守護神

人間の善悪を解く場合、霊的方面から解釈する時、守護神なるものを説く必要がある。守護神又は守護霊といひ、読んで字の如く、人間を常に守護してゐるものである。

人間が此世に生れてくるといふ事は、神からの受命による事は曩に説いた通りである。此神から受命された霊魂を称して本守護神といふのである。又、普通二三才頃から憑依する霊がある。之は、人間以外の動物霊であって、私の長い経験によれば狐・狸・犬・猫・馬・牛・鼬(イタチ)等の獣類及び種々の龍神、天狗、凡ゆる鳥類等が重なるものである。大抵は一人に一種であるが稀には二三種憑る事もある。これを名付けて副守護神といふ。斯ういふ事は、現代人には信じ難いであらうが、これは事実であるからどうする事も出来ないのである。

そうして本守護神は絶対善性であり、良心と名付けられてゐるものである。又副守護神は反対に絶対悪であって、邪念と名付けられてゐるものである。仏教に於ては良心を称して菩提心又は仏心といひ、邪念を称して煩悩といふのである。此相反する想念が常に心中で闘ってゐる事は今更いふ迄もないが、之は如何なる訳であるかといふと、人間の生存上、善心のみにては活動が起らない。何となれば、物質欲が起らないから競争心も優越欲も享楽欲も発生しないからである。然るに、悪心なるものは、物質的欲望が本性であるから、副守護神なるものの憑依がなければならない理由があるのである。故に、端的にいへば、人間とは神と動物との中間生物であるから、如何なる善人と雖も幾分かの悪は必ずあり、如何なる悪人と雖も幾分かの善はあるものである。そうして善悪の両性が心中に於て断えず戦ってゐて、善が勝てば平安と幸福を得て栄へ、悪が勝てば不安と不幸を生み、没落の運命を辿るのは勿論である。故に、此意味に於て悪人は弱者であり、善人は強者といへるのである。何となれば、善人は悪を征服するだけの強さがあり、悪人は悪に征服される弱さがあるからである。然るに、世間往々善人を弱者となし、悪人を強者と思ひ勝ちであるが、これは誤ってゐるのである。

次に又、本副両守護神の外、正守護神なるものが常に守護してゐるのである。それは、祖先の霊であって、人が生れるや、それを守護すべく、祖霊中の誰かがその時の祖霊の重なる者から選抜されるのである。又霊が自己の任意で正守護神となる場合もあるが、之は大抵動物霊である。其際の動物霊は、初め人霊であって、龍神又は狐霊と化し、狐霊は稲荷に祀られて守護霊となるのである。龍神で守護する場合は、青大将又は白蛇となって守護する事が多いのである。よく旧(フル)い家などに青大将が永く住んでおり、性質柔順で、何等人畜に危害を加へないものである。然るにその訳を知らない世人は、普通の蛇と思ひ殺す事があるが、蛇と雖も祖霊である以上、非常に立腹するのである。其結果祟る事がよくあるので注意すべきである。従而、青大将を殺してから、不幸や禍が次々起り一家没落するといふやうな例が、田舎などにはよくあるのである。又、白龍は弁才財として祀られており、仲々霊験灼かなものであるが、之は、神格を得てゐるからである。

そうして、正守護神は守護する上に於て、常に暗示を与へるものである。よく夢によって知らせたり、又虫が知らせるといって心に泛(ウカ)ばせたり、危難を救ったりするので、之等も注意すれば誰にも肯けるものである。

(明医三 昭和十八年十月二十三日)