あたりまえという言葉

人間は想念次第
『感謝が感謝を生み、不平が不平をよぶとは正に真理だ。何となれば感謝の心は神に通じ不平の心は悪魔に通ずるからだ。此理によって常に感謝をしている人は自然幸福者となり常に不平不満や愚痴を言う人は不幸者になるのは事実だ。大本教のお筆先に曰く「喜べは喜び事が来るぞよ」とは正に至言である。』(光新聞二十五号 昭和二十四年九月三日)

よく感謝しなさい感謝しなさいと言いますけども、あんまり現代人にとって感謝するってピンとこないと思うんですよ。感謝っていうのは、いろんなことに対して『ありがたい』と思うことなんです。で、『ありがたい』っていうのは『有難い』、動詞の『有る』に形容詞の『難い』が付いた複合語で、原義は『存在することが難しい』『滅多にない』ってところからきてるんです。そこから転じて、『滅多にないぐらい優れている、立派である』、さらに『行為などが滅多にないことでこの上なく尊い、喜ばしい』という感謝の気持ちを表すようになりました。

要するに『ありがとう』という言葉です。この『ありがとう』という言葉が最強の幸運をよぶ言葉なのですよ。『ありがとう』と言いましょうという開運本が山のようにあります。『ありがとう』という言葉がサッと出てくるように訓練すると、ものすごくいい心理的な効果が出てくるのです。物事をポジティブに捉える習慣が付くので、何か行動を起こすときに後ろ髪を引かれるようなことが少なくなるんですよ。引っ込み思案が無くなっていくのです。すると自然と行動量が上がるんです。運は運ぶという字で、行動量が上がると運勢も上がるので、成功しやすいんですよ。『ありがとう』開運法のザックリとした解説はこのようなものです。

で実は、ものすごい盲点がございまして、それが『ありがとう』の対義語って何ですかっていると『あたりまえ』という言葉なのですよ。『あたりまえ』が『ありがとう』の対局側にある言葉です。じつは『ありがとう』が最強の幸運をよぶ言葉なのに対して、『あたりまえ』は最凶の呪いの言葉なのです。本当にこの言葉の心理が理解できると恐ろしいことが分かってきます。『あたりまえ』という言葉、『あたりまえ』という心理が、せっかくの幸多き人生を台無しにして滅茶苦茶にするのです。実はですね、世の中において『あたりまえ』の事なんてないのですよ。この世の中というのはものすごく多くの人が関わって支えられて出来上がっているんです。汗と努力と涙の結晶なのですよ。仮にもしそれが分からないとしたら、それは純粋に世間知らずということです。

それで、本来なら『ありがたい』と感じるべきなものに対して『あたりまえ』と思うことは、それらのことを軽んじるということです。価値を認めないということです。ハナクソのように思うということです。天の神様はこの世界を人間が喜ぶように造ってくださっているのです。それで人間がそれを『ありがたい』と思えば、天の神様は『あーこれは、この子達にとって必要なのね』と思われるし、『あたりまえ』と思えば神様は『あーこれは、あんまり人間を喜ばせるものでは無くなったのね』と思われるのです。なので、人間が『あたりまえ』と思ったものは、ことごとく無くなります。それが人間にとって本当はどれほど尊く貴重なものであっても無くなってしまうのです。それは人間が大事にしなくなったからです。『あたりまえ』と思ったからです。あって当然と思ったからです。繰り返しますが、世の中に『あたりまえ』のモノなんて無いのですよ。

目の前のテーブルに視線を移したとします。すると、鉛筆があったりノートがあったり、オレンジジュースの注がれたグラスが目に映ったりしますよね。で、仮にこれらのモノを全部一人で用意するとしたら、どれだけ大変かということですよ。例えば、オレンジジュースをこしらえようとします。産地として多いのがカリフォルニアですけど、それはちょっと遠いので、日本で栽培できる広島、和歌山、静岡のいずれかに足を延ばさなければいけません。静岡への往復代金、現地で栽培する日数分の居住費、栽培に関する費用、これらを負担してやっとこさオレンジを収穫して自宅に戻ってきて絞ってジュースにできるわけです。4~5本の1リットルのオレンジジュースをつくれたとします。するとそこに近所の子供がやってきて『おいしそうだね、いくらかで分けてちょうだい』とおねだりしてきたとします。そこで、あなたは悩むわけです。『うーん、これだけのオレンジジュースを用意するのに実費として300万かかってしまった。絞ったばかりのオレンジジュースだ。市場価格で瓶詰で3000円してもいいぐらいだ。でも相手は子供だしな。大特価で1000円にしてあげよう。』と伝えたとします。そしたらその子供がこう答えるわけです。『は!?スーパーのオレンジジュースが280円なのに、1000円ってボッタクリ過ぎだろ!!バカじゃね!!』とね。アナタがそれを言われて、この世間知らずのクソガキの脳天にコブシを振り降ろさなかったならば、アナタは大した人格者です。

人間が世の中のモノに対して『あたりまえ』と思うのはこれと同じです。その裏側にある人の苦労が見えてないのです。他人の苦労を我が事のように思えない感受性の無さ、それと世間の対する知識の圧倒的な無さ、『あたりまえ』の言葉の裏側にはこういうことが潜んでいるのです。だから世の中に『あたりまえ』のモノなんて無いのですよ。郵便配達のおっちゃんもスーパーのレジのおばちゃんも、みんな『ありがたい』存在なんです。スーパーのパートなんてみんな扶養の範囲内で働いてて、でも仕事が終わらなくてついつい時間オーバーしちゃうのですよ。そしたら何をやってるのかというと、本当は働いてるのに扶養の範囲内に収まるようにパソコン上の時間を削るのです。無料働きですよ。世のホワイトカラーもサービス残業ばっかりです。雇う側の多くが、労働者のサービスを『あたりまえ』と思っているのが問題なのです。甘えているのです。労働者が離れるのは当然です。企業として潰れるのは当然です。『あたりまえ』と思ったからです。『ありがとう』という感謝の気持ちがあったら、こんなヒドイ世の中の訳ないでしょう。

日本では氷河期世代という苦労した世代があるのです。1970年代後半~1980年代生まれの人達です。この人たちは、いい正規雇用に恵まれなかった人たちで、職、家庭、老後とあらゆるものを手放さなければならなかった世代なのです。もちろん全員が全員そうではないですがね。この人たちの特徴として生まれた時から、食べ物とモノが溢れかえっていたのです。日本社会がこれからバブルを迎えるという時期で、正規雇用は『あたりまえ』、結婚して家庭を持つことは『あたりまえ』だったのです。日本中が浮かれて『あたりまえ』病にかかっていたのです。氷河期世代はヒドイ目にあった気の毒な世代ですが、生まれてから一貫して『あたりまえ』という意識が強かったのです。氷河期世代の集合意識なるものがあらゆるモノに対して『あたりまえ』と思ったのです。生まれてから何でもあったので、子供の頃から世の中をナメ腐ってしまったのです。それで多くのモノを手放さざるを得なかったのです。必然な部分があったのです。一方、今だけ金だけ自分だけでバブルを踊りまくった団塊世代は割合この『あたりまえ』の精神はなかったのです。どうしてかというと、団塊世代の子供時代は割合何もなかったんです。だって戦後すぐですからね。それで、日本の景気が上向いてきて、モノにも食べ物にもカネにも困らなくなって『ありがたい』とは思っても、子供時代極貧だったせいで『あたりまえ』とは思わなかったのです。

米の価格が倍程になって、世間では大変だ大変だ、私たちの主食が無くなってしまうと大騒ぎしたのです。私たちの『あたりまえ』の日常を返せといろんなメディアでも大騒ぎだったんですよ。でもね、『あたりまえ』の日常なんてないんですよ。みんなが『あたりまえ』と思った日常っていうのは、田舎のおじいちゃんやおばあちゃんが自己資金を持ち出ししながら御米をタダ働きしてつくってるような日常のことですよ。よく日本の農業は効率が悪い。もっと企業が入っていって大規模な農地で効率的に生産しないといけないっていうんです。それで、その企業っていうのは日本の企業だけでなく外資の企業も入れるって話もあるんですよ。でも、よく考えてくださいよ。まず日本の農地って色んなところに点在してて、アメリカみたいに大規模化できないんですよ。それで、効率化効率化って言うけど、今の日本の農業って40年も50年もやってきた歴戦の戦士みたいな老人たちが実質タダ働きみたいな感じで支えてくれてるんですよ。それを株主の利益最優先の企業群が入っていって、日本の食糧事情が本当によくなると思いますか??仮にその企業群に政府が補助金を入れて儲かるようにして、食料の値段が据え置きか下がるとしても、待ってるのは増税ですよ。大規模な増税です。

その辺のことをツッ込むと政府が悪いんだ―!となるんですよ。いやいや、民主主義で選んだ自民党ですよ。この問題の背景にある減反政策の話なんて、当時のニュースから新聞からいっぱい取り上げたんですよ。そのときの私たちっていうのは問題に気づかずに、フーン鼻ホジだったのです。フランスだったら暴動が起こってもおかしくないのです。日本の場合は、完全に他人事で農家大変だな~で終わったのです。それで、今回の問題が起こったときでも『そうか、農家はずっと大変だったんだな。じゃあ、ちょっとでも農家が楽になるように、農家に連絡して直接お米を買わせて頂こうじゃないか。または、農家が儲かるような仕組みを社会で本気で考えていこうじゃないか。』という発想にはならないんですよ。私たちの『あたりまえ』の日常を返せ、私たちの『あたりまえ』の日常を返せという発想なのです。それで、次の年には家畜の餌になるような相場価格90円台の古古古米を持ち出してきて2000円で流通させて、米の価格を抑え込んでどうだ参ったか!というやり方なのです。

それで、今回の米騒動で値段を釣り上げたのは、減反政策を推進してきた政府と農家と消費者の間に入った流通業者なのです。米農家たちは全く値段の上昇の恩恵を受けてないのです。米の価格を無理やり下げて『あたりまえ』の日常が返ってくるということは、農家の皆さんこれまで通り地獄の日々をよろしくお願いしますということです。結論として、今までの日本の米っていうのは確実に近い将来なくなっていきますよ。まってるのは、不味い輸入米か、とんでもなく高騰する日本の米かです。問題の本質は、まーったく解決されていません。私は今回の騒動一つをとっても、破棄物のような食べ物食べながら、今だけ金だけ自分だけのバカ踊りを続ける日本人の将来しか見えないのです。救世教の人達が、自然農法やっててよかったーの時代がきます。

だから、この『あたりまえ』というのは恐ろしいので、本当に止めたほうがいいのです。最凶の呪いの言葉と言いましたが、言い過ぎではないです。『あたりまえ』の意識が染みついた子供は必ず将来苦労します。世の中に『あたりまえ』のモノなんてないということを思い知らされる人生になるからです。子供には話してこういうことを聞かせるのもいいですし、お手伝いを頼むのもいいです。それで、お駄賃に10円をあげて子供が少ないと不服そうにしたら『そうか、でも私はいつもタダでやっているんだけどね。ウソウソ、ちゃんと100円あげるよ。』とちょっとずつ意識付けさせてあげることです。ちなみに、お駄賃の値段は例えですよ。日本人の不幸の根底にはこの『あたりまえ』病があるのです。もちろん薬毒による思想悪化が根本ですよ。でも『あたりまえ』がヤバいというのが結構盲点なのですよ。気づきにくいんです。何事にも感謝するということは、まず世の中に『あたりまえ』のものなんて無いということを知ることです。