再びジャーナリストの考慮を望む

これは一般宗教には当嵌らないかも知れないが、少くとも本教としては言わざるを得ないのである。それは何かというと、学者やジャーナリストの宗教に対する見方であって、必ずといいたい程科学の目を以て批判する事である。処がよく考えてみると、これ程不合理な話はあるまい。何となれば科学は唯物観念を以て物を見るに反し、宗教は唯心観念を以て見なければならないからである。つまり科学は形而下的分野に属し、宗教は形而上的分野に属しているからである。即ち前者は地面に立って屋根瓦の表面を見るに対し、宗教は屋根の上から地面を見下すようなもので、この主客転倒に今日まで気附かなかったのである。

この意味に於て滑稽なのは、宗教学者達が学問上から宗教を論ずる事である。考えてもみるがいい仮に若しそれが妥当としたら、その宗教の開祖よりも学者の方が上になることになるから、そういう学者こそ一派を立てて生神様になれば、成功疑いなしであろう。又新興宗教にしてもその殆んどは既成宗教を基本としている以上、同様の事が言えると思う。併しそれはそれとして今日学者やジャーナリストが新宗教を批判する場合、洵に皮相浅薄な観方である。例えば現当利益特に病気治しなどは低級だとか、金儲けが目的だとか言って、肝腎な宗教理論には一指も触れないことであるのは可笑しな話ではあるまいか。これに就いて私の言い分をかいてみるが、他の宗教は知らないが、少くとも我救世教に至っては、現代の学問で分る様なそんな低い程度のものではない。全く想像もつかない高度の文化的超宗教であって、偉大なる救いの業である事は、声を大にして言いたいのである。言うまでもなく既成宗教的に如何に巧妙な理論や説教を以てしても、それだけで人間を救う事のできないのは事実が示している。一例を挙げてみれば今仮に目の前に苦しんでいる病人に対って枕元で百万陀羅有難い御説教や教典を聞かせたとて、成程心の慰めにはなるが、病気そのものを治すことはできないのは分りきった話である。故に確実に病気を治し健康を快復させ、貧乏も救われ、一家幸福になるとすれば、恒産あれば恒心ありで、自然不正や不道徳も減るに違いないから、よりよき社会となるのは当然である。私はこれが宗教としての真のあり方であって、これ以外に何があるかである。故にこの意味からいうも彼の釈迦、キリストが、遺憾乍ら万人の病気を救い得なかった為、二千有余年を経た今日と雖も、相変らず人類は病貧争に苦しみつつあるのであるとしたら人間は何時になったらこの桎梏(シッコク)から免れる事ができるであろうか、恐らく見当はつくまい。としたら実に情ない話である。これによってみても今日まで世に現われた幾多聖者や賢哲にして、真に救う力を有った者は一人もなかったのである。それが為止むなくその諦めを説くのが宗教の建前となってしまったのも宜なる哉である。処が喜ぶべし、私はこの夢の如き真の平和幸福世界を実現する力を神から与えられたのである。これは自惚れでも何でもない。現に不幸に悩める人々を救いつつあり、これが本教の救世事業である。

以上によって私という人間が如何なる存在であるかが分ったであろう。そうして今日の世の中を大局から眺めてみると、現代文明は実に大いなる誤謬に陥っている。今その二、三の例を挙げてみるが、現在日本に於ける最大悩みである食糧問題にしても、又世界的悩みである病気の問題にしてもそれを現わしている。然もそのどちらも進歩は行詰り状態にあって、解決処か益々溝は深くなるばかりである。これ等に対し私は根本的解決の方法を神示によって知り得た以上、今や日本は固より、世界全体に渉って知らしめつつあるので、勿論主眼とする処は全世界指導者階級の眼を醒まし、新文明の何たるかを知らしめることである。つまり小学生の学力をして大学程度にまで引上げる事である。

以上の意味に於て私の説く処余りに超越しており、学者もジャーナリストも容易に理解できないので、反って一種の恐れさえ抱くらしいのである。それというのも本来ならば大いに謳歌礼讃すべきが本当であるのに、反って無批判的に非難する人や、触れるのを避ける人などある事実である。その現われとして私が最近発行した結核信仰療法及び救世教奇蹟集の両著にしても、日本の三大新聞は一致してその広告を引受けない事である。その理由を質せば言を左右に託して、真相を言い得ない苦しさであって、これは本教係りの者から聞いた話である。

これでは現在の日本は言論の自由がない訳で、然もこの自由の抑圧者が大新聞としたら殆んど信じられない程で、恐らく世界の文明国中例がないであろう。併しそれも無理はないかも知れない。何しろ私の説たるや、余りに現代科学を超越しており、丁度人力車時代に飛行機を見せるようなものであるからである。又昔から何時の時代でも既成学問を覆えす程の劃期的発明、発見、新説等を発表するや、例外なくその時代の識者から誤解と迫害を受けるのは歴史が示している。ここに先駆者の悩みがあるのである。特に日本の知識人程それが甚だしいのは、例えば今日世界的偉人として万人から仰がれているキリストや釈迦の如き大聖者より以上の人間は、永久に現われないと決めている事である。今一つは日本には外国人より優れた人物は出ないとしている迷蒙である。これが国民感情に沁み込んでいる以上、私とそうして私の仕事が認められないのも当然であろう。

それが為私の言説も事業も、頭から否定してしまい、調査検討など思いもよらないらしいのである。特にこの傾向はジャーナリストに多い事は、本来なれば外国にも例を見ない程の劃期的偉大なる私の聖業であるから、直に正邪善悪を検討しそうなものだが、そういう事は全然ない。私は思う。若し研究の結果聊かでも疑問の点があり、社会上マイナスと認めたら、断乎排撃し葬り去ると共に、反対に正しい説で、社会人類にプラスであるとしたら、大いに援助すべきではなかろうか。それをいつまでも有耶無耶にしている態度は前記の如き恐怖感の為か、触らぬ神に祟りなし的事勿れ主義の為か解し難いのである。以上私の思うままを記いたのであるが、要するに私はジャーナリストとしての当然な責務を希望するに止まり、それ以上他意はないのである。ここに再度の考慮を求むる所以である。

(栄光二百四十九号 昭和二十九年二月二十四日)