人間の体内にある毒素が個人の幸不幸はもとより、不安定な社会状況を作り出す原因ともなります。私達が住むこの現界は様々な不幸で渦巻いており、病気の発生は勿論のこと、日々の新聞を騒がす犯罪にしてもそうですし、人間関係のもつれから大きな争い事に至るまで種々あります。こうした現象に発展するその因を辿れば、霊的には曇りであり、それを体的に見れば体内にあってはならない異物としての毒素であるわけです。
『このような訳だから今日人間の形をした毒の塊が高慢な理屈を言ってノサバっているのだから、これを吾々から見れば滑稽千万であり、碌な智恵も出ないのは当然であろう。そうして私が常に唱えている如く、その毒は人間が神経を使う所程集溜固結するのが法則であるから、近代人の如く非常に頭脳を使う以上、首の周りから肩へかけて固っている。どんな人でもその辺を探れば必ず大小様々の固結やグリグリがあるからよく分る』
(栄光二二六号「毒塊人間」より)
『然も頭脳が最も侵される為、近頃の如く頭の悪い人間が増えるばかりで、どんな人でも頭痛、頭重、朦朧感、焦燥感、眩暈等の苦痛のない人は殆んどあるまい。この結果物の判断力が鈍く、正邪の区別さえつかず、常識の欠乏、智能の低下、鈍智鈍感、何事もその場限りで済ましてしまうのは、御自分を見てもよく分るであろう。従って病気、犯罪、貧困、争い等々忌わしい事の多いのは驚くばかりで、社会は宛ら地獄絵巻である』
(栄光二二六号「毒塊人間」より)
『今一つ言いたい事は、近頃の如く社会各面に於ける忌わしい問題の多い事である。交通事故、火災、(中略)自殺、心中、裁判沙汰等の外、風水害、農村の病虫害等々、要するにその悉くは頭脳の明敏を欠く結果である』
(栄光二二六号「毒塊人間」より)
以上は体的な側面から説かれた社会の様相とその原因ですが、これを霊的な視点から見ると“善と悪”との軋轢、混淆の結果生じている状況であるわけです。勿論、悪の発生する根本は霊の曇りということなのですが、ここで善と悪について掘り下げてみてみましょう。
『世の中は善悪入り乱れ、種々の様相を現わしている。即ち悲劇も喜劇も、不幸も幸福も、戦争も、平和も、その動機は善か悪かである』
(天国の礎「善と悪」より)
では、一体どうして善人もあれば悪人もあるのでしょうか。その善悪の因ってくる原因について明主様は次のようにおっしゃっています。
『今私がここに説かんとする処のものは、善と悪との原因で、これは是非知っておかねばならないものである。勿論普通の人間であれば善人たる事を冀い、悪人たる事を嫌うのは当り前であり、政府も、社会も、家庭も、一部の人を除いては善を愛好する事は当然であって、平和も幸福も悪では生まれない事を知るからである。私は分り易くする為、善悪の定義を二つに分けてみよう。即ち善人とは「見えざるものを信ずる」人であり、悪人とは「見えざるものは信ぜざる」人である。従って「見えざるものを信ずる」人とは、神仏の実在を信ずる、所謂唯心主義者であり、「見えざるものは信じない」という人は唯物主義者であり、無神論者である。』
(天国の礎「善と悪」より)
“人の眼さえ誤魔化せば何をしてもいい、他人のことはどうでもいい自分さえ良ければいいのだ”というものの考え方は、悪から発生します。こうした心は総論一、二を通して学んできた霊界の存在や霊界と現界との関係、浄化の理等を知らないが故に、あるいはまた信じようとしないために湧き出てくるのです。心底そのことを理解したならば、一時の満足や栄華を求めて、霊的曇りを自ら進んで構成する道に入り込むことはしないでありましょう。いわゆる目に見えないものは無いとする考え方が、様々な不幸を生む結果につながっていっているわけです。