第一節、霊体の内奥と曇りの発生について

この現象界におけるあらゆる物質は、悉くが霊と体とから成り立っているということについては既に学びました。物質の霊は単に霊なのですが、動物の場合には、その霊は精霊と名づけられています。生きた人間は、精霊と肉体とが密着不離の状態にありますが、その精霊が何らかの理由で脱出し、現界から霊界に復帰した時、その現象を通常私達は“往生”とか“死”と呼んでいます。こうした人間に内在する魂は目には見えませんがどのような状況にあるのか、魂と現象界、特に病気の発生とはどのような関係にあるのかということについてみてみましょう。

『凡て動物は精霊の外に、否、精霊の中に心があり、魂があるのである。即ち精霊の中心に心があり、心の中心に魂があるので、その大きさは、心は精霊の百分の一で、魂は心の百分の一の大きさが本当である。であるから、最初、魂が動いて心が動き、心が動いて精霊が動き、精霊が動いて肉体が動くのであるから、人体の運動は固より、凡ゆる肉体現象の本源は魂其物から出発するのである』(神示の健康「病気の本体は魂なり」より)

『此魂なるものは、小さくとも伸縮自在であって、人間が起きて働いている時は、人間の形をしており、寝る時は丸くなっておるもので、死の刹那、人魂が丸くなって飛んでゆくのは、死と同時に魂が丸くなり、心が丸くなり、精霊が丸くなるからなのである。其丸いのに光が伴うから人魂となって偶々人間の眼に見える事になるのである』(神示の健康「病気の本体は魂なり」より)

『人霊の内奥は求心的三重になっている。之を中心から逆に遠心的に説いてみれば、中心は所謂魂である。魂とは人間が此世に生まれる場合、最初男性を通じて女性の腹へ宿るヽである。処が魂を包んでいるものが心であり、心を包んでいるものが霊であるから、魂の如何は其儘心を通じて霊に反映すると共に、霊の如何は心を通じて魂に反映する。此様に魂と心と霊とは相互関係で三位一体である』(神示の健康「霊主体従」より)

このような魂と心、霊の三位一体的関係の中で霊の曇りはどのようにして発生するのでしょうか。

『勿論如何なる人間と雖も、生きている間善も行えば悪も行う。その場合善よりも悪が多ければ差引き多いだけが罪となり、それが魂へ反映して曇りとなる。為に心が曇り、霊が曇るという順序である。すると浄化作用発生によって曇りの排除が行われる』(神示の健康「霊主体従」より)

『人間の形をした魂の一部に病気が発生するという事は、実は魂の一部が曇るのである。即ち其部分の光が薄らぐのである。それが心に写り、精霊に映り、終に肉体に病気となって現われるのである。であるから、魂にさえ曇りが出来なかったら絶対に病気には罹らないものである。然らば何故に魂に曇りが生ずるやというに、それが罪穢なのである』(神示の健康「病気の本体は魂なり」より)

霊線によって自分自身の幽魂とは勿論のこと、霊界の神仏や現象の世界の親子、友 人知人等と繋がりながら、神秘霊妙な働きをしている人間の魂に、先天的及び後天的に犯す罪穢によって曇りが発生するのであると説いています。罪穢という言葉は昔からよく使われていますが、こうした罪穢観は今までにない、特異なものと言えましょう。普通であればこれを忌なものとして悪い意味に捉えますが、「日本医術・浄霊」においては必ずしもそうではありません。つまり、夜の世界においては必要な悪というものがあり、いたしかたなかったのであるというように、明主様の歴史観の中に明確に意義づけられており、自然の理によって浄化されるようになっているのです。このことについては次章で詳しく採り上げたいと思います。さて、このように霊が曇るということは、それだけ魂本来の働きができにくくなるということを意味します。そして、その曇りを解消すべく、すべて汚いものはきれいにするという大自然の法則によって浄化作用の発動となるわけです。