日比谷公会堂における御講話

昭和26年5月22日 日比谷公会堂における御講話

『真文明とは何か』

No.01

昭和26年5月22日 日比谷公会堂における御講話 No.01

原稿を書いて来たんですけれども、というのは録音だとか、また記事になった場合、なるべく、よくまとまっている方がよいと思って書いて来たんですけれど、その内に何だか、原稿に頼るとあんまり話が、窮屈になると思ったものですから、ときどきのぞくくらいにして、浮かび出たまんまのお話をしたいと思います。

そこで私の話は、大変変わっておると思うのです。あんまりいままで人の言わないことばかりだと思うのです。いままで人が言ったことは何も、熱海くんだりからこんな所に来て、しゃべる必要ないと思うのです。なるべくいままで人の言わないこと、そう言うことをおしゃべりするつもりです。

まず最初お話したいことは、これは誰でもそうですけども、いま文化が進歩していると、文化時代だとこういうことをいわれるのですが、この文化と文明とをごっちゃにしているのですね。本当は違うんです、文明と文化とは。

文明というのは、この本当の、野蛮の少しもない、理想世界ですね。それが文明世界──とこういうのです。文化というのはそうじゃない、これは野蛮から文明になるまでの中間なんです。ですから、文の化というのは化物です。つまりお化けなのですね。で、いま世界人類を見渡した限りですね、お化けにほれこんじゃった。もうこれが一番結構なものだと、これが進歩さえすれば、いい世界ができると、こういうふうに思っている。ところが、いま、私の言う文明世界ですね、これは現代の人が考えているような、そういう世界とは違うのです。

そこで本当の文明というものは、一体どういうものだというと、ごく簡単にいえば、生命の安全です。人類が生命の安全を確保される時代、これでなくてはならない。ところがいまも鈴木さんが言われたように、原子爆弾だの、細菌爆弾とか、最後の審判だとかいった、実に、その、危い、恐ろしいですね。恐ろしいというのは、要するに生命──生命の安全を脅かされている時代なんですね。

これは文明世界じゃない。つまり文化──文化の時代なのです。つまり野蛮から文明に移るまでの過渡期の今日なんです。そこで私がいまお話するのは、文化じゃない、文明をいうんです。文明はこういうものだというお話です。

No.02

昭和26年5月22日 日比谷公会堂における御講話 No.02

そうするとその生命を一番脅かすものは何であるかというと、戦争と病気なのです。これさえ戦争のない時代、病気のない時代──そうすると、完全に生命の安全が確保されますから、これが本当の文明世界なんです。で、もうそこへ行かなきゃならない時期になったんです。

そこでメシヤ教の、モットーとして、病貧争絶無の世界と言う──病貧争絶無の世界、つまり病気、貧乏、争い、まあ争いの大きいのは戦争ですから、このない世界を造ると──というと、この因です。この三つの災いの因は病気なんです。

ところが、病気というとあっちが痛いとか、こっちがかゆいとかいう、肉体的ばかり解釈しますが、そうじゃない。病気には肉体の病気と精神の病気と両方ある。で、肉体の病気すら、やれ結核だ、やれ伝染病、赤痢が今年は馬鹿に多いといってビクビクしていますけれども、いまどき、それすら解決がつかなくてとうてい文明世界なんてできるものじゃない。それはこれから何百年、何千年たったって恐らくできやしない。

そうしてこの貧乏ですね、この貧乏の原因は肉体の病気にある。この貧乏の人の、そういう人の理由を調べてご覧なさい、必ずもう、病気ですから。自分が病気をして失業するとか、仕事ができないとか、この肉体の病気でも仕事ができないのと、それから月給がもらえないという二重の責め苦に遭うんです。そうして自分一人じゃなく、家族から、親類、知己、そういう人までマイナスを与える。

そうして戦争の原因もやはり病気なんです。これは何だというと精神の病気なんです。まあ精神病ですね。これは、戦争製造業者などということをよくいわれますが、これは戦争の発頭人ですね。

これは歴史上にいままでもみれば沢山あります。これを英雄といい豪傑といいますが、こういう偉い人は何だというと、非常に力がある。頭もいいのです。けれども精神病の一種なんです。だからこの精神病──精神病と肉体の病気と両方治さなきゃいけない。

ところが、このまだ肉体の病気は医学で治せると思って一生懸命にやっているけれども、精神病を治すというものはないのです。で、この精神病を治すのは宗教よりほかにないんです。まあ理屈だけはそうだ、というが果たして肉体も精神の病気も治るかと、こういう疑問が起こる。

で、それはいま、鈴木さんの言われた浄霊──浄霊、これが肉体と精神との両方の病気を治す。この病気を治すと、初めて文明世界が出現するんです。

No.03

昭和26年5月22日 日比谷公会堂における御講話 No.03

ですからいま、私が世界人類ですね、それから、この文化をみると、全然、文明どころじゃない。かえって逆に野蛮、野蛮行為の最も──最大といいますか、恐ろしいものです。ですから野蛮時代の戦争より、今日の戦争の方が恐怖感は大きいです。

そうするとこういうことがいえる。いま文化と、あるいは文明ということは、上側だと、そこで上側に人類は幻惑されてしまっている、そうして有り難がっている。ところが中身です、中身というものは野蛮です。

ちょうど半文明、半野蛮といってもいいですね。ちょうど綺麗な着物を着て──美人ですね──ああ大したものだと思っていると、着物を脱がせて見ると梅毒だらけ、膿だらけ、ま、そういうようなものじゃないかと思うんです。

ですからメシヤ教は、私は、宗教じゃない。もし宗教で解決ができれば、いままでもっと解決されてなきゃならない。いろいろないままで偉い教祖も、開祖も、哲学者も、道徳家も──いろいろ偉い人が出ています。

なるほど裸で、顔へ入墨した野蛮時代の人みたいにですね、ああいうものは確かに解決された、進歩したのですね。そうして実に綺麗な、すべてが文化的になって、いいんです。

それで生命の安全というまでには至っていないということは、いままでできた宗教にしろ、そういうものは、それぞれに力が足りなかった。とにかく野蛮時代から、いま、文化時代だけまでの力があったですね、あったけれどこれ以上の力はもうない。文化まで進歩させる力はあったけれども、今度文明にさせるだけの力はもうない。

そこでこのいろいろなすばらしい発明ですね。発明がいい方へ使われないで、悪い方に使われる。原子爆弾だっていっぺんに、さっきの話みたいに、二千万人も殺せるというけれども、それを、悪い方に使うからで、いい方に使ったら、指の頭くらいのもので、それで汽車や、自動車を、幾日も走らせることができるのです。飛行機だって、交通機関に使えば、あんな速く便利なものはないけれども、これを爆弾を落とすものに使ったら、それは恐ろしい機械です。

そういうわけですからして、それは、今日の科学文化ですね、科学文化が進歩して、ここまで来たけれども、肝心な──肝心なものが足りない。足りないために悪い方に使おうとします。それが人類の悩みなんです。そこでこれをいい方に使うような根本ですね、つまりこれが魂。魂を、悪を善にすれば、いい方に使うから立派な世界ができる。

これを、キリストは“天国は近づけり”と言いました。またお釈迦様は“仏滅後弥勒菩薩が現れて、そして五六七の世ができる”ということを言われましたが、ただこの点、お釈迦様は五十六億七千万年後とこうおっしゃった。

ところがこれは五、六、七と言う数字ですね。その数字を現すためにそういうふうにお書きになったと思うんです。本当に五十六億七千万年後の予言なんかするとしたら、お釈迦様の頭はどうかしている。こんな遠い先のことを予言したって、予言の価値はないのです。その時代になったら一体地球の人類はどんなになっているか、想像もつかないほど変わるに違いないんだから。

そこで五、六、七という数字ですね、これは、信者の人はよく知っていますけれども、この説明は時間がかかって肝心なことがしゃべれませんから略しますが、とにかく、ああいう偉い人達が言われたということは、私の考えは、これほど、キリストならキリストは、“天国は近づけり”とおっしゃるよりか、“天国を造る”ということを言われたらよさそうなものだが、実はそこまで世界が行っていなかった。

No.04

昭和26年5月22日 日比谷公会堂における御講話 No.04

なぜかといえば文化の進歩が、まだ本当の文明世界を造るまでに至っていなかった。だからこれは止むを得ないことでもあるし、それから、それでよかった。

ところがだんだんこの物質文化が進歩して、とにかく今日のように、世界中ほとんどもう共通になってしまった。こうしてしゃべっていることが地球の隅々まで聞こえるんです。交通機関も、一昼夜寝ながらアメリカへ飛んでいってしまう。

そうしてみると、もう物質文化の方は、この文明世界の条件は大体できた。ただ肝心な、それをいい方に使うという根本、魂、そこがまだそうなっていない。

そこでその魂ですね、いい方に使うというそれを、人類に作らせなければならないとともに、これを知らせなくてはならない。知らせるということが、私は始終書いてます。で、信者の人はちょいちょい見てますけれども……。

そこで私は約半年ばかり前から書き始めていたのが『文明の創造』という本です。で、この『文明の創造』という本の目的は、いままでの文明は本当の文明ではないと。本当の文明はこういうものだと言うことを、医学、政治だとか、教育、芸術、あらゆる方面に渉って、そして真の文明世界のやり方ですね、それを書くんです。

大体医学の方は、もうあらかたできていますけれども、まだほかのものはこれから書いて──書くとして、今年いっぱいで書き上げるつもりです。できたらそれを英文に訳して、そして世界中の大学から学界、それから著名人とか、そういう人達に、できるだけ広く読ませるべくいろいろ手段をとるつもりです。

勿論ノーベル賞審査委員会にも出し──だが、ノーベル賞審査委員は、やはり唯物文化の偉い人達ですから、私の説は最初から容易に受け入れ難いと思う。しかし皆偉い人達がいま求めているもの、それを書くんだから「これだ」ということに気づくに違いないと思うのです。

そうしたらノーベル賞を私に十や二十よこしてもいい。そんなわけで、この『文明の創造』の本ができたら、お膝元の日本の人達も大いに読んでもらいたいと思います。

No.05

昭和26年5月22日 日比谷公会堂における御講話 No.05

そうして、一方、知らせるとともに、この浄霊というもの、これはなるほど病気もよく治ります。病気を治すだけのものじゃない、つまり魂を治すのですから、魂にある悪です。

悪ってこれを分かりやすくいえば、野蛮性です。──その野蛮性を取るということはできない、魂がなかったら生きていられないですから。

つまり考え方が変わる。つまり悪い分子ですね、悪い分子を溶かす、そして良い分子の方を多くする。それでみんながそういう人達になる。すべて良い事をする。良い事をしなければならんということになる。

それで、これは信者の人にはよく話すことですけれども、いまの人は何か悪い事をしたい、悪い事したい、と。で、そう悪い事をしたいと思わなくても、いい事をするのが馬鹿馬鹿しい。なんかこう、正直にやるのは損だと、体裁よく、要領よくしようと、こういう方へ頭が向いている。

ところがこれはアベコベなんです。というのはこれは私なんかも、昔はとてもそんなことを思わない。うまく世渡りした方がいい、そうして要領よくやる、それが利口だというように思った時代があったのです。

だんだん信仰によって神様のことが分かるに従って、これは考え方がアベコベだった、というので、今度いい事をしたい、幾らでもいいから、なにかいい事がないかということばかり心がけるようになった。

それでもう、いい事をするとなると、第一、人が仕合せになること、人が気持ちがよくなる、嬉しくなる、満足するようにということばかり心がけるようになった。そうなってから、私は非常に運がよくなった。

まあ、信仰を専門にやる以前にそういうふうな気持ちになると非常にいい事ばかり集まって、仕合せなことばかり出て来るのです。

ですから、これだけでも世の中の人に知らせたらどんなにいいかわからない。そういう現実的の事を体験するにしたがって、本当に神も悪魔もあるということがよく分かったから、だんだんだんだんいろいろなこの、信仰的修養──そういうことをさせられた。

そして私は非常に大きな使命を持っているということをいろいろな奇蹟によって、まざまざと知らせられた。そして、メシヤ教という、いわば宗教を作って、今日活動しているんです。

No.06 音声ファイル途中で破損

昭和26年5月22日 日比谷公会堂における御講話 No.06

ところでもう一つ私が言いたいことは、キリスト教にある最後の審判ですね。お釈迦様のいう仏滅の世と、──これはいろいろな教祖、開祖が言われてますけれども、私はこの二大聖者のことだけに留めておきますけれども。

これは最後の審判というのはどういうことかというと、ただ最後の審判だけではなにか神様がこう──地獄でなくこの現世に閻魔様が出て来て裁くんじゃないかというように思うのですが、そうじゃない。

これはちょっと、未信者の人には、分かりにくいんですけど、霊界というものがあるんですね、霊界──。この我々が物質をさわったり、見えたりするのはこれは物質界ですね、現界──それからその奥に霊界がある。その中間に空気界がある。空気界までは分かっているけれど、霊界は分からない。

ちょうどさっきの野蛮時代から文化時代、文明時代とこういうような順序です。この三段階のうちのその物質界、それから空気界、霊界と、この三段階になってます。

ところが世界の循環率──循環率によって明暗ですね、暗くなったり明るくなったり、これが一昼夜の二十四時間にそれがあるのではなくて一年にも明暗がある。

一年の明暗というものは、仮に冬は暗いということになると夏は明るいという、こうなるんですね。太陽の光線からいっても夏が一番強烈なのです。冬は一番薄いんだからして、これも明暗になっています。

これがまた、十年にも明暗があり、百年にも明暗がある。歴史上平和時代もあるし、また暗黒時代もあるのは、やはりそういった一つのリズムなんです。

それから今度は千年にも万年にもある。(音声ここまで)それでいままではこの暗の時代であった。暗い時代だった。今度明るい時代になる。明の時代ですね。そこで、さっき文明時代、文明の明の字を書く、明るいという字、化ではバケですから駄目。そうすると明るい時代になると、そうすると、いままでの暗い時代のものが整理される。

そして私の方でいうと夜の世界と昼の世界、夜の文化と昼の文化こういっております。──そうすると夜の文化でいらないものが沢山できてくる。昼間になると電灯やいろんなそういうものがいらなくなる。というように、夜の時代のものがここでいらなくなることが滅びるということです。

審判ということは夜昼を分けるのです。いらないものは、まずしまうか、あるいは毀してしまう、これから明るいものをだんだん造って行くと、こういう具合です。

そうすると、いまの、霊界が明るくなるとどういうことになるかというと、人間にですね、人間というものはやはり体と霊とその間に空気に相応すべき水分というものがある。水蒸気ですね。これが人間の体に非常にある。

そういう三段階になっているうちの人間の霊ですね。魂といってもいい、それが霊界に属している。霊界が明るくなると、それの明るさに相応しない魂の人は、どうしてもその相応するように、その曇りを取られるのです。

取られるといってなにか故意に取るわけではなくて、自然に浄化すべき、汚ないものを、綺麗に替えなければならない。そうすると魂の汚ない人は、霊界が明るくなるにつれて掃除をされる、それが、ま、苦しみです。で、病気の原理もそういうことに説いてあります。それでやると病気というのはよく分かるのです。

No.07

昭和26年5月22日 日比谷公会堂における御講話 No.07

いままでは霊ということを知らなかった。無視していた。さっき徳川さんの言われたように魂です。魂というものの働きというものは、大きなものです、大変なものです。

私は、昨日、一年ぶりくらいで来た人がある。ところが一年ぶりくらいで、一昨日その人のことをひょっと頭に浮かんで、ああいまどうしているのだろうと思ったのが、昨日来たので「ああ霊が先に来てるんだな」とこう思った。

というのはこっちで──、徳川さんが松並という人が、一生懸命に書いているというのを思っていると、その想念というものは向こうに行くのです。行ってその人の体に入り、頭に溜り──すると、ふっと浮かぶんです。逢おうといって、来るようなものです。

要するに霊線といってそういう場合に交通するんです。これは、この霊線の働きなどということを恋愛問題になんか解釈すると非常に面白いんです。けれどいま恋愛問題の目的じゃないですから──。

これは信仰に入ったらそういうことも分かってくる。そうすると、その恋愛というものは非常にいいものなんですけれども、あれはその、ただ、悲劇に終わる。またどういうものだということを知るには、霊的のこと、霊線のことを知ると一番よく分かる。

これは馬鹿にできないのですね。いろんな世の中の、問題や何かに、問題の上に女があるなんていう──いやな事件の裏には必ず女ありといいますけど、──まあ、あれはつまり恋愛ですね。そういうことが分かると、大いにそういう悲劇や社会悪なんかがなくなるんだと──。ま、それはそれだけにしておいて……。

いま言ったような具合に、霊です。霊の曇りを明るさに相応するようになるときに、病気くらいで済めばいいけれども、そうでなくてもっと強くすると、もう病気なんかに堪えられないで、その人は死んでしまう。

病気というもの、少しずつ来るから病気で、あれでいいのですがね。あれでいっぺんに来たら倒れてしまう。最後の審判というのはそれなんです。

そこでだんだんだんだんこの霊界が明るくなるにつれて、そしていっペんに、やられることになると、そのために命を失うことになる。それが大量になる。大量になっては可哀想だからというので、そのことを知らせる、と。

知らせて助けなければならないというのが、神様のご意志である。で、私は神様に、それを命ぜられた。そして、こうしてお知らせするわけなんです。

そうしておいて、私はですね、つまり釈迦とか、キリストとかいう人が、“天国は近づけり”と、いまにいい世の中が来るという予言をされた──予言をされたそれをですね、キリストや釈迦は予言者で、私は実行者なんだ、それを実行する、と。本当にその世界をして、病貧争絶無の地上天国を造ると、──造れということを神様から命ぜられたのです。

その代わり私が作るのではないから、決して骨が折れることはない。万事神様がお膳立てしますから。ただ、形に表れたものだけをやればいい。これは、非常な楽なもんです。しかし楽だといっても、責任は重いんです。

まあ、恐らく人類肇って以来、私くらい大きな責任を負わされたものはないでしょう。そうするとそれによって、偉い人達の予言が合ってくるんです。ですから私の方でいうには、もしキリストや釈迦の言った予言が、実際実現性がないとしたら、予言ではなくて虚言だというのです。

いわゆる虚言とは嘘つきです。あんなに偉い人が嘘をつくというはずがないんだから、いずれは誰かが、実現されるものが出なければならんというような意味で、それで、その担当者として私が選ばれた、とこういうわけなんです。

私はこういうことを、こんな大きなことを言うってことは、実際つらいのです。あんまり大それたことのようでいいにくいものですからいままで言わなかったんです。

しかしだんだんだんだんいま言う夜から昼間になる時代が迫って来ます。それで、人を救うには早く、大勢の人に、それを耳に入れなければいかんというわけで、今日初めて大勢の方の前でしゃべるのです。

No.08

昭和26年5月22日 日比谷公会堂における御講話 No.08

さっきノアの洪水のことをちょっと鈴木さんが言われましたが、あれもまあよく似ているのです。ノアの兄弟というのがありますね、兄弟がやはり神憑りになって神様から知らされた。

「もうじき大洪水がある、人類の大半はそれに捲き込まれてしまう、だから一人でも多く助けろ」というのでノアの兄弟は非常に怒鳴った。知らせたところがなかなか信ずる人がなかった。

それで信じた人はたった六人なのです。ですからノアの兄弟二人と合わせて八人です。八人だけは信じたわけです。そうしてどうすればよいかというと、箱舟を作れとこういうのです。ノアの箱舟というのは、ちょうど銀杏の実の形をしたものです。

というのはこういうふうになるのです。だから洪水のときもこの上に、猛獣だとか、大蛇とか上って来る。その危険を救うために考えた、箱舟を作ってそして待っていたところが、あれは、四十日雨が降ったという説と、百日雨が降ったという説がありますが、これはどっちみち幾日も続いて降ったんです。

そしてだんだんだんだんその水嵩が増して、そして洪水になった。そうすると箱舟に乗ったものだけが助かったけれど、あと、普通の舟に乗った人や、山の上に上った人は、みんな、猛獣や、うわばみやそういうものが上って来て食い殺してしまった。

それで、助かったのは、八人だけが助かったのです。その子孫が今日の白人だということになっていますが、これは大体間違っていないと思う。

何となれば、日本でも伊弉諾、伊弉冉尊ですね。この二柱の神様は、天の浮橋の上で、そうして剣を、この泡みたいなのをかきまわして──潮こーろこーろとかきまわすと、そこへ、島生み国生みといって島や国が生まれたと、こういうことになっています。

あれは洪水に違いない。神道の方でいうと、潮干の業と潮満の業と両方あるということになっています。潮干の業というのは、水を干やすわけです。ですから伊弉冉尊は潮干の業をなす。それで──為たために島生み国生みというのは、あれは洪水の水を捨てたんです。いままで水底にあった何が現れたと──こういうことだと……。

それはノアの洪水のときだと思うんです。そういうような具合で、今度は、キリストの──これは黙示録やいろいろありますが、ヨハネは水の洗礼をすると、キリストは火の洗礼をするということ。

ヨハネの水の洗礼はもうノアの洪水で済んだわけです。今度は火の洗礼となると、これはやはり大変な、大きなことなんです。

火の洗礼については、いろいろのまた、意味があるんですが、大分時間が来ましたから、これだけにしておきます。