経と緯、伊都能売とは

【お伺】
以前「他に大乗であると同時に、自らにも大乗であらねばならぬ。自らに小乗的であると拘束されて働きが狭まり力が出ぬ」と御教えいたゞきましたが、自らに大乗といふ事につき、くわしく御おしえいたゞき度うございます。

【御垂示】
大乗に偏つてもいけないと共に、小乗に偏つてもいけない。小乗は経で、大乗は緯であるから、十字に結ばれれば宜しいので、時所位に応じ、千変万化する事である。之が伊都能売の働きである。之は私の著書に色々かいてあるから、よく見れば判る筈である。
(地上天国十八号  昭和二十五年十一月二十五日)

大光明世界の実相(五) 自由無礙
『私はいつも、自動車に乗ってる時に、よく思ふんですが、観音行は恰度、自動車の運転の如うなものである。途を真直に行くにはハンドルを絶えず、右とか左とか動かしてをる。そこが非常に面白い所で、真直と決めれば、必ず障害物に突当ります。それと同じで今迄は物を決めたがったので、それで失敗するのであります。』(光明世界五号 昭和十一年一月二十五日)

明主様はよく伊都能売の思想を自動車の運転に例えられることが多いのですよ。つまり小乗に偏るのは左にしかハンドルの切れない自動車ということです。逆に大乗に偏るのは右にしかハンドルが切れない自動車であるということです。どちらも真っすぐ進めないですよね。使い物にならないですよ。だから小乗にばかりに偏ったり、大乗ばかりに偏るのを諫めておられるのです。目的地を決めたらルートに沿ってハンドルを左や右と切らないといけないですよね。ゴールを定めたら時処位(TPO)に応じて上手いことやれということです。救世教の場合のゴールは『全人類の救済』であって、その目的地に行きつくまでに左に曲がったり右に曲がったりどっちもしないといけないということなんです。

では、大乗とは何か、小乗とは何かを現代風に表現すると、大乗とは右脳的な思考で、小乗とは左脳的な思考のことなのです。左脳は、言語、計算、理論など論理的、概念的な思考に優れています。右脳は視空間性、非言語性の情報処理能力を司ると考えられていて、直感的で全体把握に優れています。もっと簡単にいうと、普通科の高校に通われていた方は分かるはずなんですが、どこかのタイミングで文系と理系に別れたとおもいます。それで、小乗とは理系脳の人達で、大乗とは文系脳の人達のことなんですよ。それで、理系にも文系にもそれぞれ男性も女性もいらっしゃるのですが、表にしてまとめてみると面白い傾向があるのです。

理系(小乗)男性(小乗) … 小乗に偏りすぎ もっとファッションやトークを磨かないと異性にモテない
理系(小乗)女性(大乗) … 伊都能売 女性の柔軟さと理性を併せ持つ、ビジネスシーンで大人気
文系(大乗)男性(小乗) … 伊都能売 男性の合理性と文系の柔軟さがある、セールスマンに多い
文系(大乗)女性(大乗) … 大乗に偏りすぎ 客観的な視点をもたないと一方的になりがち

上記のことは学生時代のことを思い浮かべると納得されるはずです。それで、伊都能売でないといけないよというのは、両方を大切にしないといけないということです。仮に企業経営の話でいうと、商品開発(理系)とセールス(文系)はどちらも大事でしょうということです。どちらかに偏ってもいけないんですよ。仮に商品開発が一流でもセールスがダメなら、会社は在庫の山で倒産ですよ。一方で、商品開発がダメでセールスが一流だった場合、カスみたいな商品を騙して売るようなものですから、社会悪以外の何ものでもないですよ。こういう会社多いですけどね。どちらも大事なのです。捨てることは出来ないのです。そもそも理系脳で造らないと、自動車も走らないし、船も浮かばないし、飛行機も飛ばないのです。文系脳で適当に造ったら、全部空中分解ですよ。一方で、文系脳でないと人と人とのコミュニケーションが円滑に進まないのです。理系脳で厳密に分析して、会話の中の間違いを指摘していったら話が進まないですよ、めっちゃ嫌われますよ。恋愛なんて文系脳の領域で、理系脳の数式を解く感覚で恋愛する人なんていないでしょう。そんなヘンテコなことしてたら子孫繁栄に失敗して絶えますよ。ただ一方で左脳を無視し過ぎて盲目になりすぎると危ない点があるかもしれません。

理系脳の男性(小乗×小乗)が陥りがちなミスが女性と会話するときに解決しようとすることです。会話をしていく中で、この人ぜんぜん問題を解決する気ないじゃんとか、何回同じ話をするのだろうと思ってはいけないのです。女性は悩んでるふりしてますが、解決しようとなんて一ミリも考えてないのですよ。聞いて欲しいだけです。『うん、うん、そうか、そうか』と否定せずに聞いてあげて、ときおり『それは悲しかったね、それは辛かったね、それはよくがんばったね』と感情に寄り添った合いの手を入れてあげればそれでいいんです。分かってあげればいいんですよ。文系脳の女性(大乗×大乗)は1週間の内1度でいいから、日頃の自身の振舞を客観性をもって改めていけばいいんです。自分がこんなふうにされたらどう思うだろうかとか、こういうことを言われたらどう思うだろうかとかを自分でふと思い直せばそれでいいのです。そうしたら、『ああ、自分で自分をみつめなおしてまた一つ上品になったな。自画自賛だけどステキなことだわ。』と自分を認めてあげればいいんですよ。これが実は結構馬鹿には出来ないのです。世間を見回してごらんなさいよ、生まれてから一度も反省したことないような天然記念物みたいなのばっかりですよ。

それで、私の場合はベースが理系脳なんですよ。御教えも数式を解くように読んでるのです。ただ、明主様の場合は御論文も御講話も合理性の点において一ミリの破綻もないのです。全部線に合うと言いますが理屈に合うのです。だから面白いのです。読めば読むほど以前は気が付かなかった発見があるです。前のあそことあそこが繋がるな、ああそういうことかと分かるのです。話は戻って、自分がそうだから分かるのですが理系脳(小乗脳)はやはり結構潔癖なところがあるのです。清潔な潔癖さではなくて間違っていることは許せないような潔癖さです。どういうことかというと、1+1=2でないといけない、許せないという潔癖さです。1+1=3だよ、いやいや1+1=36だよ!という人が出てくると、いやいやそれは違うよと訂正したくなる気持ちが出てくるのです。別に人に迷惑をかけるわけでもないし、その人にはその人の正解があるので放っておけばいいのを、ちょっとイライラしちゃうのです。もっと違う例えをすると、100グラムの鉛の玉と100グラムの羽毛があると仮定します。10人の人に対して、出題者がどちらが重いですかと質問するのです。これはちょっと意地悪な質問です。なぜなら正解はどちらも同じ重さだからです。でも10人中8人が鉛に決まってるじゃん!と答えた場合、民主主義的な決定の場では100グラムの鉛の方が重いことになるのです。いやいや両方同じ重さだよねと分かる理系脳からするとハ!?となるのです、どうしてこんな意味わからないことになる??世の中気持ち悪!となるのです。

それで理系脳(小乗脳)の悪いところは、自分の行動や思考に対しても間違ってないかな間違ってないかなと、自分で自分を厳しくチェックするようになるのです。こうなってくると動きが鈍くなって行動量が減ります。運という字は運ぶという字で、行動しないと上がっていかないのです。運勢を磨きたければ行動することであるとよく言われるのです。だから、理系脳(小乗脳)でガチガチになると行動しなくなるので、どんどんどんどん運勢が下がるのです。成功から遠のいていくのです。理系脳の男性は必要な時以外は意識的にテキトーにやるべきです。テキトーに行動量を増やすべきです。これと似たようなことで御教えにも災害は起こってから考えろとあるのです。防災セット用意しておくとかはそれはそれでいいんですけどね。準備だけ簡単にしたら後は忘れろということです。余計な心配して頭のメモリ―の無駄使いをするなということです。

御 教 え 集 第二十一号
『小乗は経ですから、小乗的に物事をきちんと考える人はやっぱり発展しないのです。そうかと言って、大乗的に何でものみ込むのは、発展するかわりに危険が伴うというわけです。だから小乗と大乗の使い分けをうまくやる人が一番成績が良いわけです。このやり方が伊都能売なのです。』
(昭和二十八年四月二十七日)

文系脳(大乗脳)の方は行動量が多いので、やはりそれに伴って運勢も上がっていくので、成功しやすいのです。ただ、全てを木っ端微塵にするような大失敗も多いのです。理系脳(小乗脳)が足りないのです。なので明主様は大乗の中に小乗があると言われています。つまりいっぱい行動しながら失敗のたびに細かく軌道修正していけということです。で、実はこれは一流企業が常にやってるPDCAに他ならないのです。PDCAは「計画(Plan)」「実行(Do)」「評価(Check)」「改善(Action)」の4つのステップから成る業務改善のフレームワークのことです。伊都能売の精神とはPDCAサークルをきちんと回していきましょうということだったのです。でこれは、企業に限った話ではありません、一個人でもやるべきです。1日の中で5分でいいからPDCAをやる習慣をつけるべきなのです。これは書店のビジネスコーナーに山のようにあるのでそれを参考にしてください。1人の人間が自己の改善を図って毎日1%づつ向上していったとすると、1年後には元の能力の38倍になるのです。伊都能売の精神は人間に驚異の結果をもたらすのです。

ちなみに理系脳(小乗脳)が偏り過ぎると、正義のナタで自他共にを切りまくる『⇒カンカン先生』のようになります。完全に人から疎まれます。一人で山で暮らせばいいのにと周囲から思われちゃう様な可哀想な存在になってしまいます。一方、文系脳(大乗脳)が偏り過ぎると、生きとし生けるあらゆるものに対する感謝を忘れます。暴君化するのです。調子乗って天狗になってしまったトップセールスマンがそれです。全部オレの手柄だ―!というようにやります。商品を開発してくれた人たち、経理や総務の人達の貢献をフル無視して、王のような振舞をします。これも非常に迷惑な存在です。

最後に伊都能売の思想を丁寧に説かれてる明主様の御講話を3つ紹介します。

御 教 え 集 第六号
『それから、今お話しようと思うのは、大体今年には変りないが、今年から特に、信者の人は、方針と言つては変だが、今迄知つては居乍ら、どうも実行し得ない点ですね。その二、三の事を、今年の座右の銘とでもして聞いて貰いたい。何時も言う通り伊都能売ですね。伊都能売の働きにならなければいけない。と言う事は、つまり大乗と小乗――大乗が緯で、小乗が経ですからね。それを結んだ真中が伊都能売だと、始終言つてますが、処がどうしても、大乗になつたり小乗になつたり、片つ方にずれちやうんですね。結ばない。結べないんですね。そう言う人が沢山ある。之が根本なんですよ。メシヤ教の意味と言うのは。そこにあるんです。

今迄の宗教は、みんな――経か緯かなんです。どつちかです。結んだものは一つもない。結んだ宗教はないんですからね。之は宗教に限らず、みんなそうです。今の米・ソの問題もそうです。ソ連は経で、アメリカが緯で、之はいずれは結ぶんですが、今は結ばないで、両方が極端な考えでやつてますから、その為に多くの人類が犠牲にならなければならない。そう言う訳なんです。で、経と緯を結ばないと極端に行つちやうんです。その点がいけないんです。それに就いて――今朝も「おぞうに」を食べる時、モチがブツブツで、装(ヨソ)うと一つのおモチが、五つにも六つにも分離している。纒まつていない。何故かと言うと、明主様が良く舂いたのはお嫌いだから、成る丈ザクザクした方が良いと言うので、舂かな過ぎちやつた。だから私は言つたんです。このおモチは明日からお茶漬けに食べると言つた。みんな分離して了うんですからね。お茶漬けに丁度良いんですよ。之も極端なんですよ。私は、あんまり良く舂かないのを好きですからね。そうするのを、あんまり極端にやつちやつた。それから、明主様は歯がお悪いから、薄い方が良いと言うので、こんなに薄くしちやつた。だから余計ザクザクです。お前達もそうかと言つたら、いいえ違います。見た処――自分達は、こんなに厚いのを食べている。舂き直しましようか、と言うから、元日早々舂く奴が――と言つた。明日から、お前達の食べるモチを食べさせて呉れと言つた。つまり、之が極端なんです。で、之がやはり伊都能売でないんですね。

だから、凡ての問題について、やはり経緯結ぶ――丁度真中ですね。それに行かなければならないですね。処が世の中の事を見ると、何うしても結びの処にいかないんです。この間も、ラジオの政治問題ですね。自由党、民主党、社会党のね。その幹部の人が、みんな、自分の党に就いての披露や何か喋りましたが、之を良く見ると、やはりどつちかなんです。丁度良い処になつてないですね。大体、資本主義とか社会主義とか言う事が、違うんですからね。資本主義でもいけなければ、社会主義でもいけない。又どつちもなくてはいけない。そこの――何でもない様な事で、一寸難かしいんですが、難かしいと言う事は、今迄偏つた事の癖がついてますからね――人間は、そこで、両方混ぜると言う事が、非常に難かしく考えるんです。実は易しいんです。ですから、私は何時でも、お菜を食べる時に、甘いか辛いか――どつちか多いんです。そこで、何時も教えるんですがね。甘からず辛からず――中位の味が良いんだ。中々難かしいですねと言う。いや難かしくないんだ。私などから言えば、非常に易しいんだ。

良く言うですね。どうも、実に陽気が悪い。何故と言つて、寒い様な暖かい様な――どつちにして良いか解らない、と。然しそれが一番良いんじやないか。つまり、そう言う――今迄の人間の思想ですね。或いは習慣とか、凡てそう言うものに、皆んな慣れないから、どつちかに偏つちやうんですね。ですから、信仰も片つ方は馬鹿に窮窟な、真直な信仰ですね。大変良い様ですけれども、そうかと言つて、片つ方は馬鹿に融通がきいて楽そうで、どうも――あれで信仰は良いものかしら、あれで信者かしらなんて言う人がありますから、やつぱり両方偏るんです。そこの旨い調和ですね。そう言う風な一つの修業ですね。今迄の修業と言うのは、恐ろしく骨の折れる、苦しいのが修業と思つているが、之はそうでない。却つて楽になる修業ですね。やり良くなる修業ですね。そう言う事は、一番肝腎な事として、その修業をやられたいと思うんですね。

それから、凡ての信仰的の考え方ですけれども、やつぱり今と同じ様に、自分も良し人も良し、人も良し自分も良し、と言うのでなければいけないですね。よく、戦争時分なんかも、滅私奉公なんて言いましたが、あれはいけない。極端ですね。滅私と言うのは、自分を滅すと言うんだからね。自分が無くなつちや、奉公なんか出来ない。然しあれは、私を滅すると言う――私利私欲を無くすると言うんでしようが、之もやはり極端です。だから、伊都能売式に言えば、人も良し自分も良し――之でなければ続くものではない。自分丈は犠牲になつて人は良い、と言う事はいけないし、人を押しつぶしても自分が良く、と言う事もいけないですね。両方が良くなければならない。そんな旨い事が出来るかと言うが、出来るんです。むしろ、自分が良ければ人も良い、と言うのが出来安いんです。今迄は知らなかつたんですね。大本教のお筆先にこう言う事があつた「人良かれの信心でないと、神の気持にかなわぬぞ」人良かれ――之は旨い言葉ですね。それから「今の世は、自分さえ良ければ人は何うでも良いと言うむごい心になり居るから――」とある。ですから、大本教では「我良し信心」と言うのがありますね。之は勿論いけないですね。私の信仰雑話にある通り、自分が幸福になりたければ、人を幸福にする。何処迄も愛ですね。他人を幸福にすると言う――之が欠けていてはいけない。之が伊都能売になる。自分を捨てて人許り良くすると言うのも極端で、自分さえ良ければ人をぶつつぶしても良いと言う――之も極端です。

それから――今日はお説教じみた事が多いですけれど、邪神ですね――邪神が中々活躍しているんですよ。この間も言つた通り、邪神と言うものは、信者を一番目掛けている。処が信者は、自分は神様の御守護があるから――邪神は信者でない者に憑いて、そうして邪魔すると――こう言う風に思い勝ちなんです。そう言う事はあるにはありますが、処がそう言う邪神は、極く力の弱い邪神なんです。邪神の方のへつぽこですね。処が邪神の方で、力――腕のある奴は、信者に憑るんです。之が怖いんです。それで――憑つても、決して悪い意味じやない。信者ですから、間違つた事や悪い事を考える事はしない。「之が良い。こうするのがお道の為になる」と思わせると言う――之が怖いんです。そうすると、之が教団の為になると、その人が思つてやるが、それが知らず識らず、教団のお邪魔になつたり、不利益になつたりする事が良くある。ですから、邪神を気をつけるのは自分ですよ。自分のやり方は、邪神にやられているんじやないかと、審神(サニワ)するんですね。そいつは大いに必要です。

ですから、そう言う場合に、よく――こうした方が良いか、ああした方が良いかと迷う時があるが、そう言う時は大乗で見ていくんですね。教団全体から見て何うかと、処がどうも――人間と言うものは、自分達の会なら会を盛大にしようと言うんですがね。それは大いに結構ですがね。その位の自信を――優越心がなくてはいけないですが、その為に他の教会なら教会に影響させて、自分が良くなろうと言う――この点がいけない。ですから、自分の会も良くし――他の会も良くなると言う様な意味から言えば結構ですが、そう言う時に、一寸自分を審神(サニワ)するんですね。自己批判ですね。難かしい事はない。直き解る。そう言う時を狙つて邪神がよくやりますからね。だから、その点を改心するんですね。』(昭和二十七年一月一日)

御 教 え 集 第六号
『それから昨日話したんですが――昨日と今日との話は大分違うんですが、一つ丈の事を話して置きます。何時も言う通り、大乗と小乗ですね。大乗にあらず小乗にあらず、経と緯ですね。その真中が伊都能売です。それで、もう伊都能売にならなければならないんです。つまり、結ばなければならないんですね。処が、どうも極端になり易いんですよ。人間は――何しろ今迄の人間は、私が何時も書く通り緯と経ですからね。東洋文明の経と、西洋文明の緯が基本になつてますから、人間が皆んな経か緯か、どつちかになつている。

この間も、政治家の偉い人のラジオ座談会がありましたが、やつぱり右か左になつている。あれは、左が経で右が緯ですからね。丁度真中が伊都能売になるんですからね。そこで、経緯を結ぶ――それはメシヤ教がやるんですからね。ですから、その信者が、経と緯をやる人でなければならないんですから――経と緯を結ぶと言う事は、大いにそれに中心を置かなければならないですね。ですから、今年は経緯を結ぶと言う頭でやらなければならない。之は解り切つた話で、つまり極端に行つちやいけないんですね。

処が今迄の宗教は経の方が多かつたですね。何しろ、美術館なんか造つた宗教はないですからね。あれは経だからね。又経(キヨウ)と言う字が経(タテ)ですからね。それで、今迄そう言う風になつていたからしようがないんで、そう言つた様な――経緯を極端に走らないで、丁度良い――中位ですね。中位と言うのがあるんです。やつぱり気候と同じ事ですね。熱からず寒からずと言う――それが本当です。丁度お彼岸がそうなつてます。彼岸と言つて、彼方の岸ですね。仏教で言うと、極楽浄土なんですよ。あれは良く現わしている。熱からず寒からず――そう言つた様に、凡てをやつていく。そうして、どつちを主にする、と言うと大乗を主にしなければならないですね。何しろ――小乗が大乗の中にあるんですからね。小乗の中に大乗はないんですからね。ですから、大乗が主になつている。経緯――十は、長さは緯の方が長いのが本当ですがね。即ち、緯が大乗で経が小乗ですから、緯が経よりも少し長いのです。緯の働きが経よりも大きいのです。然し、それじや恰好が悪いから十の字にして、経緯同じにして置きます。

月と言う字が大乗です。日は小乗になる。月の中に日があるんです。月の下をチヨン切ると日でしよう。日の中に月は入つてない。やつぱり、字の意味にも、そう含まれている。それから明の字も月が大きくて、日は入つてますね。その代り、先に行く程拡がつている。働きは月の方が上なんです。そう言つた様な意味で、凡てを企図していくと間違ないんで、ちやんと神様の思召しに適つていくんですね。そう言う風に、どつちにも偏らないで行くと、どんどん発展していくんです。よく、私は自動車の運転に例えますが、右に行つても左に行つてもぶつかるから、真直行くんです。だから、信仰の方も、この様にやつていくと、ドンドン発展していく。話はその位にして置いて、春らしい寸鉄を――』(昭和二十七年一月二日)

御 垂 示 録 (第二十一号)
『何でも神様にお任せすればよいという事も真理なのですが、やはり人間はできるだけ努力しなければなりません。神様にお任せきりで努力も何もしなかったら、これもやっぱりいけません。だからそこで大局において神様にお任せし、方針はどこまでも努力し一生懸命にやるという事も必要なのです。とに角そこの使い分けです。そこで経と緯の両方、大乗と小乗を使い分けるわけです。大乗がよいからと言っても、小乗がなくてはならないが、ただ小乗の方が主になってはいけないので、大乗の方が主になって、小乗の方が従にならなければなりません。その使い分けに難かしい所があり、言うに言われない面白味があります。

何時も言うが、今でも時々暑いと思うと寒い、寒いと思うと暑いので、一日のうちに二、三度着替える事がありますが、私はそれが一番よい陽気だと言うのです。どっちかに決めたら悪い陽気だというのです。そういうようなもので、人間というものは、何でも不平に持って来るのです。それでは何事も満足するとよいかというと、満足したら進歩がなくなります。そこで不平も必要になります。要するに満足と不平が、これは相反するものだから調和はしませんが、しかしうまく塩梅(アンバイ)し、使い分けて進んで行くのが本当です。自動車の運転と同じようなもので、ちょっとでも一方が勝てば、その方に行ってしまいます。不満の事も起こるのだから、不満の事もよいです。それから又一方満足もあるから、それもよいのです。

それから病気で苦しんでいる時に、命が危ぶない、このままではどうしても死ぬよりないという時に、これは幾ら金がかかっても、財産を全部捨ててもよいから助かりたいと思うでしょう。そうしているうちに、なおって、だんだんよくなって来て命の心配がなくなると、今度は慾が力をつけて来て、どうしても金をこうしなければいけない、ああしなければいけないという慾が出て来るのです。そうしているうちに何時の間にか、助かりさえすればよいという時の事を忘れて、慾を出すという事は、誰でもある事で、私なども経験があります。それは最初の病気の時に考えた事も本当なのです。それからそういった慾が出るのもやむを得ないのです。ただそこのところをうまく程のよいという事です。人によると、助かってしまってから今度はばかによくなったと、最初思っている半分も三分の一も御礼をしないという事もあるので、そこでこの間再浄化という事を話したり書いたりしたのです。

そこで結局「程」です。一方に片寄るから、そこに問題が起こったり無理があったりするのです。そこで「程々」という事が伊都能売になるのです。私は以前読んだ事があるが、山岡鉄舟の書で、大きく「程」と書いて、小さく「人間万事この一字にあり」と書いてありましたが、私は実によい言葉だと思いました。実に簡単に言い現わしてあります。「程」という字は大したものです。伊都能売という事の働きは、一字で言えば「程」という字でしょう。それで「程」という事は、やはり春秋の気候と同じで、暑さ寒さの「程」です。「程」というのはどっちにも片寄らない、丁度よい所に収めるというそれをよく現わしてあります。あの人は程がよいと言うと、その人は非常に好ましいという事になります。ところがその程がよいという人は寔に少ないので、大抵はどっちかに片寄ってます。だからそれで失敗したりうまく行かなかったりするのです。今日は珍らしくお説教になりましたが、よく世間でのいろんな信仰や道徳といったものでは、こういう話が多いのです。しかし救世教ではこういう話をあんまりやりませんが、やっぱりこういう話もしないと片寄るでしょうから、そういう意味において偶にはよいと思って話をしました。では質問をどうぞ。』
(昭和二十八年六月一日)