政治を書くに当って重要なる事は、政党の在り方であらう。勿論百年前の世界に行はれてゐた民主主義が基準となって漸次進歩の結果、階級を採り入れる事になったのである。
即ち階級的民主主義とでもいえよう。それは如何なる社会かといふと、人民の階級は三段階に別れる。第一階級、第二階級、第三階級となり、その一段が又三段階に分れ、合計九段階になる訳である。
之を具体的にいえば、公的集合の場合とか、儀式の場合、自ら席次の順序が三階級に分れ、住宅衣服等も上中下の三段階になる。之が為廿世紀時代の如き、自己の階級のみの利益を計り、他の階級を侵害せんとし、闘争を起すような事は全然なくなり、人民は自己の階級の枠内に満足するばかりか、他の階級の福利をも増進すべく念願するのである。
そうであっても個人々々の功績のあった場合、階級が上るが、その反対の場合階級が下る事になるのは勿論である。此階級の下る事が一種の罰則になる訳である。そうして第一階級から選出された議員は、上院議員、第二階級のそれが中院議員、第三階級のそれは下院議員といふ事になる。
国会の開会は非常に少く、春秋二回に定っており、会期も二十日間位である。茲で一寸附加えるが、休日は昔の週休と違ひ、旬休即ち一ケ月三回であって、一定の数字に決める。例えば三の日とか五の日とかいふ具合である。元来週休は非常に不便なものであって、特に日本人の誰もに、「今日は何曜日か」と質いても速答出来るものは何人もあるまい。
処が旬休となると、頗る記憶し易く、利便此上もない訳である。此意味に於て議会の会期も三週間ではなく、二十日間となってゐるのであらう。右の如く一年に僅か四十日の短期であるに係はらず、多数の議案が議決さるるのであるから、如何に能率的であるかといふ事である。
読者よ、二十世紀時代の政党などは、反対せんが為の反対が多く、国利民福を第二とし、自党の利益を先にして議案を検討するのであるから、無益なる議論や謀略が多く、従而、議案の揉み潰し、引延し等に日を費すので、自然会期も延長する事になるので、人民の常に見て不快とする処である。
政党は大体、二大政党が交互に政権を採るとは言はない。此言葉は一種不快な響きがある。詰り政権を円満に譲るのである。政治の主眼とする処は人類福祉の増進であるから、それのみを目標とし党利などは眼中にないから、二大政党はあってもその政策は一致点が多く、昔の如く内閣瓦解などの言葉はあり得ない。内閣交代である。
勿論立法は上院、中院、下院、三院一致の賛成を得て成立するのであるが、現在は法規の数非常に少く、廿世紀時代に比し十分の一にも達しない位であるばかりか、反って年々減少の傾向にあるのである。此意味に於て、国会は立法府ではなく廃法府ともいふべきである。従而、官庁の数も官吏の数も、今世紀に入って漸減しつつあり、特に警察裁判所等、司法に関する行政事務は昔とは比ぶべくもない小規模のものとなったのである。
茲で総選挙に就て一言を加えよう。之は亦何たる簡単な方法であらう。先づ最初候補者が名乗りを上げると共に、選挙公報を発行する。読者よ、廿世紀時代を考えてみるがいい。運動費が百万とか二百万とか掛るといふ馬鹿々々しさである。運動員と称する幾十の人間を要し、車馬賃、飲食代、手当、ポスター、郵便費、印刷費等を合算すれば、右の如き数字に上るであらう。
然るに富豪が議員候補者となるとは限らない。寧ろ政治家などは金銭に縁の薄い人が多いから、どうしても暗の手段で運動費を得ようとする。それが種々の忌はしき問題を起し、司直の御厄介になるのである。処が百年後の今日は新聞紙上、僅か一片の広告だけで済むのであるから、種々の費用を加算しても壱万円とはかかるまい。而も候補者や運動員の無益の時間が省けるから、国家経済に益する所甚大なるものがあらう。
次に私は経済組織を聞いて又感歎したのである。読者よ驚く勿れ、「国民経済は一切無税」だそうである。廿世紀時代人民は如何に税金に苦しんだ事であらう。それを考ふる時、之のみでも人民の幸福は如何に大きいかといふ事である。然し読者は言ふであらう。無税とすれば国家は魔法使でない限り、どうして経済を賄ひ得るであらうかと、成程御尤もの質問である。以下経済機構の説明によって充分肯かるるであらう。
先づ経済機構を二種に分けてみる。一種は法人組織の大企業であって、此利潤を三分し一分は政府へ分配し、一分は資本家の所得となり、一分は専務、技士及び労務者へ配分さるるのである。又中小商工業者は組合組織になっており、一組合を単位として業者の利潤は組合に於て合算し、大企業と同様三分式に配分さるるのである。
(二十一世紀 昭和二十三年)