昭和二十八年四月御教え
四月五日
今選挙戦が盛んで、頻りに公明選挙という事を言われてます。この公明選挙と言ったところで、神様が在るという事を知らなかったら何にもならないのです。この前の公明選挙の時も、以前よりかえって悪かったのです。そこでその事を書いてみたのです。ことによると日日新聞に出すかも知れません。真面目に書いても興味を引かないから、ちょっと面白く、興味本位に書いてあります。それを読ませます。
御論文〔公明選挙を嗤う〕
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時局問題ですが、今世界中を騒がしているのは、ソ連の平和攻勢です。ところがこの平和攻勢を非常に喜んで、特にヨーロッパ方面などでは今にも平和が来るように、新聞などにも出ているようです。ところがソ連及び中共の意図は、前にも休戦会談がずっと続いてありましたが、一時進行不可能になって無期休戦会談になりました。それが再び開かれたという事は、やはり前の休戦会談の続きなのです。そうすると、何故続けなければならないかというと、やはり時を稼ぐためなのです。そこでソ連や中共の方でアメリカの様子をみると、アイゼンハウアーになって、今度は大々的攻撃に出るらしい、いろんな武器を日本に注文したり、台湾を解放したり、朝鮮では韓国軍の兵隊を多くして猛訓練を始めた、おまけに国民軍などが上陸作戦の演習を始めたりして、そこで今そういうように攻撃されては中共軍が危ぶないのです。そこで準備が完成してないから、もう少し延ばさなければならない。そうして又、中共がへたにやられると、ソ連が大いに手伝わなければならないから、それも大変だから、ソ連の方の準備ももっと出来なければ、まだ危ぶないからというので、ソ連が手伝って朝鮮の戦争を延ばすというのが根本なのです。だからそれがために平和が何うという事はないのです。つまり表面は大いに平和攻勢に見せかけて、そうして腹の底は、朝鮮の戦争を延ばすという、要するに時を稼ぐという事が一つと、もう一つはヨーロッパ方面が大分軍備を固めているので、これを崩(クズ)してやろうというので、大いにヨーロッパ方面にも呼びかけて安心させて、軍備を緩(ユル)めようという、やはり一種の時稼ぎです。それを狙っているに過ぎないのです。しかしアイゼンハウアーはそれを覚っているような工合で、非常に落着きはらって、言う事が冷静で、それに乗るような言葉はないから確かです。結局そういう訳で、なにしろソ連というのは世界を平和にするという肚は少しもないのです。いくらスターリンが死んでも、世界制覇の目的をやめるわけではないのです。ただいよいよとなるとアメリカと正面に向って戦わなければならないから、それには余程の準備が必要ですから、五カ年計画を続けつつ、飽くまでも戦備を充実させているわけです。だから日本などもうっかり油断してはならないわけです。大体ソ連という国は伝統的に世界制覇が目的なのです。ただ前のロマノフ朝の時は、やっぱりそういった考えでやっていたところが、邪神の方では、もうそれでは駄目だというので共産主義を作って、レーニン、スターリンという順序でやったのです。今度は言わば三代目でマレンコフですが、しかしマレンコフも何うなるか分らないが、とに角ずっと続いてやっているのです。そのやり方は、人によって方法が違うわけですが、それが根本ですから、それさえ知って居れば良く分ります。日本の政治家達は本当の商売人はなく、その日暮しですから、そういう根本を見破ってないから、年中フラフラしてます。だから何時なんどきチャンバラが始まるか分らないです。それでその一番のきっかけとしては、本当にソ連が平和政策をやるのなら、まず朝鮮から徹兵すべきです。そうして中共と蒋介石の方とは、まず中国を半分くらいにして両方で政権を握るというような案を持ち出せば、まず東洋だけは一時平和攻勢の具体化となりますが、おそらくそこまでの決心はつきかねるのです。たとえマレンコフの方でそう思ったところで、毛沢東が、中国全土を掌握したものを、その半分なり三分の一に分けるという考えには到底ならないから、どうしてもアイゼンハウアーの強行政策によって軍事的に朝鮮から中共軍を追い払って、南北を合併させて、その次に中国の大攻撃をやるというよりしようがないわけです。
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それから今度の「結核信仰療法」は大分売れるようです。これが将来なかなか問題になるだろうと思ってますが、その事をちょっと書いてみました。
御論文〔⇒結核信仰療法について〕【註 栄光二○四号】
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四月八日はお釈迦様の誕生日ですが、この日に私は京都に行く事になってます。べつにそういう意味でなくて、去年も一昨年も桜の花時分を見なかったので、今年は桜の咲く時分にと思ったのです。それに嵯峨の近所には桜が多いそうです。昔から“嵯峨野の花見”という事を言われているくらいですから。それに間に合うようにと思って、七日まで面会ですから、次の日に行くとすると八日になりますが、よく考えてみるとお釈迦さんの誕生日になるので、これは大いに意味がなくてはならないと思ったのですが、やっぱり大いに意味があるのです。それは、いよいよ仏滅が近寄って来たので、とに角お釈迦さんの仕事をするわけです。それからいろいろな事がだんだん分って来ましたが、これは今はっきり言う事はできません。あっちに行って仕事を見れば分りますが、仏滅に対して神様は如何に巧妙なやり方をされるかという事が分ります。それで嵯峨という言葉は、言霊上「シャカ」という事になるのです。「シャカ」という事は「逆さ」という事です。ですから今までは逆さの世の中というわけです。それが今度本当に直るわけです。そこで逆さという事は体主霊従だったのです。日より月の方が地位が上だったのです。太陽が隠れていたのです。それは夜の世界ですが、だんだん月が沈んで太陽が上に昇るというので逆さが直るわけです。ですからお釈迦様の教える時代は逆さであったのです。それで「サガ」という言霊は、昔から“嵯峨の釈迦”と言っているくらいですから、日本における仏教の元というわけです。ですからあそこには昔から釈迦寺があるのです。それで丁度今度の嵯峨の所は、釈迦寺のすぐ手前ですから、私が嵯峨に行ってお釈迦様の働きをするわけです。そこでお釈迦様はいずれ将来仏滅の世が来るという事を言われたとおり、いよいよ仏滅の世が来たのです。そこでお釈迦様は霊ですから、そういう仕事はできないから、やはり私がそういう仕事をやるというわけで、四月八日に行くようになったのです。それでは経綸は何ういうようになるかというと、それはいずれあっちに美術館を造りますが、或いは美術館が一番先になるかもわかりませんが、設計は大体頭に出来てます。来年あたりから始めるでしょうが、これは割合に簡単に出来ます。それから仏滅の経綸と言いますが、仏を滅ぼすのではなくて仏を救うのです。仏界を救うのです。つまり京都という所は、そういった意味でお寺が沢山あるのです。ですから奈良、京都と、これが日本における仏教の源地です。根本霊場と言いますか。そういうわけでそういう経綸があるのです。それでこれからあっちがだんだん始まって行きますから面白いのです。それに経綸は大分早くなりつつありますから、割合に早くなります。そうしてこれは割合に楽で、面白く行くわけです。
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それから話は違うが、最近精神病が非常に多くなって来たのです。日本においてもそうですが、アメリカなどは特に酷いです。そこであなた方の方でも精神病をだんだん余計扱うようになると思いますが、精神病について、そのなおし方を詳しく話そうと思います。精神病は私の本に書いてあるとおり、つまり脳貧血が原因なのです。そこに霊が憑るのです。この一番の因は延髄です。精神病の者を見ると必ず延髄に固まりがあります。この固まりが溶けるに従ってはっきりして来るし、大人しくもなるのです。その次に横も関係ありますが、一番は延髄です。これは人によって左と右との片方が多いのです。それで精神病の最初は不眠が一番の原因なのです。それは右の方の延髄です。それから不眠に関係なく起るのは左の延髄の固まりが圧迫して起ると思えばいいです。それからよく頭がボーッとする人は左の延髄に固まりがあります。 それから、ついでに話しますが、目が悪いのは、左と右の延随の真中の後頭部の所ですから、目の悪い人は其処を中心にやればいいです。これは実にはっきりしてます。目の急所は後頭部のちょっと下の所に必ず固まりがあります。そういう人は目が悪いのです。近眼もそうです。それから右の目の場合は左に固まりがあります。これは交感神経が頭を中心に交叉してますから、逆になるわけです。それから鼻の悪い人は後頭部から一帯にずっと下まで毒の固まりがあります。丁度鼻の裏になるわけです。だから其処を浄霊すればいいのです。それから耳鳴りはみんな知っているでしょうが、延髄をやればきっと良くなります。耳の方は目とは違って、右の方なら右の方で良いのです。耳鳴りの人は随分ありますが、耳鳴りをなおすのは訳ありません。延髄の固まりさえ取れば必ずなおります。そういうようで精神病はこれからだんだん増えます。というのは霊界が変って来ると霊が浮きやすくなりますから、丁度浄化が強くなると固まりが溶けやすくなるのと同じようなもので、霊も落着いていたものが浮いて来るわけです。私の本に“日本人は全部精神病だ”と書いてありますが、どんな偉い人でも発作的の精神病があるのです。吉田首相の“馬鹿野郎”も発作的の精神病です。後では後悔したでしょうが、総理大臣が発作的に精神病になるのですから、日本人全体が精神病と言っても間違いないでしょう。だからいわんや一般人民においてをやです。ですから発作的に変な事を言っても、そう恥ずかしい事はありません。とに角精神病は、人ばかりではないので、自分でもおかしいところがあると思ったら、自分で浄霊するのです。それから精神病で暴れるのは触らせませんから、そういうのは遠くからで良いですから、遠くからやるのです。それでも大分違います。それから額も肝腎なのです。つまり延髄の血管が圧迫されていると、此処の血液が前頭部に行きますから、前頭部から浄霊する必要があります。ですから延髄、淋巴腺、前頭部、頭の中心という順序でやれば必ずなおります。ただ人によって、暇がかかるのと割合に早いのとの違いはありますが、ごく質(タチ)の悪いのは長くはかかりますが、しかし必ずなおります。ですから今病院では精神病が一番満員でしょう。とに角今一番多いのは結核と精神病です。結核は今までで充分わかったでしょうが、今日は精神病について詳しく話したのです。それでどっちも始末が悪いのは、結核の方は伝染するだろうと言って心配するのです。信者はそういう事は知っているから平気ですが、一般人としたらその感染を恐れる悲劇というものは大変です。それから精神病も側の者は結核に負けないくらい始末が悪いのです。これから浄化がだんだん強くなりますから、話の種に病気について一番流行りそうな病気を説明する考えです。
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四月六日
明後日京都に行こうと思いますが、名古屋でも例のとおりに話をします。明後日は四月八日ですからお釈迦さんの誕生日です。私はそういう事には構わずに、七日で面会が終りますし、何時も桜を見損うので今年は是非桜を見たいと思って八日に決めたところが、お釈迦さんの誕生日になるので、ヒョッと気がつくと、前にも言ったとおり、あそこはどこまでも「地」に相当するのです。箱根は火ですからして「観音様」になり、熱海は「水」ですからして「月」で「阿彌陀さん」になります。それで京都は「七」で「地」で「お釈迦さん」になるわけです。お釈迦さんは地の彌勒ですから、やはり京都は地になるので、お釈迦さんに縁が深いのです。それで仏教は花にたとえると桜の花ですから、嵯峨の辺りは桜が多いわけです。それでお釈迦さんの誕生日の四月八日に行くという訳は、今度私があそこでお釈迦さんの働きをするわけです。それで釈迦の働きというのは仏ですから、あそこで仏に関係した仕事をするわけです。仏に関係した仕事というと、今は仏滅ですから仏が滅する経綸です。それはこれから分りますが、そういう事になります。それで今度嵯峨には、割合に早いと思いますが仏教美術館を造ります。設計は大体頭の中に出来てます。そうして京都中の物と、無論奈良の物もはいりますが、仏教に関係した仏像、仏画などを集めて、それを陳列するつもりです。そこで、仏像にはみんな霊が憑ってますから、それがこっちの方に来て、そうして全部救うわけです。そこで東洋に関係した仏様……元は神様ですが……その仏様達を救うので、その仏様達は救世教のために大いに働くわけです。つまり私の部下になって働くわけです。根本はそういう経綸です。ですから嵯峨の釈迦と言って、あそこに釈迦堂があって、有名なものですが、あそこはお釈迦さんの元になるわけです。大体その仕事で行くのです。それについては、大体敷地を造るとかいろいろして、やはり地上天国的のものにしなければならないのです。それで考えてみると、初めて京都に行くようになったのは一昨々年ですが、土地が見つかって、それが手にはいって、そうして今の経綸にはいるという事は、まだ二年目ですから実に早いです。これは人間業ではありません。ああいう景色と言い、あらゆる条件の揃ったような所、それから広さにおいても、これから見つけると言っても、到底人間業では見つかりません。それから又売手があるか、あっても値段が馬鹿高くてもしようがないのですが、それが割合に値段も安くスラスラと手にはいったので、実に神様のやられる事は、ちゃんと前から準備してあったように簡単に行くのです。それが僅かの間にそういうようになったという事は素晴らしいものです。そうして最初に、平な所で大きな池のある所という条件をつけたところが、ピッタリとその条件に合っているのです。それであそこの働きというものは土の働きですから、土というと現界の働きですから、そこで今までは霊界の発展というような目に見えない進展ですが、今度は物質的ですから、具体的に、だんだん京都の建設が進むに従って救世教の発展という事が目に見えて来ます。そういう工合になりますから、そのつもりで見ていると、ちゃんとそういうようになります。
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それから話は違うが、今世界の問題になっているのはソ連の平和攻勢です。外国電報や新聞の批評とかいろいろありますが、どうも本当にソ連の肚を書いてあるのは、ほんのつけたしぐらいで、本当には分っていないらしいのです。いろんな揣摩臆測(シマオクソク)が盛んにあってますが、あれは何でもない事です。今度マレンコフとモロトフが大体相談してやったのでしょうが、やっぱりスターリンのやり方をもう一層上手にやったものです。結局において一番の狙い所は時を稼ぐのです。前の休戦会談の時もグズグズと延ばしてやってましたが、それは時を稼ぐためです。それで今度アイゼンハウアーが大統領になってから、トルーマンのように消極的でなく、積極的に朝鮮、中共に向って大攻撃をやる形勢にあるので、これを押さえなければ危ぶないのです。今アイゼンハウアーに本当に腰を入れて攻撃されたら、中共としてはどうしても太刀打ちできないので、これをどうしても延ばさなければならない。その延ばす手段として、捕虜問題などのように大変平和を欲するかのように見せかけているのです。アイゼンハウアーなどはある程度見抜いているようですが、ヨーロッパ方面、特に英国などは喜んで有頂天になってます。そういう目的が第一です。第二は、ヨーロッパの戦備を弱めようというので、ヨーロッパ方面に盛んに平和攻勢をやって、戦争の意志がないかのように見せかけているのです。そこで西ドイツなどが大いにヨーロッパの戦備について力を入れて、積極的にやろうとしてます。西ドイツは経済的にも立ち直って元気があるのです。フランスは駄目なのです。そこでアメリカは西ドイツにどうしてもうんと力を入れているのです。それを弱めようとして東ドイツに働きかけているのです。そこで英国の歓心を買うような、迎合するような様子です。そうしてヨーロッパの戦備を弱めようというそれだけなので、べつに彼の方で平和を欲するような事は全然ないのです。一方は戦備を弱め、一方は準備をしようというのです。どうもそこまで見抜く者が居ないのです。私の所に聞きに来れば良いが、そんな事はないから……。
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それで私が何時かも言ったとおり、私は宗教家でありながら大いに戦争をやりたいくらいです。それは、やればうまく勝ちます。大体戦争というものは智恵なのです。智恵で勝つのです。だから秀吉が天下を取ったのも智恵なのです。秀吉のやり方を見ると、無鉄砲と思われる程大胆でしたが、それはそうではないので、それは見通しがつくから大胆にできるのです。ここはこうなるという確信が持てるから大胆にできるのです。ですからよく、私のやり方を見て秀吉と同じだと言います。非常に大胆に見られますが、べつに大胆でも何でもないのです。「アメリカを救う」でも、無鉄砲と思われるくらい大胆に見られますが、そうではないので、私はできるだけ要心深く間違いのないようにやってますから、自分では少しも大胆にやっているつもりはないのですが、側で見ると大胆に見えるのです。外交とか世界の情勢、株の相場などいろいろな事をそういう人に話をしますが、よく当ります。しかしなにも私は儲けるわけでも何でもないのです。やはり一つ事が分れば、それにつれて何でも分るのです。だから信者の人も、ただ信仰的ばかりでなく、世の中の事をいろいろ知る事が必要なのです。そういうようになると、どんな人がどんな話をしかけても、それに応答ができますから、信仰上にも非常に有利なわけです。ですから私は書いたり口で言ったりして、世界の情勢から世の中のいろんな事のそういう知識を養うようにしているのです。
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それから国内的には総選挙は一番大きな問題ですが、公明選挙という事を頻りに言ってますが、神様を知らなくて公明選挙をやっても何にもなりません。やっぱり人の目をごまかすという事になり、結局公明選挙を看板にして、知れないようにうまくやるという事になります。そこでこの事をちょっと面白く書いたので、今読ませます。 御論文〔公明選挙を嗤う〕
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今度の「結核信仰療法」について書いてみました。
御論文〔⇒結核信仰療法について〕【註 栄光二○四号】
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それから近頃精神病が非常に多くなりました。特にアメリカでは多いという報告がありました。確か新聞にも出てました。日本も御多分に漏れず非常に多くなって、精神病院が足りなくて弱っているという事が新聞に出てました。そういうようで霊界が違って来るにつれて霊が浮いて来るのです。今までは、霊は普通お腹に居るのですが、浮いて来ると頭に上るのです。落着けなくなるのです。そこで精神病が多くなるのです。しかしこれは急所さえ知って居れば訳なくなおります。それを詳しく話します。第一は延髄です。延髄に必ず固まりがあります。これが圧迫して脳に行くわけです。延髄の血管が前頭部に行くのですから、此処が貧血するので、此処に霊が行くから、それで体全部を支配するというわけですから、延髄の固まりを溶かすという事が一番です。その次は淋巴腺ですが、やはり此処の血管を圧迫するので、これも脳貧血の原因なのです。ですから第一は延髄、第二は淋巴腺です。それから第三は前頭部です。此処で霊が踊るのです。前頭部の時は眉間からこの奥と思つてやれば良いのです。その次は脳天の奥の方です。大体これだけをやれば精神病は必ずなおります。それから延髄でも、右の方の固まりは不眠の固まりです。左の方の圧迫は頭がボーッとするのです。そういうように知っていると良く分ります。私は“日本人は全部精神病だ”という事を何時か書いてありますが、それで発作的の精神病はほとんど全部がそうです。だから自分にそういう事があっても悲観する事はありません。総理大臣の吉田さんが馬鹿野郎と言いましたが、これは発作的の精神病です。後で吉田さんは“どうしてあんな事を言ったりしたか”と後悔しているに違いないです。そこで、興奮してお腹に居たのがパッと来るのです。それで総理大臣をやってやろうという訳でやったのですが、総理大臣でさえ精神病になる事があるのですから、普通の人は何でもありません。ただ問題は回数ですが、総理大臣あたりになると一年に一度か二度ですが、一般の人は月に一度か二度です。それからヒステリーになると一日に何回もやりますが、ヒステリーと言っても女ばかりではないので、やっぱり野郎もヒステリーになって、それで妻君がヒステリーになるのです。“コン畜生、馬鹿にしてやがる”と興奮して妻君をやると、妻君は“何処が馬鹿野郎ですか”という事になって、結局両方です。その時が一種の精神病になっているのです。ただ普通の人は続かないのです。何分とか何秒です。重いのになると何時間もやりますが、しかし毎日はありません。毎日やれば本当の精神病です。だから全然精神病でないという人はありません。それは私にはありません。知っているから自分でちょっと押さえます。それからもう一つは、精神病ではないが、腹とかを押さえた時に、後気持が悪いことがあるでしょう。その時は、鳩尾(ミゾオチ)を浄霊するときっとなおります。それで前頭部と鳩尾で天地になってます。私もやっぱり腹も立つし気持の悪い事がよくありますが、そういう時は鳩尾を浄霊すると必ずなおります。やはりこれが頭に関係あるのです。これが始終モヤモヤしていると、頭もやっぱり面白くなくなるのです。そうすると精神病やヒステリー的の事が起りやすいのです。ですからそういうように急所を知って居れば精神病をなおす事も訳ないし、自分がなる危険もないわけです。これは非常に肝腎な事です。肺病は再浄化の人などでも体が衰弱するために百人に一人は死ぬという事があるが、精神病はそういう憂いはなくて、みんななおりますから、これは大いに自慢してもよいです。それで精神病だけは手がつけられません。肺病などは気胸療法とかいろいろな事で、なおすのにごまかせますが、精神病はごまかす事ができないのです。一時的でも止めるという事はできません。ただ強い薬で大人しくさせるくらいのものです。しかし精神病を大人しくさせる薬は、足が痺れて動かなくなるのです。私は精神病院に行つて見た事がありますが、必ず足が動かなくなります。これは歩けなくすれば乱暴の危険はないから悪くはないです。だから頭の方ははっきりしていて足の方は歩けないというのがよくありました。そういうようで、浄霊でなおすという事は素晴らしいものです。ところがその急所を知らないで頭をやっても、尤も大抵頭ですが、それだけでは本当になおりません。骨を折ります。
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四月七日
明日京都に行く事になりましたが、その目的は、嵯峨の今度の家に泊って、これからのあそこの地上天国と美術館の土地やいろいろの事の大体の指図をしようと思ってます。あそこの美術館は、前にも言ったとおり仏教美術館を造るつもりです。これは箱根の美術館とは全然違って、もっと大きな伽藍(ガラン)としたものです。あんまり細かいケースなどは要りません。ですから簡単に出来ます。そういう話を文化財の役員などに話すると非常に賛成してます。なにしろ京都の仏教美術、特に彫刻では、日本の仏教彫刻が世界で一番なのです。彫刻ではギリシャの彫刻というものは世界的に有名なもので、彫刻の元祖であり又非常に名品が出来ました。西暦紀元前四、五百年くらいが最も良い物が出来たのです。それで今度箱根美術館にもギリシャの彫刻がいくらか出ますが、やはり二千年くらい前の物で、なかなか面白い物が出来てます。それからローマ時代にかなり出来ましたが、その中で有名なのはロダンですが、日本の仏教彫刻から見ればずっと低いのです。高さがありません。つまり写生ですから、普通の人間のいろいろな形をうまく表現したわけです。ところが日本の仏教彫刻というものは、理想つまり人間以上の仏を現わしたわけです。だから高さにおいて非常に高いのです。そこで技巧の点から言っても非常に巧妙なのです。巧(タクミ)です。ですから外人でも一部の人は非常に憧憬(ドウケイ)しているのですが、まだ大部分は知らないのです。何故と言って、見ようとしても、一々お寺に頼んで、靴をぬいで薄暗い所で見なければならないのです。どうやら見られるのは法隆寺です。法隆寺だけは奈良に行けば大抵な人はきっと見られますが、しかし外の所を何軒も見るという事は、日数は幾日もかかるし、おまけにある所が、法隆寺にしても薄暗い所で、それから又遠くの方から見るとか厨子(ズシ)の中にはいっているのを見るというように、どうもややこしくて、美術館的に簡単に良く見られません。ですからそういう弊害を無くして、一目で良く見られるというのが今度の美術館の狙い所です。そういう建物を建てて、各寺に了解させて、本尊様はそうはゆかないでしょうが、本尊様以外の良い物を一堂に集めて、一度に見られるというようにするのです。ですから観光外客などは、時間の制限や一日しか京都に滞在できないという人が一目で見られるし、そうして日本の彫刻の秀れた事を世界に紹介するという事は、国家的にも非常に必要なのです。これは京都市あたりでやらなければならない事だが、なかなかそうはゆかないので、それをこっちでやってやるのですから、本当に分ると京都市としても余程有難い事になります。今説明した事は表面と言いますか、外郭的の話ですが、霊的に言うともっと素晴らしい意味があるのです。明日はお釈迦さんの誕生日ですが、特にそうしたわけではないので自然にそういう都合になってしまったのです。というのは、これから嵯峨の経綸にかかるわけですが、それはお釈迦さんの経綸になるわけです。それで私が今度行くのはお釈迦さんの仕事をするわけです。そこで四月八日という事になったのです。それで嵯峨という土地は大体仏教の本源地として非常に意味があるのです。それで仏教は五、六、七の七になるのです。火水土の土になるのです。だから何時かも言ったとおり京都の経綸は土の経綸ですから、あそこは平で広い所なのです。それで土地の面積が一万八千坪というのは五六七で、あそこでミロクが完成するのです。箱根、熱海、京都で五、六、七が完成するのです。そこで土地も一万八千坪というわけです。私は最初に聞いた時にハハアと思いました。それで嵯峨という言霊は、「サガ」の濁りを取ると、「サカ」という事になりますが、「サカ」というのは「シャカ」という事になります。「シャ」をつめると「サ」になります。そこであそこに釈迦のお堂があって、嵯峨の釈迦さんと言って、昔から有名なものです。そういう経綸になるわけです。そうしてもう仏滅の世にはいって来たわけです。そうすると仏滅の時になり、つまり仏教は亡びるわけです。それを救うわけです。救うという事は、仏になっていた神様の霊を、神に救い上げるわけです。その経綸がこれから始まるわけです。それでそういう仏様が京都、奈良に集まっているのですから、此処はその仏達を救うべき道場というわけになります。それで各寺にある仏像にその仏様の霊が憑るのです。だから仏像というものは、ただ表面的に見れば美術的の物ですが、霊的に見ればその仏像に仏様の霊が憑るのです。霊と言っても、弘法大師、親鸞、法然、道念というような人達が仏像に憑って、私がこれから造る美術館に集まって来るのです。それでそういう仏様はいろんな罪穢れをうんと背負っているのですから、それを私が浄めてやるのです。大体元は相当神格を持っていたのですから、浄められると今度はその神格を持って救世教のために働くという経綸になるわけです。ですから霊的に言えば大変な経綸になるわけです。それで神様がやられる事は二つも三つも仕事が出来てしまうのです。そういう点などは、神様だから当り前ですが、実にうまいものだと、私は何時も感心してます。そつがありません。それについては、仏というものはお釈迦さんが始めたのですから、そこでどうしても仏を大いに救わなければならないのです。というのは仏というものもやはり大変な必要があって出たのですが、しかしながら今まで夜の世界であったために知らず識らずいろんな間違った事を仏様がしたのです。ですからここでどうしても浄まらなければならないのです。偉い開祖とか教祖でも地獄に落ちたのもあるのです。そこで今度の嵯峨がやっぱり天国になって、そういう仏様が集まって来るのです。救世教の経綸というものは、今言ったように非常に深いものなのです。
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それから「結核信仰療法」の本は大分売れるようですが、それについてちょっと論文を書いてみました。
御論文〔⇒結核信仰療法について〕【註 栄光二○四号】
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それから今言われている公明選挙という事について書きましたが、これは東京日日新聞に今日から二回か三回にわたって出ます。ちょっと面白い書き方です。
御論文〔公明選挙を嗤う〕
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それから近頃精神病が非常に増えて来たのです。これは皆知っているでしょう。そこで精神病の浄霊の仕方を詳しく話そうと思います。とに角精神病の一番の急所は延髄です。延髄に必ず固まりがあって、この固まりが血管を圧迫し、前頭部が貧血して、そこに霊が蟠踞(バンキヨ)して自由に操つるのです。それでこの貧血をなおすには延髄の固まりを溶かすという事が第一番です。それから淋巴腺ですが、この固まりも影響します。この固まりは貧血でなく浄化熱が出るのです。それでこの浄化熱が前頭部に及ぼすのです。ですから頭の熱い人は必ず此処(前頭部)にあります。此処を触って冷たいというのは、おそらく百人に一人も難かしいです。私は前に書きましたが“日本人は全部精神病だ、ただ軽い重いの違いだ”というのです。それで吉田さんが馬鹿野郎と言ったのは発作的の精神病です。それは後で後悔しているに違いないですが、その時は奴さんが此処(前頭部)に飛んで来たのです。しかしああいう人は度々はありません。一年に一度か二度くらいでしょう。それで普通の人は余程偉い人で月に二、三回くらいはやはり発作的に来るのです。それからごく下っ端の方は一日に三、四度あるのです。それで精神病について、動物霊ですが、お酒を飲むとやり良いのです。それで酒を飲ませて酔わせていろんな間違いをやらせるのです。酒を飲むのはやっぱりお腹に居る先生ですが、それが此処(前頭部)に蟠踞していろんな事をやろうというのです。酒乱はそのごく酷いのです。それで酒乱は人間の霊と動物の霊が共同でやるのです。そういうようでだんだん精神病が多くなってくるのです。特にアメリカは精神病が一番多いそうです。それは霊界の浄化がだんだん強くなるに従って、そういった動物霊は落着いて居られないので浮いて来るのです。ですから元から居る奴は此処(前頭部)に上がるし、それからつまり宿無しですが、霊界に居るそういった宿無しというのは大変なもので、人間より多いのです。ですから人間に憑りたがってウズウズしているのです。しかし信仰があると憑りたくても憑れないし、憑っても自由にできないのです。しかし信仰のない人や曇りがある人には憑りやすいのです。それから薬をのむと曇るから、やはり憑りやすいのです。ですから精神病の起った原因も薬です。そこで霊界に居る宿無しは始終迷って憑ろう憑ろうとしているのです。それでちょっと余計曇っている者には一匹でなく何匹も憑るのです。ですから発作の状態でも一々違います。そこで今言ったとおり延髄を第一、淋巴腺を第二とするのです。それから鳩尾も肝腎です。鳩尾の奥の方を浄霊すると良いのです。これは怒った場合には必ず鳩尾に固まりがあります。だから怒った時に落着いて考えたら、必ず鳩尾に固まりがあります。此処が何とも言えない気持になるのです。それでそういう気持になると、頭に居る先生が非常にやり良くなるのです。ですから延髄と淋巴腺と鳩尾の中心です。鳩尾は前からやって良いのです。自分でも腹の立つ時にやればきっとなおります。さっき私が懐に手を入れてやっていたでしょう。それはそういうわけなのです。ここに来る前にちょっと面白くない事があったので、それがどうも腹が立ってしようがないので、喋ろうとしても何だか気になってしようがないので、懐に手を入れていたのです。もうなおりましたが……。だから今言った事は人の精神病ばかりでなく、自分の精神病もそうです。精神病ほどでなくても、ちょっとした事でもそうです。しかしこれは余程修業を積んでないと、変な事を言ったり、怒ったまぎれに脱線しがちですから、やはり怒った事を消すという事は肝腎なのです。そういう順序でやれば必ずなおります。しかし延髄を見ようと思っても、人が来るのを怒ったりするのは見れませんから、そういうのは遠くからでも良いですから、後頭部のちょっと下の辺をやると大人しくなりますから、それからいよいよ浄霊にはいるのです。そうするときっとなおります。それから結核と精神病は周囲の者が一番困るのです。精神病は二人も三人も付いて居なければならないし、結核は消毒だ何だと、その手数が大変です。病人だけが苦しむのでなくて、家族の者が大いに苦しむのです。それで結核というのは家族の恐怖心というものが大変です。精神病は暴れたりいろいろするので、それを押さえつけたりして、周囲の者は外出もできないのです。ですからこれだけは絶対になおさなければならないのです。とに角悲劇の一番の大きなものです。それで今話したのです。結核の方は「信仰療法」などに詳しく書いてありますが、精神病の方はあんまり書いてありませんから、これも今度はもっと徹底して書こうと思ってます。なにしろ増えます。最近信者のうちにも三人ばかりありました。それで非常に多くなって精神病院が満員で、とても収容しきれなくて弱っているという事を聞いたので特に話したのです。
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四月八日(名古屋市金山体育会館において)
時間がありませんからごく簡単にお話します。これから一軒寄って、それから京都の嵯峨に行きますから時間がないのです。それに熱海から来る時に、信者が増えたので、途中橋のたもとに大勢待っているので、その時には徐行して、沢山なものですから非常に時間がかかったのです。今度京都に行く目的は少し変った意味があるのです。それは、仏界が非常に変って来て、つまり仏滅の時になって来たのです。仏が滅するという事は、仏教を作ったお釈迦さんが言われるのですから間違いありません。その仏滅の時がもう目前に来たのです。そこで今、仏界のいろいろな偉い仏様が救われたい希望が非常にあるのです。それが第一番の目的です。それで嵯峨というのは言霊からいきますと「サカ」です。「シャ」をつめると「サ」になるのです。それで嵯峨には昔から嵯峨のお釈迦様と言って、有名なお釈迦様のお堂があります。今度の嵯峨の名前は春秋庵とつけましたが、その春秋庵の右手の方が釈迦堂です。それから左手の方が阿彌陀さんです。一昨年京都に最初行った寺で、法然院には本尊様の大きな阿彌陀さんがあります。ですから今度の春秋庵はお釈迦さんと阿彌陀さんとの真中になるのです。それで春秋庵は観音様になって、右、左がお釈迦さんと阿彌陀さんになり、これが本当の三尊の彌陀というわけです。これが三位一体です。それで私が観音の働きをするわけなのです。それでお釈迦さんは私の母親になり、阿彌陀さんが父親になります。だからお釈迦さんは変性女子と言われるのです。だから女になるのです。それで観音様は子になるわけです。これはまだいろいろ深い意味がありますが、今は詳しく言えません。大ざっぱに言えばそういうわけです。そうしてお釈迦さんは仏教を作って今まで救われたけれども、何時も言うとおり仏教は夜の教えです。夜の世界の間は仏教であり、今度はいよいよ昼間になり、日が出るわけです。そうすると仏教は滅するという事になるのです。そのためにお釈迦さんの弟子……これはインドや支那にも仏教はありますが、大体今日ではほとんど日本だけと言ってよいくらいです。従って昔からの日本の偉い坊さんという人達が霊界に行って今まで夜の救いをやられましたが、いよいよ時期が来たために、そういう人達がここで考え直さざるを得なくなったのです。というのは仏様というのは神様の化身なのです。化身仏と言って仏に化けられ、そして救われるというそのために仏をやめて神様の方の仕事をしたいというわけです。そこで神様になりたいけれども、仏様達は今まで非常に罪があるのです。というのは、実を言うとこれは少し話が深過ぎますけれども、信者さんばかりですから話します。それで仏様が罪を作られたのです。これは悪人の罪と違って善意の罪悪です。というのは今まで仏教は、仏のミスと言うか、嘘を教えていたのです。それは仕方がありませんが、そこでお釈迦さんは嘘も方便という事を言われましたが、やむを得ざる嘘を教えて来たために、人間は本当に救われず、つまり安心立命の境地になれなかったのです。それは本当の事を教えなかったからですが、夜の時代であったからしかたがありません。今度昼の時代になるにつれて本当の事を教えると、それは今私が書いたり説いたりしている事なのです。そこで大いに救世教の手伝いをしたいのですが、今までの嘘方便をやった罪をとってしまわなければ、救世教の仕事ができないのです。そこで私に、早く救って貰いたい、助けて貰いたい、そうして働きたいという事を非常に希っているのです。大体仏様達は京都、奈良に集まっているのです。そうして各寺々にみんな居られるのです。そうしてお寺にいろいろな彫刻や仏像、仏画がありますが、その仏像、仏画に仏様の霊がうつるのです。つまり御自分の居所になるのです。だから本当言うと美術品として楽しむという事は甚だ失礼なのです。勿体ないのです。そこで仏像から仏様の霊を抜くのです。霊が抜けて初めて働けるのです。仏様の肉体の住居というようなものです。そこで私がこれから嵯峨でやる仕事は、そういう仕事になるのです。ですから仏様達の今までの罪をみんな浄めて、今度は神様になって救世教で大いに働くと、そうすると仏像はカラッポになるのです。そこで美術品として多くの人に見せて楽しませるという事は差し支えない事になります。それで今度大体設計するつもりですが、仏教を主とした美術館を造るつもりです。それで初めて仏様達の霊は救世教として働き、今までの仏像は美術品として大いに働くという事になるのです。これは本当に今までにない事です。けれども信者さんは大抵はそう思うでしょうが、なかなか信じ難いのです。けれどもこれは本当なのですから、これからだんだんこの経綸が進むに従って、そういう事が具体的に現われますから、そこでなるほどと分ります。ですから本当言うと、今は京都、奈良あたりのお寺では財政などで随分困って、修繕もできないとか、掃除もできないで随分お気の毒のような状態なのです。そういう事も今度、今まで長い間それらの美術品を守っていたその功労によっても、もっと良くしてあげなければならないと思って居ります。そういう点もちゃんと安心の行くようにしてあげたいと思って、いろいろ考えもし、これからだんだんそういう仕事をするつもりです。
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そういうようで、次に救いと言いましても、まだキリスト教もありますが、順序としてはまず日本から救わなければならないのです。最初日本から救うとしたら仏教です。あとは神道ですが、神道は大した事はないのです。勢力はありませんから、これはついでにと言っては変ですが、しかるべくちゃんと救う事は決まっているのです。まず仏教を救い、キリスト教を救わなければならないのです。キリスト教を救うとすればアメリカが一番良いです。アメリカが救われればヨーロッパの方は随分楽です。キリスト教としてはプロテスタントもありますが、それはずっと小さいのです。何と言ってもカトリックです。ですからこの方もいずれ救う事になります。「⇒アメリカを救う」という本なども、アメリカを救うというのは医学上ばかりでなく、宗教上もあるのです。そこで両方というわけにはいきませんから、医学的にごく単純なああいう本を出したわけです。来月はロスアンゼルスに支部ができる事になってますが、それからあとはアメリカの各地にできる順序がつきつつありますから、これから目に見えて向うも発展するはずです。現在のところはハワイで樋口さんが活躍していますが、面白いほど非常に信者ができるのです。それは日本と違って、素直と言いますか、何の疑いも持たずどんどん信者になって来るので、日本では想像もつかないように順調になってます。そして向うは手術を盛んにして、その点日本とはまるで違うそうです。ですから私の方の医学に対する話も非常に良く分るそうです。
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話が非常に大きくなってしまいましたが、自然栽培は皆さん知っているとおり、この点も今肥料迷信にかかっているのは日本ばかりではなく、世界中がそうなってます。それから政治、経済、いろいろな方面に神様はやられますが、今のところは、ごく初めで序の口なのです。ところが今年からはその序の幕にはいるのですから、これからどんどん目に見えて発展して行きます。ですから今まではかなり押さえつけられ、手足を縛られたり目隠しをされたりして、思うように働けなかったのですが、そういう事がだんだん無くなって来て、今年からは本当に大手をふって働けるという時期になったのです。この話もいずれ話すとして、今日は京都に行く目的と仏界を救うという話をしましたが、何時も言うとおり、五、六、七の「七」が京都になります。この「七」がだんだん出来上るに従って本当の三位一体的な働きになるのです。ですから非常に力が増すわけです。そこで大いにやり良くなった事です。それからもう一つの話がありますが、神様がやる事は如何に早いかという事です。私が初めて京都に行ったのは一昨年の春でしたが、今よりちょっと遅く四月の末でしたが、その時には何もそういう考えはなかったのです。ちょっと京都を見て、大きい家があって平な広い所を見付けて貰いたいという事を言ったのです。ところが広沢の池から嵯峨の野原の辺が一番適当しているので、嵯峨は大変良いからあそこに住わしてくれと言ったところが、ヒョッコリと思うとおりの所があったのです。それで最初は高い事を言うので手を出せなかったが、それが割合に安くなり、売手の方も大変良い人で理解のある人です。そうしているうちに、今日行って住めるようになったのです。ですからまる二年で、何にもないような所にスルスルと運んで、行って住めるようになるという早さには実に驚いています。熱海でも経綸が早いと言って驚いていますが、だんだん時の進むに従って早さも増して来ます。又早さが増すと共に大きさも増します。余程そのつもりで居ないと、まごまごして居ると遅れます。バスに乗り遅れると大変です。私は大丈夫ですが、あなた方が乗り遅れると大変ですから、乗り遅れないように、大いにフンドシを締めて、覚悟と言うと大袈裟ですが、覚悟して貰いたいと思います。しかしこれは戦争に行ったりするそういう危険なものではないので、世の中を良くして行くのですから安心であり、愉快なのです。そのつもりで居る事です。
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四月十日(京都市京都劇場において)
今日は時間があんまりありませんから、ごく簡単に話します。しかし今日の話はあなた方ばかりでなく、世界中が非常に聞きたい話なのです。だから此処で話すのは惜しい気がしますが、まだ世界中に放送するまでになっておりませんから、言霊の霊で聞かせるわけです。というのは、今度スターリンが死んだら、共産主義なるものは一体何うなるかという事です。これほど全人類が関心を持っている事柄はありますまい。その予言と言いますか、この事について話したいと思います。これは今から丁度三年前に神様から型で知らされてあるのです。これは信者の人は良く考えれば分りますが、つまり昭和二十五年一月にその型が出ているのです。それが分ると共産主義の将来というものは良く分ります。では一体何うなるかと言いますと、共産主義というものはあれまでに世界的に、とに角勢力を作ったのです。ですから共産主義なるものはスターリンが最後に、とに角あれまでにしたわけです。そこでスターリンが没落すると、あとは、簡単に言えば他愛なく消滅して行くのです。そうするとアメリカはどうなるかという事が問題になります。ところが共産主義が無くなるとすれば、力が弱るとして、アメリカは目的どおりになりますから、非常に結構なようですが、なかなか、それどころではないのです。それはアメリカにも大変な事があるのです。そこでアメリカの資本主義、今の民主主義がますます発達するかというと、そうは行きません。アメリカの思想及びやり方に対して一大変化が来ます。これも神様はちゃんと型で示してありますが、今ははっきり言えません。まだ覚りで行くより仕方がありません。そこで、共産主義が無くなり、資本主義が無くなり、では世界は何ういう思想、主義になるかと言うと、それがつまり資本主義にあらず共産主義にあらずという、言わば中性思想です。資本主義にしろ共産主義にしろ唯物思想ですから、物そのものによって自分の主義の時代思想を得ようとしたわけです。ところがどちらも、唯物思想では間違っているという事にだんだん気がついて行くのです。というのは唯神思想です。唯神思想というのは根本的に言えば神様は在るという思想と言うか、信念と言いますか、そういうような古くして新しいものです。そういう思想が生まれるのです。そこでつまり私が以前から言っている唯神唯物両方の思想が調和したものです。これがコントロールされた思想です。それがだんだん勃興して行くのです。そうしてその思想の指導者が救世教なのです。つまり早く言えばメシヤ思想です。というのは何時も言っているとおり、伊都能売です。伊都能売思想です。つまり右によらず、左によらず、十の字です。経緯結んだ、そういう思想が生まれるのです。だから世界のそういった思想は国内的にも無論そうなのです。今選挙で大騒ぎをやっている、その政党の考え方をみると、右か左のどっちかになっている、これが間違いである。単に右とか左とか言うが、左の中にも右、左があり、右の中に右、左があるというように、何でも偏りたがるのです。だからうまく行かないのです。つまり両手で持てば物はうまく持てるのです。それを片手ずつで持とうとするから、本当の役にならないのです。丁度歩くのにも片足だから飛んで歩くようなわけです。互い違いに行かないから、どうしてもうまく歩けるはずがありません。だから転んだり突き当ったり、怪我したりするのです。つまりソ連は共産主義は間違っているという事に気がつき、アメリカは資本主義はいけないという事に気がついて、そこでどちらにも偏らないようになるのです。そこに気がつくように、救世教がそういう主義を吹込むのですから、とても重任を負っているのです。最近発行した「アメリカを救う」の本も、その先触れみたいなものです。それには何と言っても人間の健康ですから、まずそれをアメリカに教えるために、今樋口さんがアメリカに行って準備してますが、来月にはロスアンゼルスに支部ができますから、それを中心にしていよいよアメリカを指導するのです。そういう仕事にかかるわけです。だから考えれば非常に大きな仕事です。やはりそれは、私が何時も言う文明の創造です。今まではビッコの文明であったのを、両足揃えて歩ける文明にするというわけです。簡単ですが、この話はそのくらいにしておきます。
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今度京都に来たのは嵯峨のいろいろなこれからの造営や経営についての設計をやるわけです。しかし急にという事はないがボツリボツリとやって行くつもりです。箱根は大体出来ましたが、熱海はこれからやらなければならないので、この京都の方もいろいろ準備がありますから、それに土地もまだ面倒なと言っても、悪性の面倒ではなく、今度あそこに救世教が出来るので、廻りの地価が上がるだろうと、金儲けに余念のない人が、あそこにいろいろな事をやっている、という事を言っていますが、そうなると非常にやり難いので、そういう点も考えてやらなければならないと思います。それで本当の目的は、神様の方から言うと京都、奈良は仏教の根拠地、仏教の元という事になっているのです。それでもういよいよ仏滅の時になって来たので、仏に関係のあるいろいろな昔からの、何々上人とか何々大師とか何々禅師という偉い坊さん達が霊界において、仏滅の来た事がよく分って来て、最近に至ってはほとんど分ったくらいです。そこで大体仏様というものは神様の化身でありますから、仏の世が済んだので神様の方に戻りたいのです。そうして救世教のために働きたいと思うのです。という希望をみんな持ち始めたわけです。そのために気持は急いでいるのですが、すぐに救世教の仕事はできない事なのです。というのは今まで長い間に間違った事をやったり、教えて来たのです。しかし間違った事と言っても、べつに悪いのではないのです。なにしろ夜の世界であったためにはっきり分らなかったので、つい間違いを教えて来たのです。そのために救われる人もあるが、しかしそのためにかえって悪い結果を及ぼしたという点も大いにあります。一方で良い事をしながら、一方で罪を作っていたのです。それでその罪の方を浄めて、無くしてしまわなければ、本当の神様になって働く事ができないというわけで、昔からの偉い坊さん達の罪を浄霊しなければならないのです。なにしろ沢山ありますから、そこでそういう人達を浄めて神様にして、大いに働くようにしてあげるという、そのために嵯峨に一つの地上天国のようなものを造るのです。そのやり方はいろいろありますが、仏教美術という物は、ただ美術的にばかりで見るという事は、唯物的で本当ではありません。各お寺にいろいろな仏様の像がありますが、その像にそれぞれの霊がはいっているのです。だからただの彫刻ではなくて、やはり生きているのです。そうして大勢が拝むという今までのやり方は、それで良かったのです。その仏様達がはいる肉体のような物で、これは京都、奈良に沢山あります。ですからその魂を浄めてやると、その仏像から抜け出て神様として働けるようになるのです。ですからそういう仕事をしてやらなければならないのです。そこでいずれ仏教美術館も造りますが、そういうように魂を抜けさせれば、あとは美術品として鑑賞しても良いわけです。ですから本当は今仏像や仏画を美術品扱いするという事は、甚だ勿体ないのです。むしろそういう仏様の霊はつらいのです。ですから今度解決してやれば、美術品として扱いますから非常に結構なのです。そういうわけで、だんだんそういうような経綸に基づいて、そして進んで行くのです。それについて仏滅の清算を済まして、多くの仏様を救わなければならない、救い上げるのです。今度私は四月八日つまりお釈迦さんの誕生日に来たわけですが、これは特に選んだ日ではなく、神様の方ではそういうように順序をつけてあるのです。というのは、やはり今いろんな坊さん達はお釈迦さんの弟子ですから、それに対してはやはりお釈迦さんが救う責任がありますから、そこで私はお釈迦さんの代理にもなるわけです。それからもう一つは、あそこに向って、左が釈迦堂で右が法然院の阿彌陀如来の本元になりますが、そこで私の住居は丁度その真中です。此処が観音様が居られる所になるわけです。そこで観音、釈迦、阿彌陀と、これが三位一体になるわけです。それから箱根、熱海、京都というのは、五、六、七で、やはり三位一体です。七が京都であり、お釈迦さんであり、それから桜の花になるわけですから、花の日で花祭りを四月八日に決めましたが、これも大変大きな意味があるのです。大体そういうような目的で来たのです。
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それからいずれはキリスト教も救わなければならないのです。仏教を救い、キリスト教を救いますが、キリスト教は大体カトリックです。アメリカはほとんどカトリックで、これが牛耳っているようなものです。神様はそれを救うべく、これからいろいろな経綸があるわけです。しかしキリスト教は世界中に拡がっていて大変なようですが、これは割合に簡単で、仏教より楽です。そう言うと変に思うでしょうが、それはいずれ分ります。共産主義が無くなり、資本主義が無くなり、仏教が無くなり、キスリト教が無くなるという事になり、そうして本当の理想的な文明が現われるという事になります。あまり一ぺんに大きな事を言うので見当がつかないでしょうが、そう一ぺんに簡単に行くものではありませんが、そういう大経綸です。世界の大経綸がそういう進路で進んで行くという事を知っていると、これからの世界の変化という事も良く分ります。本当言うと、勿論日本もそうですが、世界はこれから大変化が始まるのです。今度のスターリンの死というのは、そういう点にも関係があるのです。時間がありませんから、このくらいにしておきます。
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四月十五日
今度五日がかりで京都に行って来ました。大分至る所信者が増えて、なかなか活気があるように見えました。京都ではほとんどお寺廻りで、毎日お寺ばかりをグルグル廻って居ました。それで何処の寺も実に疲弊(ヒヘイ)しきって気の毒なようです。全く仏滅の有様がよく現われてます。非常に財政も逼迫(ヒツパク)しているとみえて、お寺にある仏像やいろいろな物を売りたがってます。なかなか相当な寺でも本尊様を売りたいというのがありました。それで二、三日中に持って来る事になってますが、それは掛物です。本尊様を売って、あとは何うするかと言ったら、代りの物を探してますと言ってましたが、非常に便利です。全く仏滅です。あっちでも大勢の前で講演をしましたが、私は嵯峨に別院を造るのは、つまりそういった各寺々の仏様の霊を救うためもあるという事を言ったのです。それで各寺々にある本尊様は無論ですが、いろいろ絵や彫刻に、その仏様の霊が憑るのです。無論いろいろ働きますが、働いて、そうして休む時は、その仏像なら仏像に憑るのです。ああいう物は非常に意味があるのです。みんなよく大黒様を祀りますが、祀ると大黒様の霊がそれに憑って働くのです。それでその仏様なら仏様の霊が憑って、そうして人が拝みますが、拝めば拝むほど、人間の有難いという想念が仏様の方に行くのですが、それが沢山行けば行くほど仏様の力、光が増えるのです。人間が構わないで拝みもしないと、仏様はだんだん光が薄くなり、威力が薄くなるのです。沢山の人が拝む仏様は、それだけ力も増えるから御利益も増えるというわけです。ですから人によっては、仏像を見て、これは沢山拝まれた仏像だと言う人が居ります。どうして分るのですと言うと、このお顔を拝見すると、何処か違うと言うのです。沢山拝まれた仏様と、拝まれない仏様は、つまり拝まれた仏様は何処か賑やかなのです。拝まれない仏様は何処かさみしいというので、実に不思議なものです。それから仏様の中でも、何も霊がないのに、観音様なら観音様として拝みますと、そうすると人間の想念で、お釈迦さんなり阿彌陀さんなり観音様なりのお姿、或いはそれだけの威力が作られるのです。その代りそれを拝まないと、それがだんだん消えて行くのです。それから仏様の御分霊が憑つて拝まれたのは、それが拝まれなくなっても無くなりはしないのです。それがさみしく残っているのです。そこが違います。それで京都あたりの仏様は沢山拝まれているから、何処か賑やかな威力を持っているのです。それがだんだん仏滅になるについて、仏様と言っても元々神様の化身ですから、元の神様に帰って救世教のために大いに働こうとしているのです。それは多賀夫人のあれが地上天国に出てますが、ああいうように働かれようとするのです。それにはやはり罪が残ってますから、それが或る程度浄まらなければ働けないのです。ですからみんな私に縋り付いて来るのです。ですからそういう仏様が、仏像などでこれから手にはいります。そうして更に仏教美術館を造ります。それについてこっちは、借りたり買ったりした仏様の霊を浄めて働かせるのです。と共に、あとは彫刻美術として、或いは絵画美術として、それを多くの人が見て楽しむというわけです。そうするのが本当なのです。それで今のように霊のあるうちに方々の展覧会に出すという事は、仏様としては情ないのです。自分は人から美術的に鑑賞されるつもりは少しもないので、やはり人を助け慈悲を施すというのが仏様の本当の気持なのです。そこで霊を神様の方に戻して働くというようになれば、あとは本当の美術品ですから構わないのです。私はだんだんそういうようにやるつもりです。そうしてその仏様達が働き出すと、いろんな宗教の信者がみんな救世教の信者になって来るのです。南無阿彌陀仏でも南無妙法蓮華経でもそうなります。教祖が大いに働き出す以上、救世教信者にならないわけにはゆかなくなります。ですからその根本は、その開祖なり教祖を救わなければならないのです。それが今度の嵯峨の仕事になるわけです。それで、それが済めば無論キリスト教の方もそういうように救って行きます。キリスト教の昔からのいろんな偉い牧師も救いますから、これは世界的に働かなければならないのです。だからただ信者を増やすといったところで、その根本の中心的のその霊を救うという事の、本当の結果が出るわけですから、やはり急所はそこにあるわけです。ですから面白いものです。しかしこういう事は今まで誰も知らないので、聞いてみて、ああそういうものか、と思うくらいなものです。それから面白い事にはそういった仏様なら仏様の霊が憑る場合に、作の良いほど良い仏様が憑るのです。ですから、ごく作の良いものは、“生きているようだ”と言われるのは本当の霊がはいっているのです。これは仏様ばかりでなく動物でもそうです。よく左甚五郎の猫が鼠を食ったとか鳥が飛んで行ったとか、いろいろな事がありますが、やはり良く出来たのは、そういう形のとおりの霊が憑くわけです。だから救世教では大黒様を祀ってますが、あの大黒様にやはり大黒様の霊が憑るのです。そうして働くのです。その場合大きいほど働きが大きくなるのです。そうかと言って、相応の理ですから、そこの床の間や御神体に対して丁度釣合(ツリアイ)のとれた大きさが良いのです。あんまり小さいのはお働きがまだ小さいのです。それから作の良い物ほど階級の良い大黒様が憑るわけです。私は大きいのが良いと言ったので、渋井さんが大きいのを持って来た事がありました。なにしろトラックで何人かで運んだのです。もっともその当時は渋井さんの金のはいるのは大変なものでしたから、やっぱりそれだけの御利益はあったのです。ではオレの所も大きいのを、と言っても、それはいけないのです。それはやっぱり相応の理ですから、大き過ぎても困るのです。まず丁度良い範囲において大きいというのが良いのです。それから絵や文字もそうです。面白いのは、龍神が居所がない場合に絵や文字に憑るのです。龍という文字には無論憑りますが、そうでなくても、水に関係した文字に憑ります。サンズイのついた文字によく憑ります。それからどうしても無い場合には、絵や字をかいた作者の名前のサンズイに憑る場合もあります。龍神は水さえあればそこに居られますから。実に微妙なものです。それから人間の名前でも水に関係のある名前の人には龍神が憑りやすいのです。やはりその人は水の働きになるからです。それは実に微妙なものなのです。それから京都はつまりお寺の都会です。だから京都という都市自体が非常に疲弊してます。今度私は方々廻る時に注意してみると、京都は壁の多い所ですが、実に壁の落ちている所が多いのです。それは随分酷いです。商家が並んでいる町の中はそうでもないが、商家がない所に行くと、五軒に一軒か十軒に一軒は必ずあります。中には板まで破れている所があるが、実に酷いです。これはお寺が疲弊しているために影響したのだろうと思います。だから京都という所は良い所ですが、さて多くの人を集中するという観光地としての形が備わっていないわけです。そこで私は嵯峨を中心にしたあの辺を一大観光地でもあり、地上天国的のものを造ろうと思って考えてます。それには非常に大きくなければならないから、今の所は二万坪くらいですから、そういうものを造るには到底狭いのです。どうしても十万坪はなければならないのです。ですから私は最初に、土地を見付けるについて、五万坪から十万坪の所が良いと言ったが、そんな広い所はなかなか一度にはないし、金も大変ですから、取り敢えず今の所にしたのです。二万坪というと随分広いですが、本当の世界的の観光地としたら、少なくとも十万坪はなければならないのです。そうなったら、日本に行ったら是非京都に行かなければならないという事になって、非常なものだと思います。そうなると京都という都会も相当な所になり、壁の落ちた所はないようになります。神様が良いようにやりますから、べつに気をもむ事はないが、人間の方から考えてもそうしなければならないし、神様の方から見ても無論そのつもりに違いないです。
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それから新聞やラジオで分ってますが、ソ連は今後どうなるかという問題です。一体朝鮮問題はどうなるか、スターリンの死後のソ連政府はどういう方針で行くかという事が、一番大きな問題であり世界中の人が関心を持っている事です。それはこれから非常に複雑ないろいろな変化をするのです。というのは第一今の休戦問題は、どうやら行くらしいが、そうかと言ってそれだけではべつに大局の問題の解決にはなりません。北朝鮮は、アメリカの方では何時も言うとおり、南北を合併して元の朝鮮の独立国にしようという計画ですから、そうすると折角今まで金や人間の命を犠牲にして来た中共の目的、仕事に対して全然無駄になりますから、オイソレとはゆかないのです。しかし現にアメリカは今南の方から北に向って平壌の線まで北の方に行かなければというような事を言ってます。それを中共の方で承知するわけはないから、これが又大変な問題になって来ます。次に台湾の蒋介石があのままにはできないのです。中共全部を急にどうという事はできないが、どうしても或る程度進出しなければ収まりがつかないだろうし、そうすると中共の方でも黙まってはいないから、この二つの問題でも大変だろうと思います。その次に現に戦っているインド支那でも、ホー・チーミン軍が非常な勢いで、仏軍を撤退させるほどの攻撃力が現われてますから、これも又大変な事です。というような事がありますから、なかなか簡単には行かないという事と、もう一つの大きな事は、結局だんだんソ連の共産主義というものは蔭が薄くなって来るのです。それでスターリンという者は非常な力があるのです。悪ではあるが、とに角力のあるのは大変なものです。スターリンの死後、スターリンの半分でも仕事ができる者はないのです。マレンコフでもモロトフでも知れたものです。だからソ連というものはガタガタになって来るのです。ソ連がガタガタになるという事は、共産主義というものがガタガタになって来ます。それは救世教団にちゃんと型が出てます。知っている人は知っているでしょうが、これはあんまりはっきり言えない事だから、覚るよりしようがありません。だから共産主義というものは亡びる段階にはいったとみて良いです。そうなると、ではアメリカはどうだというと、アメリカは大いに思いどおりになったから、これから良いだろうと思うかも知れないが、ところが神様の経綸から言うとアメリカが大変な事になるのです。或いはソ連以上に苦しむ時代が来るかも知れない、でなくて、すぐ来るのです。それはまだはっきり言えませんが、とに角アメリカ開国以来ない事があるのです。それで神様の経綸から言うと、アメリカ、ソ連は勿論ですが、素晴らしい大変化があるのです。これはおいおい話しますが、それがそう長くはないのです。今年中に現われると見てます。これが破壊と建設、建替え建直しというわけで、それがあってから救世教というものが本当に仕事をし、本当に世界的に現われるのです。ですから今はその時の準備の仕事をしているわけです。これはあんまり詳しくは言えませんから、今日はこのくらいにしておきますが、スターリンの死についてちょっと書いてみました。
御論文〔⇒英雄の死について〕【註 栄光二○五号】
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新宗教についてこの間も話したが、ちょっと書いてみました。
御論文〔⇒新宗教とは何か〕【註 栄光二○三号】
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それからこの間は精神病について話しましたが、今日は面白い事を教えます。女の病気というと婦人病によるように思うが、そうではないのです。仮りにヒステリーとか頭痛とか、頭に関係したいろいろな病気ですが、その時の浄霊は、頭や首の廻りも肝腎ですが、その外に子宮を中心としてのその辺が非常に関係があるのです。ですからその辺を浄霊すると頭がなおるのです。そういう場合には女の肝腎な所を浄霊するのです。そうすると頭が非常に良くなるのです。とに角女の此処(股間)が因です。早く言えば急所ですから、此処に毒があると浄化の熱が出たり、いろいろな溶ける作用が頭に響くのです。それについて知っておくべき事は、全部前の方は前頭部に関係があり、後の方は肛門に関係があるのです。ですから下痢や赤痢というのは後頭部附近の毒が出るのです。それから前頭部の毒は前の方から出るのです。コシケなどになったりするのです。特にコシケなどは多いのです。そこで天地と言いますから、此処(前頭部)を良くすると下の婦人病が良くなるし、此処(股間)を良くすると頭が良くなるというように非常に関連してますから、そういうような事を知ってやると大いに効果がありますから、試して御覧なさい。あんまりカカアが言う事を聞かなくてヒステリーを起した時には此処をやるのです。それで円満になるのは結構です。此処もいろいろな意味が非常にあるのです。しかし場所が場所だけに医学の方の婦人科か何かなら言えますが、もっともこっちは霊的ですから、そう詳しく知る必要はないが、こういう事も知っておかなければならないのです。夫婦別れになったり、それから親父が妾をこしらえたり、いろんな事で非常に悲劇ができますが、それは男ばかりをせめる事はできないのです。というのは女によっては此処の欠陥のために夫に満足させる事ができないのです。又それが割に多いのです。ですから夫ばかりでなく妻にも罪があるのです。それをなおすにも浄霊によるよりしようがないのです。私は昔不感症をなおした事がありますが、これはなおるのです。ただ困る事は、“どうですか”と言っても、“お蔭で良くなりました”とは言わないのです。しかしそういうのは顔色で分ります。ニコニコとしますが、それならもう良いのです。それからよく結婚を嫌う娘がありますが、これは此処が大変関係があるのです。それは膣痙攣と医者の方で言いますが、ちょっと触っても飛び上がるほど痛いのがあります。そういうのが、私は一生独身でいると言うのです。それは本当の事を言いませんから……。そういうのも浄霊でなおります。それから無毛症と言って毛のないのがあります。これも皮膚の内部に毒が固まって発毛を邪魔しているので、これもなおります。まだいろいろありますが、そう詳しく言わなくても分ると思いますから、これだけにしておきます。
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四月十六日
今度京都、奈良の方のお寺廻りをやりましたが、実に各寺が疲弊しきっているのです。このままで行ったら大抵な寺はつぶれてしまうだろうと思います。それで京都、奈良が仏教の本元ですから、本元がつぶれようとしているのですから、全く仏滅の状態がよく現われてます。本元のインドは仏教信者が大体三十万くらいですから、人口が三億五千万としてそのうちの三十万とすると問題にはなりません。それから中国は中国でほとんど仏教はないと言ってよいくらいです。僅かに日本だけに残っているのです。それで日本の中心である京都、奈良が今のような状態ですから、いよいよ仏滅は今やほとんど燈が消えかからんとしている有り様です。そこで京都別院を造るという事も、その一部として仏教を救うという意味もあるのです。そういうようであっちのお寺などは仏像や仏画を売らなくてはやっていけないのです。それで本尊様だけはそんな事はないと思ったところが、本尊様を売りたいと言って申し込んで来てます。昔からある上人、大師、禅師という高僧の霊は、これは地上天国の多賀夫人の霊憑りにもあるとおり、そういう偉い坊さん達が霊界で非常にあせっているのです。というのは霊界がだんだん明かるくなるにつれて、仏滅という事がよく分って来たのです。大体仏というものはみんな神様の化身です。これはお釈迦さんが、仏滅の世の間は神様では駄目だから、隠退して時を待つか、さもなければ仏になって働けという事を言われているのです。そこで日本の八人男女という五男三女は、仏になるのは嫌だというので、それでは龍神になって時を待てというので、八大龍王となって時を待ったのです。それでお釈迦さんから名前を貰って、それでお釈迦さんに封じ込められたという事になってます。インド名ですからなかなか妙な名前で覚え難いのです。その龍神達は日本の周囲の海に隠れて、というよりか、其処に約三千年の間住んで居られたのです。それでいよいよ仏滅になって、今度は神様になる、つまり元の身分になるわけです。それともう一つは、今言った仏様として働いた神様、そういう仏達が早く神様になりたい、そうして京都のいろんな仏像や仏画が自分達の居所になるわけです。それに憑っているわけです。それで今まで拝みに来る人などを守護していたのです。しかし守護していたと言っても、仏の力というものは月の光で薄いから、御利益を多くは与えられないのです。どうしても太陽の神様の光でなければならないのです。それで太陽の光というのは、神様になってその働きをするわけです。ですから仏が神様になるというのは今なのです。それで八大龍王の一番の神様が伊都能売神龍です。これが近江の琵琶湖に隠れていたのです。それで外の龍神は方々の陸地に近い湾のような所……越後と佐渡の間の海にも居ましたし、駿河湾、伊勢湾という所にも居て、そうして又その間日本を守っていた点もあるのです。そういうような訳だったのです。京都の平安郷に美術館を造り、殿堂も造りますが、そこで仏滅となり仏達を救い、救うという事は浄めるのです。仏の働きというのは神様の働きと違い、非常に間違った事もやったのです。しかしこれは間違った事をやらないわけにはゆかない点も大いにあったのです。そのために非常に穢れているので、それを浄めなければならないのです。浄めて初めて神様の資格になるわけです。それで平安郷でそういった仏様をみんな浄めるのです。そうして神様に戻るわけです。そういう意味があるのです。それで今度お寺をずっと廻ったという事は、主なるそういった仏様に、いよいよ君達は救われるという警告をすると言いますか、そういう意味になるのです。ですから神様の経綸というものはいろいろな事の、二つも三つもの経綸になるのです。そうしてそういった仏の霊が救われて神様になって、そうしてその仏像や仏画はカラッポになりますから、そこで美術品として美術館に並べて見せるという事になるのです。そうでないと中に魂が宿っている時にそうされると、仏様は非常に苦しいのです。つまり美術品扱いをされるという事は非常な侮辱をされるわけです。ですから嘘なわけです。よく仏像を集めたり家に置いたりすると、何か災いがあると言って恐れる人があります。その一つとして大阪の白鶴美術館ですが、今度私は行きましたが、あそこは非常に良い物があるが、仏に関した物が一つもないのです。あれだけ良い物を集めたのですから、仏に関した物があっても良さそうなものですが、一つもないのです。聞いてみると、仏には絶対に手を出さないという理由なのだそうです。そういうためもあるでしょうが、あそこの主人公は非常に長生きして、九十二で亡くなってます。だからそういう考え方も間違ってはいなかったのです。そういった仏像という物は、良い仏像ほど良い仏様が憑っているわけです。そこで私が去年手に入れた観音様ですが、今度も奈良の木彫の良い仏像を見ましたが、それは法隆寺にあるのよりずっと上です。ですからこれは持主が放すわけはないのです。その仏像を置いてある所の二階が土蔵になっていて、そこで踏まれる形になるので、苦しくてしようがないというのです。それは木彫では世界一でしょう。木は白檀で虫がつかないのです。天平時代に出来たのですから、千二、三百年たっているが、一つも毀(キズ)ついた所がなく実にきれいです。都合によったら今度出しますが、今度出なかったら、いずれ熱海の時の美術館に出します。それは実に大したものです。というのはそういう仏像には良い仏様の霊がついているから、早く私の所に来たくてしようがないので、親父さんを動かしたのです。それは前から知っている人でなく、初めて知った人です。ところがどうしても私の所に売りたいというのです。自分は時々見なければ気が収まらないが、美術館なら見たい時に見せて貰えるからと言ってました。随分高い値段でしたが、実際の価値から言うと安いです。そういうようで結局仏様は私の方に来たくてしようがないから、順繰りにそういう物が来るのです。まだ申し込みが随分ありますが、私の方でも金の方がなかなかそうはゆかないから延ばしているのです。今度の京都行きの意味はそういう訳なのです。
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それからスターリンの死について、その後ソ連の平和攻勢があり、ソ連の方針がばかに変ったのですが、変った事の第一番は、アイゼンハウアーが本腰になって中共征伐をやろうとしていろいろ準備をしているので、これをやられたら中共の方に勝ち目がないという事はよく分っているので、早くアメリカの考え方を変らせなければ危ぶなくてしようがないので、そこで急いでああいう手を打ったわけです。そうしてまずアメリカを緩和して御気嫌を良くしておいて、それからゆっくりと新しい政策をたてようという考えです。というのはマレンコフとかモロトフという人達が相談し合ってやっているのでしょうが、とに角スターリンは偉い人物なのです。それはマレンコフでもモロトフでもてんで後継ぎができるほどの者ではないのです。スターリンはとても偉いのです。ですからスターリンが死んだという事は、ずっと弱くなったのです。弱くなったから、じきに平和的になるかというと、そうもゆきません。ここに問題があるのです。それはアメリカとしては、どうしても朝鮮の南北を合併させなければならないのです。そうでないと侵略を認めるという事になりますから、そうすると将来世界平和に対して非常に悪い例を残すという事になるから、アメリカとしてはどうしても合併させなければならないのです。そうしてもう一つは、中共が蒋介石を押し込めて中国の全権を掌握したという事も、アメリカとしてはどうしても許せないのです。それと蒋介石に対して今までアメリカが公約して来た事があります。いよいよ復讐(フクシユウ)戦の時には大いに援助するというような点もあるのです。そうかといって、それをやると、そこに非常に悲惨な戦争を起さなければならない事になるのです。アメリカとしては中共が大いに平和的に来るのに、それを武力でやっつけるという事は、世界の輿論に対して面白くないのです。ですからこの点はアメリカも非常に困るのです。この前ダレスが辞職するとか、二、三日前の新聞に出てましたが、べつにダレスが悪いのでなく、情勢がそうなったのです。スターリンの死を動機として非常に平和的になって来たのですが、一時ダレスが言う事とは情勢が違って来たからで、これはしかたがないのです。これは了解するに従ってこの問題は消えますが、今のアメリカがちょっと困る事です。一番厄介なのは南北朝鮮の合併です。これをどうしてもやらなければならないのです。それでこの間、平壌と元山の線まで進出するというスローガンを出しましたが、ああいうような工合にアメリカが言ってくると、北鮮も中共もオイソレとは言う事をきく事はできないのです。しかし抵抗するとやっつけられるというので、これも随分ゴタゴタするだろうと思います。そういうようで、大分平和的にはなっても、まだまだ難かしい問題が沢山あります。それから又インドシナの問題などもホー・チーミン軍が非常な攻勢に出て来ましたから、下手にまごつくとフランスが追い払われますから、そうするとそれに対するアメリカの援助を中止する事はできないし、どうしてもホー・チーミン軍を或る程度くい止めなければならないから、これに対するアメリカの戦略もなかなか難かしい問題なのです。ですからソンナコンナでまだ当分そういったような問題がいろいろと随分あるだろうと思います。そこでどうしてもまず朝鮮を武力をもって南朝鮮の方に勝たせなければならないというような政策に出るかも知れません。とに角これから今までと変った形の朝鮮問題というものに変化して行くわけです。われわれからみると一種の興味ある問題と言ってもよいのです……それは、見物人の方だから。それでスターリンの死についてちょっと書いてみました。
御論文〔⇒英雄の死について〕【註 栄光二○五号】
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薬というものは全然科学性はないので、これはまぐれ当りを狙ったものです。それを書いてみました。
御論文〔⇒薬剤に科学性はない〕
ところが今日識者なるものは、薬をのむ事が科学性で、薬でなおす事が科学性がある、それでこんな事を(手を振って)してなおすのは科学性がないというのですから、あべこべも甚だしいのです。この間も漢方薬中毒の話をしましたが、それを書いてみました。
御論文〔⇒恐るべき漢方薬〕【註 栄光二○七号】
それから気がつかない事でこういう事があります。今の人は明治以前の人より顔色は良いのです。昔の人の方が顔色が悪いのです。これは古い肖像画を見ても分ります。これは何かというと漢方薬中毒です。漢方薬を多くのむと顔色が悪くなります。それで明治からだんだん漢方薬をのまないで、西洋の薬をのむようになりましたが、西洋の薬は、量は漢方薬より少ないので、顔色は漢方薬ほどにはならないのです。そういうようで西洋の薬は良いように思うが、そうではないので、毒の量が少ないから顔色が良いのです。しかしそれは男の方で、女は或る程度今の方が悪い場合があります。それは化粧品中毒です。いろんな舶来の物などを塗りますが、オシロイ、クリームなどがだんだんしみて行って皮膚を荒して悪くなるのです。ですから今のところは二十才前後くらいの若い女性は割合にきれいです。それで三十才前後くらいになると、非常に膚(ハダ)が荒れてくるのです。それは中毒がだんだん現われてくるからです。特に米国製というのが強いようです。ところが新聞の広告などを見ると米国製の化粧品がどうとかと、それを売り物にしてます。米国の化粧品は良いと日本人は思うのです。これは米国迷信にかかっているためですが、そういうようで化粧品を女が全然使わないと、それはきれいになります。しかし薬をのんだら駄目です。ですから信者の人で化粧品を止(ヤ)める人がありますが、薬をのまないで化粧品を止(ヤ)めたら、それはきれいになります。ですから小野小町というのは、それはきれいだったでしょう。
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それから医学でもう一つ注意する事は、浄霊の場合に、婦人に限って臍から下の急所をよく浄霊するのです。これが非常に女の病気の原因になっているのです。特に頭が痛かったり重かったり、女の人はこれが原因になっているのです。そういう症状の人とか、ヒステリー、或いはいろいろな下の病気に関係のあるので、種類はいろいろありますが、そういう事がみんなこれが原因ですから、まず其処をよく浄霊するのです。夫婦仲の悪いというのは、此処が大いに原因しているのです。夫婦喧嘩を始終やっている家庭というのは、其処を良く浄霊するのです。そうすると夫婦円満は絶対です。病貧争絶無とすると、やはり争が此処に関係があるのです。それから娘などで、よく結婚を嫌うのは、大いに此処に原因があります。これはやっぱり薬毒のためですが、薬毒がずっと下に垂れて行きますから、そうすると婦人は此処に一番溜まるのです。よく膣痙攣というのがありますが、ちょっと触ってもピリッとして飛び上がるほど痛いのです。こういうのは結婚を非常に嫌うのです。それから掻痒症というので痒いのがあります。これも薬毒が下に溜まるのです。ところがこれは人に言えないから、実際余計苦しむのです。こういう事も神様からいろいろ教えられますが、実際こういう事がいろんな苦痛や悲劇の原因になる事が非常に多いのです。ですから、ただ浄霊して浄めれば良いのです。それで前頭部の毒は此処に行くのです。そして後頭部の毒は肛門の方に行くのです。ですから下痢とか、何時も言う赤痢というのは後頭部の毒です。それで婦人の病気は前頭部です。ですから前頭部と此処は非常に関係があるのです。前頭部が痛い人は前頭部を浄霊するよりも下を浄霊した方が良いのです。この神霊医学というものは素晴らしい発見です。ノーベル賞の値打はあります。現代医学ではそういう事は全然知らないのです。これは試して御覧なさい、よく分ります。外からやるのですから、べつに差し支えありません。このために非常に早くなおります。
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四月十七日
私がこの間京都に行きました時のその主な目的は、仏滅、つまりいよいよ仏教が滅するという時期になって、その救いです。どういう方法で救うかというと、まず物質的に言えば、京都、奈良に沢山お寺がありますが、そのお寺が経済的にだんだんやって行けなくなったのです。特に墓のある寺は良いですが、ところが京都辺のお寺というものは、墓のあるお寺もありますが、大体一番大きいとか有名な寺というのは、各宗の本山とか、或いは勅願寺です。昔は幕府から扶持を貰っていたのですが、ちょっとした寺は十万石ぐらい貰っていたのです。それが全然無くなってしまったのです。それから勅願寺の方は天皇御一族の病の時に祈願するのですが、そういうのを扱かっていたので、やはり相当な手当を貰っていたのです。それで幕府の扶持の方は維新によって駄目になったのです。けれども昔からのしきたりがあるから幾分は助けていたわけです。ところが終戦後各旧大名などは財産税ですっかりやられていますから、人を助けるどころではなく、御自分の方が売り食いをするようになったのですから、お寺の方には全然来ないのです。それから皇室もああいうようになったので、皇室に関係のあるような寺も駄目だという事になり、又本山や何かも、末寺が全国的に何千とありますから、以前は其処からちゃんと寺の上中下によって寄附金のようなものが来ていたのです。ところがその末寺が焼けた所が沢山あります。それで大震災の時は焼けてもすぐに復興ができますが、戦災についての復興は、おそらく半分も復活してないでしょう。それで本山の方への寄進というのは全然無いから、終戦後京都、奈良辺りの寺は俄然として経済難に陥ったのです。そこでしかたがないから宝物を売るのです。それは内緒で大分売りつつありました。ところが良い結構な物を持っている寺は、やはりそれだけ財政が苦しくなるにも遅かったのです。それが最近に至ってそういう寺までがなかなか苦しくなったのです。それからもう一つは田地田畑山林を持っていました。山林は見逃されていたのですが、田地の方は農地問題でほとんど買い上げられてしまったのです。ですからこれが大変な打撃だったのです。それは寺によっては大地主だったのですから。そこで何もかもどうにもならなくなったのです。そうすると仕方がないから宝物を売らなければならないというので、隠れて相当に処分されて来たのです。それでわれわれの方にもそういう物が若干来てます。そういう話は沢山あります。本尊様を売って寺はどうなるのだと言うと、何か代りを、と言ってます。面白いのはこの頃時々そういうのがあるのです。それでは檀家が承知しませんから、その承諾書が付いているのです。何故付いているかというと、それを駄目だというと、檀家がその維持費を出さなければならなくなります。しかし檀家は援助できないから、そこで檀家総代の承諾書があるのです。そうでなければ問題が起るからです。そういうようでお寺も経済の窮迫につれて、だんだん手放してしまうだろうと思います。ではその先はどうだというと、今さらどうにもならないのです。それで私はそれも助けてやりたいと思ってます。なにしろいろいろな坊さんにしろ、とに角悪い事をした人ではないので、仏の慈悲を取り次いだ人達ですから、これは助けてやらなければなりません。それからもう一つは各寺にいろいろな仏像がありますが、その仏像それぞれにみんな霊界で修業を積んだ名僧知識の人の霊が憑っているのです。しかし憑っていると言ったところで、観音、釈迦、阿彌陀といろいろありますが、たとえてみればお釈迦さん、阿彌陀さん、観音様、聖徳太子……は観音様になるわけです。それから普賢菩薩、文珠菩薩といろいろありますが、そういうように信仰に熱心な、要するに霊的に修業した坊さん達がそれに憑れるのです。そうして守護されるのです。ですから立派な彫刻にはみんなそういう霊がはいっているのです。そこで今まではそういう仏像や仏画を美術品扱いにされたわけですが、それは非常に苦しいのです。だからその霊を抜かなければいけないのです。しかしみんなはそういう事は知らないから、そのままでいるのです。そこで仏像を沢山集めた人はどうも運が悪いのです。だから仏像を集めるのが嫌いな人があります。大阪の白鶴美術館の親父さんはそれを知っているので、仏像は集めなかったのです。随分良い物がありますが、仏像だけは集めなかったのです。それで良く聞いてみるとそうだったのです。九十二才まで生きましたが、そのために長生きしたのかも知れません。そういうようで仏像というものは、ただそのまま美術品にする事はいけないのです。そこでそれについて今、いろいろな高僧名僧の何上人とか何大師とか何禅師という人達がとてもあせっているのです。これは地上天国に多賀夫人の神憑りで書いてありますが、そういうような工合で、そこでそういう仏様も元は神様であったので、それが夜の世界の間仏に化現するのです。そうして救われるのです。ところが今度仏滅になると元の神様になるのです。これからは神様としては働けるので、仏様としては働けないのです。というのは仏の本元は月の神様で、月読尊という神様です。これは素盞嗚尊の表になるのです。月は照った時と闇の時とありますが、照った時が月読尊という御名前になり、隠れた時が素盞嗚尊になるのです。それで仏は月読尊の系統ですから月になるわけです。そこで昼になると月は消えますから、そこでどうしても神様の方にはいらなければ働けないのです。そこで早く神様に返りたいのです。ところが今まで仏界で救いをされた仏達は穢れがあるのです。穢れがあるという事は、仏の教えというものは本当の教えでないから、一方に慈悲で人を助けた手柄もある代りに、一方人を誤まらせた事も大いにあるのです。その誤まらせた罪を神様にとって貰わなければならないのです。そこでそれを私に浄めて貰う、浄霊して貰うべく急いでいるのです。そこで京都、奈良にある仏像の霊を救ってやるのです。そうして神様の方の仲間と言ってはおかしいが、神様の方のグループにはいって大いに働くというわけです。そうすると、あと仏像はカラッポになりますから、今度は美術品としてそれを作った芸術家の手柄を大いに輝やかせるわけです。それで芸術によって多くの人を楽しませるという事によって、今度はそれを作った芸術家が大いに喜ぶわけです。そういう意味の仕事を京都の嵯峨でやるつもりなのです。それであっちに行ってからすぐやるわけではないのですが、今でもそういった仏像仏画が自然に私の所にはいっているのだから、ボツボツやっているわけですが、京都に行ってから本格的にやるわけです。それでつまり今が仏滅から神世、神の世界になる移り変りという時になるのです。ですからその移り変りの時の救いです。そうしなければ人類を救う事はできないのです。結局霊的にはそういった神仏という人が支配しているのですから、仏教を救って、次にキリスト教を救わなければならないのです。キリスト教などもその弟子の偉い人というのは歴史にも沢山ありますから、そういう人達も救わなければならないのです。それからマホメットと、この三大宗教です。それを霊的に救って、それから本当に人間が救われるというので、これが順序で、神様はそういうような順序でやられるわけです。ですから今度あっちに行ったのは、その第一歩というわけなのです。こういう事は今までの宗教では全然説いてありませんが、説かなかったという事は、時期がこういう時に行ってなくて、やはり仏教で救ったりする時期ですから仕方がなかったのです。私は今の移り変りの境い目の仕事をするためだからそういう事が言えるわけです。
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それからスターリンの死から急にソ連が変ったのです。いわゆる平和攻勢ですが、どうしてこう変ったかという事は、新聞やラジオではあんまり説いてありません。或いははっきり分らないのかも知れないが、この根本はアイゼンハウアーがあのとおり、積極的にやっつける、まず朝鮮問題を解決すると言っているが、という事は北鮮軍をやっつける事です。そうして朝鮮の合併をして、これは私の「夢物語」にあるとおりです。次に今度は中共をやっつけて蒋介石の国府軍の方を進入させて、再び実権を蒋介石に渡すというような計画の下に着々と準備をしつつあるのです。そこでそれを若しやられたら、中共の方に勝ち目はないのです。それから又ソ連の方で救うとしたら、第三次戦争になりますから、そうするとソ連の方では到底アメリカに勝つ事はできないのです。だからしてこれは早くアメリカに積極的の攻撃をさせないようにしなければならないので、あわてて今までやらないような迎合的な、何でも彼んでも吸収的にやって来たのです。これは今までのソ連のやり方とはおよそ違います。非常に吸収的なのです。そうしてまずアメリカの鋒先(ホコサキ)を引込ませるというので、要するに拳骨を開かせるというような事を一生懸命にやっているのです。それでどうやらアメリカの方も余程柔かくはなったが、しかしなにしろ相手が相手ですから油断はできないから、まずアイゼンハウアーなどは軍備を少しも緩めないで、出ようによっては何時でも拳骨を振り上げるという態度をとってますが、やはりさすがによく見ていると思います。そこで一時は緩和されるとしても、これから先がいろいろ問題が起ります。というのはただ休戦しただけでは駄目で、休戦した以上はどうしても、第一に兵隊を引き上げる事です。それは中共の方も国連軍を引き上げるという事は賛成するが、自分の方を引き上げるという事はなかなか承諾できないのです。しかしそうでなければ本当に世界平和の実現はしないのですから、まず休戦により今度は平和の相談といったところで、兵隊を引き上げる事と、南北朝鮮を合併させる事、合併させて総選挙をして新しい政府を作るという段取りにならなければならないのです。これがなかなかで、下手にまごつくと中共が折角あれだけのいろいろな犠牲を払って、元々どおりになっては何にもならないから、これが又容易なものではないのです。それから蒋介石の方はそうなると、長い間の怨みの塊まりのやり場が全然なくなってしまいます。そこでしようがないから無理にやれば、支那の或る地点、何分の一かを国民政府の国家として作るという妥協案が出るでしょうが、これが又中共の方も蒋介石の方もうんとは言わないだろうと思います。だから休戦はできたとしても、その後の問題がなかなか大変です。そこでどうしても軍事的に叩くというより外に道はなくなるとすると、やはり戦争によるよりしようがないという事になるかも知れません。要するに戦争か平和かというような空気が非常に濃厚になって来てます。いろいろな悶着(モンチヤク)があるだろうと思います。ただこれだけは言えると思います。というのはスターリンは大変な人物ですから、スターリンの没後ソ連の方では、マレンコフでもモロトフでも大した人物ではないので、後生大事にやっているだけなのですから、この弱さがだんだん現われて来ますから、そこで共産主義というものはもう先が見えているのです。とに角だんだん没落に近付いて行きます。これはもう間違いありません。そうなると共産主義の恐怖というものは無くなるわけです。だから日本の共産主義も昨今余程弱くなってます。そういう現われがよく出てます。とに角スターリンという者は、偉いというか、力が強いというか、とに角偉いには違いないでしょうが、それによって共産主義の全盛時代を作ったのです。だから今はスターリンの没落ではなくて共産主義の没落です。そうすると今度はアメリカは非常に良いようですが、ところが神様の経綸から言うと、アメリカも大変な事があるのです。これは俄然として来るでしょうが、今は言えません。とにかくだんだん時の進むに従ってその都度言います。しかし結局においてアメリカの資本主義、民主主義ですが、大体民主主義というものが本当の主義ではないのです。これは逆の主義なのです。共産主義は又一層逆の主義です。民主主義の方が逆でも質(タチ)の良い主義ですが、共産主義の方は一層悪質の主義です。ですからその本当でない両方の主義思想を教え導くというのが救世教の仕事なのです。結局世界的に気運がそうなって来ます。つまり右にも左にも偏らない伊都能売式になるのです。それで世界的に気運がそうなって来て、それで初めてこっちが言う事の理解ができ、分るのです。それは先の事ですからこのくらいにして、スターリンの死について書きましたから今読ませます。
御論文 〔⇒英雄の死について〕【註 栄光二○五号】
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それから病気について、男はそうでもないが、女の特に頭に関した病気で、まずヒステリーとか憂鬱症とか怒りっぽいとかいろいろありますが、これは男も同じようなものですが、それは下の方に非常に関係があるのです。それで女のいろいろな病気で、浄霊しても効かない時はお臍の下のあそこを浄霊するのです。そうすると頭がなおるのです。ですからこれを心得ていて、ちょっと離れて良いのですから、そうしてやると頭が軽くなります。それから性格も非常に良くなります。だから夫婦喧嘩などを減らすには最も良いです。夫婦喧嘩治療法です。これは所が所ですから、あまり言えないのです。しかし女は案外此処に病気が多いのです。何故というと薬毒がだんだん下がって行きますが、そうすると女の此処に薬毒が溜まってそれが原因になるのが非常に多いのです。それからよく結婚を嫌う娘さんは此処に非常に原因があるのです。ですからこれは親にも分らないのです。あの娘があんなに結婚を嫌がるのは何故だろうと思いますが、それはみんな此処に原因があるのです。これは私はいろいろ神様からも知らされるし、そういう点も良く分ってますが、結婚を嫌う娘の一番の原因は膣痙攣です。これはちょっと触っても飛び上がるほど痛いのです。これは薬毒にもよりますが、多く消毒薬が下がって行って粘膜に溜まるのです。だから結婚の晩に逃げたりするのがありますが、これは浄霊ならなおるのです。それで面白いのは、後頭部にある毒は肛門の方に行くのです。ですから下痢などは後頭部の毒です。それから前頭部の毒は女の陰部に集合するのです。ですから前頭部の痛い女は、前頭部だけの浄霊ではいけないのです。やはり前頭部と此処で天地になっているので、面白いものです。これはあんまり詳しく言わなくても分るし、大体あらゆる薬毒は女は此処に溜まるという事を知って居れば良いのです。ですからそういう人は自分で浄霊すれば良いのです。そうするとずっと違います。だからこの浄霊法は自分でもできるから非常に便利です。それから痔も後頭部の毒ですから、痔だけをやってもなおらないので、後頭部をやらなければならないのです。
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四月二十五日
昨夜、木原さんを中心にした座談会の報告を読みましたが、最近割合に教修者が少ないという事について、教修者が増えて発展するようないろいろな方法を考えなければならないという事をいろいろ言ってましたが、それはみんな間違ってはいませんが、一番肝腎な所を忘れているというか、気がつかないのです。それは何かというと、何時も言うとおり大乗と小乗なのです。この小乗的考え方がいけないのです。前から言っているとおり、救世教は大乗でなければいけないというのです。だから発展するしないは、大乗と小乗の関係なのです。小乗的な人は発展しないのです。大乗的な人は発展するのです。これはひとり宗教ばかりではなく、何でもそうです。今一番発展している国はアメリカですが、アメリカは大乗的だからです。日本は小乗的だから、始終貧乏で苦しんでいるのです。私はよく裁判があって行って思った事は、アメリカの裁判は、仮りに罪があるとすると、この人は罪人にした方が国家のためになるか、或いは罪人にしない方が国家のためになるかという事を標準にするのだそうです。それでいろいろな事業をする人などは、何処かに法に触れる事が少しはあります。それがなかったら、それまで気を配っていては、アメリカのような大きな仕事は出来ませんから、少しは法規に触れる場合があるので引張られる、そうすると、この人間は法規上の罪にした方が国のためになるか、アメリカ発展のためになるかという事を考えるのです。それは、大きな罪はそうはゆかないが、小さな事は罪にしようがしまいが大した事はないので、裁判官の口先一つでよいくらいなものです。それで無罪にした方がアメリカのためになるという事を標準にして決めるのです。だから私の裁判で鵜沢博士ともう一人の弁護士はその方針でやったのです。“岡田という人間は世の中のためになる事をしている、非常に実行力のある人だから、こういう人は助けて、仕事をさせるようにした方が日本のためになる”という事を頻りに言ったが、裁判官にはそんな事は全然耳にはいらないので、ただ法律第何条に触れるというので罪人にするのです。だから日本は発展しないのが本当なのです。それは大きな、国家の害になるような事でなく、小さな条文にでも触れると、それを大変なものにするのです。だから一つの欠点があると、九つの良い事があっても、九つの良い事を見ないで一つの欠点で消してしまうのです。それが日本の欠点です。これは法律の事ですが、信仰もそうで、屁のような事で大きな事を忘れてしまうのです。だから発展しないとすると、そういう事が必ずあります。私は今まで見てますが、小乗的の人は必ず発展しないのです。窮屈な感じがします。あなたはこういう事をしてはいけない、神様の思召しに適わない、というような事を言うと窮屈になります。そうでなく、自由でゆったりとした気持にならなければならないのです。又そうするのが神様の思召しに適うのです。神様は小さな欠点はとらないのです。ただこの人間は一人でも多くの人を救うか救わないかという手柄を主にするのです。だから仮りにその人の欠点が三つあり、働きが七つあると、差し引き四つはプラスになるから、そういう人は神様の御守護が強いのです。それで一つの欠点とすると、六つのプラスになるから非常に御神徳がある事になります。もう一つは、それと同じ事ですが、小乗信仰と大乗信仰の違いさは小乗信仰は自分が救われようとするのです。自分はどうでもよい、世の中の苦しんでいるこの人達を救わなければならないというのが大乗信仰です。だから自分が救われようという事は捨てて、多くの人を救わなければ、とても可哀想で見て居られないという事を、本人が始終思って念願するのです。そういうのが本当の信仰です。ところが自分が救われよう救われようとしているのですが、それは自己愛ですから、そういうのは神様はあまり御守護されないのです。それからそういう人は、人からちょっとでも悪口を言われたりすると気にかけるのですが、それは自己愛だからです。人から何を言われても、そんな事は気にしないで、神様にお気に入られればよいのです。だから人を相手にせず、神様を相手にしろと言うのです。だからその点ちょっとした事ですが、大変な違いです。だからどこまでも大乗信仰です。それで大乗信仰の人は、人が良いとか悪いとか、そういう事は言わないのです。小乗信仰の人に限って、あそこがいけない、ここがいけないという事を始終思ったり口に出したりするのですが、それがいけないのです。第一人が良いとか悪いという事は分るわけはないのです。それについてこういう事があるのです。私は映画を見る時に、長唄の吉住小三郎さんが私と並んで見ているが、それを大変気にする人があるようで、小三郎さんの所に無名の投書が度々来るそうです。私は最初は気にしなかったが、この頃度々来るので、これはいかんと思ったのです。ところがそれを良いと思って手紙を出すのですが、それは小乗信仰の信者の誰かです。というのは“明主様の隣に坐って、いくら名人と言っても、芸人が勿体ない。それは明主様でなく、奥様の師匠だから、奥様がそういう工合に言うのだ、映画を見せるのだ”というように解釈しているのです。ところがあれは私がやっているのです。何故と言うと、とに角ああいった日本の芸能界では長唄が一番なのです。これはみんな知っているでしょうが、社会で一番重要に扱われているのです。その長唄のうちではあの人が名人です。これも誰も知っているでしょう。だからあの人だけは放送局で頼みに行っても、なかなかウンと言わないのです。今年になってから、何年かの記念というので一度出ましたが、それで放送局では何回も頼みに行って、やっと承知したのです。ですからあの人が救世教の余興に出るという事は、世間ではなかなかそういう事はないのです。ですからあの人が出るために、救世教の余興というものに大変な値打が出るのです。それから私はああいう芸能家に重きをおくのです。だからたとえ大臣だろうが代議士だろうが、会いたいと言っても会いませんが、芸能家の名人にはどんな時でも喜んで会います。何故かというと、芸能家、美術家の偉い人というのは、そのためにどのくらい人が楽しめるか分らないのです。又かけがえがないのです。あれくらいの名人というのは居ないのですから、そのくらいの人とすると、国の宝です。美術家でも、その人が死ぬと代りがないのです。ところが国務大臣にしても、大抵な大臣は代りが幾らでもあるのです。総理大臣は別ですが、なにしろ吉田さんが内閣を作ってからでも、大臣が変ったのは大変なもので、百人近くではないですか。それほど代りがあるのです。ですからイギリスで言っていますが“大臣を選ぶのにそう手数はいらない、紙を丸めて議場に投げて、当った者でよい”というような事を言っています。ところが芸術家というのはかけがえがないのですから、非常に貴いのです。私は小三郎さんは特に優遇してます。それで映画などは非常に楽しみにしてますから、始終言いつけて映画がある度に電話をかけて車で迎えにやっているのです。そういうようにしている私の心を知らないで手紙をやるという事はけしからんです。私の考えを全然妨害しているので、邪神にやられているのです。ですから小乗信仰というのは実際困ります。これはその一例です。しかしその人はそれを良いと思っているのです。だから咎めるという事にはならないが、その間違った考え方はどうしても直さなければならないのです。ですから人間の考えで判断して分るような、私のやる事はそんな単純な事ではないのです。何事でも非常に深いのですから、あれが良いとか悪いとか批評したり、そういう考えを持つという事はとんでもない事です。だから大本教のお筆先に“細工は粒々仕上げを御覧じろ”というのがあります。ですから私は神様の計画どおりにやっているのですから、それを人間の目で見て善悪という事は全然分るわけはないし、それを何とか批判しようと思う心そのものが、全然信仰から離れているのです。従って今年なども自然栽培についての報告がありますが、明主様はああおっしゃるが、昔から百姓はこうやる事になっていると、つまり昔式のやり方を幾分でもしただけは悪くなっているので、私の言ったとおりのそのままをやっていない人は成績が悪いのです。この頃は分って来たようですが、そういうようで、今までの信仰では本当の大乗というのはなかったのです。だから信仰は大乗信仰でなければならないのです。小乗の人は経(タテ)が長いので、緯(ヨコ)が短いのです。このために広がらないから発展しないのです。やはりバッジにあるように十の字で、両方同じでなければならないのです。経もあり緯もありでなければならないのです。だから善悪の批判もよいですが、決めるのがいけないのです。決めるから間違ってしまうのです。それは信仰には限らないので、神様が世界を経綸されるのは実に深いのです。だからあれが悪いとか、このやり方が良いとか悪いとか、そういう批評は本当はできるものではないのです。ところがそれを全然批評したり何もしないというのは、それもいけないのです。それは世の中の政治などはそれでよいのです。しかし神様の事、私がやっている仕事だけは全然分らないのです。だから信仰の事だけは決めないで、有るがままにするのです。それから座談会の中に“頑張るというのがいけない”とありましたが、それは全くそうで、頑張るという事が、人間の力を主にする事だからいけないのです。だから頑張らないでフワフワとしていた方がよいのです。浄霊に力を入れないでやるという事と同じです。又私は腹に力を入れないという事を言っているのもそういう事です。世の中の習慣は大抵あべこべの事が多いのです。今言ったように、大臣や代議士より美術家の方に重きをおくという事は、今までの考え方とは違いますが、よく考えてみればどっちが道理に合うかという事も分るわけです。今までのいろんな考え方、道徳というものとは非常に違いがあるのです。私は余興の時には何時でも忠臣蔵をやってはいけないと言ってますが、このくらい間違った事はないから、それで私は嫌いなのです。それでよく武士道などというのはあべこべの事が多いのです。それはその当時の権力者が自分に都合のよい道徳を作ったのです。だから非常に公平な人間の扱い方ではないわけです。だから今度論文に書いてますが、無論共産主義は亡びる、それから民主主義も亡びるという事を書いてあります。共産主義は間違っているが、民主主義も間違っているのです。とに角何々主義というのがいけないのです。今までの世の中はみんなそうなってますから、今までの習慣や道徳という事に全然捉(トラ)われないで、神様の智慧、神智によって物事を見るというようにすると、本当の真理が分るわけです。お説教はそのくらいにしておきましょう。
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美術館についてちょっと書いてみましたが、喋るよりは要領良く書いたつもりですから、今読ませます。
御論文〔⇒神技の美術館〕【註 栄光二○七号】
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それから今の共産主義とかいろいろな事についてざっと書きました。
御論文〔⇒これから世界はどうなる〕【註 栄光二○六号】
今読んだとおりで、つまり今までの社会というのはいろんな思想の人間に考え出させたのです。そうしてそれを実験してみると、結局どれもこれもうまく行かないのです。これは私は、大本教信者時代に分ったのですが、大本教の教祖様の出口直刀自は経の信仰、つまり小乗信仰です。ですから実に厳(キビ)しいのです。そこで教祖様は「イズの御霊」とも言われたのです。「イズ」というのは厳しいのです。それから聖師様の出口王仁三郎は緯で、「ミズの御霊」です。教祖様は経、聖師様は緯だという事になっていたのです。それで最初は「イズの御霊」つまり厳しいやり方によって失敗したわけです。ですから教祖様は始終きちんと坐って、体を少しも乱さないのです。しかし厳しいと言っても、やはり神様ですから愛はあります。だからその厳しさを人には強要しないで、御自分で守っていたのです。面白い事があったのですが、教祖様はどんな人にも同じような待遇をされるのです。それで或る信者が“教祖様はどんな人にも同じ待遇をされているが、やはり好きな方と嫌いな方があるでしょうが、それを伺いたい”と言ったところが、“ワシも好きな人と嫌いな人が大いにあるが、そういう別けへだてをすると、嫌いな人は非常にいやな思いをする、それがつらいから同じようにしている”と言われたのです。御自分には厳しくても、人には厳しくないという、そこにやはり神様としての愛があります。だからそれに似た事は、私もよく言われます。私は忙しく自分の仕事をしてますが、それで家内や外の者が遊んだりしてますが、よく世の中の亭主は、自分が働いている時に女房子供が遊んだりしていると、それがシャクに障って叱ったりしますが、私はそういう事は全然、わざとやらないどころか、そういう気はないのです。私はむしろ、自分がいくら骨を折っても、外の者が気持良く愉快に遊ぶばかりでなく、いろんなそういう生活をしていると、非常に気持が良いのです。ですから自分がいくら忙がしくても苦しくても、別に何とも思いません。これは私は別に修業のためにそうするのではないので、そういう生活のためなのですから、私の道楽のようなものです。人が喜んで満足しているのを見るのが愉快で堪らないので、そういうようにやっているのです。そういうようで、教祖様にはそういう点が非常にあったのです。ところが聖師様という人は全然反対で、大体生活も始終寝ているのです。信者が御目にかかりに行っても、寝ている方が多いのです。それでワシは「ミズの御霊」で水なのだから、きちんと坐っていると苦しいと言って、歌を作るにも文章を作るにも、横に寝ていて筆記させるのです。これは面白いものです。ところがそういう緯のやり方ですから非常に拡がったのですが、そのために災いされて失敗されたのです。これが一つの型になっているのです。ですからお筆先に“大本は世界の型であるぞよ”というのがありますが、確かにそうです。それで東洋は精神的ですから、「イズの御霊」で、それが失敗したのです。それで西洋文明に負けたのです。ところが西洋文明も緯ですからそれによって失敗するわけです。そこで東洋の精神文明と西洋の物質文明の両方がきっちりと結ぶ事が、今言う伊都能売式です。それが人類の目的です。そこで良い世界ができるのです。その結ぶ中心の仕事をするのが救世教です。ですから結局世界は、あらゆる思想あらゆる主義というものが間違っているという事を知って、今書いてあったような、経にあらず緯にあらずという、これが世界をリードするわけです。そうすると外の主義思想はいけないという事を人類が覚るという事がこれから出てくるのです。つまりいろいろな失敗の悩みが世界的に出てくるのです。それで救世教が、“こうやる事が本当だ、これが真理だ”という事を世界中に宣伝して、それで初めて“なるほど”と気がついて、それが一つの根本思想になって地上天国が出来るわけです。そういう訳ですから共産主義もスターリンが居た時がまずとに角華やかだったのです。それからアメリカが資本主義によって世界を非常にリードしてますが、これがいずれは共産主義と同じように没落すると思います。今の話は大体を話したわけです。
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四月二十六日
何時も言うとおり救世教の信仰は大乗信仰です。それでよく昔から仏教の方で出た言葉で“大乗道”“小乗道”というのがあります。大乗小乗と言っても、本当の大乗は今までなかったのです。大乗小乗は仏教から出た言葉ですが、仏教そのものが小乗信仰なのです。だから今までの大乗というのは、小乗の中の大乗です。それで大乗道というものは仏教でよく説かれてますが、見当違いを説いてます。というのは仏教は小乗の限られた枠(ワク)があるのです。本当の大乗というのは枠がないのだからして、そこでくい違うわけです。だから本当の大乗は仏教では説けないわけです。つまり大乗というものは、あらゆるものが包含されているという事は勿論ですが、大乗の考え方というものは、要するに非常に深遠微妙と言いますか、人間にはちょっと分らないのです。だからいろんな説や思想がありますが、これは悉(コトゴト)く小乗です。それで本当の大乗というものを分るようになれば、それはどんな問題でも、どんな事でも分るのです。それで一番分りやすいたとえは、ソ連の共産主義というものは大いに日本を助けているという事です。アメリカが日本を随分助けましたが、ソ連が日本を助けた事もなかなか小さくはありません。戦後日本の経済界が行詰ってどうにもならなくなった時に、朝鮮問題を起してくれたので、そのために日本の経済界は俄然として立ち直ったのです。だからソ連に対して大いに感謝してもよいのです。そういうように考えるのが大乗的考えです。ところがそういう考えはできないから、共産主義はけしからん、日本にはいり込んだら大変だから防がなければならないという考えで、極力共産主義を悪く言ってます。それも決して間違ってはいないが、ただ大乗小乗の考え方から行くと、今のソ連が日本を助けたという事が大乗的考えなのです。ですからその点はなかなか一様に決める事はできないのです。今度の総選挙でもそうです。社会党の左派が案外景気が良く、自由党の次というくらいです。改進党などはそれに反して意外に悪かったのです。これは何かというと再軍備問題です。改進党、鳩山派ははっきりと軍備をしなければならないという事を強調したために成績が悪かったのです。それから社会党の右派の方は場合によっては軍備も必要だという事を言っているためなのです。ところが左派の方ははっきりと絶対に軍備はしない方がよい、必要ないという事を強調しているのです。どうしてそんな事を言うかというと、日本を第二の中共にしようというのです。だからして第二の中共とすればソ連が日本を攻撃するはずはありません。助ける事はあっても攻撃するはずはないからして、軍備の必要はないと強調するのは当り前です。ただ第二の中共にしようという事は言わないのですが、だから左派はどうして軍備は要らないという事を言うかと変に思うでしょうが、日本を第二の中共たらしめるという事が分れば不思議はないのです。そうすれば婦人の投票者も多いのです。本当に投票するのは男より少ないが、数から言えば男より多いのです。婦人の輿論は、ラジオの街頭録音を聞いても、婦人は全部非再軍備派です。それは自分の亭主や息子が引張り出されるのは、この間の戦争で懲りてますから、国家の大局という事には関係なく、ただ戦に出すのは嫌だという、本当の利己的観念で再軍備反対の方を支持するわけです。そういう人達の投票が左派に行ったので景気が良かったのです。だから改進党などは五大政策の中に軍備をするとし、特に芦田氏などは強く言ってますから、そこで改進党は嫌われたわけです。だから数が多ければ投票が多いのですから仕方がありません。そうすると婦人の考え方は、日本が共産主義の支配下になってもよい、というのでなく、なろうとなるまいとそんな事は関係なく、ただ自分自身が戦争の脅威から逃れよう、亭主や伜を守ろうという小乗的考えです。それからソ連に侵入されたら大変だというのが大乗的考えです。そこでずるいのは自由党の吉田さんです。実際には再軍備をしながら、日本は再軍備はしないと言っているのですから、その点から言うとずるいです。そのずるさが当って、今度は割合に多かったのです。そこで、ずるいのはけしからんというのが小乗的考えで、ずるくても第一党になって思うとおりにやるというのが大乗的考えです。だから信仰でもよくあります。キリスト教がどうしても増えないのです。戦後何億という金を使って、随分立派な牧師などが来てやってますが、少し増えたかと思うと元どおりになって、ほとんど増えも減りもしない現状維持でしょう。だからキリスト教としては、今非常に困っているのです。大体キリスト教の教会の費用というのは一年間に一億要るそうです。ところが信者から集める金は半分も難かしく、四割くらいだそうです。ですから六割はどうしてもアメリカの援助を求めなければならないというので、アメリカが援助しているわけです。そういうようにキリスト教が増えないのは、それは日本の国民性に合わない事と日本にいろいろな宗教があるためもありますが、大体キリスト教のやり方というのは小乗信仰を非常に取り入れているために広がらないのです。キリスト教では“何する勿れ”“何すべからず”と、非常に窮屈に説いてます。これが日本人に合わないのです。小乗でも、仏教のうちの南無阿彌陀仏は非常に大乗的です。そこで仏教信者というのは非常に増えるのです。法然、親鸞、蓮如上人というのは、仏教中でもすばらしい大乗です。それで親鸞が肉食妻帯を許したばかりでなく、自分がそれを行ったというのは、仏教の大乗道の先鞭(センベン)をつけたのです。そのために、しまいには蓮如上人は真宗を広めるには方々に寺を作らなければならないと、その寺を作るのに弟子の坊さんの偉いのではどうもうまくゆかない、どうしても自分の系統……本願寺の大谷の系統……の人が管長にならなければ、どうも発展しないと、血筋を非常に重要にされたのです。そこで蓮如上人は、主に北陸ですが、北陸から東海道の方に行脚したのですが、その時に各寺々に行って、立派な所の娘さんに子供を産ませたのです。それは何人かは知らないが、とに角何人かに産ましたのです。それを各分院の管長にして、そうして非常に真宗というのは広まったのです。ですからこれを小乗的考えでみるとけしからんわけです。ところが大乗的考えでいくと、教線を広げるためなら、それもやむを得ないという事になります。そこで大乗にあらず小乗にあらずという事が必要になってくるのです。或る場合には大乗でゆき、或る場合には小乗でゆくという、そこの使い別けがなかなか難かしいものなのです。しかしそういった事は日本ばかりでなく、蒙古のラマ教などは結婚の時にはラマ教の一番の大僧正と言いますか、それがお床入りするのが当り前になっているのです。それで長男には結婚させて家を継がせるが、次男以下はそれを全然禁じてあるのです。だから次男三男というのは結婚は許可されないのです。そこでみんな坊さんになってしまうのです。ですからラマ僧と言って、ほとんど国民の大部分は坊さんです。そんなおかしな事をしたという事は、清朝が蒙古を非常に恐れて、蒙古の民族を増やさないという政策をとったためです。今はどうか知らないが、つい二十年くらい前まではそうだったのです。これは蒙古に行ってラマ教を探検した人に聞いたのですから間違いありません。これらは大乗の所もあるし小乗の所もあるというようなのです。それについてこういう事があったのです。それは、吉住小三郎という長唄の師匠が、映画を見る時に私の隣に並んで、始終でもないが、よく来るのです。ところが信者の中に、こういうように考えたのでしょう。“とに角小三郎というのは奥さんの長唄の師匠だ、それが明主様の隣に夫婦で来て平気で見ているという事は甚だ勿体ない、あれは明主様がお許しになっているかは知らないが、どうもわれわれから見てけしからん”というように考えたのでしょう。それで小三郎さんの所に無名の投書が行くのです。“あなたは遠慮して行かないようにしてくれ”と、それが一度や二度でないらしく頻々と来るのです。そこで小三郎さんは、信者さんの中にそういうような事があっては、私は行くのを御遠慮しようと、最近は来なくなったのです。あの人は、ああいう人には珍らしい人格者で、非常に遠慮深い性格の人ですから無理はありません。ところが実際の事を言えば、今日長唄が一番全盛で音曲の王者とも言うべきものです。その長唄の中で名人というのは小三郎さんです。ですから放送局で頼みに行ってもなかなか行かないのです。この間は三十年記念かで頼まれて、やむを得ず出たが、そういうようで放送局でも自由にならないのです。それが私の方で頼めば何時でもやってくれるのです。ですからあの人が出るという所は救世教の御祭の時の余興より外にはあまりありません。ですから一つの権威があります。だからその点から言っても重要な人なのです。御祭の余興に対する一つの値打を出しているわけです。それからもう一つは、私はああいつた芸能人、美術家という人達は非常に貴いとしているのです。というのは、そういう芸能人の名人というのは、如何に民衆を楽しませるかという事で、つまり清い楽しみを与えるという事は非常に必要であり、非常に尊敬する人と思っているのです。ですから私は、たとえ国務大臣が面会したいと言っても、普通では面会しません。そう言っては何だが、あんまり価値を認めないからです。大臣の代りというのは幾らでもあるのです。吉田内閣でも、何人任命したか分りません。おそらく百人近いでしょう。それほどに代りは幾らでもあるが、ああいった名人というのは代りがないのです。だから如何に政治家よりか上の価値があるかという事が分ります。前にイギリスの或る有名な人の批評で“大臣は別に任命する必要はない、議場に行って紙つぶてを投げて、それが当った人を大臣にすればよい”と言ってます。それくらいのものですから、ああいった芸能家、美術家の名人という人達は、社会の非常に尊敬すべき人です。私はそういう意味から小三郎という人はああいった芸能人の最高の人ですから、あの人だけは、信者にならないうちから浄霊しているのです。大変気弱くなっているから、長生きするようにしているのです。“あなたは国としても宝だから、できるだけ長生きして多くの人を楽しませるという事が必要だ、自分がやらなくても弟子を養成しているから、それが大変だから、貴重だから、あなたはできるだけ長生きするように”と言ってやっているのです。それで映画を見せるのも、あれは奥さんでなく、私がやっているのです。それをどう間違えたか、あの人が映画に来るのを遠慮してくれというのは大変な間違いです。この考えというのが小乗的考えなのです。だからその小乗的考えというのは、私の意志や心をふみにじるような事があるのです。こういう人は、もう信者ではないのです。よく自然栽培で、なにしろ親代々コヤシをやるので、そんな無肥料で出来るはずがないと言うのです。以前は堆肥にコヤシを薄めてかけたものです。それを堆肥だ堆肥だと言っている、それでそんなに成績が悪い事はないからと、だんだん尋ねてみると、やはり堆肥に小便をかけているのです。そういうように自分の考えを取り入れたがるのです。それがとんでもないお邪魔になるのです。今の小三郎さんの問題でも、自分では良いと思っている事がとんでもないお邪魔をしているのです。若しそういう事を聞いたら、ああオレは申し訳ない事をしたと、小三郎さんの所にお詫びに行くのが本当です。自分のために明主様のお気持を大変毀つけた、だから取り消しを願うから、今までどおりに行ってくれ、というくらいなら立派なものです。ところがそれだけの勇気があればよいのです。そういう勇気のある人だったら、それはむしろ褒めてもよいくらいなものです。決しておだててそうさせようというのではないので、それが本当なのです。この話はそのくらいにしておきます。
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美術館についてですが、今年は去年とは余程変つたつもりですが、それについてそういった経路を書きましたが、これは話するよりかえってはっきりしてますから、今読ませます。
御論文〔⇒神技の美術館〕【註 栄光二○七号】
美術館もだんだん各方面に分って来たようですから、今年は観覧者もずっと増えるだろうと思ってます。いずれ熱海にも美術館が出来ますが、お寺の仏教美術という物でも、不思議でもないが、まあ不思議とも言えますが、案外素晴らしい物が出て来るのです。それでだんだんお寺を調べてみると、財政についての一番致命的の事は、大抵な大きなお寺は田地を持っていたのです。これが一番の財源であったのです。ところが戦後の農地改良問題で強制買い上げでみんな取られてしまったのです。そのためにお寺の一番の財源がなくなってしまったのです。それでお墓のある寺は檀家がありますから、それでどうやらやっていったが、京都、奈良辺りはそういう寺はほとんどないのです。つまり田地を持っているお寺と、さもなければ勅願寺で、これは徳川幕府の時代に、少し良い寺は十万石くらいの扶持を貰っていたのです。一万石、何千石というのはざらにあったのです。それがなくなって、それから明治になってから、相当由緒(ユイシヨ)のある神社には宮内省とかそういった関係方面の援助も相当にあったのです。それから華族とかその土地の先祖代々のしきたりで援助するという事があったが、そういう事がほとんどなくなったから、今度京都に行って由緒ある寺も廻ってみましたが、無収入という寺がほとんどです。ですから相当に有名な寺でも、畳は破れてヘリなどはなくなっていて、実に気の毒なくらいです。そういう所で素晴らしいのを持っているのです。中には京都、奈良の見物の人に、一つの見世物的に観覧料を取ってやっている寺もありますが、寺によっては、在方の方で不便な所ではそういう事がないので、維持して行くのに大変なので、良いのをボツリボツリと売って、僅かに繋げているのです。そこでそういう所からなかなか良い物が出てくるのです。そうかと言って買手はなかなかないのです。なにしろ今度私の方で買う事になった三尊の彌陀というのは、中の本尊は等身大くらいあります。脇仏は小さいですが、これだけの物を飾るには四畳半くらいの大きさが要りますから、それを買って飾るというのは個人にはないのです。美術館でも外にはないし、博物館では買わない事になっていて、借りる事になっているのです。全部お寺の名前が書いてあります。お寺で売るとしても買手がないのです。ですから割合安く買えるのです。そこで寺を助けるという意味で、箱根の美術館は小さいから並べる事はできないが、熱海、京都の時にと思って金の続く限り買っておこうと思って、ボツボツ買ってます。そういうようで仏滅の世という事が、霊的でなく体的に出ているのです。それでお寺の仏像というのはほとんど無くなってしまうだろうと思います。それで国宝や重美になっているのはアメリカ人は大変に欲しがって、直ぐ売れます。そういうようでお寺にある仏像はだんだん減ってゆき、だんだん形に出る仏滅になって行きます。中には本尊様を売っているのがあります。それには氏子の承諾書がついているのです。氏子がそれを承諾しなければ、自分も税金になかなかいじめられているので、お寺の維持費まで出すわけにはゆかないというので、判を捺すわけです。そういうようで仏教美術の良い物が集まりつつあるのです。と言っても仏像ですが、この彫刻は大変なものです。これは世界のどの国でも頭を下げます。世界で彫刻で良いというのはギリシャで、その後にロダン、ダヴィンチが出て作りましたが、日本の仏教彫刻とは段が違います。それから支那にも仏教の彫刻はありますが、とても日本のように秀れた作はありません。近頃、日本の仏像の彫刻などは大分認められて来ました。私は日本の仏像彫刻というのを世界的に認識させようと思っているのです。そういった寺にある傑作がだんだん集まって来るだろうと思ってます。そういうようなわけで、神様はあらゆる方面にわたり、いろいろな方法で集めたり、いろいろしてます。大体開祖や偉い坊さんが霊界で働いて手柄にするのです。自分がこしらえた寺にある良い仏像を救世教の御用に使って貰えば大変な手柄で、霊界においてそれだけの功労を認められて出世もするし、仏様は元はみんな神様ですから、その仏の方から脱却して神様の位にして貰って大いに働きたいのです。ですから近頃になって大いにそういった仏教美術が集まってくるのです。ですから道具屋がこんな物は出るはずがない、売るはずがないと言ってます。それは信者でないから不思議々々々と言ってます。そういう意味もあるのです。
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四月二十七日
昨日、一昨日と大乗、小乗について話しましたが、それについて今度の総選挙の結果、一番意外に成績が良かったのは社会党の左派です。それから悪かったのは改進党です。これは何故かというと、つまり大乗と小乗の現われです。その原因は再軍備問題なのです。それが実によく現われてます。社会党左派の成績が良かったのは再軍備絶対反対です。むしろ無防備国家という事をはっきり主張してました。軍備は要らないという事は根本理論です。これは当り前なのです。とに角日本を第二の中共にしようというのです。だから第二の中共になれば、ソ連は日本を侵略する憂いは決してないから軍備は必要ないのです。アメリカの方が侵略すれば、それに対する軍備が要るが、アメリカは侵略政策でないから、侵略国というのはソ連ですから、それで軍備の必要がないのです。それを主張するわけです。ところが大抵婦人に多いのですが、日本の国家はどうなるだろうというより、自分の息子や亭主が兵隊に出されては困る、心配だ、それには戦争がなければ安心だというので、社会党左派に投票するというわけです。その反対に改進党は軍備しなければならないとはっきり言ったために、それでは改進党には投票できないというわけです。それから右派社会党は左派のようにはっきりと再軍備に反対はせず、事情により場合によってはやむを得ないというような危ぶない点があるので投票が少なかったのです。それから自由党は事実再軍備をしながら、再軍備は絶対にしないと吉田さんが言ってましたが、これは又非常にずるいやり方だったのです。ですから自由党が、馬鹿野郎問題が案外影響しなかったのは、そういったずるさの勝利です。だから時によってはずるいという事は必要なのです。国家の利害はあんまり考えないで、自己の利害のみを考えるというのが小乗なのです。それからそんな事は関係なく、本当に国家のために或る程度は軍備をしなければいけないというのが大乗的考えです。それで吉田さんのやり方は大乗にあらず小乗にあらずで、やはり一種の伊都能売式です。そういうように考えると総選挙の結果というのははっきりしていて、実によく分ります。外の政策とか外の事は幾らも影響しないのです。大体再軍備問題がそのまま選挙の結果に反映したわけです。それと同じような考え方が何事にもあるのです。信仰上にも大いにあります。小乗は経ですから、小乗的に物事をきちんと考える人はやっぱり発展しないのです。そうかと言って、大乗的に何でものみ込むのは、発展するかわりに危険が伴うというわけです。だから小乗と大乗の使い分けをうまくやる人が一番成績が良いわけです。このやり方が伊都能売なのです。それについての例ですが、映画の時に長唄の吉住小三郎という人がよく来て、私の隣に並んで坐って映画を見ているのです。ところがそれを気にする人があるとみえるのです。こうだろうと思うのです。“なんだ、明主様の隣に芸人風情が坐って見るなんて、どうもとんでもない話だ、勿体ない”というのでしょう。まあ悪い考えではないので、良い考えですが、それで小三郎さんの所にチョイチョイ無名の投書が行くのです。あなたは甚だ良くないから遠慮して貰いたいというのです。最初の一回か二回の時は歯牙(シガ)にはかけなかったが、チョイチョイ来るので、小三郎さんも信者の中にそういう方が一人でもあると自分も気持が悪いからと、この頃は来ないのです。それで投書する人の考えは、“なんだ奥さんが長唄の稽古をしている師匠ではないか、それが明主様の隣に坐っているのは甚だ申し訳ない”というのだろうと思います。それで私をアンポンタンかお坊ちゃんのように思っているのです。それがいけなければ私は許しません。それはどういう事かというと、今の音曲界では一番の王者としての長唄で、その長唄界の大御所たる存在が吉住小三郎という人です。あの人は芸能者の第一人者ですから名人です。それであの人だけは、人が頼みに行っても絶対に応じないのです。放送局でもあの人には手こずっているのです。この間放送局の三十何年かの記念にちょっと出ましたが、ああいうのはうんと頼んでやっと承知させたのです。だから公でない会などには絶対に承知するものではないのです。ところが救世教の余興の時には必ず出るのです。だからこれは余興に対する一つの素晴らしい値打を増すようなわけなのです。小三郎さんという人は、名前だけでもそれだけの働きをしているのです。ですから私は、神様はうまい人と関係をつけたと思っているのです。それからもう一つはそういった芸能人、美術家、或いは文学者、作家という人達は、私は特に貴く思っているのです。そういう名人というのは代りがないのです。だから国務大臣というような人よりもずっと上なのです。大臣などは辞職すれば代りは幾らでもあるのです。吉田内閣でさえ四、五年の間に任命した大臣は百人近いでしょう。だから前にイギリスの有名な人が“大臣を任命するのに相談や手数は要らない。議場に紙つぶてを投げて、当った人を大臣にすればよい”というのです。そのくらいですから、甚だ失礼ながら代りは幾らでもあるのです。ところがああいった美術家とか芸能人の名人はすぐに代りがないのです。そうでしょう、俳優でも少し偉いのはその代りはないのです。ですから今は歌舞伎俳優で困っているくらいです。だから今はそういう人こそ大いに優遇しなければならないと思ってます。何故というと、とに角社会で一般大衆を楽しませる技能を持っているのですから、非常に結構なのです。私は何時も映画を見る度にそう思うのですが、映画俳優も脚本を作る人も、われわれにこういった娯楽を与えてくれるという事は大いに感謝してよいと思います。ですからそういう意味において小三郎さんは大いに優遇しなければならないのです。それやこれやで、始終私の所に来ますから、長生きをさせようと思って中風とかそういうような事が起らないように浄霊してやっているくらいなのです。だから映画を私の隣で見るくらいは結構なのです。それを遠慮しろと強制する人は小乗的考えなのですから、ケツの穴がごく狭いわけです。だからその人の耳にはいった場合には大いに考え違いを神様にお詫びして、若しかその人が本当に悔い改めて、勇気があれば小三郎さんの所に行って詫びるのが本当です。私が考え違いをして大変間違った事を言ったから御勘弁願いたい、どうかこれから是非来て貰いたいと、よく詫びるのです。それができるくらいなら立派な人ですが、それはなかなかでき難いでしょう。そういうようで小乗的の考えというのが一番困るのです。それで小乗的考えというのは自分では非常に良いと思うのです。そうして結果はかえって逆になるのです。それからそういう形のみに捉われた事を、余程考え違いをしないようにしなければなりません。神様のやる事は、人間の常識と言っても、本当の常識なら良いが、世間的の常識で考えて分るような浅いものではないのです。それよりか、自分の事を始終考えなければならないのです。自分は行いが間違っていないかという事を考えなければなりません。余計な人の事を考えるという事が間違いの元です。だからただ明主様に勿体ないとか御無礼だという事は、神様の方の考えと違う場合が往々あるのです。だからすべて大乗的に考えるという事が肝腎なのです。これは救世教に限らず信仰している人はどうも小乗的考え方になり過ぎるのです。これは昔からいろいろな宗教がそういうようになっているのですが、どうもそういうような伝統的宗教観念が出やすいのです。だから粗衣粗食の地獄的生活を神様は大変お喜びになるように思っている宗教観念というのが大いにありますから、その間違いを直そうと思っていろいろ書いているのです。それでミロクの世というものは、そういうような事と反対です。そこで人間の、歌うとか踊るとか、いろんな楽器をならすという事は、人間を楽しませる肝腎な天国的要素です。やっぱり芸術です。ですから地上天国は芸術が一番の重要なものですから、大いに芸術を尊ぶという観念を植え付けなければならないのです。美術館というのはやっぱりその大きな一つのやり方なのです。昨日谷川徹三という人と報知新聞の記者が来て、半日ばかりいろいろ話しましたが、ばかに美術が好きで、非常に研究して明かるいのです。私も大変勉強になりましたが、その時に実際救世教というのは変っている、今までにないというのです。こっちに来る前に箱根の美術館を見て来たのですが、これほど美術に関心を持って大いに仕事をしているという事は実に大したもので、これこそ大いに自分達も援助しなければならないというような事を言って非常に褒めてました。そういうようで宗教で芸術をこれほど大きく扱うのはありません。ですから言ったのです。やっぱり聖徳太子と同じようなものだ、聖徳太子は日本だけだから規模が小さいが、私は世界的に聖徳太子のやり方をやるのだと言いました。そういうようで、話は横に広がりましたが、大乗小乗についてちょっと話したわけです。
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それから箱根の美術館は去年とは余程違いましたが、ただ五月までは去年と著しく違ったところは外国美術を並べた事です。それから来月は十八日に私は箱根に越しますが、このお祭が済んでから浮世絵展をやります。今まで方々で浮世絵展をやりましたが、私が今度やるのは今までにないほど充実した展覧会のつもりです。あっちに行って二十四日までにこしらえ上げて、二十五、六、七の面会日に信者さんに先に見せる事にして、一般は六月一日から見せるという段取りです。それから二十八、九、三十、三十一日は特殊な人に見せるという順序にしようと思ってます。そういうようで、とに角去年より余程違うと思います。それで別館が出来たために、美術品を飾る所が増えると共に、あの辺の調子が非常に良くなりました。見た人は知っているでしょうが、賑やかな感じになりました。前にはあそこに汚たない家がありましたが、そういうのはすっかり無くなって、実に全体が立派に小ぎれいになりました。それで外国の美術品も浮世絵の良い物が集まったのも実に奇蹟なのです。その事を書いてみました。
御論文〔⇒神技の美術館〕【註 栄光二○七号】
美術館も日本の有識階級や外国などにも大分わかって来たようですから、今年はそういう人達が随分来るだろうと思ってます。外人が日本に来ても日本美術が見られないで、かえって油絵などの美術館の方が多いです。というのはまず何時でも見られるような常設美術館が出来たには出来たが、ブリヂストン美術館と近代美術館とどっちも油絵専門になってます。私はこの間近代美術館の館長の岡部長景という人が時々来るので話をしましたが、ブリヂストンと隣合っていながら、ブリヂストンと同じような物を並べているではないかと言ったところが、それは考えているが、それでもまあまあお客が来るからと言ってました。しかし人によっては日本や支那の美術品を見たがるのが居たが、無いので仕方なしに我慢しているわけなのです。それでこの間博物館で支那陶器を横河という人の寄附で、特別展として開催したので行って見ましたが、品物は千点というのですから随分ありますが、随分酷い物ばかりです。並んでいる物が支那の台所の道具というのが多いのです。日本で言うと皿小鉢というような、お膳に並べる物です。まあ道具屋が持って来ても、買うのは五、六点しかありません。一般人は知らないから、支那の物だから良いだろうと思っているでしょうが、あんまり酷過ぎるので驚いたくらいです。ところがなにしろ博物館は予算が足りないので、欲しい物も手に入れる事ができないのです。ですから博物館関係の人がこっちを羨(ウラヤマ)しがってます。“役人の仕事は駄目ですよ”とか“やっぱり役所の仕事はうまくいきません”と言ってます。だから公平に言って博物館と箱根美術館と比べると、紳士とサラリーマン、重役と平社員くらいの違いと言ってもよいです。私は何時も博物館というのは国家の国辱なんだと言ってますが、博物館の人は“全くです”と言ってます。特にアメリカ人などは日本の美術の展覧会をみて、去年のサンフランシスコの展覧会と、今やっている大都市巡回のとを見て、日本美術は素晴らしいものだという事が分って来たので、美術鑑賞熱というものが出て来たのです。だからだんだん箱根美術館が知れるに従って、そういう人達がいずれは随分来るようになるだろうと思ってます。それで西洋の古美術から中国、朝鮮、日本美術というようにいろいろ検討してみると、実際断然日本美術は優秀なのです。実に日本人の美術に対する感覚は世界一です。そのうちで私が一番世界的に見せたいのは仏教美術です。つまり彫刻です。彫刻というものは素晴らしい高い地位にあるのです。外国の彫刻と言えばまずギリシャです。実物は行って見たわけではないが、写真などで見ても結局写生です。それからヨーロッパのローマ時代から相当出ましたが、一番はロダンとかダヴィンチです。と言ったところで写生です。日本の仏教美術というのは理想です。霊的に言えばそうではないが、普通に言って高い理想を表現したものですから、その芸術家の感覚と、その表現の技巧というものは素晴らしいものです。それで私は京都や奈良のお寺に行ってそういう物を見ても、本当に世界美術の最高峰の物という事を感じます。ですからどうしてもそれを日本の誇りとして大いに世界的にしなければならないと思ってます。嵯峨の美術館はそれを方針にするつもりです。ところが神様はちゃんとそういうような事情にもしたわけです。というのは京都のお寺はほとんどやって行けなくなったのです。相当有名な寺でも財政難に陥って維持ができなくなったのです。ですからそこで今でも目立たないように売ってます。お寺も売らざるを得ないのです。そうでないと檀家の方に御用金が行きますから、檀家は税金などで苦しんでいるから、お寺の維持には届かないので、それでは何か売ったらよいだろうというので、檀家が承諾するのです。それで檀家承諾書というのがついているのです。それでも檀家がある寺はよいのですが、勅願寺というような檀家がない寺が沢山あるのです。ですからそういう所の生活というのは実に可哀想なものです。しかしそんな事を言ってもだんだん行詰まるからポツリポツリと出しているのです。ですから私は将来日本美術のためとお寺を救うためにも仕事をしなければならないという事になります。ですから仏滅と言いますが、なるほど、霊的でなく物質的にも仏滅です。お寺に飾る仏も無くなりますから本当の伽藍堂です。大体嵯峨にはそういう美術館を造るつもりです。熱海の美術館は大きいですから、そういった仏も大いに紹介して、日本の彫刻美と仏画を世界中に知らせたいと思ってます。
(教二十一号 昭和二十八年五月十五日)