正義感

今更斯んな事を言うのは、余りに当り前すぎるが、実をいうとこの当り前が案外閑却されている今日であるから、書かざるを得ないのである。それは先ず現在世の中の凡ゆる面を観察してみると、誰も彼も正義感などは殆んどないといってもいい程で、何事も利害一点張りの考え方である。という訳で偶々正義などを口にする者があると、時勢後れとして相手にされない処か、寧ろ軽蔑される位である。ではそのようにして物事が思うようにゆくかと言うと、意外にも寧ろ反対であって、失敗や災難の方が多く、それを繰返しているに拘らず、これが浮世の常態として、別段怪しむ事なく、日日を無意識に送っているのが今日の世相である。

処がこれを吾々の方から見ると、立派に原因があるのであって、只世人はそれに気が附かないだけの事である。では一体原因とは何かと言うと、これこそ私の言わんとする所謂正義感の欠乏である。というのは多くの人は絶えず邪念に冒され、魂が曇り、心の盲となっている為見えないのである。これに就いて私は長い間凡ゆる人間の運不運について注意してみていると、それに間違いない事がよく分る。では正義感の不足の根本は何かというと、即ち眼には見えないが、霊の世界というものが立派に存在しているのである。そうしてその霊界には神の律法というものがあって、人間の法律とは異い厳正公平、聊かの依怙(エコ)もなく人間の行為を裁いているのである。処が情ない哉人間にはそれが分らない為と、又聞いても信じられない為とで、不知不識不幸の原因を自ら作っているのである。

そんな訳で世の中の大部分の人は、口では巧い事を言い、上面だけをよく見せようとし、自分を実価以上に買わせようと常に苦心しているが、前記の如く神の眼は光っており、肚の底まで見透かされ、その人の善悪を計量器(ハカリ)にかけた如く運不運を決められるのであるからどうしようもない。処が斯んな分り切った道理さえ、教養の低い一般庶民ならいざ知らず、教養あり、地位名誉あるお偉方でさえ分らないのは、全く現界の表面のみを見て、肝腎な内面にある霊界を知らないからである。それが為彼等はない智慧を絞って世を偽り、人を瞞す事のみ一生懸命になっており、これが利口と思っているのであるから哀れなものと言えよう。その証拠には結果はいつも逆で、巧くゆかない事実に気が附かず、上から下までその考え方になっている為、犯罪者は増え、社会不安は募るばかりである。従って今日の社会で何か行ろうとしても、邪魔が入り、失敗し、骨折損の草臥儲けとなる事が多い処か、中には新聞種にされたり、裁判沙汰になる人さえ往々あるのである。

私はこれ等の人達を、賢い愚昧族と思い何とかして目醒めさせたいと骨折っているが、それには神の実在を認識させる外にないのであるがこれが又非常に難かしい。というのは知らるる通り、現在指導者階級の人程、無神思想を以て文化人の資格とさえ思っているのだから、本当に分らせるにはどうしても機会を作って奇蹟を見せる事である。という訳で私は神から与えられた力を行使し、現在驚くべき奇蹟を現わしつつあるので、近来漸く社会に知れて来たようで喜んでいる次第である。そうして以上の理を一層徹底すれば斯ういう事になる。即ち正義そのものが神であり、邪悪そのものが悪魔であり、神即正義、邪悪即悪魔であると共に、神は幸福を好み、悪魔は不幸を好むのが本来であるから、幸不幸は人間の考え方次第であるから、この真理を肚の底から分るのが根本である。

以上の理によって、正義感を基本としなければ幸福を捕える事は絶対出来ない、という訳で悪程損なものはないのである。私は「愚かなる者よ、汝の名は悪人なり」と常に言っている位で、この理が分りさえすれば、今からでも忽ち幸運街道驀進者となるのである。但しこれには一つの条件がある。それは単に正義といっても二通りある。一つは個人の利益を本意とする小正義と、社会国家を主とする中正義と、そうして世界人類を主とする大正義とである。処が小と中は真の正義ではなく偽正義であり、大正義こそ真の正義である。例えば親に孝、君に忠は、煎じ詰めれば利己本位である以上偽正義である。この間の戦争にしても、日本が負けたのは日本だけの利益を主とした偽正義であったからで、どうしても世界全体の利益を目的とする大正義でなければ、永遠の栄えを齎す事は出来ない。これが真理である。勿論宗教にしても同様な事が言える。彼の仏教やキリスト教の如き大宗教が、今日衰えたというのは、大正義に見えても実は或程度の欠陥があったからで、それが今まで分らなかったのである。

処が我救世教に至っては、信者も知る如く、病貧争絶無の地上天国をモットーとしている以上、人類全体の利益が本意であるから、真の大正義の実行者である。

(栄光二百四十号 昭和二十八年十二月二十三日)