どうして神はこの物質界を創造されたのか。霊界が本当の世界でそちらが万能の世界であるならば、こんな不自由だらけの物質界は必要ないではないか、といろいろと不思議に思うことが多かったんですが御教えの拝読と様々な他の書籍を読むにつれて、段々と現界いわゆる物質界独自の役割というものが見えてきました。そしてこれは、現界を生きていくうえで参考になると思うのでここに簡単にまとめてみたいと思います。で、大体この三つの大きな役割があるなということが分かってきました。
①体験の場
まずですね、これはよく言われることなんですけども、人生は体験の場であるということなんですよね。何当たり前のことを言うとるんじゃと思われるかもしれないですけど、私が強く強く強調して申し上げたいのが、人生は生きてるだけで意味がある体験するだけで価値があるという点なんですよ。よく人生は何を成したかとか、自己実現の場であるとか、何か頑張らないといけない場であると思いがちなんですけれども、実はですね人生はもっともっとおおらかで懐が深いんです。生まれ変わりなどない一回こっきりの人生ならその考え方も悪くないんですけれども、我々の人生というのは生まれ変わり死に変わりしつつの輪廻転生を繰り返す果てしない終わらない旅なんですよね。
それでですね、魂の目的、願望というのがありまして、それが神格を得たい、磨かれたい、向上したいという願望なんです。人間はどんな人でも向上次第で第三天国まで昇れるんですけど、第三天国のランクまで魂が向上すると神格を獲得できるんですよ。西洋で言うところのエンジェルと呼ばれる存在になるわけです。それでですね、第三天国の神格者は第二天国の神々の指示のもと世界中に散らばって御経綸のお手伝いさせていただくんですけども、ここで非常に大事な点がですね、人間の気持ちが分からない神格者ほど厄介なものはないんですよね。人間社会に置き換えて考えても簡単に分かると思います。権力だけちゃんとある部下の気持ちが分からない上司なんて災害以外の何物でもないでしょう。明主様も人類救済の御経綸を開始されるまでは、ありとあらゆる病気をして病人の気持ちが分かるように修行されました。
だからですね、極端な話ですけれども、NEETの人生にも価値はあるし、ホームレスの人生にも価値はあるし、失敗続きで挫折してしまった人生にも大いに価値があるんですよね。というのはゆくゆく輪廻転生を経てその人が神格者となって人間の御世話にするようになったときには、人間に対する思いやりや御世話をするアプローチの仕方が全然違ってくるのです。人間に寄り添う力が全く違ってくる。これも現界に置き換えて考えた時すごく分かりやすいハズです。未経験者と経験者では自分が指導者となったとき全然違ってくるんですよ。気持ちのくみ取り方、言葉のかけ方、こういう課題を設定してあげれば伸びるだろうなというのが手に取るように分かったりとか、ぜんぜん違ってきちゃうんですよね。ヘタクソな指導者がついたらボコボコにシバキ回すだけで、現界に生きる人間が壊れちゃうだけなんですよ。それでアーアって神様から白い目で見られてですね、あなたもう一回人間やってきなさいってなるわけです。
そして、ものすごく大事な点がですね、よく明主様が引き合いに出されますけど『人間は素直が一等であるぞよ。』という大本教の御筆先の御言葉ですよね。人間は素直な気持ちが一番大事で、これはどういうことかというと、人生を経験するうえで素直に感情を味わうことが肝心ということなんです。素直に喜び、素直に怒り、素直に哀しみ、素直に楽しむということで、人間だったら当たり前のように怒るべきところで変に喜んだり、全然平気ですよと我慢したりする変態さんは問題だということです。まあそんな人は第三天国まで昇らないでしょうけど、仮に昇ったりしたら大変なことですよ。人間を導くときにサイコパスな指導しかできないでしょう。なので人間というのは人生を素直な気持ちで味わうというのが非常に大事なんです。そしてそれに価値がある。こういう時はこう思うよな、こういう時はこういう行動になりがちだよなというのが手に取るように分かるようになる。神格者となった後に全然違ってくるんです。愛情をもって看れるようになるし慈しみの心をもって接することができる、つまり慈愛の心が湧いてくるわけですよね。何故ならば、指導するようになったときに助けてあげる人間はかつての自分そのものだからです。そしてその人間を上手く導いてあげることは、かつての自分の苦しみ、挫折、悲しみに対する最大の復讐なのです。人間を救済することで自分が救われていくのです、そのようにして第三天国の範囲の中でも一歩一歩磨かれていって向上していくのです。
人生っていうのは嫌なことが起こるように出来てます。問題とか課題とか、そのようなものが次から次へとやってきます。このような苦しみがいつまで続くんだろうと思いますよね。しかしながら、必ず苦しみには終わりが来ます。早いか遅いかはありますけど、必ず苦しみの終わりは来るんですよ。それで、苦しみに対する向き合い方についてもやはり素直さが大事になってきます。どういうことかというと、何か問題やトラブルに巻き込まれた時や理不尽な目にあったときっていうのは、ムカつく腹立つ苦しい悲しいっていう感情を素直に感じるべきなんです。行動には起こさなくとも、やり返したい気持ちや、憎む気持ちを素直に認めるべきです。それでその次どうするかというと、『確かにこれはつらい、耐えられたもんじゃない。人間として普通でなくなってしまう、壊れてしまう。ああ、自分が味わってみて初めて気持ちが分かった。こんなこと、とてもとても他人に対して出来たものではない。ああそうか、このことに気づかせてくれたのは、あの苦しみか。今となってみてはむしろ有り難い。あの苦しみのおかげで、これからの私は道を踏み外すことが無いのだから。』というようにですね、興福寺の阿修羅像のような感情の経過をたどるわけですよ。つまり最初に怒りがきて、次に哀しみ、最後に感謝がくるんですけど。これもですね、最初に素直に怒るべきところを変に我慢して無視したりとか、無理な気合で超越して解決しようとするとドンドンドンドン問題が先延ばしになるんですよね。どうしてかっていうと、神様の御心としては『人の道』(自動車で言うところの交通ルール)を守る人間をつくりたいわけなんですよ。それをですね、神様から赤信号では停まらないと危ないよって言われてるだけなのに、私は交差点で跳ねられても痛くありません!(我慢)とか、ビクともしない頑丈の車体で周囲を跳ね飛ばせばいいんですよ!(気合)とかヘンテコな解決の仕方をするとドンドン交通ルールマスターの道から遠ざかっていくんですよね。それで、襲い掛かってくる問題に対して、適切に対処できるようになって、最初の痛みに感謝できるようになればその問題は問題ではなくなるんです。
②霊層界の違う人との交流、魂向上のボーナスタイム
現界に生きてる人間が帰幽すると霊界に復帰するわけですが、ここで大事なのがみんな同じ霊界に行かないということなんですよね。自分の魂のランクに応じた霊層界の一層のどこかに行くわけです。西洋は上から下まで9層ぐらいですけど、日本の場合一番上から一番下まで180層ですからね。まあ帰幽後はそれぞれの霊界にみんなバラバラに分かれるわけです。それで大事な点がですね、帰幽後自分にマッチした霊層界に行きつくと同じ価値観の人たちに囲まれるので、それはそれは非常に居心地がいいのです。価値観の摩擦が起こらない、みんな似たような価値観で、世界がそうなっちゃってるので世界の在り様や世間のルールみたいなものに疑問が起こらない。天国は天国人だらけで居心地がいいのは簡単に分かるんですけど、実は地獄も地獄の住人ばかりでそこに住む人にとっては居心地がいいのです。地獄を地獄だなと感じるのは天国や中有界の人間だけなんですよね。これも現界に置き換えて考えてみると分かりやすいんですけど、自然農法やオーガニックの豊かな食事に親しんでる人達からしたら、朝昼晩ジャンクフードやスナック菓子で栄養を摂取してる人を見るとウワァと思うでしょう。しかしながら普段ジャンクフードが当たり前になってる人達からしたら、それが居心地がいいのであり幸せなんです。逆にジャンキーな人達からしたら、オーガニックな食事なんてものは水っぽくて美味しくないし、気取ってて鼻についてムカつくんですよね。現界でもそうなんですから、現界の延長線上である霊界も同じです。ただ現界と霊界で全く違ってくるのは、霊界では天国人と地獄人が生活を共にしないということなんですよ。パカっと分かれちゃう、普段目にすることさえ無くなる。だから普段の生活の中で自分の価値観と違うものを目にしたり接したりすることが無くなるんです。違う価値観や考え方があることさえ分からなくなる。
実は霊界の弊害と言いますか、デメリットというのはそこにあるんですよね。価値観の摩擦が起こらないというデメリットです。摩擦は痛みなのでとてもストレスを感じることなんですけど、逆にそのことで世界が広がったり洗練されるきっかけを与えてくれるんですよ。霊界に帰幽して自分に相応しい霊層界に入ると自分以外の価値観に触れることが難しくなるんです。なので刺激を受け無くなる。つまり現界に比べて魂の進歩や向上が著しく鈍化します。なぜならば、日常の生活に疑問や違和感が発生しないからなんですよね。現界では他者との摩擦いわゆるストレスが日常茶飯事ですよね、お釈迦様が『人生皆苦』と言われた意味もそこにあるともいます。しかしながらだからこそ現界は魂成長のボーナスタイムなんですよ。例えばですけどね、現代の教育制度や受験の在り方には苦言を呈したいことがいっぱいあるんですけど、しかしながら素晴らしい点も多いんですよね。というのは受験で頑張って偏差値の高い高校や大学に入るとですね、やはりそこにいる人たちっていうのは努力の点や教養の点で洗練されてるんです。そういう人たちに囲まれるので自分も大いに刺激を受けて価値観や世界が広がるんですよ。18歳で政治家の新書読んだりしてるような人達と出会えたりするわけです。現界ではホームレスと億万長者が同じ空間で意見を交換などして、価値観や倫理観を擦り合わせることは可能です。なんならホームレスの人が億万長者のアドバイスを取り入れて未来の億万長者になることも可能です。世の中にはそういうサクセスストーリーで溢れています。
スピリチュアルな方面で言うと、現界では気軽に神社仏閣など行って神様の霊気に触れて挨拶することなどは普通ですが、霊界ではそんなこと不可能です。毎月の御面会や感謝祭で明主様に拝謁することは現界では可能ですが、霊界では通常ルートではまず無理でしょう。紫微宮をとおしてのみ可能です。普通は霊層界が違い過ぎるので、御目にかかることすら不可能だと思われます。まあ現界でもある程度資格がないと御面会や感謝祭に参上できないんですけどね。なので神様に御会いして神気を頂くというのはものすごく有難く貴重なことなんです。霊層界が違うと感性や思想が全然違うんですよ、波動や周波数が違うとも言われるんですけどもね。わたしなんかでも最初は御教えの内容が文字として読めても意味が全然分かりませんでした。今でも全然ですが、腹に落ちるところまでちょっと理解して読めるようになったのもほんの最近のことですし、岡田茂吉全集を読みはじめて10年ほどかかっています。それぐらい御教えの内容というのは天国的で位が高くて、現界の価値観で染まっている脳味噌では分からないんですよ。よく明主様は御魂相応と言われてますが、本当にその通りと思います。なので気軽に明主様の最高の価値観に触れることができて、望めばいつでも御浄霊を受けることができることがどれほどラッキーなことかというのは見つめなおすべきポイントかもしれないですね。もしかしたら人類最高の境遇かもしれないです。
③想念の具現化、固定化
実は、上記の①②は人間の為の付属的なもので、これから述べる③が本当の天地創造の目的なんだと推察されるんです。『神の壮大な御目的はこの地球全土をして地上天国ならしめることである。』とよく御教えでも目にするところなんですけどね、しかしながらですね、私がここで取り上げたいのはもっとその前のところ、なぜそもそもこの物質界の創造が必要だったのかというところにスポットを当てて考察したいんですよね。というのもですね、この地球がある程度仕上がるまでにこれから迎える火の浄化(いわゆる大浄化、世の大峠)も含めて少なくとも3回大絶滅が必要なんですよ。必要というのは可笑しな言い方ですけど3回あるんですよね。これは陶芸の工程に似てます。つまり粘土をコネて水(塗料)で模様をつけて最後に火にくべて完成させるんですけど、これとすごい相関関係がある。大昔日本の国土が1/3になるほどの大地震があったんですけどそれが一度目の土の大浄化、二度目がノアの洪水で有名な水の大浄化、三度目が今来つつある火の大浄化という具合にですね、三度ある。で、大浄化が必要な理由にこの物質界は悪が発生しやすいという特徴があるんですけど、これについてはまた追々解説します。それで人間ごときの私がこんなことを思うのは僭越至極なんですが、しかしながら何故こんなに面倒くさい物質界というものを神様はこしらえたのかと思わずにはいられないんですよね。わざわざ悪が発生しやすい物質界を作って、悪が湧くたびに大浄化を起こしてどういうことなのだろうかと思っちゃう。霊界だけではいけなかったのかという想いが湧いてくる。しかしながら、ここのところもですね御教えに求めながら色々と突き詰めて考えていくと見えてくるものがあるんですよね。
まずですね、押さえておかないといけないポイントがありまして、それが霊界は自由無碍千変万化の想念の世界ということなんです。思ったことがその通りに起きるんですよ。火をおこしたいなと思ったらパッと火が付くし、アレが食べたいなと思えばスグ出てくるし、高級車でドライブしたいなと思えば車両がポンと出てくるんですよね。例えは乱暴ですけど、ハリーポッターの魔法の世界だと想像してください。ただ想念っていうのは取り留めもなくコロコロ移ろいやすいですよね。なので夢(夢はある種の霊界体験)などでもドンドン連続的に場面が変わって、いったいこれが何の体験なのか分からないことが多いと思うんですけど、霊界の方もかなり想念通りで自由なんです。自由に考えた通りに何でもできるのは結構なことで楽しいと言えば楽しんですけども、一方ですね何でもかんでもコロコロ変化したら不便な点も多いんですよ、カチッと固定したいところは固めてしまいたい。大自然などでも毎回毎回ゼロから創造するのなんて大変ですよ。松をこしらえたりだとか、チューリップを生やしたりだとか、細かい仕様とか忘れちゃう。葉は網状脈だっけか??みたいになりますよね。こういうのはやっぱり一度物質界で創造してキチっと固定化する必要があるんです。
実は霊界と現界は合わせ鏡になっておりましてですね、一度現界で物質化されたものは霊界の方に引っ張ってこれるという性質があるんです。明主様推薦図書であるワード博士の霊界探検記にもこのことが言及されてまして、現界で創造されたもので天国的なものは天国へ、中程度なものは中有界へ、地獄的なものは地獄界へ集められるとあるんです。例えば古代ローマのコロッセオ(奴隷たちの闘技場)などは地獄の修羅道にあったりするんですね。建築物ばかりではなく、雑誌や衣服などもそうで、ありとあらゆるものが選別されるんです。なので、人間も死後は相応の理によって天国、中有界、地獄と別れますけど、現界で想像された物質についても相応の理によって天国、中有界、地獄と別れるんですね。今までは地上天国ではなく地上地獄だったので、地獄的なものが多すぎたんです。明主様も御教えで『神界は霊界にも現界にも有るが、天国の方は只今の社会ではない位のものである。今のところでは第三天国がやっと出来ている位のものである。それに引換へ地獄は立派すぎる程良く出来ているのは余り感心出来ぬ事である。』と言われています。なので、この地上を天国にするというのは霊界においても大変意義のあることでござまして、地上で天国的なものが増えれば増えるほど、霊界の方も天国的なもので満たされるんです。なので地上天国というのは明主様を筆頭に善なる神々の願望そのものでございまして、この地球を創造された目的そのものと言っても差し支えないのです。
明主様も晩年は芸術に対する愛が良い意味で爆発して美術館を自分で造って館長にまでなっちゃいましたが、あの箱根や熱海にある美術品の数々は闇の世であった3000年間の経綸における善なる成果物でありまして、それを集めてコレクションするというのは夜の時代にて苦労された明主様としてはなかなかに感慨深いものがあったのではないかなと思うんですよね。なので明主様の芸術への熱意から感じるとおりにですね、この地上を真善美全き地上天国にするというのが心からの切なる主神の願望であることがよく分かるんですよね。なので、たまたま宗教つくってそれが当たって金が出来たから美術品買ったんだっていうふうに知らない人は思いがちですけど、イヤイヤイヤそうではない、神様が地球を創った理由そのものが地上天国の建設なんだよということなんですよ。それで、真善美全き地上天国は真善美全き人間によって建設されなければいけないので、人間を完璧にキレイにするために必要なのが薬毒の廃絶と御浄霊であるということなんですよ。こういうことがキチっと分かってくると御浄霊と地上天国がちゃんとつながって理解できると思うんですよね。