人口問題

今日世界の文明国に於て、最も重要なる問題として関心を払はれつつあるものは何といっても人口問題であらう。それは民族興亡の根本をなすものであるからである。一国の富強はアダム・スミスの曰った「人口増殖力に関ってゐる」との言葉は全く至言である。又ムッソリーニは伊太利国民に向って「最大の出生率と最小の死亡率とを挙げよ」と叫んだのも此意味に外ならない。此様に人口問題が痛切な意味を持ち始めたといふ事は実に十九世紀以後の事である。勿論十八世紀以前には何れの国も統計が完備してゐなかったから正確な数字は知る由もないのであるが、少くとも或一国家又は一民族が戦争や天災の為一時的人口の衰退を来した事はあるであらうが、今日の如き非文化民族以外の全文化民族が一列に人口増加率低減といふが如き現象は全く未曽有の事であらう。もし何世紀か前に今日のやうな人口低下の趨勢が始ってゐたとしたなら恐らく現在の如き文化民族の興隆はあり得ない。であるばかりか或は滅亡か或はアイヌの如く僅に残存してゐるに過ぎない状態になってゐたであらう。従而勿論今日の如き絢爛たる文化の発展はあり得なかったであらう事である。

そうして先づ此問題に対して何よりも疑問を起さなければならない事は人口増加率低下が始まったのは十九世紀初頭からであるとすればその始まった時機からあまり遠からざる以前そうしてそれは十八世紀以前には全然なかったであらう何等かの特殊方法を各文化民族の人口全体に対して施行せられたといふ事が考へられなければならないのである。であるからその或方法なるものを探求してその本体をつきとめなくてはならない。勿論文化民族全体に施行せられるといふ事は何の疑ひもなく可と信じたる訳である。然るに可と信じた事でもそれが何年か何十年かは可の成績を挙げ得ても、それより一層長年月に渉るに於て可が転じて不可となるといふ事も考へられる訳である。然乍ら人間の弱点として一度可と信じた以上たとへそれが不可の現象が起っても強い先入観念に打消されて気が付かないといふ事もあり得るのである。それは丁度邪教に一度迷信したものがいつか邪教の本体が暴露されてからでも先入観念に打消され理屈をつけて依然として盲信を続けてゐるといふ事実と等しいものであらう。

右の如き或方法--それを発見することが此大問題を解決する鍵である訳である。然らばその謎の如き或る方法とは何であらうか。然乍ら右の謎を露呈する前に現在我日本及び世界各国に於ける人口動態の趨勢を示してみよう。

昭和十五年十二月八日発行内閣週報に斯う出てゐる。
(我国の出生率は大正九年の人口千につき三六を絶頂として漸次低下の傾向を示し昭和十一年には三十台を割り、同十二年には三一を示したが同十三年には事変の影響を受けて二七といふ率に下ってゐる。然し伊太利の二三、独逸の一九、米国の一七、英仏の一五に比ぶれば尚相当に高率である。然し此事実は決して我国現下の出生率低下を楽観すべき理由とはならない。元来出生減退の原因は今日尚必ずしも明かでないのであって人口問題の重要な研究問題の一つではあるが、欧洲文明国の経験は戦争は出生減退の原因ではないがその恐るべき促進要素である事を教へてゐる。又一度開始した出生減退は驚くべき加速度を加へて急激な低落を演ずるに至るといふ事、更に又一度低下した出生率は回復が如何に困難であるかといふ事を如実に物語ってゐる。尚出生減退は、一般に優れた資質の人口の増殖量の低下を来し劣悪なる資質の人口の増殖力は依然として高いから、所謂逆淘汰即ち質の優れたものが減って悪いものが増えるといふ傾向を促進するといはれてゐる。此点からみると人口の資質の向上を計るには出生が多くなければならないといはねばならない)

次に人口問題と戦争に就ての例を挙げてみよう。(同週報による)
今試みに最近の最も典型的な近代戦であるさきの世界大戦に於けるドイツの一例を示せば、ドイツは前後四年間に亘って一千三百万余の壮丁を動員し、その戦死は百八十五万の多きに達したと言はれてゐる。百八十五万の戦死は決して少くないが出生は減少し一般の死亡が殖えた結果ドイツの失った人口は四百二十万に達し戦死の二倍半といふ驚くべき多数に上ってゐる。以上二つの人口の減損を併せてみれば近代戦が如何に人口増加に影響するかといふことと、この人口の欠損を速かに埋め合せることが如何に重大であるかは明瞭であらう。

事変下わが国の出生死亡の変動即ち人口動態にも程度の差こそあれ同様の影響を認める事が出来る。昭和十三年に於ては前年に比べて二十五万余の出生が減少し戦病傷死を除いて五万余の死亡が増加し、その結果三十万以上の自然増加の減少を示してゐる。かやうに戦争によって自然増加の一部を失ふ事は誠にやむを得ないところであるが今日自然増加の一部を失ふ事は近き将来において父たり母たる者を失ふことであって人口増加の将来に永くその影響をとゞめることをも深く考へねばならない。

更に重要なことは戦争が人口増加の如何なる時期に起ったかによって大いにその影響する程度が異なるといふ事である。一般に出生と死亡の変動の状態によって文明国の辿った人口増加の時代を四つに分けることが出来る。即ち死亡率が絶頂に達して低下に転ぜんとし、出生率が上昇して自然増加の増大する時代これを第一期とする。第二期は出生率が低下し始めるが死亡率が一層急速度を以て減退しその結果自然増加率が益々多くなる時代である。第三期に於ては死亡率低下の速度が漸次緩やかになり遂には停滞状態に達し、出生率の減退が漸く著しくなって遂には釣瓶落(ツルベオト)しの状態となってくる。この状態が進むと出生率は死亡率と交叉して死亡率以下に下ってしもふ。一方死亡率は徐々に高まってくる。もはや人口は増加するどころかかへって減退しはじめる。この時代が即ち第四期である。第一期に起った戦争の人口に対する影響は比較的容易に埋め合はされる傾向があるが、第二期の終り以後に起った戦争の影響はさう容易には恢復され難い。それどころか出生減退に一層の拍車を加へるのである。ドイツは第二期の終りで世界大戦に遭遇し驚くばかりの出生減退を惹起し、彼の大がかりなナチスの人口増加政策は一度下がった出生率を恢復するのが容易な業でないことを如実に物語ってゐる。第三期で大戦に参加したフランスは今日ではもはや第四期に入った。この度の戦争に於ても人員の配置に如何に苦慮し如何に人員の損耗を恐れてゐたかはドイツのスカンヂナヴィヤ作戦以来独軍のパリ無血入城に至るまでの戦闘の経過が明らかにこれを示してゐる。

フランス華かなりし頃欧洲をかけ廻ったナポレオンは一八○七年二月アイラウの戦の夕少なからぬ兵力の損害を打眺めて「巴里の一夜は総てこれを補ふであらう」と豪語したといふことである。それに引かへ世界大戦当時フランスの或る将軍は、マルヌの戦線に於て今少しの壮丁があらばフランス軍は独力を以てラインの彼岸に独軍を追撃し得たであらうと慨歎したといふ話である。フランスの出生減退、人口増加の停滞はさきの世界大戦によって遂に決定的となった。フランスは今日ドイツに屈伏した。それは前大戦以後におけるフランス人口の動向に徴すれば恐らくフランスの免れ得ない運命でもあったらう。

ロシヤ帝国の帝国主義の魔手が我が国に迫って来た時、決然として我国は日露戦争を戦ひ、白人帝国を打ち破って有色人種に歓呼の声を挙げしめたのであるが、その時の我国人口は正に第一期の中葉に該当してゐた。しかし現在我国の人口状態は後に述べる様に既に第二期の終に近づいてゐる。今次事変と日露戦争とその規模に於て格段の相違のあることはいふ迄もないが、人口の時代を異にしてゐることをも忘れてはならない。わが国人口増加の将来に関し事変下の今日大いに戒心すべき要ある理由の一つは正に此の点に存するといはねばならない。

次にわが国を囲繞する諸民族特に大東亜共栄圏内の出生率について比較しなければならない。世界人口の五分の一を占める支那民族の出生率は不明であるが、少くとも人口千につき四○以上であることを推定すべき根拠がある。二億に垂んとする人口を擁するソ連の出生率は四○に近いと推測することが出来る。三億五千万の人口を包含する印度は三五、フィリッピンは三七、海峡植民地三八といふ著るしい高率を示し、これ等と比較すれば我が国の出生率は正に最低である。尤もこれ等の民族においては死亡率も極めて高く自然増加率は出生率の高いほど著しくはないのであるが、以上の出生率はその潜在的増殖力の如何に著しいかを示すに十分であって一度治安が確立され経済生活の安定向上が確保されるに於ては驚くべき増殖力を確保すべきは推測に難くない。

次に昭和十六年二月十二日発行の情報局週報に斯う出てゐる。
日本の人口が支那事変の始まるころまで年年百万人に近い増加をつづけてきたといふことは、一見すると日本民族の限りなき発展を約束してゐるやうに思はれる。しかし実はこれは大きな錯覚である。日本の人口が年年百万人に近い増加をつづけてきたといふことは疑ふ事の出来ない事実であるが、それは必ずしも日本人口の悠久の発展と増加とを約束してゐるといふ楽観的に考へることはできない。人口の増加といふものは、死ぬ者よりも生れるものが多い場合におこる事である。そこでその毎年の生れる者の数をその年の人口に割り合はせて出生率を算出してみると日本に於ける人口の出生率は明治の初年から大正九年までの約五十年間は年とともに上昇の勢をつづけてきたが、それが、このときを境としてにはかに急激な落勢に転じてきた。すなはち明治三十二年の出生率は人口千について三一、三三、明治三十三年のそれは三一、六九であった。そしてそれが大正九年には人口千につき三六、一九となってこの期間に我が国の出生率は人口千について、四、八六を増したことになってゐるが、それから後は年とともに出生率が低くなって昭和十二年にはついにそれが三○、六一となってゐる。これは大正九年からかぞへてわづか十六年の短時日の間にわが国の出生率が人口千について六、五人も少くなってきたといふ勘定になる。これは日本人の子を産む力が短時日の間にそれだけ衰へてきたといふことになる。日本人の子を産む力が、かやうに大正九年を境として急に衰へるやうになってきたにもかかはらず、その増加力がそれ程衰へないでなほ年々百万人に近い増加をつづけることが出来たといふのは何故であるか。その原因は一に全く死亡率が出生の低下にともなって低くなってきたといふことにある。日本の死亡率は出生率の場合と同じく明治の初年から大正九年の頃までは年とともに高まって来たが、それがこのころを境として急激に低下の勢ひに転じてゐる。即ち明治三十二年の死亡率は人口千について二一、○五明治三十三年のそれは二○、三一であったが大正九年には二五、四一となって、この約五十年の間は死亡率が千について五、一を加へてゐるがそれがそれからは出生率の場合と同じやうに急激な低下の勢に転じて、昭和十二年には一六、九五となってゐる。そしてこのわづか十六年の間にわが国の死亡率は人口千について八、四六も低くなってゐる。これはまことに驚くべきことである。

日本の出生率が前の世界大戦を境としてにはかに急激な低下の勢ひを示してきたにかかはらず、その人口増加の勢ひがそれ程に衰へないで年々百万人に近い増加を続けてくることが出来たのは全くかやうに死亡率が低下してきた結果である。

出生率と死亡率とが相ともなって低くなってくるといふことになるとその結果として人口の将来はどういふことになるか、これはヨーロッパの諸国ではすでに経験ずみのことである。出生率と死亡率とが低下の勢ひに逆転した結果ヨーロッパの国々の人口はどういふことになったか。その第一の結果はこれらの国々では人口そのものがだんだんに少くなってついには民族そのものが自滅してしもふやうになるといふことを心配しなければならないといふことになってきた。

出生率と死亡率とが一緒に低下するやうになった場合にその人口が将来に於て自滅の運命をたどることになるといふのは何故か、そのわけは出生率の低下する勢ひには際限がない。極端な場合には出生する者が一人もなくなるといふやうなことすら想像することが出来るけれども、死亡率の低下の勢ひには一定の限度があってさう無やみに低下するものではないからである。むかしの人がかつて空想したやうに不老不死の秘薬や妙法でも発見されるといふことにでもなればそれはまた別のことである。

今日までに世界の人類が経験したところでは死亡率を人口千について一○以下に引き下げることはなかなかむづかしいことである。世界のうちで死亡率のもっとも低いのは、今日では濠洲とニュージーランドである。そこでは死亡率がすでに二十年も前から人口千について一○以下になってゐるが、これは世界の最低率である。ヨーロッパの文明国のうちでもっとも低いイギリスでもその死亡率は人口千につき一一、六(昭和十三年)ドイツでも一一、七(同年)になってゐる。これらはおそらく人類の到達することの出来る最低の死亡率を示してゐるものとみなければならないであらう。

それでこれまでのやうに日本でも出生率と死亡率とがヨーロッパの諸国に於けると同じになるまで急激な低下の勢をつづけて行くことになるとすれば、その結果はどういふことになるか。わが国でもそれらのヨーロッパの諸国に於けると同じやうに民族の自滅することを心配しなければならない時がくるに違ひない。人口問題研究所に於いて予測したものをみると、日本の人口はこのまゝにしておくと、昭和七十五年までにはとにかく増加して一億二千三百万人にまではなるが、その時が日本の人口が到達することの出来る最大の数である。それからは次第に減少の勢ひに転じて自滅への途を辿ることになるといふことである。これは昭和十二年までの我が国の人口の動きを基礎として人口学の精密な計算にもとづいて算出されたものであるが、しかし、いまや東亜共栄圏の建設にむかって渾身の努力をかたむけてゐる吾吾にとってはまことに心細い予測であるといはなければならない。

出生率と死亡率とがともに低下する結果としてその国の人口現象の上に起る第二の憂慮すべき問題は若い者の割合がだんだんに少くなって年をとった人の割合が多くなってくるといふことである。

これは死亡率が低くなるとともに出生率が低くなってくると長生きをする人の割合がだんだんに多くなるのに対して、毎年の生れてくる者の割合がだんだんに少くなってくるために、年の若い者の割合が減ってくることになるからである。ヨーロッパの文明国では死亡率と出生率とが相ともなって低下する勢ひが相当に長きに亘ってつづいた結果、すでに今日でも年の若い者の割合が非常にすくなくなっていはゆる「青年なき民族」となってゐる。わが国でも今日の人口を十数年前と比べてみるとすでに余程年の多い者の割合が多くなってきてゐるが、これをこのまゝ放任することにすればこの傾向はだんだんと甚しくなってきてやがてはヨーロッパの場合と同じやうなことになるに違ひない。これはすこぶる寒心すべきことである。

青年なき民族には発展もなければおそらくは未来に対するかがやかしい夢をゑがくことも出来まい。静かに余生を楽しんでゐる年寄ばかりの住んでゐる国を想像してみるがよい。そこには進歩も発展も見出すことが出来ないであらう。青年なき民族が如何に悲惨な運命を辿るかといふことは、この度のフランスの運命がもっとも明白に示してゐる。

次に昭和十六年二月十九日発行の同週報に斯うでてゐる。
(四)人口政策の目標とその方法
日本人口のこれまでの外見上のかがやかしい発展と増加とのかげには実はかうしたおそるべき毒素がすでに醸成されてゐたのである。吾々は先づこのおそるべき毒素をとり除いて、ヨーロッパの諸国が踏んだ失敗を再び繰りかへさない様にしなければならない。日本の人口がだんだんに年寄りばかり多くなるとともにその増加の勢ひが次第に弱まってきてついに減少の道をたどることになるといふやうなことではどうして東亜共栄圏の先導者としての重大な任務をはたすことができるか。今後の日本は多数の若くて元気で丈夫でそして賢明な青年を要することがますます大になってきてゐる。この必要に応ずるには日本の人口政策は次の四つの目的を達することを目標として樹立されなければならない。
一、人口の永遠の発展性を確保して、人口の老衰と将来の減少とを防ぐこと。
二、その増殖力と資質とに於て、他の諸国を凌駕するものとすること。
三、高度国防国家に於ける兵力との必要を確保すること。
四、東亜諸民族に対する指導力を確保するためにその適正なる配置をなす事。

政府がこの度発表した人口政策確立要綱のなかで昭和三十五年に於いて内地人人口が一億に達することを差当りの目標としたのは、これらの目的を達するに必要な人口を簡明にかつ具体的に示したものである。そしてこの昭和三十五年一億の目標が達せられることになればそれから後の日本における人口の増加はさらに飛躍的なるものとなり、日本民族はここに初めて悠久にしてかつ永続的なる飛躍的発展をとげる基礎を確立し得ることになるわけである。しかるにこの昭和三十五年内地人口一億の目標を現実に達することは実はなかなか容易ならざる大事業である。

しかし吾々はいまやこの非常の困難を乗り超えて一日も早くこの目標に達しなければならない。そこでこの困難な目標に達するにはどうすればよいか。それには一般的に考へて出生率を引上げることと死亡率を引下げることの二つの方法が考へられる。そしてこれらの二つの方法の中で、人によると死亡率の引下げといふことに重点をおいてそれを殊更に力説するものがある。そしてそれらの人達の意見によると「近頃の我国の死亡率は急激に低下の勢ひをたどってゐるが、しかしイギリス、ドイツ、濠洲、ニュージーランドなどにくらべるとそれでもなほ余程高い率である。これ日本の死亡率がこれからでもまだ引下げることの出来る余地が相当に大きいといふことを有力に立證してゐる。また出生率を引上げることに力をそそぐよりはその生れた子供を大事に育ててその死亡を極力すくなくするやうにすることが、人口増加の目標を達する上に於てもっとも無駄の少いもっとも合理的な方法である」といふことである。これは一応もっともな意見であるかのごとくみえる。

死亡率を引下げるといふことは、わが国では特に必要な事である。けれども、右の意見が今後の日本の人口政策について死亡率を引下げるといふことを主張するのであるならばそれは必ずしも正しい意見であるといふことは出来ない。そのわけは死亡率を引下げることだけに努めてみても、ただそれだけでは計算上所期の昭和三十五年内地人人口一億の目標に達することができないといふだけでなく死亡率を引下げるといふことだけでは何十年かの後には必ず日本の人口が減ってくるやうになるときがくるに違ひない。

前に記した人口問題研究所の予測は、日本の出生率と死亡率とが昭和十二年までの時期に於ける低下の勢ひを今後もつづけることを仮定して推算したもので、それによるとわが国の死亡率がこれまでのやうに相当に急激な勢ひでこれからも引下げられるとしても、昭和七十五年からは人口が減少することになるといふことである。従而所期の目標に到達するには死亡率の引下げにのみたよってゐることはできない。それには出生率を引上げるといふことに主力をそそぐといふことにしなければならない。

(五)出生減退とその増加の方策
右に述べたやうに人口の増加をはかるには出生の増加を基調としなければならない。ではこの出生の増加を計るにはどうすればよいか。わが国の出生率が前の世界大戦の直後のころを転機として急激な低下の勢ひを示してきたのは、結婚の年齢が遅くなってきたといふこととその結婚した夫婦の子を生むことがすくなくなってきたといふことの二つの原因にもとづいてゐる。たとへば大正十四年から昭和十年までの十年の間に出生率が人口千につき三四・九二から三一・六三になってゐるがこのために出生児の減った数は大約四十万人の多きに上ってゐる。これは大正十四年の当時の有配偶率で、結婚してゐる有配偶者の子供を生む割合が当時と同じであったとしたならば、昭和十年にはこのくらゐ生れるであらうといふ数を算出してそれを昭和十年に実際に生れた出生児の数とくらべて算出したものであるが、そのなかで結婚年齢が遅れてきて若い年齢の者の有配偶率が低くなってきたために減ったと認められる数が約二十三万人、結婚をした有配偶者の子を生む率が低くなってきたために減ったと認められる数が約十七万人といふことになってゐる。人によるとわが国において出生率が低くなってきてゐるのはすべて産児制限の結果であるといふやうにいふ人があるけれども、しかし右の事実は産児制限のほかにも結婚の年齢がだんだんに遅れてきたために若い人達の有配偶率が低くなってきたといふことが出生率減退の大半の原因となってゐるといふことを證拠立ててゐる。また有配偶者の子を生む割合が減ってきたといふことも、それをすべて産児制限の結果であるといふやうにみることは早計である。有配偶者の子を生む割合が減ってきたといふのは、産児制限もその一つの原因になってゐるにちがひないが、そのほかにも種々の原因で婦人の姙孕力(ニンヨウリョク)そのものが衰へてきたといふことも想像されることである。したがって出生の増加をはかるには産児制限の風潮を一掃することがもちろん必要であるが、ただそれだけでは所期の目標に達することはできない。それには結婚の年齢を早くして若い人達の有配偶率を高めることが必要である。また結婚した有配偶者の子を生む割合を大ならしめることにつとめなければならない。

しかしこれらの出生増加の目標に達することは実はなかなか容易なことでない。それには先づその基本的な前提として産児制限や個人本位の風潮を極力排斥して健全なる家族制度の維持強化をはからなければならない。健全な家族制度は人口増加の起動力であるからである。また結婚の年齢を早くして若い人の有配偶率を高めるには、団体や公営の機関などをして積極的に結婚の紹介斡旋指導をさせることが必要である。結婚費用の徹底的軽減をはかるとともに婚資貸付制度を創設するといふことも必要である。また学校制度の改革については特に人口政策との関係を考慮して、余り長い間学校に行かなければならないために結婚がおくれるやうにすることなどもぜひ改善することが必要である。

(六)人口減少と資質増強の方策
人口の増強をはかるには、出生の増加につとめることがまづ第一に必要なことであるが、しかしそれと併せて死亡の減少に努力することが必要であることはいふまでもない。そしてこのたびの人口政策確立要綱ではその人口増加の目標を達するために、一般死亡率をこれから二十年の間に概ね三割五分引下げることを期してゐるがこれもまた出生増加の場合と同じくなかなか困難なことである。

わが国の死亡率がドイツやイギリスなどのヨーロッパの諸国にくらべてなほ余程高いといふことは前に述べたが、しかしそれをもう少し詳しくしらべてみると、そのなかでも特に乳幼児の死亡率と主として二十才前後の青少年者を斃(タオ)す結核の死亡率とが格段高い。

ただし、このなかの乳幼児の死亡率はわが国でも前の世界大戦のころを境として近頃では非常な勢ひで低くなってきてゐる。すなはち大正七年におけるわが国の乳児死亡率は出生千につき一八八・六人同八年におけるそれは一七○・五人同九年におけるそれは一六五・七人であった。この当時には生れた子供が初めてのお誕生日を迎へるまでの間にその二割近くまでが死亡してしまったわけであった。しかるにそれがそれから後は年とともに低くなって昭和十一年におけるわが国の乳児死亡率は出生千について一一六・七人昭和十二年のそれは一○五・八人になってゐる。しかしわが国の乳児死亡率は今日でもヨーロッパの諸国にくらべるとそれでもなほ余程高い。昭和十一年におけるイギリスの乳児死亡率は出生千につき六一・九人ドイツのそれは六五・八人フランスのそれは六七・○人にすぎなかった。またわが国の第六回生命表によると十万人の出生児があった場合に、そのなかで五才になるまで生き残る者は男児ではわづか八万一千七百八十八人女児でも八万三千二百二十九人しかないことになってゐる。

これは生れてから五才になるまでの間にそのなかの二割近くが死亡してしまふといふ驚くべき事実を示してゐる。わが国の死亡率を引下げるには何よりも先づこの乳幼児の死亡率を引下げることが肝要である。

また結核死亡率についてはこれまでは何かそれを文化の進歩に伴ってさけることのできないいはば文明病とでも名づくべきもののごとくに思ってゐた人があったけれどもしかしそれは大きな間違ひである。わが国における結核死亡率はほとんど低くなる傾きをみせてゐない。かへって近頃ではそれが高くなる傾きをみせてゐるくらひである。すなはち大正九年における我が国の結核死亡率は人口一万につき二二・四人であったが、それが一時はやや低くなって昭和七年には一八・○となったがそれがそれからは再び高くなって昭和十三年には二○・七となってゐる。これは結核による死亡率の高まることが文化の進歩につれてさけることのできないものであるといふ意見を裏書してゐるやうにもみえるが、しかしこれをヨーロッパの諸国とくらべてみるとたとへばドイツのそれは五・五人濠洲のそれは三・八人ニュージーランドのそれは三・六人になってゐる。それは結核死亡率を引下げることがその努力の如何によっては文化の進歩にかかはらず必ずしも不可能でないといふことを立證してゐる。

此度の人口政策確立要綱では、それ故に死亡率を引下げるときの中心目標をこの乳幼児の死亡率を改善することと、結核による死亡率を引下げることとにおくことにしてゐる。

(明日の医術 第一篇 昭和十八年十月五日)