御 教 え 集 第三十号

昭和二十九年一月御教え

一月一日

去年の栄光の正月号には「⇒世界夢物語」というのを書きました。あれは面白い事があるのです。最初は「これからの世界」という題で書いたのですが、それから新聞に出そうという時に、ちょっと気に入らなかつたのです。「夢物語」としなければいけない気がしたのです。それで早速「世界夢物語」と訂正したのです。そうしてあれは、スターリンが生きているとどうしてもアイゼンハウワーと衝突(シヨウトツ)になるのです。そこであれを書いたのです。ところが神様の方では、とに角そうでない事になったのです。つまり夢物語になったわけです。それで私は、その後スターリンが死んでから、ソ連は━共産主義はまるっきりガタガタになってしまうと言ったのです。ガタガタと言っても、滅びてしまうというのでなく、ずっと勢いがくじけるというわけです。やはりその後そういう工合に非常に衰えました。一つの、何んとなく世界中が脅やかされているような不気味さがなくなって来たという、非常に温和しい、理窟の分るような形になって来たのです。それでこれからますます平和攻勢という方針でやってゆくと思います。今世界中がそういうわけで、一種の、明かるいというまでにはゆかなくても、とに角何かしら心が柔らいだというような形になって来ました。ただその代り、軍備がずっと減ったから、日本なども、特需景気というものもずっと減ったわけで、それがために経済的のマイナスの影響もあり、大分金詰りとか、又今年の政府の消極経済――インフレをできるだけ押えるというような方針になって来たために、この面だけは暗い方ですが、これも一時的の苦しみで、別に根本的の悪い意味ではないのです。ただ、こういう問題でも、結局去年の貿易尻(ボウエキジリ)が非常に悪いために日本の金が減って、ますます借金が多くなるという、貿易の不調が原因ですから、これを解決するのは何んでもないです。自然農法が普及されれば楽々と解決してしまいます。貿易尻の悪いという、つまり金が減るという事は、何んと言っても食糧問題が一番深刻(シンコク)です。まだ政府で発表してないが、この米や麦を買う金は大変なものです。そこにもっていって肥料ですが、肥料の内で、硫安を作る電力は大変だそうで、とに角日本で硫安を作る電力を節約すれば、半分減ると言われてます。一番電力を使うのが硫安だそうですから、こういう面からの経済的の影響というものも大変なものです。だから日本の経済とか凡てそういう事を楽々と解決するのは自然栽培です。ですから今年は一層自然栽培に対して運動をやる必要があると思ってます。

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それから熱海の地上天国は秋までにはどうしても開館の運びになるように出来ます。つまり会館と水晶殿ですが、美術館の方は来年になります。これが出来ると世界的の話題になるだろうと思います。世界中の注目を引かれるわけです。と言ってもまだ中途ですけれども、すっかり出来上ったら大変なものです。今やっている土地なども面積が拡がりつつあります。これを考えてみると、日本だけとしても、これだけの大規模にこういう物をやった事がないのです。大きな建物という事については、大阪城とか、丸の内の二重橋というものを作ったが、あれは本当に人類とか社会、大衆のために作ったのでなくて、自己の権勢(ケンセイ)を固持するために大いに威容(イヨウ)を示す事と、それから戦の時の防備という、そういったような考えが根本ですから、その点において私がやっているこの地上天国とは逆ぐらいに違うのです。それから日光も結構ですが、あれもやはり、三代将軍が徳川の天下を続けるために大いに威容を示すという事と、一説には、あの時代の各大名は懐が温かいので、まだ秀吉の残党が残っているから危険だ、それには懐を貧弱にしなければならないというので、そういう策略があったという事を言ってますが、そういう策略も幾らかあったでしょうが、あれを作った目的は、大衆的の考えは殆んどなかったのです。そういうようで、日本における大建築といった物はないのです。そこで箱根・熱海の地上天国は、日本始まって以来ないものが出来るわけです。それで日本のみならず、外国を見ても、なるほど支那の北京城などというのは大した物です。しかしそれもその時の王様が、やはり自己の権勢を大いに見せびらかすためと、それから自分の贅沢(ゼイタク)といった意味であって、大衆のためにどうという考えではなかったわけです。それからヨーロッパのヴァチカン宮殿にしても、やっぱりキリスト教の一つの本山として、丁度日本で言うと奈良の宗教的のものと同様に、金は大いに集まり、品物の良い物は沢山献納するというわけで、自然にああいう美術館が出来たのです。それから又ヨーロッパの中世紀は非常に宗教美術が沢山出来たので、どうしてもヴァチカンに美術館が出来なければならないような事になったのです。そういうような訳ですから、本当に地上天国的の、大衆のために造るという考えは全然なかったわけです。ですからそういう点において、こっちでやるものは世界始まって以来ないわけです。それともう一つは、この間のアメリカの新聞記者も言ってましたが、つまり美術館として品物は良い物がいろいろあるが、その位置が、箱根・熱海のような天然の美を採り入れたという所は別にない。その点においては世界にない、という事を非常に褒めてましたが、どの点から言っても世界の話題に上って、世界中で、日本における一つの大きな出来事として見るような事になって来ると思います。その結果、“一体救世教とは何だ”という事になり、“岡田茂吉という人物がやっている”“それは一体どういう人物だ”という事になって……これは普通言うと少し慢心みたいですが、別に私がやっているのでなくて、神様がやっているのですから、むしろ私は批判する立場に立っていると言ってもよいのです。“僅か十年か二十年たつかたたない内にこういうものを造った”というわけで、岡田研究という事が始まるだろうと思います。“どういう人物か、どういう思想を持った人物か”というわけで、私の書いたものを世界的に読む事になります。その結果どうしても今までの医学迷信、肥料迷信という事を分らざるを得ない事になります。又、そういう地上天国というドエライものを拵えるだけあって、彼の思想や彼の言う事は素晴しいものだ、第一これによって健康を快復する。病気が無くなる。肥料なしで豊作になる。それから無神思想を無くすれば犯罪者が無くなるという、いろいろな事を知るわけです。妙なもので、変な目を持って見ると、幾ら良い事を書いてあってもさっぱり頭に入らないのです。ところが、“これは普通の人間とは違う。確かに只者ではない。これはどういう事を言うのか”というそういった目で見ると一々感心する事になるのです。どうしてもそこにゆかなければ駄目です。そういったようなやり方は、絶対の神様がやっているのですから、驚くほどうまくやられるという事は分ってますが、とに角、美術をもって最初大衆の注目を引くという事は、神様はなかなか上手をやると私は思ってます。いくら高等な理窟を説こうと、素晴しい御利益を与えようと、それは暇がかかります。なかなか簡単に受け入れる事はできないものです。ところが見るものですと……それも見たいような物を見せるので、無理に押し付けるのではないのですから……実に簡単に効果が上るのです。それでいよいよ熱海の地上天国が出来ると、日本人が殆んど全部見に来るでしょう。それは一時には来ないが、とに角だんだん知れるに従って、どうしても見ずには居られないという事になるでしょう。今は出来かかりですが、出来上ったら、それに信者の人も喫驚します。つまり、その雄大なる構想と、まだまだ予想もつかないようないろんな所が出来ますから、まず天下の目をそばだたせるという事になります。それは箱根とはテンデ比べ物にならないくらいになります。それがすっかり出来るのは……美術館が出来るのは来年の秋までと思ってます。来年一ぱいなら大体出来ると思ってます。そうして去年一年間に日光に行ったお客が、二百四十万人と、この間新聞に出てましたが、ですからその半分とみても、百万人は来ると思います。それで一カ年百万人とすれば、入場料が大変なもので、何千万円というものになります。そこで、これで、箱根と熱海を連絡する十国峠の道路を、どうしても広い道路にしなければならないので、十米以上、二十米ぐらいの大道路を作るつもりです。これは駿豆鉄道も去年話をした事がありますが、向うは営利会社で算盤ばかりとってますから――もっと小さな規模で、ケーブル・カーに熱中していて、私の地所を譲ってくれと言って来ましたが、そういうようなわけで――会社では駄目ですし、県では金が無くて出来ないし、国家は尚更そうですし、そうかといって個人でやる者はないのですから、どうしても私がやるよりないのです。日本で一番肝腎なのは箱根・熱海ですが、これをもっと改革しなければならないし、又自然にそういうふうになって来ます。これほど交通が至便で良い所は日本中にないです。今此処から強羅まで行くのに一時間かかりますが、これは道路さえ良くなれば、半分の三十分で行けます。端の方だとすると、もっと早く行けます。ですからこれはどうしてもやらなければならないのです。入場料が予定どおりに入ればそれをやりたいと思ってます。そういうようなわけで、漸く救世教が、“普通の宗教とは違う、これは本当に大した仕事をする宗教だ”という事がだんだん分るようになると思ってます。そういうふうになってからが、浄霊医学だとか自然農法という事が……“これだけの事をする宗教だから確かにこれは本当に違いない。これだけの金はどうして集まるか”というと、“それは散々病院に行って命が無くなるというところを助けられた、その感謝でみんなが金をあげ、その金でこれだけの立派なものが出来る”とすると、“なるほど、そうするとこれは本当だ”という事になって分るのです。そうなるとこっちの目的どおりにゆくわけです。そういうふうな順序にするという、神様のやり方は、実に大したものだと思ってます。

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それからもう一つ面白い話があります。原子爆弾と浄霊とは同じ事なのです。霊と体だけの違いで、非常に似ているところがあるのです。それはどういう訳かというと、原子爆弾というのは熱です。今朝の新聞の見出(ミダシ)だけで見ましたが、太陽熱の移動だというのですが、熱度が非常に高いからです。ところで、あの原子爆弾から発する熱というのは、二万度か三万度か、何万度という事になってます。或いは、水素爆弾などの度数はもっと高いでしょう。そうすると、その火力の前には何物も焼けてしまうので、地上は無になってしまうのです。それで浄霊のこれ(掌)から出る光線と同じというか、むしろ本当の意味から言うと、浄霊の方がもっと火力が強いのです。ただ、原子爆弾は体の火力で、この方は霊の火力です。霊だからして、人間の五感に触れるような熱ではないのです。まるで無に等しい熱ですが、しかし力においては原子爆弾以上です。それで此処からの霊の熱というものはどういう働きをするかというと、病気の因は、私が説いてあるとおり霊の曇りです。霊の曇りというと不純水素ですが、不純水素というのは、不純水素中に毒粒子という非常に細かい粒子があり、それを浄霊の火素が焼くのです。ですからそれが体に写って肉体の方の毒素が溶けて出るというわけで、これは一つの科学的説明で、つまり理論科学です。ですから、人間の霊の曇りの内のその毒分は焼いてしまうだけの霊の火力が出るのだから、丁度霊の原子爆弾と言ってもよいわけです。そこで、体的原子爆弾が出来ると同時に霊的原子爆弾が出来たという事になりますから、非常に面白いです。それで体的の原子爆弾によって――丁度アイゼンハウワーが世界的に宣言しましたが――戦争はもうできない。だから原子爆弾を拵えても、お互いに止そうではないか。平和の方に使うようにしようではないかという事を唱え出してます。要するに物質的に戦争を無くす一つの力が出来たのです。それで浄霊の方は、これによって霊を浄めるために、人間の方が戦争をしようという気持にならないわけです。ただ、戦争の気持の無くなるという事は、戦争をしようという、争いを好む霊の力が弱いわけです。という事は、それが人間に憑って、人間にそういった間違った事をさせようというその働きが弱ってしまって、そこで人間の方は戦争意欲が無くなって、それから又体的には戦争ができないようになり、これをやれば人類が破滅になるという事を分らせるという、霊と体の両方を、神様が同じ時に出現させたという事は、そこに非常に関連した意味があります。これが、世界がいよいよ地上天国=ミロクの世になる……出来上るという間際に来たわけです。ですからして、原子爆弾を作ったのはアメリカですが、アメリカは体的による地上天国の根本を作り、それから私の方は霊的地上天国を造るという、その霊的力が日本に生まれたのですから、日本と米国の両国は霊と体で、その力が同時に出来て、いよいよ地上天国が出来る事になるわけです。前から私が言う“アメリカは緯の線であり日本は経だ。それで経緯を十文字に結んで、それからが本当の文明が生まれる”という事が、つまり具体的に現われるわけです。ただ、それを一日も早く人類に分らせる……少なくとも日・米の人間が根本ですから、これに一日も早く分るようにするというために、その最初として、さっきから話したとおり、地上天国が出来るという事によって、一番先にみんなの目を其処に向けさせるのです。とに角日本を先に向けさせ、次はアメリカ人と……それによっていろいろな救世教の真髄(シンズイ)が分るという段取(ダンドリ)になって来て、要するに地上天国出現に、一段、段を上ったという事になるわけです。

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一月二日

去年の栄光の新年号に「世界夢物語」というのを出しました。最初は「これからの世界」という題で書いたのです。そうすると「夢物語」と付けなければいけないというように思われて仕方がなくなったのでそう書いたのです。というのは最初書いたのは、スターリンが生きていて、ああいう強硬な決意がある、一方アイゼンハウワーが断乎としてやっつけるという、そういう計画が私に分るから、それで書いたのです。そうするとスターリンが死んで、死ぬと同時に全然変ってしまったのです。あの直後、丁度名古屋に行って“ソ連のやり方はずっと力が弱って、共産主義というものはヒョロヒョロになる”という事を私は言いましたが、そういう事を考えると、全く夢物語になったわけです。そこでアイゼンハウワーも、彼がそうなった以上、最初の方針を固執(コシツ)するわけにはゆかないという事になって、この間も原子爆弾について、アメリカとしては今までにない穏(オダヤ)かな論法になったわけです。又昨日あたりのマレンコフのあれに対する応酬(オウシユウ)も、何時もに似合わない平和的の、あまり不気味な事を言わないで、ごく平凡な事を言っていたという事は、世界の情勢――動きが大分変って来たです。ですから本当から言えばよいのですが、ただ、日本が今経済的に苦しんでいるその因は、特需がなくなったという事です。全然なくなりはしないが、余程減ったわけです。それは、朝鮮問題がああいったような情勢になって来たという事は、平和色が濃くなったそれが原因で、貿易が去年あたりより非常に悪くなったのです。それで今年らは政府は緊縮政策(キンシユクセイサク)をかなり強くやるでしょうから、そういった経済的関係のある人は相当苦しむでしょう。そういうわけで、去年の正月の考え方と今年の正月の考え方とは大いに違ったわけですが、その原因はスターリンの死です。大体何時の時代でも、戦争を起こすのは英雄です。近くはヒットラー、古くはナポレオンとかシーザーという英雄です。ところがこれから突如として出るかも分りませんが、さし当って、今のところはまずスターリン死後戦争を起こすような英雄は見当らないのです。ですから世界は余程平和色が濃くなるわけです。けれどもそう決める事もできないです。というのはマレンコフという人物は、とに角今の平和的のやり方が本当に心からの平和か、或いは一つの芝居か、それは分らないのです。彼の目的は、大体欧州の軍備を余程緩和(カンワ)しようという事と、それから大いにアジヤ方面の、今までソ連を恐れていた、そういった疑心を大いに緩和して、アジヤ方面を経済的に頭を撫でるというような事をして、ソ連の国民に対しても最近は非常に緩和政策をとって、生活水準を高めるように努力してますが、とに角周囲をすっかりいい事にして、経済的にウンと充実させて、そうして腰をすえてアメリカとやるというのかも分らないです。だからそういうふうに見れば、第三次戦争はないとは言えないです。ただ、延びるという事と、戦争がもっと大きくなるという事を頭に入れておかなければならないです。ここ暫くはまず戦争の危機はずっと薄くなるわけです。ただ難かしいのは朝鮮の休戦問題ですが、あれもとに角、中共が以前強硬だったのはやはりスターリンの生きているためと見なければならないですから、余程その考え方は変って来ていますから、大した事はないと見てよいです。世界の情勢を簡単に話してみればそういうところだろうと思います。

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救世教の方はいよいよ大いに世界的に認められるという時期が非常に近寄って来ているのです。というのは、熱海の地上天国は会館と水晶殿はこの秋に出来ます。そうして美術館の方は来年秋になりましょうが、来年は是非出来るつもりです。そうすると大体完成する事になります。しかしそれでお終いではないのです。熱海の方も、後まだまだ大分広くなりそうです。なにしろ神様の計画はドエラク大きいのです。奥が知れないと言ってもよいくらいです。そうすると熱海の地上天国というものは、日本は勿論そうですが、世界的にも大きな話題になると思います。おそらくまず世界始まって以来ないものなのです。それでこの間のアメリカの人――婦人ですが、ニホン・タイムスの記者で美術評論家で相当有名だそうです。その人が世界的の美術館を見て歩いて、イタリヤのヴァチカン、フランスのルーヴル、それと箱根美術館を見た感じが、丁度同じだ、その他の美術館は大きいばかりで、一種の美に打たれると言うか、何んとも言われない気持はない。世界でこの三つだと言うのです。そしてもう一つの箱根美術館の特長は、美術品を見て、遠くを見れば自然の山々が見える。これは世界の美術館で他にはない。又庭園の人工の美を合わせてあるという事は特殊な美術館だ、という事を言ってました。その時は夫人のみだったのですが、その後主人公と一緒に来ました。箱根はしまっていたので熱海だけを見せましたが、主人が言うには、熱海の地上天国の事を書こうと思って来たが書けない。だから自分は実地に見ろという事を書くつもりだ。批評という事はとてもできないと言うのです。それほど雄大な、アッとするようなもので、大したものなのです。この間も言ったとおり、日本の西は奈良・京都という文化都市で、それから東は箱根・熱海の地上天国が出来てからの文化都市と同じ意味だという事を言ってました。そういう意味で、大体アメリカに大いに紹介するという事を言ってました。奥さんはニホンタイムスの社員で、主人公はNHKの英語放送を担任している人です。それから“NHKの会長の古垣という人は此処に来ましたか、どうですか。来ないのはどうもけしからん。これだけのものを紹介しないという事はない、行って話しましょう”と言つてましたが、話したそうです。会長は“今度是非見に行く”と言っていたそうですから、いずれ来るでしょう。それから“外務大臣はどうですか”と言うから、“外務大臣はまるっきりそういう事はありません”と言うと“これだけの事をして、将来大したものをしている。それを外務大臣が知らないという事は実に不思議だ”と言ってましたが、実際アメリカのああいった人は素晴しいものです。ですから私とよく話が合うのです。ところが日本の新聞記者ときたら全然違うのです。それで、その人が“日本の新聞記者はどうだ”と言うから、“日本の新聞記者は此処を見て、救世教の奴はなかなか金儲けがうまいなと考えるくらいだ”と言ったのです。それで、金儲けがうまいというその奥は、とに角戦後の人心の混乱にうまく乗じて、迷信を巧(タクミ)に押売りして金をあげさせるというその手腕は実に大したものだという、そういう感心の仕方です。“アメリカのあなた方は、これだけの丸い物としたら、大きな目をもって見るが、日本のジャーナリストは小さな目で見るから、部分的にしか見えないので正確な批判はできないのだ”と言ったのです。その点においてジャーナリストに限らず、日本の多くの人は、まだまだ島国根性と言いますか、封建性が残っていると言いますか、見方が小乗的で小さいのです。これが今もって分るのは、忠臣蔵を芝居でもラジオでもやってますが、十二月十四日が討入りの日ですから特にやってましたが、それは聞いたり見たりする人が多いからです。そうすると日本人の思想が大体分るわけです。私はお祭りの余興の時にも、すべて忠臣蔵をやってはいけないと言ってますが、あのくらい間違っている事はないです。話は横道にゆきましたが、とに角四十七人の人間が一生涯の生命を犠牲にして仇討(カタキウチ)をやるのですが、そうすると、それを非常に讃美するのです。あの時代ならそれでよいかもしれませんが、今そういう事が行われるとしたら、一体人間は何んのために生まれて来たかという事です。そうしたからと言って、国民や社会に幸福のためにどれだけ役にたつかという事です。それで日本人の思想の中から一番に抜かなければならないのは仇討思想です。仮に親が殺されると、伜が親の仇討のために一生を犠牲にして仇を討つ。そうすると討たれた親の伜が又仇討をする。その又伜が仇討をする……という事になり、折角人間として生まれたその命を、親の仇討のために犠牲にしてしまうのです。それが少ないならまだよいが、それがだんだん多くなると、人間は仇討のために殺し合い、生命を犠牲にするという事になります。その事を考えてみると、非常に悪い事が分ります。ただ、あの時代はよかったのですが、それも本当によかったのではないので、小乗的善です。その時代の大名とか将軍という主権者が、政権を維持するためですが、大名は自分の勢力と、そういった相当な地位、権力を維持するために忠義という道徳を作ったのです。そうして命を犠牲にするまでに、大名の不利益をやろうという者をやっつけて、政権を維持するそのための精神を作るその手段としての武士道ですから、武士道というのはけしからんものです。それから又大和魂というものはとんでもないものです。大体日本があれだけの敗戦になったのも、大和魂のためです。つまり大和魂を看板にして、それを利用して国民をあれほどの目に遭わせたのですから、とんでもない代物(シロモノ)です。というのは、やっぱり小乗的精神だからです。そういう意味において仇討思想というものはとんでもないものです。そこで、地上天国は熱海が完成すると大変な評判になります。今はまだ中途だからあんなものですが、出来上ったらずっと喫驚(ビツクリ)するほどの素晴しいものになります。そういうようなわけで、世界的の注目の的になります。外国で“日本に大変なものが出来た”“一体それは何だ”“何者だ”という事になり、“それは一宗教の教祖だ”という事になり、又日本でも、“救世教はドエライ事をやった”“岡田茂吉も、馬鹿にしていたが、そうでもないな”となります。それに早いです。なにしろヨーロッパではヴァチカン、支那では北京城、日本では奈良・京都・日光という所ですが、それはみんなとに角千年以上たってます。日光だけは三百年そこそこですが、ところが私がやったのは十年たつかたたない内です。それでしかもあっちの方は何千人か何万人か分らないくらいの大勢の人間が千年以上もかかって造ったものです。こっちは私一人で、十年そこそこでそれに匹敵(ヒツテキ)するものを造るという事は、人類史上にも大いに研究する必要があるというので、私の研究熱と言いますか、そういうものがきっと出ます。そうすると、“まず研究するにはなによりも彼の著書を見るのが一番よい”というので、私の本を大いに読み出すという事になります。そこで、農業は実地でもう二、三年で分りますが、一番肝腎なのは医学です。医学が分らざるを得なくなります。ですからこれが一番早いです。病人を治してだんだんゆくという事もよいですが、これは遅くて暇(ヒマ)がかかります。そこで神様は一度に分らせようとして、つまりその方法が、地上天国という美術的のことを、そういう方法でやるわけですが、考えてみると、実に抜目(ヌケメ)がないと言うか、流石(サスガ)は神様と感心してます。そういうわけで、“これほど立派なものが十年そこそこで出来たというが、一体金はどうするか”という事になります。それは、どんな病院でも博士でも治らない病気が簡単に治って、その感謝のためにみんなが自発的に金をあげる。それが集まってこういうものが出来たという事を分らせるようにします。“それでは救世教の病気治しというものは余程素晴しいものに違いない”という事を考えるわけです。ですから地上天国というものがそういうような大きな役目をすると思います。

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それから御神業のスピード……早さが素晴しいものです。一例として、今年の三月に三越で浮世絵展覧会をやります。これを企画したのは毎日新聞社ですから、毎日新聞社が大いに骨折るわけです。それは三越の七階の大ホールで、昔の特別食堂です。其処は百五十坪あって、其処を提供する事になったのです。今までお寺の美術展は随分やりましたが、他の美術館で出張してやるという事はないから、どうだろうと思っていたが、最近になって決まったようです。ところが、それだけに知られたという事です。浮世絵では日本で一番なのです。特に肉筆を主にしてやるつもりです。版画の方は今まで方々で展覧会をやりましたが、肉筆の方はなかったです。ところが私は将来肉筆が大いに認められる時が来ると思って、その時分……と言っても、つい二、三年このかたですが、他の人は肉筆に重きをおかないために良い物を安く買えたのです。そこで私はできるだけ買ったのです。その期間は一年とはかかりませんでした。尤もこれは神様がやっているのですから、バタバタと集まってしまったのです。博物館の人に聞いてみると、今は私のは日本一だそうです。半年ぐらいで日本一と言われるぐらいに蒐集(シユウシユウ)するという事は実に早いです。全く人間業ではないです。最近の話ですが、支那陶器の方は道具屋がさっぱり持って来ないので、“どうした”と聞いたら、“みんなこちらに来てしまった”と言うのです。実際世の中は小さなものです。おまけに支那陶器というのは英・米でかなり買いましたから、日本にあるのは、今まで大名や財閥の倉に蔵(シマ)い込んであったのが、終戦のために一時バタバタと出て来たそこを私の方で買ってしまったので、後はないというわけです。これらも実際神様の手際(テギワ)のよい、うまいところに感心させられます。他にもそういう事はいろいろありますが、今言ったような外国、日本も奈良朝は千年以上前ですが、京都の文化でも、平安朝が多いですから八百年くらい前です。それがこっちは僅か十年で出来てしまうというスピードです。それから美術品が集まったスピードです。

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それから御守ですが、「光」の文字を書くスピードが近頃は早くなって、六秒で一枚書きます。それを懐に入れて、何千人何万人という人の病気を治せるのですから、このスピードも全然想像もつかないくらいです。

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それからもう一つは、昨日ハワイの樋口さんからの通信が来ましたが、この間ハワイで生誕祭をやりました――本部は八、九分どおり出来、すっかり出来るのはもう一月くらい延びるという事ですから、今月あたり出来るわけです――参拝者が千百名だそうです。とに角去年の三月から、何も準備もない所に突如(トツジヨ)として始めて、九カ月で参拝者が千百人あったのです。ですからこれも実に早いです。普通の新しい宗教で千人からのお参りというと、どうしても五年や八年はかかります。それもみんな相当熱心な信者で、その中に支部長なども相当出来ているのです。早さという一つの例ですが、そういうようで、このスピードというものは大変なものです。

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そこで、救世教のモットーである「病貧争絶無の世界」「地上天国を造る」という事は、とに角私の生きている内に基礎だけは造るつもりです。そうすれば後は自然に出来るのです。そんなドエライ、世界をまるで自分の……というとおかしいが、神様の計画どおりに出来るという事は、これも素晴しいスピードです。そういうようなわけだから、地上天国を造るという事は、それは理想であって、現実的にそんな早く出来るものではないとは、誰でもそう思います。なにしろ今までのような宗教のやり方や発展の仕方から想像しても、そんな早く実現しようとはとても思えないのです。思えないが、今言った事を考えてみても、強(アナガ)ち出来ないとも言い切れない感じがします。私が自分の思うとおりの事を言うと、かえって信じ難いから、余程割引きして緩和(カンワ)して言っているのです。これでも世間の初めての人は、まるで訳が分らない……という事をよくお蔭話に書いてありますが、そういうようなわけで、今までの考え方と馬鹿々々しく外れてしまってますから、又そこに大いに面白みと言いますか、そういうものがあります。だからやはり開闢(カイビヤク)以来ない大きな事であり、喜びであり、大変な事業です。日本でも、秀吉が大阪城を造ったとか、日光は三代将軍が造ったのですが、それを造る動機というのは、私のやっている事とは大変に違うのです。あれらはみんな自己の権勢を誇るためと、自己の権力を維持するための、つまり戦争の防備です。戦いによって取返されないようにというためと、自己の勢力を維持し、権勢を誇るという一種の虚栄(キヨエイ)です。それから東京の二重橋でも、太田道潅が造って徳川を大いに充実させたものですが、やっぱり目的は今言ったとおりで、決して大衆を楽しませる、日本の国民なら国民全体を喜ばせるという、そういった公共性は真に少ないのです。結局、自己中心で、自己の利益のために造ったものです。それから又イタリヤのヴァチカンにしても、宗教的ではありますが、つまりキリスト教発展のための本山です。なにしろキリスト教はローマ時代には非常に盛んだったのです。ですから品物を献げたり、金を献げたりして自然にああいう美術館なども出来てしまったようなものです。ですから殆んど宗教的です。私は去年ヴァチカンの油絵を天然色写真にとった物をもらい、いろいろ見ましたが、実に素晴しいものです。写真で見てもあのくらいですから、現場を見たらどんなに良いかと驚きました。といったところで、結局一つの宗教によって自然に出来たものです。アメリカ文化なども立派ですが、あれは機械文明を誇るものであり、又金儲けに利用するためとの両方でああいう立派なものが出来たのです。ですから美術的ではないのです。ところが今度出来る地上天国は、そういったような、一つの戦争、武力をもって自己を擁護(ヨウゴ)するという意味とか、一つの宗教を弘めるというのでなくて、ただ多くの人━世界中の人が、美を楽しみ、美によって魂を向上させるという、純粋(ジユンスイ)の平和的のものです。ですからそういうようなものは今まで世界中に出来たものはないのです。これが初めてでしょう。そういう意味において、いずれ世界中に理解されます。アメリカの新聞記者もそういうことを言ってます。世界でも立派な物を造っているが、それ等は自分の利益を主眼(シユガン)としているが、あなたはそうでなく、本当に平和的の、大衆のための仕事をするのだから、日本人としては実に珍しい。日本にこういう人物が居るという事は知らなかったと言ってましたが、知らなかったはずです。やっとこの頃ですから……。おそろしい自慢話になりましたが、しかしこれは私がやっているのでなく、神様が私を使ってやっているのですから、神様の自慢の取次と言えばよいわけです。手取早(テツトリバヤ)く言えば、熱海の地上天国が出来てから、救世教というものが全然面目一新して、一つの、世界的の偉大なものとして見られるという事になります。ですから救世教を見る目が、日本は勿論、外国にも知れて来ます。今でさえシカゴ・トリビューンでは続いて紹介するという事を言ってます。それで熱海地上天国が出来れば一層やるだろうと思ってます。それでこれは霊的にも、熱海の地上天国は世界の型になっているのだから、これが拡がれば世界的になるのです。霊的から言っても、そうなるのが当り前です。

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もう一つ変った話をしますが、原子爆弾というものはつまり火力です。太陽熱です。太陽熱をとったものだ、吸収したものだという事を学者は言ってますが、実際そうです。太陽熱を一ぺんに集めるのです。だから火力というものはちょっと計れないです。二万度とか三万度とか言ってますが、そんなものではないので、もっと熱いです。水素爆弾などというと全然計れないです。計れないと言っても、全然計れないというわけではないので、寒暖計の方が進歩すれば計れます。ところで、浄霊の火素が原子爆弾と同じ事です。原子爆弾と浄霊が時期も同じに出来たわけです。原子爆弾の原理というものは約十数年前に出来たのです。そういうわけで、時期が同じです。それで、ただ浄霊の方は霊的の熱です。そこでそんなに熱くもないし光も見えないのです。では力はどうだというと、これは原子爆弾よりずっと強いのです。私は今書いてますが、未信者が浄霊で治った時に、どういう訳で治ったのかという説明を求められた場合に、はっきりと説明する必要がありますから、そこではっきり書きましたが、これなら大体分るわけです。それで、病原は人間の霊の曇りです。曇りというのは水素中にある不純粒子で、つまり毒粒子で、これは計算のできない細かいものです。それが火素の放射によって毒粒子が焼けるのです。ですから、毒粒子を焼く光線ですから、その強さというのは大変なものです。これ(浄霊)が物質だとしたら、やはり物質を焼いてしまいますが、これは物質ではないから霊を焼くのです。それで霊の内の毒粒子というのは霊の物質なのです。それでこの光によって霊の物質を焼いてしまって純水素が残るのです。それが漿液(シヨウエキ)に混(マジ)ってしまい、そうして毒粒子だけが焼けてしまうのです。ですからその焼けるという事は、丁度原子爆弾と似ているという事は、火力が強い事で、その点が似ているわけです。それが丁度二十世紀の同じ頃に現われたという事が面白いです。私はそれを、原爆は殺人光線、浄霊は活人光線というふうに名前をつけたのです。

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一月三日

誰も知らるるとおり、今年は世界的に大分明かるくなったような気がします。私は去年の正月の栄光の新年号に「世界夢物語」というのを書きましたが、あれは最初「これからの世界」という題で書いたのですが、出そうと思っている時に、急に「夢物語」をつけなければいけないというようなお知らせがあったわけです。それで「夢物語」としたのですが、やはりあれが夢物語になったわけです。あの時のああいう考えは、スターリンの考えとアイゼンハウワーの計画だったのです。それが私に分ったからああ書いたのです。するとスターリンが死んだために変ったわけです。そこで、スターリンが死んでから間もなく、京都に行きがけに名古屋の中教会で話しましたが、もう共産主義の方は、これからずっと勢いが落ちる。スターリンが居る時とは全然違うという事を言いましたが、これも前に型で神様から知らされていましたからそう言ったのですが、やはりそのとおりに、ソ連のマレンコフのやり方が大分平和的になって来たのです。余程前のソ連とは不気味さがなくなって来ました。柔らかみと言いますか、そういうような点が大いに現われて来たのです。これは非常に結構です。しかしこのまま平和的になるかどうかは甚だ疑問なのです。しかしとに角仮に第三次戦争としても、ああいう大きな戦争は英雄が好むのです。ヒットラーとかナポレオンという英雄です。スターリンなどは一個の英雄だったです。世界制覇(セイハ)の野望を抱いていたのですから……。ただやり方が割に派手でなかったのです。どっちかというと陰険(インケン)なやり方です。それだけに余計不気味さがあったのです。ですからスターリンが亡くなってからこっちは、その不気味さは一番取れたようです。この正月早々のマレンコフの宣言なども、余程当り前の、国家的ゼスチュアというか、そういう点が大いに見えていたのです。

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世界の情勢はそれとして、救世教も大分明かるくなって来ました。特に今年はいろいろな希望、楽しみが大いにあります。メシヤ会館と水晶殿も秋には出来ますし、それから箱根の美術館も大分充実して来た上に、今年は近代名品展というのを六、七の二カ月やるつもりです。それから八、九、十を浮世絵展覧会にして、これは別館の方でやるつもりです。それから本館の方は桃山展を通してやるつもりです。近代名品展というのは、明治以後のいろんな美術品ですが、これは今まであまり世間に知られない物が多いのです。隠れていた物です。それで今までは、多くお寺の物とか大名の物とかそういった古くからの物が名品となっていました。明治以後は、財閥とか成金といつた民間人の方に多く集まったのですが、それが終戦後どうしても出さざるを得なくて出て来た物ですから、あんまり人の目に触れてない物が多いのです。ですから案外人の注目をされるだろうと思ってます。それから浮世絵展覧会は、去年やった時の中途から後になかなか良い物が集まったのですが、それは出さなかったのです。あんまりみんな出してしまうと、来年のお楽しみがなくなってしまいますから、そういう物はとっておいて出さなかったわけです。それで今年は毎日新聞社が主催で浮世絵展覧会をやりたいというのです。方々から集めるのでなくて、箱根美術館のもののみです。適当な名称をつけるでしょうが、とに角企画は毎日新聞社です。博物館なども手伝うでしょうが、そういうようで、三越の七階の大ホールで、元特別食堂になっていた所です。丁度百五十坪ありますから、随分広いです。大体肉筆を主にしてやります。今まで浮世絵展覧会というと版画が主で、肉筆は殆んど出さなかったくらいですが、今度は肉筆専門ですから、これも初めての企画です。大いに人気を呼ぶだろうと思います。開催の時も、いろいろあったが、私はどこまでも三月を主張して三月という事になったのです。二月は寒いし、四月はお花見にとられますから、三月が一番よいです。やっぱり、浮世絵というのは春が一番適当してます。寒風吹き荒ぶ時に浮世絵と言っても感じが出ないです。そういうようで、とに角大いに箱根美術館の宣伝にはなるわけです。よく聞いてみると、日本で一番集まっているのは箱根美術館だそうです。ですから日本一になったわけです。これが僅か一年もかからないくらいでした。日本で一番という位に集まったのですから、実に神様のスピード、早業――と言っては、どうも安ッポイ言い方ですが、とに角その早さというのは驚くのです。

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それから熱海の地上天国もだんだん出来て来ましたが、メシヤ会館と水晶殿は秋として、美術館はそれが出来てからかかろうと思ってます。来年は出来上るだろうと思ってます。この美術館は、箱根の倍以上になります。そして凡てが箱根で経験しましたから――あれは初め見本に造るという事になってましたが――今度はいろいろな点もよく分りました。今度は大いに充実した、新しい、とに角アッとするような物を拵えるつもりです。それで、箱根美術館だけでさえ、近頃アメリカやヨーロッパの人達にも大分知れて来て、現についこの間フランスの大使とポルトガルの公使が是非見たいと言って来たのですが、とに角閉館中で無理だからと言って断りましたが、そういうようなわけで、外人間に大分知れて来たのです。それで、熱海が出来たら一層注目される事になります。おそらく世界的の話題に上るだろうと思ってます。それらの事を考えると、とに角神様の早さというのは驚くべきものです。去年来たアメリカの新聞記者でエリス・グリリという人は、美術評論家でなかなか有名だそうで、世界中の美術館を見て、箱根美術館と比べてみると、イタリヤのヴァチカン宮殿は、宗教的で美術館になっているので、その点は丁度救世教に似てます。それからフランスのルーヴルと、箱根美術館の、この三つが見た感じが大体同じようだというのです。それで私は驚いたのです。ヴァチカンとかルーヴルというのは世界的に有名な大したものなのです。それと箱根美術館が同じレベルに見られるという事は、随分大したものだと思ったのです。ただ箱根美術館の特長は、美術館に入って美術品を見ながら、窓の外を見ると遠くに山が見える。だから自然美と人工美とであり、又庭はいろんな草木や岩の、自然のものを人間の芸術で巧に表現したという特長は他では見られないと言って褒めました。その後主人公が来ましたが、この人はNHKの英語放送の主任ですが、その人は熱海の地上天国を見て、“実は書くつもりだったが、あまりに雄大なので書けない。しようがないから実地を見よという事だけ書くつもりだ”と言って、そのくらい驚いてました。その人が言うには、この間も話したとおり、日本を東西に分けて西の京都・奈良が、古い、西における文化都市だ。そうすると箱根・熱海がすっかり出来上ると、東における文化都市という事になる。しかも箱根・熱海は一時間で行けるというくらいに接近しているという事は非常に珍しい。そういうような事を言って絶賛(ゼツサン)してました。ですから熱海の地上天国が出来上ると、とに角世界の注目を引く事になると思います。勿論日本でも今さらのように喫驚して“救世教の奴はなかなかなものだ。今まで馬鹿にしていたが、そうでもない。随分うまく儲けやがった”と言うかもしれません。何んでもよいから、とに角、“普通いろんな新宗教とは違う”“大体岡田という奴は案外腕のある奴だ”というような事になり、一つの“岡田を研究する必要がある”というような空気になりやしないかと思います。岡田研究という事がいずれ出ます。そうすると、“まず奴を研究するには、奴の著書を一通り見なければならない”というので、そうなるとみんなで大いに救世教の本を読むという事になり、そうすると医学や自然栽培の事、大体医学ですが、そういう事がとに角何んとなく分って来ますから、そこで栄光も地上天国なども、一つとって読もうという事になり、これが大変なよい事なので、神様は随分うまくやられると思ってます。この地上天国とか美術館というものは……安ッポイ言い方ですが、客呼びです。そうして、それによって本当のものを読ませる、頭に入れるというような政策を神様はとられたわけです。そういうようなわけで、“これだけの素晴しいものが短期間に出来るという事は、大変な金が要る。そういうような金がどうして集まったか”というと、“それは命がないような難病が治されるから、感謝のあまりどうしても金をあげる、そういう金が集まってこれだけのものが出来たのだから、如何に素晴しく病気が治るかという事が分るではないか”というように書きますから、“なるほど確かに病気が治るに違いない”というその一つの理由になります。そういうようなわけで、箱根は規模が小さいが、熱海は規模が大きいのと、凡ての点において世界中をアットさせるような価値があるわけです。というのは、日本で言えば京都や奈良ほど広くはなく、狭くはあるが、鉛と金……と言ってはあまりに酷いが……銀と金くらいの差があり、こっちは今までに無い、今まで想像もつかないような物を造るのですから、そこに魅力(ミリヨク)があるわけです。それから日光は確かに大したものですが、外国の人はあんまり注目しないのです。又日本でも、どっちかというと大衆向です。芸術眼ではあまり価値がないわけです。ただ金をかけて立派に造ったというだけです。ですからどうしても奈良・京都と箱根・熱海という事になるわけです。ところが奈良・京都は千年以上たってます。京都は平安朝からですから八百年ぐらいたってます。又ヴァチカンにしても、ローマ時代に盛んになったのですから、とに角中世紀以前ですから千年に近いです。東洋では支那の北京城ですが、これも立派には違いないです――私は写真で見ましたが、北京城の全般を写した厚い大きな本があり、よく出来てます。建物は非常に立派なものですが、庭園がないのです。殆んど木がないと言ってもよいです。いずれ私が其処を経営するような事になるでしょうから、そうしたらウンと木を植えるつもりです――それも何百年とたってます。ところが箱根・熱海の地上天国は、まず十年でしょう。本当に始めたのは、終戦の明くる年の昭和二十一年頃ですから、再来年になって丁度十年です。その頃には充分完成しますから、そうすると人間が千年かかったものを、こっちは十年で出来るとすると、そのスピードは実に驚くべきものです。そういうわけで、つまり神様の経綸の早さというものには驚きます。

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もう一つは、一昨日ハワイから報告が来ましたが、生誕祭の参拝者が千百人あったそうです。去年の三月に縁もゆかりもない所に樋口さんと安食さんの二人で行って宣伝を始めて、ホノルルに本部が出来たのです。この本部も、五万弗、日本の金にして千八百万円です。それで、修繕をする所があったが、修繕は生誕祭までに出来上らなかったが、どうやら参拝はできるようになった。――すっかり出来上るのは一月の末頃だそうですが――その本部にしてもこっちからは一文も出さずに、みんなハワイで出来た信者さんが奉仕して出来たのです。そういうようで、十カ月間でとに角千百人の参拝者があるくらいだから、如何に早いかという事が分ります。そのくらいの早さでなければ、とに角私の目の黒い内に地上天国を世界的に、とに角基礎だけを造らなければならないのですから、その割でいっても、決して不可能ではないのです。実に神様の早さというものは驚くべきものです。まだ京都とかいろいろ計画してますが、それが、二十二年八月から宗教法人になって宗教的にやり始めてから、実に僅かの間にこれだけになったという事は、私自身が驚いているのです。なにしろ最初の頃というのは、まるっきり足掛(アシガカ)りもない所に行ってやるのです。考えると、十九年に箱根と熱海を買って来ましたが、最初箱根を買った時には、確か金は六万円ぐらいしか無くて、あとはその時の病気の治った人などがみんな出したのです。それを、今日の事を考えてみると、どうしてこうなったか自分で分らない内に、急になってしまったわけです。しかもその間には随分官憲や言論機関とかの、知ってのとおりのいろいろな迫害があったにかかわらずですから、それがなかったらもっと素晴しかったです。しかしそういう事があってさえこれだけになったという事は実に人間業ではないです。別にそういうように計画してやったわけではなく、ただ神様の御指図……というと“お前はこうしろ”という事になりますが、そういうのではないのです。そういう点についてはいずれ話をしますが、それは随分神秘でいろいろ面白い事があります。そういうようで、この分でゆくと、到底見当がつかないくらいです。まだいろんなお知らせと言うか、そういうものがありますが、それは夢のような話で、本当にできないような話になりますから、本当にできるような程度になってからだんだんに話してゆく方がよいわけです。今年からの御神業の大体の様相は今話したようなわけです。

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それから、もう一つ面白い事があります。これも私が今書いてますが、此処(掌)から出る力は一体何かという事は一番知りたいと思います。それを知ると共に、人に聞かれて、どういう訳で治るかという事をどうしても説明しなければならないし、それには充分肚に入れておかなければならないから、それを話します。これは、一番分りやすく言うと、霊的原子爆弾なのです。というのは、原子爆弾というものは非常に熱度が高いのです。これは今まで地球上に現われた事がない熱です。つまりピカ・ドンですが、そのピカ・ドンで地上にある物は全滅してしまうのです。それは何かというと、火力ですから、火力で焼けてしまうのです。原子爆弾の説明には、つまり太陽の小さいものを造るのだという事を言ってますが、そういうものなのです。太陽熱というものは熱の体ですから熱いとか光るというわけです。ところがこの霊というのは目に見えず五感に触れないものです。何時も言うとおり、霊の方が力が強いのです。ですから太陽の火力の霊が私の所に、つまり伝わると言いますか、これも説明し難いのですが、とに角太陽と繋(ツナ)がっているわけです。これもいずれ詳しく書きますが、その説明はなかなかし難いのです。これはやっぱり科学なのですが、科学というと見えるものばかりを言うが、そうではないので、これは見えない霊科学です。それが、霊の火力が患者の病気の所に放射すると治ってしまう。治ってしまうという事は、霊体の曇りを溶かすという事になってます。曇りというのは不純水素という事を私は言いますが、不純水素というものは、水素の中に毒粒子……薬毒が固まったものです。薬毒は、最初の、薬をのんだり注射をした時は霊全体に拡がっているのですが、だんだん固まって、つまり硬化作用ですが、そうして此処なら此処が痛いとか、腫れるというのは、其処に固まったわけです。それで固まったその不純水素というものは、つまり毒粒子が沢山其処に集まってしまうのです。ですから肩が張る、此処が固くなるという事は、今の毒粒子がだんだん固まってしまうわけです。それで、浄霊すると、此処から出る殆んど計算ができないくらいの強い火力……原子爆弾よりずっと強い……それがゆくと、毒粒子が焼けてしまうのです。要するに粒子ですが、粒子と言っても、非常に細かいもので、顕微鏡などで掴まえる事はできないくらい細かいものですが、それが焼けてしまうのです。毒粒子が焼けた後の灰――生物とすれば死骸――それがいろんな排泄物、膿とかになって出るわけです。ですから放射して、痛みなら痛みが無くなりますが、痛みはなくなつても灰は其処にあるのです。あっても痛くないという事は、みんな死んでしまって活動力がなくなるからです。それが、活動力があると動くので、痛みとかいろいろあるのです。それで、死骸になると人間の神経を刺戟しないから痛くなくなるのです。しかしまだあるのです。ですからこれはどうしても排泄しなければならないのです。そこで人間には、邪魔物は其処においておくわけにはゆかないという活動力がチャンと備わっているのです。よく、お腹の子供が死んだ場合に、医者は切開して出しますが、これは浄霊すると死骸は出てしまいます。それは、其処にあってはならない物はどうしても出るという作用が起こるのです。ですから、お蔭話にあるとおり、針をさして、これを浄霊すると、結局出るのです。この間のお蔭話にも足に針をさして、それが何カ月かたった後に、針の先がだんだん移動して行って、反対側から先の方から出てしまったというのがありましたが、そういうようで、人間の体にあってはならない物はどうしても出る事になっているのです。それで、今言う曇りの中にある毒粒子も、死ねば必ず出るのです。それを殺すという事は焼き殺すわけです。それが此処から出る火素で、この火素というのはそういうものなのです。では今までそういうものがどうしてなかったかというと、それは時期の関係で、それについても私は今書いてます。これは丁度二回にわたって栄光に出します。とに角丁度原子爆弾を発見したのと、この浄霊が出たのと、大体同じです。二十世紀後半ですから、時期は大体同じなのです。そうすると一方は体の素晴しい強力な熱であり……原子爆弾の熱は二万度とか三万度とか言ってますが、水素爆弾になるともっと強いのですから、これは測定はできないというわけです。此処(掌)から出る火素はもっと高いので、到底原子爆弾どころではないのです。ただ霊ですから、そういった物質的なものはないわけです。この火素の火力というものは無限と言ってもよいのです。この間も無限力という事を言いましたが、とに角無限力です。それで病原は、今言ったとおり、霊の曇りが病原とすれば、霊ですから、それを治すとすれば、霊をもって治すのが本当です。ところが、それを体の物質で治そうとする医学は全然見当違いなのです。そこで治らないというわけです。大分難かしい話になりましたから、このくらいにしておきますが、私は原子爆弾は殺人光線、霊の方の火素は活人光線と名をつけたのです。片方は殺す光線で、こっちは生かす光線で、反対なわけです。それが丁度同じ頃に地球上に現われたという事は非常に意味があるわけです。何時も言うとおり地上天国というのは創造━建設ですが、つまり破壊と創造です。ですから原子爆弾は破壊の力です。それで火素の方は建設の力、創造の力です。だから浄霊によって、滅ぶべきものを生かす、破壊さるべきものを創造するという事になりますから、その点から言っても破壊と創造という事がよく分ります。医学が病気を作り人間を破壊し、こっちは浄霊でそれを治すのですから、これも破壊と創造という事になります。

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一月五日

農業特集号を延ばしてましたが、その後報告が二、三十通来たようです。全部は見てないが、初年度から五割増産というのが大分あるようです。この特集号も頁数を増やさなければ追い付かないだろうと思ってます。予定の百万部を出したら、大いにセンセーションを起こすだろうと思ってます。

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熱海の地上天国について、この三カ日間に随分詳しく話をしましたが、今日は同じような話もあまり気が入らないから、それはいずれ栄光に出すとして、今日は浄霊の原理について、新しい人から聞かれた場合に説明をするその材料として、できるだけ詳しく、分るように書きました。今まで説かなかった点もありますから、そのつもりで……。二章になってますから一章の方から読せます。

御論文〔⇒浄霊は科学療法なり〕【註  栄光二四三号】

御論文〔⇒浄霊は科学療法なり〕【註  栄光二四七号】

これを説くのは、なにしろ足掛りがないのですから、なかなか難かしいのです。全然新しい理論と、新しい説です。それで、最初のはどうやら分るでしょうが、後のは、もう少し分りやすく書くつもりですが、とに角まだ出来たてですから、なかなか分り難いのです。一番分り難いのは、夜昼の関係です。霊界における段階、つまり大・中・小に分けると、何万年・何千年・何百年・何十年・何年・何カ月と、それがみんな五・六・七、五・六・七と三段になっているのです。それで、大きく分けたのが三段階なのですから、それで見ると歴史の治乱興亡(チランコウボウ)、そういった事も大体分るのです。それでこれを本当に言ったら、なかなか切(キリ)がないのと、それほど奥深い事を知る必要もないのです。ただ夜の世界が昼の世界になるという事で、それになれば、今まで水素が多かった霊界が、今度は火素が多くなる。そうすると、暗かったのが明かるくなる、夜が昼になるというわけで、そこで浄化が強くなるという……これは何時も説いている事ですが、それだけの事を知ればよいのです。そこで、病気の治る原理という事が分ると、それだけでよいのです。信者の人は大体分ってますが、未信者に大体の事を分らせるために書いたのですから、これを幾度も読めばだんだん分って来るわけです。つまり、これは何事もそうですが、鍵があり、急所がありますから、それが分れば、後は自然に分るのです。そのつもりで読めばそう難かしい事はないのです。

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時間がありますから、地上天国について少し話をします。今まで出来ただけは幾度も見られたでしょうが、まだこれから、秋には会館と水晶殿が出来ます。美術館の方は来年になるつもりです。ですからまだ非常に変ります。変るという事は、まだまだウンと良くなります。それに美術館も漸く設計が出来ました。と言っても頭の中に出来たのです。これは箱根の美術館とは又全然違っているのです。様式も周囲の工合も素晴しいものです。今度の熱海の美術館が出来ると、箱根の美術館はバラックぐらいに見えるようになります。これを見たら、アメリカの人も驚くだろうと思います。とに角そういうような工合で、全部出来上ったら一大驚異で、大いに問題になると思います。それも、日本ばかりでなく世界的問題になると思います。外国でも、写真入で大いに紹介するだろうと思います。そうすると、取敢(トリア)えず、日本の人口の三分の一は是非来なければならないような事になります。去年の日光見物人の統計が出てましたが、年間二百四十万人です。ですから今度の熱海の地上天国がだんだん知れるに従って、一年間にその半分は大丈夫ですから、百万以上は必ず来ます。この間もアメリカの新聞記者が言ったとおり、西では京都・奈良、東では箱根・熱海が、まず日本の見るべき文化財だという事になります。ですから外人も大変なものです。二、三日前に、去年の外客の統計なども出ており、今後の見込(ミコミ)という事も出てましたが、年々増えつつあるのです。今のところは幾らでもありませんが、今に熱海の地上天国を見物したいというそれが主な目的で来る外客も随分あるようになると思います。それほど期待を持ってよいと思います。そうなると“救世教というものは一体何だ”“随分素晴しいものだ”という事になります。そして又これが出来ると、無論美術館に陳列すべき物も大体用意してありますが、これは開館になるまで、できるだけ秘密にしておくつもりです。そうして一ぺんにパッと見せた方が値打がありますから……。素晴しい美術館が出来るわけです。そこで、そんな美術品などが集まるのは、人間的に考えれば実に不思議です。しかし神様がそういうふうにやっているのですから、私は別に何も心配もしてないし、あんまり手数もかからないのです。一人でに来るようなものです。その一例として、今年の三月に三越で、浮世絵展覧会をやりますが、これは私の方が一手(イツテ)でやるのです。これは毎日新聞社の企画ですから、毎日新聞社が大いに骨折るわけです。私は肉筆を主にして集めました。世の中は外国の影響(エイキヨウ)によって版画が浮世絵のように思って、肉筆というものに関心を持たなかったのです。そこで良い物が割合に安く入りました。そうすると時期が来て、美術館の別館を計画した頃から約半年ぐらいでバタバタと集まってしまったのです。面喰(メンクラ)うぐらいに集まってしまったのです。ところが集まってしまってから、博物館の人も、その方の専門家も、日本一だというのです。普通では浮世絵を日本一と言われるぐらいに集めるというのは、何年、何十年かかるか分らないのですが、それが僅かの年で集まるという事は、実に神様がやられているという事が分ります。そういうわけで、神様の腕前と言うか、それは実に素晴しいものです。それに、そのスピードたるや、実際私がやっていながら、ウカウカやっていても、それを振返ってみて、あんまり早いので驚きます。なにしろ熱海の地上天国が完成すれば、これは世界的に有名なイタリヤのヴァチカンとかフランスのルーヴル美術館と匹敵する事になります。それで、アメリカにはそういったものは問題にするものがないのです。二、三日前に、湯川博士と誰かの対談が時事新報にでてましたが、それによると、湯川博士の話では、アメリカは文化財的には見るものは全然ない。要するに機械文明ですから、ただ大きな家とか、そういうものは素晴しいが、美術的に観賞するというものは殆んど無いそうです。そういう事になるとやはりヨーロッパです。ヨーロッパとすると、まずローマのヴァチカン、フランスのルーヴルとになり、支那では、古くて汚れてしまってはいるが北京城でしょう。そのくらいなものでしょう。それらに匹敵する事ができるのは熱海の地上天国です。そうすると、私の方は出来るのに十年です。工事にかかったのが終戦の明くる年ですから、二十一年からとしても、三十一年で丸十年ですから、再来年で十年です。そうすると、他は全部何百年……千年近いです。しかも大勢の人がかかったのです。当時の主権者、王様とか、金持という者がやったのです。ところがこっちは、私一人の力です。それも、別に日本銀行の大株主に叔父さんがあるわけではなく、何の金力の後援もありません。なにしろ十九年に箱根に神山荘を買った時には金が六万円しかなく、後は何も無かったのです。それが僅か十年の間にこれだけのものが出来てしまったのです。とは言っても、私がやったのではなくて、神様がやったので、私は番頭で御指図(オサシズ)どおりにやったのですが、その早さというものは驚くべきものです。それについて、この頃は御守の「光」の文字を書くのが又早くなって、六秒で一枚になりました。六秒で書いたもので何百何千という人を救えるのですから、その早さと力というものには私自身が驚いてます。そういうようなわけで、熱海の地上天国が出来てから、だんだん世界に知れるようになると、結局、“救世教は大変なものだ”“一体誰がやっているのか”“岡田茂吉という人間だ”“岡田茂吉という人間は今まで新宗教の教祖だったが、ではどうしても研究してみよう”という事になって、“岡田茂吉研究”という事になり、“それには奴の書いた本を読まなければならない”というので、そこで私が書いたものが大いに売れ、みんな読むだろうと思います。それがこっちの大いに狙う所です。そうすれば医学とか自然農法……大体医学ですが……そういう事が自然にすっかり分るという事になると、前には色眼鏡をかけて見たのだからしてどうしても色眼鏡の色に見えますが、今度は今のように余程色眼鏡(イロメガネ)が薄くなるからはっきり見えるというので、本当に考え出すという事になりますから、そうなると少し分り出すと大変な発展をする事になります。神様はいろいろな手を打ちますが、人間の考えと違って、奇想天外(キソウテンガイ)です。地上天国や美術館がそういうような効果を生むような事になるという事は思いもつかないわけです。そうでないと、一人々々病気を治して、そうして知らせるとしたら、何時の事になるか分りません。この地上天国の出来上ってからというものは一ぺんに世の中に知れますから、この地上天国の完成という事は大変な大きな意味になるわけです。私の頭に出来ているものは来年あたりになると生まれますから、そうすると、あまり素晴しいので、信者の人でも喫驚します。そこで、今までいろんな誤解や圧迫やいろいろな事で、大いに気がはっきりしなかったのが、日本ばかりでなく世界的に一ぺんに、思ったように、理想の実現化――夢の現実化――といったような時期が来るわけで、それが今年から非常に近寄って来たわけです。だから、今度は本当に、言わば桧舞台――本舞台――というわけで、本舞台に上るわけになりますから、働き甲斐(ガイ)があるというわけです。

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一月六日

自然農法の報告が大分来ましたから、もうじき特集号は出せると思いますが、大体を見た工合ですと、初年度から大抵二、三割の増産になってます。だからこれは前年までと比べてみると随分違ってます。前年までは、最初は増減なしというのが殆んどで、精々一、二割ぐらい増えたのが偶(タマ)にあるくらいで、どうもあんまり芳(カンバ)しくなかったです。去年は一般が非常に悪いのと反対に自然栽培は良い成績です。今までよりも大分良くなったという事は、一体どういう訳かと言いますと、霊界が違って来たためです。つまり霊界に火素が増えたわけです。それで火素が増えると、やっぱり浄化作用が強くなりますから、肥料のような間違った事に対する影響が著しくなるわけです。それと反対に自然栽培の方は道理に合ってますから、そこで良くなるのですが、良くなるという事は火素が増えるからですが、これはやっぱり一つの熱ですから、熱のために、肥料の妨(サマタ)げがなければ育ちがよいという理窟(リクツ)になります。それからもう一つ特に注意する事は、前に二毛作はいけないと言ったのは、米と麦をチャンポンにする事はいけないので、米だけの二毛作なら、かえっていいくらいです。しかしこれは気候が暖かい所でなければ無理ですから、気候が暖かい所で可能な所ならしてよいです。農業の事はそのくらいにしておきます。

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それから病気について、浄霊でどうして治るかという事を、新しい人から……よく患者などで、ばかによく治るがどういう訳で治るのだろうかという事を聞かれた場合に、はっきりとその説明をする事は、私は今まであんまり書かなかったように思うのです。一度書こうと思ってましたが、最近頻りにそういう気がするので書いてみました。というのは、以前はなかなか医学が喧(ヤカマ)しく、政府が言論の自由をなくしていたから、下手にやって酷い目に遭うといけないからと思って、はっきり書かないようにしていた。それがずっと続いて来たので、あまり徹底しなかったのですが、今度、今言ったような訳で書きましたから、それを読ませます。この説明でもなかなか分り難いのですが、しかしよく話して、そうして考えれば分ります。 

御論文〔⇒浄霊は科学療法なり〕【註  栄光二四三号】

次はその説明ですが、まだすっかりは出来てないが、出来ているだけを大体書きました。とに角この説明は非常に難かしいのです。今のはどうやら分らない筈はないだろうと思いますが、これから先は非常に難かしいのです。科学でもなければ宗教でもないし、今までになかったものだからして、私が考えている事を文章にするのに、うまい文字がないのです。それは、今までにこういう事がなかったから文字が出来ていないのです。だから或る所まで説いてゆくと、それから先は文字がなくなってしまうのです。余程工夫して書いてみたのですが、まだうまくは書けていませんが、出来ただけを読ませます。

御論文〔⇒浄霊は科学療法なり〕【註  栄光二四七号】

今読んだ中で肝腎な事は霊と体です。体にある毒素が霊に写って曇りとなるという事は、つまり緯の作用であり、それから霊の曇りを取ると、それが体に写って、体の毒素が出るという事が経の作用です。だからこの点をよく知っているとよく分ります。それで緯に写る作用は、つまり体的であるからして、それでは解決はできないのです。それから経は霊主体従で、霊さえ良くすれば体はきれいになるのだからして、病気は解決されます。経の作用は霊的作用であり、それから緯の方は体的作用だから悪の作用であり、経の方は善の作用という事になります。今の世の中は地獄の世の中という事は、緯の文明のために悪が発生するのです。そして今まで経がなかったのです。無神論というのは緯で、有神論というのは経です。だから、つまり緯だけでは体的だから魂がないのです。経は魂があるのです。それで経というのは天から地軸まで抜けるのですから、これは大変な力です。緯だけではそういった経の骨がないようなものですから、そこで本当の文明はできないわけです。しかし緯がなければ物質文化は発達しない。要するに経だけでは人類は世界に拡がらないです。そこで経と緯と両方が必要なわけです。だからごく昔は経の文化だったのです。文化というよりも、経の働きだったのです。それから神様は、物質文化を発達させるために緯の働きをされたわけです。だからどっちも本当ではないから、経と緯を十文字に結ばなければならないので、それが本当の文明になるのです。この経と緯を結ばせるのが私の仕事であるし、救世教の仕事というわけです。だからいろいろな仕事をやるわけです。農業をやるかと思うと、美術館を造るというのですから、およそ反対ぐらいに違います。そういうようなわけで、なかなか大変な仕事なのです。非常に難かしいようでいて、又非常にやさしいのです。この事を知るにはどうしても既成観念があると、邪魔して分り難いのですが、それを捨てて何んにも囚(トラ)われないで考えてみれば、何んでもなく分ります。話は学校の講義みたいになってしまいました。

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三日間は殆んど美術館の話をしたのですが、今度の五、六、七に来られた人は、三日間に来られない人が来られたので、やはり美術館の話も急所だけを話してみようと思います。一度は見られたでしょうが、熱海の地上天国もドンドン進みつつあります。これが出来ると、それは今見たのではまだ想像もつかないほど立派なものになります。会館も、私は見ませんが、昨日見て来た人の話では大理石の柱が立ったそうですが、その色や何か、非常によいと言ってましたが、それで出来上ったら外郭(ガイカク)と言い、中身と言い、これだけでも今まで見た事がないような物が出来ます。大きさも日本では一番大きいのです。他は、大きく見えますが、二階、三階があるから、人間も沢山入るし大きくも見えます。しかし一階としては凡ての点において一番大きいです。それから設備も一番進歩しているそうです。例えば音楽の時のオーケストラ・ボックスという……舞台の前の下にあって、これは昔からあるものですが……それを私は不断は見せないように、何んとかの装置で隠れるようになるのだそうですが、これはまだ何処にも出来ていないそうです。その他、中の工夫とか、意匠(イシヨウ)というものも余程素晴しいと思ってます。それから展望台の水晶殿も、これはアッとするようなものです。それで水晶殿と会館は秋までに出来上ります。それから美術館は箱根の美術館とはまるっきり違ったものです。この美術館の様式は、勿論新しいのは新しいですが、実に何んとも言えない、一つの美的感覚を受けるわけです。これが出来たら世界の話題に上るだろうと思ってます。それで今敷地や、あの附近を造ってますが、これは見れば分ります。大きな道路だとか、展望台の方に行く狭い道とか、実にうまくゆくのです。これは神様がそういうような地形を支度してあったのです。ですからこれがすっかり出来上ると、世界にないものになります。似た物もないくらいなものです。これが大変な事になり、日本は無論ですが、世界の評判になるだろうと思ってます。そこで“一体救世教というものは何だ”“新宗教であんな大袈裟な物を拵えて、一体誰がやったのだ”“ナニ、岡田茂吉という元小間物屋の親父だったそうだが、それがあんな物を造って、怪物だ”と、最初は怪物だぐらいでしょう。それからだんだんと“只者ではない”という事になって、そこに自然栽培なども同時に知れますから、そこで“怪物”から“曲者”になります。そして結局“とに角確かに偉い、だから一つ研究してみる必要がある”というわけで、“岡田茂吉研究”という熱が出るだろうと思ってます。“それにはなによりも彼の書いた本を見る必要がある”というので、そうなると私の書いた本が非常に売れるだろうと思います。そうして、それを見れば、医学とか薬の事とか、その他の教えもありますが、大体分る事になります。今教団に命じて、信仰雑話は古くなったので、新しい救世教の聖書というようなものを作ろうと思って、今まで私が書いたものの中から、これがよいというようなものを集めて、そういったものを集録して聖書的のものを作ろうと思ってます。そういうものなども大いに読ませるようにすると、一度に分るわけですから、それから本当に発展するという段取(ダンドリ)になるわけです。それで、医学革命にしても、今までのように一人一人病気を治してやったぐらいでは、とてもまだるっこくて、何時までかかるか分らないです。ところが今のような工合でゆくと案外早く分ります。神様はなかなかそつがないです。今度は地上天国、美術館というものによって多くの人の注目を浴びて、そうしてみんなを教えるという、一つのやり方という事になります。

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それで、もう一つの驚くべき事は、その早さです。これはみんな知ってますが、とに角世界的の地上天国というものが、或いは美術館というものが、これに匹敵する世界的のものでは、イタリヤのヴァチカン、フランスのルーヴル、後は大英博物館ですが……これは英国では一番よいのですが、美術の方は一部になってます。世界的では、今のヴァチカンとルーヴルの二つです。それをアメリカの新聞記者が、箱根に匹敵して見たのですから、熱海が出来れば、勝るとも劣る気遣(キヅカ)いはないです。ところがあっちは、ローマにしても千年近くかかっているし、ルーヴルにしても数百年かかってますし、又多くの人と大変な金がかかってます。ところが私の方は僅か十年です。とに角、始めたのが昭和二十一年ですから、三十一年に完成するとしても十年です。しかも私という、元は貧乏の方ではチャキチャキの方の者が、十年間にこれだけの物を造ったという事は、とても人間業ではないという事が分るのです。そうして日本では、昔からの大きな美術的の物としては、大阪城、二重橋━宮城、それから日光の東照宮ぐらいなものでしょう。ところがこれは根本が違うのです。あっちの方は、その時代の英雄が、その時代の権勢(ケンセイ)を誇らんがためと、自分の政権、主権を維持せんがための……戦国時代ですから……戦争の防備です。だから大阪城も二重橋も、戦争の防備と自己の権勢をみせびらかすという目的だったのです。それから東照宮は、三代将軍が徳川は三代になってもこのとおりだという事を見せるためと、又一説によれば、まだ秀吉の勢力が残っていたから危ない、そしてその大名が秀吉方と奸(カン)を通じて徳川に反抗する気勢がないとも言えない。それには彼等の懐をさびしくしてやろうというので、ああいう金のかかる物を造って、各大名の金を吸収するのだという策略(サクリヤク)もあったという事になってますが、どこまで信をおけるかしれないが、相当あったには違いないと思います。そこであれはただ金さえかければよいというので、芸術的価値はないのです。ですから外国には認められてないのです。そういうようなわけで、日本にあるそういう物の目的というのは、本当に民衆のためにという事はないので、要するに邪念が根本になってます。つまり自己愛です。ところが私が造る地上天国というものは、本当に平和的で、民衆が楽しみ、そうして魂を清浄に、高くするという目的で造ったものです。今までそういった目的でこういう物を造った人は世界中にないです。ヴァチカンにしても宗教的です。その宗教を宣伝する意味と、その信者がいろいろなものを献(ア)げたので、自然にああいうものが出来てしまったのです。そういうようで、本当に平和的に、大衆のために立派な良い物を造ったという事は、世界始まって以来初めてですから、その意味において大変な価値があると思います。これからは世界中で真似をするでしょうが、その意味の事を、この間来たアメリカの新聞記者のグリリという人は盛んに言ってました。流石はアメリカ人だと思いましたが、自己の利益は少しもなく、民衆のためにやったという事は、日本人としては非常に珍しいと言ってました。箱根は規模が小さいが、熱海の美術館は、とも角世界に誇るに足るものと思います。

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一月七日

浄霊の原理については、今までも随分書いたり話してありますが、最初全然知らない人に言うのは、なかなか分り難いのです。しかも智識階級の人はどうしても、信仰的でなく科学的に説かなくては承知しないわけですから、科学的に説いてみたのです。そうすると、浄霊が科学で、医学の方が非科学という事になるのです。それを“なるほど”と思うように書いてみたのですが、これはなかなか難かしいのです。これはそれだけを書いたのですが、徹底させるにはその次を書かなければならないのです。それは今書いてますから、この次あたり出来るだろうと思います。とに角浄霊の意味だけを読ませてみます。

御論文〔⇒浄霊は科学療法なり〕【註  栄光二四三号】   

大体これで分る筈ですが、若し分らなかったら、読み方が足りないのだから、何べんでも読めばよいです。結局この急所ですが、霊体一致で、体の毒素が霊に写るという事は、今言ったように緯の作用です。それからそういったのを治す場合に、霊を浄めて、それが体に写って毒素が出るというのは経の方法なのです。こういう事にも、非常に面白い事は、経の方の霊主体従は、言い変えると善主悪従であるわけです。善の働きです。それから緯の方は悪主善従になるわけです。要するに今の世の中は悪主善従です。だから薬という毒をのんで霊に写すというやり方になっているのです。それで、こういう点にも経と緯がよく現われてます。そこで霊主体従という事が本当のやり方になるわけです。これから書くのが、私にそういう太陽の力が来るという事は、何時も言うとおり、夜の世界が昼の世界になるという時機が来たという事なのですが、そうすると今までの長い間夜の世界が続いて、そうして夜から昼になる意味という事も今書いてます。これはなかなか難かしいのです。霊界の変化ですから……。そういう事は人類の経験にも何もない、新しい説ですから、これを“なるほど”と思うように説くのはなかなか難かしいのです。それも予備智識のある人ならよいですが、初めてそういう事を聞いたらテンデ見当がつかないです。しかし大体は出来ました。そういうようなわけで、今まで昔から偉い人が沢山出ましたが、他の事は非常に偉いですが、ただ一つ足りないものがあったのです。それが太陽の力です。というのは、夜の世界だったから、一番力のある人で月の力なのです。だからはっきり分らない事と、力が弱かったです。そこで太陽の力でやるのが、つまり救世教なのですから、いろんな理窟もありますが、力という事が、とに角今まで無かった力です。その力を一番分るのは、非常にスピードが早いです。それについて、正月の三日間は主に地上天国について話をしたのですが、今日来た人は、お正月の三日間に来られなかったわけですから、大体同じような話をします。同じような話でも、もっと詳しく、よい話になるかもしれません。大体熱海の地上天国は、知っているとおり、この秋にメシヤ会館と水晶殿が出来ます。それから美術館は来年になります。それで、美術館もすっかり設計は出来てます……と言っても頭の中だけではありますが……。これは素晴しいもので、到底箱根の美術館とは比べ物にもならない勝(スグ)れたものです。箱根の美術館は、今までのありきたりのようなやり方を、割合に廻りの風景にマッチした、調子がよいというぐらいのものですが、今度の熱海の美術館は断然新しい、ちょっと想像もつかないようなものが出来るはずです。箱根の美術館でさえ、アメリカのシカゴ・トリビューンの記者のシモンズという人は――婦人記者で、美術の方では相当名のある評論家ですが――去年の秋に見た時に、今まで世界中の美術館を見たけれども、一番良いと思ったのは、イタリヤのヴァチカン、フランスのルーヴル、それからこの箱根美術館だと言うのです。この三つが共通した点がある、その受ける感じが同じようだと言うのです。ただ箱根美術館の方が一つ勝れた点がある。それは、美術館で美術品を見ながら、目を窓の外に向けると、自然の山・海、天然の風景がある事と、庭は岩石・植物というものを芸術的に組合せて効果を現わしているという事は、これは他にないという事です。庭はそうではないが、箱根の美術館はちょっと試験的にやったものですが、それですらそれだけに認められるのですから、今度熱海の美術館が出来、熱海の地上天国が完成すると、とに角素晴しい話題に上るだろうと思います。それは日本ばかりではないのです。アメリカは勿論ですが、いずれはヨーロッパの方にも大いに評判になるわけです。その次に来たのは、婦人で、ニホン・タイムスの記者をしているエリス・グリリという人です。主人はNHKの英語放送の主任ですが、この人は、これから大いにアメリカに紹介するという事を言ってます。それから、シカゴ・トリビューンの方には出たそうですが、送ったのが暇がとれるとみえてまだ着きません。そういうようなわけで、とに角世界的に認められ、むしろ熱海の地上天国を見たいとして、相当の外客がそれを当(アテ)に来るだろうと思ってます。そういうようなわけですから、日本内地は、無論大変な評判になると思ってます。去年の日光見物に行った客の統計を見ますと、二百四十万人というのですから、少なくともその半分は大丈夫だと思ってます。そうすると百二十万人来るとすると、随分大変だろうと思ってます。そうしてそれを見て、信者以外の人は今さらのように喫驚するだろうと思ってます。今見たところで、まだ半分出来てないのですが、今でさえみんな相当喫驚しているのですから……。グリリという夫婦の記者は、見た感想を書くつもりだったが、あんまり思ったより雄大過ぎるので書けない。だから書くのをやめて、ただ現場を見ろという事だけ書くつもりだという事を言ってました。その時に放送局の古垣会長は来たかと言うから、来ない、おそらく知らないだろうと言うと、それはけしからん、大体これだけのものが日本に出来ているのに来ないという事はない。おまけに古垣という人は熱海に居るのです。大いに言ってやらなければならない、と。それで言ったとみえて、昨日その報告がありました。近々にその外人が古垣を連れて来る、だから会って話をしてもらいたいという事でしたから、きっと来るでしょう。しかし、見て“なるほど”と思っても、放送局で特に救世教を紹介するという事はなかなかできないのです。何かしかるべき方法を考えるだろうと思ってます。それが日本の社会状態がアメリカあたりとは全然変ってます。アメリカは、良いと思えばどんな事をしても早く社会に知らせようとして発表するのです。それが日本では、特に宗教というのは、宗教宣伝という事は特に悪いような一種の不文律のようなものがあります。だから言論機関とか放送局というのはそういう事を嫌うというよりか、いけないとしてあるので、妙な話です。宗教でも、良ければよいのです。国のため社会のためになれば結構なのですが、どうもそれがいけないらしいのです。だから今まで幾度か放送がありましたが、必ず救世教だけの放送はないので、必ず他の宗教をお付合に出すのです。そうすると新宗教を批判するとかいう意味になるからよいのです。この間の放送なども、お付合に出された新宗教はお気の毒だと思ったのです。一番終いの交成会は話をしかけでおしまいになって切ってましたが……。ですからアメリカのそういう話を聞いてみると、実によいです。全くアメリカが隆盛(リユウセイ)になるという事がよく分ります。それから又、いろいろ宗教的の意見を聞いたので話してやりましたが、日本人からこういう話を聞いたのは初めてだ、自分は四年ほどずっと日本に居るが、他の日本人は私の言う事と違うと言って非常に褒めてました。それで私は、アメリカの人は大きなものを大きな目で見るから分るのだ、日本の新聞記者は大きなものを小さな目で見るから見えないのだと言ったのです。アメリカの記者はそういうふうに私の考えている事とよく合う。ところが日本の新聞記者などはこれを見ると“救世教の奴なかなか金儲けがうまい”とか“どうしてこれだけのものを造るだけの金を儲けるのか”と、それだけぐらいなものと思うと言ったところが、大笑いをしたのです。とに角日本人の、そういったジャーナリストなどは、どんな良い事があっても、それよりか、何か欠点を見ようとしているのです。それが一つの習慣みたいになっているのです。それはそれとして、熱海の地上天国が出来ると、世の中は驚くと共に、“では一体これは何者だ”“これは救世教の教祖だ”“では一体その教祖という人間はどういう人間だ”という事になりますから、“岡田茂吉という人間だ”“それでは一つ研究してみよう”というので、“岡田研究熱”というものがきっと起こると思います。なにしろ最初の内は、“とに角岡田という奴は怪物だ”というぐらいのところですが、その後は“あいつは曲者だ”という事になるから、“怪物”から“曲者”になります。それからだんだん出世して来て“奴もやはり一個の人物だ”という事になります。それで“奴を研究するには著述が一番だ、書いた物を読むのが一番だ”というそのために私の書いた物が非常に売れると思います。そうなると結構なのです。いろいろ読めば結局、もっと肝腎な医学――しかしそれまでには農業の方が実際的に拡がりますから大した事はないが――と、いろいろな新しい説なども頭に入りますから、そこで非常なよい結果になると思ってます。それもこれもみんな神様がチャンとそういった計画をされているのだからそつはないのです。けれども地上天国、美術館などがそんな素晴しい役目をするという事なども、ちょっと考えられなかったわけです。そういった美術によって教えを弘めたという事は聖徳太子が大いにやったわけですが、それで地上天国について考えてみると、なるほど日本で今まで、秀吉が大阪城を造るとか、家康が二重橋とか……尤もこれは太田道潅が大いに拡張したものに違いないですが……日光にしても三代将軍が当時の美術家を動員してあれだけのものを造ったには違いないが、その目的たるや、つまり徳川の権勢を維持する事と、それによって大いに国民を威圧的に勢力を植付けるという事と、又一説にはまだあの時分には秀吉の残党が相当潜(ヒソ)んでいたから、それに対して当時の大名が気勢があるので、それには金を捲上(マキア)げ、懐を減らすのが一番よいというので、ああいう金のかかるものを造って、金を吸い上げるのが一つの目的だという説がありますが、何処まで信をおけるか分らないが、それも幾らかあったでしょう……。それであれだけのものを造ったので、そうしてみると芸術的のものはないので、ただ立派だというだけで、外国人は大して感心してないです。そういうようで、日本のそういった大きな建築物にしても、自己の権勢を誇る事と、戦争の方の防備という意味が多分に含まれていて、本当に大衆のためにという事は殆んどなかったです。それから世界的にみると、ヴァチカンにしても、宗教的に自然にああなってしまったのです。そして美術としても絵画・彫刻が主な物で、他の物はあんまり無いです。絵画は素晴しいもので、私は写真で見ましたが、それは驚くべきものです。ルーヴルは大体絵画です。尚彫刻・陶器とかいうような物であっても、フランスだけの美術です。他には美術館だけで言えば英・米ですが、これも東洋美術は支那陶器と銅器だけで、後は大した物はないようです。そういうようなわけで、本当に大衆に楽しみを与え、それによって人間の思想を良い方に導き、向上させるというような目的で造られたものはまだ世界にないのです。今度私が造る地上天国が初めてでしょう。これからはこの真似をしてやる者もできるでしょうが……。そういうようで、公平に見て素晴しいものだと思います。では出来たらどうかというと、さっきも言ったとおり、何んと言うか、実際を見なければちょっと分らないようなものなのです。それでこの間も言ったとおり――アメリカの新聞記者が言った事でもあるが――日本を西と東に分けると、西は京都・奈良、東は箱根・熱海が、日本における文化財の見るべきものだという事です。これは私が思っている事と同じで、結局そういう事になるに違いないと思ってます。京都・奈良は、奈良は千年以上で、京都は大体平安朝が一番で、それから桃山にかけてですから、四、五百年から七、八百年という年数がたってます。そうして大勢の人が大変な金をかけたに違いないです。ところが私が此処を始めたのは終戦後ですから、二十一年からで再来年で丁度十年です。十年間でそれと匹敵するものを造ったのですから、その早さにおいては、実に私も驚いてます。しかし神様がやっているので、私はただ案外楽々とやってますが、何時かしらこんなものが出来てしまったわけで驚いてます。又、この間の生誕祭をハワイのホノルルの本部でやったのです。本部はまだすっかりは出来てないが、人が入れるぐらいに出来て――今月一ぱいで出来るそうですが――参拝者が千百人あったのです。昨日の報告を見ると千二百幾らかになってますが、それが去年の三月に始めたので、それまでは足掛りも何もなかったのです。そのくらい早いです。早いという事は、神様の力があるという事です。まだいろいろ話もありますが、とに角それで大体分ったでしょう。

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一言いうべき事は、この地上天国が世界的に、今言ったように、一つの話題になるとすれば、日本における救世教という宗教と、岡田という人物というものは知れるだけは知れますから、それから神様は、勿論最初はアメリカですが、アメリカをドンドン開いてゆきます。そうすると無論ヨーロッパにも開けますし、これはまだ発表しませんが、東洋におけるつまり中国における一つの根拠が出来て救世教が発展するという……最初からそうもゆきませんが、とも角一つの種をまくという事が、最近始まっているのですが、これはもう少したったらもっと具体的に話せるようになるでしょう。そういうように、こっちの目的である「世界人類を救済する」「地上天国を造る」という事も、全然夢ではない、案外早くそういう形になるという事が分るのです。それがもう一、二年たつと大分はっきりとなる事は大丈夫です。

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一月十五日

農業特集号は、大分報告も集まりましたから、この次に出します。その論文を書いたので読ませます。今までとは大分変った点があります。

御論文〔⇒日本農法の大革命・無肥料で初年度から一割乃至五割増産〕〔自然農法の原理〕〔⇒本農法の技術面その他〕【註栄光二四五号】

終りにある事は、この間のお蔭話で読みましたが、有肥の米と無肥の米とを、一粒を一寸ぐらいに大きく写真にとったのです。そうすると、有肥の方は腐蝕(フシヨク)したようにガラガラになっているのが、よく写っています。無肥の方はチャンと米になっているのです。これを見れば直ぐ分ります。それを五、六粒写してありますが、有肥の方は全部欠けて、中には半分ぐらいのがあります。米でさえそうなのですから、その米を年中食って居れば、虫がわくのは当り前です。無肥になれば、いろんな寄生虫という病気も無くなるわけです。それで今読んだとおり、今まで知らなかった事は、そういった米ばかりでなくて、あらゆる物にはやはり動物と同じ理性と感情と、それから芸術的の思想もあるのです。ただ動物以外の物には自由がないのです。草木がこうしようああしようとしても、或る程度はありますが、動物ほど自由がないのです。それが一番分る事は、私は花が好きで、始終花を活(イ)けますが、ちょっと気に入らない点がありましても、忙がしくてそのままにしておくと、明くる日になるとその恰好(カツコウ)が悪かった所が直っているのです。それは実に微妙なものです。昨日も水仙を二本活けたのですが、二本の調和が悪いのですが、用があって忘れていたのですが、今朝見ると良い工合に形が直っているのです。それから私はよく、木をその周囲の状況から、植木屋に逆に植えさせる事があります。これは前に書いた事がありますが、裏返しとか横にするのです。そうでないと工合が悪いのです。そうすると、だんだん年限がたつに従って、前面が出来て来るのです。そういうような工合で、人間が見ると、目に見える方は恰好が良くなるのです。私は始終生きていると言いますが、全く生きているのです。だからそういうような物を愛し、優遇し、尊ぶのです。そうすると、そういった物も非常に嬉しくなって、“よし、ウンと見場(ミバ)を良くしてやろう”という感情が起こるのです。それは実に確かなのです。だからしてそれを作る土もやっぱり同じです。土に対して、大いに尊重し、土を愛せば、土も喜びますから、土が大いに働くわけです。人間でも、始終酷い目に遭ったり、虐待(ギヤクタイ)されたり、ロクな扱いをされなかったら、不平でロクな仕事はしない事になります。それと同じように、そこに微妙な点が大いにあるのです。それを頭から糞をかけたり、硫安という劇薬をかけたりすると、土も感情的にも腹が立ちます。だから“勝手にしやがれ”というので、ロクでもない結果になるわけです。この点から言っても、肥料をかける事が如何に悪いかという事が分ります。今はストライキが流行ります。今は人間のストライキですが、他の方のストライキも大いにあるわけです。これは何んでもそうです。又前記のことは植物としてですが、こういった有機物にもやはりあるのです。これは、霊のある物は全部それがあるのです。だからして骨董品なども昔から尊んで大切にした物は、やはりそれがその品物に含まれているのです。それで古い、時代のついた物は非常に良いのです。同じような物でも、古い物ほど良いです。それは実に不思議です。それで、古いのは何処が良いかと言うと、何んとなく良いのです。百年前、二百年前、五百年前、千年前というのは、始終見つけていると分るのです。というのは、これを人間が尊ぶと、人間の感情が始終其処に行きますから、その品物が人間から受ける感情が、その霊に、つまり霊がだんだん育ってゆくようなものです。それが何んとなく見る人間の感覚に影響するのです。それは実に微妙なものです。昔からよく、何んにでも神様と言います。井戸にも“井戸神様”と言い、それから便所にも神様があると、昔の人は言ってますが、それは本当なのです。今そういう事を言うと、馬鹿な、旧式な考えだとけなしますが、そのけなす人の方が余程ぼんくらです。こういう点も分ると、凡てにおいてうまくゆくのです。だから、生きたものでないそういった無機物に対しても、それを人間がそういった扱いをすると余程違います。私は、部屋なら部屋にいろんな飾りつけをしますが、その器物にも位の高い物と低い物があります。位の高い物は部屋の良い所におき、位の低い物ほど裾におくようにしてます。そうするとその部屋に入ると何んとなく気持が良いのです。私がそういうようにした部屋に、信者でない人が来ても、何んとなく気持が良いと言うのです。というのは、霊界において霊の順序が良いから気持が良いのです。こういう事を知るという事は非常に肝腎です。これを他の事にとってみると、よく大勢の部屋で争いが起こったり、中には殴り合いが起こったりしますが、そういう時には、坐る所が順序が違うのです。ですから霊界が混乱状態です。人間にもそのとおりに写ってしまうのです。だからその部屋に入って順序がちょっとでも違うと、何んとなく気持が悪いです。上の人が下座に坐って、下の人が上に坐ったりすると、其処の霊界が乱れてますから、何んとなく気持が悪いのです。それで何んとなく腹が立ったり、喧嘩が起こりやすいのです。実にそういう点は、割合大きなものです。こういう話をすると切りがありません。今年の自然栽培の報告は、総体において去年よりかずっと良いです。という事は、霊界がだんだん変って来たためです。霊界に火素が増えたためです。これは他の事でも分りますが、この頃は何処でも暖かいです。熱海も、昨日梅園に行って見ると梅が満開です。何時もは今月の末にならなければ、満開にならないのですが、今年は、今月の末になつたら散ってしまうでしょう。これは火素が増えたためですが、そうすると、気候が暖かくなるから、作物も非常に収穫が良くなるのです。ところがそれを肥毒で邪魔するからして、かえって逆になるわけです。逆になるという事は、霊界が、つまり曇りが無くなると、良い事と悪い事が影響が早く現われるのです。つまり其処が良くなれば、間違っている人間は酷い目に遭って、良い人間は非常に結構になるという、善悪の差別がはっきりして来るのです。そういうわけで、肥毒をやるのと、きれいなのとの結果が早く現われるわけです。そういう点で、特に今年は無肥が良くて有肥の方が悪いという事になるわけです。それが年々著しくなるからして、どうしても分らないわけにはゆかなくなるのです。その次には病気ですが、病気はまだそこまで来ていませんが、いずれそういう事になります。これは始終言ってますから、言う必要もありませんが、医学の結果が逆になりますから、そうなってからいよいよ分るという事になるわけです。ですから農業の方が先に分るわけです。そうして医学の方はその次という順序になったわけです。

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宗教の事について、誰も知らない事を書いてみました。宗教の人も知らない事です。ちょっと興味がある事です。

御論文〔⇒婆羅門とマホメット〕【註  地上天国五六号】

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一月十六日

自然栽培の報告が大体集まったので、特集号を出します。言いたい事は大体みんな此処に書いたつもりですから、これをよく読めば、どんな人でも分るわけですから、大いに撒いて貰いたいと思います。百万部作る事にしましたが、今から大いにバラ撒いておけば、今年の栽培を始めるのに間に合いますから、時期が丁度良いと思います。

御論文〔⇒日本農法の大革命・無肥料で初年度から一割乃至五割増産〕〔自然農法の原理〕〔⇒本農法の技術面その他〕【註  栄光二四五号】

この間、有肥と無肥の玄米を蔵(シマ)っておいて一年たってから見て驚いたというお蔭話がありましたが、今度その米を拡大して写してみましたが、これで実にはっきり分ります。今いろいろ読んだとおりで、大抵な事は分っているでしょうが、ただ初めてと思うのは、土や植物にも意思、感情があるという事です。これが割合に重要な点なのです。だから土を愛し、尊んで、そうしてできるだけ穢さないようにするという事が根本なのです。その点動物と同じなのですから、そうしてみると、例えば、人間の頭から糞をかけられたり、劇薬をかけられたら悔しいのも悔しいし、シャクにも障ります。今では日本の土はみんな怒っているのです。ロクに出来ないという事は、土がストライキをやっているのです。それから稲もそうです。折角(セツカク)土のうまい所を吸おうとすると、変な物をやられるので腹が立つし、変な物を食わせられるから栄養が無くなって痩せてゆくのです。有肥料の稲はみんな痩せているというのはそういうわけです。これを人間に準(ナゾ)らえればよく分るのです。だんだん弱ってゆくから、そこで水害や害虫にあっても、それに負けてしまって、去年のようになったわけです。そういうように、今までの人間というのは全く、一番簡単に言えば馬鹿野郎です。私の冠句に“馬鹿野郎、よく考えりやオレの事”とありますが、全くこれは日本人全体の事です。そういうわけだからして、まずそれが基(モト)です。そういうふうな考え方で見るのが根本です。そういうふうに思えば、肥料などは恐ろしくてかける事が出来なくなりますから、それをよく教え込むとよいです。今度来た報告を新聞に五十例ぐらい出しましたが、以前と違って一人も減産がないのです。少ないのでまず一割、多いので五割です。これは霊界が違って来たせいもあるのですが、実に自然栽培が普及されるような時期にもなって来たわけです。この次は病気ですが、この方は後廻しだとみえて、大分ゆっくりしてます。でも、信者の方にはかなり激しくなって来たようです。ボヤボヤしているとなかなか危ないような点が見えます。そういうようなわけで、もう一段分ると、それは燎原の火のように拡がってゆくと思います。仮に百万を、一軒の農家に一部ずつとしても、新聞とかああいうものは大抵平均して五人は読むとしてあります。そこで仮に五人読むとすると、五百万人読む事になります。そうすると農民の数が二千万として四分の一が読む事になります。しかしこれは五人ではきかない思います。今、これを最も知りたいという時だし、又この話を聞いたとすれば農民は見ずには居られないですから、十人くらいは大丈夫だと思います。これは言うまでもなく数多く配布させたいと思います。その土地々々の指導者はそのつもりでウンとやれば、チャンと神様が手伝いますから、大丈夫うまくゆくと思います。そうしてこれだけで、“救世教というものは普通の宗教ではない。これは大体偉いとか偉くないという事は別として、有難い宗教だ、これでわれわれは助かった”という、その恩を感じるという事が大きなものです。

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次に、熱海の地上天国もだんだん出来ていって、私は時々行きますが、その都度神様の方でなかなかいろんな計画が後々出て来るのです。それによると、だんだん素晴しいものになってゆく構想が出て来ています。今見ただけでもみんな随分驚いてますが、本当に出来上ったら、この何倍という立派さになりますから、それは想像もつかないです。今話をしようと思っても、あんまり素晴しいので話の仕方がないのです。それは今とはまるっきり違います。私も、自分がそういう計画が出ながら自分で驚いているのです。自然栽培の方は日本だけの事で、アメリカなどは去年は麦が出来過ぎて困っているくらいです。その代りこの地上天国の方は、日本は無論ですが、外国に素晴しい影響を与えますから、神様は抜目(ヌケメ)なくやられているわけです。

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それから去年の一番沢山穫れた人、チャンピオンは五石一斗三升六合ですが、その人の記事を読ませます。

お蔭話(昨年度の第一位・四年目で五石一斗三升六合)【註栄光二四五号】

粒数が百五十乃至二百二十としてありますが、これは肥毒が抜けたばかりがこれだけです。これがさっき言ったとおり、連作の稲に力が出て来るのです。ですからこの倍は確かです。まず粒数は三百乃至四百は大丈夫です。その代り枝が出ます。今の五石一斗三升六合というのも、倍も穫れます。これに書いてあるとおり、二十俵以上も敢えて夢ではないのです。二十俵ぐらいは楽です。そうすると現在の四倍になりますから、米が出来過ぎて困ります。ところが米は他に使い道が幾らでもあります。澱粉にしても大変なものです。澱粉にして輸出もできます。そこで日本は今に金がダブついてしようがなくなります。今のインフレは品物が足りないインフレですが、そうなると品物が多いインフレです。しかしそういうインフレの方がかえってよいわけです。これだけを日本人が知っただけでも、日本中がみんな手を合わせて拝みます。いよいよその時期が近寄って来たわけですから、これほど大きな喜びはないわけです。それでこれが分ると、今度は医学の薬迷信が分りやすくなります。“なるほど救世教の言う事は、農業でさえこれだけだから、やっぱり医学の方も本当かもしれない”という形勢になって来ますから、そうなったらしめたものです。だんだんそういう時が近づきつつあるわけです。

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そういうわけで、無機物にも意思、感情があるという事を知る事がやはり必要なのです。例えてみれば、木が枯れるとか草が枯れるという事なども、人間がそういう事を知らないからして、非常に冷たくされているわけです。そこで勢いが無くなってしまうというわけです。街路樹というのは見ても実際面白くもない、魅力がないです。ところが庭の木とか、そういう事の好きな主人公で、始終それを楽しんだりしていると、植物の方も張合(ハリアイ)があるから、大いによく見せるというわけですから、まるっきり違うのです。私の所に来る人は、庭の木でも活花でも非常に褒めます。他所(ヨソ)と違うのです。というのは、私が始終見てそれを楽しんだり愛したりしてますから、そこで植物の方でも張合があるから大いによく見せるというわけです。実に不思議なのは、花を活けて、ちょっと気に入らない所があって、忙がしくてそのままにしておくと、明くる日になると枝ぶりが良くなって変っているのです。ですから私は生きていると言うのです。木でも、枝を切ったり横向きに植えたり裏返したりしておくと、人間に見える方の枝がだんだん伸びて来て形良くなるものです。実に不思議です。それで木などを注意して見ると、人間の見る方がだんだん良くなるのです。そうして見えない方は悪くなります。ですから人間に良く見せようという事を思っているという事が分ります。そういうようで、どんな物にでも霊がありますから、霊がある以上は人間の扱い方や見方や愛し方によって違うという事を知っておくと、凡てに大変よいです。それでは植物とかそういう物だけかというと、こういう物(器物)もそうです。これは本当の無機物ですが、こういう物でも始終愛すると違って来るのです。だから、古い骨董品などが良いという事はそういうわけで、古い物ほど多くの人が見て楽しむというために味わいが出て来るのです。古い茶碗などは、殆んど言いようがないほど面白みや味わいがあるのです。それは人間の霊が沢山入っているからです。ですから新しい物で良い物があっても味わいがないという事は、その点にあるのです。まして農作物というような物とか、花を人間が見て楽しむという物は、人間次第で大変な違いです。そういう物に糞をかけたりするのは良いわけがないです。根本はそこにあるのですから、さっき言ったとおり、火、水、土の霊気が溶けて、そうしてそれが、一つの、見えざる力とも言うし、Xと書きましたが、名のつけようのないそれが凡ゆる物の基(モト)になるのですから、肥料というのはそれです。土というのは物質なのですが、その土の中に三位一体のコントロールされた霊気が満ちて、そしてその霊気は濃くなったり薄くなったりするのですが、穢(ケガ)さないで、人間が愛すと濃くなって来るのです。それが肥料なのです。ですから肥料というのは目に見えないものですから、科学が幾ら研究しても分らないのです。かえって科学は邪魔をするから駄目になるのです。そういうような意味が根本ですから、それを農民にだんだん教えるのです。教えるよりか、実際に良く出来れば“不思議だ、どういうわけだろう”という事になってから、その理窟を言えば直ぐ分ります。さもなければ、なかなか簡単には分りません。

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一月十七日

やっと特集号が出るようになりました。今その論文を読ませますが、報告は五十通ぐらい出すつもりです。これはかなり骨折って書きましたが、大体これで分るわけです。やっぱりどうしても今の人は科学的でないと承知しないから、科学的に解説しました。ただ科学が違うのです。今の科学は旧式な科学です。もっと新しい科学で書いたつもりです。

御論文〔⇒日本農法の大革命・無肥料で初年度から一割乃至五割増産〕〔自然農法の原理〕〔⇒本農法の技術面その他〕【註  栄光二四五号】

最後にある事は、この間のお蔭話にあったのですが、聞かない人もあるでしょうから、もう一度読ませます。

お蔭話(肥毒の恐ろしさ)【註  栄光二四五号】

その写真を拡大してとったのですが、実によく分ります。いろいろな写真がありますから、廻して見せます。【註  栄光二四五号】今年の自然農法での第一番は、特集号に出しますが、大分県の人で、反五石一斗三升六合です。一等賞を、普及会として出すつもりです。然るべき方法で褒美も出します。この人は四年目ですが、四年前の自然栽培にした年は反五俵半です。今は四年目ですが、六年目七年目となればもっと増えます。まず二十俵近くなると思います。  特集号は沢山刷ります。普通の新聞とか、そういったようなものは大抵一枚で五人見るという平均になってますが、これは今の農家の一番困っている問題ですから、五人でなくて十人ぐらいは無論見ると思います。としたら、これが農家百万戸に行き渡るとしたら一千万人の目に触れますから、相当の効果があると思います。少なくとも二、三年後には自然栽培に切り替える人が随分できるだろうと思ってます。だから大変な問題になると思います。若しこれが全国的になるとしたら、まず開闢(カイビヤク)以来ない大きな救いです。これだけでも救世教というものは普通の宗教ではないという事が分るわけです。

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それからもう一つは、熱海の地上天国はみんな見たでしょうが、まだホンの半分にも行ってません。それでいてあれだけを見てみんな喫驚してますが、これが出来上ったら、まだまだ今想像もつかないほどの立派なものが出来ます。今美術館の廻りの道をつけたり、土をいろいろいじってますが、美術館の廻りなどは、それは想像もつかないほど素晴しい事になるつもりです。話ではちょっと分らないくらいなものです。“なるほど、天国とはこんなものか”というようになります。会館や展望台の方は、素晴しいながらもまだそれほどではないのですが、美術館の廻りの出来上りは、“なるほど天国というものはこういうものか”と天国の気分が随分素晴しいものです。それを眺めれば、それこそ、天国の鳥と言われる迦陵頻伽(カリヨウビンガ)が飛んで来るかと思うような感じが出るつもりです。それは来年一ぱいに出来ましょう。この評判は、日本は無論ですが、世界的に外国にも随分大きな話題になると思います。それで初めて、“救世教というものは普通の宗教ではない、これは大変なものだ”という事になるし、又そうなると、医学の方も“農業でさえこうなのだから、やっぱり医学の方も救世教の言うのが本当ではないか”というように、そこに信じ方が出るわけです。信じられる非常に大きな刺戟になると思います。つまり神様の方は、漸く桧舞台に一歩々々上るという形になって来るわけです。去年も言ったとおり、昭和二十五、六、七が済んで、八年から開けるという事を言いました。それから静岡事件も大変な意味があったので、二十五、六、七と、七で済んで、八の去年から開け出す事になって、今年、来年となって、来年出来るわけですが、それから世界の桧舞台に上るというわけです。前にも言ったとおり、箱根は霊的で熱海は体的ですから、熱海の地上天国が出来れば、要するに体的に発展するわけです。だから本当に目立つわけです。いよいよ面白い張合のある時期に入って来たわけです。だからして神様の方はチャンと準備や、芝居ならプロが出来ているわけです。そのとおりに、少しも違わないでチャンとゆくのです。ただ時期だけのものです。大本教のお筆先に「時節ほど有難い、恐ろしいものはないぞよ」「この事が分り出したら、世界は唸るぞよ」というのがありますが、もう其処の直前に来たわけです。それから「こんなものがあんなものになり、あんなものがこんなものになる仕組であるぞよ」というのがありますが、お筆先というのは実に簡単な言葉で素晴しい大きな事を言い尽くしてあります。私などもその当時は本当には分らなかったのですが、神様というものは何んだか変な言い方だと思ってましたが、今になってみると、それがピッタリと当っているのです。「何事も神の言うとおりに致せば間違いはないぞよ」というのがあるのです。自然農法にしても、私の言うとおりにした人は、チャンと予定どおりに進んでゆくのです。効果もあるのです。ところが農民は長い間の習慣でなかなか言う事をきかないのです。なにしろ今もって有肥をやっている人が相当あるのですから……。漸く今年あたりから気がついて、“では切り替えよう”という事になった人が随分あるようです。それについてこういう話があります。大本教の教祖様が神様から“直よ、お前はこれから外国に行くんだよ。直ぐ外国に行きなさい”と言うので、教祖様は“私にはそんな金も何もないのに外国に行けないでしょう”と言うと、“なにいいんだよ、五円持って行けばいいんだよ”というので、教祖様は五円札を持ってノコノコ出掛けたのです。そうすると途中まで行くと“直や、もう行かんでもよいぞよ”と言うので、“神様はどうして御からかいになるのです”と聞くと、“いや、お前がどのくらいワシの言う事をきくか試してみたのだ。だから、もうこれで分ったからいいんだよ”というわけで、神様が試されたわけです。そのくらいに素直に言う事を聞くという事です。お筆先に「何事も神の申す事に間違いはないから、素直が一等であるぞよ」とありますが、そういうようで、何時も言うとおり、私が何んでもなく言った事でも大変意味がある事ですから、そのとおりにやれば決して間違いはないのです。今度の無肥料栽培も、最初はテンデ耳に入らなかったです。それこそ“明主様は病気を治す事はなるほど確かに大丈夫ですが、農業の事はそれほどの事があるわけがない”と思ったらしいのですが、これは時節の事だから、幾ら言っても分るわけがないので、しようがないのですが、そういうようで、漸く思うとおりの実績が上って来たわけで、非常に結構です。

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一月二十五日

二、三日前に聞いた話ですが、ニホン・タイムスのエリス・グリリというアメリカの新聞記者が、この間日本の大新聞の記者を数人集めて、救世教というのでなく、私の宣伝をしてくれたのです。その人は四年前に日本に来てずっと滞在し、最近日本に土地を買って家を建て、畳住まいで、日本人と同じ生活をしているのだそうです。どうして日本をそういう工合に好きになったかというと、やはり世界中いろいろな国に行ってみたところが、日本人が一番勝れているというのです。他の国の人間が持たない素晴しいものを持っている。それを自分は発見した。だから一生日本研究で終るつもりだという事を言っているのです。その時に日本の新聞記者に対して“自分は今まで日本人の偉い人にいろいろ会ったが、救世教の岡田茂吉が一番偉い。それを何故新聞に書かないか”と言ったのだそうです。そうすると新聞記者はヘドモドして、その中で朝日の記者が“あれは面白くない事がある”と言うのだそうです。内容は聞かないが、多分裁判の事だろうと思うのです。有罪になって執行猶予中だという、そういう事だろうと思うのです。他にはないのだから……。そうするとグリリという人は“そんな事が何だ。それは人間だから、大きな事業をする人は何か少しは法に引掛るような事をするのは、やむを得ない。けれどもあの人のやっている事業の百分の一くらいのものではないか、そんな事は問題ではない。とに角あれだけの事をやって、病貧争絶無の世界、地上天国を造るという、これほど大きな事業があるか。おそらく世界でもまだないだろう。とに角自分が日本に来て、日本人の偉さという事を、あの岡田という人によって初めて発見した。それを新聞に書かないという事はないではないか”と言って、大いにやったそうですが、痛快だったわけです。そういうわけで、つまり何時も言うとおり、日本人のああいうジャーナリストというのは、とに角目玉が小さいので、大きいものを見る事ができないのです。全体的に見る事ができないで、局部的に見るのだからしようがないわけです。結局ナンダカンダ言っても、日本人の目のクリ玉の小さいという事が、日本の発展を阻害しているわけです。日本を伸びないようにしているわけです。仮に自然栽培にしても、立派な成績を、農業者や農事試験場の役人が見ながら、それを取り上げようと考えないのです。如何にしてこれを非難して、拡がらないようにしようか、押えつけようか、という事に一生懸命です。でなければ、若し自然栽培が天下に知れたら、農学者などの自分の説が一ぺんに壊れてしまいますから、それがつらいのでしょう。それから農林省の役人はクビの問題になるでしょうし、とに角国家社会とか世界人類という事より、ただ自分の利益ばかりを考えているのです。それから又、そういう事に対して大新聞などは自然栽培を大いに紹介しなければならないわけですが、そういう事はないのです。そのくせ朝日などは調査しているのですが……。しかしそれをやると肥料会社の方が大変なのです。致命的打撃になります。だからして肥料会社の方なども、然るべく……箝口令(カンコウレイ)ではない、緘筆主義もやっているのではないかと思います。彼等の頭というのは自己の利害ばかりを考えているわけです。これは新聞や学者ばかりでなく、政治家でもそうです。我党々々で、社会党などの講演にしても、殆んど理窟のないところに理窟をつけて、苦しまぎれにただ政府のやり方を非難して、自己を離れての本当に国家や多数国民のための利益という事は少しも考えないのです。実に露骨(ロコツ)に自己の利益しか考えないようにやってますが、ああいう事は決して誤魔化されるものではないですから、あれを聞いて、心ある人はそのさもしい心を見抜きます。ですから再軍備反対ということも、徴兵適令期の青年とか、あとは爺さん婆さんという連中だけが賛成するのです。彼等のさもしさというものは実に可哀想なくらいです。けれども時の問題で、もう遠からずそういうのがみんな改心せざるを得ない情勢になって来ますから、別に大した問題ではないのですが、そういうようなわけなのです。特に日本人などが、殆んど幸福な人間というのはないので、不仕合せな人間ばかりが蠢(ウゴメ)いているようなわけです。それで幸運の秘訣という事を書いてみたのです。以前にも書いた事がありますが、もっと分りよく徹底して書いてみました。

御論文〔⇒幸運の秘訣〕【註  栄光二四六号】

まだ少し書き足りないところがあるのです。今のは経だけを書いたのですが、緯の段階が肝腎なのです。その緯の段階の、つまり上から下まで何階にもなっている、其処がそのまま写るのですから、始終うまくゆかない、苦しみや災難があるという事は、そういう段階に霊が居るわけなのです。だから幾ら人間が工夫をしてうまくやろうと思って一生懸命にやっても、そうはゆかないのです。漸く金を溜めたと思ってヤレヤレと思っていると、どうしても出さなければならない事が次から次へと起こって来るのです。病気については、信者には問題にならないが、世間一般の人は大抵、やっと貯蓄ができてまず金の心配はないという事になると、必ず病気の心配が起こるのです。そうしてヤレ入院だ、手術だ、と言って、おそらく溜めた金は残らずふいになって、それでも足りないで借金するというような事は随分多いです。というのは、つまり霊層界の地位が地獄に居るから、どうしても地獄のとおりに写って来るわけです。だからいろんな、方位が良いとか、或いは十二支で、午(ウマ)の年の午の月とか、未(ヒツジ)の月とか、そういう事を気にしたり、方位方角をやっても、決してうまくいった事はないです。むしろそういう事を始終気にしている人の方が運が悪いくらいなものです。その運が悪いというのは、そこに訳があるのです。そういう事を気にかける人は霊が弱いのです。つまり霊の力が弱いからして、あらゆるものに怯(オビ)えるのです。それで霊の強い弱いという事は、肉体の健康の強い弱いのと同じ事なのです。だから非常に臆病(オクビヨウ)な人や、物に怯えるような人は霊が弱いのです。つまりどうせ悪い事をする人は悪の方ですから、それに負けるわけです。そういうようなわけで、自分の魂を霊層界の高い所におくようにすれば、又其処は良い事ばかりが来る世界です。人間という奴は、悪い事というものは重なって来るものなのです。私なども随分経験がありますが、何か災難とか苦しみが来る時は必ず健康が悪いです。これは誰に聞いてみても大抵そうです。やっぱり健康で居る時には運勢という事も良いわけです。だから信仰に入って浄霊を受けさえすれば、みんな運が良くなります。間(マ)が良くなります。よくお蔭話にありますが、随分金に苦しんだのが、入信してから急に思いもしない金が入って来たり、楽になるという事は、つまり霊層界が上るからです。それで、それは神様の光をいただきますから、そこで霊が浄まるから、そこで今読んだように霊が軽くなるから上に上るのです。其処は貧乏や金に苦しむ所がない世界ですから、そこのところは甚だ微妙な問題でいて、一番確実な方法です。これさえ守り、これさえ信じて居れば、運の悪くなる気づかいはないです。ただ一時は、霊の曇りを取られるために一時的苦しみはありますが、それは決して長いものではないので、それさえ済めば必ず良くなるのです。信仰の妙諦(ミヨウテイ)というものはそこにあるのです。ところが今までの宗教はそういう事は説かなかったのです。という事は、光がなかったのです。あっても月の光で薄いから、そう著しく曇りを減らす事はできないのです。だからして運勢も、良い事があるが悪い事もあるというわけで、年中苦労しているのです。それで、月の神様という事を言いますが、月の光というものは薄いのですが、それ以外に、月というものは暗(ヤミ)という事があるのです。そこで月の光だけをいただいて、まず運が良くても、必ず暗があるから、その時にやられてしまうわけです。だから今までの世界では本当に運が良くなり、永遠に栄えるという事は絶対にできなかったわけです。それは歴史を見ても分るとおり、無論天下が長く続かず、それから又何代もうまくゆくという家は無かったです。そこでどうしても太陽の光でなければ駄目なのです。太陽の光は毎日必ず出るのですから、太陽に暗はないのだから、悪い事が幾日も続くという事はないのです。そういうようなわけで、どうしても太陽の光でなかったならば本当の幸福は得られないわけです。一時的しか得られないわけです。それから運ばかりでなく、凡てがそうです。だから今までの事はみんな一時的で、続かないのです。丁度病気を薬や医者でやると一時は良くなりますが、必ず元通り再発するわけです。何もかにもそうなっているわけです。つまり永遠性がなかったわけです。運の話はそのくらいにしておきます。

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ちょっと面白い話で、神様に関した事ですが、これは私の今までの本にもありますが、これもちょっと書き方を変えて、幾らか新しいところがあります。

御論文〔⇒神様と私との関係〕【註  地上天国五十七号】

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それから浄化作用ですが、これはみんなよく知っているでしょうが、だんだん強くなって来てます。来月立春祭を過ぎると又かなり強くなるわけなので、信者の人は余程ボヤボヤして居られない事になるのです。というのは、つまり片付くと言いますか、良くなる人と悪くなる人がはっきりすると共に、肉体ではもういけないというように、つまり決められるわけです。これもあんまり良い気持はしないのです。やっぱり肉体で働いた方がよいです。霊界で働くのはずっと後の遅い方がよいわけです。これは信者未信者にかかわらず、最近随分死ぬ人があるのです。私などもハッと思うような事があるのです。しかしまだまだ序の口です。今年の節分過ぎあたりから序の口に入るというような時期になるわけです。それで最初は信者の人が多いですが、それからだんだん一般の人に及ぼすようになって来ます。霊眼で見る人がよく言いますが、今霊界は死人の山なのです。そうなって初めて私の唱える医学の根本が分るわけです。そうなると病気は救世教の浄霊より他に駄目だという事が分って、一ぺんに信者が増えるわけです。天手古舞(テンテコマイ)をする時期が来るわけです。それは一度に来るわけではないので、だんだんにそうなって来ます。丁度今年の農村の凶作みたいなもので、なにしろ神様は自由自在ですからして、それには助ける方の準備が必要ですから、今まで救世教がだんだん発展し、それから信者さん達ができつつあるという事は、つまり準備時代というわけです。ですから準備時代があらかたになると、今度は全般的浄化作用が起こるという事になります。こうなると実に悲喜交々(ヒキコモゴモ)来たると言いますか、それに苦しみ倒れる人は実に気の毒な悲しむべき人です。観音様の御名前の中に大悲菩薩というのがありますが、その時の御働きは大悲菩薩です。けれども神様は悲しむだけではないので、それを救わなければならない。その救うその時が大慈菩薩です。ですから大慈大悲という事は反対の言葉が並んでいますが、そういう意味なのです。そういう時期が大分近寄って来たのです。ですからそれには、大いに救う……方法は浄霊に決まってますが、智識というものを大いに深めなければならないのです。そろそろ始まって来つつあるのは頭です。他人もそうですが、自分も頸の廻りと頭をよく調べて、できるだけこれを溶かさなければならないです。私でさえ随分ありますから、毎日のように溶かしてます。これを溶かしたり体の方々をやると、実に私などは薬毒があるので、驚くほどです。だからどんな人でも到底想像もつかないくらいあると見なければならないです。“もうオレはかなり浄化されたから、余程減っただろう”と思うと大違いで、むしろこれからです。それでいて私などは今までに浄霊や修業やいろんな事で随分減っているのです。減っているという事は、普通の人と比べるとよく分るのです。体力や精力が強いのです。それから又頭も良いのです。そこにもっていくと今の若い人というのは可哀想なくらいなものです。山などに若い人と一緒に行く時には私が加減しているのです。その歩き方が遅いのです。ですから私の方でなるだけ加減してやっているのです。“明主様は御早いですね”と言うから“年が違うよ”と言うのです。それから又頭の悪い事夥(オビタダ)しいのです。実に悪いです。私がこの頃若い人に言っている事は“巾着切の真似をしろ”と言うのです。“とに角巾着切というのは偉い、君達よりずっと偉い。強盗や窃盗はいけないが……”これは不可抗力的にやって来ますが、巾着切はこっちが用心すれば盗られる事はないので、こっちが間抜(マヌケ)だから盗られるのです。だから“ある点において大いに見習うべきだ”と言うのです。ですから巾着切のように頭の敏捷(ビンシヨウ)さです。人込(ヒトゴミ)の中で人の懐を狙って盗るというその鋭い感覚というのは大いに学ぶところがあります。ですから巾着切と詐欺師は普通の人よりか或る程度傑出(ケツシユツ)したところがあります。詐欺師というのは、全然の拵え事を本当のように思わせるのですが、それに或る程度知識階級とか金のあるような者を瞞してやるのです。ですから、手段としては……目的が悪いのです。それを良い目的にすれば大変な役になるのです。ですから巾着切の頭で病人を見たら“この人は何処がいけない”“どういう所が悪い”という事が分るわけです。そういうようなわけで、人間の信仰としても、今までのような信仰の考え方とは殆んど反対な事があるくらいです。だから私は若い人に言うのは“君達はまだ徳川時代から、中にはまだ平安朝時代の……”実にのろいのと間が抜けています。若い人が次々と随分手伝いに来たりしてますが、みんなそうです。実に悠長(ユウチヨウ)な、少なくとも二十世紀の人間とは思えないです。特に信者になると余計そういう点があるようです。神様に御任せしているからよいというような点があります。これは神様に御任せするというよりか、むしろ神様に責任を負わせるという、つまりあんまりダッコし過ぎるというきらいがあるのです。大いに努力して神様にできるだけ御手数をかけないようにするのが本当だが、そういう事なく、赤ん坊が親に養育されるような生温(ナマヌル)い考えが、信者というのは起きやすいのです。そこに難かしい点があるのと、又言うに言われない面白さがあるのです。そこで人力━自力と他力の線をうまくやってゆくという、それが一つの覚りであり、修業です。

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一月二十六日

ついこの間、例のエリス・グリリというアメリカの新聞記者の人が、東京都内の主な新聞の記者を呼んで、私の宣伝をしたわけです。それを聞きましたが、大分痛快な事を言ってます。“君等は救世教の岡田茂吉というのを知っているか”“知っています”――ところでこの人は四年前に日本に来て、東京に土地を買って家を建てて、畳住まいで、日本人と同じ生活をしているのですが、日本がとても好きで、一生を日本で暮らすつもりでいるのです――。“四年前から日本に来て、日本人の偉いという人にみんな会ってみたが、岡田茂吉というこの人より偉いというのは居ないではないか”と言うと、“あの人は偉いところもあるが、欠点もある”と言うのです。多分先年の裁判事件らしいのです。執行猶予中で……“どうもその点は”と言うと、グリリさんは“そんな事が何んだ。あの人のやっている仕事を見たら、そんな事より百倍も国家社会のためになる事をしているではないか。君等は何故それを大いに書かないのだ”と言うと返事ができなくてヘドモドしていたそうです。今の、欠点があると言ったのは朝日新聞の記者だそうですが、甚だ痛快な話です。“岡田という人のやっている仕事を知っているか”と言うと、“本当には知らない”“それは病気・貧乏・争を無くして世界の地上天国を造るというのだから、これほど平和的に偉大なる仕事はないではないか。それは世界にもまだ無いかもしれない。それを日本に居ながら、新聞記者がそういう事を知らないという事は、君等はそれでよいのか”と、散々言われたそうです。それでグリリさんの言う事には“僕はあの人の建設という仕事を見て、あとは二、三時間会って話をしただけで、実によく分る。それを君等は日本に居て、新聞記者でいて分らないというのは、それでよいのか”と、随分やられたそうです。その通訳をした人は、始終私の所に来る浮世絵専門の人で、英語がなかなかできるので、一週間に一回ずつ外国人に対して浮世絵の講義をしているのです。それから放送局の古垣氏もよくやられているようですが、今度来るそうです。それから丹羽文雄氏ですか、前に小説の「蛇と鳩」を書いて新宗教を……。此処で映画でもやりましたが、かなり救世教を目標にしたらしいのですが、私の方で抗議を言ったので、それであの時には立正交成会を中心にして“南無妙法蓮華経”をやっていて、救世教の方は一場面出したくらいです。それからずっと栄光を配ってます。今度来るとか言ってました。そういうようなわけで、どうしても分らなければならないように追いつめられつつあります。何んとしても熱海の地上天国が出来上る事と、自然栽培が国家的の問題になるという事になって始めて“ではやっぱりそうだ、じっとしては居られない。大いに救世教を、岡田茂吉という人間を研究しなければならない”という事になるわけですが、それまでには未だ一、二年の暇が要るでしょう。それもだんだんそういうようになりつつあるのは、大変結構と思います。尤も予定通りになるわけですから、それでよいのですが、なにしろ救世教というものは、どっちかと言うとあんまり素晴しすぎるのです。そこで分り難いのです。というのは、アメリカの人などはかえって早く分るのです。というのは、目が大きいからです。日本人は目玉が小さいから大きい物は見えないのです。それについて書いてみました。 

御論文〔⇒再びジャーナリストの考慮を望む〕

これを読んだら聊(イササ)か痛いだろうと思います。今話したアメリカの新聞記者の見方に対して日本の新聞記者の貧困さは、実際呆(アキ)れるほどです。日本の新聞記者というものはまだ封建の殻(カラ)から抜け切れないのです。指導者たるジャーナリストがまだそういうような封建的頭脳があるから、日本の政治でも社会でも実にはっきりしないのです。現在一番悩んでいる国家経済にしても、実に危機を叫ばれているくらいなのです。今日本で一番肝腎な事は、もっと国民の目の玉が大きくなる事です。あんまり小さな事ばかりに囚われているのです。政治界などを見ても、あんまり小さな問題をコセコセしすぎるのです。政治の争いにしろ、特に社会党などはそうです。問題の良いとか悪いという事は、とうにそっちのけになっていて、ただ自分の言い出した事は是が非でも良いように思わせようとするのです。一番滑稽(コツケイ)なのは再軍備問題です。もう此処まで来て再軍備に反対したところで成功するわけがないのです。国際情勢から見て、アメリカは日本の或る程度の軍備を要求するし、それから日本の国家としても、これだけの舞台で兵隊がないという国は世界中にないです。この間のアメリカの副大統領の話にも、台湾でさえ――蒋介石は別の意味がありますが――その軍備は、日本が今度軍備するよりも、到底追いつかないほど出来つつあるのです。そういう事にしろ、世界中見廻したところ、社会党の言うような、軍備無しで済むわけがないのです。それでいて今もって一つになる事を御苦労様に方々講演したり、鈴木茂三郎などが怒鳴ってますが、哀れなくらい低級です。それを又新聞などが真面目に書いてます。これは書かなくてもよいのです。書いても何んにもならないのです。恰(アタカ)も、バスに乗損って、バスがドンドン向うに進んでいるのに、まだ追いかけているようなもので、追いつくわけはないです。その判断がつかないのですから、不思議と言いますか、あまりに日本の社会が低級すぎるのです。それもこれもジャーナリストの頭が今読んだような工合だからです。私はよく、共産主義の事についても、解決にどうすればよいかと言うから、訳はないと言うのです。“新聞記者を選り分けて共産主義でない新聞記者にし、それから学校の教師も共産主義者でなくすれば、それが一番だ。それさえやれば共産主義などは心配したり恐れたりする事はない”と言います。昨日の新聞かラジオでも、小学校の級の生徒が同盟して休校しましたが、それは教師が共産主義で、共産主義を生徒に吹込むので、それに対して生徒が同盟して……というのですから面白いです。そういうように子供からそういう教育をしようというのです。大体日本の先生がどうして共産かぶれになるかというと、これも分りきった事で、その因は大学教育です。では大学教育が何故そういう事をするかというと、先生が一生懸命にやって出世したところでしれたもので、大学総長などにはなれるわけがないので、教授としてもちょっと上位になるくらいなもので、つまらないものです。それよりか、日本を共産主義にすれば、少なくとも知事や、あわよくば国務大臣ぐらいにはなれるでしょうから、そこで日本を転覆して、自分が良い地位につきたいというのです。ですから日本を良くするという、そういう事は何もないので、自己の利益から共産主義にした方が有利だという算盤から割出しているのです。だから学校の共産主義者というのは、国家を転覆して、多くの犠牲などは何んでもないので、自分が良くなればよいという、それだけの考えです。社会党などもそうです。鈴木茂三郎というのは、日本を共産主義国家にして、総理大臣になりたい。そうしてソ連のマレンコフや中共の毛沢東のようになりたいというそれだけの事です。そのために血を流している国民こそ可哀想なものです。それがだんだん露骨になって、以前は学理上でやって来ましたが、それではまだるっこいので、できるだけ直接行動をしようというのでやっているのです。大分その直接行動が現われかけて来ました。この話はそのくらいにしておきます。

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それから幸福に対しては前に書いた事がありますが、もっと徹底して書いた方が良いと思って書きました。これは信者の人はよく知ってますが、未信者に対して幸福の方法を分らせるために、できるだけ分りやすく書きました。

御論文〔⇒幸運の秘訣〕【註  栄光二四六号】

今読んだとおり、運が良くなる、思うようになるという事は、理窟を知ってみれば非常に簡単な話なのです。ここを自分が知ると共に話してやればよいのです。ところがそういう肝腎な事をやらないで、ただ人為的にうまくゆくように一生懸命やるのだからして、結局何んにもならないので、無駄をやっているわけです。それで、百八十段という層になっているのですから、その層の居所によって運が良い悪いになるのです。この層の良い所は良い事ばかりが流れているのです。そこのところは神様は実にうまく作ってあります。低い所は悪い事だらけなのです。悪い事が満ちているのです。上層になるとそれがだんだん少なくなり、今度は良い事に変って来るという事になっているのです。そういうようで、人間は何処かに居るのですから、良い方に居るようにすれば、其処に行けば運が良くなるに決まっているのですから、何んでもないです。よく方角が悪いとか良い家が見付からないとか、いろいろな事がありますが、それは霊界の居所が下ならどんなに良い家に住まおうと思っても、其処の世界には良い家がないのだから見付かるわけがないです。霊界の層が上に行っていれば、今度は、探さなくても見付かるようになります。其処に住まわなければならない事になっているのです。それが運命です。ですから、よく支部を作っても発展しないとか、どうも信者が出来そうで出来ないという事は、自分の魂の居所、霊の居所が低いためです。それから又、どうも自分は一生懸命に信仰しているが、親父は反対ばかりしている、或いは伜が全然分らないという事は、自分自身の霊的位置がまだ低いからです。それで自分自身の霊的地位が高ければ、他の者もどうしても其処の所に引上げられるのです。というのは、親父でも伜でも、みんな霊線が繋がってますから、親なら親の枝ですから、親がずっと上に上ると伜もそれについてゆくわけです。そうすると話をしてもよく分るわけです。ところが自分自身の地位が低いからして、幾ら口を酸っぱくしようと、気をももうと、敢えて効果がないわけです。ですからそれには自分の霊的位置が向上するという事が必要です。それには、一人でも多くの人を助けて、神様の御用をする事で、それによって自分の曇りが減って、そうすると霊が軽くなるから上に行く。上に行くから、他の枝でも縁のある人でも、自然にそれについて来るわけです。だから凡て思うように良くなるというわけですから、結局において自分にあるのです。それから又、こんなにしても自分は苦しい事や災難がいろいろあるという事は、それはまだ霊に重い点があるからして、神様が軽くして下さるために、軽くするには人を救うか、若し救い方が足りなければ自分が苦しむかで、このどっちかで曇りが取れるのですから、その点さえ分れば、世の中は決して難かしくも何んでもないものです。結局、一切は浄化作用です。それで浄化作用とは一つの掃除ですから、ゴミがあるとどうしても掃除されなければならない事になっているのです。稲の虫害というものも浄化作用です。硫安をかけたり糞をかけたり、肥料を入れたりするから、そういう物を浄化させなければならないので、その浄化させる役目というのが小さい虫です。それで虫が生まれて毒を食うわけです。ズイ虫にしても、ズイを食うという事は、ズイに肥毒があるからして、それを掃除しなければならない。そうするとその毒を食うが、毒が葉や茎に深くくっついているから、ついどうも葉や茎まで食わなければ追いつかないから食うのですが、それが虫害なのです。だから分りきった話です。それで結核だとか、いろんな病気の黴菌というものも、其処に薬毒があるから薬毒を掃除しなければならない。その掃除夫です。私の古い本に書いてありますが、その掃除夫が自然発生して、それが食ってゆくわけです。結局あらゆるものが浄化作用だから、そういった汚れ、穢ないものを溜めないように、入れないようにして、きれいにするというようにすれば、必要がないから虫もわかないし、何も悪い事はないわけです。だから浄化作用というものは一切にあるのです。これを大乗的に言うと、もっと面白い浄化作用があります。仮に、火事で焼けるのは無論そうですが、泥坊に盗られるとか詐欺師に引掛って瞞まされるとか、それから最近の問題の保全経済会とか、いろんな貯蓄で損をする人が沢山ありますが、これはやっぱり浄化作用です。その人の持っている金の中に非常に汚ない金があるのです。そういう金はどうしてもその人が持つ事ができないので逃げてしまうわけです。こっちにそういった汚ない金があるからして、誰かが何かの手段でその人から取るという、一つの浄化作用によってそうなるのです。だからああいったものも、そういった一つの浄化機関になっているわけです。そうすると、そういうものも必要という事になりますが、これは必要不必要という事でなく、凡て汚ないものはきれいにするというように神様がこの世界を造られたのです。だからそれを本当に分るという事は大乗的見方なのです。ところがこれはあんまり私が話をしないというのは、その話をすると泥坊も必要だという事になります。間違えますから、こういう事は腹の中で覚(サト)ることです。

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一月二十七日

この間例のアメリカの新聞記者でエリス・グリリという人が、日本の主な新聞記者を呼んで私の宣伝をしてくれたわけです。その時に“救世教の岡田茂吉というのを知っているか”“よく知っている”“あの人の事を新聞に大いに書かなければならないが、どうして書かないのだ。われわれが見て、日本で岡田というあの人ぐらい偉い人はないではないか”と言ったのです。そうすると“偉いかどうか分らないが、いろいろ欠点がある”というわけで、多分静岡裁判や何かの事を話したらしいと思います。そうすると“それくらいの事が何んだ。あの人がやっている仕事は、その百倍ぐらい大きいではないか。そんな事は問題にならないではないか”と言ったので引込んでしまって、目を白黒していたそうです。“僕は日本に四年前に来て、日本人のいろいろな偉い人に会ったけれども、岡田茂吉ぐらい偉い人は日本に居ないではないか。だから君達は大いに書かなければ駄目ではないか。なにしろ病貧争絶無の世界という、地上天国を拵えるというのだからして、世界平和の建設事業だ。これほど大きな抱負(ホウフ)でやっている人は、おそらく世界にないだろう。しかも着々と実行に移している。そうしてあの大仕掛ないろいろな地上天国を造っているという事だけでも素晴しいものではないか”と言っていろいろ話したそうですが、実に痛快だったという話です。その通訳をした人は信者で、浮世絵専門にやっている人で、英語はかなりできるのです。そういう事がありましたが、アメリカのそういう人から比べると、日本のジャーナリストはあまりに小さすぎるのです。或いはしかし、日本では今まではそれでよかったのかもしれません。つまり私の方が大きすぎるために、日本の新聞記者では理解ができないのだろうと、私はそういうふうに思ってます。それについて書いてみました。

御論文〔⇒再びジャーナリストの考慮を望む〕

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幸運の秘訣というのを書いてみました。これは前に書いた事がありますが、今度はもっと徹底して書いたのです。未信者などに話をする場合にもっと分りやすく書きました。こういうような言い方だと、幸福と信仰との関係がよく分ると思います。

御論文〔⇒幸運の秘訣〕【註  栄光二四六号】

今読んだようで、霊界は層になってますから、そのとおりが写るので、つまり層というのが人間の魂の居所なのです。ところがこの魂という奴が人間全体を支配しているのですから、魂の居所という事が資格です。だから魂の資格さえ上になっていれば全然苦しみはないわけです。しかしそうかと言って人間今までにいろいろな罪穢れや薬毒やいろいろなもので汚しているから、その掃除をされなければならないのです。そこで、信仰に入ると魂だけは先に上の方に行ってしまいます。そうすると魂だけが光を持つと、肉体にある汚れがどうしても魂と相応しないから、魂の地位だけにきれいにならなければならない。浄まらなければならない。それが浄化作用です。だから信仰に入ってからの浄化作用と未信者の時の浄化作用とは意味が違うわけです。その区別を知っておかなければならないのです。未信者の時の浄化作用というのは、その人の健康を維持するために自然に浄化作用が起こるのです。その浄化作用が起こらなければその人は死ななければならないのです。だから人間できるだけ生きて働けるように自然浄化が起こるのです。自然浄化とは悩み苦しみによって掃除されるわけです。そこで、よく修業などをして、断食をしたり、山に籠(コモ)ったり、いろいろな難行苦行をするという事は、その掃除をするために自分から苦しみをするわけです。普通の人は他動的に苦しみがぶつかって来るのですが、難行苦行という奴は自分から進んで難行苦行の世界にぶつかってゆくわけで、自動的です。その点が違うわけです。ところが苦しみによって浄められる事を知らないからして、苦しみを逃れるために又いろんな嘘の事をやるのです。ごまかしとか、金が足りなくて苦しめば人を瞞して金を得るとかして、次の罪を作るから、苦しみを取りながら次の苦しみを作っている。結局二進も三進もゆかなくなって地獄のドン底に落ちるというので、これは世間に沢山あります。ですから病気もやっぱりそうです。病気を免れるために薬で一時的に固めようとして、第二第三の病気を作るというのと、今言った事とは同じ理窟です。そういう事が今まで分らなかったのは、勿論信仰のないためですが、今までの信仰では徹底して説いてなかったです。他の抽象的(チユウシヨウテキ)に苦しみは罪のためだというように単純に考えていたのです。それで、今霊層界の事を書いたのは、つまり徹底して書いたわけです。ですから罪というものや、そういう事の関係がはっきり分っていなかったのです。よくお蔭話にありますが“自分のような罪穢れの多い者には資格がない”とか、“それにもかかわらずこういうお蔭をいただいた”という事がありますが、なるほど自分の思いのある罪穢れもあるに違いないですが、思いのない罪穢れもあるのですから、漫然(マンゼン)と罪穢れと言っているのです。ですから罪穢れと人間の幸不幸が今までははっきり説かれてなかったのです。私は何時もお蔭話を見る時に、罪穢れ罪穢れとよくありますが、一番はっきりしているのは薬を使った事です。しかし薬を使うという事が、実は自分で悪事をしようと思ったのではないので、かえって早く丈夫になって働こうと思ったために薬を使ったので、要するに薬というものは病気を良くするものだという事に瞞されていた被害者です。これは詐欺どころではないので、一番大きな欺瞞です。そういうふうに考えてくると、薬をのむという、一つの瞞しを受けて居たわけです。そして又、お医者でも何んでも悪意ではないので、結局において人を助けようという考えには違いないから、善意の罪、善意の一つの詐欺です。妙な話ですが、そう言うのがピッタリしているわけです。というのは、世の中の組織がそうなっているのです。それは夜の世界であったためにはっきり物が分らなかったからです。殆んどがそういう間違った事が行われていたのです。それが長い間そうなっていて、それを発見する人がなかったというためであったので、これは人間の一つの運命です。それを発見ができないで苦しみながら、そういうものとして続けて来たのです。それがいよいよ神様は私を使って発見したという事は、教えたわけです。これはみんなよく知っているでしょうが、そういうようなわけで、運が良くなるという事は、どうしても霊的地位が上に行くという事なのです。だからして“どうも思うようにゆかない、困る事が多い”という事は、結局自分の霊界の地位が低いからです。例えてみれば“自分は信仰に入って有難い、よく分るが、どうも親父の奴は分らない”又“娘も伜もこれに反対してしようがない、どうしたらよいだろう”というように考えている人は随分あります。それは自分の霊層界の地位が低いからです。若し自分が高ければ、自分の家族の者は霊線が繋がってますから、自分の霊が高上すれば、その繋がっている枝でも幹でも、自分の地位の方に引張り上げられるわけです。私が何時も言う“分らなかったらウッチャラかしておけ、急(アセ)って早く信仰に入れようという考えはいけない”という事はそういう事です。ですからそういう事は全然考えないで神様に御任せして、自分だけが一人でも多くの人を助けて、神様の御役に立つというようにすれば、自分の霊が上って行きますから、そうすると他の者も自然につり上げられるから、黙っていても分るというわけです。結局において、根本の根本というものは自分の魂の居所にあるのです。ただし魂だけが上に行っても、自分の霊や或いは肉体が伴なわないという事は、そこにまだ汚れがあるからで、それの浄化が起こるわけです。しかしそういう場合には浄化が早く済むわけです。そういう事が分ると、別に迷う事や苦しむ事はないわけです。しかしそこまで覚れるという事がなかなか大変なのです。この覚りは本当の真理です。今までいろいろな宗教などで説いた事よりずっと上ですから、その点などがよく分ると、いろいろな、宗教、思想、哲学というものまで分ります。この話はそのくらいにしておきます。

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ちょっと面白い事を書いてみました。前に幾らか書いた事がありますが、これも変った事も書き足してありますから、参考になると思います。

御論文〔⇒神様と私との関係〕【註  地上天国五十七号】

そういうようなわけで、非常に力も増したし、非常に良いのです。その代り時によると困る事や厄介(ヤツカイ)な事があります。自分のやる事が、いろいろな順序が違ったりすると、神様から気をつけさせられると言いますか、自分の神様が気をつけると言いますか、ちょっと工合の悪い事があります。一昨日お茶の先生が来て――私はお茶を習ってはいないが、お茶を点(タ)てた時飲むだけなのですが――茶席で支度ができたからと案内に来たのです。そうすると、茶道具屋が来ていたのです。家の奥さんが道具屋も一緒にお茶を飲ませようと思って、その部屋に居たわけです。丁度私と並んで、私が先に飲み、その次に道具屋が飲みますが、そうすると私が急に気持が悪くなって、居ても立ってもおられなくなったのです。その時は気がつかなかったのですが、直ぐに立ってその部屋から出たのですが、“そうだ、道具屋と並んで同じお茶を飲んだからだ”という事が分ったわけです。それは霊的にはこんなに違っているのですから……。その時には私の霊が下に下げられるわけです。それで苦しくなるわけです。そういう事が時々あるのです。ウッカリしていると思いもつかない苦しみやいろいろあるのです。家の人もだんだん慣れて来るが、今の事も、奥さんも初めて知って、これから気をつけようという事になったわけです。それから面白い事には、この静岡事件から後は、私は以前のように……以前は事によっては分らない事は神様に伺ってやるのですが、そうすると逆な事を教えられるわけです。それで後でそれが分って神様に伺うと“もう必要がない、そのやり方は間違っている”つまり今までの間接が直接になったわけで、それが分ったので、それからは止めました。そういう事は今までなかったからして、よく神様からお知らせがあったとか、神様にお伺いするという事がいろいろありましたが、それはつまり神様が間接だからです。つまり神人合一という事は、そこに分けられていないわけです。同じになっているわけです。非常に良い点もあるし、慣れるまでは今言ったような事があるのですが、だんだん慣れてゆきます。ですからフッと浮かぶ事でもそれでよいことになるわけです。地上天国でもその他いろいろ造る場合でも、庭なら庭を、どういう形にするとよいという事も直ぐに浮かんで、その情景が見えるのです。見えると言っても、形に見えるのでなくて、霊的に見えるのです。だから非常に簡単なわけです。どっちかというと張合(ハリアイ)がないわけです。前のように考えた方が張合があります。そういうわけですから、今は熱海の地上天国、美術館などもチャンと出来ているのです。部屋の拵え方からみんな出来ているので、張合がないような気がして、次の事を考えているのですが、それでは早すぎるし、妙なわけです。こういう感じの人は、今までおそらく無かったでしょう。

(教三十号  昭和二十九年二月十五日)