岡田先生療病術講義録

岡田先生療病術講義録 上巻 (一)

序言

本講義は、
岡田先生が、拾数年間-数千人に及ぶ-凡ゆる病者に接せられし、其治療上の実験と研究とを基礎として、終に「空前の霊療術」なるものを創成さるゝに到った-それの成果であります。
此療病術たるや、凡ゆる病者に対して其「病原の適確なる発見」と、その「治病能力の卓越せる事」は、真に驚歎に価するのであります。されば、その御苦心の結晶ともいふべきものを僅々十二回の講座によって習得し得らるゝのですから、至幸此上もないのであります。
本講座に説述されたる処のものは-
現代医学の所説と相反する点多々あるのでありますから、之を今日一般に対し主張する事は困難であります。何となれば-
現在としては、「西洋医学を基本」として、保健機構が成立されてゐるからであります。故に治療士としても本所説を以て臨む時は、「医療妨害」の掛念を生ずる訳なれば、本所説は一つの参考として認識されたいのであります。
従而、治療士としては どこ迄も「医療の補助行為」に甘んじ、医療の妨害にならざるやう、細心の注意を払ひ、現行法規に抵触せざるやう戒意する事が、肝要であります。
本講座は、昭和拾一年七月中、十二回に亘っての御講義でありますが、便宜上-「上中下三巻」として編輯したのであります。
本筆録は、治療士用として、其目的の為に編纂されたものであります。(岡田先生療病術講義録 昭和十一年七月)

(一)日本式医術

本療法は「指圧療法」といふ事になってゐますが、別な言葉でいへば「霊医術」又は「日本式治療法」又は「浄血療法」とも言へるのであります。
何故そういふ医術が生れたか-といふ事からお話致します。其前先づ、今日の重なる医術療法を一瞥してみませう。
医術としては、今日迄世に行はれた処のものは、漢方医学が最初で、次に「西洋医学」が渡来し、現在に到ったのは、何人も知る処であります。
抑々、森羅万象一切のものは「日月地」が根本であって、即ち「火水土」の性能を享けており、一物たりとも之に外れてゐるものはないのであります。従而、医術と雖も、此三つの系体がチャンと当嵌ってゐるのであります。
之を記(カ)いてみますと-
漢方 土の医術
西洋 月の医術
日本 日の医術
-斯ういふ理であります。
然るに、本療法は、右の三項目中「日本医術」即ち「日の医術」に相応するのであります。
それで、今日迄は「月」と「土」の二つの医術のみでありましたが、愈々「日」の医術が創始される時となったのであります。
漢医法は-「土の医術」で、「胃を基本」としますから、「土から生れた-草根木皮」を薬とし、「食養生」との二つで治さうとするのであります。
即ち「土」は「物質の生産者」であり、「胃」は「物質専門の機関」で、実によく、相応してゐるのであります。
西洋医学は- 「月の医術」で、即ち「夜」に相応し、「肺を基本」にしたものでありますから、「肺疾患」に、最も、関心を有ってをり、それが為に「空気」に重点を置いてゐる事は、御承知の通りであります。
そこで、今度生れる- 日本医術-即ち本療法は-「日の医術」で「昼」に相応し、今迄の医術で閑却され勝ちであった“心臓を基本”として成った医術で、「霊気」を主としたものであります。
此事を先生は「内臓の三位一体」と申されております。
分界的にいふと、左の様になります。
胃 土 現実界+
肺 月 空気界+三界
心 日 精霊界+
仏説にある三界とは此事を指したのであります。
又本質的にいへば、左の如くであります。
胃物質である現象は土の性
肺水精である空気は冷の性
心火精である精霊は熱の性
「日 月 土」を、人間の精神的性能に当はめてみれば、一番よく解るのであります。それは太陽が一番上になり、その次が月であります。

上中下
+---++---++---+
| 日 || 月 || 地 |
+---++---++---+
恰度「経の三段」になってゐるのであります。それですから、どうしても、「月の西洋」「土の漢方」の医術の上に「日の医術」が加はらなければならない道理であります。
之によって初めて「完全な医術が出来て病無き世界が実現される」と思ふのであります。
次に、今一層徹底してみますと-
鈍重 土
理智 月
情熱 日-となるのであります。
土の医術(漢方)は-、独善的で、経験を主とし、余り研究や理論に重きを置かず、専ら伝法固守であります。
月の医術(西洋)は-理性本位で、学理が基調となって、科学的研究は、非常に発達してゐるが、実際的方面は第二義的であります。
日の医術(日本)は-心精的で、精神力を主とし、根源抜除的で、飽迄霊的であります。

空気の構成は、酸素、水素、窒素となっておりますが、実は「水素」が主体であります。
土 物 窒素+
月 気 水素+此三位一体が「三素」即ち、酸素であ
日 霊 火素(酸素)+ります。
そうして特に、日は「三素活動の主体」であって「三位一体」のその「一体」-であります。
然しながら、今日迄は、大体「土」「水」-此二素が判ってゐたばかりで火素即ち霊素は判ってゐなかったのであります。

右の事を、別の方面である-歴史的に思索してみますと-
今日迄、日本が世界から認められてゐなかった。「日の本」が隠れておった-のと同じ理であります。
今や日本文化が独特の内容と形態をもって世界の表面に出やうとしてゐる。事実それは其時が愈よ来たのであります。
そうして、それが日に月に濃厚の度を増してゆく。勿論それは、凡ゆる種類に渉ってでありますから、医術と雖も、日本的な素晴しいものが生れなければならないと思ひます。
そうして、それは根本として、「精神が主で、物質が従である処の、霊医術否、両々合致したる理想的治病法」でなくてはならないと思ふのであります。
世に“神仏の力”といふものが実在するとすれば調和力(平均のとれた力)で、森羅万象が、一厘の毫差なく運行し、万物の生成化育が、順調に進展する-といふやうな力のそれでありませう。
然るに、未だ人類社会は、諸々に調和を欠いてゐる。世が乱れ、病者が充満するといふのは、それを如実に物語ってゐる-と思ふのであります。そして乱れの末は破壊となり、病気が進めば不幸を招来するのであります。どうしても其根元に「調和力即ち和の力」が足らないからだと思ひます。そうして世界中、日本位調和力を保有してゐる国は無いので、それは東西の凡ゆる文化を吸収して、そこに何等不消化的錯誤のないにみて明かであります。
土 黒色人+
月 白色人+であります。
日 黄色人+
然し-日の人種の中にも「黄金色、青金色、黄色」と-「上」「中」「下」がありまして、黄金色が日本人で、次で、朝鮮人、支那人といふ順序であります。
階級的に之をみますと-
黒色人 下+
白色人 中+であります。
黄色人 上+
鉱物的にみますと-
太陽日金色+
太陰月銀色+であります。
+銅色+|
大地土|++
+鉄色+
そこで「日、月、地」-は、どうして「上、中、下」であるか-といふ事の説明は、何より「日蝕の現象」を-

+---+ +---+ +---+
| 現 | | 精 | | 空 |
| 象 | | 霊 | | 気 |
| 界 | | 界 | | 界 |
+---+ +---+ +---+
此様に「緯の三段」になって、之が密着不離の関係であるんであります。ツマリ「経緯の三段」-六合が実体であって、哲学的にいへば六次元であります。
茲に、人間の肉体があるとすると-

+-----------------+
| |
|図|水霊(空気界)
| |
| |
| |
人間主体| 図 |三位一体 精霊(精霊界) | |
| |
|図|肉体(現実界)
| |
+-----------------+
骨、筋、肉、皮等の物質体は-「現象界」に呼吸し
それと同一の形態である-水素質のヱーテル体が、「空気界」に呼吸し、
又、それと同じ精霊体が、-「精霊界」に呼吸してゐるのであります。
故に、右の理によって「病気の根本」は其精霊体にあるのであるから、「精霊体そのものの病」を治さなければ、肉体の病気は絶対に治らないのであります。
然るに、今日迄の精霊界は「月素」が多分で「日の霊気」即ち「火素」が欠乏してゐた。言葉を換へれば、光と熱が少く、夜に相応してゐた。それが為に「病気の発生」が多かったのであります。何となれば、その病気発生の根源は有形無形の罪穢の堆積-であるからであります。
そうして、その罪穢とは、人間が悪に染まるからで、それが一種の曇となって、人間の精霊体に積るのであります。
そうして、夜の暗さは、どうしても、悪の発生に、都合がよいのは、申す迄もありません。
然るに、此病気の本源である、曇、それを人体の自然浄化作用、払拭しようとする、その苦痛が病気であり、
その曇が多量過ぎて、肉体が浄化作用に堪えられぬ場合、若しくは、誤れる治療によって浄化作用が遅延し其為の衰弱の結果が、死を免れない事になるのであります。 人間の精霊は精霊界に属してゐるのは前述の通りでありますが、精霊の中心に心があり、心の中心に魂があるのであり、殆んど之は、求心的に三段になってゐるのであります。従而、其中心に位する魂は健康に重大な関係があるのであります。然乍ら、人間は肉体を有ってゐる以上霊気ばかりといふ訳にもゆかないので、火の霊と水の霊と物質との-三位一体が完全に調和活動して、真の健康と長寿を得らるゝのであります。(岡田先生療病術講義録 昭和十一年七月)

(二)人間の造主

茲で「造主」としての人間に就てお話致しますが-
抑々、人間なるものは、誰が造ったのでありませうか-
宗教的に言へば「造物主」とか「神様」とかいふ事になっておりますが、それは余りに古い事で、想像の範囲を超えております。
故に、そうであるとしても、一人残らずそれを信ぜしめる事は到底不可能でありませう。
然るに、何人と雖も絶対に否定し得ない大事実がある。それは誰しも“自分は親から生れた”といふ一事であります。自分は親に造られたといふ事、言ひ換へれば自分の造主は親であるといふ事であります。ツマリ“人間の造主は人間である”といふ事、之こそ一点疑ふ余地のない厳然たる事実である事であります。
人間には、人間を造り出すといふ-不可思議な力があるとすれば-その人間の肉体の破損ともいふべき病気を治す力があるのは、当然であります。人間なるものが機械力で作られた“ロボット”のやうなものである-とすれば、それが破損は勿論機械力で治るのは、之亦当然な訳であります。此事をはっきり認識出来得るに於て初めて「人間の病気を、真に治すのは『人間』でなくてはならない」事が判る筈であります。
人間には“一種の神秘力”がある。その“神秘力”とは「一種の霊光」-であります。その霊光なるものは、誰しも有してゐるのでありますが、人によって、その「霊光放射」に、非常な差異があるのであります。
その霊光放射に差別があるのは、如何なる訳か-といひますと-
その人の魂の曇の程度に因る-のであって、その曇の程度は何によるかといふと、其人の有ってゐる-罪穢の多少によるのであって、その罪穢なるものゝ根源は「悪に属する思想と行為」の結果に因るのであります。例へていへば、君国の為を思ひ、人類の幸福を念じ善徳を施すに於て、其誠は正しき神に通じ、其人の魂は、曇が払拭されるから、常に明朗なのであります。こういふ利他愛の人は、霊光の放射が強いから、治病力が優れてゐるのであります。
それに反し、国家社会より自己の為のみを思ひ、人を苦しめて平然たる如き、自己愛の強い人は、魂に曇が堆積するので、霊光放射が無い訳であります。
元来、病原なるものは、最初に述べた通り精霊の曇であるから、それを払拭するには、病人より清い魂の持主にして初めて目的を達し得らるるのであります。故に、病人と同一程度の曇のある人は如何に治療するも、その効果は、差引無い訳であります。又、病人より曇の多い人が治療すれば、反って、曇を移増するから、病気は悪化するのが事実であります。之によってみても、治療士なるものは「常に操行正しく、社会の模範的人格者」たるべく心掛けねばならぬのであります。
ラヂュウムに就て説明致しますが、ラヂュウムは「病気を治す力」は無く「固める力」であります。人体霊光は「病気を溶解する力」、ツマリ、ラヂュウムと反対の作用であります。(岡田先生療病術講義録 昭和十一年七月)

(三)生命の真相

魂が「生命の根源」であるのは誰も知る処であります。抑々「生命」なるものは何ぞや-といへば「神が人間に命令を下される」それを、「生命」といふのであります。
生といふ字は「主」といふ字の右の肩に「ノ」を書くので「主神」の御事であります。
生+主
+ノ
「生」といふ字は、神様がお座りになって「右の御手で命令される形」で、その命令を奉じて人間が此世へ出て来るんであります。その命令を奉じて活動する。-それが魂であります。
主神の御命令とは-「人間それぞれの天職使命を完全に遂行する」事であります。畏多くも主神の表現であらせられる処の天皇陛下の御命令を奉じて国家社会に尽す事であります。それが人間として、日本人としての天職使命であります。故に「死」とは「御命令の解任」といふ事になるのであります。(岡田先生療病術講義録 昭和十一年七月)

(四)神性と獣性

元来、人間なるものは「神性と獣性」両方面を具備してゐるもので、向上すれば、「神」となり、堕落すれば「獣」となるのであります。
そして、神に祀られる人は、行正しく生ながら神性になった人であります。
例へば、人間の善悪の行為であります。酒を飲みたいとか、女を買ひたいとか、金を儲けたいといふものは皆「獣性の表れ」であります。
之は、常にいふ処の狐狸、蛇、天狗、鳥類等の動物霊で-之が、精霊内にあって、人間の心を専有しよふとしてゐるのであります。
然るに「神から与へられた良心」即ち「魂」の方は、それと反対で「心を良性に導かふ」と、絶えず働きかけてゐるのであります。
それが、本治療を受けるとすると-酒が嫌ひになり、争などは嫌になるんであります。何となれば-
霊光によって、邪霊は畏縮するからであります。それが為、魂-即ち「良心の力」が増して「邪霊」即ち「獣性」を制へる事が出来るやうになりますから、立派な人間になるのであります。
然し、獣性と雖も、人間生活に於て必要があるから、神から与へられてゐるのであります。唯如何なる場合と雖も獣性より神性の方が勝てばいいのであります。(岡田先生療病術講義録 昭和十一年七月)

(五)人体の構成

人体の構成はヤハリ「火、水、土」の三原素から成っております。
地 土……筋、骨、肉、皮-等に相応する
月 水……血液、漿液等(水分は人間の身体の約七割に当るといふ)
日 火……精霊体
血液は、赤血と白血とに成っております。赤血は「日の霊素」から成り、白血は「月の霊素」から成っております。
赤血が速く流れるのが、動脈で、白血が緩かに流れるのが静脈であります。-之は、健康時の状態であります。病気になると-、
「月の霊素」は「膿汁」と化し、「日の霊素」は「毒血」に化するんであります。(岡田先生療病術講義録 昭和十一年七月)

(六)内臓の三位一体

次に、胃と肺と心臓との関係を検討してみますと-
今日迄のあらゆる医術では「月と土」に相応する関係上「胃と肺」に関しては、相当に研究されて来たが『心臓』の事は、あまり徹底されなかったやうであります。
今日迄の解釈でゆくと-肺臓の呼吸運動によって、血液は浄化され、それが心臓に還元する-とされてゐますが、
吾々の解釈によりますと-、
血液の浄化は
「肺と心臓との共同作業」であります。それは、如何なる訳かといひますと、心臓は「火の霊素」を以て「血液中の汚素」を燃焼し、肺は、それの灰ともいふべき残渣を、洗浄する-それによって血液は浄化されるのでありますが、その「火水の浄化」の為に生ずる最後の汚濁-それの堆積も、病原としての、最大要素となるであります。
之を例へていへば、地上の汚濁は、日光で消毒し、雨水で洗ひ浄めるのと同一の意味であります。
茲で、火と水の性質を説明する必要があります。元来「火は水によって燃え、水は火によって動く」のであります。ツマリ、火は、水分があるから燃える時間があるので、全然水分が無かったなら、一瞬に爆発してしもふのであります。又、水は、火の熱が無かったなら、それは氷であって、流動する事は全然不可能でありませう。
水を火で温めるに従って、熱し沸き-動力が起るのであります。又ガソリンも水であり石炭も木炭も水分があるから持続的に燃えて火力を生ずるのであります。又、水力電気の水の圧力も、熱によって流動するからであり、草木の化育繁茂するのも「火と水」とによって“生活力”が起るからであります。
右の理によって「心臓と肺の関係」は火と水であるから-心臓に火力が強ければ、水である肺の活動が旺盛になり、肺に水分が多ければ火である心臓の活動が強盛になるのであります。
心臓は「精霊界」から霊素(太陽熱である火素)を断えず「鼓動」によって吸収してをり、肺臓は「空気界」から、気素(太陰冷である水素)を、断えず「呼吸」によって吸収してをり、胃は「物質界」から「食物」(物質である土素)を供給されております。
吾々は之を“内臓の三位一体”といっております。
心臓が旺んに火素を吸収する事によって、愛の情動が旺盛になるので、その愛情の強盛によって、憎み、嫉み、怨み等の争の根源が無くなるから、茲に平和が生れるのであります。
然るに、今日迄は外来的理性文化の影響によって、火素とは反対の「月の冷素」の方を多く吸収する関係上、どうしても愛の情動が稀薄になり、それが争や戦争、病気等の原因となったと思ふのであります。
又科学は、学理から成ったものであるから、どうしても理性に偏るもので、之等も愛の情動を稀薄ならしめる-有力な原因で、其結果どうしても個人主義に傾き、人類社会は如何にも冷たかったのであります。事実、肺患者は利己愛の強い人が多いのは、此理に由るのであります。近来、外来文化等の影響により、火の霊素即ち日本精神が欠乏する事によって肺の弱い者が多くなったのも当然な訳であります。今日迄は「心臓の働き」が判らなかったといふのは、日本精神が眠ってゐたからであると思ひます。私が多くの肺患者を取扱った実験上、どうも西洋思想つまり科学崇拝者が多いのであります。
彼の反日本精神ともいふべき共産主義者に肺患の多い事実は此消息を如実に物語ってゐると思ふのであります。
右のやうな訳ですから、どうしても火の霊素を多く吸収する事が肝要であります。其結果心臓は活発になるから、肺が健全になり、胃の活動も旺盛になるんであります。故に、健康の根本としては、日本精神の保有者たる事が最も肝腎である事が知られるのであります。
大きくいふならば、世界の心臓に当る国である-日本文化の発展拡充こそ「肺に当る西洋」を目覚めさせる事になり、其結果が「胃に当る非文化国」の幸福と発展を促すといふ事になるのであります。
すべて光といふものは何であるかといふと、それは「火と水の密合したもの」-であります。空気でも「陰電子と陽電子との密合」によって光を発生する-それと同じ訳であります。
日の光と月の光は何故異ふか-といふと、
主水従
火|
日 火 -+- 水(火主水従)


水|
月 水 -+- 火(水主火従)
右の如く、|
日光は火が主で、表面で、水が従で陰即ち裏面に在り、
月光は、水が主で、表面をなし、火が従で陰即ち、裏にあるのであります。
月は、氷結の如き冷塊で、背後から「太陽の光」が映って光り、
太陽は常に燃焼してゐる“火の塊”で、背後に「月の水」が映って光るのであります。
故に、両方反対で、一方は陽、一方は陰、即ち「昼と夜」との区別が生ずるのであります。
面白い事には、火は経に燃え、水は緯に流れる。「経と緯」との性能を有ってゐる。このやうな反対のものが結ばれて「活力」が生ずるのであります。
心臓…火…経- | | +--+
-+-+ 胃…|大地|…|
肺臓…水…緯| | | +--+

火と水とは、放ればなれでは、全然活動がないのであります。「火と水の結合によって、動力を生ずる」-それが「大地即ち胃の土」であるから、前記の如く『土』といふ文字となるんであります。

| |
経-+-+地 これが完成の意味が「成」即ち「也」となり
| |天『地』となるんであります。
成……地
人間の夫婦もその道理で、夫婦結合し、協力し、活動が起り、子を産み、事業を営み、人類社会を無限に進化発展させるのであります。(岡田先生療病術講義録 昭和十一年七月)

岡田先生療病術講義録 上巻 (二)

病気発生の原因

前述の如く、本療法は実に霊医術であり、特に「心臓医学」とも謂ふべきもので、心臓が根本になるんであります。そして前にも、お話致した通り、病気が発生するといふのは霊的原因としては、自己の邪念や不純行為により、魂に曇を生ずるからであります。
茲で、病原に対して、霊的定義を下してみませう。
『病気とは- 人間の悪念及び悪行為に因る罪穢の堆積が精霊を曇らし、それが、血液の溷濁となるので、その汚血を、心臓と肺臓が、燃焼と洗浄作用をする結果、それの残渣が物質化して毒血となり、膿汁となり、それの排除作用が、即ち、病気現象である』
魂は「人間の小雛形」ともいふべきものであるから、魂の方の胸のあたりへ曇が発生すると-心を通じて精霊へ移り、肉体へと映るのであります。
図に記きますと、左の通りであります。

+--------------+
|胃 |
| +----------+ |
| |肺 | |
| | +------+ | |
| | |心臓| | |
|体|霊| +--+ | | |
| | |心|魂 | | | |
|肉|精| +--+ | | |
| | +------+ | |
| +----------+ |
+--------------+
曇が、内部より外部へ表はれるものは-
自己的病原であります。
然るに、他動的に、外部からの原因による事もあるのであります。 例へば、人から、怨まれたり、羨やまれたりすると、それ等の人の悪念が「一種の曇」となって、此方の魂へ来射し、曇らすので、それが病原となる事も多いのであります。
然し、右二つの原因は、いづれも霊的であるが、それ等の外に「体的の病原」もあるのであります。それは-、
大酒を飲むとか、娼婦に接するとか、極端な不摂生をするとかによって病気になるのであって、之は一般世人のよく知ってゐる処であります。
洋漢医学の病原説は、殆んど此体的のみの解釈でありました。
然し、之は再三述べた如く、表はれた半面であって、他の半面-即ち、隠れたる霊的原因こそ、真の病原であるので、此認識のない限り完全な治療法は確立しない事は申す迄もありません。
今一つ有力な病原として“祖先の罪穢”に因るそれを説かなければなりません。 祖先の罪穢とは-、絶えず祖先が霊界に於て「霊の浄化作用」を行はれる結果、その残渣ともいふべき汚濁が「子孫」即ち吾々へ流れて来て、それが病気となるのであります。
吾々個人とは、実に、祖先と子孫との間をつなぐ処の“一連の鎖の-その一個”に過ぎないのであります。
故に「祖先の行為」が吾へ結果し「吾の行為」が子孫へ結果するのは当然であります。
坊さんの持ってゐる数珠は「祖先代々の魂の繋り」を表はしたもので、あれを揉んで、お経を奏げると「祖先各々の罪穢」が、その功徳によって浄化消滅するといふのであります。
大体、病原なるものは、前述の如く数種あるのであります。そうして、それ等曇の排除作用が病気であるから、病気が発生するや-、曇の物質化である処の「水膿毒血」は、極力外部へ外部へと排除されよふとするのであります。
それはちょうど天然現象と同じようなもので、風邪を引いて咳をし、痰を吐く事など、ちょうど大風が吹いて穢を払ふ、大雨が降って汚れを洗い流すのと同じ理であります。
故に、凡ゆる一切の物象は絶えず汚濁され「断えず、浄化作用が行はれてゐる事が原則である」のを知らなくてはならないのであります。
之を別な意味からの定義にすれば、
『病気とは-
健康保持の為の、又は、死を免れしむる為の不断の浄化作用の苦痛である』
このやうに人間は-
『病気によって、健康保持が出来、病気によって死を免れるのである』
と聞いたら、現代人は驚倒するでありませう。然し、今日迄それに気付かなかっただけであって、病気といへば直に不治を連想し、死を予想して恐怖して来た事の、如何に大きな誤りであったかが知られるのであります。(岡田先生療病術講義録 昭和十一年七月)

病気治療の原理

前述の理によって、実験上、病気に罹るやそのまま放置しておけば、十中八九は順調に治るものであります。
それは全く「浄化作用」であるからであります。
唯其際本療法を行へば、浄化作用を促進さす事によって、苦痛は軽減し、自然療法で一週間かゝるものなれば、一日か二日で治る事になるのであります。
今日迄、此理を知らなかった為に、多くは物質によって『苦痛を緩和』される事が病気が治る事と思ったのであります。
病気は、精霊の曇である以上、之を払拭するのが「根本療法」であります。
此理によって、霊的療法なるものは抜本的であるから「再発の憂」は無いのであります。之に引換へ、唯物的療法の進歩は、どこ迄行っても根本には触れ難いから、どうしても枝葉末節に趨り、微に入り細に渉るやうになるのであります。
之を樹木に例へてみると、一層よく判るのであります。
樹木の葉が枯れるのは、葉そのものの疾患ではなく、根本である-『眼に見えない根』に故障があるのであります。
故に、何程葉を研究解剖し、物理療法を施すと雖も、効果を挙げ難いのであります。
然し、此物的研究も勿論必要であって、今日の医学の進歩にみても瞭かであります。それは、内部を探らんが為の一手段の意味である事は、申す迄もありません。(岡田先生療病術講義録 昭和十一年七月)

病原の解釈

「病気の本体」といふと『病気の原因と病気現象一切』をひっくるめていふのですが、それに就て、今日行はれてゐる種々の解釈を述べてみませう。
先づ西洋医学の方では、大体『細胞の衰弱説」であります。
何故、細胞が衰弱するか-といふと-人間の不摂生や環境、遺伝等によるものとなってをり、細胞の衰弱した際病気が侵犯するといふことになっております。
又「細胞衰弱の原因」として、不純な空気、営養不良や運動不足、食事の不規則とか、睡眠不足なども-原因に数へております。
不純血液、つまり「先天性黴毒」も原因に数へられてゐますが、之は、吾々の方でいふ-『水膿』の事である-と思ふのであります。
独逸の何とかいふ学者は-「あらゆる病原は尿酸だ」といっております。つまり「尿毒が身体中へ廻ってゆく。その為に病が起る』といふのですが、之は、一部的には確かにそうであるが、全部の病気がそうだとは思へませんが、実際からいって「尿毒」が原因になる場合は、非常に多いのであります。
之は、どういふ訳かといふと-腎臓の周囲に水膿が溜結する、それが腎臓を圧迫するから、腎臓が尿全部を処分し切れず、其ため『一種の余剰毒素』が血管を通じて身体中へ廻り『各種の病原』となるのであります。
リョウマチス、肩の凝り、喘息、腹膜炎、腰痛等の原因ともなるのであります。 医学の説の中に或種の病原として『大便秘結の為、自家中毒を起す』といふのですが、之は首肯出来ない。
何となれば、実験上、何程秘結しても、害が現はれた事を見ないのである。
以前、私が扱った胃癌の患者で、二十八日間便通が無かったが、何の異常もなく、胃癌は全治して、今日頗る健康で、業務に活動してゐるのであります。
漢方医学の方では、確たる理論構成はなく大体『不摂生の結果、五臓六腑の調和が破れる』又は-『気候不順等の為に“邪気”を受ける』-といふやうであります。

宗教方面では、病気の原因として、
仏教などでは-『四大調和の破綻』又は『祖先の悪因縁』又は『仏罰』など謂ひますが、実際、今日の仏教者は、病気に対しては、甚だ無関心であるのが大部分であるやうです。「仏力では、病気は治らない」-としてゐる。従而「病気に罹れば医療に頼れ」-といふ事になってゐる。「病気や不幸や死」は如何ともなし難いものであるから、それに超越せよ、ただ諦めよ、それが「真の覚り」である、といふやうに説いて、之が「正しい宗教の見方」としてゐるやうであります。
神道の方では、多く『罪穢』といふ事になっております。
「人の道」などでは「病気は神の御示らせ」といひ、人間の行為に間違った事がある時は、病気によって神が示らすのであるから、よく省みてそれを発見し改めれば治る-といふのであります。
「生長の家」などでは「念の作用」-といっております。それは「病気になりはしないか。なりはしないか」-といふ念が一つの病気を作る。それ故に「病気はない」-と思へば、その「念力」で治る-といふのであります。
処が、いくら「病気はない」と思っても治らない-といふ人の話を常に聞かされるのであります。之は、一時的自己錯覚療法であります。
注意しなくてはならぬのは、天理教の所説であります。
同教の説く所によれば「病気の原因は、人間が財物を貯めてゐるからである。本来此世一切の物質は、神の所有であるのに、それを人間が所有してゐる。それが罪であるから、之を悉く神様へ返還すれば治る」-といふのであります。
然し、実際神様へ差上げても治らない場合が、往々あるのですが、相手が神様であるから掛合ふ事も出来ず、結局泣寝入りに終る事をよく聞くのであります。
然しながら、財物を作る事が罪になるなら、今日の資本主義とは逆である。国民の財物を悉く神様へ還したならば、資本の蓄積は零となるから、大きい産業は興し得ない事になり、満洲の開発なども不可能となり、茲に産業は萎靡し、国力は疲弊する事になるので『亡国的教義』であると思ふのであります。
日蓮宗や其他の行者などは「病気は憑霊の業だ」-といひます。それ故「その憑霊」を退散又は得度させよふとして、数珠で殴ったり、種々な物で叩いたり、蹴ったりして、憑物を出そうとする。然し、憑霊は霊ですから、肉体とは関係はないので、どんなに肉体を苦しめても霊は感じないから、肉体こそいい迷惑であります。
そうして慥かに憑物の場合もありますが、そうでない場合もあるのに、何でも彼でも憑霊と因縁に決めてしもうのであります。
よく「祖先の霊」が憑いて病気にする-といふが、祖先ともあらふものが、子孫に憑いて病気にしたり苦しめるのは変である。
子孫を愛すべきであり、守るべき筈であるといふ苦情を聞きますが、無理もない筈であります。然し、之は、絶対ではないので、祖霊の或者が、何かの目的を達しよふとして、憑る場合がありますが、それ等は稀であります。
基督教など、病気に対しては案外無関心であり、中には『神の試練だ』ともいひます。
神の試しならば、病気などで苦しめなくとも外に良い方法がありそうなものだ-といふ人があります。
又聖書には「鬼が憑いてゐるのを、イエスが追出した」-といふ事がありますが、此時代既に「憑霊現象」を認めた事が判ります。
処が、此「憑霊を追出して治す」といふ事は、一時的であります。何故なれば一旦それを追出しても、そのままでは又他へ憑くから、誰かが亦同じ様に病気になる訳であります。
本当の救ひは、悪霊を善霊にするのでなくてはならないのであります。
変ったのになると『脂肪説』といふのがあります。
『病気は全部脂肪の塊である』-といふ、此説は、民間療法の大家の説で、今日も依然として、刊行物等で宣伝しております。此脂肪説は、水膿溜結の事らしいのであります。
私の知る限りに於ての今日迄世の中で行はれてゐる種々の病原説は以上の如くであります。
処が、吾々の方では、再三述べた通り、病気とは「健康保持上、欠くべからざる浄化作用」といふのであります。之は全く“前人未発の説”と思ひます。従而今日迄は“人生病気程恐るべきものはない”-と思っておった処、吾々の方では「病気ほど結構なものはない」ので、之あるが為、健康は保たれてゆく。故に「大抵の病気は、何の手当もせず、自然に放置しておけば治る」-といふ-世に謂ふ“自然療法論”であります。
罹病するや、世人は出来るだけの治療法を行ふが、それが「逆効果」となって浄化を停滞させたり、病気を押込めたりする事になる-それを誰も知らなかったのであります。
然らば、病気は何故浄化作用であるか-それは逐次説明する事に致します。(岡田先生療病術講義録 昭和十一年七月)

病気は浄化作用

先づ人体なるものは、如何なる要素によって成立してゐるものであるか-といふと、人体は物質ばかりではないので「精霊と物質(肉体)との二元素の密着不離の関係」によって生を営んでゐるのであります。
図に表はしてみませう。

今言った通り、霊体と肉体とはピッタリ合致してゐるので、それで、霊体が脱出するのを“死”といふのであります。
一体病気が起るといふ事はどういふ訳かといふと、初め霊体に曇が生じ、それがそのまま肉体に映って、それで病気となる事は既に述べた通りであります。
然し反対に、肉体から霊体へ写るやうに見える事もあります。それは例へば-、 怪我や不摂生の為の病気ですが、之も根本へ遡ればやはり霊体が先であります。
怪我をしたり、鉄砲に当ったりするのは、肉体が先のやうに思はれますが、実は其前に霊体が轢かれたり、鉄砲弾にあたってゐるのであります。
鉄砲を向けた時、未だ弾の出ない内に、弾の霊が、人間の霊体へあたってゐるのであります。ですから、その肉体を外れて打っても必ず命中するんであります。
歴史に有名である那須の与市の話ですが、扇の的を射る時に、那須権現を(矢を一生懸命つがえながら)念ずると、一人の童子が現はれて、矢を持って空中を駈け、扇の的にあてたのが見えた。勿論、霊が見えたのであります。そこで矢を放ったらあたったのであります。
之は一大霊験として、那須権現の祠を新しく造り、一生涯熱心に尊信した-といふ事が那須権現記に出ております。之等も決して不思議ではない。霊界の方で、もう先にそうなるんであります。
処が、斯ういふ事がある。それは-
霊体に鉄砲弾が命中しよふとしても、その「うたれる人」が、曇のない-立派な磨けた人とすると、其人は霊衣が厚いから、その厚い霊衣にはあたらない。-それが霊的法則であります。
戦争に行って鉄砲弾に当るのは、霊衣が薄いからであって、霊衣の厚い人は決して当らないのであります。
龍の口で彼の日蓮上人に刃を向けたが、その刃の折れたのは、上人の霊衣が厚かったからであります。
それで、霊衣の厚いのは何故か-といふとその人の心魂が磨けてゐるからで、厚い程、霊光の度が強いのであります。
そうなるには、偉大なる信念を有し、身魂を磨き、善徳を積む事によって得らるるものでありますから-こういふ人は、病気に罹る事は絶対にないので、勿論天寿を全うするのであります。僧侶等に長命者の多いのは、そういふ人達でありますが、今日はそういふ有徳者は少いやうであります。(岡田先生療病術講義録 昭和十一年七月)

風邪

それで、霊体が始終浄化作用をされるに従って、その曇即ち毒素が、何れかの部分に集注されて体外へ排除されようとする。それでその「毒素の集注個所」は一定しておりませんが大部分は(頸部)へ集るのであります。
何故、頸部附近へ集溜されるか-といふと、それは、人体の重要機関の多くが、頸部以上にある関係上、神経を使用する個所へ膿血は集溜する性質のものであるからであります。
でありますから、此毒素即ち膿結の大部分は、耳下腺、淋巴腺、扁桃腺、肩部等へ集溜します。
そうして水膿なるものは「時の経過」によって「凝結」するものであります。
然るに、人体の自然作用は、これ等水膿溜結を、最簡易巧妙なる手段を以て排除するのであって、それが彼の風邪であります。
実に「風邪」こそは、天の与へた、最簡便なる浄化作用であります。
そうして、如何なる手段方法で浄化するかといふと、先づ凝結した水膿を排除に容易ならしむる為に、発熱といふ溶解法を行ふのであります。
故に、発熱こそ実に“浄化作用の最重要なる前線的役目”であります。
その溶解された物質が、喀痰や鼻汁であり、それが口や鼻孔から排除されるのであります。
ですから、風邪を引いて熱が出る、之ほど結構な事はないのであります。
そういふ結構な浄化力を人間は有ってゐるのであります。
又、風邪によらない場合、扁桃腺へ集溜して排除される事もあります。ですから、扁桃腺といふものは大いに必要なのであります。
水膿が一旦扁桃腺に集溜すると、それを溶かす為に熱が出る。此熱を解熱剤や氷冷等によって冷すから、膿は溶解し損ねて固まってしもうのであります。之が扁桃腺肥大の原因であります。
扁桃腺肥大は切らなければいけないといふのですが、それは解熱法によって作られたものであります。昔は、扁桃腺肥大症などといふ病気は無かったに違ひないのであります。之は明かに、解熱法が出来てからだと思ふのであります。(岡田先生療病術講義録 昭和十一年七月)

肺結核増加の原因

風邪が解熱剤其他の物的療法によって、一旦解熱したように見えても、実は水膿溜結はそのまま残されたのであるから、人間の浄化作用は再び発熱によって溶解しよふとするのであります。且つ其後に幾分加はった膿と相俟って発熱は漸次執拗を増すのでありますが、再び解熱法をするので、斯の如き事を繰返すに従って、容易に解熱しなくなるのは当然で、斯うなった症状の場合、それは肺の初期といはれるのであります。そうして、右の膿結の為に、其後に発生した水膿は頸部附近へ集溜し難くなる。それは水膿なるものは、排除される可能のある個所へは集溜するが、固結して排除不可能になった個所へは集溜しなくなるもので、自然は洵によく出来てゐるのであります。
此理によって水膿は、漸次胸部の辺に停溜する事になるのであります。そうして人間は常に腕を使ふ関係上、どうしても両胸部特に乳部へ神経が集注されるから、其部の肋骨に膿結するのであります。ですから、そういふ人の肋骨を圧すと必ず痛み、又微熱もある。聴診器を宛てると、ラッセルも聞え、レントゲン写真を撮れば雲状態も映るので、実に結核らしく思はれるのですが、事実此時は、肺に異常はないのであります。
女は乳の辺へ溜るので、それが「(シコリ)」となって、乳腺を圧迫する。それが為、そういふ人は子供を産んでも、乳の出が悪いのでありますが、それを解くに従って乳が出て来るのであります。(岡田先生療病術講義録 昭和十一年七月)

毒血と膿

次に、毒血と膿でありますが、之は陰陽の如きものであります。然し、毒血は膿になるが、膿は毒血にはならない。ですから、毒血の浄化されたものが膿で、それは断えずどこかへ溜るので、婦人などは腹部へ溜りやすく、それが自然浄化によって溶解され、白帯下(コシケ)となって出るのであります。
処が、白帯下が出ると、子宮が悪い、内膜が悪いんだと心配しますが、実は白帯下の出る程、結構なのであります。
白帯下になって出ない人は、腹膜炎を起したり、足が重くなったり、利かなくなったりするのであります。
次に、よく喀血や痔で出血する事がありますが、之は決して浄血ではないので、毒血であります。浄血は、病気では排除されないものであります。
そのことを知らない為に、喀血でもすると非常に吃驚するが、之は大変結構な事なのです。ですから喀血する肺病は、十人が十人治ります。
又、喀血性は殆んど発熱がない。稀には微熱のあるものもあるが、滅多にないのであります。
此症は、膿結がないから、発熱の必要がないのであります。
医学の方でも喀血をする肺患は、質が良いといふのは、そういふ訳であります。 喀血性肺病は、普通業務に従事しつゝ自然に任しておっても治るのでありますから、少しの心配も要らないのであります。(岡田先生療病術講義録 昭和十一年七月)

霊と体の法則

霊に体が従ふ事は、万物の法則であります。従而、霊を治す事によって体の病気は治るのであります。たゞ然し、霊の病気が治って、直に体に映る人と、遅く映る人、例へば半日か一日位かゝる人があります。之は曇の多い少いの関係であります。 よく痛い痛いと唸ってゐたのが、眼の前で治る事がよくある。それは、霊体から肉体へ映るのが、頗る速い人であります。
一例として、以前、睾丸へ膿が溜る子供があって、相当治癒して半分位迄小さくなった時ぱったり来なくなってしまった。すると、半ケ月ばかり経つと、私の所へお礼に来て、取混みが出来て伺へなかったが、お蔭ですっかり治ってしまひました。-と言ってゐたのであります。
之は、霊体が治ってから、肉体へ表はれるのに数日かゝった訳であります。
そういふ事は珍らしくないのであります。
霊体から肉体へ移るのに、非常に速い場合と遅い場合とある事は心得ておくべきであります。(岡田先生療病術講義録 昭和十一年七月)

岡田先生療病術講義録 上巻(三)

真の健康法

元来、真の健康法といふものは、霊体を曇らせない様にする事である。霊体を曇らせない様にするには、其根元である魂を曇らせない様にする事であります。
茲に、一個の人間があるとする。此の人が間違った事をする。秘密的な人に知られて悪いやうな事をすると良心が咎める。それ丈でも魂は曇るのであります。
又人を苦しめる様な事をすると気が咎めて自分自身が曇ると共に、苦しめられた人の想念が曇となって来るのであります。其適切な例があります。
某大デパートの専務ですが、代々不思議に病気になったり早死したりする。之は如何いう訳かといふと、デパートの繁栄によって打撃を与へられてゐる多数の小売商人が始終怨んでゐる。多数のその怨みの想念が始終来る為であります。
成金の没落なども同一の理であって、多勢の嫉みの想念の為であります。又若くして名人になったり出世をしたりする芸術家などもよく早死しますが、そういふ訳なんであります。
右は全部といふ訳でもないが、名人でも徳のある人は例外の場合もあります。 今度は反対に人を助けたり人が感謝する様な行をすると、その感謝の念は『光』となってその人に来るので、それによって曇はそれだけ解けるから、其人は常に健康でいつも朗かでをられるのであります。之に依てみても真の健康法とは、正しい想念と善徳を施す以外にはないのであります。
其人の行が俯仰天地に愧じないならば、心魂は常に爽快明朗であります。ですから、病気は或程度自分が作るのであって、それに依って苦しむものなのであります。
祖先の罪穢(ツミケガレ)と雖も自分の行り方によって消えるのであります。(岡田先生療病術講義録 昭和十一年七月)

生と死

抑々、死とは何ぞやと言へば、肉体が病気等の為或程度毀損(キソン)され、又は大出血(全体量の三分の一-約七合)以上の結果、肉体が用をなさなくなるので、霊は肉体に留まる事が出来ず離脱するので、之を指して死といふのであります。一概に病死といっても、それは直接病気そのものの為ではなく、殆んど衰弱に由るのであります。然るに今日は衰弱に由らないで死ぬ場合が非常に多くなって来てゐる。之は如何なる訳であるか、大いに研究の必要があるのであります。唯然し、衰弱以外の死の原因としては心臓及び脳の故障であります。
次に、死は大別して二種あります。それは自然死と不自然死であります。現在としては自然死は寔に稀であって、国勢調査によると八十歳以上の人は七百人に一人の割合であるといふ事で、実に驚くべきであります。
他の動物即ち鳥獣等は自然死が多いに係はらず、ひとり人間のみに斯くも不自然死が多いといふ事は如何なる訳でありませうか。そこに何等かの重大原因がなくてはならないと思ふのであります。
そうして一方文化の進歩は何物をも解決せずには措かないといふ素晴しさに係はらず、ひとり人間の不自然死が如何に多くとも如何する事も出来ないとして諦めてゐる現在の文化は実に情ないと思ふのであります。
そうして今-不自然死を分けてみれば、病気及び変死であります。然し変死は極僅かで、殆んど病死である。然らば何故に病死が多いか、之に就て我歴史を覧ますと- 畏多くも神武大帝以後十二代景行天皇様迄は百歳以上の天寿を全うせられ給ひし天皇様の相当あらせられた事であります。
それ以後は御寿齢がずっと低くなり給ふて居る。之は如何なる訳でありませうか、人文発達の為かとも想はれますが、然し人文発達が、雲井の上までさほど影響する訳がないと拝察するのであります。
茲で、注目すべき事は、其頃から漢方医学の渡来であります。それは如何いふ意味になるかといふと、日本人が薬を服む様になった事であります。
徳川時代の有名な某漢方大家の言葉に『元来薬なるものはない』、『薬といふ物は皆毒である。病気は毒素であるから、毒を以て毒を制するといふ意味で薬を用ひるのである』と言ったそうであるが、之は実に至言であって、吾々と同一意見であります。之によってみれば、漢医方渡来によって薬といふ毒を服む事を覚へ、それが人体を弱らせ日本人の寿齢が短縮されたのではないかと想はれるのであります。
又今一つの例として彼の秦の始皇帝が、東方に蓬莱島があり、そこに住む人間は非常な長寿者という事である、何か神薬でも服んでゐるのではないか、それを査べて来い、と臣の徐福に命じたといふ話は余りに有名であります。按ずるにそれは、其頃の日本には薬といふものが無かったので長寿者が多かったが、支那は勿論、其前から薬があったので長寿者が少なかった故と、吾々は想像するのであります。(岡田先生療病術講義録 昭和十一年七月)

健康の種類

健康の種類とは何であるか、私は仮に三種類に分けてみたのであります。
先づ第一種に属する人は、真の健康者であって滅多に病気には罹らない、偶々罹るとするも、放任してをけば簡単に治って了ふといふ人などであります。それは浄化力が旺盛であるから病原である毒素が、多量に堆積しない内に排除作用が行はれるからであります。
然し、斯ういふ健康体の人は年々減少する様であります。
第二種に属する人は、之は一番多いので普通健康体と謂はれる人であります。即ち風邪を引けば熱が出、喉が痛んで咳が出る。又、時々頭が痛むが直に治る。食物に中(アタ)れば下痢をするといふ様な程度であります。
此種の人は丁度健康体と弱体との中間者であって、摂生法によっては健康体にもなれば弱体にもなるといふ程度であります。
第三種に属する人は、普通病弱者と謂はれるのであって、絶へず薬餌に親しみつゝ衛生に注意はするが、健康体にもならず、といって重症にもならないといふ程度で、斯ういふ人が非常に多くなってゐるのは事実であります。此種の弱体者が近来、青年男女に多くなった事と、又激増しつゝある所謂弱体児童も此第三種である事とは、実に寒心に堪えないのであります。そうして是等の病弱者は一人前の業務を執り得ないで、廃人的生活を送る者が多いのであって、社会国家へ対し一種の負担を与へて居る訳であります。
右の三種の中、最も多数である第二種健康体の人を第一種にしなければならないのでありますが、不幸にしてどうも第三種の方へ落ちてゆく傾向のあるのはどうしたものでありませうか。それに就て吾々の研究を述べてみたいのであります。
第二種健康者が偶々病気に罹った場合、発熱苦痛等を緩和すべき療法をするのですが、此苦痛緩和療法は、実は浄化作用を停止する訳になりますから、一時は快いが、結局は病気が長引き或は悪化する結果になるのであります。それが為、益々苦痛緩和療法を行ふといふ訳で、終に第三種弱体者に陥ちて了ふのでありますが、斯うなったのはなかなか復活出来ないで、現状維持か又は不幸な結果になるのであります。 此理に由って、第一種健康者たらんとするには、どうしても浄化作用を充分徹底させなければならない。それは物質の力を借りないで自分自身の自然力即ち霊的療法で以て治す、それより外にないのであります。(岡田先生療病術講義録 昭和十一年七月)

黴菌に就て

最近、某博士の実験報告によれば、今日迄黴菌は皮膚の毀損とか粘膜とかに限って侵入すると謂はれて、健康な皮膚面からは絶対侵入されないとしてゐたが、そうでなくて何所からでも侵入するといふ事を発表したのであります。右の実験が正確とすれば、黴菌侵入に対して絶対的予防は不可能といふ事になるので実に驚くべき事であります。でありますから結局私が前から言ってゐる、黴菌が侵入しても犯されないといふ体質になるより外に安心は出来ないのであります。然らば、吾々の方の解釈では黴菌が侵入すると如何なるかといふと、仮に赤痢なら赤痢菌が血液の中へ入るとする、すると非常な勢で繁殖してゆく。之は何故に繁殖してゆくかといふと汚血があるからであって、其汚血中の汚素が黴菌の食物になるのでそれを食って繁殖するのであります。故に血液の濁りは黴菌の食物でありますから、黴菌が侵入しても其食物が無ければ餓死して了ふ訳で、それで汚血の無い人は発病しなくて済むのであります。
黴菌の食物にもいろんな種類がある。窒扶斯(チフス)菌を育てる食物もあり、赤痢菌を育てるのもあり、虎列剌(コレラ)菌の育つ食物もあるのであります。黴菌は食物を食ひつゝ繁殖しつゝ死んでゆくものであって、黴菌にも強いのもあり弱いのもあり、短命もあり長命なのもあるので、そして死骸が種々のものになって排泄されるのであります。
赤痢などは血が下りますが、あの血の中には黴菌の死骸と生きてるのと混合してゐるのであります。
食物の有るだけ食ひ尽す結果は浄血になるから病菌は死滅する。それを医学では、抗毒素が出来ると謂ひ、それで治癒するのであります。
人間の身体といふものは、汚い物があると必ず排除される作用が起るものであります。ですから、鼻血だとか喀血だとかは何程出ても心配はない。之が出る程良いのであります。喀血など止めよふとするが、之は丁度、糞の出るのを止めよふとする如なものであります。
故に黴菌は、人間の血液の浄化作用の為に、存在してゐる-掃除夫とも謂って可いのであります。
人間の生活力が旺んであって、黴菌に犯されないといふ事が理想的で、それには黴菌に掃除させる必要のない-浄血の持主になる事であります。
次に、殺菌といふ事を謂ひますが、薬剤などによって人間の体の外部に有るものなら殺す事は出来るが、然し、人間の体の中に居る菌を殺さうといふ事は絶対不可能でありませう。縦(モ)し、人体の一部が黴菌に犯されたとしても最早其時は黴菌は身体全部に行渉ってゐるので、之を悉く殺菌しやふとすれば全身凡有る所へ菌が全滅する量の薬剤を入れなければならないが、それは不可能と思ふのであります。
例へば、内服薬や注射薬で肺結核菌を死滅させよふとしても困難でありませう。薬が一旦胃の中へ入り、各種の消化器能を経て肺臓へ働きかける頃は、其薬剤の成分は全く変化して了ふからであります。
又、眼病にしろ縦令利く薬にしろ其薬が種々の器能を通って眼の方へ働きかける迄にはマルッキリ其成分は変化して了ふであらふ事は想像し得らるるのであります。(岡田先生療病術講義録 昭和十一年七月)

痛みと熱

身体の一部に病気が起るとする。之は汚毒を排除しよふとする為の症状で、それを溶解する為の熱である事は、充分お解りになったと思ひます。然らば、其熱は一体どこから出るのかといふと-、儻し身体自身から熱が出るとすれば、平常身体のどこかに其熱の貯蔵所がなくてはならぬ筈で、其貯蔵所は常に火の如に熱くなければならない。処がそういふ所は全然なく、病気になるとどこからか出て来る。実に不思議であります。然らば一体何所からどうして熱といふ素晴しい膿結溶解作用が出て来るかといふ事でありますが、此最も肝腎な事が今日迄更に判ってゐないのであります。 三界の説明にもある通り『霊界は太陽熱』即ち火素が主となってをります。此火素が発熱の素なのであります。即ち、熱を要する場合心臓は旺んに此火素を吸収する。其吸収旺盛の為に鼓動が激しいのであります。又、心臓が火素を吸収せんとする時寒気がしますが、あれは病気治癒に要する熱を取る為に、身体全部への必要量の吸収を一時停止するからであります。
次に、痛みといふものは何であるか、吾々の方の解釈では毒素の排除作用が神経を刺戟するのであります。
故に、排除しよふとする活動力が旺盛であればある程-痛みが激しいのであります。ですから痛みがある程-治る工作が迅速に進んで居る證拠であります。故に、熱があり、痛みがあれば、其時こそ最も旺んに治りつゝあるのであります。
随而、此場合解熱法を施しますと、熱といふ溶解作用が停止される。即ち治るべき作用を停止されるから一時苦痛は楽になるが病気の治癒は遅れる事になるのであります。
然し、衰弱してゐる人でも、割合高熱のある場合もありますが、之は病気の方が強過ぎるのであります。又、病気があっても割合熱が出ないのは、其病気が割合軽い場合か、又は第一種健康体の人で、浄化力が特に旺盛だからであります。第一種の人は熱を必要としない程に浄化力が強盛であります。でありますから、凡有る病気は苦痛でない限りは身体を活動させて差支えないのであります。それは安静にする程活力が弱まり、従而、発熱が減少するからであります。例へば、肺病の治療は、日本では近来-絶対安静療法を採って居りますが、之等は反対に運動をすれば活力が起って、浄化力は旺盛となり速く治るのであります。近来西洋でも、仕事をしながら治すといふ事を聞きましたが、私の説と同じで洵に喜ばしい訳であります。
此故に、熱と痛みなるものは、治病工作上悪い意味ではないのであります。(岡田先生療病術講義録 昭和十一年七月)

本療法の原理

抑々、病気の本体は霊にある事は再三述べた通りでありますから『其霊の病気を治す』そうすれば体の病気は否でも応でも治るのであります。
其訳を今一層悉しく述べてみませう。
例へば、肉体の方の盲腸を除ったり、又は氷冷等で一時は良くなりますが、霊体の曇を払拭しない限り再発は免れないのであります。
其場合、盲腸があれば前より重症であり、盲腸が無ければ膿は止むを得ず其隣接部に溜るので、それが腹膜炎又は癌の原因となるのであります。
本療病術は此霊体の曇を除るのであるから全く根本的療法であります。従而、霊の曇を除るのは霊でなくてはならないので、その霊の作用といふのは、それは人体から放射する光で、此『光』以外には無いのであります。
単に『光』といっても『眼に見えぬ光』即ち『霊光』であります。然し絶対見えぬ事はない。-時々見る人はあります。
其光は大体白色で、時には青味を帯びる事もあり、閃光的で、術者の指頭、掌又は額部等から重に放射されるのであります。
此『霊光放射』によって曇を除る。それは全く神秘であります。
で、吹くのは、光で溶解された曇を払拭する訳で、丁度地上の汚濁を太陽が照らして溶解し、それを風が吹き晴らすやうなものであります。
つまり擦るのは、曇を溶け易くする為で、光で縦横無尽に掻き乱すから曇の塊が軟化する理屈であります。
然し乍ら唯物主義者に向って斯ういふ霊的事象を認識させるのは、実に困難であります。それは根本に於て信仰が違ふからであります。それは何であるかといふと、吾々は事実の信仰者であり、彼等は論理の信仰者であるからであります。
病気に対し、吾々は治ればいいので、唯それだけであり、衛生とはそれを実行して健康になる、唯それだけでいいと思ふのであります。何故なれば、一切は事実が主で、論理は事実への追随に過ぎないからであります。
吾々は学理に合った療法で病気の治らない事実を、常に余りに多く見せつけられてゐるが為に斯様な事を言ふのかも知れないので、其点は諒せられたいのであります。(岡田先生療病術講義録 昭和十一年七月)

各種の治病法

灸点
すべて治療といふ事は、病気は汚い物が溜るんですから、水で洗ふか火で焼くか、どっちかの方法であって、灸は一時-火で焼く意味でありますから、相当の効果はあるのであります。然し勿論、体的燃焼であるから、治るとしても一定時であって根本的ではないのであります。且又、灸は体の火であるから、非常に熱いといふ苦痛があるから、理想的ではないので、真の治療法とは快く治ってゆかなくてはならないのであります。
序ですから贖罪治病に就て説明をしてみませう。-
贖罪療法は、
昔から相当にあるのであります。世界人類の罪を贖罪したのは、イヱス・キリストである事は誰も知って居る処であります。
又、人の道の開祖御木徳一といふ人は、最初、金田徳光といふ人に遇った時、それまで御木氏は重症な喘息だったんですが、金田氏、曰く「貴方の喘息は私が治して上げやう」と言った。するとその晩からさしもの喘息が治って了った。すると金田氏の方はそっくり喘息を引うけ、それから一月位苦しんだといふのです。是等は勿論、立派な贖罪治病であります。御木徳一氏は此の事に感じて、自分も其様な贖罪治病をしたいといふ決心をしたのが開教の動機だそうであります。
贖罪治病は相当昔から行はれたといふ事は疑ふ余地はないのであります。
貴方方でもそういふ事がよくある筈であります。例へば病人を治療する場合、自分も其通り悩む事がある。之は幾分の贖罪であります。そうして此贖罪は水の働きでありますから月の系統の人であります。つまり水の性ですから汚れ物を洗ふ訳で、其洗ふ為の塵や垢を引受ける、それが贖罪なのであります。
本療法は、霊的の火で焼いて水で洗ふ、ツマリ両方の働きを一人で行るので一旦火で焼くからして残るのは極僅かな灰であります。
水で洗っても、術者の引受ける量が極少いので、多数の病人の治療をしても、割合楽なのであります。
鍼は、
矢張り浄化作用を一時止めるので、薬剤に由る毒素療法と同じ意味なのであります。
血管の太い所へ鍼を打つと其部の筋が脹れる。其為血液の流動が妨げられるから浄化作用が停止する。それで一時的苦痛は緩和されるといふ訳でありますが、其腫れが引くと、再び元通りになって悩むのであります。
次に注射は、
毒素を血管の中へ入れて浄化作用を弱らす一種の逆療法であります。
手術は、
悪い所を除るのでありますが、結果の良い事もあり悪い事もあって、確定治療に迄は至ってゐないのであります。
然し、宗教的に言ふと、神から授けられた肉体に一寸でも傷を付けるとは罪を構成するので、肉体は神からの預り物であるから、大切の上にも大切にしなくてはならぬといふのであります。
灸だの手術だのは、一生涯一種の不具者になる事になる。何程美人の玉の膚でも灸の痕が著いたらもうお終ひで、植木屋が折角咲かした花弁に線香で焼痕を作る、それと同じで造物主に対し、大いなる冒涜でさへあると思ふのであります。手術をした人などは、実に二目と見られないのがありますが、治療上-止むを得ないとも言へますが、手術すべき症状も手術せずに治癒するとしたら、斯んな結構な事はない訳であります。茲に本療法の絶大な価値があるのであります。
又、酸素吸入といふものがありますが、之も疑問があります。
最近仏国の某飛行家の発表する処によれば飛行機に乗って一万尺以上の高空を卅分以上飛行すると大抵の風邪は治るといふのです。
之は洵に面白い発見と思ふのです。学理上上空へ行く程酸素は稀薄になる訳ですから、酸素が多い方が良いのか、少い方が良いのか訳が判らなくなるのです。元来、空気の構成は、酸素、水素、窒素等としてありますが、何れにせよ夫等の原素は丁度人間の呼吸に適した様に配合されてあるに違ひない。それは丁度、砂糖と醤油鰹節など混ぜて丁度好い味にして食せる様なもので、砂糖だけ、又は、醤油だけの一種では仕様がない。酸素吸入は丁度其一種だけといふ行り方ではないかと思ふのであります。 次に、氷冷ですが、
之は一時発熱を下げたり、苦痛を緩和しますから効果がある様に思はれますが、実際から言ふと全然浄化作用を停止さすもので、それだけ治癒は後れるのであります。 昨年の夏、嗜眠性脳炎で死ぬ人が多かったのは、あれは氷冷の為であると私は想ったのであります。
盲腸炎なども冷す為に膿が固まる。固まるから切らねばならぬ事になるといふ訳で、氷冷しない方がより速に治るのであります。
日光浴
最近西洋の某学者の唱へ出した説に、日光中には、人体に非常に良い紫外線などがある代りに又非常に悪影響を及ぼす何ものかがある、と言ふのです。
大体人間は日光に晒さるべき動物ではない。日光に終日照らされるのは余りに強過ぎる訳であります。然し、働いて汗を掻きながら照らされるのは極良いので、何もしないで長時間日光に照らされるのは悪いのであります。
夜露に当るのは毒だと謂ってゐますが、私は夜露に当るのは非常に良いと思ふので、病人に夜露に当る様に言ふのであります。それは『月の霊気』も肝要だからであります。
又『地霊』も非常に良いのであります。地息に触れるといふ事を昔から謂ひますが、「土の霊気」も人体に必要なのであります。従而家の中での運動よりも戸外の方がずっといい。それは地の霊気に触れるからであり、此意味に於て土弄りなどは非常に良いのであります。
要するに、太陽と月と土の霊気によって、万物は生成化育さるるのでありますから、若し日光浴をすれば、月光浴もしなくてはならない。地霊にも触れなくてはならないのであります。近来、ビルディング病といふのがありますが、あれは地霊に遠ざかる為と思ふのであります。
湿布
次に又、人間は皮膚面からも呼吸してゐるものであって、湿布をすると之を妨げる関係上、新陳代謝を妨害する事になり、浄化作用を弱らせる事になるのであります。 塗布薬
之は薬が皮膚から滲透し、血液を濁し、浄化作用を弱めるから、一時苦痛は緩和されるが、治癒は後れる事になるのであります。(岡田先生療病術講義録 昭和十一年七月)

岡田先生療病術講義録 上巻(四)

治療士の心構へ

治療に就ての心得を述べておきます。
第一に肝腎な事は治療しよふとする時の想念であります。先づ世の中を救ひ、人類を幸福にしたいといふ大善心が根本にならなくてはならぬのであります。
之によって巧く金儲けしよふとか、此人を治せば大いに自分に有利であるなどと思ふのは面白くないのであります。又、治療の時だけは、施術する位置が肝腎であって、原則として、術者は上座に座らなくてはいけないので、常識から見て、其部屋の上座は自ら判るもので、大体入口の方が下座と思へば間違ひないのであります。 然し、其外の場合は成丈下座に居るべきで、それが謙譲の美徳であります。
大変良く治る時と治らぬ時、又治る人と治らぬ人とがありますのは、右の様な種々の関係もあるのであります。次に、問診でありますが、之は出来るだけ訊く方が良いのであります。又、最初は、患者が疑っておりますが、之は構はないので、最初から信ずるのは無理であります。然し一度治病効果を見せられても未だ疑ってゐる人は、それは其人の頭がわるいので、効果のない内に疑ふのは当然ですが、効果をみても尚疑ふのは、先方が間違っておるのであります。
困るのは薬であります。“薬は不可だ”といふと、医師法に触れるからいけない。処が事実は、薬は服むだけ治りがおくれるのでありますが、此点は特に注意して法規に触れないやうされたいのであります。
第二に食物ですが、之も実に困るのであります。肉食特に牛肉と牛乳がいけない。何故かといふと、非常に血を濁すものだからであります。然し、之等も強いてといふ訳にもゆかないので、或程度-患者の任意にするより致し方ないのであります。近来、医師により、肉食を不可とし、菜食を奨める人が相当多くなったのは、喜ぶべき傾向と思ふのであります。
それに就て、面白い話があります。先日ラジオで斯ういふ話を聞きました。それは、独逸のヒットラーは非常に摂生に注意を払ってゐる。其為に、酒も煙草も用ひず、又肉食も避けてゐる、といふのです。之でみると、医学の本場である独逸でも、肉食の害を知ってゐる事で、実に意外に思ったのであります。
次に、病人によく梅干を食べさせるが、之は胃には非常に悪い。食欲を最も減退させるものであります。
元来梅干は、昔戦争の際兵糧に使ったもので、それは、量張(カサバ)らないで腹が減らない為であります。梅干と田螺(タニシ)の煮たのを多く兵糧に使ったそうであります。
腹の減らない為に使ったものを、粥を食ふ病人に与へるのは間違っております。 よく梅干は殺菌作用があると謂ひますが、空気中ではそうではありませうが、腹の中へ入ると成分が変化する以上-それは疑問であります。(岡田先生療病術講義録 昭和十一年七月)

栄養食に就て

栄養食ですが、之は、現在程度の学問では未だ判らないと思ふのであります。何となれば、飲食物は、人間の口から入って胃へ行き、それから腸或は肝臓、脾臓、腎臓など、各種の消化器能を経るに従って、最後は其成分が一大変化をしてしまふであらふ事です。如何なる食物と雖も、原質とは全く異ふ迄に変化するでせう。
青い菜葉や白い飯を食って、赤い血が出来、黄色い糞が出来るといふ事だけを考へても、その変化力は想像し得らるるのであります。故に、滋養物を食ったから滋養になると思ふのは、消化器能の変化力を算定しない訳であります。試験管内では、よし滋養物であっても、人間の体内は全然違ふべきで、血を飲んでそのまま血になるやうに思ってるが、それはまるで筒抜のやうなもので、消化器能がないやうな理屈であります。然るに実は-消化器能なるものは、一大魔術師であります。
本来からいへば、食物は未完成な物即ち原始的な物程霊気が濃いからいいのであります。
食物の味は霊気が濃い程美味であります。新しい野菜や肴は、霊気が発散してゐないからそうであります。
栄養学上栄養でないとしてゐる物を食っても立派に生きてゆける事実は、よく見受けるのであります。曩に栃木県に松葉ばかり食ってゐる六十幾才の老人に私は会った事がありますが、普通人よりも元気で、色沢(イロツヤ)も好い。之等は栄養学から言ったら何と解釈するでありませうか。
消化器能の活動といふものは、大体食物が入ると必要なだけの栄養素と必要なだけの量に変化させるもので、厳密に言へば、食物の栄養素五分、消化器能の変化活力五分の割合でありますが、それは消化器能の方が主体なのであります。何となれば、消化器能さへ完全であれば、粗食と雖も栄養に変化させますが、如何に栄養を摂っても、消化器能が衰弱しておれば栄養不足になるのは誰も知る事実であります。之を観ても、栄養は従で、消化器能の方が主である事が明かであります。
元来、食物なるものは神が人間を生存さす為に造られてあるものですから、その土地で採れた魚菜を食ふ事によって、自然に栄養に適してゐるのであります。
又、種々な種類の食物があるのは、種々な物が人体に必要だからであります。之は国家社会の機構と同じ事で、一の国家社会が形成される場合、政治家も経済家も富豪も貧民も、官吏も商人も職人も芸術家も、それぞれ必要があって、職人にも大工も左官も帽子屋も織物屋も下駄屋も悉く必要であるやうに、一切は必要によって生存し必要によって滅亡するのであります。ちょうど人体を構成してゐる成分も、又、凡有る食物もそれと同じであります。ヴィタミンABCだの、含水炭素所ではない。将来幾十幾百の栄養原素が発見されるか判らないが、最後は嗜好する種々の物を食へばそれで良いといふ、単純な結論に帰納する-と想ふのであります。然し、食欲を増進させる為-調理法の進歩は希って歇まないのであります。それですから、凡有る食物は皆必要があるからで、「其時食べたい物を食ふ」といふのが原則で、食べたいといふ意欲は、其時身体の栄養にそれが必要だからであります。「良薬口に苦し」などと謂ふのは大変な誤りで、美味しい物ほど薬になるのが本当であります。
それだのに何が薬だから食へとかいって、不味いのに我慢して食ふのは間違っております。
私の研究によれば、世界中の人類の食物の中で一番良いのは日本食で、之が一番栄養が多く、従って長生きが出来るのであります。今度の国際オリンピックの選手は、特に日本食品を持って行ったそうです。今迄彼地へ行って、彼地のものを食ふ為にいつも弱るんだそうです。之は慣れないといふ点もありますが、確かに日本食は良いので、吾々は日本食こそ「世界一の栄養食」と思ふのであります。
其訳は、霊気が強く、血液を濁らせる点が寔に尠いからであります。 次に「食事の時間」とか「食物の分量」を決めるのも間違っております。何となれば、食物は各々その消化時間が異ってゐる。つまり三時間もかからなければ消化出来ないものもあれば、五時間も六時間もかからなければ消化出来ない物もあります。 又、食事の分量を決めるといふ事も間違っております。何故なれば、腹の減った時には余計食ひ、余り減らなければ少し食ふのが自然であり、それが衛生に叶ってゐるのであります。
食事の時間を決めるのは、ちょうど小便する時間を決めるやうなものであります。 「食べる分量」を決めるのは、一年中、浴衣ばかり着てゐるやうなもので、夏は浴衣を着、冬は綿入を着て調節をしなければならないのであります。
理想的に言へば人間は「食べたい時に食べたい物を食べたい分量だけ食ふ」といふのが一番衛生に叶ふのでありますから、せめて病人だけはそうしたいものであります。然し勤務などの関係で時間の調節が出来ない人は、先づ分量で調節するより仕方がないでありませう。腹八分目といひますが、之も間違ひで、食べたいだけ食べて差支へないのであります。
私は、美味しくなければ決して食べない主義ですから、食物の不味いといふ事は全然ない。
そして食べたい時腹一ぱい食べ、腹の減る時はウンと減らすので、ウンと減らせば胃腸の中はカラカラになりますから、瓦斯発生機ともいふべき醗酵物は聊かもない。そこへ食物が入るから消化力の旺盛は素晴しい。此様に、食物を美味しく食べて、胃腸が健全になるといふ-結構な方法を知らない人は、私の行ってゐる事をお奨めするのであります。
胃病の最初の原因は酸酵物停滞がその重なるものであります。
私は十年以上二食主義を実行しておりますが、非常に結果が良い。此方法は、都会人には適してゐると思ふのであります。其訳は、霊気が強く、血液を濁らせる点が寔に尠いからであります。
次に、食物には動物性食餌と植物性食餌とありますが、大体に両者半々に食ふのが原則であります。
魚 鳥 五分
野 菜 五分
然し、男子は、活動する場合は、魚鳥七分、野菜三分位迄はよろしい。やむを得ず獣肉を食はなければならない人は、一週間に一回位なら差支へないのであります。 又、良質の血や肉になる栄養は野菜であり、欲望とか智慧の出る栄養は魚鳥にあります。
年を経(ト)って欲望の必要のない人は植物性を多く摂るのが良いのであります。婦人は欲望や智慧が男子程要らないから、野菜を多く摂る方がいい。野菜七分、魚鳥三分位が最もいいので、人の女房でありながら、家を他所にし、家庭の事を顧みないやうな婦人は、その原因として魚鳥や肉食の多量といふ事もあるのであります。
又肉食が多いとどうしても性質が荒くなり、闘争や不満破壊性が多分になります。彼のライオン、虎の如きがそれであり、牛馬の如き草食動物は柔順であるにみても瞭かであります。
又米は七分搗きが一番良い。胚芽米よりも七分搗きの方が良い。総て物は、中庸が一番良いので、玄米は原始的過ぎ、白米は精製し過ぎる。大体五分搗が良いのですが、祖先以来白米を食ひ慣れてゐるから、白米に近い七分搗き位がちょうどよい訳であります。
どういふ物を余計食ひ、どういふ物を少く食ふのが良いかといふと、甘い辛いのない物を余計食ふのが原則であります。それで米や水の如きものを一番余計に食ふやうに自然になってゐるので、中位の味は中位に食ひ、酸い物、辛い物、甘い物等の極端な味の物は少く食ふのが本当であります。病人などによく刺戟性の辛い物を禁じますが、吾々の解釈は異ってゐる。必要がある為に辛い物を神様が造られてあるのであります。香味、辛味は非常に食欲を増進させる効果があるので、病人と雖も少し宛食ふのが本当であります。
又何が薬だとか、何が滋養が多いなどいふのも間違ってゐるので、如何なる食物と雖も悉く人間に必要の為に造られてある。それを不味いのに我慢して食ふのも間違ってゐるし、食べたいのに食べないのも間違っております。
又、滋養剤などもあまり感心出来ないのです。何となれば、食物は精製する程滋養が薄くなる。それは霊気が発散するからであります。霊気を試験管で測定出来る迄に未だ科学が発達してゐないのであります。
飲酒
之も飲まぬ方が良いのであります。酒は百薬の長などと言ひますが、場合によっては五勺か一合位はいいが、大酒は悪いに決っております。之は事実ですから、説明の必要はないと思ひます。
又煙草は吹かすのは可いが喫み込むのはわるい。吹かすのは鼻から香を吸って脳を刺戟するから頭をよくする。考へ事をする時など実に効果があります。
世間頭の良い人で煙草を吹かす人が多いのは事実でありますから、頭の良くなりたい人は、煙草を吹かすと宜しいのであります。
運動は、如何なる病気でも、苦痛でない限りするほど良いのであります。
空気は、無論、浄い空気を吸った方がよいのですが、今日の世間でいふ程、重大な影響はないのであります。埃を吸っても害は僅かで、何より肝腎なのは霊気であります。
睡眠に就ては、近来結核などは充分に睡眠を採らなくてはならないとされてありますが、吾々が実際研究してみますと、睡眠不足は頭脳には確かに影響があるが、結核には影響がないやうであります。然し、精神病者には大関係があります。精神病の最初は睡眠不可能からであり、精神病治癒の初めは睡眠可能からであるにみても明かであります。
然し、睡眠は習慣で或程度どうにもなる。私は曩に八時間位眠らなければどうにもならなかったのですが、近年それが不可能になった為、今は五時間位の睡眠であります。処がそれが慣れるにつれて何ともないので、睡眠不足などといふものは一時はあるが、世人が思ふ程の苦痛は無く、又それ程害がない事が判ります。彼の米国の大発明家故ヱヂソン氏は、研究室に入ると、一週間位寝ずに打通したそうであります。処がヱヂソンの助手は、自分達にはとても真似が出来ないと思ってゐると、誰でも出来るとヱヂソンが言ふのでやってみた所、最初は苦痛であったが、段々慣れるに従って出来るやうになったといふ話があります。
又よく疲労をやかましく言ひますが、之も吾々の説は異ふのであります。
吾々の方では、運動に因る疲労は非常にいい。例へていへば草など陽にあたると一時はだれるが、一晩越すととても威勢が良くなる。それは疲労したやうに見えるのは疲労ではなくて、一晩寝ると元気が恢復する-それと同じであります。ですからどしどし疲労した方が健康が増すのであります。又、樹木にしても大きな風が吹いて木を揺ぶるので、根が張るのであります。(岡田先生療病術講義録 昭和十一年七月)

病気と憑霊

病気の原因として、憑霊といふ事を知っておく必要があります。之を知らなくては解釈のつかぬ事が沢山出来て来ます。多くの場合、憑霊的病原は軽視出来ないものがあります。然し之を本当に知るには「霊覚」を持たなくてはならないし、といって又非常に誤られ易く、弊害も生じ易いので、先づ常識的に一通り知っておけばいいのであります。
之は、病気の説明の時にお話しますが、大体死霊、生霊、動物霊の三つに分ける事が出来ます。そうして、動物霊で多いのは蛇、狐、天狗、鳥類、犬、猫、馬、狸等であります。是等の動物霊が憑依して病気を起す事実で、例へていへば小児のヂフテリー及び喘息であります。喘息の場合、病原である水膿溜結を溶解しても、咳が止まらぬ場合があります。そういふ時は、大抵猫の霊が憑いてゐるんであります。ですからそういふ患者は、鼻と口の間辺に霊光を放射すると、とても噎(ムセ)るんであります。然し、それによって霊は畏縮するから、実によく治ってゆくのであります。
生霊
之は男女関係に多いもので、色情関係の怨みは殆んど男女の性器へ来るのも面白いのであります。
流産などの原因には、此怨み生霊の場合が多い。妾と本妻の場合なども、両方で怨み合ふから、どちらか弱い方が病気に罹るのであります。
私は以前、俗に茄子といって、つまり子宮脱出症を治療した事があります。起った時には口許まで出る、座って半分位出るので、之が治らなければ離縁されるといふので、私も可哀想に思って、何とかして治してやりたいと思ったのでした。其時「貴女は女に怨まれた事はないか」と訊くと「ある」と曰ふのです。それは結婚前主人に約束した女があった為、その女が非常に怨んだそうです。つまり、其約束の女の怨みが、自然性交不能にすべく、前述のやうな病気にしたのであります。それから暫く通ふ内に半分位治り、田舎へ帰って半年位経ってから全治した-といふ礼状が来たんですが、全く之など生霊の好い見本であります。
次に、死霊ですが、以前斯ういふ例がありました。
五つになる男の子の喘息ですが、之が、死霊が憑いてゐてとても喉を締めつけられるやうに苦しがる。判明した所によると、現在は継母に育てられてゐるのですが、右の死霊は死んだ実母が、子供を自分の方ツマリ彼の世へ連れてゆかふと、絶へず努力してゐる。それが病原であったのです。症状は非常に苦しそうで、普通の咳と異ふのであります。顔色も死人の如く蒼白でありましたが、之も全治したのであります。 次に、蛇の霊も非常に多く、人体内では一、二寸位の大きさになっております。移動性の痛みは殆んど蛇の霊であります。又蛇の形の通り細長く痛む事もあり、とぐろ巻いた時は円く痛むのであります。
幽門狭窄症や食道狭窄などは、よく蛇霊が締めつけてゐる事があります。
胃癌を手術する為切開した処が、何もないので、周章てて元通り縫った-といふやうな話をよく聞きますが、之など全く蛇の霊であります。丁度、人間が蛇霊に飜弄されてゐる訳であります。
胃痙攣や嘔吐等の場合にも、よく蛇霊の活躍が原因である事があります。
又、以前馬の霊の憑った子供をやった事がありますが、之は、寝ると必ず手足を曲げて自動的に動かす、それが丁度馬が倒れて苦しむ通りの状態であり、其事を話したら、それっきり怒って来なくなり、終に死んでしまいました。
鳥眼などは鳥の霊が憑くので、又、鼻の病気、即ち、蓄膿、鼻茸、肥厚性鼻炎など、大方鳥の霊で、以前鼻の悪い人で、目白の霊が憑いてゐたので、それを祀ってやったら直に治った事がありました。
不思議に鳥の霊は、鼻へ憑くのであります。
そういふ霊が原因の病気でも、浄化法をやれば治るので、それは病霊の曇が除れると、人霊ならば浄化し、動物霊なら畏縮するからであります。
其他、虫の霊などもありますが、やはり浄化法で治ります。水虫は微小なる虫群であり、発疹など蟻群や、其他の水虫群の霊などもよくあるのであります。
死霊が病気を起さした面白い例があります。数年前、私の家内に肺病の死霊が憑いて、それはとても苦しそうな咳嗽が出ては、血痰が出るのです。其時霊査法をしたら、死霊が憑いてゐたのでした。それは、一年前に死んだ鈴木といふ肺患の青年の霊でした。実は其男が亡くなった時に祀ってやったのですが、其霊が曰ふのには「祀ってもらって有難いが、一年祭をしてくれなかったから憑いた」といふので、それでは直にお祭をして上げる-と言ったら、其場で家内の肺的症状はケロリと治ったんであります。
本療法によれば、別に祭ってやる必要はない。霊光によって、祀らなくとも、其霊の病気や苦痛はなくなる。つまり祀る以上に、霊が浄化されるんであります。
要するに、死霊、生霊等は、確かに在るといふ事、それの病原も多いといふ事を、参考にお話したのであります。(岡田先生療病術講義録 昭和十一年七月)

岡田先生療病術講義録 上巻(五)

患者取扱

今晩から愈々個々の病気の事に就ての御話になります。
其前に先づ最初、患者を扱ふ上に於て参考になる事をお話致しますが、医者の方では大体打診、聴診及び五指の圧診であります。
聴診の方は音を聴く訳で大体肺病のラッセル(ゼーゼーした音)などを聴くには都合よく、打診の方は肋膜に異常があるかどうかを診る等が重で、叩いてみて音がカンカン言へばいいが、水が溜ってゐるとボクボクといふ音がするのであります。
又、お腹を手や指で圧すのですが、吾々の経験から言ふと此圧診が一番良いので、之はお腹ばかりでなく何所でも圧診する必要があります。何故なれば、例へば腹膜炎などの場合、其原因は多く腎臓や肝臓にあるのですから、此肝、腎の部を圧して病原を発見するのであります。本療法に於ける病原発見は実に正確であると思ひます。 然し茲で心得置くべき事は、取締規則に依れば、療術行為者は病気診断は出来ない事になってゐる。只患者の苦痛である個所を治療する丈しか許されてゐないのでありますから、それらの点を充分心得て善処されたいのであります。
私等が新患者に対する場合、先づイキナリ額へ手を宛てる。そして熱ければ必ずそこに毒血がある證拠です。そういふ人は頭が重いとか、眩暈がするとかいふ症状がある。
次に、両方の顳 (コメカミ)へ手を宛てると熱い。斯ういふ人は必ず頭痛がするのであります。
次に、眉毛の部を押してみて痛い人は毒血がそこに溜って居て眼に異常がある。 上瞼を押して痛い人は確実に眼病になってゐる。それは眼球に毒血が溜結してゐるからであります。
先づ、病原発見は斯ういふ工合なのであります。(岡田先生療病術講義録 昭和十一年七月)

人体の分類

西洋医学では、内科と外科、婦人科、小児科、其他何々と別れますが、便宜上、こちらでは三段に分けます。(岡田先生療病術講義録 昭和十一年七月)

上体の上部


右の図の如く三段に分けて、又其一段を三段に分ける。 先づ上体の上部から説明致します。即ち脳からであります。
そして医学の方と吾々の方との説明は大変違ふ事があるかも知れませんが、それは治療に当って自ら会得するより致し方ないのであります。然し便宜上、医学の用語や説明を拝借する点もありますが、之は止むを得ないのであります。
大脳は頭蓋骨で包まれ、そして小脳を蓋ふてをります。之は上体の凡有る機関が小脳に集って居るからで、つまり一番の中枢機関たる小脳を保護する為に大脳があるといふ訳であります。(岡田先生療病術講義録 昭和十一年七月)

頭痛

頭痛には、全体的頭痛と偏頭痛と、前頭部頭痛と後頭部頭痛とがあります。
原因は、毒血に因る場合と脳貧血に因る場合と二通りありますから、毒血の方から先にお話致します。
此症状は、世間非常に多いもので、時々痛む人と慢性的に休みなく痛む人とあります。
原因としては、毒血が上昇して前額部から前頭部両顳 (コメカミ)等に滞溜し、それの浄化作用が痛みとなるのであります。
先づ患者の前述の部へ掌を宛ててみれば、必ず熱く感ずる。それは毒血のある證拠であります。それが治療によって冷くなるので、冷くなった丈は痛みが除れたのであります。
次に、脳貧血に因る頭痛は右とは反対であって、頭脳に血液が欠乏して痛むのであります。
之は頸腺附近に水膿溜結し、頭脳への血液送流を妨げられるからであります。 後頭頭痛も、毒血又は貧血孰れかが原因でありますが、それは触査すればよく判るのであります。
本療法に依れば、軽症で二三回、重症で二三週間で全治するのであります。(岡田先生療病術講義録 昭和十一年七月)

眩暈

此症状の原因としては、図の如く、首の付根の太い筋にゴリゴリがある。之が頭脳への血液送流を妨げるのであります。

今一つは、前額部全体に毒血が滞溜し、其部に微熱を持つ為であります。
本療法に依れば、軽症一週間位、重症二三ケ月位で全治するのであります。(岡田先生療病術講義録 昭和十一年七月)

不眠症

此病気は、後頭部の左右に頗る頑固な水膿溜結が出来るので、まるで竹筒のやうであります。普通治り難いとされてありますが、本療法に依れば順調に全治するので、軽症で一週間位、重症一ケ月位であります。
此の病気の慢性症は睡眠剤中毒に因る事が多いのでありますから、全治させるには薬剤を服用しては駄目であります。(岡田先生療病術講義録 昭和十一年七月)

精神病 (岡田先生療病術講義録 昭和十一年七月)

此病気の原因は、最初は不眠症からであります。不眠症は先づ精神病の一歩手前と言ってもいいのであります。
従而、後頭部の水膿溜結を溶解すれば眠れる様になりますから、眠れさへすれば精神病は治ってゆくので、吾々の方では精神病は必ず全治するのであります。
不眠症から精神病へ進む順序を述べてみませう。
不眠の原因である後部頸髄部の水膿溜結が脳への送血を妨げるので、脳の中枢が貧血するのであります。其貧血へ邪霊が憑依するのが、その原因であるのと、
今一つの憑依でなく、患者自身の腹中に常に潜在して居た邪霊が、頭脳の貧血に乗じ上昇して頭脳中枢を占領するのであります。
元来人間の精霊は、平常は或程度の濃度を保ってゐる。その程度とは、普通人の健康状態の血液の密度と同一であります。
然るに何等かの原因によって、血液が減少した場合、其如く精霊も稀薄になるので、其霊の稀薄に乗ずれば、他の霊即ち邪霊が憑依し得らるるのであります。一種の補給的意味ともなります。
此例として、産後に不眠症や精神病が起り易く、又、月経時にヒステリーが起り易く、又、山に行って断食等を行ふ場合天狗等が憑依するのは、皆貧血に因る精霊の稀薄に乗ぜらるるのであります。
右の如き体的原因以外、精神的衝動を受けるに於て、弥々不眠症に拍車をかけられるのであります。それは貧血が一層甚しくなるのでそれ丈邪霊の力が増す事になります。
邪霊が憑依するや、凡ゆる事象を連続的に無制限に想はせる。それは彼等の本能であります。そうして邪霊の思念が終に発展して、行動に迄及ぶので、それが常軌を逸しさせる種々の狂態であります。
医学上でいふ幻聴とは、霊のいふ事が聞えるのであり、
幻覚といふのは種々の霊が見えるのであります。
そうして邪霊といふのは殆んど狐の霊で、稀には狸の霊もあり、尚稀には両方の場合もあります。
精神病者が自問自答するのは頭脳の中枢に蟠居してゐる狐霊と外部に居る狐霊との問答であるが、此場合本人の記憶を利用する事が多いのであります。
又空間をみつめて驚いたり泣いたり笑ったりするのは霊が見えるからであります。 要するに精神病なるものは、人間が狐霊に踊らされるのであります。
本療法によれば、半ケ年乃至二ケ年位で完全に治癒するのであります。
世間、脳梅毒が原因とされてをりますが、之は極一部であって、殆んどが右の原因である事は、吾々の永年の経験によって證明し得らるるのであります。
一例として
前に私が使ってゐた職人で、それは一人者ですが、或時相談をかけられた。彼曰く、「自分は最近-人から少し気が可笑しいと言はれるが、自分ではそうは思はない。どこか変な所があるんでせうか」と言ふのです。そこで「自分で変だと思ふ事はないか」と訊くと「少しはあります。それは夜遅くなって戸を締めて寝てゐると(其職人は二階を借りてゐる)往来を四、五人の人が通ると思ふといろんな話をしてゐる。耳をすますと『今晩、あの石川(其職人の姓)を叩き殺してやらふ』などと相談するのが聞えて来るので驚いて飛出す」といふのです。私は『戸を締めてから外を歩く者の言ふ事がはっきり聞えるといふのは可笑しいじゃないか』と言ふと「然し、迚もはっきり聞えます。又よく飯など食はふとすると『其中には毒が入ってるから食ふと死ぬぞ』といふ声が聞える。それで恐ろしくなって飛出し、今度は蕎麦屋へ入り蕎麦を食はふとすると又そういふ声が聞える。『その蕎麦にはモルヒネが入ってるぞ』などと威され、又他の家へ行くといふ様な訳である」と言ふのです。そこで私は『誰がそんな事を喋舌るか判るか』と言ふと「それは判りません」といふ。そこで、『それは危い。それは狐がそんな事を言って騙すのだから決して信じてはいけない。今度そういふ声が聞えたら-必ず狐だと思へ「狐が又騙すのだな」と思へばいい』と教へたのであります。
其結果、彼の警戒心が湧起して来たので、段々と快くなり、終に全治したのであります。
之は私の話だけで治った実例で、未だ軽症の内だから宜かったのであります。
そうして狐は「本体」を暴露されると、騙す興味が無くなるのであります。
よく狂人が、誰も居ないのに喋舌ったり、何もないのに吃驚して逃げる事などがありますが、それは其人の霊を占領し、他の狐霊と呼応して騙すのであります。
人間の霊を段々占領すると、顔までが狐の如(ヨウ)になって来る事もあります。 人間を巧く騙す程、狐の社会では名誉になるのであります。
狐には、稲荷と野狐との二種あって、稲荷は祀られた狐であり、野狐は謂はばルンペンであります。
此野狐は絶えず祀られ度くて策動してゐるのであります。
日蓮宗の行者は、行を積むと狐が見える様になり、狐と交通する事が出来る。そうして野狐を招んでは、あの病気をお前が治したら稲荷に祀ってやると言ふと、狐は祀ってもらひたさに一生懸命に治すのですから、病気が治ると必ず祀らされるのであります。
野狐でも稲荷でも非常に沢山居て騙すのが巧い程出世をするんであります。
狐にも種々名前がある。日蓮宗の行者などはよく名前を付けます。 眷族といふものも沢山居る。穴守稲荷などは何万と居る。之は多く花柳界を専門にやってをります。旦那を招ぶとか色男を招ぶなど巧いものであります。
狐の偉い奴程騙すのが巧妙であります。
東京では穴守と王子、関西では伏見などでありますが、穴守の方は花柳界へ、王子の方は一般的の方面に活動して居ります。豊川あたりの狐は生活に困らないので、割合悪い事は少い。豊川の狐は金儲けが専門であるから、豊川稲荷の信者は、金は儲かるが-病気や外の不幸が多いのは事実であります。
又南無妙法蓮華経を聞く程神通力が増すのだと、狐からよく聞いた事がありますが、御題目を唱へると狐が沢山集って来るのは事実であります。
それらの為に、日蓮宗にはどうしても狐憑きが多く犯人が多いのであります。 又狸は始末がわるく治りがわるい。之は一見して違ふので、狸の方はとぼけた滑稽味があり、超越してゐる所があり、非常に笑ひたがるのであります。 狐は人間の頭脳を占領して踊らし面白がってゐるだけであります。又人間の生命を奪る事が好きで、実に簡単に自殺させる。そして、一人でも余計に殺せば名誉になり、仲間から偉いとされるのであります。人間一人殺す位は訳ない事で、汽車往生や三原山へ飛込ませたりするのも多くはそれであります。
又人間の思って居る事を容易に知るので、行者などがよく物を言ひ宛てますが、あれは行者に使はれてる狐が先方へ憑るのです。すると狐は速くに其人の気持や記憶が判るのです。それを今度は行者に憑って知らせる。行者は其通り言ふから的(アタ)るといふ訳なんであります。ですから過去は判るけれども未来は全然判らぬ。行者など随分物を当てるくせに下らない生活をしてゐるのは、未来が判らぬからであります。 よく手を上げたり、首を振ったり、異常な恰好するのは殆んど狐霊又は鳥霊の憑依であります。そして「吾こそは八幡大菩薩だ」の、「何々大明神」とか、奮ったのになると「天之御中主大神」だの「天照大神」など言ひますが、あれらは皆、狐、天狗等が好い加減な事を言って騙すのであります。本人は自分で自分を買被り、自分が天照大神だの、天之御中主大神だのと思込んで了ふので実に危険であるから、神憑りは行らない方がいいのであります。
五、六年前私は某精神病院へ行った事がありますが、其所の医師の話に「病院では全然治らぬ。一旦は治った様でも、家へ帰るとまた起るのです」との事でした。 本療法は霊的療法でありますから、段々狐霊が畏縮する。そうして狐霊は平常腹部の中央に小さくなって居ります。よく治療してゐると臍の辺にムクムクして脈打つものがありますが、それが狐霊であります。
蛇の霊は、長くなったり短くなったりして移動するのが特徴であります。
又、ヒステリーは、精神に衝撃を受けた瞬間精霊が畏縮する。其間隙に乗じて腹部に潜居してゐた狐霊が俄然上昇し、頭脳を占有して人間を踊らすのであります。其場合-玉の様なものが腹から昇ってゆくのを意識する婦人がよくありますが、それであります。頭脳は人間全体の縮図の如なものですから、頭脳の中心を占領すれば身体全部を支配出来るのであります。
暫くして、本人が平静に還るに従って狐霊は再び元の腹部へ戻るので、意識がはっきりしてくるのであります。
前述の様な訳でありますから、精神病とは連続的ヒステリーであり、ヒステリーとは、一時的精神病とも言へるのであります。
女ばかりではなく、男で狐が憑いてる人があります。そういふ人は顔も狐に似てをるものです。
治療をすれば、血が頭へ充実して来るから霊力が増進し、反対に狐霊は畏縮するので、眠れるやうになり、意識がはっきりしてくるといふ順序であります。
狐霊を解剖してみると種々あって、稲荷と野狐と言っても、其中に人間が狐になったのと本来の狐と両方あります。人間の霊が畜生道に墜ち、狐になってる場合も相当あります。
然し、人間に憑依する場合、其人の霊統に因縁が必ずあるもので、全然無関係では憑依出来ないものであります。
四、五年前扱ったお婆さんですが、狐が二、三十匹憑いてをって、身体の各所に豆粒大になって隠れてゐるのです。私が指から霊を入れると、「アヽ痛い痛い、そう押しちゃ堪らねへ」と言ふから、婆さんに『そんなに痛かったか』と訊くと「別に何ともない。アレは狐が言ふんです」と言ふのです。
狐の匿れ場所のやうな所を押すと「アヽメッカッタメッカッタ、とうとうメッカッタ、残念々々」と曰ふ。『貴様、怪しからん奴だ』と霊を入れると「アッ苦しい、助けてくれー、助けてくれー、もう出ますから勘弁してくれ」と叫ぶのです。
或日の夕方の事でした。其婆さんが言ふには「先生弱りました、今朝“此婆ア太え奴だから今日は小便を止めてやる”と言はれた処、とうとう今以て小便が出ない」と言ふのです。そこで膀胱の辺を霊圧してやると「降参々々」と言って、直に小便が出た事がありました。(岡田先生療病術講義録 昭和十一年七月)

脳溢血

原因は、頸髄から延髄へかけての両側に「毒血」が溜結するんであります。

之は、毒血の沢山ある人が、頭脳を多く使ふのが原因であります。
近代人は肉食を多くする為毒血が殖へる。そこへ頭脳を多く使ふからそれへ向って神経が集注し、それが為毒血が溜結するので、中には癌のやうに固結した人もありますが、之は脳溢血になり損ねて外で固まったものです。そうして毒血の溜結が或程度を越へると、血管が破れて脳の方へ溢出する。それが小脳中の各種の機関に障害を及ぼすので、それの表れが人事不省であり、気の付いた時には中風になってゐるのであります。
面白い事には、毒血溜血は左右孰れかであるから、病気症状も必ず右か左か一方なのであります。
右が溢出すると左の半身が不随になり、左ですと右半身が不随となります。
中風は医学の解釈では頭脳から繋がってゐる手足への神経が切れると言ひますが、之は誤りの様であります。何故なれば、本療法によれば治癒するからであります。 ですから、脳溢血を予防するのは容易であって、後頭部へ溜った毒血を浄化すれば絶対に起らないのであります。
予防法は、最初一、二週間治療をして後は一ケ月に二、三回位、半ケ年位続ければ先づ五年間位は大丈夫であります。
脳溢血の場合は、最初激烈な偏頭痛があります。そうして発熱と嘔吐があります。そういふ症状は、脳溢血の序幕と見ねばなりません。嘔吐が頻繁である程、脳は余計に犯されてゐるのであります。
食欲皆無となり、ヌラヌラした唾液を吐きます。
嘔吐の少いのは軽症で、つまり嘔吐の多少によって病気の重軽を知るのが、最も確実であります。嘔吐が四、五回以上ある時は重症とみていいのであります。
それから人事不省となり、早くて一、二晩、長いのは二週間位意識不明であります。脳溢血になると同時に左右孰れか一方の手足はブラブラになりますが、脳溢血になった時、直ぐに本療法を行へば十人が十人必ず治るので、手足がブラブラになったのでも大抵二週間位で元通りに恢復するんであります。
全治には一ケ月位とみればいいので、実に素晴しい治病力であります。
脳溢血の徴候は、血圧が高く首筋や肩の凝り、手の先が痙れたり、手が痛かったり、耳鳴、偏頭痛、眩暈等であります。
治療は、頸髄、延髄、小脳部其他熱い所か痛い所、麻痺した個所をやればいいのであります。(岡田先生療病術講義録 昭和十一年七月)

脳震盪

よく高所から墜ちたり、転んだりして脳震盪を起す事がありますが、脳震盪でも嘔吐さへなければ脳の内部は異常がないので、若し嘔吐が頻繁にあれば内出血した事になり、生命は覚束ないと見るべきであります。
二、三回の嘔吐ならば内出血が少いので、生命の危険はまあないが、五、六回以上の場合は生命の危険があると見ねばなりません。(岡田先生療病術講義録 昭和十一年七月)

嗜眠性脳炎、脳膜炎、脊髄膜炎

嗜眠性脳炎の原因としては、毒血ばかりでなく、膿も混ってをります。ですから、脳溢血とは全然違ふ。

脊柱の頂部から三分の一辺に、大抵の人は多少膿が滲出してゐるもので、その酷いのが脊髄カリエスであります。
脊柱を見ると、そういふ人は其個所が窪んでゐる。其部を叩くと痛みがあります。之は其所から絶えず膿が滲み出て発達しないからであります。
よく骨が腐ると謂ひますが、腐る事は決してないので、膿が外部へ排泄されよふとして骨に細い孔を沢山穿けるのであります。
本療法によって膿が溶解消失すれば孔は塞がるのであります。
カリエスの膿は非常に多い人と少い人とあります。化膿性肋膜炎、化膿性腹膜炎なども之が原因であります。又腫物や痔瘻などもそうであります。
此原因の又原因としては、人間の祖先の罪穢が霊的に脳の中枢へ流れて来、それが物質化して膿になるのであります。
膿が出てる時は宛かも上へ出やふか下へ出やうかと考えてゐる様なものであります。
其時頭脳を過度に使用したり、又夏の天日に照らされたりすると上方へ昇ってゆく、凡て膿は神経の集注する個所や、熱した所へ集溜するものであります。
それに就て以前私が治療した患者で、眼病で医師から「よく蒸せ」と言はれたので、毎日毎日蒸した所、膿が全部眼球へ集中し、真白な膿で眼が塞がったのであります。之は蒸し過ぎた為に附近の膿が全部眼球へ集溜したので、其猛烈な症状には驚いたのであります。実に物凄い程でありました。

で、膿が上昇して小脳へ入ると非常に眠くなる。之が嗜眠性脳炎であります。 又世間には偶に、いくら寝ても眠い人がありますが、之は前述と同じ症状で、僅か宛膿が小脳へ入ってゆくのであって、謂はば極軽い嗜眠性脳炎であります。
又小脳までゆかずに、其一歩手前で滞溜する場合があります。之が脊髄膜炎であります。
嗜眠性脳炎によって小脳に迄侵入した膿は、図の様な経路をとって排泄され治癒されるのですから、恢復時は目脂や鼻汁に血液が混入してウンと出るのであります。 此病気で死ぬのは、どういふ訳かといひますと、患部を氷冷する為で、其為に膿が排泄され損ねて脳内で固まって了ふからであります。
以前、脳脊髄膜炎を治した事がありますが、十位の男の子で熱がどうしても冷めない。で、後頭部の中央を触るととても熱い。そして圧すと痛がる。子供も其所を気にしてゐるので、そこを浄化し始めたら順調に全治したのであります。
之がもっと進んで頭脳の中へ入ると、脳膜炎又は嗜眠性脳炎になる訳で、脳膜炎の方は膿が悪性で、嗜眠性の方の膿は毒血との混合で弱性であります。
脳膜炎など罹りたてに来れば必ず治ります。以前医師に見放されて一週間も昏睡状態を続けた脳膜炎の五才の男子の患者を元通りに全治した例があります。(岡田先生療病術講義録 昭和十一年七月)

岡田先生療病術講義録 下巻(一)

上体の中部

此前は上体の上部の話でしたが、今日は上体の中部であります。(岡田先生療病術講義録 昭和十一年七月)

眼病

一番の眼目は眼で、眼にも種々な病気がある。又此眼病は割合多くて治り難いのでありますが、眼そのものの病気としては治り難い事はない。然し誤れる療法の為に助かる眼も駄目になって了ふ場合がよくあるのであります。
近来非常に多いのは何といっても近眼であります。
有難くない事には、日本は今-世界一の近眼国だといふ話です。
そうして近眼は、多く乱視を伴ふものであります。
それでは如何なる原因かと申しますと、初め頸髄から延髄附近の両側に水膿が溜結する。其為に血管が圧迫され、眼の営養、つまり血液の送流が妨げられる結果、眼の営養不足を来すので、それが為視力が弱り遠方が見えない。丁度衰弱した人に遠路を歩かせる様なものであります。それが近眼の原因であって、又乱視は同じ原因で、光線と物体映写の刺戟に眼の方が負けるのであります。

よく乱視の人は日向を見るとまぶしがるのは、光線の刺戟に堪える力が乏しいからであります。
藪睨みなどはやはり此類であります。
遠視は近眼とは違ふ。
近眼の方は、眼は確かではあるが、営養不良の為ですが、遠視は老齢等の為、眼自体の衰弱であります。
近眼は近来非常に多く、特に小学生に沢山あります。
それは何故かといふと、体内にある毒素即ち主に天然痘の残存毒素が小学校へ入って頭を使ひ始めると、其為に頭脳に向って延髄附近に集溜し固まる結果、前述の如く眼の営養不良を来し近眼になるのであります。
昔は近眼など殆んど無かったであらふと想ひます。尤も近代文明は活字の文明とも言ふべく、どうしても細い字を読まなくてはならない。それも別の原因をなしてゐるのは勿論であります。
又、今日迄『天然痘の残存毒素』が判らぬ為に、近眼の原因も判らぬのは止むを得ない事であります。
又若くして遠視になる人もあります。之は如何いふ訳かといふと、老人の死霊が憑った場合であります。
鳥目といふのがありますが、之も矢張り鳥の霊が憑るので、夜は見えない。それに引換へ獣は昼間より夜の方が割合見える。猫など其代表者でありませう。
本来、日本人は鳥的人種で、西洋人は獣的人種であります。
大体、近眼乱視などは営養不良が原因でありますが、他の眼病は全然違ふのであります。
他の眼病といふのは、水膿や毒血が眼球へ集溜する、之が原因であります。
眼病で一番軽いのはトラホームであります。之は瞼の裏へブツブツが出来る。之は主に上瞼に多く下瞼は少いのであります。
それによく似たので濾胞性結膜炎といふのがある。之はトラホームの反対で下瞼に多く粒も細い。小学校などでよく言はれる病気でトラホームより治りいいのです。
トラホームのブツブツはよく手術しますが、之はニキビを一つ一つ潰すやうなものであります。此手術をした後一、二年位はいいが復出る。手術しては出来又手術しては出来しつつ段々悪化してゆくのが多いのであります。
本療法で施術すると非常によく治る。どんなトラホームも治ります。普通は一週間か二週間で治ります。
上瞼を一寸上へ上げただけで真赤になってゐるから判ります。
悪化して来ると眼がゴロゴロします。もっと酷くなると、強い痛みで夜も眠られない程になります。そうして眼の水晶体を擦るので磨硝子の如になり、段々見えなくなるのであります。
原因は、涙に毒素があって粘膜を刺戟し、一種の発疹をするのであります。
涙にも涎にも唾にも鼻汁にも、有毒と無毒とがあります。肥厚性鼻炎や口脣が糜爛するのは皆有毒の為であります。
歯が悪くなるのは、唾に毒素があるからであります。
唾液や鼻汁、涙の毒素は、未だ判ってゐない様であります。
涙に毒素がある為に瞼の裏が荒れる。其毒素の弱いのが濾胞性結膜炎の原因で、酷いのがトラホームと思へばいいのであります。
何故涙に毒素があるかといふと、
元来、涙は眼を保護するもの、或は眼を清潔に洗ふ為のもので、水分即ち一種の漿液であって、眼へ出る前一旦涙嚢に溜るので、其場合其人に毒素が多い為、漿液として通過する際それが混入するのですから、本療法で眼と其辺一帯と、後頭部及び後頸部を浄化すれば涙が無毒になるから治るのであります。
次にいろいろな眼病があります。
角膜炎とか結膜炎、糜爛性結膜炎、白内障、底翳等でありますが、吾々の方では眼病の種類は問題ではない。何となれば治療法が同一だからであります。
底翳なども皆、膿や毒血の集溜固結によるものであります。
黒底翳は、一番重いとされてをります。之は眼底へ黒い毒血が凝結するので黒く見え、青底翳は青く見えるので、之は膿の青いのが溜るのであり、白底翳は膿の白いのが溜るから白く見えるのであります。
白底翳が一番治りいいといふのは、白い膿が一番弱性だからで、青いのはそれより悪性なもので、毒血は之以上の悪性であります。
癌なども膿と毒血のと両方あるが、毒血が頑固であります。
白内障は、眼球へ膿が集溜するんで、之は必ず治るのであります。
白内障や白青底翳は治るが、黒底翳は難しいものであります。
眼の玉が白くなってゐるのが白内障で、眼球そのものが、まるで田螺(タニシ)を茹(ユ)でたやうになります。
早期に膿が固まらない内ですと容易に治りますが、時日を経過して固まったもの程日数がかかるのであります。
目星も非常に治りいいもので、大抵の目星は一週間位で治ります。之は普通は一つですが数個のもあります。
眼を診査するには、最初前額から顳 (コメカミ)辺へ掌を触れ、熱ければ毒素があるので、其他眉の辺上瞼等を押し痛む人は眼球に毒素が溜ってゐる證拠ですから、治療は眼を中心に頭部、顔面、後頭部等を浄血すればよいのであります。
頬の方の耳の際を押して痛む人は、顔面神経に故障があります。
元来人間は上部即ち頭部、頸部、肩部附近に滞溜する毒素は主に後部でありますが、絶えず鼻耳口などから排泄されよふとしてゐる。それは後方には穴がないから、孔のある前の方へ流動するのであります。それの表れとして、眼を使ふ時は眼へ毒素が集溜され眼病になるのでありますが、実は其際の眼は、毒素排泄の役目を遂行せんと一時自分の家へ集溜さした様なものでありますから、時日の経過によって目脂等で排泄され浄化されるのであります。
然し、其事が判らないと、患者に対し極力眼を使はせない様にしますが、本当に治す意味から言ふと眼を使ってもよい。何故なれば、そうすれば排泄すべき毒素をより速く眼に集溜させるからであります。
出来る丈毒素を寄せて排泄さした方がよいのであります。
眼鏡は、出来る丈かけさせない方が好いので、之は胃病の場合の胃の薬と同じ事で、眼鏡の力を借りるから眼の力は退化するのであります。
次に、眼の養生法をお話致しませう。
それは寝てゐて本を読むのは極悪い。以前、眼の悪い患者を治療してゐた時、なかなか治らぬので、ふと気が附いて、寝てゐて本を読むのではないかと訊くと“そうだ”と言ふので、そこでよく説いて、それをやめさせてから良くなった事があります。
元来人間は、横になれば眠る事に決ってゐる、横になって本を読むのは天理に外れてる。本を読むのは起きて机にでも向ふのが本当であります。ですから眼の悪い人には、それを訊いてみる必要があります。
又、電車の中で読むのは、見てゐる物が動くので極わるい。夜電車内で電燈の薄暗い光で読むのは殊に悪い。私は先に大森から東京へ通ってゐた事がありますが、退屈するので新聞など読んだが、ドシドシ視力が衰へるのでそれに気が付き止めた事があります。
眼は洗ふといふ事がありますが、之も感心出来ない。それは涙程結構なものはない。硼酸(ホウサン)などで洗ふと一時良いやうですけれど、眼に薬を入れるから薬が沁みる。其薬が時日の経過によって毒素になるからで、長く眼を患ひ、いつも眼がクシャクシャしてゐる人は薬の中毒が多いのであります。
三月程前に、眼科医で眼病となり、二ケ月半程凡有る最新の治療をしても治らなかったのが、私の所へ来て一週間ですっかり治った人があります。其時の記録を御本人が書いて呉れましたから、それを読んでみます。
(原文のまま)
『私は明治廿六年以来四拾年以上眼科専門医として開業医生活を続け今日に及んだ者です。故に実地医家として専門治療には相当に自信あるつもりです。 然るに本年三月十三日入浴の際不幸、石鹸かぶれの為、翌十四日より左右眼瞼内外眥部に僅かの糜爛を起し聊か痛みを感ぜしも敢て意とせず毎日業務に従事せり。然るに数日の後には病勢急に増進、上下眼瞼全部に湿疹を起し、眼瞼縁炎と共に日夜殊に夜間の掻痒甚しく、毎夜安眠する能はず実に閉口致しました。申す迄もなく自分の専門的治療故いろいろの薬品を使用し、其他静脈注射やら太陽燈やら種々に手当致すも更に無効否薬液乱用の結果か病勢益々悪化するばかりです。
勿論三月末より休業、某大病院に某博士の診察も受け、其指示に依って治療もし、又四月中旬には某医の特別注射療法も受けたるも、病勢少しく軽快するかと思へば両三日後には又忽ち逆転するのみならず、余りに攻め付けたる為-遂に病は眼球結膜及び角膜に炎症を及ぼし、四月末には視力○・一即ち十分の一といふ心細き有様となりました。それまでの実験上、最初良薬と思ひしものが数日の後には何れも反って有害となり、又皮膚も結膜も非常に敏感となり、如何なる薬も刺戟甚しく耐ゆる事能はず、と申して薬を用ひねば一種言ふ能はざる痛むが如き乾燥感に堪え難く、拠なく日夜何回となく無数に唯麻酔薬の点眼を続くるの止むなきに至りました。
五月初めに至り、未だ嘗て実験せし事なき病状の変態に或は他に何か障りにてもなきかと六日-某祈祷者を訪ひ伺を立てし処、昨年夏本命に当る地所を修築せし方災の為とて其方災除けの御祈祷を受け、七日間にて治すると言はれ毎日通ふ内、幸に痛感去り眼瞼皮膚の病状大いに軽快夜間安眠を得るに至り、視力も一旦○・五に恢復し大いに感謝しつつありしが、二、三日にして又○・三に減じ、猶祈祷を続くる事二週三週、終に意を決して恥しさを忍んで五月三十一日半蔵門に岡田仁斎先生の治療を受くるの止むなきに至る。
然るに翌六月一日になって諸症状大いに軽快視力○・七に恢復、二日には○・九、六日に全視力を得るに至る。其恢復の速き事実に驚くの外なし。而も毎日業務に従事しつつ猶且つ斯の如し。
六月十一日、治療を受くる事僅かに八日にして二ケ月半余も悩みし頑固なる悪質も忽ち全快するに至る。実に有難く嬉しく感謝しつつ恥しき実験談を皆様に御報知致す次第であります。』
此記録にある通り、一週間で眼はすっかり治りましたが、最後に瞼の糜爛丈が残りました。私は之は薬の中毒だと言ふと、其人も「自分もそう思ってゐる」と言ひましたが、要するに薬の中毒だけが残ったのであります。
そうして眼を治療する場合は、指を触れる訳にはゆかぬから全然患部に触れないで空中を擦るのと吹くだけで治るのであります。
眼は人体の日月でありますから、日月を隠すのは雲で、之を吹き払ふのは風である様に、其雲を吹き払ふ意味で強く吹き、そして周囲も出来る丈浄化するのであります。
眼は後の方をよく治療するのです。眼の悪い人に限り、眼の裏の方が非常に凝ってゐるもので此辺をよく浄化するのであります。

次に、婦人に於ては、産後七十五日は決して眼を使ってはなりません。産後悪くしたのは一生涯治らない。ですから産後丈は充分眼を大事にしなくてはならないのであります。
又、薬の中毒で悪くなる事もあります。以前六百六号の注射をした為に全然失明した人もありましたが、之は薬が原因ですから仲々治らない。少しは良くなるがとても治らないから、之は二、三年経ってから来なさいと言ってやりました。二、三年経つと薬剤は膿になるから、膿になってから溶し易いのであります。
霊的の眼病も多くあります。之は殆んど蛇の霊で、以前私は其蛇の霊を祀って治したものですが、非常によく治ります。
之は蛇を殺す場合によく頭を潰すので、其際眼をも潰し盲蛇になるので、其死霊が人間に憑ると人間の眼が見えなくなるのです。私は今迄祀って沢山治したのでありますが、今は忙しいのと誰もが出来ない事と迷信視せられる懼れがある等でやめてをります。
以前、鶴を殺した人に鶴の霊が祟って、嘴で眼球を突つかれて失明したといふ話を聞いた事があります。之は事実あるべき事であります。
そうして蛇の祟る場合は、如何いふ訳かといふと、祖先の死霊が霊界で蛇になり一家を守ってゐる。それは家門へ対する執着の為であります。
元来蛇は、執着の物質化ともいふべきものであります。それを知らずに殺すと、元来が祖先であり、執着者であるから非常に怒るので、それが子孫へ祟るのであります。そういふ蛇は殆んど青大将で、昔から旧い家の土蔵などによく居りますが、皆それで、之は絶対に殺してはならないものであります。
鍛治屋などで、よく火華が飛んで眼が悪くなりますが、之も時が経てば必ず自然に治癒されるものですから、放ってをいてよいのであります。
又、瞳の見当違ひの人があります。之は某大実業家の令嬢でしたが、生来酷い藪睨みで、眼が見当違いなので、踊りの場合など顔の位置が調はない。それを治療した所一ケ月位で全治し、踊りの際顔の位置が正しくなったと言って喜んで居りました。之は、眼を動かす筋を水膿溜結が妨害して居ったものであります。
又、眼を開けてゐるので苦痛なので、自然眼を塞ぐ人があります。之は額の辺に水膿が溜結してゐるから、之が為重くなるのであります。
バセドー氏病で眼が飛出る事がありますが、之は後の方でお話致します。
色盲は、人間以外の霊が憑く為であります。畜生や鳥の霊などは想像も付かぬ程に物体が変って見えるのであります。
馬などは、人間が非常に大きく見えると謂ひます。ですから馬が暴れた時、人間が両手を拡げると必ず停るといふのであります。で、畜生は人間の様に凡有る色彩を見る事が出来ない。それは人間の様に凡有る声音言葉が現はせないのと同じ訳で、動物の音声は一種か二種より現はせない。その如く色彩も一種か二、三種より判らないのであります。
又面白い事には、毒素が眼へ集溜した場合白眼の方は紅くなり、黒眼の方は白くなるのであります。
特に、眼病の治療日数は、最初に於て言明する事は不可能でありますから、先づ一週間位治療し、其効果によって判断すべきであります。(岡田先生療病術講義録 昭和十一年七月)

鼻病

鼻病で一番多いのは蓄膿症であります。蓄膿症は、鼻の孔が塞がる症状で、之には根原が二種あります。それは、鼻柱の両脇の場合と、眉間から両眼の間に膿が常に溜っては鼻孔から出ようとする。然るに膿が濃い為に出切れず、途中で固まるのであります。

普通左右交互に塞がるもので、治療をすると直に通る様になります。
診査の場合、鼻柱の両側を圧して痛いのと、又眉間の中央が重いのは、其処に水膿溜結があるからで、眉間の方の患者は治癒の際、鼻血が出る事があります。
先づ軽症で二、三回、重症で二、三週間で全治するのであります。
鼻茸は、鳥の霊で鳥の嘴が物質化する。それが丁度、茸の如ですから名付けたものと思います。之もよく治ります。浄化作用をすれば段々畏縮し崩壊するのであります。
先づ軽症で一週間、重症で一ケ月位で全治致します。
肥厚性鼻炎は、鼻汁に含まれてゐる毒素の為で、それによって鼻孔の粘膜が荒れる。それがおデキになり、痛み熱を持つので、常に鼻孔が乾くのであります。之も鼻を中心にその附近をやれば毒素が解消するから治るのであります。 先づ軽症で二、三週間、重症で一、二ケ月かかります。
無嗅覚は、鼻神経の元は小脳にありますから、其間の神経に水膿が溜結して無力にしてゐる為で、それを溶解すればいいのですが、之は深部の為-相当時日を要するのであります。
軽症二、三ケ月-重症一、二年を要します(岡田先生療病術講義録 昭和十一年七月)

耳病

耳は全聾と半聾、耳鳴、中耳炎、耳垂等があります。
聾は、中耳炎などの為に自然的に鼓膜が破れたのと、手術などで人為的に破ったのとあります。又其鼓膜の破れ具合によって、軽い重いがあります。然し鼓膜はなくとも相当に聞えるものであります。中には、鼓膜は何とも異常がなくて聞えぬのがありますが、之は実は霊的であります。
それは木龍といふて、樹木に憑依してゐる霊で、蛇の霊又は鳥霊であります。 聾といふ字は、龍の耳と書きますが、龍は声が聞えないとしてあるが、音によって聞えるのであります。
蛇は、笛の音などはよく聞えるのであります。
龍には種々な龍があって、木に憑いてる龍を木龍と言ひ、多く大木に憑いてゐる。松、柳、銀杏等が多いのであります。之等の木は霊が憑き易い。
よく大木を伐ると祟る話がありますが、それであります。以前生麦に大きな松があって、京浜国道を作るのにどうしてもその木を切らねばならない。先づ最初に枝を切った男は其晩に死に、次に枝を伐った男も亦死に、親方は不思議に思ってる内に病気になった例がありますが、之等は木龍の憑いてる木だったのでありませう。
聾は木龍の憑依が多く、そういふのは鼓膜が何ともなく、耳には何等異常が無いのに聞えないのであります。
木龍の憑いた為の聾はなかなか治り難い。之は正しい信仰によって善徳を積むより方法は無いので、其功徳によって治るのであります。
肩が凝ったり、首筋が凝ったりするのを治してゐる内に、今迄聞えなかった耳が聞えて来る事がよくあります。之は頸腺から耳へ水膿が入り、固結したのが溶解されるから治るのであります。ですから聾耳は先づ治療してみなければ判らないので、従而、治療日数は最初から言明出来ないのであります。
耳鳴は、中耳即ち鼓膜の裏へ始終毒素が滲み出てゐる。それが浄化されよふとする。その浄化作用の微音が耳鳴であります。
それが外へ出たのが耳糞になるのであります。之を治療する場合は、耳を中心にその周りを浄化すると共に、耳下腺の上部即ち耳の付根から頭全体をするのであります。
非常に速く治るのと、日数のかかるのとあります。日数のかかるのは実験上薬剤中毒が多いやうであります。
治療は、軽症で二、三週間-重症二、三ケ月位であります。
中耳炎、此病は、淋巴腺耳下腺附近に滞溜した水膿が、浄化作用に由って耳から排泄されよふとする痛みの為であります。故に痛みは膿の排除の為の穿孔作用であり、熱は其膿の溶解作用であります。
それから中耳炎が発病して膿が盛んに中耳へ向って流動してゐる時氷冷をすると、膿は中耳へ進めなくなり、方向転換して小脳へ侵入する。之が脳膜炎であります。ですから、中耳炎をやってる内に脳膜炎を起すのは、全く前述の訳であります。
茲で、余病に就て一言申しますが、本当から言へば治病中余病など起るべき筈はないのであります。何となれば、本来の病気を治療するのですから、起るべき余病も起らないで済むべきであります。病気を治しながら余分の病気が殖える様では本来の病気は治る訳はないのであります。中耳炎を治しながら脳膜炎になるといふのは、全く可いと信じた手当が反対の結果を招来する訳なのであります。中耳炎は本療法によれば発病時なれば一、二回、日数経過のもので一週間位で全治するのであります。 耳垂は、浄化作用による水膿が排泄されるのでありますから非常に結構で、放任して置けば膿が出るだけ出て必ず治るのであります。(岡田先生療病術講義録 昭和十一年七月)

顔面神経痛

此病気は、顔面の神経麻痺で症状はいろいろありますが、普通の症状としては、顔の半面又は口形が一方へ引吊るやうに曲り、甚だ醜いのであります。
之は、顔面諸所を圧すと必ず痛む所があります。その個所に水膿溜結してゐるから、それを溶解すれば漸次治るのであります。
原因は、頸腺や肩部に水膿が溜結し、それが顔面にまで移行するのであります。
此図は、昨年暮にやった婦人患者で、顔面屈折し、二目と正視出来ない醜さでしたが、非常に早く、二ケ月半位で全快したのであります。

此患者は、専門家から治っても二ケ年かかると言はれたのであります。
然し、発病後早期であったので、速く治ったのですが、年月を経て固まったのは迚も日数がかかるのであります。且つ病気は治っても、顔面に癖が着いてゐるので、それは自然を待たなければならぬから-相当時日を要するので、長いのは二、三年位かかるのであります。(岡田先生療病術講義録 昭和十一年七月)

岡田先生療病術講義録 下巻(二)

上体の下部 一、歯疾患

歯痛の原因としては-
 は、歯根膜炎で、「歯の根」に膿が溜るもの。
 は、歯神経の痛むもの-との二種であります。
本療法で、非常によく治るんであります。歯痛を治療する場合は-
先づ最初に「上歯が痛むか、下歯が痛むか」を訊き、其部を外から治療するのであります。
之は、水膿が「歯の根」へ集溜する。その膿が外部へ排泄されよふとして骨膜を穿孔する。それが「激痛」なのであります。
故に、穿孔されれば痛みは軽減しますが、膿が外部へ出た為に「頬が脹れる」のであります。
治療
本療法を施せば速かに治るので、而も根本的であります。
触るると痛い場合は、触れなくとも治ります。触れるか触れぬか位にして擦り、そうして吹けばよい-それで実によく治るのであります。
もう一つの歯神経の痛むのは-
歯に腐蝕が出来た為に、神経が露出する。それへ冷水や湯茶等が滲みて痛むのであります。之は歯医者へ行って神経を殺してもらふのが一番速く治るのであります。 よく歯がブラブラして、抜かふかどうしよふかと迷ふ人がありますが、それは歯の根に膿が溜ってゐるので、浄化すれば、根が締って治るのであります。
歯槽膿漏
之は、歯根から血膿が出るのですから-「軽い歯槽膿漏」は誰でもある訳であります。
之も右か左か、どっちかが余計出るものであります。
世間では恐るべき病気とされており、中には「梅毒」だなどといふのもありますが、そんな事はないのであります。
上顎か下顎の辺を外部からおしてみると、痛い所があるので、そこに水膿や汚血が溜結してゐるから-そこを浄化すると共に、頸腺部等又は顔面特に頬の辺に痛む個所が必ずあるもので、その個所を浄化すれば、水膿は溶けて治るのであります。
治療は、普通二、三週間、重症で一、二ケ月を要します。(岡田先生療病術講義録 昭和十一年七月)

舌病

吃音は-
「生来の吃(ドモリ)」と「中風其他の為に呂律の廻らない」のとありますが-いづれも舌の運転が意志通りにならぬものであります。
後天的の方は-顎の下の所を見ると、図の如く塊があります。それを圧すと痛い。之が原因でありますから、それを溶かすと治るのであります。

先天性吃の人は「後頭部」によく固結があります。此原因が多いのであります。
此図の如き位置に、普通一個あるものであります。

之は治療して溶せばいいのでありますが、病が治っても、習慣がありますので、全治する迄には相当時日を要するのであります。
バセドー氏病の為、喉の方へ膿が移行して舌の廻らなくなる事がありますが、同じ事であります。(岡田先生療病術講義録 昭和十一年七月)

舌癌

之は最初、顎下腺に水膿が溜結して段々に深部へ移行し、終に舌根を犯すのであります。

此病気は、舌を動かせば痛み、物を食べると滲みる。なかなか苦痛であります。
此病気の手術の結果は、面白くないやうであります。手術をすれば、縫ふ為に舌はとても吊るのであります。
又、ラジュウム療法をよく行ひますが、之は-固めるから癌は縮小しますが、舌はよけいに吊るやうであります。
本療法によれば、手術を受けない患者なら必ず治癒するのであります。(岡田先生療病術講義録 昭和十一年七月)

咽喉疾患 アデノイド

之は、鼻と喉の間に「腫物」が出来る。
之は外の方から、鼻と喉の間あたりの見当をつけて治療すれば治ります。
殆んど子供の病気ですが、うっちゃっておいても成人するに従ひ治るのであります。(岡田先生療病術講義録 昭和十一年七月)

扁桃腺炎

扁桃腺は、外の方から指触すれば直に腫が判るので、診査は極容易であります。
よくルゴールといふ薬で焼くが之は面白くないやうです。
此療法は、私も昔随分やられましたが、反って長びいて慢性になりやすいのであります。焼く為に一週間も二週間もかかります。
私は焼かなくなってから二、三日で治るやうになったのであります。(岡田先生療病術講義録 昭和十一年七月)

扁桃腺肥大症

扁桃腺の起った時に解熱法を行ふ。その為に膿が固結するのであります。これは最初の項目で詳説してあるから略します。
「耳下腺炎」も「淋巴腺炎」も前同断ですから略します。
頸部附近に水膿溜結の場合、解熱したり、電気をかけたりすると固まってしまふので、其為又隣部へ出来て段々殖える事がよくあるのであります。
最初一個所脹れた場合に、放置しておけば、その一個所へ膿が集溜し、充分脹れてついにブラ下る位になって、そして小さな孔があいて、膿が出て綺麗に治るんであります。
以前、私が扱った患者で斯ういふのがありました。
最初耳下腺附近に脹が出来たので、盛んに氷で冷した。すると、其部分は脹れ切れずに固まったので、病院へ入院した。
すると今度は、反対の側の方へも腫が出来た。それをも氷で冷し、次々出来ては氷冷して、次から次へ出来た腫物を悉く固めてしまった。すると其為に膿が其部へ集溜されなくなるから、段々下の方へ溜るやうになって、終に肺気腫が起りそうになったのであります。

医師は驚いて、生命が危険だといふので、切開して膿を出したが、それも一時小康を得ただけで今度は、外部へ集溜されなくなった膿は、止むなく内部-即ち口内から咽喉部へ溜って、終に咽喉が塞がり、呼吸困難になって死んだのであります。
死の一ケ月ばかり前に私の所へ来たのでありますが、私の方でいくら溶いても「氷で固めてある為」と「衰弱の為」に浄化力が起らないので、どうする事も出来なかったのでありました。
此患者など、最初から何等手当をせず、放任しておいたなら、順調に治って生命を完うしたらうに-と思って実に残念で堪らないと思ったのであります。(岡田先生療病術講義録 昭和十一年七月)

喉頭結核

此病気は声を使ふ人に多いので、最初、顎下腺から扁桃腺附近に膿が溜り、漸次深部へ拡大し、咽喉部に迄移行するので、其為に声が嗄(カ)れるのであります。
段々進むに従って、食物を嚥(ノ)むのにも困難になり、水も飲めなくなって、衰弱して仆れるのであります。ちょうど喉へおデキが出来て、そして、其『おデキ』の頭へ物が触れるやうに痛むのであります。
之は本療法によれば順調に治ります。
然し余り衰弱し過ぎてゐるのは困難ですが、「歩ける位の程度」だったら必ず治るんであります。
軽症で一ケ月、重症で三ケ月位で全治致します。(岡田先生療病術講義録 昭和十一年七月)

声嗄れ

喉頭結核でなくて、声の嗄れてる人がよくありますが、之は「喉頭結核の手前」位のものです。
之は、耳下腺から淋巴腺附近に溜結してゐる毒素が溶けて、常に滲み出て、発声器能を刺戟する為、腫れて運動不能になるからで-
之は、それを溶解する事によって、容易に治るのであります。
軽症で二週間位、重症で一ケ月位であります。(岡田先生療病術講義録 昭和十一年七月)

喉頭癌

之は、水膿溜結の頑固性のもので-
外部から指頭で触れば、扁桃腺の如く明瞭に判るのであります。 そうして、順調に治癒するのであります。
軽症で二、三週間、重症で一、二ケ月位かかります。
喉頭癌と喉頭結核との区別は-
結核の方は喉全体に渡りますが、癌の方は一局部に出来る固結であります。(岡田先生療病術講義録 昭和十一年七月)

バセドー氏病

喉の下に「甲状腺」といふのがある。そこへ水膿が溜結するので-
一見、喉の中央が出張ってゐるのであります。又此病気の人は、全体的に見ても喉が太いのであります。
普通、甲状腺が脹れる-といひますが、私の観る処では-甲状腺の外部に水膿が溜結するのであります。
バセドーといふ人が発見した病気ですが、病が進むと眼が飛出るのが特徴で「眼の大きい人」に多いやうであります。
そうして、悪化すると心臓を頗る悪くする。其結果「脈搏不正」又は結滞を来すのであります。
普通は、治りいい病気であります。
「姙娠すると危険だ」-といって、人工流産させますが、私の経験上、そんな憂はないと思ふのであります。(岡田先生療病術講義録 昭和十一年七月)

水癌

之は実に恐ろしい病気ですが、滅多にない病気であります。
最初は、口辺に黒い物がプッと出来、迅速に悪化して孔があき、頬の肉が、大きいのは鶏卵大にも欠除して了ふので、其結果、口中全部が露出する。歯や舌など全部見えるのであります。実に物凄く正視出来ない位で、横からみますと、右図のやうになります。
(岡田先生療病術講義録 昭和十一年七月)

面疔

顔面の一部に腫物が出来るんですが、よく『顔の経の中心』に出来るのが質が悪いとしてあります。
又、口の無いのも悪いといひますが、之はそうではない。
最初は口の無いのが普通で、腫れ切ってから口が出来るんであります。
面疔は必ず治るもので-よく面疔で死にますが、之は不思議と思ふのであります。
先づ、顔の一部に面疔が出来ると-
自然療法ですと、段々腫れて、口が出来て膿が排泄されて治るんであります。 処が、近来それを冷すので、その為に浄化作用が停止されて固まってしまふ。それ故、膿が他の方面に集溜する。その集溜個所によって『危険性』となるのです。 又もう一つは、早期に切開するのが、結果がわるいようであります。
熟練な医者は熟するのを待って切開しますが、之は非常に結果が良いのであります。
本療法によれば、一回乃至三回位で完全に治ります。生命に係はるやうな事は絶対ないのであります。(岡田先生療病術講義録 昭和十一年七月)

丹毒

之もよくある病気ですが、之は床屋へ行って、剃刀で傷つき、そこから黴菌が入って起るとされております。無論そういふ事もあるでせうし、そうでない事もあるでありませう。
やはり浄化作用の為「特殊の毒素」がそういふ機会によって誘発され、排除されるのであります。
此病気は、最初顔が脹れる。ひどくなると身体の方まで脹れ、尚進むと睾丸まで脹れる事があります。又高熱の為衰弱するのであります。
衰弱をしない内、本療法を行へば訳なく治ります。
半身位迄脹れた時ならば五、六回、顔だけが脹れた程度なら二、三回位で治ります。(岡田先生療病術講義録 昭和十一年七月)

口疹

口の端や口脣へおデキが出来たり、糜爛したりするのは唾液に毒素があるからであります。
之は、患部と口中の浄化をすれば、容易に治るのであります。
然し軽症なら一週間以内に治りますが、重症となると二、三ケ月位かかる事があります。(岡田先生療病術講義録 昭和十一年七月)

口内疹

之は口内の粘膜に発疹が出来て非常に痛む、そして喉の方まで来ると食物も嚥めなくなります。子供に多い病気で水さへ飲めなくなります。
之は治療すればすぐに治るのであります。治療は二、三回であります。(岡田先生療病術講義録 昭和十一年七月)

癲癇

癲癇には二種類あって、体的と霊的とあります。先づ体的原因からお話致しませう。
延髄附近に水膿溜結する為、脳へ送流される血液が阻止される。それが強烈な場合、血液が中断される事がある。其瞬間癲癇症状を起すのであります。
此症状は、膿結溶解によって容易に治癒するのであります。
今一つは霊的の場合で、此方がはるかに多い事と悪質であります。 霊的の原因は「死霊」が憑依するので、「死の時の苦悩の状態」そのままを表はすのであります。多くは変死又は急死であります。
脳溢血での死霊は、特に多いのであります。
発作が起ると「脳溢血で仆れる状態」その儘をする。それは-脳溢血などで急死した霊は「死の準備」がないから「自分が何時迄も現世に在るつもりの想念」でゐる。其為、生きた肉体を見付けて憑依するのであります。
仆れて泡を吹くのは「水癲癇」で、「水死した死霊」が憑るのであります。
又よく水を見て仆れるのがありますが、之は「水へ落ちて溺れた死霊」が憑くのです。死の刹那「ア丶水は恐ろしい」といふ想念がこびり着いてゐるから、水をみると恐れるのであります。
又「火癲癇」といふのは、火を見て恐れる。以前扱った癲癇で、斯ういふのがありました。それは必ず夜中に寝てゐる時に発作する。起きてる時は決してない。それは最初火が燃えるのが見へ、段々近くへ燃えてくると、意識が無くなるのであります。 之は、震災直後であったから、多分震災で焼け死んだ病人の霊に違ひないと思ひました。
以前こういうのがあった。それは一、二分間パッと意識が不明になるのであります。(その人は株式仲買の支配人をやってゐる人ですが)最初一年に一遍位起ってゐたものが、段々重くなって、終には一月に一、二回位おこるやうになった。又極度に発作を恐れる為に一種の神経衰弱になって了ったのであります。
査べてみると、其人に憑いてゐるのは、昔千住の小塚原で闇打に遇って殺された霊で、無縁になってゐた為祀ってもらひたいといふのであった。最初病気が起ったのが九月の何日でしたか-丁度其日に死んだのであります。その為断へず闇打に遇ふやうな恐怖に襲はれるので一人歩きは出来なかった位であります。半年位治療する内、段々軽快に向ひ、その死霊を祀ってやったら、それっきり治ったのであります。
癲癇の治療を始めると、一時は反って余計に発作し、それが或期間過ぎると、段々治るのであります。
大体に於て、時日は長くかかりますが、治るのであります。(岡田先生療病術講義録 昭和十一年七月)

一、中体の上部・中部

中体の上部と中部は、病気が関聯してゐますから、上中一緒にして説明致します。(岡田先生療病術講義録 昭和十一年七月)

肺結核及び喘息

中体の主要機関は、何といっても肺であります。右肺は大きく左肺は小さい。それは、心臓が左にある為で-
心臓は日に相応し、肺臓は月に当る事は前にお話致しました。
症状としては、微熱又は高熱、咳嗽、喀啖、血啖、喀血、食欲不振、下痢、盗汗、息切、疲労、胸痛、首及び肩の凝り-等であります。
先づ、発熱の原因は種々ありますが、その「熱発部」としては-淋巴腺及び耳下腺、頸腺、首の付根、肩部、脊部、胸部、腹部、腰部-等であります。
診査の際、掌を宛つれば、熱のある個所はよく判るのであります。
その熱発部を指査し、特に痛む個所は-水膿溜結であって、それを溶解すべく「熱の工作」が起りつゝあるのであります。
胸部の熱発は、胸骨に水膿が溜結してゐる証拠であって、指圧すれば必ず痛みがあります。
之等の症状の場合-先づ「肺尖加答児」又は「肺門淋巴腺」-といはれるのでありますが、吾々の見る所では-此際肺には未だ異常はないのであります。 所謂、肺患になる迄の順序を述べてみませう。最初、浄化作用に因る水膿や毒血が頸部の周囲に滞溜しますが、それの浄化作用が風邪であって、それを繰り返しつゝ、胸部の水膿溜結に迄及ぶ、順序は「病気の本体」の項目に詳しく述べてありますから略しますが、それから進んで心窩部の両側-臍部辺にかけて水膿が溜結する。之が喘息の原因であって、咳嗽や息切がおこるのは勿論、喀痰も伴ふのであります。
尚進んで腹膜部迄水膿溜結するので-それが腸を圧迫し、又は水膿排除作用によって、下痢症を起すのであります。
肺患の場合の咳嗽も、殆んど此喘息の為が大部分であります。
尤も肺患そのものからの咳嗽もあるにはありますが、それは肺炎の予後『肺臓内に残存せる喀痰』による場合と-
肺壊疽、肺臓癌、粟粒結核などであります。
もっとも『頸部、肩部、胸部に於ける熱発』による咳嗽などもありますが、それは軽微であります。
茲に喘息に就てお話致します。
此病気は誰しも咳が出る為、気管がわるいやうに思ひますが、原因は意外にも気管ではなくて、前述の個所であります。
故に、此部を指査しますと、水膿溜結がアリアリ判って、相当痛みを感ずるのであります。
之を溶解するに従って、漸次、咳嗽は減少してゆくので、指圧しても無痛になった時は咳嗽も消滅した時で、昔から不治とされた喘息も、本療法によれば確実に全治するのであります。
此病気は、最も治癒し難いとされておりますが、実験上先づ七十パーセント位は治るのであります。
そうして、衰弱が甚しくない限り順調に治癒しますが、相当の日数即ち普通二、三ケ月から六ケ月位を要するのであります。
肺壊疽、肺臓癌、粟粒結核等は、稀な病気ですが、悪質であります。
初期なら全治するが、二期以上は先づ不治と見なければならないのであります。 此病気は、徹底的説明をするには、どうしても現代医学を非難する事になりますから、徳義上、差控へたいと思ふのであります。
宜しく、実験によって知るより致方ないのであります。(岡田先生療病術講義録 昭和十一年七月)

肋膜炎及び肋間神経痛 肋膜炎

此病気は、肺の外部に肺を包んでゐる膜があります。その「膜と膜との間」へ水が溜り、又は「高熱」を発するのであります。
肋膜炎には、湿性、乾性、化膿性の三種があります。一番多いのは湿性肋膜炎であります。(岡田先生療病術講義録 昭和十一年七月)

湿性肋膜炎

之は「水」が溜るので、その「水」といふのは尿であります。
ですから、発病して水が溜る際には尿の量が一時非常に少いのであります。
発熱は大抵三十九度台が普通で、四十度を越す事は滅多にないのであります。 最初は非常に痛む。之は水が溜る為、膜に間隙を生ずるからで-
水が溜りきると、痛みが減りますが、その代り呼吸苦しくなるのであります。 特徴としては-
眩暈と盗汗、過眠等であります。
特に呼吸苦しい事であります。
それは、水が溜る為、肺が圧迫されるからであります。ですから-『肋膜炎の息苦しさ』は-『吸ふ息は長く、吐く息は短い』のであります。
専門家は、普通最初利尿剤を服ませますから、小水が余計出て一時快くなりますが、日を経るに従ひ『逆作用』が起ってきて、再び尿量が減り、水が溜るので、今度は止むを得ず、針で穿孔して水を除るのです。普通一合乃至三合位出るものであります。
然し、水を除ってから、そのまゝ治ってしもふ事もありますが、また溜ってくる事もあります。
原因としては、腕を使ふ為に起る場合が多い。例へば、非常に力業をするとか、高い所へ手を挙げるとか、胸を打つとか、そういふ事が動機となるもので、器械体操など、上へ飛びついて力を入れる為、殊におこし易いのであります。
又「自然におこる」場合もあります。
肋膜の水が肺へ浸潤して、咳や痰が出る場合があります。最初はそういふ事はないが、少し長びくと、そうなるのであります。(岡田先生療病術講義録 昭和十一年七月)

化膿性肋膜炎

之は湿性肋膜炎で水が溜るやうに、その個所に膿が溜るのであります。
最初から膿が溜るのと、湿性肋膜が長引いて化膿性になるのと両方あります。 普通、悪性とされてゐますが、吾々の方では、とても治りいいのであります。随分ひどいのも治るのであります。
「湿性肋膜が化膿性肋膜になり」又は、「本来の化膿性肋膜のその膿が、肺に浸潤して、痰になって出る」場合があります。此場合よく肺結核と診られるのであります。
以前三十位の婦人で、某大病院に入院してゐたんですが、私が行ってみると、背中へ孔を穿けて毎日膿を除ってゐた。そして断えず膿が出る。咳一つしても、息を一寸深くしてもダラダラと牛乳のやうな膿が流れ出るのでした。段々衰弱してゆくので、終に退院して私の方へ治療に来たのです。すると、傷口には「ガーゼ」が細く入れてある。そして其穴が塞がるといけないから-といふので、近日もう一個所大きく切る事になってゐたのであります。
その穴は、針の穴位になってゐたんですが、私の所へ来てからガーゼを詰めなかったので、翌日穴は塞がってしまった。その日治療に行ってみると、其婦人は御亭主の前で泣いてゐる。『何故泣いてゐるのか』と訊くと「実は、傷が塞がると、膿が頭へ昇って脳症を起し、生命がないとの事を聞いてゐるから、穴が塞がった以上もう生命がない」と絶望してゐるのであります。「それではもう一遍病院へ行って切ってもらったら-」と御亭主は奨めるけれど、「もう今更再び病院は嫌だ」と御本人は言ってゐる。それで私は『そんな事はない。外から膿を溶かせるから』と慰めた所-まあ、半信半疑で兎に角そのままになった。
そのうち段々具合がよくなって、食欲はつき、歩いて便所へ行けるやうになった。そして一週間程経ったらお正月で、お雑煮を三杯も喰べたのであります。そして一ケ月余りですっかり治ったのであります。
これは化膿性肋膜炎でも、随分ひどいものだったのですが、今でもピンピンしております。(岡田先生療病術講義録 昭和十一年七月)

乾性肋膜炎

之は水が溜らぬもので、水は溜らぬが、湿性と同様に膜間に空虚が出来るので、非常に痛むのであります。
此の痛みは、膜と膜とが「離れる為の痛み」と「擦れる痛み」とであります。 之は、一週間位で全治致します。
然し、乾性肋膜は極少い病気で、よく、「乾性肋膜」といはれて来る患者を査べてみますと、殆んどそうではないのであります。
それは、肋骨に水膿が固結して痛むので、実は肋間神経痛でありますが、よく間違へられるのであります。此の痛みは-稲妻のやうに迷走的に痛むのであります。 之は普通一ケ月位、重症で三月位かかるが順調に治るのであります。
肋間神経痛である-所謂乾性肋膜炎の治療法は-骨の痛む所を一所一所溶してゆくから相当時日がかかります。
之にもひどいのがあって、以前、両胸から脊部全体が痛むといふ、頗る広範囲の神経痛の患者があったが、三月位かかって漸く治ったのであります。 斯ういふ例もありました。之は霊的でありますが-或商店員で「胸が痛い」といふので、そこを治すと、此方が痛む-といふやうに胸中に痛みが動くのです。
之は「蛇の霊」なんで、最初は其家の娘さんが肋膜になり、私の所で治り、次に、女中が同様の状態で治り、次に小僧さんが同じ様な症状で来た訳であります。
その「蛇の霊」を私に憑かしてきいてみると、それは、そこの家の「祖先」であって『祀ってもらひたい』といふ訳だったので、早速、『龍神』として祀ってやったら、それから、その家にそういふ病人は全然なくなったのであります。
此の種のものでも、別に祀らなくとも本療法で治るのであります。
肋膜炎を治療する時は-
胸に触ると熱の所があるから、そこをやりつつ、痛みを問診しながらやればいいのであります。
息を深くさせると痛い所がありますから、そこを治療して、息をさせて痛くなくなればそれで治った訳であります。
患部としては、乳部附近から横腹から、背中へかけてであります。 も一つの眼診でも判る場合があります。
背中を見ながら息を大きくさせると、余計拡がる方の肺は健康で、拡がらない方は水が溜ってゐる訳であります。
右が悪いか左がわるいか-といふ事を見別けるのに、病人は右か左かどっちかわるい方を下にして寝るものであります。
何となれば、悪い方を上にして寝ると、圧迫されて苦しいからであります。
食物は、普通の米飯でよく、安静にしなくとも、苦痛でない限り働いてゐてもいいのであります。
肺でも肋膜でも、絶対安静にすると治りがわるいので、成可身体を動かした方がいいのであります。
肋膜など、発病したてなら二、三度で治ります。風邪より治りいい位のもので、極くひどいのでも一週間と思へばよいのであります。肋膜が治ってから二、三年も経つと、背中又は胸部に腫物が出来る事がある。之は、肺が丈夫になり、浄化作用によって膿が押出されて来たので、チッとも心配ない処か、極めて結構な事なんで、ほったらかしておけば、自然に膿が出て治るんであります。(岡田先生療病術講義録 昭和十一年七月)

肺炎

之はよくある病気ですが、診査も至極簡単であります。
肺臓の下部即ちちょうど「乳の下」に当る個所、そこへ膿が溜る。即ち「痰」が溜るんであります。
手をあてると「乳の下」だけが特に火のやうに熱いので、すぐに判るのであります。
症状は、喉がぜいぜいいって、咳と痰が非常に出る。熱は四十度前後であります。 原因は浄化法の最も急激徹底したもので、要するに「風邪の重いもの」と思へばいいのであります。ですから、肺炎は寧ろ健康の人に起ります。つまり“健康だからおこる”訳です。
先づ、大浄化法が行はれる訳で-
「風邪」の熱で溶解された-頸部及び肩部の膿が、胸部一帯に氾濫すると、其重味によって一旦肺の下部に溜る。そして尚も熱を以て溶解され、痰になって肺胞を通過して出るのであります。
それで喘音のあるのは、肺に痰が滞溜してゐる為であります。
右の方が鳴る時は右肺、左の方が鳴る時は左肺に痰があるのであります。
治療の場合は、乳の下の浄化をやればとても簡単に治るのであります。そして間もなく平熱になるのであります。
肺炎を平熱にしよふとして、一時間位治療すれば一回でも治るのであります。
私は肺炎の患者を働きながら一週間で治した事があります。
肺炎から喘息になる場合がよくあります。それは-肺炎の時、解熱剤を使用する為、溶け損ねた痰が下降して、喘息部に滞溜するからであります。
肺炎が拗れるのは、解熱法の為であります。肺炎の痰が溶解され損ねるから、外部へ排泄する力を失ひ、肺臓の中途で停滞するからであります。
こういふ人は、非常にラッセルが聞えるので-肺結核の進んだやうに思はれる事がよくあります。
此痰は、一旦浄化作用をされた痰ですから、非常に溶けやすいのであります。 肺炎が治ったと思っても、未だはっきりしない人がある。そういふ人は「乳の下」がやはり熱い。そこに残ってゐる訳であります。
肋膜肺炎といふのがありますが、之はやはり、膿が下部へ溜ったのが溢れて、幾分肋膜へ滲出するからであります。
之も治癒は非常に速かであります。
小児にも多いんで小児肺炎といひます。(岡田先生療病術講義録 昭和十一年七月)

岡田先生療病術講義録 下巻(三)
之から心臓の事に就てお話致します。
よく心臓が悪いといふ患者を査べてみると、本当に心臓の悪い人は滅多にないのであります。
心臓の異常は脈でみるのが一番いい。何病でもそうですが、リョウマチスとか神経痛とかは脈を診なくともいいのですが、内臓に関係のある病気は、必ず先づ脈を診なくてはならないのであります。
脈で診る癖をつけると、余程脈によってすべての状態が判るのであります。
昔の漢方医の大家は、脈は廿一通りもあって、脈を診ただけで、どこが悪いかといふ事が判ったといはれております。之は段々熟練するとそこ迄到達し得る事も至難ではないと思ふのであります。貴方方でも一年位やれば略々判るやうになると思ひます。
脈の不正といふのは、トントンと搏つのが不規則で、トントント……トントントンといふやうに搏つ。ひどいのになると、計算の出来ないのがあります。無論、斯ういふのは症状はわるいのです。又結滞するのがあります。トントントントン--トンといふやうに一つ位休んで搏つのであります。
普通結滞するのは悪いとしてありますが、健康体であって結滞する人も偶にはあります。
之は差支へないんであって、どこか病的症状があって結滞するのはわるいのであります。
又脈に力のあるのと無いのとありますが、持上る様にきつく力のあるのは健康体であって、どこか悪い所があるか、又は衰弱してゐると、非常に力がないのであります。
次に脈の数ですが、年齢の少い程多いので、生後二、三年は百十位、四、五歳で百位が正常であります。そして段々成長して子供で九十位、青年になってから四十歳位迄は七、八十であります。それで、脈の数としては、成人で先づ八十位までは健康体としていいのであります。年をとるに従って脈は少くなり、七、八十歳になると六、七十位になります。
病気でなくとも、非常に疲れたり、腹が減ったりした時などは多いのであります。普通病体として脈が九十位迄なら必ず短時日に治るのであります。
次に、先づ百迄の脈なら、時日の長短はありますが、必ず治るとしていいのであります。
それから百以上百十位迄は、治ると治らないとの半々位であります。
然し、百十から百二十迄は治るのもありますが、大体治癒困難と見做していいのであります。
百二十を越したら、之はもう危険区域へ入ってゐるので、普通二、三日-長くて一週間以内に駄目と見ていいのであります。
然し、一時的発作的に百二、三十位あっても、長く持続しないで、二、三十分か一、二時間で元へ戻るのは全然ちがふので、之は何でもないのであります。昨日も今日も百二十位といふ具合だったら、先づ快復は困難と見ていいのであります。
熱が高いと脈搏は高いといふ事になってゐますが、之は火素即ち熱を吸収するのに心臓が熾(サカ)んに働く為であります。然し、病気によって、必ずしも高熱に伴はない脈の少い場合もあります。
衰弱してゐる者の脈で、弱くて速いのは、火素は吸収してゐるが、其力が足りない為であります。ですから-脈で一番衰弱の程度が判るのであります。
脈がフワフワしてゐるのは、余程衰弱してゐる。之は感じで判ります。又衰弱してゐながら、ゆっくり搏つのがあります。之は、一つの脈が段がつくやうに()でなく()、(一山でなく二山型)に搏つのであります。一寸見ると正確のやうですが、念を入れてみると変な所があります。之は心臓が弱ってゐるので、こういふのは多く喘息の持病の人にあります。世間一番誤られ易いのは、喘息と心臓病であります。御承知の通り、喘息の原因は、横隔膜下に水膿が溜る。それが肺の下部を圧迫し、それが又心臓を圧迫する。それの為、動悸や息切がする。此症状を心臓がわるいと診られ易いんであります。
又心臓部の肋骨に水膿が固結し、其附近に水膿がある場合があります。そうすると、微熱を持ったり、多少の圧迫もあるから、そういふ人は少し何かすると、直ちに鼓動が激しくなる。之が心臓弁膜症と間違へられるので、此例は割合多いのであります。之は簡単に治るのであります。
三月程前-二十年来の心臓弁膜症が僅か三回で治って、今はすっかり快く、とても感謝してをります。
弁膜症は治らぬとしてありますが、実に簡単に治るのであります。が、是等の患者は謂はば擬似弁膜症で、それは全く心臓に何等異状がないからであります。
心臓弁膜症でも、脈搏に異常が無ければ容易に治るのであります。それは大抵喘息の膿の為か又は肋骨の為と思へば間違ひありません。然し本当の弁膜症はあります。それは心臓狭心症に因るのと不時衝動の為とであります。
狭心症は非常な苦痛を起すもので、胸部は締めつけられる様であります。原因としては、水膿溜結が心臓部に出来、心臓を極度に圧迫する為で、其結果弁膜の運動が阻害されるからであります。
之は絶対治らぬとされております。そうして鼓動が不正になるので、之が本当の心臓弁膜症で、偶にしかない病気であります。
も一つは、高所から落ちたり、或は胸を打つとか、そういふ大きな衝動によって心臓に打撃を与へる。それが為弁膜症となり、脈搏不正になるのであります。
又非常な大酒飲みで、酒の為に常に心臓が刺戟を受け、肥大となって故障を起す。そういふ原因によって起る事もあります。
も一つはバセドー氏病の末期に、脈搏不正となる事もあります。本当の弁膜症は非常に治り難いのであります。唯以上の内、衝撃に因る場合は治りいいので、之は打ちすてておいても、何年か経つと自然に治るのであります。水膿溜結による弁膜症でも、気永にやれば必ず治るんであります。
酒の為になったのは、酒を罷めて気永にやれば治るのであります。
唯狭心症の結果、弁膜症になったのは一番困難であります。之は最もひどく打撃を与へられるからであります。
其他心臓肥大といふ事をよく謂ひますが、之も滅多にないんであります。よく肥大といって来る患者で、そうでないのが沢山あります。
之は多く喘息の水膿溜結の為、横隔膜附近が脹れてゐる。すると「そこまで心臓が肥大してゐる」やうに見えるのであります。
心臓肥大症は、大酒家、スポーツマン、永年の重症喘息患者等にある病気であります。又非常に苦しむ病気などに罹ると、いくらか心臓肥大するやうであります。
心臓神経衰弱といふのがありますが、之は発作的に非常に胸が苦しくなる。そうして脈が早くなって呼吸困難になり、脣は紫色になり、今にも死ぬかと思ふ状態になる。処が之は何でもないので、三十分か一時間位経つとケロリと治るんであります。 医学では「心臓神経衰弱」と謂っております。之は何の為かといふと、死霊が憑る。つまり死んだ霊が臨時に憑るんで、其死霊の死の刹那の症状が現はれるのでありますが、之は本療法で簡単に治るんであります。
又心臓は普通左に着いてゐるのですが、右に附いてゐる人が時々あります。之は心得ておくべき事です。
前に、随分変ったのがあった。肋膜をやった人で、肋膜炎が治ったら、左にあった心臓が右へ移ったといふのです。見ると慥かに右の方で鼓動が打っております。之は生れつきではない。病気が治ってから右へ行ったんだと言っておりましたが、之は如何なる理由か分りません。(岡田先生療病術講義録 昭和十一年七月)

胃病

今日、胃病といふ病気になるのは、殆んど全部が薬の中毒といっていい位であります。消化不良とか胸焼、胃酸過多、アトニー、胃痛などいろいろありますが、原因は一つで、最初は食物がもたれたり、不消化であったり、胃が痛んだり、胸が焼けたりする。然らば、それ等の原因は何かといふと、之は全く食物の分量を決めたり、食事の時間を決める為であります。何となれば、分量や時間を決めた以上、前の食物が消化されない中に食ふ為に、前の分が醗酵し腐敗し、前述の如き胃の病的症状を起すのであります。
でありますから、腹が減れば食ひ、減らなければ食はない主義にすれば、絶対に胃病は起らないのであります。
私は此方法によって永年の胃腸病が治り、今日は頗る健全であります。
此やうな病的症状が起った場合、其原因に気がつき、それを改めれば容易に治るのであるが、誰しも其場合薬を服む。それが抑々胃病の始まりであります。
薬を服むと確かに一時は快くなるが、原因を改めない限り再び起きるので、其度毎に薬で抑へる。其為終に慢性になるのであります。それで胃痛や胸焼や種々の苦痛は胃の浄化作用であるから、放任しておけば必ず治る。それを薬剤を服むと浄化作用が一時停止される。それで一時苦痛がなくなるから、それを「薬で治る」と信じるのでありますが、何ぞ知らん、事実は「治癒を停止」させたに過ぎないのであります。実際、薬で治癒されたなら、最早病気はおこらないはづであるのに、再び起るといふのは「治らない」からであります。
言換へれば、胃自身としては治らふとして痛むのを、治ってはいけない-といふやうに薬を服むといふ理屈になるのであります。そうして、胃がわるいと消化薬を服む、そして消化の可い物を食べるんですが、之が亦大変な誤りで、態々胃を弱くするんであります。何となれば、胃は胃自身の活動によって、物を消化する様に出来てゐる。それによって胃は健全を保ってゐるのであります。処が消化薬を服むと、胃は活動しなくとも済む。薬が消化して呉れるからで、その為胃は段々弱体化する。有閑者のやうになる。そこへ消化のいい物を食ふから、猶拍車をかける訳で、益々胃は退化する。退化するから薬を倍々服む-といふ循環作用で終に慢性になるのであります。そうなると、偶々固い物を食ったりなどすると胃はとても骨が折れる。もう「消化する力」を失ってゐるので、そのまま腸へ送る、腸も胃の影響を受けて弱体化してゐるから、下痢し易くなるのであります。
中には反対に便秘する人があります。之は食物が少量過ぎる為と、胃薬で柔軟化させ過ぎる為であります。
ですから、下痢と便秘と交互にする人がありますが、全く前述の理に由るのであります。
自然に任せておけば、順調に排除されるのを、薬剤によって不正にさせ、苦しんでる人が、随分世間には多いやうであります。(岡田先生療病術講義録 昭和十一年七月)

胃潰瘍

次に、胃潰瘍と胃癌ですが、胃潰瘍は全く薬と飲酒が原因で、特に薬剤の方が悪性であります。それは、胃薬は食物を柔軟化させると共に何時しか胃壁も柔軟化さしてしまふ。それが為少しの固い物が触れても、亀裂を生じ易くなり、其結果血液が滲出するのであります。其血液が胃の一部に滞溜して、便に混入して出る事があります。此場合、古い血ほど黒色なのであります。出血がなくとも胃潰瘍といはれる事がありますが、出血が無ければ潰瘍にはなってゐないのであります。亀裂が大きい程出血が多量であります。口から血を吐くのはそれであって、斯ういふのは血が新しいから赤いので、之は重症であります。
然るに、此胃潰瘍を薬で治そうとするが、それは不可能であります、何となれば言ふ迄もなく、薬が原因の病気であるからであります。
胃潰瘍は、薬をやめて痛みと出血のある内は流動食ばかり摂らせ、出血が止まばれお粥のやうな物を食はせ、そして段々普通食にすればいいので、衰弱さへ甚しくなければ必ず治癒するのであります。
日数は軽症で一ケ月位、重症で三ケ月位であります。(岡田先生療病術講義録 昭和十一年七月)

胃癌

此病気は余程前から世界中で研究してゐるが、原因はどうしても判らない。それで現在は、癌を治療する研究ではなく、癌を発生させる研究をしてゐる実状でありますから、先づ治療法発見迄には、今後何十年或は何百年かかるか判らないのであります。
然るに、吾々の方では現在完全に治癒する事が出来るのであります。茲で其癌の原因と発生の経路をお話致します。元来、癌なるものは、青年期には発生しない。四十歳以上でなければおこらないといふ事実でありますが、之は如何いう訳か。此点から解決されなければならないのであります。
それは、人体内にある毒素が、自然浄化作用によって常に何れかに集溜しよふとしてゐる。然るに、集溜作用は運動等に因る-神経活動の部に限るので、青年期には全身的活動旺盛の為、四肢五体に分散するのであります。
然るに、老年期に近づくに従ひ運動不足になる結果、毒素は一部分に集溜しよふとします。即ち、運動不足者は、肺、心臓は余り活動しないから、どうしても、胃の部に集溜するのであります。
そうしてその毒素なるものは水膿でありますから、それは時日の経過によって固結してゆき、進んで化膿性になります。此化膿した一種の内部腫物は、胃の外壁から内壁へと蝕入してゆく。之が胃癌になる迄の経路であります。
診査の場合、胃部を圧して痛い塊のあるのは、先づ「癌の卵」と思へばいいので、普通、心窩部から臍迄の間の中央線が主で、次が其両側であります。
然乍ら、胃部に滞溜した水膿も、其人が浄化力旺盛であれば、自然下痢などによって排泄されるのであります。
近代人は、少しでも不快だと直ちに薬を服む。薬剤は浄化力を弱め、特に胃薬が胃を衰弱させるから、胃の抵抗力を減ずる結果、排泄されないで、終に化膿する迄になるのであります。
化膿が進めば、胃の一部に穿孔される事になる。そうなると胃の活動は殆んど停止され、又その孔からの排膿作用も加はって、旺んに嘔吐をするのであります。
然し、癌は身体が衰弱してさへゐなければ必ず治るのであります。何となれば、胃は仮に化膿しても浄化すれば元の様になる性質のものであります。
胃癌の最初の徴候は、胃痛又は重圧感であります。嘔吐が加はるのは、相当進んでからであります。
胃癌の初期ですと、本療法で一週間乃至二週間で全治するのであります。
次に、最も注意しなくてはならないのは末期のものです。之は治療する場合に、非常に危険があります。それは、癌を溶解するのに急激ですと、内出血するから生命に係はるのであります。故に末期の癌は極めて徐々に治療しなければならないのであります。
私が以前扱った患者で、腸の一寸位上の方に、護謨毬(ゴムマリ)位の癌があって、治療二、三回でずっと萎びたので喜んでゐると、間もなく死んだのであります。それは、急に癌が溶けた為、内出血したので、之は私の無経験による失敗でありました。そういふのは圧してはいけない。極く軽く触れるか触れない位にしてやらなくてはならないのであります。
胃癌によっては、腸又は肝臓部へ移行する場合もありますが、之は最も悪質であります。普通の進んだ症状に、コーヒーのやうなものを沢山吐瀉する事がある。あれはよく出血といひますが、私には、そうは思へないのであります。あの吐瀉物は、煙草かコーヒーのやうな色で血の色ではない。そして之を随分吐きますから、血液なら生命を保てる訳がないと思ふのであります。
之は、沢山飲んだ薬剤の化学的変化した物と思ふのであります。勿論此中に幾分血液は混っておりませうが、全体としては他の物質と思ふのであります。(岡田先生療病術講義録 昭和十一年七月)

胃下垂

次に、胃下垂でありますが、原因は、消化薬を服みつつ柔い物ばかり食ふから胃が弱る。それで緊張が無くなるから弛緩し、下垂するのでありますから、「人為的製造病」であります。然し、胃下垂と言って来る患者で、事実下垂のものは十人に一人位であります。それは、実は、水膿溜結の大きいのが胃から腸の部分にあるので、それが下垂のやうに見えるのであります。
此症は、本療法で溶解すれば、一、二週間位で簡単に治るのであります。
又真の胃下垂は、食物の改良-即ち普通米飯食になし、薬剤を服まなければ短時日に治るのであります。(岡田先生療病術講義録 昭和十一年七月)

胃痙攣

胃痙攣は、水膿溜結が段々固結した時、胃の方が不消化物又は大食をして膨脹する時、胃とその固結物とが押合って痛むので、その痛みのひどい為に痙攣を起すのでありますから、その固結を溶解すれば全治するので、割合容易であります。(岡田先生療病術講義録 昭和十一年七月)

食道疾患 食道癌

食道癌に就てお話致します。
之は実に厄介な病気で、肋骨の為に患部を指で触る事が出来ないから、位置が判り難いので、治療が困難であります。而も吾々の方へ来る頃は極端に衰弱してゐるから、とても難しいので、従而、食道癌は請合へないのであります。
原因としては、食道附近に水膿溜結し、食道を圧迫するので、症状は食べた物が閊へる。末期には全然食物が通らなくなり、水を飲んでも吐くやうになるのであります。極悪質のものは、食道の一部に穿孔されて、そこから飲んだ水が、気管へ滲出して非常に噎(ムセ)るのであります。(岡田先生療病術講義録 昭和十一年七月)

食道狭窄

食道狭窄といふのがありますが、之は大体癌と同じようで、ただ狭窄の方が癌よりも緩慢に食道を圧迫してゐるのであります。之も早期ならば治癒しますが、末期は困難であります。(岡田先生療病術講義録 昭和十一年七月)

肝臓病と胆臓病

胆臓は胆嚢ともいひ、肝臓に包まれてゐるもので、昔から肝腎要めといって、肝臓と腎臓は大切なものになっております。此外に、脾臓、膵臓などがありますが、之は病気にあまり関係がないから、省略する事と致します。
丁度胆臓を心臓とすれば、肝臓は肺のやうに一つの保護的な位置になっております。
医学の解釈では、腸で選り分けたものを肝臓で、血液、漿液、脂肪などに分けて、身体の方々へ送る事になっております。
胆嚢の中には、胆汁があって、それを始終胃へおくり、消化を援けてゐる訳であります。(岡田先生療病術講義録 昭和十一年七月)

肝臓癌

肝臓の病気としては、先づ肝臓癌で、肝臓のみの場合もあり、胃痛又は腸癌から移行される事もあります。
それで肝臓癌は、先づ胃のやうに内出血はしないが、実に悪質で、執拗であります。
然し、之は衰弱甚しくない限り必ず治るものでありますが、相当時日を要します。軽症で二、三ケ月-重症で五、六ケ月位であります。(岡田先生療病術講義録 昭和十一年七月)

胆石病

次に胆石病は、胆臓の中へ石が出来る。その石が一個の場合もあり、数個の場合もあります。
之は非常に痛む。石の出来る場合に痛むのであります。どういふ訳で石が出来るかといふと、水膿が胆嚢中へ入ると、胆汁と化合するので、化学的作用によって石になるんであります。
此場合は胆嚢の後部から水膿が入るんであります。此膿は、最初脊髄から出て腰に滞溜し、それが脊髄から二寸位の右側を上昇して胆臓へ入るのであります。
胆石で五年位苦しんでゐる患者が、四、五回の治療で治ったのがありましたが、此患者は脊髄の右側から胆嚢の後あたりまで水膿が棒のやうに溜っており、又、腰にも溜ってゐて、腰が非常に冷えるのであります。
すべて水膿は非常に冷えをよぶものであります。それで棒のやうになった水膿溜結を溶いたら、胆石病はピタリと治ったのであります。
尚、黄疸は、肝臓部に塊がありますから、これを治療すればいいのであります。(岡田先生療病術講義録 昭和十一年七月)

岡田先生療病術講義録 下巻(四)

一、腎臓疾患

腎臓といふものは「物を洗ふ水の働き」をするものであります。
それで、心臓が熱を吸収して毒素を燃焼すると灰が出来るから、其灰の如なものを水で洗って流す。-それが腎臓の役目であります。ですから、毒物に中(アタ)ると、非常に下痢をしたり、小便が沢山出る。其際尿は、腎臓が洗った汚水であります。 昔は腎虚などと謂って、精液を造る器械といったものですが、其補助はするが、作り出すものではないのであります。
それで、大熱の出た後などはよく腎臓病を起しますが、それは心臓熱で燃焼した灰が尿に混って出るので、之を蛋白といひ、病気と思ふのでありますが、実は浄化作用の残渣であります。
牛乳を飲むと蛋白が少くなるといふのは、腎臓を弱らすから、洗ふ力が少くなるからであります。
又、窒扶斯や猩紅熱、扁桃腺炎の後など、よく腎臓が悪くなると謂ひますが、之は腎臓が悪くなるんではない、ヤハリ病素の洗ひ渣が蛋白となって出るので、非常に結構な事なんで、間もなく治るのであります。之故に蛋白の出るのは決して悪い意味ではないのであります。
腎臓は、そういふ訳で、水の方の浄化作用の役目で、心臓は火の方の浄化作用の役目であります。ですから、心臓と腎臓は、重要な夫婦役になります。それで、心のシに濁りを打つと腎のジとなってゐるのも面白いと思ふのであります。
又斯うも言へます。心臓は火、肺は空気、胃は土、腎は水の役であります。又、腎臓と肺臓が水で、心臓と肝臓が火の役とも言へるので、又、心臓が霊で肝臓は体、肺が霊で、腎臓は体とも言へるのであります。
腎臓病にも種々あります。腎臓結核、萎縮腎、腎孟炎等であります。
よく萎縮腎を腎臓結核と誤られます。
本当の腎臓結核は、右か左かどっちかの内部に水膿が溜結し、それが化膿して痛みを有(モ)つのであります。
そうして、普通は膀胱へ移行するもので、非常に悪性で、小便に血液が混るのであります。
そうして、膀胱結核から摂護腺、睾丸へ迄移行し、最後に到って睾丸は糜爛するのでありますが、斯うなれば間もなく死に到るのであります。
又腎臓をよく手術によって剔出しますが、多くは予後不良であります。
次に、萎縮腎は、水膿溜結が腎臓を圧迫するので、腎臓は充分の活動が出来ないので、其の為尿が溢れる、其尿が毒素となり、又は浮腫になるのであります。
此の診査は、腎臓部及び附近を指圧すれば必ず痛む個所があります。そうして此溢出した尿中の毒素を医学では尿酸と謂ひますが、私は之を尿毒と謂っております。 独逸の或学者は、「万病は尿酸が原因である」とも謂ってゐます。今も此説は相当認められてをるやうであります。
リョウマチスで、赤く腫れないのは此尿毒が原因であります。私は之を腎臓性リョウマチスと言ってをりますが、非常に治り易く、此尿素は割合に弱性で、溶解し易いものであります。
尿毒といふものは、凡有る病気になります。よく腎臓が悪くて肩が凝る人がありますが、之は矢張り、尿毒が肩へ集る人であります。
足が重倦く痛む人など、皆此尿毒が下の方へ垂溜する為であります。
最も多いのは、尿毒が腹膜へ溜るので、そして其所で凝る。之は、腹部を圧すと必ず痛む所がそれであります。
此尿毒は、肋膜、喘息の原因となる事もあります。ですから腎臓の為に喘息を起し、喘息の為に心臓が起るんですから、間接には、腎臓が心臓病の原因になる訳であります。
腎臓の原因で脚気と似てゐる症状を起す事もあります。之は割合多いので、或は真の脚気より多いかも知れないと思ふ程で、足が重く腫れたりなどして、脚気の如な症状を起しますが、脚気とは全然異ふ。私は之を“腎臓脚気”と言ってをります。
腎臓の周囲へ水膿が溜結すると、浄化作用によって発熱する。之を腎臓炎又は腎孟炎と言ひます。
腎孟炎の症状は、腎臓部の痛み、腫れ、発熱等で、又特徴として脚力が無くなり、歩行不能になるのでありますが、之は頗る治り易く、普通二、三回位で全治するのであります。
本療法によれば、腎臓に関する疾患は非常に治り易いんで、殆んどの腎臓的疾患は百パーセントの治癒率であります。(岡田先生療病術講義録 昭和十一年七月)

糖尿病

糖尿病は、甘い小便が出るとしてあります。症状は、疲労感と、喉が渇くのと、尿の排泄多量と、尿意頻繁とであります。又、歯の脱落も特徴であります。
此病は、患者自身の発見ではなく、医師に言はれて知る人が大部分であります。
此病の人を診査しますと、必ず胃から肝臓、腹膜にかけて水膿溜結があるのであります。そういった器能が一帯に圧迫されるのが原因であります。
特に、肝臓部が割合に酷いのであります。
膿結を溶解するに従ひ段々治ってゆきます。割合治りいい病気であります。
治癒の状態は、喉が渇くか渇かぬかで最もよく判るのであります。又、夜中に小便に行かなければ治ったとみても可いのであります。
尚医師で尿の検査をすれば確実であります。(岡田先生療病術講義録 昭和十一年七月)

腸疾患

腸疾患で一番多いのは盲腸炎であります。
盲腸炎は、本療法では実に容易に治るのであります。
場所は丁度、臍の一、二寸下から右の方へ寄った所で、医学で謂ふ虫様突起部で、之へ膿が急激に集溜するのであります。
《302上 図1》
症状は、非常に痛んで熱が出る。 普通手術によって、虫様突起及び膿を除去しなくては生命が危いとしてありますが、本療法では驚く程速かに治ります。大抵二、三回で綺麗に治るんであります。
そうして何の為に膿が盲腸へ集溜するかといひますと、浄化作用によって、便通で排除されよふとする膿が一旦盲腸に滞溜するのであります。そうして一層排除し易からしめん為、高熱で溶解するので、溶解膿が下痢によって排除されるのであります。
此様な訳ですから、自然療法で安静にしておれば、一週間位で確実に治癒するのであります。世人は此事を知らないから心配して手当などする。特に氷冷しますと膿がそこへ固まってしまふので治癒困難になり、生命の危険さへ生ずるので、止むを得ず切開除去しなければならないやうになりますから、手当をするなら寧ろ温罨法(オンアンポウ)の方がいいのであります。
次に最も多いのは、腸加答児でありませう。之は大腸加答児と小腸加答児とあります。大腸の方は重く、小腸は軽いのであります。
原因としては、二種類であります。一は、自然浄化作用に因って、膿が下痢となって排除される場合と、一は、毒物を食った為の中毒作用であります。ですから、毒物を食った覚へがなくて下痢するのは、浄化作用に因るものと思へばいいのであります。
本療法によれば普通一、二回で治ります。
此外に長く肺を患ひ慢性下痢になったのは別で、喘息及び腹膜炎、腎臓等の水膿溜結を溶かすと下痢する事があります。
よく腸炎といふ事を謂ひますが、腸に熱がある場合は、其所に毒素があるので、浄化作用をやれば順調に治ってしまひます。
次に、腸窒扶斯は、私は未だ治療した事はありません。何故なれば、あれは腸へ熱を持つのが最初ですが、其時治療すると速に熱は去(ナ)くなるから、腸チフスになるかも知れぬものでも、それで治って了ふらしいのであります。
又、本当にチフスになったものなら、病院へ入らなければならないから、私の方へは来ない訳であります。
そうしてチフスには、パラチフスと普通のチフスとの二種あります。
パラチフスは、軽症で発疹があるのです。チフスは熱が高いのが特徴で、四十度以上の熱が一週間以上も続く、そしてたふれるのは腸出血の為であります。
之の原因は、腸の内壁の粘膜に黴菌が繁殖して微小な孔を穿ける。其孔へ固形物が触れるから発熱し、重症になれば、穿孔が進んで出血するといふのであります。 此医学の説明は本当だと思ひます。
此病気は、医療に於ても、無薬で、流動食のみで自然療法をしますが、此方法は確実で成績も良いのであります。
次は腸癌ですが、之は直腸に出来易く、直腸から大腸等へ移行して相当大きなものになる場合があります。
絶対治り難いとしてありますが、本療法で非常に治り易いのであります。軽症で一ケ月-重症で三ケ月位であります。
医学の方では、腸癌を手術する場合は、肛門から孔を穿けて、そうして閉塞させ、人工肛門を横腹等へ附けるのですが、其処から始終糞が出て、実に悲惨極まるもので、とても臭くて側へも寄れぬのであります。
次に、悪性の腫物が腸内に出来るのがあります。
癌とよく似て、医学では肉腫といっております。之も非常に治り難く、殆んど不治とされてありますが、本療法によればやはり腸癌と同じく順調に治るのであります。 腸結核は、慢性下痢症で、無痛と有痛とありますが、衰弱が少なければ、容易に一、二週間位で治りますが、衰弱の甚だしいのは治癒困難の場合があります。
腸結核は、肺結核の末期に多いので、腹部を触ってみると非常に熱い。
肺結核と併発性のものは、特に不良であります。(岡田先生療病術講義録 昭和十一年七月)

腹膜炎

之は、水が溜るのと、膿が溜るのと二種あります。此点丁度、肋膜と同じやうであります。そして膿が溜る方がズーと治りいいんであります。膿の溜ったので随分酷いのがありますが、割合順調に治るのであります。
そうして今日、大抵の人は極軽い腹膜炎に罹ってゐるものであります。それは臍の周囲を圧してみて痛くないといふ人は滅多にありません。其所の痛い人は必ず腹膜へ膿が溜って固まってゐるのであります。
水の溜るのは、早期ならよく治るんですが、相当日数を経たものは、容易に治らないのであります。
原因としては、肝臓の周囲へ水膿溜結し、その為、腎臓が圧迫されるから、尿が溢出して腹膜へ溜るのであります。相当溜って時日を経過したものは、深部が化膿して固まってゐるので、斯うなったのは殆んど不治とも言ふべきであります。
そうして、最も悪性なのは、肝臓癌が原因での腹膜炎で、不治であります。ですから、腹膜患者は、肝臓部が痛むかを査べる必要があります。押してみて痛めば、肝臓からの腹膜炎であります。
肝臓が尿素を腎臓に送る場合、癌の為、腎臓への送流を遮られる結果、肝臓から直接腹膜へ尿素を溢流するのでありますが、腎臓からの尿は稀薄ですが、肝臓からのは濃厚である。それが為重症である訳であります。
又利尿剤を続用したものは逆作用が起っておりますから、非常に執拗で治り難いのであります。
腹膜炎は、よく肋膜炎を併発する事があります。又肋膜炎から腹膜炎に移行する事もあります。
腹膜のひどくなったのは随分大きくなります。臨月の腹の大きさよりもっと大きくなります。よく破れないと思ふ位であります。
又、卵巣が腫脹して、腹膜炎と同じやうな症状になります。之の悪性は極端に膨脹し、終に破裂する事がありますが、破裂すれば、汚水が排泄されて速かに治癒するのであります。
此際医療による切開法も効果があります。(岡田先生療病術講義録 昭和十一年七月)

腸痙攣

之は、腸が非常に痛む病気で、之は物に中った場合と、水膿溜結が腸の蠕動と触れ合って痛むのとあります。後者は、胃痙攣の場合と同じ様なものであります。
軽症は一、二回、重症は一ケ月位で全治します。(岡田先生療病術講義録 昭和十一年七月)

赤痢

之は、浄化作用の最も激しいもので、赤痢で下る血は皆毒血なんであります。浄化作用ですから非常に結構なんであります。
其証拠には実に治りいい。私はどんな酷いのでも五日を越した事はありません。 六日目には飯を食って歩く位であります。浄化作用ですから下る丈下れば治るに決ってをります。(岡田先生療病術講義録 昭和十一年七月)

虎列剌

治療した事はありませんが、赤痢と同じ様なもので、今一層激しい浄化作用と思ひます。
勿論、コレラ菌に誘発されて、毒素排除作用が起るので、大浄化作用なのであります。
赤痢も虎列剌も、伝染病ですから取扱ってはならないものでそういふ疑のある患者は、即時、医師の方へ渡さなければならないのであります。(岡田先生療病術講義録 昭和十一年七月)

腸撚

之は、腸が撚れると謂はれてゐますが、非常に痛む。そして水一滴飲めないのであります。腸が撚れるので、其為、腸穴が塞がるからで、一週間以上も飲まず食はずで苦しみ、終に仆れるんであります。
之は助からぬとしてありますが、本療法では一週間以内で容易に治るんであります。
これから下体の上中下及び其他の病気に就て御話致します。(岡田先生療病術講義録 昭和十一年七月)

膀胱結核

此病気の症状としては、排尿時の前後、激痛を伴ひ、普通必ず多少の出血を見るのであります。
原因としては二種あります。
一つは、腎臓結核が移行したものと、一つは、膀胱自体に発生したものとであります。第一は、腎臓の説明にありますから、第二を説明しますと、
初め、膀胱の外部に水膿溜結し、それが悪化して化膿状となり、漸次、膀胱内部に侵入するのであります。
治療としては痛みのある部分へ向って行へばいいのであるが、之は非常に治療し難いものであります。何となれば、結核部へ常に尿の浸潤(シンジュン)を受けるので、どうしても其為に治療を妨害されるから、長時日を予想してかからなければならないのであります。
特に腎臓結核から移行したものは、治癒は特に困難であります。(岡田先生療病術講義録 昭和十一年七月)

一、膀胱結石

此病気は、膀胱内に一種の石が出来るのであって、排尿の故障又は痛苦を伴ふものであります。
原因は、胆臓からの胆汁が浸出し、それが腎臓を通過して膀胱へ入り、尿中に混入せる水膿と結合し、化学的に結石するのであります。之は、胆石と同一の理であります。
本療法によれば、結石は漸次崩壊して治癒しますが、相当の時日を要するのであります。軽症一ケ月、重症三ケ月位であります。(岡田先生療病術講義録 昭和十一年七月)

一、梅毒

此病気の原因及び症状は、不純の性交後一週乃至三週位にして、亀頭下に豆状の固結(疳瘡(カンソウ))を生ずるのであります。
梅毒に於けるそれは、無痛であるのと、硬結性が特徴であります。そうして飽迄進行性で、次で、横痃(ヨコネ)を発生しますが、之も無痛と固結性であります。
次に、全身的発疹、発声不能、毛髪脱落等にまで進むのが、此病気の順序であります。
本療法を行へば必ず全治するので、而も、案外容易に治癒し、而も根本的であるのであります。
軽症で一ケ月位-重症で三ケ月位であります。(岡田先生療病術講義録 昭和十一年七月)

一、軟性下疳

此病は、梅毒と似てはをりますが、全然異って善性であります。
症状は、不純な性交後、二、三日にして疳瘡を発生し、次に横痃を発生するのでありますが、それだけで、それ以上に進行しないのが特色でありますから、梅毒の如な心配はないのであります。そうして疳瘡も横痃も必ず痛みがあり、柔軟性であります。
本療法を行へば、短時日に容易に治癒するのであります。然し、梅毒即ち硬性下疳と軟性下疳と併発する事がよくあるから注意を要するのであります。 前述の如く、硬性下疳と軟性下疳との区別を明かにした医学の功績は、賞讃に価ひすると思ふのであります。
右二種の病共、最初は多少の発熱を見るのであります。
治療は、軽症で一、二週間位-重症で一ケ月位であります。(岡田先生療病術講義録 昭和十一年七月)

一、淋病

此病気は、不純な性交後二、三日位経て、尿道に不快を感ずるのであります。最初はムズ痒く、次は、排尿の際痛みを感じ、尚進んで耐えられぬ激痛を感ずるもので、相当の発熱もあります。そうして、悪化するに従ひ、盛んに白色の膿が尿に混って出るので、其際コップに採って見る時、濛々として煙の如く不透明であります。
発病後、普通一週間目位が最盛期で、それを過ぎると、漸次、快復に向ふものであります。そうして此病気は統計上、飲酒家に多いので、世間よく「下戸は梅毒、上戸は淋病」と謂ふ言葉がありますが、そういふ傾向のあるのは事実であります。
治療の場合、触指は不可能でありますから、霊的施術のみでいいのであります。 急性は速かに治りますが、慢性は相当の時日を要するのであります。元来、淋病なるものは、一度罹病するや、医学上でも終世全治せぬものとされてゐますが、之は事実であります。勿論、黴菌(バイキン)に由る伝染ですが、全治したやうでも、実はその黴菌は死滅するのでなくて、活動力が衰耗したのであります。
それは、繁殖力と伝染力を失ってゐるに過ぎないので、言はば、有機的動物性から、無機的植物性に変化したのであるから、何時、飲酒其他の不純性動機によっては、有機性に還元し、再発しないとは言へないのであります。
慢性になり易いのは此理に由るからであります。
之等花柳病は、霊的に言へば、不純行為に対する-“天の警め”とも言ふべきものであるから、患者は其非を自覚し、再びせざるべく悔悟する、其精神が治癒を速かならしむる力は、予想外大なるものがあります。
そうして、尿道疾患であるから、出来るだけ水分を飲み、排尿を数多くするのが、洗滌的効果があるので、其際、松葉を枝共(エダゴト)煎じて服用すれば特にいいのであり
ます。それは、松脂の成分が、菌の巣窟へ対し、パラフィン紙で密閉するやうな作用をするからであります。
そうして此病気は、移行する性質のものであるから、其点大いに注意すべきであります。それは摂護腺炎、睾丸炎、膀胱疾患等にまで及ぶからであります。
最盛期を過ぎるに従ひ、尿中に淋糸と名付くる木綿糸位な膿糸があり、それが漸次短くなりつつ治癒するのであります。併し全治後と雖も、数年は多少の淋糸を見るのであります。軽症で二、三週間-重症で一、二ケ月かかります。(岡田先生療病術講義録 昭和十一年七月)

一、摂護腺炎

此病気は、淋毒が尿道の深部へ深部へと移行し、終に摂護腺の粘膜を犯すので、症状としては、患部の痛み、排尿時の痛み及び発熱等であります。
治療法は、淋病と同一でありますが、触指は有効であります。
此病気は、治癒迄に相当時日を要するのであります。先づ軽症二、三週間-重症一、二ケ月を要します。(岡田先生療病術講義録 昭和十一年七月)

一、睾丸炎

此病気は、摂護腺炎が進行して、終に睾丸を犯すのであります。
症状としては、睾丸の激痛、腫れ、発熱等で、一方の睾丸だけの事もあり、複睾丸炎即ち左右両方の場合もあります。
本療法によれば、割合治癒し易いので、短時日に全治するのであります。何となれば、淋毒が睾丸炎まで進む頃には、浄化力の為、相当膿汁が弱性になってゐるからであります。
軽症一週間-重症二、三週間であります。(岡田先生療病術講義録 昭和十一年七月)

一、痔

痔には、種々の症状があります。痔瘻、痔核、脱肛、痔出血等であります。(岡田先生療病術講義録 昭和十一年七月)

痔瘻

症状としては、肛門の内部又は深部に膿汁の為に瘻穴が一個乃至数個作られ、其穴から絶えず排膿されるのです。
無痛と有痛とありますが、有痛の方が悪性で非常な激痛のもあります。又悪性は糜爛して瘻穴の所在さへ判らぬ位であります。
原因は、脊髄カリエスの膿が下降して、肛門から排泄されるのであります。
痔瘻が治癒すると、肺結核になり易いといふのは、右の排膿が閉塞される為、排泄口を肺臓に求めるからであります。
本療法によれば確実順調に全治するものであって、軽症は一、二週間-重症は二、三ケ月とみればいいのであります。(岡田先生療病術講義録 昭和十一年七月)

痔核

此病気は、内痔核と外痔核とあって、内痔核は肛門内部へ発生した一種の肉腫であり、外痔核は外部へ露出したそれであります。
多少の痛みを伴ふもので、慢性的のものであります。原因は一種の弱性膿結であります。
本療法によれば、相当の時日を要しますが順調に全治するのであります。
軽症二、三週間、重症一、二ケ月を要します。(岡田先生療病術講義録 昭和十一年七月)

痔出血

此病気は、一名裂痔とも謂ひ、肛門内部の皮膚が亀裂して出血するので、排便時相当な痛みがあるのであります。
原因は、浄化作用に由る毒血が下降して肛門附近に滞溜し、排泄されるのであるから非常にいいのであって毒血が出るだけ出れば、自然に治癒されるのであります。 本療法によれば一層速かに全治するので、軽症一週間、重症二週間位であります。(岡田先生療病術講義録 昭和十一年七月)

脱肛

此病気は、肛門の贅肉(ゼイニク)が外部へ露出するので、軽症は指頭で圧すれば還元しますが、重症は容易に還元しないので、非常に不快を感ずるのであります。此贅肉は、空気に触れると膨脹性があります。
原因は、排便時間の長いのと、便秘に因る息み等であります。従而、治療せんとするには、原因である排便時間を短縮する事で、少くとも一回五分以内にしなければなりません。
又水分を出来る丈多く摂って便秘を防ぐのがいいのであります。此二つを気永に実行すれば一、二年位で大体治癒するのであります。
尚本療法を行へば、治療の期間を何十分の一に短縮するのであります。
痔の病としては、右の外にも種々ありますが、大同小異だから略します。
如何なる種類も、如何なる悪性の痔疾も、本療法によれば百パーセントの治癒率であります。(岡田先生療病術講義録 昭和十一年七月)

岡田先生療病術講義録 下巻(五)

神経痛

此病は、全身病ではありますが、下半身に多い関係上茲で説明するのであります。 神経痛は、其名称の通り神経が痛む病気で、重症軽症の差異は甚だしいのであります。
原因は、浄化作用に由る水膿又は毒血が或る一部に集溜し、神経を圧迫するのであります。
普通治り難い病気とされてありますが、本療法によれば極めて順調に全治するのであります。普通一週間以内-重症で二、三週間位であります。
此病気は、リョウマチスを併発する事がよくあります。(岡田先生療病術講義録 昭和十一年七月)

リョウマチス

此病気は二種あります。
一つは手足の関節に限られて発病するもので、症状は、紅潮色に非常に腫れ、発熱も伴ひ、激痛堪え難く、衣服さへ触れる事が出来ない程であります。
原因は、悪性の毒血が、浄化作用に由って関係部へ集溜するのであります。
之も普通では、痛みの去るのに二、三ケ月を要し、而も毒血凝固によって、手足の自由を失ひ、多くは不具者となるのであります。
然るに、本療法によれば、早期なれば一週間以内で全治するので、実に驚異的であります。
他の一つは、腎臓の尿毒に因るもので「主に関節」でありますが、之は関節以外の個所にも発病するので、痛みは前者程ではないが相当に悩むのであります。
此症状の特徴として患部の皮膚の色は変化のないことと、痛みが移動性である事であります。
重症は全身的で、痛みの為寝返りさへ出来ないのがあります。
本療法によれば、容易に治癒するので、先づ一週間乃至三週間位で全治するのであります。
治療の場合、腎臓部も特に施術しなくてはならないのであります。
以上二種共、他の治療及び時日等によって固めたものはそれだけ治療に時日を要します。
最も固まったものは六ケ月又は一年位かかる事もあります。(岡田先生療病術講義録 昭和十一年七月)

脚気

此病気は、軽症に於ては膝から下、所謂、脛の辺りの麻痺でありますが、重症となるに従って掌、特に拇指近き部分及び脣等にまで及ぶのであります。但し、婦人にある産後の脚気は右とは異って脚部全体から腹部及び乳の辺りまで麻痺するのであります。
原因は医学で唱える如く、前者にあっては白米中毒であり、後者にあっては、出産に由る残存悪露が浄化作用によって皮膚面へ滲出するのであります。
本療法によれは、一週間乃至二週間位で全治するのであります。
前者の脚気に対しては、普通の米糠を煎って食事の度毎匙一杯宛飲めば「有効」であります。
次に、腎臓の尿毒に因る、擬似脚気ともいふべき症状があります。之は寧ろ真の脚気よりも多い位で、吾々の所へ脚気と言って来る患者が、実は脚気ではなく之が多いのであります。
此症状は殆んど麻痺はなく、脚部全体が重くて、歩行は稍々困難で、多少の痛み又は浮腫があるのであります。
稀には軽症の腹膜炎が原因である事もあります。
本療法によれば一、二週間で全治しますが、治療の場合腎臓部及び腹部を充分施術しなくてはなりません。(岡田先生療病術講義録 昭和十一年七月)

水虫

此病気は、足の指の股に一種の湿疹が発生し、苦痛としては痒みであります。 原因は、小虫群の霊の憑依であって、非常に治り難いものとされてをりますが、本療法によれば非常に治り易いもので、軽症は二、三回-重症で一、二週間で全治するのであります。(岡田先生療病術講義録 昭和十一年七月)

陰睾(インキン)田虫

此病気は陰嚢の田虫で、なかなか痒いのであります。
本療法によれば全治しますが、相当時日を要するのであります。普通一ケ月位を要します。(岡田先生療病術講義録 昭和十一年七月)

毛虱

之は、陰毛部に一種の虱が棲息し、非常に痒いのであります。原因は性交及び入浴の此二つからであります。
此治療は、陰毛を剃落して水銀軟膏又は種油を塗布すれば一、二回にて治癒するので、本療法の必要は無いのであります。(岡田先生療病術講義録 昭和十一年七月)

雁瘡

此病気は、脛の裏側に生ずる一種の発疹であって、相当痒いのであります。
本療で、一週間以内で治るのであります。(岡田先生療病術講義録 昭和十一年七月)

子宮後屈

此病気は非常に多く、医学上では不姙の一原因とされてをります。然し、後屈と言はれて姙娠した婦人も相当ありますから、絶対ではないのであります。
症状としては、腰部及び下腹部の不快感等であります。原因は、子宮の裏面の部に水膿が溜結し、それが為に牽引され、又は下腹部の水膿溜結に圧迫されて子宮の位置が変化するのであります。故に、腰痛や不快感は後屈のためではなく、水膿溜結の方が直接原因であります。
而て、本療法によってそれを溶解すれば、容易に全治するのであります。
一週間乃至三週間位でよく、施術は、腰部特に尾骨の附近を指圧して痛む所と、下腹部を指圧して痛み或は凝結のある所を行へばいいのであります。(岡田先生療病術講義録 昭和十一年七月)

卵巣腫脹

此病気は、卵巣内に水膿滞溜し、腫脹するものであって、小さいのは鶏卵大以下から、大きいのは小児の頭大又はそれ以上になる事もあります。
之は早期ならば速に治りますが、進んだもの程日数がかかるのであります。然し気永にやれば必ず治るのであります。然し卵巣が腫脹してゐると言はれて吾々に来る患者で実際そうでないものがよくありますが、外部から指圧してみて、触感に異状がなければ健全と見るべきであります。
重症は腹膜炎の部に詳説してあります。
軽症で一、二週間、重症で二、三ケ月を要します。(岡田先生療病術講義録 昭和十一年七月)

子宮癌

此病気は割合多く、治療困難とされてをります。
症状としては、子宮部の痛み、出血持続、悪臭の白帯下等であります。
原因は、子宮の外部に溜結した毒血と水膿が、時日経過によって濃度を増し、化膿性となって子宮の内壁にまで侵入するのであります。此点胃癌の経路と同一であります。
本療法によれば、驚異的に容易に治癒するので、軽症で一週間位、重症で三週間位と思へばいいのであります。
但し治療の場合、多量の出血をする事がありますから、予め患者に言明してをく必要があります。そうして出血がある程速く治るのであります。然し末期で衰弱が余り甚しいのは治療困難であります。何となれば癌腫溶解迄生命が保てないからであります。(岡田先生療病術講義録 昭和十一年七月)

子宮外妊娠

此病気は、最初月経が閉止されたり姙娠的症状があるので、最初は姙娠と思ふのであります。稀には其症状の無いものもあります。
特徴としては出血が持続するのであって、又、子宮部の痛みも多少ある事があります。
本療法によれば三、四回の施術によって簡単に治るのであります。治療の場合、臍部から一、二寸下位を指圧すれば必ず痛みがあるので、そこを浄化すればいいのであります。原因は喇叭管内に姙娠されるとしてあります。(岡田先生療病術講義録 昭和十一年七月)

子宮内膜炎

此病気は、子宮の内壁に炎症を起すので、一種の不快感を催すのであります。原因は、白帯下中にある毒素が粘膜を刺戟するからであります。よく抓爬をしますが、それは一時的で効果は疑問であります。
根本としては、白帯下と其毒素を解消しなければ治らないのであります。
本療法によれば一週間乃至一ケ月位で全治するのであります。(岡田先生療病術講義録 昭和十一年七月)

子宮周囲炎

此の病気は、子宮の周囲に水膿が溜結し、その浄化作用に由る発熱が絶えず下腹部にあるので不快であります。
軽症で一週間以内、重症で二、三週間位で全治するのであります。
之の重症を、実質炎と謂ふ様であります。(岡田先生療病術講義録 昭和十一年七月)

尿道疾患

婦人の尿道疾患には二種あって、一つは淋毒が原因であり、二は腎臓又は膀胱疾患が原因となるのであります。
一は、尿道そのものの病気でありますが、二は、腎臓の周囲又は輸尿管附近又は膀胱の外部に水膿溜結し、其浄化作用による発熱の為に熱尿となり、それが常に尿道を通過するので、尿道粘膜が腫脹し、猶進んで亀裂を生じ、それに熱尿が沁みるために激痛を感じ、又は小血粒を尿中に見るのであります。
治療は一は尿道部だけでいいのですが、二の方は腎臓部から膀胱へかけてと、及び尿道を浄化すれば、軽症は一週間以内、重症で二、三週間位で全治するのであります。(岡田先生療病術講義録 昭和十一年七月)

子宮脱出

此病気は昔から俗に茄子とも謂はれ、子宮が脱出して膣内に下降するのであります。
原因は、出産の為が殆んどで、従而経産婦に限るのであります。原因は、子宮括約筋の弛緩で、出産が直接原因で、間接原因としては下腹部の水膿溜結であります。 下腹部の水膿溜結の圧迫に因る子宮及び其附随器能の衰弱でありますから、それを溶解すれば、治癒するのであります。
回数は軽症で一、二週間、重症で一、二ケ月と見ればいいのであります。(岡田先生療病術講義録昭和十一年七月)

月経過多

之は毒血の多いためでありますから、悪い意味ではないので、自然に放置してをけば、いつしか全治するものでありますが、本療法によって全身的浄化を行へば、より早く治るのであります。(岡田先生療病術講義録 昭和十一年七月)

無月経

之は十六、七歳を越えても月経が無いといふ症状で、原因としては、子宮へ送流する血管が其附近に溜結せる水膿の為に圧迫され閉塞状になってゐるからでありますから、下腹部の溜結を解溶すれば治るので、軽症は二、三回重症は二、三週間位であります。(岡田先生療病術講義録 昭和十一年七月)

白帯下

此病気は軽重の差別が非常にあるもので、一種の水膿が常に排泄せるものであります。
原因は浄化作用に因るもので、世人は病気として恐れますが、之は大変な誤りで「白帯下」がある程結構なのであります。
何となれば、それは内臓に発生すべき病気の原因が白帯下によって発生をみずに済むからであると言へるのであります。
此患者を診査するに、必ず腹部全体が膨満してゐるもので、それは取りも不直、白帯下そのものであります。従而、之を溶解すれば一時は排泄の量は増しますが、それによって腹部は漸次縮小し完全に全癒するのであります。
治療は相当長時日を要するもので、軽症で一ケ月位、重症で三ケ月位と思へばいいのであります。(療岡田先生療病術講義録 昭和十一年七月)

不妊症

之は、現在は後屈及び男子の精虫の欠乏などが原因とされてゐますが、勿論、それ等も原因でありませうが、私の観る処では、性器全体の衰弱であると思ひます。 此種の患者を診査するに、その殆んどが下腹部が多少膨満し、普通より固結してゐるのであります。
之は水濃が下腹部に溜結してゐる為、常に性器が圧迫され、其活動力が阻害されるから、受胎の活力が欠乏してゐるのであります。
故に、治療は此水膿溜結を溶解し、普通人と同一程度の柔軟にする事であります。 従而、相当日数を要し、先づ二、三ケ月乃至五、六ケ月を要すると見るべきであります。(岡田先生療病術講義録 昭和十一年七月)

不感症

之も割合多い症状でありますが、原因としては、精神的と肉体的と両方であって、精神的に於ては極度の羞恥又は全然恋愛のない強制結婚の為と思ふのであります。 肉体的としては、下腹部の水膿溜結の為性器が圧迫されて、未発達の為であります。
治療としては、下腹部の浄化法によって水膿を溶解し、後は時日の経過によって其発達を促すより外に方法は無いのであります。
性器発達によって精神的方面即ち恋愛不足も羞恥感も相当緩和される訳であります。(岡田先生療病術講義録 昭和十一年七月)

小児病 疫痢

此病気は、十歳以下の小児に限るのでありまして、五、六歳が最も多く、二、三歳が之に次ぐのであります。
症状は、最初発熱、嘔吐、甚しいのは痙攣が起るのであります。
今迄元気で遊んで居ったのが、急にグッタリとするのであります。非常に眠がり、欠呻をするのは最も悪性で、一昼夜以内に死の転期をとるといふのが尠くないのであります。
原因は浄化作用に由る毒素が、最初胃へ集溜し、その反射作用によって脳症を呈するのであります。
そうして胃に滞溜した膿は、順次腸へ下り、下痢となって排泄されて治癒するのであります。
治療は、胃部を第一とし、後頭部、後頸部を第二とし、腸部を第三とするのであります。
本療法によれば、二、三回で容易に治癒し、実験上、治癒率百パーセントでありますから、生命に係はることは無いのであります。
次に、疫痢又は百日咳等による小児の痙攣の場合非常に驚くのであるが、之は少しも恐れる必要は無いので、如何なる激しい痙攣でも二、三十分にて、放置してをゐて治るのであります。(岡田先生療病術講義録 昭和十一年七月)

小児肺炎

此病気は、大人の肺炎と同一でありますから略しますが、大人よりも治療日数が余計かかる傾向があります。(岡田先生療病術講義録 昭和十一年七月)

麻疹

此病気は、人間が生れながらにして保有せる一種の毒素が、皮膚面から排除されるもので、発病及症状としては、早くて二、三日、遅くて十日間位発熱が持続し、遂に皮膚面に発疹をするのであります。従而熱が持続し、他に異常の無い場合は、麻疹の疑を起すと共に注意して皮膚を見るべきであります。其際よく軽微の発疹を見る事があります。又口内の粘膜に白色の疹を見る事があります。
恢復期には、眼の爛れ、耳垂等も起りますが、之は麻疹の毒素の集溜的排除でありますから、放置してをけば自然に治癒するのであります。
そして余病として、肺炎を起し易いのでありますが、之は容易に治癒するので、普通麻疹のみとすれば一回乃至三回位、肺炎併発のもので五、六回位で全治するのであります。(岡田先生療病術講義録 昭和十一年七月)

百日咳

此病気も麻疹と同じで、生れながらに有する一種の毒素の排除作用であります。 百日咳とは、治癒迄に百日かゝる意味で、それは毒素の排除に百日の日数を要するのであります。その毒素といふのは、患者が猛烈な咳又は嘔吐によって排除される白い泡の如きものであります。
普通の咳と百日咳との異りは、百日咳の方は後へ引く癖と、咳が深刻で持続性である事であります。
本療法によれば驚くほど容易に治癒するので、軽症で三、四回、重症で十日以内で全治するのであります。そうして本病の軽症とは最盛期であり、重症とは発病初期であります。最盛期か否かを見別けるには、咳が後へ引くやうになれば最盛期であります。(岡田先生療病術講義録 昭和十一年七月)

水痘

此病気は一種の発疹でありまして、其色が他の発疹に見る如き赤色でなく、皮膚と同一の色であって、小さい疣(イボ)の如きものに水分を含んで居るのが点々と発生するのであります。そうして軽微の発熱もあります。
原因は特種の水膿の排除作用であります。本療法によれば、一、二回にて全治するのであります。(岡田先生療病術講義録 昭和十一年七月)

小児麻痺

此病気の種類は非常に多く、千差万別であって、概略其症状を述べてみませう。 そうして大体、先天的と後天的に分ける事が出来ます。
先天的としては下半身又は全身又は腕足等が未発育麻痺等に依って使用不能な症状、及び柔軟で骨の無い如き症状、低能的で視力が弱く言語明晰を欠き、涎を流し身体の一部又は全部が屈曲麻痺して畸型的等であります。
後天的としては、普通児と何等異状がなく育成されつゝあったものが急激又は漸次的に前述の如き症状になるのであります。
従而、学校の成績等良好であったものが急に低下し始め、痴呆症の如き状態に変化する等、実に見るも悲惨であります。
之等の原因としては、全部霊的でありまして、それは次の如き理由からであります。
脳溢血の如き病気で急死する場合、その霊は死の準備がない為、死後霊界の存在を知らず、故に霊界人として霊界に安住し難く、飽迄其想念が現界にありますから、自己の肉体は失はれてゐてもそれに気が付かず、どこ迄も人間に憑依して現界生活に接近しやうとするのであります。それは殆んど霊としては無意識的であります。
先天性の方は、それが受胎中に憑依するので、後天性の方は生後の肉体に憑依するだけの差であります。故に其状態は脳溢血症状と中風症状が最も多いので、其他としては蛇霊の憑依であります。
四肢が柔軟であるのは総て蛇霊であります。そういふ患者が、腰から足など紆(ウネ)らせる状態は実に能く蛇を連想されるのであります。
本療法によるも、此病気は何れも相当日数を要するので、軽症で六ケ月位、重症は一、二年位かゝるのであります。(岡田先生療病術講義録 昭和十一年七月)

夜尿症

此病気は小児に多いのですが、又成年期になっても治癒しないものが相当あります。
原因としては二つあって、一つは、膀胱の周囲に水膿溜結し、其為膀胱が圧迫されて縮小して居るから自然尿量が充分溜れない為であります。二は、尿道の括約筋の附近に頑固な水膿溜結があって、其為に筋の運動が妨げられ、尿が一定量を越ゆる時括約の力が乏しく無意識に排泄されるのであります。
一の方は一、二週間で容易に治るのでありますが、二の方は相当時日を要するのであります。普通二、三月位を要します。(岡田先生療病術講義録 昭和十一年七月)

ヂフテリヤ

此病気は、病気と憑依との項目中にあるから略します。(岡田先生療病術講義録 昭和十一年七月)

小児喘息

之も、大人の喘息と同様であるから略します。(岡田先生療病術講義録 昭和十一年七月)

脱腸

此病気は、腸の一部が下腹部の最下端、左右孰れかに下垂し突起するので、其部を指査すればよく判明するのであります。
重症は陰嚢に迄突入するから相当膨脹するのであります。
原因は、勿論腸の弱体に因る弛緩でありますから、腸の活動を促すに於て治癒するのであります。
治療は腸全体を行ふので、軽症は二、三回、重症で一、二ケ月、最も重症は五、六ケ月を要します。
軽症は成人するに従ひ、自然に治癒するものであります。
手術によれば治癒しますが、腸が短縮する結果腸全体がそれだけ衰弱する様であります。
腸全体の衰弱は健康をそれだけ減損する訳でありますから、理想としては、手術でなく治癒させるべきであると思ふのであります。(岡田先生療病術講義録 昭和十一年七月)

其他の疾患 猩紅熱

此病気は其名の如く、身体一面紅色を呈し、微細な発疹を伴ひ、高熱を発するのであります。
原因は、生来保有せる一種の毒血が黴菌に誘発されるのであります。
本療法によれば軽症で二、三回、重症で一週間位で容易に全治するのであります。 回復期には、皮膚が脱落するのが特徴であります。(岡田先生療病術講義録 昭和十一年七月)

舞踏病

此病気は、其の名の如く無意識的に手又は足を躍動させるものであります。
原因は動物霊の憑依でありまして、その動物の特徴を表すものであります。
世間によく首を振る人がありますが、あれ等も動物霊の憑依による極く軽微な症状であります。
本療法によるも非常に長時日を要し、先づ一年以上三年位と見ねばならないのであります。(岡田先生療病術講義録 昭和十一年七月)

蕁麻疹

此病気は、身体の全部又は一部に発疹し、多くは紅潮を呈し、又、非常に痒いのであります。
よく腸が原因と謂はれてゐますが、之は誤りであります。其証拠には、如何に腸を治療するも、其効果は無いに見ても明かであります。
私の研究によれば二種の原因があります。一は、麻疹の毒素が残存してをり、それが浄化作用に依って発疹するのと、二はカルシュウム注射の中毒に由るのとあります。
実験上、カルシュウム注射をして、早きは一、二年後には例外なく発疹するので、近来非常に多いのであります。
従而、此患者にはカルシュウムの注射の有無を訊く事を忘れてはならないのであります。
本療法によれば、どちらも容易に治癒するので、普通一週間位、重症で二、三週間位と思へばいいのであります。
其他種々の皮膚病がありますが、大抵は一、二週間で全治するのであります。(岡田先生療病術講義録 昭和十一年七月)

船車の酔

之も一種の病気であって、割合多いのであります。原因としては、胃の周囲に滞溜せる水膿が動揺の為胃中に浸潤し、不快、嘔吐感又は嘔吐をするのであります。 胃部より乳部辺までを指圧すれば、痛み又は重圧感のある個所がそれであります。 本療法によれば、軽症は二、三回、重症は五、六回にて全治するのであります。(岡田先生療病術講義録 昭和十一年七月)

便秘症

此症は、病気ではないが、相当苦痛のものであります。最初の原因としては、故意の節食及び水分を摂るのが少量過ぎる為であります。
従而、其原因に気が付き、改めれば容易に治癒するのでありますが、殆んどの人は、其際、薬剤に依って目的を達しやうとしますが、それが実は、執拗なる慢性便秘の原因となるのであります。
前にも述べた通り、排便器能は薬剤の力の援助に依って漸次退化するので、退化するから薬剤の力を借りる、それが復退化させるといふ訳で、終に薬剤の力を借りなければ排便が無くなる結果になるのであります。
故に便秘症を徹底的に治すには、どうしても薬剤力を絶対借りないで、自然に排便させるべくするより外に方法は無いのであります。
以前私が治した患者で、下剤を廃止した所、八日目、其次が十日目、七日目、五日目、三日目といふ風になって、終に完全に毎日自然排便がある様になったのであります。
それは胃癌の患者でしたが、今日は全治してピンピンして居るのであります。そうして、最初の廿八日間排便が無かった時、別段不快感もなく、病的症状も無かったのであるから、便秘の為の害は実験上些かもなかった訳であります。
私の経験によれば、米糠を煎って食事毎に普通の匙に一、二杯位、重症で三杯位呑むと大いに効果があります。之は絶対無害で、多く呑むほど効果はありますが、定量を越すと腹痛することがあるから其点加減する必要があります。(岡田先生療病術講義録 昭和十一年七月)

 疽(ヒョウソ)と脱疽

此二種の病気は、殆んど同じ様な症状ですが、 疽(ヒョウソ)は手の指に限られてゐる様ですが、脱疽は手足の指又はそれ以上に進むので、医療では患部を切断して病気の進行を防止するのであります。
原因は非常な悪性の毒素が浄化作用に由って集溜するものであります。
本療法によれば、 疽(ヒョウソ)一、二週間、脱疽は軽症で二週間位、重症で、一、二ケ月位で全治するのであります。(岡田先生療病術講義録 昭和十一年七月)

神経衰弱

此病気は一名文化病とも謂ひ、近来非常に多いのであります。
症状としては種々あって、不眠、憂欝、疲労、頭重、視力減退、倦怠、眩暈、頭脳朦朧等であります。
原因は頸部周囲に水膿溜結し、其為頭脳の血液が欠乏するのでありますから、其水膿溜結を解溶するに従ひ治癒するので、本療法によれば案外治りいいもので、軽症二、三回、重症一ケ月位で全治するのであります。(岡田先生療病術講義録 昭和十一年七月)

関節炎

此病気は、浄化作用による水膿溜結の為と、淋病の予後又は慢性淋病の罹病中に発生するものとあるので、症状としては、腕又は脚部の関節部に激痛を起し、相当発熱腫脹することもあるのであります。
右何れも非常に治り易く、一週間乃至二、三週間で全治するのであります。(岡田先生療病術講義録 昭和十一年七月)

骨結核

此病気は何れかの骨に水膿が固結するので、大小の苦痛と発熱があるのであります。多く肋骨、脊髄、腰骨、大腿骨等であります。
本療法によれば全治しますが、相当の日数を要します。軽症で一、二ケ月、重症で五、六ケ月位であります。(岡田先生療病術講義録 昭和十一年七月)

高血圧

此症状は、近来非常に多く、脳溢血の前提としてありますが、医学では機械的に測定します。それによれば、年齢に九十を加へた数が健康の標準とされて居ります。即ち、仮りに五十歳とすれば、九十を加へた百四十、それが標準であって、それ以上はそれだけ不健康である訳であります。
然し、高血圧者と雖も必ず脳溢血が起るとは限らないので、先づ脳溢血の懸念があると思へばいいのであります。
原因は、血液の汚濁でありますから、血を濁さない様にすることであります。 従而、食物は肉食を避けて野菜を多食する事、出来るだけ運動をすること等であります。
本療法によれば必ず全治するのでありますが、相当の時日を要します。先づ一ケ月乃至三ケ月位と見れば良く、脳溢血の発病は絶対防止し得られるのでありますから、本療法の価値の絶大さが知られるのであります。(岡田先生療病術講義録 昭和十一年七月)

動脈硬化症

此病気は近来非常に多く、又危険性があります。
心臓麻痺で、突然仆れるのは、之原因が多いのであります。
病気としては、毒血が動脈の一部に固結するので、それが進んで血流を遮断するに於て、心臓麻痺を起すのであります。
本療法に依って、其患部を溶解すれば全治するのであります。
軽症で二、三週間、重症で二、三ケ月位であります。(岡田先生療病術講義録 昭和十一年七月)