第一節、夜昼転換について

 明主様は、「夜昼転換」という神秘的な事象を踏まえて、『今日はその黎明期に相当するのである』と大きな歴史の流れの中に今日という時代を位置づけておられます。


『抑々、此大宇宙を観る時、それは実に際涯なき天空の無限大より顕微鏡によっても視る事を得ない無限微に至るまで、実に凡ゆる物質は大中小それぞれ相応の理によって生成し、化育し、離合し、集散し、破壊し、建設しつつ無窮の進展を遂げつつあるのである。そうしてすべてに陰陽ある如く、一年にも寒暑の別あり、一日の中にも昼夜の別あり、十年にも昼夜の別あり、百年に千年に万年にもそれがあるのである。
 以上の如き理によって、数千年か或は数万年目に当然来るべき夜と昼との転換期があり、今やその時が来つつある』     (神示の健康「世界の大転換」より)


『霊界に於ては、十年、百年、千年、万年にも昼夜の交替があることである。即ち地球の実体は火水土の三原素から成立っている如く、宇宙間一切は三の数字が基本となっており、これが宇宙の鉄則であって、昼夜と雖も三年、三十年、三百年、三千年というようになっている。勿論その物の性質と大中小によって、霊から物に移写するには若干の遅速はあるが、根本は正確に流転している。その三千年の転換期が驚くべし現在であって、今はその黎明期に当るのである。(中略)その日時までハッキリしている。それは一九三一年六月十五日であって、この時を期として世界は昼になったのである』
                    (神示の健康「私は宗教科学者だ」より)


 このように、夜と昼とは霊界における事象としても存在するわけでありますが、この転換によって、現界においては『未だかつて経験にない程の破壊と創造が行われる』ことになるのであります。


『即ち霊界に於ては濁が清となり、そのまま現界に移写されるから現界は如何に大いなる変異を起すか想像にあまりある』
              (光四十二号「夜の終り近づけり汝等悔改めよ」より)


“霊界から現界への移写”ということについては『霊主体従の法則』について知らなければなりませんが、詳しくは第三章第二節で触れることとして、ここでは簡単に説明いたします。私達の住んでいるこの地球の上は、霊界、空気界、物質界という三段階によって構成されています。空気界をも物質界に含めますと、霊界と現界とになります。


『霊界と現界との関係を説くに当って先ず知らなければならない事は、凡ゆる事象は霊界に先に起り、其儘が現界に移写されるという事である。恰度映画に於けるフィルムが霊界であり、銀幕が現界であるのと同様で、それが天地の厳然たる法則である。丁度人間が手足を動かすという事は、眼に見えぬ心が先に動きその命によって手足が動くので、決して手足が先に動いて後に心が動くのではない。之と同じく霊界は心であって現界は手足であるようなものである』         (神示の健康「世界の大転換」より)


 こうした、誰もが免れることのできない『霊主体従』という大自然の法則によって人類がいまだ経験したことのない、驚くべき、おそれるべき、歓ぶべき大変化が起きてくるわけです。この変換期を明主様は“天の時”として捉え、その意味については次のようにお話下さっています。


『時が近づきつつあるという事は何を意味するか。それは釈尊の唱えた仏滅であり、法滅尽であり、キリストの世の終り、又は最後の審判の事である。もしこの儘にして地上天国が来るとすれば、人類は洵に幸福であるが、新しき理想世界が建設されるというに就いては、その前に旧世界の精算がなくてはならない訳である』
                   (天国の礎「世界救世教とは何ぞや」より)


 人類待望の理想世界、幸福者の集まる世界が生まれる前に、人類が滅亡するのではないかと思えるような、想像を絶する大恐怖時代がやって来るということを明主様はおっしゃっておられます。第二次世界大戦終戦の時点で、日本のあらゆるものが崩れ去りました。そして日本国開闢以来の大異変とも言うべき民主主義の台頭をみました。これは現実に起きた現れのひとつにすぎませんが、こうした破壊と創造の具体的現れが今後世界的に起きてくるということを説いておられるわけです。


 最近では一般社会の中でも、地球的規模の環境破壊等に見られるように、“恐怖時代”に近いことが起きるということが言われております。二十一世紀を目前に控え、科学技術の進歩は止まるところを知りません。しかしながら、その進んでいく科学技術に対して人間の心が蝕まれていく方向にあります。技術の進歩と人間の心が離れれば離れるほど、そのアンバランスがさらに人間の心に影響を与え、文明病、現代病を生み出していくという状況下に人類は置かれています。“全地球的規模で大きな危機がやって来る”ということはよく知られているところです。