないです。だから人間を健康にする、或いは罪悪を無くするという事は、薬を無くするという事になるのです。それを今浄霊しているのだからして、その事が本当に分ったら随分恐ろしいわけです。それから、霊が曇るという事は今言ったとおり肉体が汚なくなっているというわけで、霊的には、霊が低くなっているのです。だからしてどうしても、劣等な事や、汚ない事に対して、あんまり気にならない、厭(イト)わないのです。自然に芸術などに対しての趣味を持たないのです。要するに趣味が下劣になるのです。そのために社会に対して悪い影響を与えるという事も多いのです。根本はどうしても人間の体の中を美しくするという事になるのです。その人間の肉体の中の美という事に対して全然気がつかないからして、それを気をつけるべく私は書いているのですが、今はその話をしたわけです。
………………………………………………………………
日本人が優秀だという事について書いてみました。
御論文〔⇒日本の誇り〕【註 栄光二四一号】
………………………………………………………………
二、三日前に瑞雲郷に行ってみました。大抵見て知っているでしょうが、今度美術館が出来る所に道路を作りました。これは非常に大勢の人が行く事になりますから、自動車と人間が一緒では余程広くなくてはならないと思って、今までの道路より広くしたのです。今までは二間半から三間でしたが、今度は三間半にしたのです。そうして割合に勾配が少ないから楽です。美術館を見て、それから展望台ですが、展望台のガラスの家は「水晶殿」という名にしました。英国にガラスの家で出来ているので「水晶宮」というのがありますが、「宮」では名前が少し大袈裟(オオゲサ)過ぎます。「宮」と言うと幾らか荘厳的過ぎますし、他につけようがないので「水晶殿」としました。「殿」でも少し大き過ぎますが、「水晶閣」も変だし、「水晶亭」「水晶庵」でもあまりに日本的過ぎますから、「水晶殿」としましたが、美術館を見てから其処に行くのに、どうも道路がややこしくて難かしいので、植木屋も首をひねっていろいろしているのですが、私がそのつもりで行ってみると、素晴しい、丁度良い道路が出来るようになっているのです。神様はチャンと行届いているのです。それは割合に手数がかからないで、非常に簡単で、とても良い道路が出来るのです。それは歩いて行くのですが、そういうようなわけで、神様の方はチャンと準備をしてあるのです。それに気がつけばよいわけです。又その気がつくのも、時期に応じて気がつくのです。決して早過ぎて気がつく事はないのです。その時になるとチャンと気がつくのです。おおよその大掴みは気がついてますが、本当に実際的に分るのはその時にならなければならないのです。だから神様の仕事というものは非常に面白いものです。ところが人間はそれを知らないからして、このくらいな事はもっと早く分りそうなものだと思うのです。私もそう思う事があります。ところが時機にならなければならないのです。つまり必要の時機です。早くも遅くもないという時機です。尤も遅くては駄目ですが、早過ぎてもいけないのです。それで気がついてやるのですが、前からそういうように形が出来ているのです。それで私の前からの予定では、水晶殿が出来ると、写真入りで新聞や何かがデカデカと宣伝してくれるでしょう。これは今まで世界に出来たものではないから、実に珍しいものです。そうなると其処に行って見たいという人が沢山出来るでしょう。そこで日本中の人が一度は見ようという事になります。美術館も素晴しいものが出来ますが、特に水晶殿は、熱海を一望にし、相模湾、伊豆七島、それから房総の方まで一目で見えますから、どうしても一度は行って見たいというわけで、日本人の少なくとも三分の一や五分の一は、無論数年の内に来るだろうと思います。それで八千万の人口として、一割としても八百万人ですが、一割ではきかないでしょう。三分の一として二、三千万は確かに来ると思ってます。そういう予想で、水晶殿も予定より大きくしたのです。一度に百人ぐらいが入ってもゆったりできるように椅子を百台用意するつもりです。そうして其処に行くには梅林の方を通らなくて、こっちから行けるようにしますから、非常に便利です。そうして大勢グルグルと順繰りに見てゆくような形にしました。そのために一人大体百円としましたが、とすると一千万人来れば十億ですから、莫大な金が入る事になります。しかしこれから経営する所が沢山あるのですから、十億でも足りないと思ってます。日本中でも、箱根ももっと拡張しなければならないし、熱海ももっと大きくしなければならないし、京都にも造らなければならないし、九州にも北海道にも造らなければならない、というように各地に地上天国を造らなければならないのです。それからハワイにも造らなければならないし、将来はアメリカにも造るつもりです。それで、アメリカに造る前には、アメリカとの美術の交換もやるつもりです。美術の交換というのは、先方では日本の美術を非常に見たがっているのです。今までアメリカに行った物は、仏教くさい堅い物ばかりです。もっと大衆向な物は殆んど行ってないので、そういう事をやるつもりです。そうしてアメリカの美術館にあるヨーロッパの美術という物をこっちに借りるというように、両方で交換をしようと思ってます。そこで熱海の美術館などはそういう事もやるようになるでしょう。そうすると、今日本で見たがっているヨーロッパの油絵の名人の作品とか、彫刻という物を日本人が見られるというようになれば、今の博物館にあるマチスとかピカソというアレッポチな物でなく、もっと素晴しい物を出品させるつもりです。なにしろ米国で最近買った、裸体画だったと思いますが、セザンヌの相当大きな物だそうですが、それをロックフェラーが、日本の金にして三億六千万円で買ったのです。これは博物館の人でアメリカから帰って来た人から聞いたのですから確かです。そのくらいの物を出すかどうかは分りませんが、兎に角そのくらいの物を持っているのですから、外国美術品と東洋美術品の交換をやらなければならないのです。それを将来こっちでやるのです。そういう事をやるには大いに金が要りますから、今言う入場料などを大いに当にしているわけです。そういうようで、これは必ず実現するだろうと思ってます。それに対しては、私はそういう事に対する地上天国も造るつもりです。最初はハワイに造るつもりですが、それからだんだんアメリカの方に造るつもりです。こっちで箱根・熱海に地上天国が出来たのをあっちの人に見せると、これは一つアメリカにも造りたいと思うに決まってます。では一つ設計してくれという事も無論あると思いますから、私がアメリカに行くか、地図か何かそういったもので設計してやる事になるでしょう。ですから美術によって国際的に各国と融和するという、大きな国際的外交と言いますか、それをこっちの一つの役割としてやるような事にならないとは限らないです。むしろ実現の可能性は大いにあるわけです。そういうような話も、アメリカの新聞記者の人などは漏らしているような話です。そうなると宗教の方も大いに認められるだろうと思ってます。ですから救世教は宗教ではないという事はそういう訳です。つまり宗教ではないのではなくて、宗教のようなチッポケなものではないという訳です。宗教は救世教の一部というわけで、それがだんだん分って来て、その頃になると世界的に分って来るわけです。大体熱海の地上天国が出来れば、これは世界的に分ります。アメリカの新聞関係の人が大いに書きますから……。今でも箱根の事について非常に書きたがつているのですから……。ですから今度熱海が出来たら、テンデ箱根とは段違いのように素晴しいものです。美術館などもだんだん設計しましたが、倍よりもちょっと大きいくらいです。又内部なども箱根の経験によって一層進歩したものを造るつもりです。箱根を造った時よりか今の方が、いろいろな面に、又建築上の進歩があります。ですから熱海に出来るのは必ず世界から注目されるものになる事は分ってます。それから品物も世界的の良い物があります。これは此処だけの話ですが、箱根に出さない物がまだいろいろあります。それは特級品です。そういうようなわけで、まだそういったような事で話をする事がありますが、春になったらそういったいろんな面白い話をするつもりです。それから外人の方でも、美術館の事で話をしたいようないろんな活動があるのです。
………………………………………………………………
十二月十七日
世間一般の人を相手にした話ですが、兎に角今日(コンニチ)何処から何処まで何事もうまくゆかないのです。うまくゆくという事は滅多にないので、政治でも、外のいろいろな事でも、みんな失敗の連続です。以前或る人は“人生は後悔の連続だ”という事を言いましたが、これも全くそのとおりで、人間毎日後悔しているのです。それと同じように、する事なす事が失敗の連続なのです。政治にしても、政府や政党がいろんな事を言っても、まず悉(コトゴト)く失敗です。そのために年中苦しんでいるわけです。その原因は何かというと、信仰者は神の実在を知っているからですが、神の実在を知る知らないにかかわらず、正義感が実に少ないのです。この正義についていろんな角度から書いてみました。
御論文〔⇒正義感〕【註 栄光二四○号】
………………………………………………………………
薬毒というものは、信者になった人はみんな分ってますが、ただ本当に分らないのは、薬毒の量を大抵な人は少なく見ているのです。ところがこれが非常に多いのです。私はこの間何かに、薬毒を全部除るには一生かかっても難かしいと書きました。まず一生の内に薬毒を全部無くす事はできないです。二代三代ぐらいはかかるでしょう。そうなれば病気する事はなく、寿命も百以上は必ず生きます。薬毒というものはそのくらい厄介(ヤツカイ)なものです。よく、随分酷い疥癬などを煩(ワズラ)った人が、もう自分の毒はあらかた取れたように思いますが、とんでもない話です。それから薬毒にも種類がいろいろあります。まず三つも四つも五つも六つもあります。それで疥癬は沢山出るようですが、これは天然痘の毒素です。つまり遺伝毒素です。ですから疥癬の重いのをやって、オレはいいと思っていると、それから酷い浄化が起こりますが、これはそういう訳です。何よりも自分の薬毒というものは殆んど無限にあるように思っていれば丁度よいのです。それでその薬毒というものはどういうふうになっているかというと、血膿です。よくオデキなどになって腫れて出る血膿です。それが一ぱいあるのです。それで人間の体から血膿を除いてしまったら、骨と皮だけになってしまいます。そういう例があります。随分肥っている人が、毒が出てゆくとヒョロヒョロになってしまいますが、痩せたから薬毒が無くなってしまったかと思うと未だあるのです。本当にこれを取ってしまったら骨と皮になってしまいます。私は何時も言うのですが、人間の皮膚ぐらい有難いものはないと思います。人間から皮膚を取ってしまったら、どのくらい汚ないか分らないです。ですから随分美人とか言って、ストリッパーなどは体がきれいです。又油絵などに画く人もそうです。ところがその美しさは皮膚だけの話で、中身ときたら汚ないものです。それを包んでいる皮膚というものに感謝してよいと思います。少なくとも女性は大いに皮膚に感謝すべきだと思ってます。そういった薬毒が取れるに従って女はきれいになるわけです。それは化粧の必要もないです。私の所に居る女中で、一人、生まれてから未だ薬をのんだ事がないというが、実にきれいです。それはどんな化粧をしたかと思うくらいです。これは立派な生きた見本ですが、そういうわけで、女が薬をのまなくなったらどんなに美人になるか分りません。昔――千年以上前の女は定(サダ)めしきれいだったと思います。小野小町なども、あの時分には漢方薬が相当入りましたが、それでも余程きれいだったと思います。それを考えると、今の人間は実に馬鹿です。骨を折って、金を使って化粧して、体の中は薬毒で汚なくするし、外は化粧品で皮膚から染み込ませて汚なくしているのです。それに気がつかないで、ますます念入りに化粧してます。化粧品が売れるわけで、新聞広告と言えば、まず売薬の広告と化粧品の広告です。今言ったとおりのそういった間違いが、薬屋と化粧品屋に金を儲けさせているというわけです。そうして手数をかけて、金をかけて病気の種を作っているのです。だから“超愚”では追付かないくらいで、もう一つ“超”をつけた方がいいくらいです。つまりそれを早く無くするには浄霊より外にないのですが、その浄霊について書いてみました。
御論文〔⇒日本の誇り〕【註 栄光二四一号】
今話したように、つまり人間の体の中が一番汚ないのです。汚ない物もいろいろあります。糞尿も随分汚ないですが、血膿の方がもう一層汚ないです。万物の霊長たる人間が一番汚ないのです。だからいろいろな寄生虫が腹の中にわくというのは当り前です。大体人間の体は生きているので、腐っているのではないのですから、それに虫がわくという事は如何に汚ないかという事が分ります。しかもその虫の種類がいろいろあります。真田虫という馬鹿げて大きいのもあるし、小さいのもいろいろあります。一番小さいのは蛔虫ですが、これはオソバみたいな、奇怪な形の奴で、沢山わく人のは、ゾロゾロと、それこそソバみたいに重なり合っているのです。それが人間の腹にわくという事は、実に不思議なくらいです。それでごく細かい目に見えないものが結核菌ですが、結核菌と言っても虫の小さいのですから、わいたに決まっているのです。それは伝染もしますが、それは汚ないから伝染するのです。丁度便所の蛆(ウジ)みたいなもので、これは糞尿のない原ッパに出せばすぐに死んでしまいます。それが、生きているという事はやっぱり其処に自分が生活し得るだけの材料があるからです。ですから人間は兎も角威張る事をやめるのです。つまり、一口に言えば虫の巣です。巣だけならよいが、自分の体でそれを作っているのですから、実に、何んという汚ない動物であるかという事です。ですから私は真善美の「美」の世界にするのは、まず人間の体の中からと思ってます。それをみんな知らないから威張っているのですが、まずこれを知らせるのが肝腎な事だと思ってます。そのくせ今日はいろんな虫というものが発見されて、ごく知りぬいているとしているのです。ではどういう訳で体の中にそういう虫がわくかという事に気がつかないのです。ごく低級と言いますか、単純なものです。尤も、どういう訳で腹の中に虫がわくかという事を考えても、気がつかないから、そこでそういうものだと諦らめているだけの事です。そうすると、それに気がつかないという、つまり愚(オロ)か――暗愚(アング)という事も不思議ですし、われわれから見ると、今の文化人だとかヤレ教育があるとか学問があるとか言っても、肝腎な事がまるっきり暗愚です。だからこの間のように“超愚”というのは、どうしてもそういう言葉が出るのです。それで浄霊より外にないのですから、結核が治るという事は、浄霊によって虫が殺される……というのは結果であって、虫が住むような条件が無くなるわけで、きれいになるのです。わく条件が無くなるとともに、虫が其処に生存する条件も無くなるというわけだから、病気が治るという事は分り切った話です。ところが医学の方で治すのは、その条件を医学が作るのだからして、逆になるわけです。昨日か今日の新聞に出てましたが、日本は今まで癌は西洋よりか少ないとされていたが、西洋と違わないというのです。今まで、いろいろ死亡者を研究してみると、癌の死亡者というのは数において三分の一くらい日本が少ないとされていたのですが、そうでない、いろんな病気で死んだのを調べてみると三分の一増えたというのです。それでは外国と同じという事になります。それでは癌というのは何かというと、結局薬毒なのです。ですから薬毒癌と言ってもよいです。それから薬毒の外に肉ですが、これは「アメリカを救う」の本に書いてありますが、肉の毒です。これを消すために野菜というものがあるのです。ですから野菜の食べ方が少ないのです。少ないと肉の毒が余るので、そこに薬毒が混合するのです。ですから浄霊して薬毒が無くなると共に肉の毒が無くなるのです。これは何時かも話しましたが、私は年々食欲が減っているので、おかしいと思って、前から鳩尾(ミゾオチ)の所を見ると丁度骨みたいな物があるのです。それで私は此処に骨みたいな物があって、人よりも変っているのかと思って大して気にも止めなかったが、しかしこれはおかしいと、これを浄霊してみると少しずつ溶けるのです。つまりこれは胃癌なのです。それで自分で寝る時にチョイチョイ浄霊しているとだんだん小さくなって、それにつれて食欲がだんだん増えてきて、去年からみると丁度倍になりました。そうしてみると癌というのは実に……これは痛くも何んともないのですが、丁度骨ぐらいの固さです。ですからこういう人が世間には沢山あるのだから大変だと思いました。これは何時頃からあるかというと、私がチフスをやった時で、二十八の時です。その時に肺炎と間違えられて、肺炎の薬を沢山のみました。この肺炎の前に胃が悪くて胃の薬をのんで、それから肺炎になって肺炎の薬をかなりのみました。それでチフスが治ってからは、食べても或る程度までゆくとピタッと止まってしまうので、おかしいおかしいと思ていたら、今言った結果なのです。それで、胃癌は減りました。今三分の二ぐらい減りましたが、これが取れたらもっと食欲が増え、肥るわけです。寿命も十五年や二十年延びるわけです。実に驚くべきものです。あなた方も、食欲が少し変だと思った時には鳩尾を調べてみるとあります。これは大抵あるようです。大きい小さい、固い柔らかいは兎も角、古いのは固いようです。それで私のは四十年ぐらいの古くなったものです。だから薬毒というものは、そのくらい古くても決して減るものではないのです。ただ固くなるぐらいなものです。あんまり汚ない話ばかりだから、少しきれいな話をしましょう。
………………………………………………………………
美術館ですが、ついこの間行って見ると、大分道路が出来てきました。それから展望台が出来る、景色を見るガラスの丸い家の名前ですが、英国の宮廷に「水晶宮」というガラスで出来た立派なのがあるのです。それでこっちのは、「宮」というのではあんまり大き過ぎるので「水晶殿」としました。「殿」でも少し大き過ぎますが、外にうまいのがないのです。「水晶亭」「水晶庵」「水晶閣」でもどうもうまくないのです。それで水晶殿は半円形の奥行を少し長くして、最初の予定よりか大きくしたのです。というのは、見物人が随分沢山来るだろうと思って、できれば新聞や雑誌に写真入りで大いに紹介するでしょうから、そこでどうしても一度は行って景色を見たいという考えは誰にも起こりますから、大変なものです。この間もアメリカの新聞記者が言ったように、日本の西は京都・奈良という文化財を見る価値のあるものがある。それから東では箱根と熱海の地上天国がそれと匹敵するものになるという事を言いましたが、全く私の思うとおりの事を言ったのです。そうなると見物に来る人が大変だろうと思います。それで美術館は箱根以上のものが出来ます。中に並べる物も普通ちょっと見られないような素晴しい物です。これは心掛けてとっておいてあります。ですから美術館としても箱根よりも又ずっと良いものが出来ます。広さも倍以上あります。そうして規模も大きいですし、それから今言ったとおり水晶殿で景色を見たら、それは素晴しいものです。そうするとまず押すな押すなというほど来ると思います。それで入場料を百円にしようと思ってますが、収入も随分大変なものだと思ってます。しかし別に金儲けでやっているわけではないのですが、儲かるのは結構です。それで未だいろいろな計画があります。箱根、熱海ももっと規模を拡げなければならないし、京都にも造らなければならないし、いずれ九州とか北海道とか東北とか、そういう方にも地上天国を造るつもりですから、金はどのくらいあっても多い事はないのです。それからいずれハワイにも造るつもりです。それからアメリカには美術館も地上天国も造るつもりです。それでアメリカの場合は、金は向うの方で出すに違いないから、設計だけを私がしてやろうと思います。それから箱根には来年は、ロックフェラーを連れて来るという事を言ってましたが、ロックフェラーあたりが、これは良い、一つアメリカにもやってみようという事になると、金は何んでもないのです。ロックフェラーの文化財団の基金というものは大したものです。結局アメリカに地上天国を造るようにならなければ、本当に救世教というものは世界的のものにはならないです。しかしこれは時の問題で、必ず実現する事になってます。そうすると今度はヨーロッパから東洋ですが、支那、インド、ビルマという方面にも出来ます。そういう方面に神様はチャンと支度してあるのです。準備してあるのです。この間聞いた話ですが、ビルマには仏様の彫刻があるのですが、ビルマの人は一生懸命稼いで金を儲けると金箔を買うのだそうです。向うには一匁とか十匁とか売っていて、その金箔を仏様に貼りつけるそうですが、これは何百年も前からだそうで、その金箔だけでどのくらいあるか分らないそうです。これはこの間政府の命令で行った小金代議士という人から聞いたのですが――この人は今度東南アジヤの経済相談で三、四人で行きましたが、信者なのです――私が前に聞いたとおりで、そういった金無垢(キンムク)がどのくらい厚くなっているか分らないが、それは、いずれ彌勒菩薩が現われるから、その時にこれを献上するのだという事になっているのです。ですから私があっちに行く時には彌勒菩薩で行きますから、ビルマの方では、いよいよとなって、これを差し上げるという事になります。それによってあっちに立派なものを造ろうと思ってます。これは夢みたいな話ですが、神様が支度してあるのですから間違いないです。そういう事も、各国々に準備してあります。ですからイタリヤのヴァチカン宮殿もやっぱりその支度なのです。今にあそこも救世教で使うようになりますから、そうしたらあなた方でもあそこに大威張りで行けます。ヴァチカン宮殿の立派さというものは、私は写真で見ましたが、驚くべきものです。世界の凡ゆる彫刻から建築から絵から、この美術というものはやっぱり世界で一番です。だからこれからやる事は、何百年、何千年、何万年前から神様の方で準備してあるのですから、時さえ来ればよいのです。だから楽なものです。仮に熱海の地上天国にしても、石垣をのばすに従って石が幾らでも要りますが、この石が幾らでも無限に出て来るのです。今あの石垣が必要だという事がチャンと分っていて、何万年、何十万年前に神様が石をチャンと準備してあるのです。そうしてあそこで良い景色を見るというために、相模湾から初島から大島でも、その準備に作ったのです。そのくらい前から準備してあるのですから、今世界にあるいろんな建造物というのはごく最近準備したぐらいなものです。こんな事を言ったところで、あんまり神様の方は大きくて深いために、とても信じられません。まず或る程度までゆけば成程(ナルホド)と分りますが、今のところは、私は前から話をしようとしても、あんまり桁が違うので話が出ないのです。やっと今話が出るので、そうかなと思うくらいで、時期になって来たわけです。
………………………………………………………………
十二月二十三日 (御誕生祭御教え)
私は今日で満七十一歳になります。それで今日は皇太子様の御誕生日にもなるので、余程私と因縁があるように思われます。皇太子様は明仁と言って、やはり「明」の字で、私は明主なのですから、これも不思議と思われます。
………………………………………………………………
御神業の方から言うと、救世教が出来たのが二十五年二月です。それで、あの事件が起きたのが、やっぱりその年の五月二十八日です。それから、決まりがついたのが去年の誕生日の翌日だったのです。そうすると私の満七十歳で散花結実――つまり花が散って、去年の十二月二十四日にいよいよ実の点が出来たわけです。そうすると今年で丁度一年で、そうして散った年からですと三年になるわけです。それですからして、五、六、七が済んで八となるので、丁度今年が二十八年ですからして、ミロクが開くという意味になるので、七十で五、六、七と、大体基礎が成ったのです。それからいよいよ開くという形は、今年になってからの御神業の模様もそういうふうになってます。それでこれから七年、つまり私が七十七の時に大体世界的の基礎が出来る事になっているのです。つまり七十七で「成り成る」のです。そういうふうに御神業の方は正確に、しかも早いです。
………………………………………………………………
それについて考えてみると、地上天国の模型は、箱根は今年出来、これから熱海ですが、来年はメシヤ会館と展望台の水晶殿が出来ます。再来年は美術館が出来るという事になってます。それで美術館が出来ると、あそこは大体完成ですが、それでも未だ神様の方では、あの地上天国はもっと拡げる計画のようです。しかし兎に角、それで大体は出来るのです。そうしますと、出来上った暁(アカツキ)は、この間も話したとおり、日本とすれば西は京都・奈良、東は箱根・熱海という事になるだろうという、米国の新聞記者の話で、その人はニホン・タイムスの記者をしていて、放送局の英語放送の主任をしているエリス・グリリ氏です。外国の人が日本に来た時にはそういうふうに見るだろうと自分は思うという事も言ってました。それから又こういう事も言ってました。イタリヤのヴァチカンですが、あそこはキリスト教の本山ですが、一方から言うと美術の本山と言ってもよいです。イタリヤの大美術館です。それと匹敵するように見ておりました。又フランスではルーヴルとも比べておりました。結局そういう事になるのは間違いないと思います。そうすると、ただ、その早さは驚くべきものです。なにしろ京都・奈良は千年以上たってます。奈良にしても千二、三百年たってます。それで、多くの人間……仏教が主ですが、その間いろいろな美術家だとか、とに角千年以上、大勢の人がやって拵えたものと、私の方はまず十年でしょう。大体宗教になったのが二十二年八月ですから、十年とすると三十二年八月で丸十年という事になるわけです。それで完成するには、熱海の美術館が出来るのが再来年とすると、三十年です。それから又京都にも出来ましょうが、とに角十年で、それも私が設計までやったのです。西の方は千年以上で、こっちは年限が短かいですから、ああいうような細かいいろいろなそういう事は無理ですが、とに角、一つの、人間の目を楽しませ、又一つの魅力と言いますか、そういった見方で同格に思われるという事は、その早さにおいて大変なものだろうと思います。これは私が自惚(ウヌボ)れているわけではないので、神様の腕前(ウデマエ)の素晴しい事には私自身が驚いているのです。そういうようなわけですから、そういった文化財的のものばかりでなく、あらゆる面にわたる救い、世界的の救世の事業も、その割でゆけば別にそう難かしい事ではないと思います。例えて言えば、キリスト教は二千年、仏教は二千五、六百年ぐらいになりますが、そういうように二千年以上かかる宗教的事業を、救世教の方の神様――と言うと変ですが、他の宗教の神様の総取締り=親玉みたいなものですが――その神様がやるのですから、おそらく釈迦、キリストが二千年以上かかってやった事の何倍何十層倍のもので、まず二十年か三十年でやれます。それは間違いないです。私にはよく分るので、それはお知らせというのでなく、それ以上の確実な事が分ってます。それはどういう訳だと言いますと、これは何時も言ってますが、今までの宗教でも何んでも全部月の力なのです。これは夜の世界のためですが、夜の世界は月が支配したのですからして月の力です。そうすると太陽の光はその六十倍ですから、そこで私の振う力というものは太陽の力ですから、今までの最高のものよりか六十倍の力です。だから私の弟子がキリストと同じくらいの事が出来るという事はそういうわけです。要するに力なのです。その力が今までは弱いために、つまり悪魔に負けるのです。それともう一つは霊界が暗かったからで、丁度夜(ヨル)物を見るようなもので、はっきりしなかったのです。それだから今まで説いたいろいろなものがはっきりしないのです。バイブルでも経文でもはっきりしないのです。だからそれを読んだ人でも、つまり想像です。“オレはこう思う”“貴様はそう思うだろう”というような事で、まちまちなのです。ですから本当にバイブルや経文を読んでも、分る人はおそらくないです。というのは、夜物を見ようとするようなものだからです。ところが救世教の方ははっきりしているのです。私は書くものにしてもはっきり書いているのです。少しでも迷いがなく、解釈の仕方が一つよりできないように書いてあります。そこが、昼間の明かりで物を見るというように思えばよく分ります。だから凡て早いのです。夜ですと探り探り、見当をつけてやるのですから、偶(タマ)には間違ったり、やり損(ソコナ)ったりする事がありますが、昼間は遠くまで見通しがつきますからそういう事はないのです。ですからして、これからは一層早くなります。それで、今年一年でも随分早いです。知らるるとおりハワイに三月から手をつけて、もう相当立派な本部が出来てしまっているのです。それも、別にこっちから金を出したわけでなく、先方で半年ばかりで作った信者が金を出して本部を造るというのですから、これもおそらく破天荒(ハテンコウ)な話です。それで、来年は米国の方も相当活躍しますから、これも又予想もつかないほどの収穫を上げるでしょう。それから又熱海の地上天国が出来ると、これは又兎に角日本中の評判になりますから、大変に大きな刺戟を与えるだろうと思います。私の方で一番困るのは、救世教はやっぱり今流行の新宗教だ。それで、新宗教の中では少しは頭角を抜いているようだが、結局○○会だとか、○○○○教だとか、○○○○とか、そういったように他の新宗教並に見られる事が非常に困るのです。ですからむしろ救世教の発展を一番妨害しているのは新宗教なのです。そこで世間に沢山ある新宗教と救世教とは違う、断然別のものだというように世の中の人に認識させるという事が一番肝腎なのです。その点において、箱根はそうでもありませんが、熱海が出来上ったら喫驚(ビツクリ)します。それもありますし、それから自然農法も、今年で余程認める人が多くなったようですが、この方も来年の収穫で、これなら否応(イヤオウ)なしだと思います。それらの点において、他の新宗教とは違う、救世教は特別だというような認識をされれば、それは素晴しい発展をします。今まで知った人はよく分りますが、中に入らないで外から見ている人は、どうも新宗教並に見るという、そういったような事が大変に発展を阻害(ソガイ)しているわけです。それで、そういう見方、観念を破るには、今度の熱海の地上天国が出来るという事が最も効果があると思います。それでこれはまだ、なにしろ未完成だから分らなかったのですが、漸く会館の形だけは出来、これから展望台にかかりますが、さっき言ったとおり此処は水晶殿とつけました。英国に水晶宮というガラスの家があるそうですが、「宮」ではあんまり大袈裟(オオゲサ)過ぎるのです。「ガラスの家」と言うと安ッポイですから、やっぱり「水晶」という名が一番よいですが、「水晶何々」と言っても、他に適当なのがないので「水晶殿」としましたが、「水晶殿」でも少し大袈裟過ぎますが、他にないのでそうしました。それで、この水晶殿が出来、美術館も箱根より大きさも倍以上あり、凡ての点において無論世界一と言ってもさし支えないです。それで、外国の人などは、箱根でさえ、大きさはもっと大きいのがあるが、内容においては世界的レベルと少しも劣らないという事を言っているくらいですから、今度熱海に出来る美術館は世界一と言ってもさし支えないものです。それで、美術館と、それから今言った水晶殿と、それだけでも兎に角日本の国の誇りというくらいに認めるだろうと思います。おそらく開闢(カイビヤク)以来これだけのものを造った人はないし、計画した人もないのですから、そこで救世教に対する見方というものがまるっきり違うだろうと思ってます。今の泥だらけになっている所を信者さんが見て、それほどとは思わないでしょうが、出来上れば信者さんでも開いた口がすぼまらないというように驚くだろうと思ってます。そういうようなわけで、あれだけのものが十年そこそこで出来てしまうという、その早さ、素晴しさというものは驚くのみだろうと思います。そうして、なにしろ私が箱根、熱海に来たのが昭和十九年ですから、まだ十年にはなっていないので、来年で十年になります。その時は、それこそ茫々(ボウボウ)たるもので、最初箱根に買った神山荘は十六万円で買ったのですが、私が持っている金がやっと五、六万円だったのですが、十万円というものはその時の信者さんの有力な人が作った金なのです。それから熱海の東山荘を買って出て来るというようなわけで、今の事を考えたら夢です。そういうようなわけで、仮に美術品にしろ、日本では一番とされてますが、浮世絵なども私があれだけは一年かからない内に集まってしまったのです。これを道具屋が不思議だと言ってます。それで私は、これは神様が大いに集められたのだなと思って、私はただ神様の事務執行者みたいなものです。神様が方々からいろいろ寄せて来るそれをただ取扱っているだけのものです。その代り神様の方は楽はさせません。というのは、いろいろな良い物は沢山来ますが、買う金には年中苦しんでいます。その代り又必ずキチキチとして、手も足も出ないようにはされないのです。そういうようで、浮世絵も僅かな間に集まって、今は日本一になってます。来年の三月に三越で浮世絵の大展覧会をやりますが、これは毎日新聞社の企画です。それで、箱根美術館出張展覧会と言いますか、そこは適当な名前をつけるでしょうが、そういうような工合で、これも今までお寺は随分デパートに出しましたが、美術館として出すのは初めてです。これは大阪、九州などにも続いてやる計画です。その浮世絵が、そのくらいの僅かの間に認められるほど集まったという事は素晴しいものです。それで、浮世絵以外の美術品も、いろんな計画で、展覧会をやるというような考えも、毎日新聞社で考えているとかいう話を聞きましたが、無論そういう事になりましょう。そこで、近頃美術という事に対する社会的の関心を非常に持たれて来ました。だから新聞で美術とか美術展覧会とかを扱わなければならないようになって来たようです。そういうような工合で、兎に角美術熱というものが非常に高まって来てます。これは日本ばかりでなく世界的で、外国でも非常に美術熱が高まって来て、特に米国などは非常なものです。それで私は将来米国で東洋美術特に日本美術を紹介しようと思って、その方法を考えています。それには、何んでも来年あたりロックフェラーなどが来るかもしれないという事を言ってましたが、そうしたら箱根美術館も見せて、私が話をしようと思ってますが、あの人が力を入れると、金は幾らでも出しますし、又非常に美術が好きだそうで、特に日本美術は好きなのですから、いずれは日本美術を主にしたものを、と思ってます。今年米国でやりましたが、あれはどっちかと言うと、国宝的、仏教的の物を主にしてあるのですから、どっちかと言うと官僚的美術品です。私はそうでなく、つまり民衆的美術品というものの展覧会を米国でやれば非常によいと思います。それは私の手でも出来ない事はないのです。というのは今年アメリカでやったのは、一口に言えば堅(カタ)すぎるのです。兎に角大体藤原以前あたりの物が非常に多いのです。足利、桃山、元禄あたりの物はごく少ないのです。民衆の芸術は元禄以後なのです。それまではその時代の権力者が楽しんだ美術品なのです。漸く徳川中期から人民が楽しむという美術が出来たので、それが非常に華やかだったのが元禄なのですから、つまり元禄以後の民衆芸術というものを大いに世界的に知らせる必要があるのです。ところが今までは本当の浮世絵だけだったのです。これは逸早(イチハヤ)くヨーロッパあたりまで行ったのですが、他の物は殆んど行かなかったのです。というのは大名などの方面に秘蔵されていたのです。それが終戦このかた散らばって出て来たために私なども手に入れる事ができたのですが、そういうようで、日本美術の、古代美術でなく中世紀以後の物を相当集めて多くの人に見せるという必要があるのです。そういうような意味で、救世教もそういう事が一番手取早(テツトリバヤ)いですから、その面から世界的になるわけです。そうして他の方面の救いの方は、とに角余程、何んと言うか、一つの比較、つまり美術の方面でも大したものだという事の信用を得て他の救いの方をした方が、つまり導きよいと言いますか、仮に医学の方でも、農業なら農業の方で自然栽培が日本中に知れ渡るようになれば、そこで救世教は大したものだという事になり、そこで“薬は毒だ”という事が耳に入りやすくなるのです。これは万事神様がやっているのですから、別にそういうふうに考える事は要らないのですが、救世教が美術に非常に力を入れているという事もそういうような訳です。このやり方は、やはり救世教ばかりでなく、例えてみれば聖徳太子が仏教を開いた時もやっぱりそのやり方です。それによって奈良というああいう仏教美術の都市が出来たわけですが、これは聖徳太子がとに角仏教を弘(ヒロ)めるについてそういうやり方をしたわけです。それが又日本の美術に対する大きな功績(コウセキ)になったわけです。とに角日本のあらゆるもの――そういった美術ばかりでなく、音曲でも舞踊(ブヨウ)でも、結局仏教から出てます。つまり仏教が極楽浄土の形を現わすという事が芸術を作った始まりです。それで歌舞音曲(カブオンギヨク)というのは極楽の相です。そこで法隆寺というのは七堂伽藍(シチドウガラン)を写したものです。それから祇園精舎(ギオンシヨウジヤ)という事は、一つの天国の、芸術――歌舞音曲といったものを現わしたものです。それはむしろ藤原期以後京都を主にして始まったのですが、それも結局、因(モト)はと言えば聖徳太子の仏教芸術が発展したものです。それからヨーロッパでもそうで、何んと言っても、さっき言ったイタリヤのヴァチカンのローマの文化というものは、キリスト教を主にして出来上ったものです。例えてみれば、奈良の大仏にしても、若し信仰の力が無かったらあれほどの物は出来ません。それから支那においてもそうです。支那の最初の始まりは三千数百年前の殷(イン)で、それから商(シヨウ)、周(シユウ)という工合に発展して来ましたが、その時代の物を見るとみんな仏器です。つまり仏様にあげる香炉(コウロ)とか花活(ハナイケ)とか、いろいろな器物がそういった道具で、それから発達しているのです。それで一番盛んになったのが魏(ギ)の時代――つまり六朝時代(リクチヨウジダイ)ですが、この時仏教芸術が非常に盛んになったのです。ですから支那の仏教芸術というものはみんな魏の時代の物です。それから、その後の唐時代から陶器が非常に盛んになりましたが、それはみんな銅器が基本になっているのです。ですからやはり仏に関係したものです。そういう工合で、芸術というものはやはり宗教から出ているものです。だから救世教が美術に対して非常に関心を持っているという事は、古い時代からそうなっているのです。それで芸術というものはやはり天国を現わすものなのですからして、宗教が基礎になるという事は当り前なのです。それでただ、その時代々々によってやり方が違うだけです。それで私がやっている事は二十世紀の時代に合っているわけです。ですから今まであったのは、古い時代の何百何千年前のやり方です。ところが新しい時代、要するに科学文化の時代にはそういった宗教的の物は未だ何も出来てないのです。そこに救世教が率先(ソツセン)してやったわけです。そこで箱根・熱海の地上天国がそういった新しい時代のやり方、形式、そういうものを表現したわけです。ですから今日でも宗教建築というと、おそろしく古い時代のものをやり、みんなそういった頭になってますから、救世教のようなああいったハイカラな物――ガラス造りの家を拵(コシラ)えるという事などおおよそ無いのですが、これは出来て当り前です。ただ救世教が先鞭(センベン)をつけたというわけです。ですから、これからやはり、それと、救世教は宗教ばかりでなく、世界的に地上天国を造るというのですからして、その規模、計画なりが、今までのものより大きいのです。一宗とか一国だけというものではないわけです。しかしそれも計画だけではないので、実際に造るわけです。ですから神様の方では地上天国というものを世界中に造られるわけです。これは救世教だけがやるのでなくて、その国の人が造るわけなのです。これは将来の話ですが、兎に角これからそういうふうにいろいろな事がいろいろな国にだんだん繋(ツナ)がって発展して行くのですが、これは今はそうなっておりませんが、霊界においては殆んど出来上っているくらいなものなのです。だからだんだん……時です。それで、スピードというものはだんだん早くなり、大きくもなるものです。ですからこれから非常に面白く、張合(ハリアイ)があるわけです。
………………………………………………………………
十二月二十五日
浄霊で病気がよく治るという事を、初めて浄霊を受けて治った場合によく聞かれます。そこで“なるほど”と思うように説明してやらなければならないのですが、それをできるだけ分りやすく書いてみましたが、まだ少し物足りないところがありますが、大体こういう訳です。
御論文〔⇒浄霊は科学療法なり〕【註 栄光二四三号】
つまりこの不純水素の毒粒子を焼いてしまうのです。その焼く熱度というものが大変なものなのです。ですから此処(掌)から出る光の熱は、それこそ寒暖計では計れないほどの熱ですが、ただ熱の霊なのです。普通の熱いというのは熱の体なのです。熱の霊というのは、体ではないから、その熱さは感じないのです。その代り熱としての力は非常なもので、むしろ無限と言ってもよいくらいなものです。こう説くのが科学的説明なのです。科学的と言っても機械的ではないのです。言わば霊的科学です。それで霊的科学というのは今まで人間には経験がないからちょっと分り難いのですが、理窟はチャンと合っているのです。というのは今の医学などの科学というのはごく幼稚なものだから説明ができないのです。つまり病気の原因は何だと言っても、医学では説明できないのです。それを無理にこじつけて説明してます。よく新聞や雑誌に出てますが、その苦しいのはよく分ります。こじつけだからして始終説が違って来るのです。最初この薬は非常に効くという奴が、だんだん時がたって来ると逆作用が起こるとか言うのです。結核によく効くという抗生物質というのが、最初はよく効いたが、だんだんやっている内に、体の方に又それに対抗する物が出来るというので、かえって逆に結核菌の力が強くなる、という事をこの頃言い出してます。そういうようで、根本が分らないから上面(ウワツラ)だけで、半年も効くと鬼の首でも取ったように大騒ぎをするのですが、二年たち三年たつとみんな駄目になってしまうのです。今までの結核の特効薬というのはみんなそうです。ですから私は今まで薬が出る度に、今に駄目になると言って笑うのですが、これは何んでもない事で、当然なのです。今までは物質的説明はできるが、科学的説明はできないのです。だから科学ではないと言うのです。ところがこっちの方を非科学と言い、自分の方を科学と言うのですから、おおよそ逆です。今の文化というのはそういうものです。それを今の文化的の人が威張って言っているのですから、笑うべきものです。物事がうまくゆくはずがないのです。始終みんなアップアップやって失敗ばかりしてます。つまり救世教というのは一つの高等教育です。つまりまだまだ大いに未開人的分子が残っているのを大いに分らせるというわけで、教育です。それには実際を見せなければ信じないから、浄霊やいろいろな奇蹟を見せて信じさせるというようにしてますが、実際を見ても信じない人が沢山あるのですから、如何に迷信に捉(トラ)われているかという事が分ります。迷信者の方が迷信でないものを見れば、やっぱり迷信と見るのです。尤も、そういった迷信が無くてチャンと分っていれば救世教の必要がないわけですから、救世教を世界的の立派なものにするにはそういう迷信者が大いに必要……と言うよりか、それが根本です。それについて、信仰に関係なく無神論をやっつけるようなふうに書いてみました。
御論文〔⇒無神論について〕
かなりやっつけてありますが、無神論者を分らせるには、宗教的だとどうしても最初から毛嫌(ケギラ)いしますから、かえって分り難いので、信仰を抜きにして書いてみたのです。つまり人間の上等と下等と言うか、そういうような事に心が向くという事は、人間としては頭脳が上等なのです。ただそういう事に全然関心を持たないで、毎日を、儲かるとか儲からないとか、思うようにゆくとかゆかないとか言って気をもんで、要するに高等な思想という事に向かないという事は、それだけ魂が低いわけです。だからそういう事を考える人――哲学者とか思想家というのは、人間で言えば上等な部類に属するのです。というのは魂の位置、霊の位置なのです。なにしろ霊の地位というのは百八十段もあるのですが、上に行くほど、つまり働きが高等なのです。そこに、真中の線――地平線――上下を区別している線があり、その線を抜いて上に行けばよいのです。それで、その線の上がつまり神様の分野で、線から下が獣の分野です。動物界です。そうなってますから、そこで今の偉い人でも、無神論者は線よりか以下なのです。それで線の所まで行くが、それを抜く事ができないのです。神様を知る――神様は確かにある、というのは線を抜いたわけです。僅かなところで全然世界が違ってしまうのです。ところが線の以下ではどんな偉い人でも、智慧(チエ)があっても、それは悪智慧になるのです。悪い事をするために働く智慧になってしまうのです。線を抜いて上に行けば、その人の考える事、やる事が凡て本当の人間となり、つまり善だからして、まず間違いないわけです。それと共に罪を作らないからどうしても不仕合せが来ない、幸福をかち得るわけになります。その点です。ですから信仰というものは、その線を抜く事を教えるだけでなく、“なるほど、それに違いない”と信じさせる事です。それが信仰の根本です。線を抜いてからも、やっぱり幾つにも段があるのです。ところが大抵な世間の信仰は低いのです。稲荷様とか権現様を信仰するのは、線をちょっと抜いた所です。それから何々教とか何々宗というのになると大分上になって来るのです。ところが上になったとは言っても、まだ本当の上ではないのです。線をちょっと抜いた所だから直ぐに下に落ちてしまうのです。この間の霊友会というのはそうです。不断は上になっているのですが、どうかすると下に落ちてしまうから間違いをしでかすのです。そういうふうに考えると、分り難い事はないので、実に分りよいです。それで線から上の段で一番高いのが救世教です。そうなると力が違って来るのです。では今までそういった上の段に行かれる宗教は何故無かったかというと、今までの宗教は全部月の神様なのです。つまり夜の世界だったから月の神様が支配していたから、光が足りなかったのです。今度は太陽が現われたのです。ですから私のこの病気を治す力も太陽の力です。今読んだ水素の毒粒子を焼き尽くすという火素は太陽の力だからそういう事が出来るのです。ところが今までは宗教でも何んでも全部月の系統です。太陽の光からみると六十分の一ですから、六十分の一の力しかなかったわけです。ところが今度は今までよりも六十倍の力ですから、そこで信者の人でも素晴しい力を発揮するわけです。キリストでも月の神様の最高のものだから、月だけの力しかなかったわけです。私の弟子は、月の力よりも太陽の光は、僅かでも、やっぱりそれだけの働きが違うわけです。ですから奇蹟が現われるという事はそういうわけです。今までない事があるという事は、今までは月の力であったからで、今度は日の力になるという事に大きな違いさがあるわけです。そう考えると、救世教の奇蹟が多い事も、浄霊で病気が治るという事も分るわけです。別に難かしい事はないわけです。ただ、今まで太陽の方の神様が出なかった、出られなかったというところが根本なのです。それで、今度はその太陽が現われたのです。昼間の世界というのはそういうわけです。宇宙というものはそういう事になっているのです。凡て夜昼の区別があるように、大体一年、十年、百年、千年、万年というように、定期的に決まっているのです。今度昼間の世界になったのは三千年目になるのです。実に宇宙というものは無限の神秘であって、到底言葉では言われないくらいなものです。それで悠久(ユウキユウ)のものですけれども、悠久の中にも大中小、大中小となって変化する事になっているのです。今度は三千年目で昼間になったのですが、三千年で一回転するのです。それで三千年というと永久と言ってもよいです。三千年ではつまらないと言っても、自分の命よりはずっと長いのです。三千年の間には幾度も生き代り死に代りしているのです。そのくらいの変化ですから、今度の変化というのは大変化であるし、祖先以来ないものです。ですからこれに生まれ合わせ、この仕事に携(タズサワ)った人はどんなに仕合せか、祖先以来ないのですから大変なものです。そういうような大変化だからして、分らせようと思ってもなかなか分り難いのです。しかし分り難いけれども、聞いてみれば成程そういう事も有り得るわけだという事も分るわけです。こういう話は、哲学でもなければ宗教でもない、新しいものですが、強(シ)いて言えば宗教の哲学みたいなものです。それで、これを知る事が覚りを開くという事なのですが、しかし覚りを開くというが、今までの覚りは其処までは分っているのですが……それを朧げながら分ったのはキリスト、釈迦という人達です。釈迦が“仏滅の世が来る”という事を言ったのは、或る程度分ったから言えるのです。それからキリストの“天国は近づけり”という事も或る程度まで分ったわけです。けれども、私が分るだけは分らなかったわけです。若し分れば、その時にもっと素晴しい奇蹟=大きな力を現わさなければならないです。救世教というものは今までの観念でゆくと非常に難かしいようですが、分ってみればかえって今までよりもずっとよく分るのです。それは根本が分るからして、非常に難かしいようでいて非常にやさしいのです。丁度病気を治すようなもので、医者の方で首をひねってどうにもならない者が、こっちの方でこうやって治ってしまうのですから、理窟は同じです。ただあんまり違い過ぎるので、その点に骨が折れるのです。
………………………………………………………………
それから一昨日の寄書の中にちょっと面白い話がありました。事務所の人と建築の方の椎野さんとの談話で――今度の栄光に出します。これは私も喫驚したのですが――会館の天井の高さですが、この間建築の方の博士が来て見たのか図面でか、兎に角すっかり見てもらったのです。そうすると、下から上までの寸法というものがピッタリ合っていて少しも違ってないというのです。これを合わせるには学者が二カ月かかるそうですが、それを私は五分ぐらいなものでした。その高さを模型でやってみて、それから丁度この辺だと思って、何十何尺と決めたわけです。それは別に考えて頭を使ったわけではないのです。ただ見た感じで丁度このぐらいがよいと決めたわけですが、学者の方ではそんなに大変なものです。それから柱の太さも、やっぱり最初見本を見た時に、直径二尺八寸が丁度よいからそれにしろと言ったのですが、それも今度、太さが建築にピッタリ合っているのだそうです。重量とか、そういった計算でしょうが……。それで非常に驚いたという事が出てました。丁度これは、医者がいくらかかっても治らない者が浄霊で、ちょっとこうやって治るというのと理窟は同じだと思います。ですからこれからだんだん出来て来ますが、名前は「熱海地上天国」としますから、そのつもりで……。箱根地上天国、熱海地上天国、京都地上天国というように、だんだん各地に地上天国が出来るわけです。それで展望台の上のガラスの家は「水晶殿」と名前をつけました。その高さから屋根の形から全部私がやったのですが、これは建築屋の方では非常に難かしいものなのです。六尺の物を接(ツナ)ぎ合わしてゆくのです。それで普通のガラスでは太陽が当ったりするとキラキラして見難いので、プラスチックにする事にしました。これならそういう事はないし、非常に丈夫です。“風が強く当ったらどうか”と言うから、私は“そういう心配はない”と言ったのです。というのは、風が当っても、丸くてスベルから、風をよけると言ったのです。それで予定よりもウンと大きくしました。というのは見物人がウンと来るだろうと思いますから、百人ぐらいが一度に入れるくらいな大きさにしました。これが出来たら、日本中の大変な評判になるでしょう。
………………………………………………………………
十二月二十六日
メシヤ会館の建築について、これをやっている椎野という人に、事務所の酒見という人が対談して、椎野の言う事に面白い事があるので読ませます。そうしてその説明をします。
寄書〔メシヤ会館現場責任者椎野氏を訪ねて〕【註 栄光二四二号】
これについて思い出した事は、法隆寺の五重の塔の寸法が実にピッタリしている事です。これは聖徳太子が造ったのですが、やはり聖徳太子が、寸法でも何んでも感じたままを“こうしろ、ああしろ”として出来たのがあの五重の塔ですが、これが、今の建築家でもあんなにうまく合っている寸法は出来ないのだそうです。私も去年行った時に五重の塔を一番よく見ましたが、実によく合っています。高さと言い、一階々々の寸法と言い、屋根の形と言い、言うところがないのです。というのは、聖徳太子は私が生まれたのです。ですから私のやっている事が聖徳太子とよく似ているのです。あそこに夢殿(ユメドノ)があり、其処に救世(グセ)観音というのがありますが、あれは「自分は今にこうなる、こういうふうに生まれる」という事を暗示したものです。夢殿というのは聖徳太子の居間だったのです。それで記念に拵えて、救世観音を作って、これは不断開けてはいけないという御秘仏(ゴヒブツ)になっているのです。今のメシヤ会館の寸法がピッタリ合っているという事は、それによく似通(ニカヨ)っているわけです。聖徳太子がとに角日本に仏教を弘めたのは、奈良を中心として奈良に仏教美術を、自分が作って始めたわけです。私は、聖徳太子が日本的だったのを、世界的にするわけです。そこであの時代には仏教というのは新しい宗教だったのです。それまでの日本は神道だったのです。だから救世教という新しい宗教を開くには美術を応用したわけです。ただ、時代が違うから、あの時代には大体支那の仏教美術を基本として、聖徳太子の草案(ソウアン)によって作ったものです。それから仏教が日本に拡がったわけです。ですから本当の原始仏教の基本=基礎です。一番分りやすく言えば、聖徳太子が世界的にやるという事が救世教ですが、けれども聖徳太子は仏教ですから、教えだけで、病気を治すとか自然栽培とか、そういう事はやらなかったのです。大体仏教というのは、つまり教えですから、これを弘めるには御説教で弘めたのです。経文が本(モト)で、お経を解釈して、お経を本にして精神的に救ったわけです。それで私の方はそういった御説教的のやり方は、今までに充分できてしまってますから、そんな必要がないと共に、御説教だけでは本当に救えないというわけで、他の病気治しなどもやったわけです。ですから今言った建築がよく似ているわけです。つまり学問――科学の方は計算とか方程式とかそれによっていろいろ割出してゆくのですが、私の方は感じです。天井の高さも、見た時に、大きさと、宗教建築ですから劇場や何かと違って一階であって、大勢が敬虔(ケイケン)な気持で、あの部屋の中に入った時の感じとかで、どのくらいの高さが丁度よいかと、そういうような条件を考えると、自然にこのくらいの高さがよいという事が浮かぶのです。ですから感じでこの高さにしろと言ったわけです。それから形も、カマボコ型の天井にしたのですが、それもやはりあそこに入るとそういう形がよいように感じるのです。それから柱の太さにしても、見本をざっと作ったのを見ると、全体から割出して丁度このくらいの太さがよいという事でやったのですが、それが学問上からも合っているわけです。それで学問というのはこういうわけです。いろんな事で理詰(リヅ)めにしてゆくわけですが、それは何年も何十年もかかってだんだんやってゆくわけです。それが、私がやるのは早いのです。それだけの手数をその場でやるわけです。結果の方が先に分ってしまうのです。ですから熱海にしろ、京都や奈良が千年以上もかかったのが、僅か十年の、百分の一で出来てしまうのですから、丁度医者が何年もかかって治らなかったのが、これ(浄霊)で僅かの間に治ってしまうという事と同じような理窟です。ですからして、これからも非常に早く世界中に知れるというようになるわけです。それで建築ばかりでなく、あそこに行って、みんな見て分るでしょうが、今道路を作ったり木を植えたり、いろいろやってますが、それは二、三度行って三十分か一時間ぶらつけばすっかり分るのです。だから考えたり迷ったりする事は殆んどないです。歩く内にチャンと分るのです。これは自分でも始終不思議に思ってますが、それが又面白いのは、時期々々に応ずるのです。必要な時期が来ると直ぐに分るのです。時期が来ない内はなかなか分らないのです。ヒョッと見て分らない時は、これはまだ時期が来ないからだと止してしまうのです。時期が来ていると直ぐ分るのです。ですから、随分難かしい所があって、どうしたらよいかなと分らない事があります。そういう時は止して時期を待つのです。そうして時期が今決めなければいけないという時になるとはっきり分るのです。今やっている美術館の所から展望台に行く道路ですが、其処の所が普通はちょっと分らないのです。非常に急勾配(キユウコウバイ)になっているし、どの辺からどういうようにゆくかという事が、ちょっと見当がつかないのですが、それが丁度その時期になって来たので、この間二度ばかり行きましたが、実によく分りました。その道が出来ると自然に無理がなくゆくのです。そういうようですから、神様の仕事というのは実に不思議なような、面白いような、変なものです。何から何までそういう工合で、美術品にしても、こういう物があればよいな、こういう物が来ればよいなと簡単に思ってますが、それも、あれはとても手に入る物ではないと思っている内に、時期が来るとスラスラと入るのです。それで入ってから、これはこういう展覧会をやらなければいけないのだという事が分るのです。そういう事を話していると切(キ)りがないが、それは面白いものです。来年は会館と展望台の上の水晶殿が出来ますが、これが又評判になるだろうと思ってます。おそらく世界にないです。私は前に写真でアメリカでのガラスの家を見た事がありますが、これは円形というわけではないので、ただ凸凹(デコボコ)したガラスの家なのです。最近できた建築で作ったのをみましたが、三尺巾の平なガラスで、太い木の縁(フチ)がついて丸くなっているのです。これは大して珍しいやり方ではないのです。今度出来る水晶殿は六尺巾のガラスを曲線にして接(ツナ)ぎ合わせるのです。接ぐのもなるだけ目立たないように工夫するつもりです。若し間に入れるとすればジュラルミンか何かを入れるつもりです。それでガラスでは日が当るとチカチカして景色が見難いですから、プラスチックの透明なのを使うつもりです。それで、今度は美術館もガラスでなくプラスチックでやるつもりです。ガラスですと、光線が当るとチカチカして、少し離れて見ると中の品物が消されてしまうのです。近代美術館ですが、ガラスを立てるとチカチカするから斜(ナナメ)にしてあります。見た感じが、何んだか安ッポイような、地震の時にガラスが外れそうな感じがします。尤もアメリカあたりの美術館はガラスは使わないそうですから、できるだけ巾広くしてプラスチックでやろうと思ってます。又その方が壊れる憂(ウレイ)がないです。水晶殿も、下からの高さから、屋根の工合も、全部私が設計しました。これはなかなか難かしいのです。屋根は円形で平です。最初の設計よりもできるだけ広くしました。何故と言って、随分人が来るでしょうから、百人ぐらい入ってゆったり見れるぐらいの大きさです。道も後戻りをしないで見られるように工夫したのですが、いろいろな道の工合も、なるほどと思うようにつけたつもりです。まだいろんな細かい事もありますが、それは出来てから見るよりしようがないです。
………………………………………………………………
この間NHKの英語放送の主任をしているグリリという人が来て、書くつもりで見に来たのですが、あまりに規模が大きいのと素晴しいので書けない、だから批評を書くのを止めた、ただ現場を見ろという事だけは書く、と言ってました。それで放送協会の会長の古垣という人が熱海に居るそうですが、始終親しくしているので、この間行って熱海に岡田という日本では珍しい立派な人が居るのをあなたは知っているかと言うと、知っている。では何故ラジオで紹介しないか、変なアラばかり見付けて、何故こういう事を放送しないかと言ったところが、何んとか考えるから待ってくれと言っていたそうです。だから来るかも知れないと言ってました。それから、外務大臣が会いに来ていろいろ感謝の意を表して、今後のいろいろな計画とかを聞き、兎に角外務大臣が大いに関心を持つものだが、そういう事はありませんかと言うから、全然そういう事はないと言ったのですが、そういう話がありました。又その人の奥さんというのが偉いのです。奥さんはニホン・タイムスの記者をしているのですが、実に観察が鋭(スルド)いのです。私がアメリカの人は素晴しいと言って褒めたところが、日本の新聞記者はどうかという話が出て、日本の新聞記者とすれば“救世教の奴は新宗教で新しいくせに、よくこれだけ儲けやがったな”“実に金儲けがうまい”と、そのくらいなものだと言ったら驚いてました。つまりアメリカの人は、大きなものを大きな目で見るからよく分るのです。ところが日本の新聞記者は、大きなものを小さな目で見るから――一部分で見るから分らないので、これは全くそうです。日本の新聞記者を非常に悪く言ったが、此処には居ないでしょうが、居るとすれば気持を悪くするでしょうが……。ですから、大きい中には欠点もあるでしょうし、気にくわない点もあるでしょうが、気にくわない点だけを見付けて、これを新聞に書くというわけです。そういうようなわけで、日本人には島国根性(シマグニコンジヨウ)というものが多分にあるのです。だから政治でも経済でも、どうも大局を見ないで小さい所を見るから、そこで争いという事になるのです。両方でアラを見ているのです。私はよく言うのですが、新聞記者に“日本の政治家というのはヤクザと同じだ。ナワ張争いとか、ともすれば腕を振うという事は、それと少しも違わない”と言うと、これにはみんな感心してます。だから吉田とか重光とか言っても、親分と言ってますが、これはヤクザ気分が多分にあります。よくナワ張争いと言いますが、これは昔ヤクザ連中がやった事です。だからヤクザというのは喧嘩が商売ですから、今の政治家はそれによく似てます。
………………………………………………………………
無神論についてちょっと面白く書いてみました。
御論文〔⇒無神論について〕【註 栄光二四二号】
………………………………………………………………
話はいろいろになりますが、今年も僅か数日でおしまいになります。丁度去年の一昨日の二十四日が私の裁判の確定した日です。それからやっと気分的に明かるくなって思いきって仕事でも何んでも気がはいるようになったのです。ですから僅か一年で、随分発展……でなく、発展の気構(キガマ)えになり、そういった動きが強くなって来たようです。それで来年はいよいよ脂(アブラ)が乗って、メシヤ会館も出来ますし、それから箱根の美術館も素晴しい計画があるのです。それについて、来年三月に三越七階の昔の特別食堂で浮世絵大展覧会をやる事になってます。此処の面積が百五十坪ありますが、箱根美術館は平にして百坪だから、五割広くなるわけです。そこに箱根美術館出張展覧会というか、そういう事をやる事になってます。大体決定しました。だから箱根美術館の非常な宣伝になるだろうと思います。無論大阪、九州にも続いてやるでしょうから、救世教の非常に特異な存在という事が世の中によく知れるわけです。それで何んとしても、新宗教がいろいろあるそれが、如何にも、はっきり言えば低級なのです。今度問題になった霊友会とか、踊る宗教とか、爾光尊とか、如何にもレベルが低いのです。そこで“救世教という奴は近頃出来て、少しは違うようだが、結局あれも新宗教の一つなのだから大した事はない”と言って軽蔑するというそういう点が大いにあるのです。それが救世教の発展の一番の邪魔をしているわけです。それで、入ってみて本当に食べてみると“これはうまい、今まで何故知らなかったか”という事になるのですが、そういう点を分らせるには美術館が一番よいです。ですから救世教は他の新宗教とは違う、それどころではない、既成宗教もひっくるめて、断然素晴しいというところまで認識させなければならないのです。そこまで分れば後は楽で、素晴しい発展をするに違いないのですから、そういう点において美術館が非常に大きな役をしているのです。この頃日本中にはかなり知れ渡って来ました。それから外人間にも大分知れて来てます。二、三日前もポルトガルの公使とフランスの大使が是非浮世絵や屏風を見せてもらいたいと言って来たが、閉館中は無理だからと言って断(コトワ)りましたが、来年開館すれば外人の観客も随分あるだろうと思います。そうして外人間に評判されるようになって、それを日本人が知ると、大いに信用するわけです。そういう点から見ても、来年は非常に面白いだろうと思います。
………………………………………………………………
十二月二十七日
いよいよ今年ももうおしまいですが、丁度去年の暮の二十四日に裁判が片付いて、それから明かるくなったわけで、今年に入ってからハワイ、アメリカにクワを入れたわけです。それに箱根の地上天国も完成したし、熱海のメシヤ会館も兎に角形だけは出来ましたし、今年は発展の基(モト)が大分出来たような形になってます。割合に収穫のあった年とでも言えるわけです。散花結実とすれば、実が少し大きくなったわけです。来年はこれが又育ちますから……。しかも秋には会館と展望台の上の水晶殿が出来上りますから、又大いに世間の注目を引くと共に、教団も発展するわけです。何時も言うとおり、箱根は霊で熱海は体ですから、熱海が出来上るという事は体的に大きくなるというわけです。御神業というものは凡て型でやってゆくのですから本元(ホンモト)が出来、又形が大きくなるという事は、全体的にそうなるわけです。熱海は体的ですから、会館が出来るという事は、丁度やはり建築のような工合に御神業の方もしっかりした様相(ヨウソウ)になって、大きさも目立つように大きくなるわけです。こういう訳になるのです。支部などでも、建物を少し拡張すると、それだけ教線が拡がるものです。だから形も、支部の建築などを相談される事がよくありますが、つまり家相は、四角なら四角の物でも、ちょっとでも凹(ヘコ)むものがあるといけないのです。凹む形がいけないのです。その反対に少しでも出る形があると拡がるわけです。家相や土地というものも運命に非常に影響するのです。だからして、やっぱり理窟に合うという事もそういう訳で、凡てが順序とか形とか理窟に合うという事が、小さいような問題でいて案外結果は大きいのです。メシヤ会館を今建築している椎野という人に事務所の酒見という人が聞いた事で面白い事があるので読ませます。
寄書〔メシヤ会館現場責任者椎野氏を訪ねて〕【註 栄光二四二号】
これについて思い出すのは法隆寺の五重の塔ですが、この法やそういう物がよく出来ているので専門家の方の驚異になっているのです。私は去年の春に京都に行った時に五重の塔を一番よく見ましたが、全くよく出来ているのです。その高さと言い形と言い、何処から何処まで申分(モウシブン)ないのです。これは聖徳太子が造ったのですが、聖徳太子は私と同じように、ちょっと目で見計(ミハカ)らって“こうしろ、ああしろ”と指図したに違いないのです。その時には専門的の機械やそういう物がないのですから目分量(メブンリヨウ)でやったに違いないです。だから私のやるやり方と大体同じわけです。というのは、聖徳太子というのは私が生まれたわけなのです。それで、千二百年前に生まれて仏教を弘めるという事について、まず一番肝腎なのは、御説教やそういう事では手緩(テヌル)いので、大衆を教化するという事にはまだるっこいのですから、それにはああいった建物とかいろいろな設備で、まず注目を引いて、其処に見物に行くとかお参りに行くという事で知らず識らず仏教なら仏教に心が向くようにする、それが一番効果があるわけです。お釈迦さんもそのやり口をしたわけです。七堂伽藍などを造ったのはそういう訳です。ところがお釈迦さんも聖徳太子も、出が皇太子ですから、凡てにいろいろな便宜(ベンギ)があるわけです。勿論金もそうですし、それだけの格がありますから……。ところが私は素寒貧(スカンピン)の一平民ですから、その点においては誇ってもよいと思ってます。そこで聖徳太子も大体お釈迦さんからヒントを得てああいう物をやったに違いないです。ですから法隆寺というものは七堂伽藍の形なのです。そうして、夢殿に救世(グセ)観音というのがありますが、これは一年に一度開くという事になってますが、あそこの位置が聖徳太子の住まわれた居間に当るのだそうです。それを記念に建てたわけです。それで「救世(グセ)観音」というのは「救世(キユウセイ)観音」と書くのですから、やっぱり「メシヤ観音」というわけです。だからして私が今やりつつある事は、聖徳太子が世界的になったようなものです。救世教を開くについてまず地上天国を造るが、今のところは日本です。この間も言ったとおり、西が京都・奈良であって、これは根本は仏教的のもので、仏教で言えば極楽浄土の形を造ったわけです。今度は私は、東の箱根・熱海というごく良い位置を選定して造ったのですから、西の極楽浄土に対して東の地上天国という事になったわけです。仏教の根本は阿彌陀さんですから、阿彌陀さんは西の方で、西方浄土です。東の方は「東方観世音菩薩」と言って観音様になるわけです。そこで最初は観音教団で出発したのです。そうして東に極楽浄土を造らなければならないが、もう仏教の時代は過ぎて、今度は世界的にメシヤの時代になったから、凡てのそういった様式も世界的に造ったわけです。そういうふうに見て来ると、出来るべき時に出来たので、別に私がそういうつもりでやったわけでもなく、自然に神様からやらされたわけです。だから何んでもかんでも、何万年何十万年も前から準備したという事がよく分ります。今美術館が出来る方の土地をいろいろ指図しましたが、これは簡単でして、私が二度行って、一回三十分か一時間ですっかり指図しました。道についても、もう少しするとすっかり出来上るから分りますが、これはなかなか難かしい所でした。ところが行って見ると自然にそういう形になっているのです。これは神様は前からそういうふうに準備してあるのです。ですからみんなが、此処にこんな立派な道がどうして出来るだろうと喫驚(ビツクリ)してますが、それはそういうふうに地形がそうなっているのです。だから簡単なものです。それから今読んだように、天井の高さにしても、見て丁度このくらいの高さがよいというように直ぐに浮かぶのです。それは何んという事はないので、決まっているようなものです。高からず低からずです。それから柱も太からず細からずで、チャンと出るのですから、何んでもないのです。それから又階段の所の手摺(テスリ)ですが、ああいう形というのは他にないです。これなども、どういうふうにしましょうかと言って来たが、私も最初は全然分らないし、考えてもいなかったので、そこで行って見ると、ああいうふうにチャンと出来てしまうのです。それでああしたのです。ところが神様の方の仕事というのは、みんな非常に楽で手間(テマ)がかからないのです。あの手摺なども実に簡単なものです。あれなら一番安く出来るでしょう。ところが形が非常に面白いと非常に褒められます。そういう工合で、不思議と言うより外ありません。そうかと言って、その時にならなければ出ないのです。前からその設計をと言っても駄目なのです。私はどうしようかと思っても出ないと止めてしまうのです。その代り時期が来るとスラスラと分ってしまうのです。こういう事も「神は順序なり」で、こういう事にも非常に順序があるのです。丁度土地なども、隣の土地が是非欲しいと思っていても、どうしても駄目なのです。というのはその時は必要がないのです。ところが必要な時になって来ると、先方で買ってくれと申し込んで来るようなものです。それは面白いものです。ですから大体の事は前もって見当がつきますが、少し具体的に細かい事などは、その時にならなければ出て来ないのです。そういうような工合で、この秋に会館と展望台が出来ただけでも世の中が随分喫驚するだろうと思います。展望台の方も最初の予定よりも相当大きくしました。いよいよ知れると随分来るだろうと思います。水晶殿の中に優(ユウ)に百人ぐらいが腰掛けて景色を見られるというくらいに広くしました。これも世界にないでしょう。直径十二間の円を半分に切った半円で、廻りは六尺巾の曲線ガラスで接(ツナ)ぎ合わせてゆくのですが、ガラスではギラギラして、日が当ると景色などは非常に見難いのです。プラスチックですとそういう事がないので、プラスチックでやるつもりです。建築雑誌に出ていた最近出来た丸い家がありましたが、三尺巾の縁(フチ)を太い木でやってますから、重苦しくてみられません。私の方はさっき言ったとおりで、大体プラスチックで接ぐつもりですが、若し工合が悪ければジュラルミンの細いのを使おうと思ってます。それから下の高さ、縁(エン)の高さとか、屋根とか、私が細かく設計しました。屋根は一尺の深さで、円形で平ですが、雨が流れるように上の方は少し勾配(コウバイ)をつけました。樋(トイ)は外に出さないで、少し縁(フチ)をつけて、凡て外から分らないようにしました。出来るとなるほどと思うでしょう。以前も言ったとおり、まず関東に行ったら日光を見ると共に、どうしても熱海の地上天国を見なければならないという事になるに違いないです。今年の日光見物に行った人は二百四十万と出てましたが、その半分としても百二十万です。だから一カ年に百万は大丈夫だと思ってます。そういうわけで、外国にも随分知れると思ってます。日本に来た外人は必ず来て見るに違いないです。美術館が出来てからではありますが、若し予定通り一カ年百万来るとすると、一人百円の入場料としても大変な金高になります。そうして箱根・熱海の十国峠の道路が悪く、と言っても金がかかりますから容易に出来ないのですが、駿豆鉄道も中途までケーブルをやろうというので、私の方の瑞泉郷の土地を譲ってくれと言って来ましたが、私はそんなケチな事をしないで、バスの道路を作るのなら大いに賛成して援助もするが、そんなケチなケーブルでは嫌だと何処までも突張ねました。箱根・熱海間というのは、どうしても大道路を作らなければならないのです。十国峠となると少なくとも十米以上、十二米ぐらいの道路を作らなければならないです。なにしろバスが頻繁で、今でも花見時には、箱根に行こうと思ったところが、両方にバスが止まっていて三十分以上待たされました。そういうわけですから、どうしても道路を作らなければならないです。若しそういうように収入があったら、その金で道路を作ろうと思ってます。こっちは奉仕隊の人も沢山居ますから、箱根・熱海の道路というのは訳ないです。私が設計するつもりですが、トンネルを二つぐらい作ったらよいでしょう。なにしろ廻りに人家がないから割合に簡単にゆきます。そうしたら将来素晴しいものです。箱根・熱海をそういうように繋(ツナ)いで、両方の地上天国をみんなに大いに楽しませるという事だったら、それだけで世界的の名所になるつもりです。
………………………………………………………………
浄霊について、病気が良くなるのはどういう訳だろうという事を聞かれる時に、こういう訳だという簡単な説明を納得がゆくような言い方をする、その一つの参考として書いてみました。
御論文〔⇒浄霊は科学療法なり〕【註 栄光二四三号】
今読んだだけではちょっと分り難いようですが、いずれ栄光に出しますから、これを幾度も繰返(クリカエ)して読んでいる内にはっきり分ります。はっきり分るという事は、つまり理窟に合っていればはっきり分るのです。医学書なら医学書をいくら読んでもはっきり分るわけがないので、というのは嘘だからです。間違っているからです。医学書よりかこの方が難かしいようでも、本当の理窟に合っているから必ず分るのです。そうすれば、未信者とか又浄霊で治った人で説明を聞きたい人にこれをよく説明してやれば、なるほどと分ります。そうすれば迷いが無くなります。そうでないと、浄霊で治って有難がっていても、やっぱり徹底しないから、再浄化や、この次他の病気が起こった時に医者に行くという事になるからして、どうしても徹底して本当に分らせなければならないのです。まだ書き方がちょっと完全ではないのですが、なにしろ非常に難かしいです。ずっと細かく、科学書のように書くとよいのですが、それでは手数がかかったりするので、なるべく切詰(キリツ)めて、ごく簡単に急所を説明して分らせるというのが一番よいです。浄霊の原理は、相当の信者の人でも分り難い点があるだろうと思います。その一番分り難い点は火素の力です。急所というのは曇りです。曇りというのは水素の中にある不純物で、毒粒子ですが、この毒粒子は細かくて到底顕微鏡では見られません。それを此処(掌)から出す火で焼くのです。水の中にあるものを焼いてしまうのです。ところがこの場合の水素というのは、ごく微粒子で、稀薄(キハク)なものです。それでこっちから行く火素の熱度というものは大変なものです。原子爆弾よりももっと高いのです。だからこの火素の力に遭えば、原子爆弾でも大丈夫なのです。又、それは物質ではないので、物質なら限度があるから弱いのです。原子爆弾でもその力というのは弱いのです。それで最も強い力というのは最も物質的でないものです。要するに目に見えず感じもしないという、ごく稀薄であればあるほど力は強いのです。ですから一番強いのは風の力です。風というのは大きな家でも倒したり吹飛ばしますが、これは一番目に見えないもので、おそらく、どんな大風でも目に見えません。見えるとすれば、それはホコリとか他の物質が見えるのです。風そのものは絶対に見えないのです。その見えないものがそれほどの力があるのです。ですから稀薄なものほど強いのです。人間でも、人間の考えが大したものです。大戦争をする英雄の頭の“ああしよう、こうしよう”という考えが大したものです。スターリンがあれだけ考えている事は、目には見えないから強いのです。それが言葉に出ると物質化して来るから、いくらか見えて来るのです。ですから考えている、それが一番力が強いのです。その考えたものを物質に現わす場合の働きが言葉ですから、言葉の方はそれ以下という事になります。そういうようで、目に見えないものほど力が強いのです。それで一番目に見えるものの力は馬力という馬の力ですが、これは一番よく見えます。これが今の浄霊の原理の急所というわけです。
(教二十九号 昭和二十九年一月十五日)