私は、神と悪魔に就て説いてみるが、之は洵に大胆極まるものと思ふ。何となれば人間は人間であって神ではない。又同様な意味によって人間は悪魔でもない。従而人間は飽迄神たる事も得ない代りに、悪魔たり得る事も出来ないのである。ただ一時的神に等しき想念と行為は為し得るものであり、又、一時的悪魔になり得る事もあるであらう。
然るに私は、霊的研究を為しつつある裡(ウチ)に神の御意志とは如何なるものであるか、又、悪魔の意志なるものも如何なるものであるかを想像し得らるる位の観念を得たと思ふから、それを茲に説かふとするのである。
然らば、神の意志とは何ぞや。いふ迄もなく絶対愛と慈悲そのものである。然し乍ら、私のいふ神とは正しい神の事であって、世人は、神といへば全部が正しいものと想ふやうであるが、実は等しく神と雖も、正神もあれば邪神もあるのである。
本居宣長の歌に
八百万神はあれども心せよ
鳥なるもあり虫なるもあり
とあるが、全く之等を詠じたものであらう。そうして今日迄は、寧ろ邪神の方が多く、正神は少なかったのである。何となれば夜の世界であったからである。
爰で、今一つ重要な事がある。それは一神説と多神説であって、キリスト教の如きは一神説であり、日本神道は殆んど多神説である。之はどちらにも理由はあるのであるが、日本だけでいへば多神説が正当である。それは神は一神にして多神であるといふ説が本当であるからである。そうして人間界に階級がある如く、神にも階級がある、その階級は私の研究によれば九十一あるのである。昔から八百万の神と謂はれるが、全くその通りであらう。
爰で、参考の為、邪神なるものを解剖してみよう。世間よく神様の罰(バチ)があたるといふ言葉があるが、之は邪神系の神様である。何となれば、罰といふ事は人を苦しめる事であるから、人間に対し、絶対愛より外にないのが正神であるから、そのやうな事はない訳である。又金を上げれば病気が治るといふやうな神様も邪神である。何となれば、金を上げれば病気を治すといふ事は一種の交換条件であって、いはば神対人間の取引のやうなもので御利益を売る訳であり、実に浅間しき限りである。之等は正神は聴届け給ふ事はないので正神は、人間からの報酬や条件などに関はらず、無我愛に救はせ給ふのである。
右の如く、金銭を上げさして、幸に病気が治ればいいが、反対に不幸な結果を来す事も往々あるから、そうした場合一度上げた金銭は決して返還しないのである。丁度、品物を売買の場合前銭をとっておいて約束の品物を渡さないのと同様であって、之等は神様を看板にして行ふ一種の詐偽的行為といっても差支へなからう。然るに、斯ういふ目に遭った場合、相手が神様であるから、後の祟りを恐れて泣寝入に終るといふのが常態である。故に、之を奇貨として布教師等が病人の懐を絞るといふ行為を見受けるが、実に赦すべからざる罪悪で、世人は斯様な事に騙されぬやう大いに注意すべきであらう。従而、世人が心得おくべき事は、神仏を信仰する場合、顕著な御利益があり、如何に考へても、神仏の御加護に違ひないと思はれるやうな事があった場合、その感謝の誠を捧げるといふ意味で金銭又は品物を上げるのが本当である。
又、よくその宗教の信者が「その信仰を離れれば罰が当って不幸になる」とか甚だしきは「一家死に絶える」などといふのがあるが、これ等は、神が人間を脅迫する事であり、邪神である事はいふまでもない。
又、自己の願望を神に祈願する場合、正しからざる事。例へていへば人を呪ひ或は自己の欲望の為社会を毒し、他人に迷惑をかけるやうな事等の願を聞届け、幾分でも成就させる神は邪神であって、正神に於ては正しき願事以外は聴届け給ふ事はないのである。以前私は友人から聞いたのであるが、盗賊の常習者の団体が講中を作って、或有名な神社へ参拝するのであって、そうする事によって、容易に捕まらない御利益があるといふのである。之等は実に怪しからぬ事で、神様に罪があるのか人間に罪があるのか分らないが、真実とは思はれない位の話である。此意味によって、正しい神仏か正しい宗教であるかといふ事は、何よりも常識によって判断するのが一番間違ひないのである。奇嬌なる言説や態度等は勿論、些かなりとも国家社会の秩序に反するやうな点があれば、それは邪教と見做すべきである。
又、世人の気の付かない処に反国家的の邪教がある。それは何であるかといふと、朝から晩まで拍子木を叩いたり、又は数時間に渉って経文を読む事を可としてゐる信仰である。之等は無益に時間を空費する結果、国家の生産力に影響する事は勿論である。右の如き愚昧なる信仰は一部分であらうが、もし多数人が行はうとすれば、生産増強上由々しき大事であらう。時局重大の折柄、当局に於ても一考されたいと思ふのである。
そうして正神とは至正至直、至公至平にして、絶対愛そのものである事を知るべきである。丁度、子に対する親の愛の一層拡充されたものといへるのである。故に、罰をあてるといふ事は正神には決してないのである。然し乍ら正しき信仰から放れ、邪神邪教に迷ふか、又は不正の行為のあった場合、当然の結果として災害を受けるといふ其事が、罰が当ったやうに見へるのである。
然し斯ういふ事もあるから注意すべきである。それは邪教信仰者が、その信仰から放れた場合、又は放れんとする場合、その邪神なるものは、信仰を復帰させるべく災害を蒙らせる事がある。それ等は全く罰が当ったと同じ意味であるが、之等は脅迫信仰に多いので、そういふ事のあった場合、それは一時的であるから勇気一番それを突破するに於て邪神は手を引くから、其後は何等の障りはないのである。要するに人間は正しき神を信仰し、正しき精神をもち、正しき行(オコナイ)を為すに於て、天下恐るべきもはないのである。
次は、悪魔に就てかいてみよう。悪魔の心裡は一言にしていへば、神の御意志とすべてが相反するといふ事である。即ち人に災厄を与へ苦しめ、絶望せしめ、不幸のドン底に陥れ、遂には滅亡さしてしまふといふ、実に人間として想像し得られない残虐性を有ってゐるものである。故に、一点の慈悲、一掬(イッキク)の涙さへないので、それが悪魔の本性であるからやむを得ないのである。右の如く人間を苦しめる事が、悪魔にとっては、実に愉快で、無上の喜びであるらしいのである。
右の如く、絶対愛の神の御意志と、絶対悪の悪魔の意志とは両々相対して、常に葛藤を続けつつあるのが、今日迄の人類社会のあるがままの姿である。故に、之を大にしては国際的となり、社会的となり、小にしては個人的にもなるのである。此意味に於て、個人の小さなる意志想念の世界に於ても、常に神と悪魔と対立し、闘争してゐる事は、何人も日常体験してゐる処であらう。そうして個人に於ては神の意志は良心であり、悪魔の意志は邪念であるから、良心が勝てば永遠の栄へとなり、邪念が勝てば身の破滅となる事はいふまでもない。何となれば、神の御意志は栄へを好み給ひ、悪魔の意志は破滅を喜ぶからである。右の如く、私は神と悪魔に就て、私の想像をかいたのである。
次に、人間の心中に於ける、神と悪魔即ち善と悪とに就て、徹底的に説いてみよう。
(明医三 昭和十八年十月二十三日)