抑々、吾々の住むこの地上は「霊界と現界」に区別されてゐることは、已に述べた通りである。この理によって人間は、霊は霊界に属し、肉体は現界に属してゐるから、人が死ぬといふことは、肉体から霊が離脱して霊界に復帰することである。故に、一般人が考へてゐる死によって全部が消滅する--といふやうな解釈は、全然誤ってゐるのである。私は約十年間位、人の死と霊界との関係を徹底的に研究し、動かすべからざる根拠を把握し得たのである。
故に、死後人間の精霊は、直ちに霊界に入り、霊界の社会人となり、霊界の生活が始まるのである。そうして先づ人間が死の刹那は如何なる状態であるかを、霊界から観察する時の模様を書いてみよう。
死即ち精霊が肉体から離脱の場合、概ね人体の三個所から出るのである。即ち前額部、臍部、足の爪先からである。此の区別は如何なる理由によるかといふに、霊の清浄なるものは前額部、中位のものは臍部、汚濁せるものは足部といふ訳である。そうして霊の清浄なるものとは、生前善を行ひ、徳を積み、それによって霊体が浄化されたるもの、足部は生前罪悪を重ねたるもの、臍部はその中間である。
そうして、死の刹那を霊視した或看護婦の記録を私は見た事がある。これは最も好い例であると思ふから書いてみよう。
之は、西洋の例であるが、人によって霊の見える人が、何万人に一人は日本にも西洋にもあるのである。此看護婦も此種のものであったと見へ、なかなかよく書いてあった。私は詳しい事は忘れたが要点だけを誌(シル)す事にする。或時、今や死に垂(ナンナ)んとする病人を熟視してゐると、額の辺から一条の白色の霧の如なものが濛々と立昇り、空間に緩やかに拡がりゆくのである。そうして雲烟の如く、一つの大きな不規則な塊のやうなものになったかと思ふと、間もなく而も徐々として人体の形状になってゆき、数分後には、全く生前その儘の姿となって空間に立ち、凝乎と自己の死骸を(ミツ)めてゐるのである。其際死骸に取ついて、近親者が悲歎にくれてゐるのに対し、自分の存在を知らしたいやうな風にみえたが、何しろ幽冥処を異にしてゐるので、それを諦めたのかやや暫くして向直り、窓の方に進んで、頗る軽るげに外へ出て行ったといふのであるが、之は全く、死の刹那をよく表はしてゐるのである。
そうして仏教に於ては人の死を名付けて往生といふ。之は現界からみれば死に往くのであるから往死でなければならない。然し乍ら仏界は霊界であるから逆になるので現界の死は仏界からいへば生即ち往生である。又、死ぬ前のことを生前といふのも右の意味に外ならないのである。そうして人間は、霊界に於ける生活を何年か何十年何百年かを経て再び生れるのである。斯の如く、生更り死に代り何回でも生れてくるのである。
そうして霊界そのものは、人間に対し如何なる関係がありやといふに、それは現界に於て、神の御目的の受命者として、人各々の業務を遂行するに於て、意識すると意識せざるとに関はらず、曩に説いた如く霊体に汚穢が堆積するのである。それと共に肉体も病気老廃等によって受命を遂行し難くなるから、一旦体である衣を脱ぎすて霊界に復帰するのである。昔から霊の脱出した体を称してナキガラといふのは、そういふ意味であり、カラダといふのも同一の意味である。そうして霊魂が霊界に入るや、汚穢の堆積した量に対し、浄化作用が行はれるのであって、或程度、清浄化した霊魂は再び現界に生れてくるのである。
又、人は生れながらにして賢愚の別がある。之はどういふ訳かといふと、古い霊魂ほど賢いのである。何となれば、再生の度数が多い為、現世の経験が豊富であるからである。それに引換へ、新しい霊魂は経験が浅い為、どうしても愚かであるのはやむを得ないのである。新しい霊魂とは霊界に於ける生殖作用によって新生するのであるが、現界の生殖作用とは全然異なるそうである。
又、誰しも経験する所であるが、見ず知らずの他人であっても、一度接するや親子の如く兄弟の如く、否それ以上に親しみを感ずる事があるが、之は、前生(ゼンショウ)に於て、近親者又は非常に親密な間柄であった為である。之等を称して因縁といふのである。袖すり合ふも他生の縁とかいふやうな事も無意味ではないのである。
又旅行などした時、或場所に非常に親しみを感ずる事がある。それは前生に於て其辺に住み、又は永く滞在してゐた為である。
右の様に、前世と今世との関係は、凡ゆる事に影響してゐるのである。
又、よく斯ういふ事がある。非常に嫌ひな物とか、恐ろしがるものがある。例へていへば、犬や猫・鼠等を見て恐ろしがったり、又は蛙、蟻、毛虫等の如き虫類を怖れたり、水を見ると慄へたりする人がある。それ等はどういふ訳かといふと、犬・猫・鼠等に噛まれて、それが原因で死んだので、其恐怖が霊魂に染み着いてゐる為である。又、虫類を見て恐怖の刹那顛落し、それによって死んだり、水に落ちて死ぬ等によって、その恐怖が霊魂に染みつき、それが全く解消しないうちに再生するからである。
以前、私が扱った患者に斯ういふのがあった。其人は、誰も居ない場所では恐ろしくて寸時も居られない。故に、一人留守居をする時は、往来へ出て立ってゐるのである。之はどういふ訳かといふと、前世の時、独居の際急に発病し、人を呼んでも来ない中に死んでしまったので、其時の恐怖が貽(ノコ)ってゐる為である。斯ういふ人の例は割合多いものであるから、読者の知人にして、右と類似の行動がある人を観察する場合、右の私の説を参考にすれば大抵判断はつく筈である。
又、世間よく非常に心が良い人であるに拘はらず、洵に不幸な境遇の人がある。斯ういふ人に対し、その知人などが常に疑問を起すのであるが、此疑問に対し、私は次の如く解くのである。人間が前世に於て悪事を重ね、それが為、刑場に於て死罪になるとか、又は何等かの刑罰を受けるか、恨まれて生命を奪はれる場合死に直面した時、深く前非を悔悟し、悪の結果の恐ろしさを知って、此次生れた時は決して悪は為すまいと心に誓ふのである。その想念が再生してからも強く滲みつき、悪を厭ひ善事を為すのである。然るに再生しても前世に於ける罪穢が未だ残存してゐる為、その浄化作用としての苦悩を受けなければならないのである--といふ理由である。
又、男子であって、非常に貞操の正しい人がある。自分の妻以外の婦人には決して関はりを作らないといふのであるが、之等も前世に於て、婦人の為大いなる失敗をなし、身の破滅にまで到り、死に際会して悔悟し、此次の世では、決して正しからざる婦人関係は作らないと固く決心したといふ訳である。
又、歴史を繙(ヒモト)く時、或時代の場面や人物などに、何かしら親しみか又は憎悪等関心を払はずにおられない事があるが、それ等は自分がその時代に生れ合せ、関係があった為である事は勿論である。
(明日の医術 第三篇 昭和十八年十月二十三日)