御 教 え 集 第二十号

昭和二十八年三月御教え

三月五日

スターリンが危ぶないという外電がありましたが、どうせ脳溢血の相当重いので、ロレツが廻らないのだから、或いはもう死んでいるかも知れません。脳溢血で一番重いのはロレツが廻らないのです。これは重いのです。ごく重いのは動く(手が震う)のです。しかしこれは滅多にありません。普通はロレツが廻らないのと、意識が不明になるのとです。それで右の手足が動かないというのですから本格的の脳溢血です。私は何時かスターリンが死ぬのはそう長くないという事は言ってありますが、しかし思ったより早かったです。まだもう一、二年は生きると思ってましたが、やはり神様の方では急がれるのです。どうせアメリカの方では中共をやっつけるのですが、それにはスターリンが居ない方が、アメリカの方はずっと有利なのは当り前です。とに角スターリンという人物は傑物でした。なにしろ大きさもあるし、非常に危ぶなげがありません。そのやり方をみると、考え方が余程深いのです。それに比べるとヒットラーという人は全くオッチョコチョイでした。それはヒットラーも非常に大胆で偉い所があるが、考え方が浅かったのです。それに比べるとスターリンの方は考え方がずっと深いのです。だから戦争も決してしかけるという事はしないのです。この事は私は前から認めてます。決して積極的には出ません。悪く言えばずるさがあります。それは実にずるいです。朝鮮問題にしても、うまく中共を踊らして自分の方は一兵も損じないであれだけの戦をしているという事は、その点においてはアメリカも敵いません。とに角アメリカは自分の国の兵隊を動かして表面に立ってやるのですから大変な損です。おまけにソ連の方は非常に近いのですが、アメリカは遠いからして、遠くから兵隊にしろ武器にしろ運ばなければならないから、それはソ連とは比べ物にならないほど割が悪いのです。そこでアイゼンハウアーは、早く片付けなければ大変なマイナスだと積極的に出たわけですが、そういう様であのやり方の考えの深さはスターリンの方がずっと上です。アメリカのやり方でまずかったのは、日本の軍部をあまり恐れ過ぎたのです。この見通しができなかったのです。それはマッカーサーにも責任がありますが、日本の軍部に対するあれほどまでの恐怖は不必要だったのです。必要以上に軍部を恐れたのです。敗戦であれほどまでになった後では、何もできるわけはないから、あれほど極端に恐れなくてもいいのです。だからもっと緩和政策をとって、軍部の相当の地位の人までは残しておけば良かったのです。そうすれば今度の朝鮮問題に対してのやり方にも非常に役立ったのです。今になって大佐階級の軍人を目立たない様に引張ってます。だからいよいよ始まる日になると、向うに対する強圧手段としても、日本の軍人のいいところの人を、それだけの地位におくという事が非常に必要なのです。ところが何故そうしなかったかというのは、ソ連というものに対する見通しがつかなかったのです。将来ソ連は野心を持っているという事は知っていたが、中共をこれほどにして、おまけに朝鮮までに手を出させるという事は、アメリカとしても予想しなかったのです。そこに手ぬかりがあったのです。それを予想していたら、日本をあんなにやっつけるわけはないのです。そこにトルーマンという人の眼界が小さかったのです。どうも、ただ局部のごく小さくしか見えなかったのです。そこで朝鮮問題というものもあんなに焦げついてしまって、何とかしなければならないという事になってアイゼンハウアーが大統領に当選したわけです。まあ、国民がそういう点を感じて来たのです。ところがスターリンが死んだとすると、あと一時的にはモロトフが主脳者になるという事もあるでしょうが、強い所はありますがそれはとてもスターリンの様な大きさはありません。それからよく話題に上るマレンコフですが、まだ五十二才ですから若いがなかなかの切れ者らしいですが、まだとてもスターリンとは格段の違いです。そこで当分は合議制でやるだろうと思います。そうかと言って、今までの方針を変える事はできないから、やはり中共を援助して、当分は現状維持という方針にするでしょうが、そんな事をしているうちにアメリカの方はだんだん準備します。二、三日前の新聞かに、台湾で国民軍の兵隊に上陸作戦の演習を二週間前からさせているという事がありましたが、これが支那本土に上陸する予定なのでしょう。それからもう一つは、鉄砲の弾を何千万発とか言ってましたが、価格で二億二千万円というものを日本で引き受けて契約済みになりました。そういう様で、アメリカでは着々と準備してます。私が「⇒世界夢物語」に書いたとおり、準備にはまず半年乃至一年はかかるだろうと書いておきましたが、早くて半年、普通からみれば一年くらいで火蓋を切るのは、まず間違いないでしょう。それには、スターリンが死んだという事はアメリカには非常に有利なのです。神様はどうしても「夢物語」にある様な順序で、まず最初の目的は中共を目茶々々にして、蒋介石の方を元どおりに立てるというわけですが、その方策を実現する上から言って、スターリンの死という事によって、非常に促進され、楽に行くわけです。これはやはり神様の経綸です。

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日本の政界での、吉田さんの「馬鹿野郎」問題ですが、余程頭がどうかしていると見えます。あれは男らしくありません。“全く間違っていた”と責任を負って辞職すればいいのです。そうするとずっと形がいいのです。それを今もってしがみついて、何とかしようというこの態度がいよいよ恥の上塗りという結果になります。これは確かに間違っているどころではなく、あんまり酷(ヒド)過ぎます。総理大臣とも言われる者がああいう言葉を発するという事は、少し頭がどうかしたとみるよりありません。吉田さんという人は偉いのですが、何でも彼んでも自分の事を押し通そうとするのが欠点です。「負けるが勝」という戦法を本当に知らないのです。又知っていても実行できないのです。だから悉(コトゴト)く自分でそういう種をまいているわけです。つまり正直過ぎるのです。もっと喰えない人間にならなければならないのです。この点があの人の欠点です。前の福永問題とか最近の広川問題でも、ああいう事をしなくても、ちょっとやればフッと治まってしまうのです。それを妙な所で意地を張ってしまうので、非常に損をしてます。そのために今度の問題も、泥沼に足を突込んだ様に、ぬきさしならぬ事になり、結局辞職か解散です。それで解散でおどかしてますが、しかし解散したら、一番損なのは自由党です。今度総選挙になったら、金が大変ですから……。それであの人の一番惜しいと思う事は、時期という事を知らないのです。つまり講和問題でアメリカに行った時が、丁度花の盛りなのです。あれからだんだん花が散って、もうほとんど凋落(チヨウラク)して、葉まで落ちて来たのだから、もう自分の運命を覚らなければならないのです。それを相変らず花を咲かせ様としているのですが、そこに間違いがある。こうなると自由党の頭数は、この間の投票でも分るとおり、数が足りないのです。そうしてみると、もう一日一日凋落しているのです。だからここでいさぎ良く引き渡すという事が、終りを全うする最もいい事ですが、それを今もってしがみついているのは、まず時を知らなさ過ぎます。まるで時局講演の様になりましたが、このくらいにしておきます。

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それから「⇒アメリカを救う」の本も予想どおり非常に良く売れるのです。今もって売れているそうです。ですからベストセラーになるでしょう。この次は「⇒結核信仰療法」を出そうと思ってます。これも随分売れるだろうと思います。というのは結核で散々お医者にやってもらってなおらないので、何か外の良いやり方はないかと思って迷っている人がどのくらいあるか分りません。その人達の中には、こうなっては何か神仏を信仰したいと思う様な人が随分あるだろうと思います。しかしただそれだけでは何を信仰して良いか分らないが、そこに“信仰療法”というのですから、まずこれを読んでから腹を決め様という人が沢山あるでしょうから、それにピッタリするわけです。やはりその時期と、それに合わせる方法がピッタリ合うのでうまく行くのです。だから「⇒アメリカを救う」なども時期がごく良かったのです。講和後少したって、日本人は劣等感が強く、しかも最近はアメリカ医学を崇拝し、アメリカの薬を非常に欲しがってますから、丁度時期が良かったのです。それから標題が良いという事は皆が言ってます。これはつい読みたくなると言ってます。今はみんな、アメリカより日本の方が文化が低い、遅れている、負けている、という様な状況です。その中で、こっちは、それを救うというのです。アメリカよりずっと上になる事を言うのですから、あっと思わせるのです。若し私が商売をやっているとすれば、うまく人気をとり、金を儲けるのはうまいという事になります。それから「結核信仰療法」の次に出すのは、「救世教奇蹟集」というのです。奇蹟は栄光に始終出しているから読んでいるでしょうが、素晴らしい奇蹟を世の中の人に知らせたいのです。しまっておくのは惜しいのです。それを百例選りぬいて、それを裏付けとして、奇蹟の理論と実際の裏付という事で書きます。これはまだ少し間がありますが、いずれ出そうと思ってます。この標題には“科学への原子爆弾”として、そうして“救世教奇蹟集”とします。それについてこの間その序文を書いて出しましたが、次のもそう長いものではないのですが、出来ただけを今読ませます。

御論文〔一、⇒奇蹟とは何ぞや〕〔二、⇒霊主体従〕

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これは何時も言っていますが、ちょっと面白いから読ませます。 

御論文〔⇒天国的宗教と地獄的宗教〕【註  地上天国四十六号】

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三月六日

今臨時ニュースがありましたが、スターリンは今朝死んだそうです。あとはどうなるかという事は、これは世界中の人が関心を持っている問題ですが、去年ですか二十四人の幹部をつくり、大きな問題は幹部会議にかけるという事をスターリンがつくったのですが、それは自分の死後の方法を考えたものなのです。それで幹部でないのはモロトフとマレンコフと、もう一人は陸軍長官のブルガーニンと言う人ですが、それと二十四人の幹部とが協議してやるというのですから、あとが混乱するとかゴタゴタするという事はないわけです。そういう様ですから当分はそう変りはないと思います。そうしているうちに主脳者が決まるでしょうが、まあマレンコフだろうと思います。なにしろ人物としては一番できていそうです。それと未来があります。モロトフはもう分っています。前にも散々やったあのやり方で大した事はないので、マレンコフほどはありません。マレンコフは写真の顔だけを見ても、只者ではないという事を感じます。だから若し戦争という事になると、スターリンよりかマレンコフの方が、戦争をやろうという様子が見えます。スターリンは戦争はやらない事はないが、非常に慎重です。そこに非常に堅実さがあったわけで、今まで続いて来たのです。つまりオッチョコチョイ的な事はないのです。ヒットラーも偉かつたが、オッチョコチョイのために失敗したのです。オッチョコチョイの大英雄というわけです。そういった主脳者になるのは難かしいので、オッチョコチョイもいけないし、引込み思案もいけないのです。トルーマンは引込み思案の方です。何でも無事太平にして、乗り出すという積極性がないのです。それから東条というのはオッチョコチョイです。そこにいくとスターリンはオッチョコチョイでもなければ引込み思案でもないので、そこのところは、ジリジリと用心深くて、太っ腹で、そこに彼の偉さがあったのです。とに角まるっきり一介の労働者であった人間が、共産党の十月革命をやってから今年で丁度三十五年目になりますが、三十五年間であれだけの仕事をしたという事は、善とか悪という事は抜きにして、とに角その偉さというものは大したものです。近代における英傑です。それであの人があんな残虐な事をしないでこれだけになったのなら、それは大いに崇拝していい人物ですが、ただ目的のためには手段を選ばずというやり方で、まあシーザーの様なやり方です。シーザーでは良過ぎるかも知れません。或る人はネロ国王にもう一層輪をかけた様なものだと言っているが、そうでないまでも大体ネロ国王の二代目と言ってもいいです。もっともあの僅かの期間にこれだけの仕事をするという事は、それだけの残虐な事をしなければできなかったかも知れません。しかしそういう人間が現われてああいう事をするという事も、やはり神様の経綸なのです。良い事ばかりが神様のやり方で、悪い事は悪魔がやるという事は、今までの世の中の見方なのです。というのは今までの神様は善の神様ばかりですから、悪に対しては目茶々々に非難したのです。それは確かに悪いのですから非難してもいいのです。それではそんな悪い奴をどうして世の中に出したかというと、これはやっぱり主神です。主神は必要によって悪も善も働かせるのですから、批評の限りにあらずです。ただ悪い仕事をする方に廻された人間は気の毒というわけです。ですからスターリン自身は得意であつたでしょうが、大きな目で見ると気の毒なものです。これから霊界に行って、残虐な事をしたその裁きを受けますが、これが大変です。地獄の根底の国に行って少なくとも、ごく最低としても六百年くらいでしょう。或いは六百年ではきかないと思います。その暗黒無明の酷寒地獄で苦しむというのは大変なものです。しかし人間は馬鹿ではないから、後悔して非常にお詫びするでしょうが、それでごく減刑されて六百年です。最高は六千年なのです。神様の方の地獄の規則はそうなってます。ですから最低としても六百年ですから、かなり参ってしまいます。だからそういう方に廻されたのは可哀想なものです。そういう様で主神の計画の下にスターリンが滅びたわけです。しかしそれがこれからアイゼンハウアーが積極的に出て中共をやっつける事に関係があるのです。これは単純には言えませんが、或いは戦争が早くなるかも知れません。大体私が「夢物語」に書いたのには、準備に半年乃至一年はかかるだろうと書いてありますが、大体アイゼンハウアーもそういう計画らしいです。アイゼンハウアーは随分早くやる目的らしかったが、事情がなかなかそうはいかないので、相当準備をしなければならないのです。今韓国軍をしきりに訓練してますし、二、三日前の新聞には、台湾で二個師団ですか上陸作戦の演習を二週間前からやっている、という事がありました。上陸作戦の演習ですから、国民軍は上陸の方に廻るわけでしょう。それにしろ、台湾の準備も一年を要するという事が出てましたが、今年一ぱいくらいは準備です。それで雪解けになってから偵察戦くらいの事はあるでしょうが、本格的にやるには相当準備がいります。それについては鉄砲の弾が大いに要るとみえて、最近何千万発かの注文が来て日本で引き受けましたが、金額にして二億何千万円です。だからアメリカは着々と準備をしつつある事はよく分ります。よく新聞などで、スターリンが死んだという事によって戦争が延びるだろうとか、又、あとソ連は内部的にいろいろ結束ができなくて、足並がくずれる、……ヨーロッパの方ではそういう噂がある様ですが、決してそんな事はありません。やっぱり戦争の方は、順調と言ってはおかしいが、順調に進んでいるわけです。それで中共攻撃は来年あたりからいよいよ本舞台になるでしょうが、ただそれについてスターリンが死んだという事は、アメリカに非常に有利にはなります。なにしろスターリンのやり方は、実に考えが深くて、うまいのです。それはアメリカとは大違いです。スターリンのやり方については、私は何時も感心してますが、それは実にうまいのです。自分の方は一兵も損じないで、ただ金と武器だけを供給して中共を踊らして、あれほどにアメリカの手を焼かせ、しかも北鮮を自分の方の勢力範囲に入れて、鉄のカーテンなども、とに角ああしてギュッと押さえているやり方は実にうまいものです。とに角急所の手を打つ事が素晴らしいのです。ですからスターリンが死んだという事によって、ソ連のやり方の何処かに甘い所ができて来るに違いないです。それと気分の問題です。ソ連にしろ中共にしろ、精神的に何処かに頑張りというものが薄くなるわけです。その点がアメリカに非常に有利になるわけです。だから神様はアメリカが勝ち良い様にという意味からスターリンをああしたのかも分りません。スターリンが長い事はないという事は、何時か言った事があります。戦争が終ってから死ぬか、或いはその間で死ぬか、という事を言っておきましたが、案外早かったのです。神様の時期というものは、こう決まっていると、この範囲の中で遅いか早いかになるのです。大本教のお筆先に「この仕組は遅き早きはあるなれど、神の申した事はみな出て来るぞよ」という事がありますが、これは正邪の戦いですから、かけ引き上遅い早いはあるというわけです。しかし決まるところは一日も違わずに決まるというわけで、そこに行くまでの事です。そういうわけですから、中共なら中共がアメリカの勢力範囲になるという様な事は、もう決まっているのです。その間はかけ引き上いろいろの変化があるわけです。その様で、ますます面白くはなって来ます。こつちはノンキな事を言ってますが、それは先が分っているからですが、先が分らないから迷ったりいろいろ考えたり論議したりするのです。時局談はこのくらいにしておきます。

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「⇒アメリカを救う」の本も思ったより、というのでなくて、思ったとおりになかなかよく売れるのです。

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それから今度農業特集号の報告が非常に多いものですから、四頁増やして、全部で十二頁にしました。それはやはりこの前の様にあらゆる方面に配布するつもりです。それから「自然農法解説書」という小冊子をこしらえて、これから普及会などで大いに方々に配るために、本年、昨年、一昨年の三回の特集号を全部載せて、序文代りの論文を書きました。大きさは地上天国の半分くらいで、労働服のポケットにはいるようにして、値段も一冊五十円で、大いに普及させようと思ってます。これは新聞にも広告を出して、広く読ませる様にしたいと思ってます。今の日本の農民は二百万戸かありますから、そこにほとんど行き渡らせる様にしたいと思います。ですから非常な数が出るでしょう。前の農林大臣の広川という人が、あれを読んだとみえて、硫安はあんまり使うなという事を言い出しましたが、それはあの新聞で刺戟されたのだと思います。それから今度の田子一民という人は私は知っています。昔三回くらい浄霊に来ましたが、その都度政治談などをした事があります。それだから別にどうだという事はありませんが、とに角“岡田という人は救世教でこういう事をやっているな”というくらいに思って、安心して好感を持って見るという事だけは言えます。それから今年のいろいろな素晴らしい成績などは特集号を見れば分りますが、この中で一つの面白い例があります。岐阜県の農民で、六年目ですが、五年目で五割増産して、六年目に又一俵増えてます。そういう様で五年で五割増産という事は、その人が正確にそういう成績を上げたのですから、もう実際の成績が上がった以上、なんら疑念はないわけです。外にもいろいろありますが、それだけは丁度判で押した様に穫れました。それで「自然農法解説書」は近いうちに出版するつもりです。

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それから矢次早やに「⇒結核信仰療法」の本も出来ているので、売り出すつもりです。これは案外売れるだろうと思います。今結核で困って病院や医者で散々やっても、なおらないし、これは長いですから、困っている人があります。“これは一つ神仏に縋るか、或いは宗教でなおそうか”という様な考えを持っている様な人も随分あるだろうと思います。まあ医者でどうしてもなおらなければ、どうしてもそこにいかなければなりません。そこで困るのは、一体何の宗教にはいったら良いか、何神様を拝むかという事が難かしいのです。それは友達や知っている人に信仰を奨められれば“ははあ”と分るが、そういう人は少ないので、大体は、一体どうしたら良いかというのが多いだろうと思います。そういう人がちょっと話を聞くとか、本屋に並んでいるのを見ると、「全快者百人の手記」という事が書いてありますから、それでは一つ見ようという様な気持が起りますから、案外これは沢山出るのではないかと思ってます。それからその次に出すのが「⇒救世教奇蹟集」という本です。この肩書には“科学への原子爆弾、救世教奇蹟集”とします。序文はこの前読みましたから、次に出す記事を読ませます。

御論文〔一、⇒奇蹟とは何ぞや〕〔二、⇒霊主体従〕〔三、⇒霊と体〕

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三月七日

スターリンが死んで、新聞やラジオでいろんな批評がありますが、べつに大した批評の必要もありません。今日のニュースでは早速内閣ができた様で、やっぱりマレンコフが首相でモロトフが副首相という事になりましたが、これはもう前からすっかりできていたとみえて、非常に手際良くスラスラとできたらしいのです。ところで問題は、スターリンのやり方に対して、マレンコフはどういう様にやるかという事ですが、当分は踏襲するでしょうが、そのうちに個性を発揮する事になるに違いありません。今日あたりの新聞を見ると大分マレンコフの役目などでも、相当勢力的になってますから、やはり相当に信用もあるとみえます。だからかなりの思いきった事をやるだろうと思ってます。それでどっちかというと、スターリンという人は慎重居士です。非常に慎重でした。年をとっているせいもあるでしょうが、割合に考え深いのです。しかしマレンコフの方は今年五十二才ですから、まだ年も若いし、そこにもっていって、写真で顔などを見ても物凄い顔をしてます。相当自身があるという顔です。やっぱり人相でああいう人の見当がつきます。アメリカのトルーマンという人はどうしても俗人型です。大統領型ではありません。つまり後生大事型というわけです。前のルーズヴェルトは英雄型でした。だからトルーマンはやっぱり人相のとおりのやり方でした。ところが今度のアイゼンハウアーとなると、何かやらなければ収まりがつかない顔です。あの人の笑った時の顔などをニュース映画で見ると、くらいつきそうな顔です。だからどうしてもただでは済まないのです。何かやらなければならないという顔です。はたして朝鮮問題に対する積極政策という事も、よく顔のとおりに出ていると思います。ところがスターリンの顔は、相当大人物という形の代りにパッとはしない顔です。チャーチルなどの顔はパッとしてますが、スターリンの方は何処かに薄暗い所があります。もっとも今までの経歴から言ってもそうですが、あの人は八回牢獄にはいって、六回逃走したそうです。だからその経歴から言っても、どうも明かるい顔にはなりません。だから顔の何処かに暗さがあります。その代り思慮の深そうな所が現われてます。それで剛腹で、きかないという外に、なおかつ何でも持って来いという様な剛腹な、馬鹿にできない様な、要するに押しのきく様な顔です。だからあれだけの事をしたのです。それで今度のマレンコフの顔は、とに角胆力が満ちている、精悍あふれるという顔です。あれも、何か仕事をしなければ収まりがつかない顔です。だからむしろスターリンよりか積極的に出ると思います。しかし又その方が大変いいのです。そうするといよいよアイゼンハウアーと組合うという事になるでしょうが、かみつくのはアイゼンハウアーの方が上かも知れません。狼とライオンという様な事になりますが、そうするとアイゼンハウアーの方ではどうしても喧嘩をふきかけます。台湾の国民軍なども上陸作戦の演習をしているという事を言ってますし、それから日本に弾丸を何千万発という注文が来て、契約を結び、金高にして二億何千万円というのですから、相当の人間を殺せましょう。そういう様にアメリカが積極的に出るとすると、マレンコフはなかなかスターリンの様にジリッとしないで、“よし相手になろう”と言って乗り出すという様に見えますから、かえって面白いと思います。面白いと言うと変ですが、その方が早く片がつきます。ですからスターリンが死んだために、気の早いのは、まるで平和が回復でもする様に思う人もある様です。ヨーロッパの方面にもそういう様に思っているのが大分ある様ですが、それはとんでもない話です。スターリンが死んだからと言ってアイゼンハウアーの方策が変るものではないので、どこまでも行くのです。なにしろ北鮮と南鮮がああして分離しているが、それは何故かというと中共が北鮮軍を押さえて分離させているのです。だからこれをこのまま放っておくわけにはいかないので、アメリカの作戦としては中共に北鮮から手を引かせて、南北の手を結ばせるという事をどうしてもしなければならない。それからもう一つはアメリカは中共政府を最初から承認しないし、又今もって承認してないのです。つまり本当は蒋介石政権が中国を統治しているのが本当だというわけです。それを侵略によって奪取したのは承服できないというわけですから、朝鮮を合併させると共に中共をやっつけて、元の蒋介石政権にさせるという事をどうしてもアメリカはやらなければならないのです。そうするとそれをやるには戦争をしなければならないのです。そうなると中共も相当準備ができてますから、相当激しくもあるし、相当大きさもあります。それに対してスターリンは、何時かも話したとおり武器と金を貸すというくらいのところで、ソ連の軍隊が立向うという事はないわけです。だから若し中共がやられてしまうまでも手を出さないという事は前に話をした事があります。ところが今度のマレンコフはスターリン式にそれまで我慢するかどうかという事が問題の焦点になるわけです。けれども大体の方針というものはスターリンから不断から聞いているでしょうから、やはりスターリン式に手を出さないで、そうして中共がアメリカにやられてしまうと、やはりアメリカは疲れますから、その虚に乗じてヨーロッパ進撃をやると思うのです。これはスターリンの戦略なのですから、それをそのとおりにマレンコフがやるかどうかという事ですが、多分そうやるでしょう。それは大局から言ってもその方が有利なのです。そうしてスターリンの計画は英国の占領なのです。私はスターリンから聞いたわけではないが、大体は分るのです。ラジオのニュース解説の時の様な話になりましたが、このくらいにしておきます。

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それから「⇒アメリカを救う」の本も大分売れる様で、まだ売れている様です。つまり或る程度売れたのはベストセラーとして……やっぱりベストセラーというのは、本の売りさばき元によって違う様ですが……勿論売口の良い、良く売れた本という事にはああいった商売人の方でも認めて来た様です。もっとも有名な作家の書いたものなら、これは売れるに決まってますが、私らは素人ですし、しかも新宗教の教主などが書いて出した本とすれば、大してそういった世間的には注目されないわけですが、ただ「⇒アメリカを救う」という標題がいいのです。それからこれが一番の魅力(ミリヨク)でしょう。戦後日本人が何でもアメリカの物ならいいという様に一種のあこがれを持っていたアメリカです。何でもアメリカには敵(カナ)わない。日本の文化は戦争のために少なくとも十年は遅れていると言ってます。中には三十年も遅れていると言っている人があります。それほど日本は負けているわけです。そうして非常な打撃を受けて、大怪我をして、普通まだやっと物につかまってヒョロヒョロ歩けるくらいの日本が、アメリカを救うと言うのですから、意外に思うわけです。ですから意表に出たわけです。それが魅力になるわけです。それから本屋に並んでいると表紙の図案が魅力になっている様です。又、病人とか医者とか薬屋とか、病気に関係のある人は、一寸買ってみようという気になるわけです。そういう様ですから案外売れたわけです。それで今度は自然栽培の事も出します。これはいずれいろんな計画は話します。  それから「⇒結核信仰療法」も本は出来てますから、近日中に新聞広告をして売出します。これは或いは「アメリカを救う」よりも良く売れるかと思ってます。というのは、結核患者は長いですし医者の言う事を聞いたり療養所にはいったりいろいろしても、どうしてもなおらないですから、煩悶懊悩して“もう医者では駄目だ、何か外にないか”という人が沢山ありますから、“このうえはもう信仰をするよりない”という事になる。医者ではどうしてもなおらないという事になれば、まず信仰という事が頭に浮びます。そうなって、何を信仰しようかという事になると、不動様や観音様と言っても、絶対安静ですからお参りに行くわけにもいかないのです。そこで古い先祖からの宗教もあるが、これでは病気がなおるほどの御利益がない。天理教とかいろいろな新宗教などをみても、これならなおるというものも一寸見出せない。そうすると“救世教という奴は大分病気がなおるという事を時々聞くが、どんなものかな”と思っているところに“結核信仰療法”となると、それでは読んでみようという事になって、どうしても買うという事になります。ですからあれは相当読まれるだろうと思ってます。それで項目の一番目に“医学が結核を作る”というのがあります。それから“結核は感染しない”ともあります。そこでどうしても一寸見たくなります。“医学が結核を作る”というと、医者を信じてこれほどやっていてなおらないのだから、これは或いはそうかも知れないという事になります。そうして大体お医者が見ずには居られないと思います。“とんでもない事を言う、若しか間違っていたらうんとやっつけなければならない。救世教というのは生意気な奴だ、宗教のくせにして医学の方にはいって、医学が病気を作るなんてとんでもない”という事になったらいいのです。そうして質問して来るのを、こっちは待つているのですが、おそらくその勇気はないと思います。それで私はいよいよとなったら、大病院でやってやるつもりです。そこまで覚悟しているのです。そこまで行くと面白いです。そうして痛がっているのやウンスウンス言つている者をなおしてお医者に見せてやるのです。それからもう一つは医科大学に行って講義をしたいと思うのです。それは生徒でなく、少なくとも博士級の教授を四、五十人並べてやるのなら喋ってやろうと思ってます。結局そこまで行くでしょう。そこまでいかなければ解決がつきません。しかし先方の方では弱みがあるから怖いのです。自分の方が贋物でこっちの方は本物ですから、あばかれては大変だと思ってます。それは私の書いたものを見ると、はっきりとは分らないが“なるほどそうだ”と思います。例えば、手術を一つみると「手術は医学の進歩ではない、医学の退歩だ。医学の進歩なら臓器を切り取らないで、そのままでなおすのが本当だ」と書いてありますが、そうするとこれは本当だから苦情は言えません。切り取る事を威張るわけはないですから……。そういう様だから、それを言って来るだけの勇気はないと思います。しかしそこまで行かなければ本当の解決はつきません。それからその先に出るのは「救世教奇蹟集」です。この序文はこの前読みましたから、次の記事ですが、これは短かいものです。あとはお蔭話ですが、それを百例つけます。これは病気なおしばかりでなく、汽車や自動車に轢かれて助かったとか、高い所から落ちて助かったとか、炭鉱で爆発したのに助かった、という様な事と、病気で奇蹟的に助かったというのを大体百例を附録としてつけますが、その記事が出来ましたから読ませます。

御論文〔一、⇒奇蹟とは何ぞや〕〔二、⇒霊主体従〕〔三、⇒霊と体〕

この終りの所が肝腎なのです。今までの宗教……というが教えですが、教えだけでは力が弱いのです。ところが救世教は教えと共に事実を見せるというので、これで人間は初めて神様は確かに在るという事が分り、そうすると悪い事はできないという事になって、これで本当の人間になるわけです。それで神様は確かに在るという事を見せるのは奇蹟なのです。奇蹟以外で神様の実在を信ずるという事はできないのです。ところが今まではそういった奇蹟を見せないで、ただ“神は在る、在るから信じろ”と言うが、実際理窟に合いません。そこで、本当に救われないのです。この事で面白い話があります。昨日聞いた話で、今度の大祭の余興にアザブさんが灰田勝彦を頼みに行ったのです。そうすると馬鹿に高い事を言うのだそうです。それで“随分高いではないか”と言うと、支配人が“救世教なんて泥棒みたいな事をして金を取っているのだから”と言ったのです。ところがその人がそれから三、四日たって死んでしまったのです。

「明主様申し上げます。京都と大阪の間を自動車で走っている時に、丁度雪が降っておりまして、その時京阪国道から下に辷り落ちて死んでおります」

自動車で死んだそうですが、これははっきりした事実です。前にもこういう事がありました。私がまだ東京の宝山荘に居た時日蓮宗の学者で、名前は忘れましたが、誰でも知っているくらい有名な人です。その人が私の書いた「明日の医術」の本を見て、何でも非常に悪い事を言ったのです。“こんな事を書いて人を瞞ますとはインチキも甚だしい”という様な事です。もっと酷い事を言ったのですが、私は忘れました。それで丁度一年ほどたってから、街路で轢死したのです。それも、最初は自動車に何処かぶつかって電車道に倒れて、ハッと思った時に電車が来て顔を轢いたのです。ですから顔が目茶々々になったのです。その時に中島さんが“とうとう罰があたった”と話しに来ましたが、そういう事がありました。そういう事はまだありますが、この神様は非常に厳密な神様なのです。いろいろ面白い話がありますが、時間がないからあんまり詳しくは話せません。なおまた大本教の教祖が最初の修行していた時にそういう事がありました。大阪に算盤占というのがありましたが、そこに行って占うと、“出口直さん、あなたに憑っている神様は本当の神様ではなく、悪魔だから気をつけなければならない”と言うので、教祖さんはびっくりしたのです。大変な神様だと思っていたが、悪魔だという事なので、帰ってから神様に伺ったのです。そうすると、その神様は国常立尊ですが、“直や、一週間たったらもう一度占ってもらえ”と言うので、一週間たってから行ってみると居ないので、聞いてみると“死んだ”というのです。それは、大変に立派な神様を悪魔と言うのですから、これは許せないのです。今言う“救世教は泥棒みたいな事をして金を取っている”と言ったそれ以上のものでしょう。それでこの国常立尊という神様は実に厳格で、悪い事は絶対に許さないという神様ですが、そういう様な事がありました。まだいろいろな事がありますが、時間がないからこれだけにしておきます。

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三月十五日

時局談を少し話します。とうとう吉田内閣も解散になりました。これについてちょっと変に思うのは、吉田という人は年もとっているし、相当に世の中の経験もある人ですが、私は余程前からおかしいと思っていたのです。というのは、もう大分前からガタついて来ているのですから、とうに辞職なりして明け渡すべきなのですが、一生懸命に齧(カジ)りついているところが分りません。肝腎な、運命と時期という事に気がつかないらしいのです。大体吉田という人の花の盛りは、講和の時にアメリカに出た時なのです。その時が一番の盛りなのです。丁度桜の花がパッと咲いた時なのです。だからその後になってだんだん花が散って行って、もう葉ばかりになるという一つの運命ですが、そうなりつつあるのですから、齧りつけばつくほどだんだん悪くなるのです。そうして最近の“馬鹿野郎”問題では、あそこできれいに謝罪して引込むというのが利巧なのです。それをまだまだ齧りつこうとしているのです。だからますます醜い最後を遂げる様になるのです。それから今度の不信任案の可決となり、民同の脱退……分党という名前ですが、これはうまい名前をつけたと思うが、そこまで行ったら仕様がありません。これから総選挙という事になると、自由党はずっと減ります。或いは第二党になるかもしれません。そうしてみれば、当分内閣をつくる見込みもありません。これから野党という事になったところで、見込みのある野党ならいいが、まず吉田さんの生きているうちは難かしいでしょう。そのくらいならば、もっと早いうちにきれいに引き下がった方が将来においてもいいのです。そういうところがわかりません。丁度戦争の末期になって、二進も三進も行かなくなってから降服しましたが、こっちは庖丁か何か変な物を持って、先方は刀を持って来たら、斬られるに決まってますから、斬られないうちにお辞儀をするといいのです。一斬りされてからでもお辞儀するのはまだいいが、二斬り三斬りされてからお辞儀をするという事がわかりません。日本の戦争の時の末期と、ヒットラー、ムッソリーニなどの運命を見ても、つくづく見通しがつかないというか、外の点は馬鹿にいいのですがそういう点においては悪いのです。これは日本人は特に多い様ですが、意地を張るというのが非常に悪いのです。吉田などは意地張りなのです。今度の事なども、解散をしなくても辞職で結構なのです。そうして結局直接の問題は“馬鹿野郎”問題です。あれからガタガタして来たのですから、それをきれいに謝まればいいのです。“自分は大変間違っていた、大変恥ずべき事をした”と言って謝罪すればいいのを、単に取消しですから、取消しでは承知しません。事柄の性質によっては取消しでも良いが、“馬鹿野郎”では、人の横面を張り倒した様なもので一つの暴力ですから、謝罪するのが本当です。人をぶんなぐりつけて“今のは間違いだ”というのは間違いです。そこなのです。あの人は偉い人ですが、ちょっと変な所があるのです。広川問題にしろ、去年の福永問題でもそうですが、きれいに引込んで居ればいいのですが、昔の我儘の殿様とか、ヤンチャ坊主という様な所があるのです。言い出したらきかないという所があるのです。それも良い時はありますが、悪い時の方が多いのです。というのはあの人は本当の苦労をしてないからです。近頃の政治家というので、一くせあるという様な人間は寔にありません。平々凡々として後生大事に齧りついているというのです。与党の方は齧りつき主義で、野党の方は何でも彼んでも反対するのです。要するにドングリ連中です。一人でも頑張るというような人間は居ません。これは政治家に限りません。以前の明治、大正の頃は、今でも忘れられないくらいの偉い人が居りました。というのはあの時代の人は皆苦労をしているからです。それは皆牢にはいったり、貧乏したり、それこそ爆弾を投げつけられたりして、随分危い所をくぐって来ましたから、それだけに何処か深みがあるのです。ところが今のああいった大臣などは、大抵大学を出て官吏になって順調に来たというのですから、本当の社会の苦労をしてないのです。本当にお坊ちゃんという様な甘い所があるのです。ですから本当に苦労したというのは広川和尚くらいです。これは労働者から酒屋の親父をして、それから政治家になったのですから、外とは違った点があります。今度の広川問題も相当恐れられた問題でした。今でもあの人を支持する二、三十人の部下が居るのですから偉いですが、あまりにやじり過ぎて今の人としては教養が足りない点があります。だからやじり過ぎて少し下卑(ゲビ)てます。それをとったら将来大物になります。政治談の様になりましたが、このくらいにしておきます。

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「⇒アメリカを救う」の本も大分売れる様です。まだ売れているそうです。それで割合に地方の隅々まで行き渡って来た様なので、相当に読まれると思います。ですから将来それだけの非常な効果を現わすと思ってます。それから、ばかに重なってしまいましたが、「自然農法解説書」ももうじき出来ますから、これも大々的に売り出そうと思ってます。これはできるだけ行き渡らせるようにと思って、値段も安くして五十円です。そうしてできるだけ農村に行き渡らせるようにしようと思ってます。それからその前に「⇒結核信仰療法」も売り出すことになってますが、今月の末当りに少し大々的に新聞広告をしようと思ってます。これは非常に売れるだろうと思います。結核でなおらないで苦しんでいる人がたくさんありますから、そういう人は“どうしても医学では駄目だ、何か信仰でもしたら良いのではないか”というように迷っている人が沢山あります。それで信仰しようとしても、一体何の神様を拝んだら良いか、何の宗教が良いかという事に迷いますから、そこで本の広告を見るとか、人に聞くとかして、それでは一度見てみようという考えになるので、相当歓迎されると思います。おまけにあの本は全快者百人の実例を載せてありますから、それが大変な魅力になると思ってます。なにしろ医学に対する一つの挑戦的のものですから、相当問題にはなるに違いないと思ってます。一番初めの項目は“医学が結核を作る”というのですから、これだけでもお医者さんは見たがるでしょう。そんな訳で、これはどうしても出さなければならない本なのです。その次は今書いてますが「救世教奇蹟集」です。この前序文を書きましたが、どうもおもしろくないので、又書き直したので、それを読ませます。

御論文  救世教奇蹟集〔⇒序文〕【註  栄光二○二号】

序文の次に一、二、三と概略の説明がありますが、その三を読ませます。

御論文〔三、⇒霊と体〕

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それからもう一つは相当先に行ってから本を作りますが、それは変った本です。私は始終花を生けていますが、自分でも良いなと思うのが時々あるし、見る人も褒めるのです……それはお世辞でなくです。それで自分で気に入った花が出来た時に天然色写真に写して、それを本に作ろうと思ってます。というのは近頃は変な花が流行って来たのです。それから、花にしても殺してしまうのです。そのために形は良いが、うま味がありません。それと、絵なら死んでいて、筆勢というものはないのです。そこで私が生けるのは五分以内です。早いのは二分以内です。それで花は庭で切ったのがいいですが、しかし花屋で買ったのでも、それを手にとってパッと生けるのです。そのやり方が非常に良いのです。また草物でも、何本も纒めておいてスッと生けるのです。そういう生け方が今はないのです。もっとも花の先生というのは一つの型を決めていて、近頃は大分無くなって来ましたが、やはり流儀とか、その先生の一つの形のために、どうも自然を殺してしまうのです。ところがそれでは本当のものではないので、要するにどこまでも自然の良い所を生かし、表現する事です。そういう一つの花の生け方の革命というものです。それから花器との調和があります。それからやかましく言うと、床の間の大きさ、壁の色、掛物にマッチしなければいけないのです。そうして床の間全体が一つの芸術というものにならなければいけないのです。私なども時々そういう事があると、昔の名画でも見るような感じがします。その代り上手な掛物でなければ駄目です。絵もやはり本当の名人が画いた物でなければなりません。というのは、花に掛物が蹴られてしまうのです。ですから余程の名人の物でなければならないのです。それで絵は絵、書は書、それに花器と花がピッタリと合わなければならないのです。ですからそういった意味で一つの花の芸術といったものですが、これはどうしても見せるより仕様がないのです。そこで天然色写真を写す人間が、上手というほどではないが、工夫しているので、それにやらせ様と思ってます。これも事は小さいが、そういう事の一つの革命的のものです。丁度世の中は逆になっていて、花に絵具を塗ったりして人工的になって来るのを、私の方はその逆のできるだけ自然的にするというのです。やはり自然農法と同じ理窟になります。そういう本を作ろうと思ってます。

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それから今まで注意した事はありませんが、浄霊の順序は、一番は重病人を先にして、軽い方は後にするのです。重い病人は特別に先にして、後は来た順です。それは公平の意味です。ですから来た順にやるというのが原則で、ごく苦痛のある人だけは、並んでいる人に断って、“この人は重いから先にやる”という事を一応断ってやればいいのです。後は来た順です。それから家族の者やごく懇意な者で、来た順は構うほどの必要がないと思う様な場合には、年をとった人から先にやるのです。それから夫婦で、大して苦痛がなければ主人の方を先にし奥さんを後にする、という様に順序を狂わない様にすると、なおりが大変良いです。なおりが大変良いという事もないが、よりなおるのです。順序を乱すと、順序というものは霊界ですから、霊界を乱す事になるから、霊界に順序がつかないと順調に行かないのです。これは何でもない様な事だが、大変に影響があるのです。何故そういう事を言うかというと、昨日こういう事があったのです。私の奥さんという人は昔漢方薬の強いのをやったので、その薬毒というのは大変なのです。時々浄霊をやってますから、年々減ってはいますが、近頃大分溜まったからやったところが、変な事を言うのです。あまりに理窟に合わない事を言うから変だと思って考えてみると、その前に女中を浄霊して、それから奥さんを呼んだのです。止(ヨ)そうかなと思ったが、時間がないから良いだろうと思ったのですが、“そうだ、これは順序が外れたから変な事を言ったのだな”と思ったのです。というのは、そうなると霊界では女中よりも下になるのです。そういう事は注意しないと、実にはっきりしているのです。順序がちょっと狂うと、何かに差し障りがあるのです。それは面倒臭い様な事ですが、そうではないので、自然になって行くのです。私は始終順序という事を言ってますが、気をつけ様と思わなくても気がつくのです。今度のお蔭話で、栄光に出しますが、そういう様な事に関して九州の坂井さんの話ですが、いろいろな例があります。病気で浄霊でどうもうまくいかない、それで気がつくと、私の書いたものとか栄光新聞というものを調べると、普通の日刊新聞の下にあったり、はさまったりしているので、これだなと思ってとると、病人が良くなるというので、実にはっきりしているのです。それから私の書いたものですが、これは又凄いのです。その上に外の物がのっていたりすると、とても訳の分らない苦しみがあるのです。昔私が宝山荘に居る時分に、その部屋がどうも気持が悪いのです。私も気持が悪いし、誰でもがそうなのです。それでその部屋に行くと皆病気みたいになるのです。それでおかしいと思ったが、どうも分らないのです。ところが外の人から貰った、普通の人間が書いた色紙が柱掛けにかかっていたのです。それで気がついて、それをとってみるとその裏に私の色紙がはいっていたので、これだなと思ってそれを外したら、それですっとしたのです。今度のお蔭話にいろいろ書いてありますから読めば分りますが、これは大いに注意する事です。それで病気になって幾日もなおらないのですが、分ってみると、すぐなおってしまうのです。よく子供の病気などであります。それは何かというと、順序が違うからです。ですから私は家に居ても栄光新聞は決して下におきません。それから私の書いたものとか写真は決して下におきません。それは人ばかりでなく、私自身も何だか気持が悪いのです。ですから順序くらい軽くみる事ができないものはありません。これはやかましく言いますが、前にも話したとおり、部屋に坐るにも順序があります。ところが、これも余程考えてやらないと、無頓着ではいけません。以前にある浄霊する人に、浄霊者はどうしても床の前に坐って、受ける人は次というか、床の前を離れて坐らなければいけないと言ったところが、その人はそれを直訳してしまって、初めての家で信仰など全然知らない所で、誰が居ようと居まいが床の前に行ってしまうのです。それで其処の親戚が居て“あの先生はなんて無礼だ、人の家も自分の家もわきまえない”と、誤解されたのですが、これも困ります。そういう場合にはそのとおりにやってはいけないのです。そういう時には人から変に見られない様に、患者よりも下座に居る場合もありますが、そういう時は神様はお許しがあります。そうして床の前に行ってもおかしくないという時には行ってやった方が良いです。部屋は奥ほど上座です。それから左の方が上座です。それを臨機応変にその時に応じてやる事です。ですから何事においても順序が肝腎なのです。これはやはり大自然を見習うのです。どんなになっても梅より桜が先に花が咲く事はないので、やはり大自然には順序があるのです。ですから大自然を見習うという事が信仰の根本なのです。自然農法にしても浄霊にしても、根本は大自然です。ですから順序というものは大自然を見習う事で、間違いないわけです。

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三月十六日

今の問題は吉田内閣の瓦解ですが、これで思い出した事は昔笑い冠句をやっている時に、一番傑作だと思ったのは“馬鹿野郎、良く考えりゃオレの事”というのがありましたが、これは笑の泉に出てます。これが今度の吉田さんに実によく当て嵌(ハ)まっていると思います。とに角直接の動機はやっぱり“馬鹿野郎”問題です。この事から急に吉田内閣に対する非難がわいて来たのです。それで外の問題なら国民も左程悪くは思いませんが、あれだけはどうしても国民としても我慢ができないのです。私も、これはもう吉田さんは止(ヤ)めなければならないと思ったくらいです。何んとしても“馬鹿野郎”問題が致命的なものです。それでも吉田さんは取消しというなまぬるい事をしないで、謝罪をすればいいのです。そういうところに、ああいう問題に対しての吉田さんという人の良心、正義感がないという事をよく証明してます。とに角いやしくも相手が国会議員ですから、国会議員というものは選挙人が、一人の議員にしろ何万人という人が投票を入れたのですから、“馬鹿野郎”と言えば、国民を“馬鹿野郎”と罵(ノノ)しったと同じ事になります。そうすると国民感情から言っても我慢できないわけです。しかも一国の総理大臣とも言われる人が、神聖なる国会議場で“馬鹿野郎”と言うに至っては、どうしても言い訳のしようがありません。だからどうしてもお辞儀をするよりないのです。それも、反省して“自分はうっかり間違った事を言った、どうか許されたい”と言って、自分の非を覚ったという事が大いに現われなくてはならないのです。それが単に取消しですから、取消しというと、何か言い損ないだとしか思えません。“間違って言った、だからこれは取消す”というのならいいが、そういう事ではなくて、国民に向って“馬鹿野郎”と言った事、神聖なる議場を穢したという事に対する罪の反省の現われでなくてはならないのです。それが少しもないところを見ると、吉田さんという人には良心がない。善悪の区別さえつかないという事になり、それでは一国の秩序を預ける事は危(アブナ)くてできないという事になりますから、実にまずいです。そうすればやっぱり“馬鹿野郎、よく考えりゃオレの事”という事になります。人を馬鹿野郎と言うどころでなくて、むしろ御自分が馬鹿野郎だったのです。笑い冠句にはいろんな事がありますが、よくそれに合う事があります。しかし今度の事ぐらいよく合った事は珍しいです。ですから笑い冠句というものは一種の哲学です。馬鹿々々しい様な事であって、それで非常に深い意味があるのです。だからあれは大いに読んだ方がいいです。「ずるい奴」という題で、“袖の下で交際をするずるい奴とずるい奴”というのがありますが、これは今の贈収賄問題などを一言にして喝破してます。“ずるい奴、自叙伝をみな逆に書き”というのも、よくありそうです。

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今発行の準備がついたのは「⇒結核信仰療法」です。「アメリカを救う」も随分売れ出し、今でも売れつつありますが、今度出す「⇒結核信仰療法」は、これは一時的でなく相当続いて随分売れるだろうと思ってます。これは今月の末あたりに新聞にも大々的に広告を出そうと思ってます。なにしろ今結核問題について、医学がいろんな間違った事を宣伝しているのです。つい最近結核に対する知識を統計にとってみるというので、いろいろな統計をとったところが、割合に結核知識がないという結果が新聞に出てましたが、知識がなくて大変良かったのです。知識があったらもっと蔓延(マンエン)しているに違いないです。だからどうしても今の結核知識というものを打破しなければ駄目なのです。これを早く破ってしまおうというわけです。今度の「結核信仰療法」は充分徹底して書いてありますから、これを読んだら、どうする事もできないと思います。それで医学の方でも、「アメリカを救う」を見て、お医者の方では歯ぎしりしている様ですが、今度の「結核信仰療法」を読んだら、また一層、歯ぎしり以上の悔(クヤ)しがりをするだろうと思います。そうかと言ってこっちの言う事が本当で、自分の方が言わば贋(ニセ)ですから、文句を言う事ができないのです。可哀想ですがこれも止むを得ません。それで問題が起れば、こっちは待ってましたですから、どんなにでも反駁(ハンバク)してやります。“結核菌は伝染しないなどと、そんな馬鹿な事があるものか”と言えば、こっちは結核菌をなめてみればいいのですから訳はないのです。それだけでも今の医学の説を打ち破るのは訳のない話です。だからおそらく反撥(ハンパツ)や詰問はできないでしょう。それから今「救世教奇蹟集」が出来上りましたが、前に読んだ序文はちょっと面白くないので、全然書きかえたのでそれを読ませます。

御論文  救世教奇蹟集〔⇒序文〕【註  栄光二○二号】

それからちょっと面白く書いた論文です。

御論文〔⇒野蛮なる文明〕【註  栄光二○一号】

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それから話は違いますが、大自然に対する草や木ですが、これが面白いのは、私は木の枝を切ったりして形を良くするが、それが一種の道楽なのです。それでよく切り過ぎたと思う事がありますし、それから植える場所によっては、〈木には裏表があるのですが〉表が出せない時には裏を出すとか横を出すのですが、それは工合が悪いのです。そうすると木の方で形を調えて良い形になるのです。それから生け花でも、家の各部屋全部を私が一人で生けるのですが、ちょっとまずいなと思っても、翌日には花の方で良い形になっているのです。そうかと言って大体は、良く生かるのと悪く生かるのはしようがないですが、一寸した点は花の方で生きていて見良くするのです。これは実に神秘なものです。要するに大自然にそういった働きがあるのです。とに角ああいう物にも魂があるという事が分ります。外国の誰かの説ですが“凡てああいう物を愛するという愛の心でやれば、普通三十年くらいたたなければそれだけの大きさにならない物が、半分ぐらいでそれだけに育つ”という事を二、三日前のラジオで聞きました。それでその人は長年の経験で木を愛するのです。投げやりにしないで、可愛がるのです。愛すると育ちが非常に良い。それでああいう物にまで人間の愛を感ずるというのは大したものだという事を経験上から言ってましたが、やはりそういう草木にも魂があると思っているのです。植木屋がよく言うが、花が咲かない時には“今年花が咲かないと切ってしまうぞ”又実が成らないと“今年実が成らないと切ってしまうぞ”と言うと、言う事をきくのだそうです。これは熱海の森本という植木屋さんが言ってました。ですからそれが事実とすれば、つまり人間の言葉の聞き別けができるわけです。これは霊的に細かに言うとよく分るので、何んでもない事です。草木ばかりでなく、茶碗の様な物でも、人間が愛すると違うのです。よく粗相(ソソウ)しますが、これはやはり器物に対する愛がないのです。というのはそれを持った人間が愛すると、これに人間の霊がはいるのです。それで霊がはいるばかりでなく、人間の形まではいるのです。ですからアメリカの霊媒で素晴らしいものですが、ある人が始終持ってますと、それを霊で見ると、それを持つ人の年齢から姿からがすっかり分って“今こういう物を持っている”と言ったりします。ひどいのになると“昨日こういう事があった。以前はこういう経歴だ”という事が分るのです。それで長く持っている物ほど強く印象されているのです。これは私は、外国の雑誌に記録が出ているのを読みました。そういう様で人間の感情で如何に影響するかが分ります。ですから私の書いた文字を見ると、この文字から一つの浄霊をされるのです。今私がいろんな本を出してますが、興味本位からでも何んでも読めば、それから浄霊されるわけです。それは文句、つまり活字の並べ方に非常に影響があるのです。とに角私の書いたものを活字にしても、活字に霊が含まれるのです。べつに私が印刷したものでなくても、誰がしたものでもそうです。実に霊界というものは微妙なるものがあります。それから私は昨日から始めましたが、生け花を天然色写真にとって、幻燈は訳ないから幻燈にして全国の各支部に写して見せ様と思ってます。とに角私の生け方は革命的なものです。花はこういう様に生けるものだという事の教えにもなりますし、その花によって、見る人が幾らか浄霊されるわけです。というのは私が生ける花は自然の法に合っているわけです。それから神の気を受けるわけですから、やっぱり幾分違うわけです。花を習っている人も沢山あるでしょうが、今は非常に間違っているのです。もっとも昔からそうですが、特に最近は非常に間違っているのです。絵具を塗ったりしているのは堕落も堕落、救うべからざる窮地に来ているのです。それに対して私は幾らか憤慨しているくらいです。丁度気がついたので、これからそういった花を生けて、そうしていずれはそれを画帖にするつもりです。そうして皆に分け様と思ってますが、差し当っては幻燈にするつもりです。昨日は十ばかり写しました。しかし私は早いですから、十作るのに一時間半くらいです。それで本当言うと床の間の大きさと形と壁の色と、床の畳や板、それから掛物も絵とか字とか、その大きさとかにピッタリ合わせるのが本当です。それがピッタリ合えば、見ていても実に気持が良いのです。趣味がわくのです。しかし花の先生でそこまで気がつくのは、少しは気がつきますが、大抵は外れてます。そこで写真に写すのはそういう点が困難なので、花だけにします。又花も四季によってみんな違います。原則としてはその時の一番の花の盛りのその花を生けるのが本当なのです。それが自然なのです。季節外れの物に高い金を払って生けるというのは間違ってます。時々お茶の先生が来てお茶の会をやり〈家の女中にも覚えさせていますが〉よく季節外れな牡丹などを高い金を出して生けますが、これは嘘なのです。季節の物をやるのがいいのです。その花の一番の盛りで、人間で言えば油が乗っている時です。そういうのを切って生けるのです。それで花を生けるのに、花を切ってからひねくりますが、そのために花が死んでしまうのです。ですからできるだけ早く生けるのです。私の褒められる様な花は一分か二分で生けた物です。五分以上かかったら駄目です。私は大抵五分以内です。五分以上かかる時は変えなければ駄目です。それで木の枝を見て、それから花の咲き工合を見て、咲ききってはいけないし、つぼみではいけないし、これから咲こうとする時が一番良いのです。それから切る長さも、長くても短かくてもいけないので、工合良く切って、それに丁度合う様な花器を選ぶのです。それから花器にも古いのと新しい物がありますが、新画を掛けた時は新しい物が調和します。それから古い掛物の時には花器も古い物で、本当言えばその時代に合った物が良いのです。それから花器には支那製と日本製とがあります。ですから花や枝もそういう様に合わせると良いのです。それで支那の花器には梅などが合うのです。やっぱり支那の感じがする様な物が合います。それから派手な場合と渋い場合といろいろありますから、そういう事をいろいろやるとなかなか簡単なものではないのです。しかし一とおり覚えてしまえば何んでもありません。そこでもう一層細しく言うと、掛物の絵なら絵が、花の方が下手ですと掛物の方が勝つのです。そして花の方が非常にピッタリとうまくゆくと掛物の方が負けるのです。そこに芸術の価値、芸術のレベルがあるのです。だからそういう場合に、名画というものはやはりその価値が良く分るのです。書でも同じです。上手い書というのでなくて、人格のある人が書いた書は、こっちがうんと気に入った花でも、それに負けないでしっくりと合うのです。そういうのは今でも有名な書とか絵です。そういうのは何んと言っても宋元物と日本の琳派物です。そういう物は、私がどんなにうまく生けても、掛物が負けないで合っているのです。これは花を通じて見た絵ですが、こういう事は芸術の最高の理論です。

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三月十七日

今度吉田内閣がああいう事になって、ちょっと思い出した事は、笑の泉にありますが、古い笑い冠句で“馬鹿野郎、良く考えりゃオレの事”というのがありますが、今度の吉田さんによく合っているのです。何んと言っても“馬鹿野郎”問題が直接の動機となって不信任問題から解散となったのですから、“馬鹿野郎”という言葉は大変な役目をしたのです。ところが後がまずいのです。少なくとも神聖なる議会において、総理大臣が馬鹿野郎と言うのはどうした魔がさしたのか知らないが、総理大臣がそういう事を言うのは珍しい事です。それで相手が議員ですから、議員は国民が投票して出した代表ですから、それに馬鹿野郎と言う事は、国民を罵しったという事にもなりますから、国民感情としては我慢はできないわけです。昨日、毎月ああいう人達の会をするのですが、現代議士が三人ばかり来て、それについて話をしたのですが、ああいう人達はさのみ思っていないのですが、あのくらいの事は大した問題にするに足りないという様な意見でしたが。しかしあの人達は議場はべつに大して神聖とは思ってないらしいです。なにしろ取組み合いの喧嘩をするのですから、馬鹿野郎くらい何んでもないと思っているのです。しかし国民感情から言って、国民はどうしても我慢ができないのです。その結果内紛問題が起り、ああいう結果になったという事はまずかったのです。それも後で“自分はうっかり間違った事を言って確かに申し訳ない”と言って謝まれば良かったのですが、ただ取消しだけですから、それが面白くないのです。吉田さんという人は政治家としては立派な人です。今でも一番偉いでしょう。けれども言い出した事はどこまでも通そうというのが毀(キズ)です。そのためにいろんな問題を起しているのです。去年の福永問題にしろ今度の広川問題にしろ、言い出した事はどこまでも通そうとするのです。そこに非常に損な所があるのです。だから例えば“馬鹿野郎”と言ったところで、確かに悪いのですから、悪い事については謝まるというのが本当です。しかしそういう事がなくて単に取消しというだけでは、“べつにそう悪い事を言った覚えはない”という意味が良く現われてますから、それではやっぱり駄目です。ですから問題は大きくなったのです。ところがそれがために民同派の分党という事になりました。それから広川和尚の変なやじり方も、実にどうもお話になりません。あの日に急に謝まって復党しようとした。ところが、民同派の方ではああいう事を知らなかったらしいのです。如何にもだらしがないです。ところが党の方では、承知できないと言って除名になってしまったという事は、そのいきさつは実にまずいです。これも昨日代議士達と話したのですが、とに角今の政治家はみんな、昔の政治家と違って実に面白味がないのです。それはどういう訳かと言うと、皆大学を出て役人になって、とんとん拍子に大臣になり、又国会議員になるというわけで、本当の民間の苦労をしてないのです。ですからそれに比べると昔の政治家は苦労をしてますから、どこかに味があるのです。それで民間の苦労をしているのは、広川などは苦労してます。しかしこれは如何にもレベルが低いのです。なにしろ鉄道の工夫から酒屋の親父をして、それからだんだん来たので、それが残っているので野卑な点があり、それでは困るのです。そういう様で今の政治家で、例えば今度の総選挙の結果吉田さんが駄目になって、第二党第三党とかになって、そうすると吉田さんが首相になるわけにはいかないが、さて外にと言っても居ないのです。重光さんが、順序でしょうが、この人は大公使の経歴を経て来ただけで、政治的の苦労はありません。だから結局お坊ちゃんです。結局吉田さんもお坊ちゃんです。ですから我儘坊ちゃんの気があるので、自分の言い出した事を通そうという点があるのです。それからもう一つは、多数党だからオレの方で思った事は何んでも通る、頭数で押して行けば何んでも通るという考えがあるのです。ところが最初のうちはそれでも良かったが、だんだん減って行ったので、今度はそういうわけには行かないのです。そういう欠点も大いに災わいしていたのです。だからして野党がどんな事を言っても全然取り上げないのです。野党に了解をさせ様という努力が足りなかったのです。そういう様でただ頭数を頼りにしていたので、そこにつけこんで民同派の鳩山を立て様という連中がきわどい所でやったのですが、なかなかずるい様です。こういう話をしているとニュース解説の様になりますから、このくらいにしておきます。

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今編集している「救世教奇蹟集」ですが、この前書いた序文はどうも面白くないので、書き直したので、それを読ませます。

御論文  救世教奇蹟集〔⇒序文〕【註  栄光二○二号】

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それから浄霊の場合にあらかじめその順序を知っておいた方がいいのです。気がついた事は、二、三日前に女中を浄霊してしまってから、ああそうだ、と思って、それから奥さんを呼んだのです。その時にこれはちょっと順序が違ったな、女中の方を先にやるという事は間違っているなと思ったが、時間も夕方だから良いだろうと思ってやったのですが、浄霊中に奥さんが変な事を言うのです。普通言う事でなく、私に対する非常な侮辱の様な事を言うので、注意しましたが、ちょっと考えてみたら順序が違っているためという事が分ったのです。だからうっかり順序を外すと、やはり何かあるのです。それであらかじめ知っておくべき順序は、つまり理窟に合えば良いのです。例えば患者が浄霊に来ますが、その時に一番先にやるのは、一番重い病気の人、つまり苦痛の大きな人を一番先にやれば良いのです。それからさのみ苦痛のない人が幾人も居る場合には年齢順にやればよいです。そうすれば理窟に合ってます。しかし年齢順だからと言っても赤ん坊は又別です。ギャーギャー泣いていろんな事をすると外に障りますから、煩(ウル)さくない様に早く済ますという事は理窟に合ってます。そういう事が何もない時には先ず年齢順からやるというのが理窟に合っているわけです。それから常識的に考えると、非常に身分のある人や何かで、非常に用事が多い人などは先にやる、という事も又理窟が立ちます。それから来た順も必要です。どっちにしてよいか分らない場合には来た順です。それから来た順でも、苦痛のある人とか重い病気の時は、待っている人に一応断わるのです。“この人は重いから先にやりますから”という事を一言断わればよいです。順序から言うと、第一は病気の重いのからやり、その次が来た順、その次が年齢順で、後は常識的に考えればよいのです。そういう順序を乱さなければなおりも良いのです。よく効くわけです。何故、今話した女中と奥さんとの順序が違うと何かあるのかという事は、女中を先にやって奥さんを後にすると女中の方が上になるのです。その時の奥さんの言葉がやはりそういう様な事で、劣等と言いますか、そういう様な意味の事を二度か三度言ったのですが、やはり一時的に女中より下という様な地位になるわけです。それは霊界がそういう様になっているのです。こういう事を知って見ると、よくそういう事があります。おかしいなと思う事は、何か順序が狂うという理由があるのです。それでこういう事は大変面倒臭い事の様ですが、これが分ると面倒臭いどころでなくて自然に気がつくのです。無意識に順序を正しくする様になります。そうならなければならないのです。

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それからちょっと面白い論文を書きましたから読ませます。

御論文〔⇒野蛮なる文明〕【註  栄光二○一号】

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それから宗教的の話ではないが、私は花を生けるのが好きで、始終各部屋みんな私が生けるのです。それでお茶の先生が来て、家内始め女中などに教えてますが、その都度茶席の花を私が生けますが、私の生け方はあくまで自然なのです。今の花は、特に近来おかしい事には、ペンキを塗ったり変な事をしてますが、これはピカソあたりの影響を受けたのでしょう。まだそう流行りもしないでしょうが、大分流行りそうにみえているのです。それも一時的の事と思いますが、そういう様でなにしろ花の生け方の革命と言うと大袈裟ですが、革命的に知らしたいと思ってます。それで私が生けたものを写真にとろうと思ってます。一昨日十ばかり初めて写させて、最初は天然色の幻燈で写して、全国的に支部などで写させる様にするつもりです。それで私の生け方は早いのです。十ぐらいの花は一時間半ばかりで生けたのです。それも、その間に庭を探して枝を切ったりしたのです。大体原則としては、私のは五分以内です。それで早く生けたほど良いのです。そうすると花が生きているのです。これはいじくるほど良いとしてますが、そうではないのです。やはりこれは作物に肥料をやるのと同じで、自然を無視するからです。それで一番気に入った花は大抵一分か二分で生かったものです。それは花を生ける前に、花器をおいて、その花器と花が合う様に見きわめて、枝の長さを切ってパッと生けるのです。それは最初からそうは行かないが、その気持でやると良い花が出来ます。そういう様にして生かったものは実に良いです。自然ですから花が生きているのです。そういう様にして生けたのを今度幻燈で写しますから見れば分ります。なるほどこういう生け方が一番良いという事が分ります。これも一つの真理の具現です。私は何んでも趣味があるのと、徹底して研究する主義ですが、あれもよく見ますと、生けてから、まずいと思ったり、まずい枝があるが、一晩おくか数時間おくと、それがちゃんと気に入る様になって来るのです。これはいじくった物では駄目だと思います。花は生きているから、自分で体を調(トトノ)える働きが出て来るのです。それをいじくられると、その働きが出なくなるのです。こういうものを見ても、生きているのですから、そこが面白いと思います。これは花ばかりでなく、木でも実に大したものです。箱根の庭の木なども全部私が切るのですが、少し切り損ったり、切り過ぎたという時も放っておくと、木自身で形を良くするのです。それから場所によって、岩や何かの関係で表が見せられないで、横とかで恰好が悪いのです。そうすると何時かしら、前から見ても恰好が悪くない様に自然に自身で調えるのです。これは面白いと思いますが、確かに生きているのです。それから松の木なども、上の枝をつめるという事は良くないのです。面白くないのです。それで今碧雲荘にある枝を切ったのですが、そうすると松の木はどうするかと思っていると、その切り口が少しも見えない様に枝が被さって来てます。そういう様で、生け花もちゃんと自分でなおります。この生け方を研究すると良いです。第一早いです。だから億劫(オツクウ)でなくて良いです。今までの生け方は時間がかかるから億劫です。それから季節外れな物を高い金を出して買うという事は、およそ馬鹿気た事です。その花の、人間で言えば一番油の乗りきった所を狙って用いるのです。それが一番良いのです。それからもう一つは、できるだけ花を使わない事です。これは私の一流ですが、私は実に花は少ないのです。普通一杯くらいのを、私は三杯くらいに分けてやります。できるだけ不必要な花や枝を使わない方が効果が大きいのです。だから少な過ぎると言う人がありますが、そういうのが良いのです。ですからいろんな物を混ぜますが、それは面白くありません。やっぱり花で絵を画く事と同じなのです。そういう事は花の先生は教えません。もっとも花の先生も知らないからしようがありません。それで部屋の床の大きさから壁の色に合わなければなりません。厳密に言うとそういう事になります。それから掛物にも、書もあるし絵もありますし、古い物もあるし新しい物もあります。それで面白いのは、古い掛物に新しい花器では合わないのです。それから掛物が渋い物には、花器や花も渋い物をやるのです。そうすると大変贅沢になりますが、そういう事はないので、花器でも安い物で良いのです。それは使い様によるのです。それこそドンブリの大きな深い物があったらそれで結構使えます。もっともこれは勅使河原でやってます。そういう様で何んでも構わないのです。それから花も、あえて花屋で買わなくても、自分の家の庭にあるのでも何んでも良いのです。それで私が好んで使うのは竹です。これは花屋では使いません。これは枯れやすいというのですが、そんな事はないので一週間ぐらいは大丈夫です。それで竹を切ってからパッとやると大丈夫です。もっとも私のは指から霊が出るからで、その関係もあります。それで竹でも切ってからパッと生けると良いのですが、いじくるから駄目なのです。竹などは何処にでもありますからいいです。それから熊笹を使いますが、これが又良いのです。これを五、六枚やって花を少しやれば実に良いです。そういう話は幾らでもありますが、時間がないからこのくらいにしておきます。

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春季大祭御教え

三月二十三日

今日は随分大勢ですね。人間というものはよく融通がつくものと思います。やっぱり弾力性があるのでしょう。今日は御祭りですから簡単にお話します。今更言うまでもありませんが、救世教というものは、つまり大きな革命運動です。一口に言うと世界文化の革命です。いろんな間違った文化を革命するのです。つまり間違った文化のためにいろいろな悩み苦しみが満ち満ちているので、そのために余計な事をして余計な金を使ったり骨を折ったりして苦しんで、世の中を悪くするので、今の文化は要するに愚かです。吉田さんが“馬鹿野郎”と言ったのは、今の文化を言ったと言っても良いです。確かに馬鹿野郎の世界です。しかしこっちが言うのは吉田さんより大きいのです。実に世界中が馬鹿野郎になってます。それをもっと利巧になる様に引き上げるという、これが救世教です。救世教と言うと宗教ですが、引き上げるための宗教的の一種の手段です。宗教という手段でやるというのが一番良い事と、又今までにない革命ですから、それより外に方法がないわけです。だから宗教的にやるより外にやりようがないのです。ですから救世教としては、宗教というものを利用し、一つの手段としているのです。従ってミロクの世になれば宗教というものは無くなるのです。というのは宗教の必要がないからです。つまり医学が無くなるのと同じ事です。だからそれまでの救世教です。悪い世の中だから救うというので“救世”ですが、良い世の中ならば救う必要はないのです。それは又形が違うわけです。良い世の中を一層良い世の中にするというわけです。今の世の中は、実は良いと思ってやっている事が逆になっているわけです。薬をのんで病気を良くしようという事が、反対に薬で病気を悪くするという事になるので、どんな事にもそういう事があります。この間違えているというその根本は何かと言うと、霊を認めなかった事です。今度「⇒救世教奇蹟集」という本が大体出来上りましたから印刷にかかりますが、二、三カ月先に出版の予定であります。この奇蹟というものは誰がやるかと言うと、勿論神様がやられるのですが、“では何の目的だ”漠然と“奇蹟だ、不思議だ不思議だ”と言って驚いているばかりが能ではないので、やっぱりそういう奇蹟を現わすという事は、神様の方の大きな目的がなければならないのです。ではその目的とは何かと言うと、霊を認めさせる事です。霊を知らせる事です。だから霊の方が分れば、奇蹟という言葉はなくなるのです。奇蹟ではなくて当り前の事になるからです。しかし霊という事を認めないから、ああいう変った有り得べからざる事があるのです。断崖から落ちて怪我一つしないとか、自動車や汽車に衝突して跳ね飛ばされても助かるという、有り得べからざる事は、つまり霊の方で助かるから、体の方は大丈夫なのです。要するに霊主体従の法則です。それは奇蹟によるより外に認めさせようがないのです。大病人を浄霊してなおるのは、霊の力という事ですから、霊を認めさせるというために、神様は……神様が認めさせるわけではなくて、神様の方から言えば当り前の事をするのです。ところが今までの人間で霊を認めていない人は沢山居り、又霊を認めていても霊の働きを知らない人がほとんどです。それは宗教家とか、そういう事に関心を持っている人は、霊の実在は分っているが、ただ霊が分るだけの事で、ではどういう働きをするかというところまでは、まだ分っていないのです。ただそういった霊の力が現われた場合、物質的には実に不思議に思われますから、それで不思議だというそれに刺戟を受けて考える。そこで霊界があり、霊があり、霊の働きはこういうものだ、という説明を受けて、なるほどと思うという事になるのです。奇蹟というのは、霊を知らせるという第一歩です。そういう事を今度の「救世教奇蹟集」に書きました。そうして実例として百例を挙げました。病気以外のいろいろな奇蹟を七十、病気に関しては三十です。病気の方は今までのいろいろな本に出てますから、少し減らして三十とし、合計で百例にして載せてあります。今までに栄光に出た奇蹟を見直すと、実際驚くべき奇蹟です。私はその当時読んだが、ほとんど忘れてしまっているのです。今読んでびっくりしているわけです。ですからこれが本になって出れば、又大変な問題になるだろうと思います。キリストの“ビッコを歩く様にした”とか“盲の目を開けた”という事が、今もってキリスト教の方の一つの大変な自慢になっているのですが、それと比べたら、今度の奇蹟集の奇蹟は何倍上か分らないくらいです。これも勿論飜訳して世界中に出すつもりです。

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また「⇒結核信仰療法」の方も問題にならざるを得ないと思います。これをお医者なり、或いはそういう事に関係のある学者などの専門的の人が見たら、黙まっては居られないと思います。“医学が結核を作る”という事でも、仮りに政府の当局者が見たら大変な事になります。とに角結核は医学によって解決しようとしていろいろな手段を尽くし、法律まで出してやっており、大変なものですが、それがかえって結核を作るものだという事を天下に発表したとすると黙まっては居られないです。しかしそれを突込んで来る事はできないのです。と言って黙まっていると黙認した事になります。それから“結核は感染しない”という事も、結核は感染するという立前(タテマエ)で、消毒だとか何だとかいろいろやって大騒ぎをやってますが、それを感染しないとなると、当局のやり方を全然叩きつけた様なやり方ですから、これも何とか先方で言わなければ認めた事になりますから、そうなると変な事になります。だからとに角これからあっちの方の人達が首をひねって相談をしたり、溜息をついているのではもう追いつかないので、何とかしてやっつけたいが、それはちょっと難かしいのです。何故難かしいかというと、私の方で書いてある本には少しばかりも突込む所がないのです。とに角横綱の前で子供が前から取り組んで来る様なものですから、先方に勝ち目はないのです。そうかと言ってこれを黙まっていると、当局や専門家の面目に関わるし、そうして又問題は大変な問題です。考えてみれば実際大きな問題です。こんな無鉄砲……では変ですが、こんな大胆な事をした人は今までに無いでしょう。そうかといって、こっちは理論と実際との両方で行くのです。実際はこうだ、結核菌という物の根本はこうだ、こういう物から発生していると言っているのです。つまり先方は菌だけを発見して大騒ぎをしますが、こっちは菌の根元をうち開けてありますから喧嘩のしようがないのです。先方に勝ち目はないのです。だから正面きってぶつかって来るという事はできますまい。そこで黙まっているという事もできないというジレンマに陥るでしょう。彼等の方はどういう態度に出て来るかという事が興味ある事です。それで最後には病院に行って私が片端(カタハシ)から浄霊をやってやるとか、医者との質疑応答でも、沢山集めて疑問に思う所はどんどんこっちで教えてやります。そうすると先方ではどうにもしようがなくなると思います。それでやっつけられないとすればカブトをぬぐよりないのです。カブトをぬぐというと、医学の方の法規を急に改正する事はできないが、本当にやれば医学禁止法案というものを作らなければならないのです。うすると今日の再軍備問題によって憲法を改正しなければできないというより、もっと大きな問題になるだろうと思います。やはり医学を禁止するという事は憲法改正にまで行くかも分りません。結局はどうしてもそこに行かなければ追いつきません。しかしこれはあえて私がやるわけではなく神様がやるのですが、神様はどういう様な結末をつけるかという事が、大いに興味ある問題で、私も今から楽しみにしてます。

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それからもう一つの農業革命の自然栽培も大きな問題になります。しかしこの方は簡単です。肥料をやらないという事だけで何でもない話です。ただそれが分って実行するというだけの事ですから、医学の方とは比較にはなりません。これは殊によると数年ならずしてそういう輿論になってしまうかも分りません。そうしたら、これだけでも大変な問題であるし、又救世教というものが如何に本当に救う宗教であるかという事が分るのです。そうしてこの肥料問題はひとり日本ばかりでなく世界的のものです。よく調べてみると肥料を沢山使うのは日本が一番だそうです。ロクでもない事で一番の事が日本には沢山あります。そうでしょう、日本は糞尿というものがあるが、外国には無かったでしょうから、外は世界並でしょうが、糞尿だけが日本は多くなるから、世界一になるわけです。それから薬も世界一だそうです。アメリカはあんなに薬で大騒ぎをやっているが、日本の方がずっと多いそうです。それはアメリカには漢方薬がないのです。これも肥料と同じで倍になります。今言った様な二つの革命は大変に大きな革命です。外の問題についてもいずれ本を出すつもりです。政治の問題、教育の問題という事もだんだんに発表します。

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教育の問題にしても、教団の方で学校を作って実際に見せなければならない事になります。これはいずれだんだんにやって行きます。今日の教育は子供のうちからやり過ぎるのです。外の事は別として一言だけ言っておきますが、教育は十二才からやるのです。その前にやってはいけないのです。今の人間は非常に頭が悪いのですが、これは早期教育のためなのです。というのは、人間は或る程度頭の組織が出来るのに十二才くらいまでかかるのです。それをもっと早く頭を使うと、頭がそこまで出来ないうちに発育が止まってしまうのです。丁度労働と同じ様なもので、労働はやはり青年になって初めてどんな労働でもできるのです。それを十一か十二の子供に労働させると、発育が止まるのです。それについて私は前に柔道をやった時に、十五才以下は柔道をやってはいけないという事でした。それは背の発育が止まるからです。ですから柔道の先生などは割に背が低いのです。横は張っているが背は低いのでも分ります。それはつまり肉体的の発育が止まるのです。それと同じで、頭脳もあまり完成しないうちに使うと発育が止まるのです。ですから働きが悪くなるのです。そういう訳で十二才まで遊ばしておいて、それからやると非常に覚えが良いのです。ですから今までよりか倍くらい良くなるのです。十二才からで、小学三年、中学三年、大学三年と、それだけやれば充分です。ところがそういう事を知らないから、早期教育をやるのです。それこそ今は小学校の生徒などでも、いろいろと難かしい事を教え込むのです。ですからつまり子供を早く大人にしようというやり方です。今の子供を御覧なさい、以前なら丁度親父が言う様な事を言ってます。子供の大人を作っているのです。早く大人にするのを良いとしているのです。だからちょっと見ると大変ませて居て良い様だが、肝腎の頭脳の発育を止めてしまうのです。だから後になって本当に大人になるに従って、言わば耄碌(モウロク)が早くなります。そういう事が大変な間違いです。そこでそういう教育をするには学校を作らなければならないのです。ところが今では文部省令にぶつかります……十二まで遊ばせておくという事が大変な問題になります。ですからそういう事をやるにも、救世教なるものは、たとえてみれば自然栽培というこれによって増産になり、これは大変なものだと言って先方で頭を下げるという時代になれば、教育もこれでなければいけないと言うと、それではこれが本当だろうという事になります。それが時期です。

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それから今年の美術館は去年とは大分違って、今度の別館で浮世絵展をやりますが、これは皆知っているでしょう。その外に外国の物で、エジプト、ギリシャ、ペルシャ、インド、勿論中国もですが、そういう美術品を多分一室全部に陳列するつもりです。そういう外国の美術品展は日本にあるにはあるが、そういう美術館式のものはないのです。不思議な事に博物館でもやらないのです。博物館はやはり日本美術を紹介するというのが主眼だそうで、外国の美術品は軽視して手を出さなかったのです。と言って今のところ外には勿論ありません。それですから割合隠れているのです。それは神様がやるのですから、今年になって不思議にそういう物が手にはいって来るのです。美術館の一室を一ぱいにするくらいは集まったのです。そういう物は皆は知らないから買手がないので安いのです。今に高くなります。なにしろ二千年三千年前の物でなかなか面白い物があります。今度出ますから見れば分ります。ですからこれだけは日本一と、最初から威張れます。案外注目されるだろうと思ってます。浮世絵の方も、おそらく今までの浮世絵展としては一番だろうと思います。又実に良い物が集まったのです。これも神様がやられているのですが、割合安く、非常に奇蹟的に集まったのです。美術館も去年あたりはまだ世の中がほとんど知らなかったが、だんだん知るに従って、今年は相当見物に来るだろうと思ってます。博物館でもなかなか援助してくれてます。私の方のをすっかり見て、不足している分だけは博物館の品物を貸してくれるそうです。そういう様で美術館の方も今年は一層充実して、去年より見応(ミゴタ)えがあるものができるわけです。それから別館も出来、すっかり整頓しますから気持が良いです。去年の様なガタガタした所がすっかりきれいになりますから、大いに楽しみにして良いと思います。

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三月二十四日

救世教も今までは長い間、邪神との戦いだったのです。それでやっと、戦いなら勝ち戦さの時期に一歩はいって来たという形なのです。それでこれからだんだん勝ち戦さになって行きますから、日がたつに従ってだんだん発展して行くという時期になって来たわけです。今度の「⇒結核信仰療法」は原子爆弾です。つまりこれに対して向うではこれを防ぐ武器がないのです。従って大きな問題になるだろうと思ってます。たとえてみれば“医学が結核を作る”という事や“結核は感染しない”というそれだけでも、医学としたら大変な事を言われたわけです。だから、若しそう言われて黙まっているとしたら認めた事になりますから、どうしてもそれに反駁しなければならないのです。そこで反駁するにはあれを壊すだけのそれだけの理由を作らなければならないという事になります。ところがおそらくその理由を作る事はできないわけです。というのは百の例を見れば、もうどうする事もできないのです。あれは事実であって、“このとおり本人が言うのだ”というのを百も並べてあれば、こっちの説を反駁するという事は到底できないのです。反駁できないから黙まっていなければならないが、黙まっていれば承認した事になる。ですから若しあの説が世の中に拡がって行くとすれば、医学は当然カブトをぬがなければならない事になります。そうすると大問題です。そこで何とかしなければならない……何とかするどころではない、どうしてもこれを防ぎ止めるか、救世教をやっつけなければならないという事になります。そうかと言って、やっつける方法はないというジレンマに陥(オチイ)ってしまって、だんだん医学の方は押されて行きます。アイゼンハウアーではないが、押し返し、巻き返し状態になって行きます。そうすると政府でも放っておくわけにはいきません。これはどっちかに旗を挙(ア)げなければならないという事になります。そうすると今まで政府が援助して来て、今もって大いに奨励し援助している医学が形無しになっては、政府の面目にも関わるから、どうしても救世教をやっつけなければならない、と言ったところで全然歯が立たないのです。丁度子供が横綱に向う様なもので、全然勝ち目がないのです。そこで何うするかという事は興味ある問題です。まあ、いざとなれば私が大病院に行って大勢の患者をやってやり、目の前で見せてやります。それから博士などが束になっての質疑応答を、私が直接やってやり、良く説明してやります。そこまで行けば結構です。丁度マッカーサーがミズーリ号の上で講和条約をする様なもので、医学の方は日本で、私の方はアメリカというわけになります。そうなれば無条件降伏です。結局そこに行くより仕方がありません。そこに行って始めて人類は救われて、病なき世界ができるのです。こっちには神様がついていて、原子爆弾を持っているのです。ソ連にも原子爆弾はありますが、医学の方には原子爆弾はないのです。ですから戦争よりもこっちの方がもっと勝ち目があるわけです。ただそこに行くまでに一波乱があるだろうと思ってます。大変な問題になります。日本だけでもそうですが、こっちは日本だけでなく世界中をやるのです。「結核信仰療法」の広告に“医学への挑戦”という事を書いてあるが、私は遠慮してそうは書かなかったが、誰かが書いたのでしょう。しかし書いてみれば、嘘ではないので本当ですから、そのままにしておきました。確かに挑戦なのです。神と悪魔の戦い、正邪の戦いです。これで勝てばミロクの世になり、負ければ魔の世界になります。しかし向うは九分九厘でこっちは十ですから、無論勝つに決まってます。そういう様で、大変な問題を提供したわけです。それからこの次のは、今編集してますが「救世教奇蹟集」です。それは、こっちは医学ばかりではない、あらゆるものに対してもこのとおりだ、原子爆弾でも平気だ、という事まで書いてあります。奇蹟を今読み返してみますと、随分すばらしいものです。だから結局において世界の文化革命です。勿論自然農法も大変な爆弾です。まあ平和の爆弾です。やっぱりこっちでやる事も戦いですが、ただ人間を殺す様な武器を使うのでなくて、人間を助ける武器ですから大変なものです。そういう様でいよいよこれからこっちはすばらしい武器が出来て、つまり今までは守って……守勢派ですが、今度は積極的に敵に向って大攻撃を始めたのです。そういうわけでいよいよ面白くなって来たと言いますか、非常に張合いがあるのです。今まではギューギュー押さえつけられたり、叩かれたりして長い間苦しんだが、それが逆になって来たのが今年からです。ですから大いに発展するわけです。今樋口さんがハワイで活動してますが、非常に成績が良く、面白い様に信者ができるのです。それで来月あたりからアメリカのロスアンゼルスを基本としてやる事になってますが、アメリカが又面白いだろうと思います。ただアメリカでは割合医学よりか宗教で、カトリックが非常な勢いですから、信仰的ばかりだとなかなか大変ですが、こっちは医学の方に重きをおいてやりますから、その点はかえって良いだろうと思います。それで向うの方で救世教というものは如何なるものかという事が相当に分れば、それはすばらしい発展をします。そうしていよいよとなればカトリックに向って一挙に頭を下げさせる方法があります。それは日本の医学などとは比べ物にならないほど事が大きいのです。それはこの次のお楽しみとしているわけです。それでこれから出る本は「⇒自然農法解説書」と「⇒救世教奇蹟集」と「⇒医学革命の書」ですが、「医学革命の書」は全般的の病気に対する解説ですが、前にも「天国の福音」「明日の医術」などで書きましたが、今度はもっと思いきって分りよくしました。前には思いきって書けなかったので大分ぼやかした点がありますが、今度ははっきり書きます。病気に関した事は、つまり分らせるだけの仕事はできるわけです。それからその次には、政治、経済、教育という方面もだんだんやって行きますが、これはずっと楽です。一番の問題は医学なのですから、これさえ相当にコナしてしまえば、後の方は人間が健康にさえなれば楽なのです。

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昨日もざっと話をしましたが、教育の事を簡単にお話すれば、救世教でいずれ学校を作るつもりです。ただその学校のやり方が、世の中でやっているのと違うのです。根本は年齢ですが、十二から教育させるのです。それで小学校が三年、中学が三年、大学が三年で、九年で卒業です。それで十二になってから教育をすると非常に頭が良いのです。少なくとも今までの子供の倍くらいは大丈夫です。九年で充分覚えられます。というのは、今は早期教育と言って、小さい子供からだんだん教育するのが良いとしてやってますが、そのために近頃の子供は、まるで大人の様な事を言ってます。昔の小学校の子供が青年になった時のような事を言ってます。社会科とか言って社会の事もなかなか良く知っている様です。われわれはラジオとか新聞で見ますが、小さい子供の言う事が、親父よりもっとませた事を言うのです。それは丁度こういうわけです。子供を早く大人の様にする。大人のレベルにするほど良いと思っているのです。だからまず、今は子供の大人を作る様な教育です。そうするとこれが頭だから良い様なものの、これを肉体とするとどうかというと、十か十一から重労働をさせる様なもので、そうすると体の発育が止まってしまうのです。ですから小さくして大人の様になってしまうのです。これが一番よく分るのは柔道です。私もやった事がありますが、十五才以下はやってはいけないと言われているのです。ですから柔道の先生は、横は広いが背は割に低いのでも分ります。そういう様で頭を酷使する事になるから発育が止まるのです。今の人間は非常に頭が悪いのです。学校の試験勉強とかいろんな事で非常に苦しむのです。頭が良ければあんなに苦しまなくて良いのです。それは早く頭を使い始めるので、頭の働きが悪くなるからです。そこで学校の成績も悪くて苦しむのです。それよりか、十二くらいまではぼやっとして遊ばせておいて、それからやると非常に頭が良くなるのです。それで頭が良いと短期間でどんどん済みます。そういう事に気がつかないで目先だけなのです。丁度薬や何かで病気をなおそうとするのと同じです。どうも今の文化というものは一時的で、手取り早くやるというやり方です。教育までがそうです。ですから今の人の頭の働きというものは“上面(ウワツラ)利巧の芯(シン)馬鹿”という事になります。昔の文化の進まない時は上面はぼんやりして馬鹿ですが、しかし奥深い利巧さがあります。だから美術品などを見ると、古い物の方がずっと良いです。今の美術品は悪いというのはそういう所にもあります。昔の人は深さがあるのです。

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宗教でも、今新しい宗教の説を唱える宗教家、学者はないのです。皆古い釈迦とか孔子とか、日本では親鸞上人の嘆異抄とか、蓮如上人の御文章とかの古い物を引張り出していろんな解釈をしてますが、若し人間が進んでいるとしたら、もっと新しい物が出るはずですが、そういうのはないので、古い物の解釈をしているのです。又そういう古い物を解釈する学者が偉いとされているのです。それは上面は偉いに違いないです。そこで救世教のやるのは上面でなく、昔の人がやった事より、もっと深い所をついているのです。医学、農業でもそうなって来るわけです。外の宗教というものは本当から言うと古いのです。古い物を一生懸命にやっているのですから、新しい点はないのです。ですから新宗教というのは救世教だけなのです。外の宗教よりか新しいから新宗教と言うのですが、外のは新宗教と言っても、やる事は古いのです。古い開祖の教えを取上げるという事を非常に良いとしているのは如何に古いかという事が分ります。ですから私が何時も言うとおり、今まで誰かがやった古い事はやる必要がないのだから、私がやる事は誰もやらない事だけをやるというのはそういうわけです。名前は忘れましたが、イギリスの学者でうまい事を言ってます。今でも覚えてますが、“大衆は墳墓に支配されている。それで墳墓に支配されない人は上手な偉人だ”というのです。ちょっと面白いと思います。今の外の宗教は墳墓に支配されているのです。それで私はその墳墓に支配される事をしないで、墳墓から抜け出るわけです。新しい墓と言っては変ですが、これから新しく作る墓でしょう。そういう様にして文明は進んで行くのです。だから墳墓に支配されている人の中にはいって、こっちが支配されないと、墳墓連中が非常に何だ彼んだと言うのです。新しい先駆者というものは必ずそういう悩みがあるのですが、これは仕方がありません。しかしガリレオやコペルニクスの様に自分が生きているうちにそれが肯定されないで死んでしまうのは気の毒ですが、こっちにはそういう事はないのです。実際においてそれだけの効果を現わしてますから、それだけ良いのですが、新しい事を皆に承知させ、その墳墓の支配者から、その支配の力を薄くするという仕事です。ですから大変な事なのです。しかしそういう事は、すばらしい神様の力でやれば、大変な事でいて割に楽に行くのです。その話はこのくらいにしておきます。

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それから美術館は、箱根の宿屋や登山電車の方で早くやってくれと言って頼みに来るし、それに外の人達も非常に希望しているために、四月二十一日からやる事にしました。できるだけ去年とは変え様と思ってますが、丁度西洋の古美術品が大分手にはいったのです。これも不思議なのです。私は全然そういう事を考えていないのですが、そういう物が自然に集まって来たのです。それで私はこれは神様がこういう美術品を並べろという事だと思ったのです。エジプト、ギリシャ、ペルシャ、インドなどの物ですが、これはなかなか無い物だそうです。特に日本には無いのです。そういう物が不思議にはいって来るのです。これは神様がやられているのですから当り前です。しかも日本にはそういう物を陳列している所はないのです。博物館でも、どういうものかそういう物には手を出さなかったのです。今は博物館も後悔している様ですが、博物館はどこまでも国立で日本の美術という物を主にしてます。それから外の美術館にしても日本には全然ないのです。だからこれは非常に面白いと思います。私も近頃興味を持って来ました。一室だけはそういう美術品にするつもりです。それから六月一日から浮世絵展をやりますが、浮世絵も又すばらしい物が集まったのです。これも去年の美術館が終る時分から集まったのです。これもこの前博物館の方で調べに来て、私の方で不足している物は博物館の方で貸すそうですから、随分充実してます。今までの浮世絵展では一番だろうと思います。それに丁度別館が出来ますから、別館はそれを専門に飾るつもりです。それから本館の一部も使います。社会でも箱根美術館というものを認めて来てますから、去年は大分少なかったが、今年は大いに増えるだろうと期待してます。

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三月二十五日

もう大抵な人は見たでしょうが、「⇒結核信仰療法」はまだ幾らにもならないが、大分出そうです。あれを関係者の人が見たら、随分驚くだろうと思います。御神業というものは、やはり霊的の戦さなのですから、今まで長い間、なにしろ敵はなかなか大きいし力があるから、それで負け戦さだったのです。始終こっちが負けどおしで手も足も出なかったのです。それが、やられやられしながらもだんだん力が出て来て、今年からいよいよ勝ち戦さになったのです。それで「アメリカを救う」と「結核信仰療法」という武器がこっちにも大いに出来てきたのです。それで「結核信仰療法」の本は原子爆弾です。この爆弾で医学の方は息が止まってしまうのです。しかしなにしろ相手はまだ大変な力を持っています。しかし力を持ったところで真の力ではないので、ただ形だけの物で内容は空虚な物なのです。そこであれを見たら黙まっては居られません。何とかこっちに質問するとか、反抗しなければならないわけです。それでこれからだんだん、医師会とか又当局の方でも大いに考えて、智恵をしぼって、“救世教の奴は太い奴だ、何とかやっつけてやらなければならない”という様な相談が起るだろうと思います。何故ならば、あれで向うが沈黙して居れば黙認した事になります。容認した事になりますから、それでは大変です。医学が負けてしまいますから、何とかしなければならないと思って、よりより随分と相談したり考えたりするに違いないです。そうかと言ってこっちは実際ですし、あの百の例を見れば、何とも言えません。そこで結局において黙まって我慢してしまうより外にしようがないだろうと思います。そうすれば神様の方が勝ったわけです。つまり科学と宗教との戦いですが、宗教が科学に対して勝つわけになりますが、ここに大変な意味があるのです。というのは今まで宗教は科学に負けていたのです。だから宗教は始終科学から非難されたり軽蔑されたりし、又世の中の人も宗教、特に新宗教は迷信と片付けて、科学でなければいけないと、何にでも“科学的”という言葉を使うと、それが立派に見え、信用できる様に見えるのです。科学というものを頭に付ければ、それで信用するのです。だから何かというと“それは科学的でないから駄目だ”と言い、“これは科学的に見てこうだ”と言うと大変に立派に見えるのです。“それは宗教的だ”と言うと、もう迷信臭くなって、何となく軽蔑してしまうのです。そういう状態だったのです。そこで私は科学が迷信だという事を唱えるのです。しかしそうは言うものの、それにも理窟はあるのです。実際今までの宗教は力が無かったのです。科学より力が無かったのです。そして結局戦いは力ですから、力の強いのが勝つのです。これは殴り合いと同じで、力のあるのが勝つのです。ただそういう肉体的力の暴力でなく、要するに霊の力です。霊ですから、今までの普通の戦いの勝ち負けとは違うのです。ところが今までの宗教は霊の力が無かったから、科学つまり体に負けたのです。まあ、霊主体従であるべきのを、体主霊従であったのです。それで今度こっちは霊主体従の実を示すのです。そこで科学に向って挑戦し、そうして科学が宗教に負けるという結果になるのです。だから今やり出したああいう本の意義というものは大変なものです。いよいよ宗教が科学より上だという実を見せるわけです。ですから医学の方の説というものは、実に曖昧(アイマイ)極まるものです。今朝もラジオの第二放送で喘息の話が出てましたが、はっきりとした事は言えないのです。その喘息の原因がいろいろありますが、滑稽なのは檜木作りの家にはいると間もなく非常な喘息の苦しみが起ったというのです。そこでだんだん調べてみると床に米松を張ってあったのに気がついて、これだなと思って、それから床板を外の板と取り替えたのです。それで良くなったというのです。これが喘息の原因なのです。又こういうのがあります。日本はまだ良い方ですが、西洋では壁の色が影響するというので、いろんな色を塗って、べつに大して苦しみがないと、この色が良いという事になるのです。われわれからみると、まるで茶番です。そんなに情ない医学です。だから今朝の放送を聞いても、お医者さんもうまい事を言ってます。“この薬で、この注射をするとなおる事になっている”と言い、なおるとは言わないのです。又“この注射をすれば効果はあるのだ、しかしこのためにかえって悪くなる人も偶(タマ)にはあるから、これでなおるとは安心はできない”という言い方です。医学を子供とすると、こっちは横綱の様なものです。片手でひねり出すくらいの力があります。しかしそれだけなら良いが、そのために何万何十万何億の人間がその被害者になって命まで取られてしまうのですから、これは大変な問題になりますから、どうしても救わなければならないのです。実に可哀想なもので、お蔭話などを見て、何時も涙がこぼれるくらいです。余りに酷い目にあってます。それを世の中の人の一人でも余計に知らせなければならないのです。そのために今度いろいろな本を出したわけです。それから自然栽培にしても理窟は同じ様なものです。それからだんだんに政治、経済、教育という方面にまで革命するつもりで居ます。結局救世教の目的というものは、世界の文化を革命するという事です。それで政治について、この間こういう話があったのです。これは信者の人は知っているでしょうが、信者で衆議院議員三人と参議院議員の人が一人居ましたが、毎月十六日にその人達と質疑応答をやる事になっているのです。政治界の事や社会のいろんな事を知る上において参考になりますし、先方も又現界の知識ではなく霊界の知識を大変に得ますから、面白いのです。私はその時こう言ったのです。なにしろ今の政治というものは見て居られない。それで政党を作ってもいいが、その代り信者で代議士が三十人以上できれば政党を作ると言ったのです。私が総裁になるわけではないが、誰かを立てて、その人を総裁にして相当にやってもいい、その代り無論選挙も別に変な事はするはずはないが、ただ印刷物をもって政見発表をするのです。あとは地域的に演説をするという、それだけで、外の不正な事は絶対にしないのです。そうして政党として行動する場合、間違った政策とか情実という事は絶対にしません。徹頭徹尾公平です。ですから反対党の方でも説が良ければ賛成するし、それから政府の案でも絶対に国家人民の幸福になる事なら賛成するという様にして、要するに模範的な政党にするのです。それが本当に分れば第一党になるかも分りません。何となれば人民の方で、“誰に投票しよう、どの党が良いだろう”という場合に、何党にしても安心のゆくものはないのです。“どうせ蔭では何かやるに決まっている、政権を握っても蔭では何をやるか分らない”と、絶対に信用のできるものはないのです。しかし若しこっちの方でやるとすれば、すべて安心のできる事をやるから、どうしてもこっちの政党に多数が投票する事になるから、かえって非常に多数の投票がはいって、或いは第一党になる時期が来るかも知れないと言ったら、大いに共鳴してましたが、或いは実現するかも知れない、というよりか、実現するでしょう。そうなれば本当に良い政治ができるわけです。今までは間違っていたのです。それで本当言うと選挙だけでは駄目なのです。いくら宗教が威張ったところで、とに角政府が監督しているのですから、政府が良い政府なら良いが、若し間違った政府なら、その宗教をやっつけるのはわけはありません。今は民主的になったから良いが、終戦前は政府の方では、ただ好き嫌いで決めてしまうのです。“あいつはどうも虫が好かない、ではやっつけてしまえ”と、何でも実に危ぶないものです。そのくらい宗教には力が無かったのです。これはむしろ古い時代には宗教の方がずっと権威を持っていたのです。それは坊さんというと大変な権威を持っていたのです。昔の坊さんというものは、天皇とか将軍、公方様よりも上におかれていたのです。ですから何かの場合に坊さんの言う事を聞いたり、坊さんの一言で決まったりするのです。なにしろ元弘の乱の時、北条時宗が禅宗のその時の有名な坊さんに教えを乞うて決心したという話がありますが、そのくらい尊ばれているのです。ところが明治以後の今日では非常に値打を下げられたのです。しかも新宗教とくると、まるでインチキものの様に見られ、今もって一般から軽蔑されているわけです。だからいくら宗教が良い事をして、無神論者に神を認めさせようとしても、政府が手伝わないどころか、むしろ無神屋の方に味方しているくらいですから、こういうものをだんだん直さなければいけないと思います。だから或いは神様の方では政治まで改革されるかも知れません。なにしろ如何に宗教が情ないかという事は、今は宗教は政治に関係しては絶対にいけないのです。最近は大分なくなって来たが、私が前に光新聞をやっていた時に、政治についてちょっと書いた事があります。そうすると、政治には絶対に干与するなという事を注意された事があります。しかし宗教家とは言えども政治家の政治の下に居る以上、社会人と同じで、政治に対して非難しても良さそうなものですが、いけないのです。ですから私は、書きたい時には寸鉄でいくらか気を吐いたわけです。それは宗教が政治に干与して非常な悪影響を及ぼしたという事は西洋にはあります。それはローマ時代には確かにあるが、日本にはそういう事は今までにないのです。それを直訳してしまって、そうして政治に干与すべからずという事になったのだと思います。だから何か方法をもって、宗教の一つの権威というものをだんだん作らなければならないのです。それにはやはり科学の上に行かなければならないのです。それで私は始終科学の方が宗教より下だという事を唱えているのです。ところがそういう考えを持つ宗教家は居ないのです。なにしろ皆が病院を作っているくらいですから、科学に負けているのです。しかしこっちはこれから、科学を下にするという様な仕事をして行くわけなのです。それで「結核信仰療法」なども、やはりその一つのものなのです。

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それから私は今「⇒墳墓の奴隷」という論文を書いてます墓所の奴隷というのですが、それはお墓にはいった人が作った宗教とか学問とか、文化的ないろいろな物がありますが、その中で役に立つ物は採用して続けて結構ですが、役に立たない物が沢山あるのです。そうすると役に立たない物を今有難がっているとすると、墓の奴隷になっているわけです。ところで宗教方面でもその墳墓の奴隷が多いのです。何百年何千年前に死んで墓の中にはいった人の教えとか、説いた事を、今有難がっているのです。それは役には立たないのです。それにお辞儀をしたところで病気はなおらないのです。それでも、なおると思って一生懸命にかついでいるのですが、それが結局墳墓の奴隷です。ですから古い役に立たない宗教を信じている人は墳墓の奴隷になっているのです。言い方は少し酷いですが、この方が一番はっきり分ります。そういう様ですから、新しい宗教と言えば救世教だけです。私が何時も言うとおり、今まであるものは私はやらない、何故と言えば、もうやってしまったのだから必要がないのです。ただ幾分改良する事がなければならないから、それは結構だが、しかし今までやった事がない事をやってこそ意味があるのです。そういうわけで私のやる事は何でも新しいのです。ただ新しいと言っても、前の物より良くならなければならない。前の物と同じか、それ以下のものだったら、やらない方が良いのです。前の物より良くて新しいという物を大いに作らなければならないのです。ところが口で言えばわけはないが、なかなか難かしいのです。人間というものは古いものに癖になっているのです。汚ごれた着物を着ているから、それは気持が悪いから新しいのをと言っても、まあまあと言って放っておきますが、それと同じ様なもので、良いとは知っておりつつも古い着物はぬぎ難いものです。だから救世教は確かに良いという事は分っていても、それに直ぐ飛び付く事ができないのです。しかし古い古いと言っても、宗教ばかりではないので、医学がそうです。救世教は確かに良い、しかし今まで飲みつけた薬を止(ヤ)めるのは決心がつかないという事は、今まで汚ごれて穴のあいた着物を着て満足している様なものでしょう。だから新宗教でも、かえって外の宗教の古いのにかじりついて満足している人も沢山あるのです。だから新しいものを、前のより良いのだから、早くこれを拝んだらいいだろうという事も、なかなか簡単にゆかないものなのです。今言った様に本当に新しい宗教は救世教以外にはないのです。外の新宗教は形だけが新しく出来たというので、内容は古いのです。丁度、救世教は新規に揃えた着物ですが、外の宗教は色抜きをして、染返しです。これは此処だから言えるのですが、新宗教の方に分る所ではあんまり言えません。そのつもりで、ただ心の中にしまっておけば良いのです。“君は大変良い物を着ているが、それは古いのだよ、染返した様なものだよ”と言えば怒ります。

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それから美術館は今年は去年とは余程変ると思います。それで箱根の宿屋や登山電車の方で早くしてくれと言って非常に頼みに来たりするし、それから又外の方でも大分評判になって来て、早く開いてもらいたいという声も大分あるので、四月二十一日に開く事にしました。そして特別展としてエジプト、ギリシャ、ペルシャ、インドの物を出します。中国のは無論ですが、去年とは大分違ってます。去年は陶器に絵画ですが、今年は銅器も出します。これはすばらしい物で、大抵二千年から三千年前後の古いのが多いのです。周時代と、その前の商、殷という頃の物です。そういう銅器も大分出ます。それから面白いのは、日本では西洋の古い骨董品は見る事ができないのです。というのは博物館はあれに手を出さなかったのです。これは前に帝室博物館、その次に国立博物館となったので、とに角日本の物を専門にしたのです。ただ支那の物は混ぜたくらいです。そこで外国の物までは手を出さなかったのです。ところが調べてみると日本にはそういう物がなかなかあるのです。それが今年になってから非常にはいってくるのです。私はそういう事には全然関心を持っていなかったが、不思議にはいって来るのです。それで神様がこの展覧会をやらなければいけないという意味なのです。それで一部屋だけそういう美術品を並べる所ができるわけです。もう三十点くらい集まりました。それでなかなか面白いのです。私はあんな古い物で、しかも西洋で、そんな良い物が出来るとは思わなかったのですが、すばらしい物が出来てます。なにしろエジプトの三千年前の物でも見るべき所があるのです。そういうのを陳列します。そして六月から浮世絵展をやるつもりです。今度出来る別館を主にして浮世絵展をやるつもりです。浮世絵も又去年の夏あたりから非常に集まって来たのです。ですから今までの浮世絵展としたら一番だろうと思います。実に良い物が集まったのです。ただ版画は私は最初にあんまり趣味がなかったので、割に数が少なかったのです。ところがこの間博物館ですっかり調べに来てくれて、私の方で足りない分は博物館のを貸すという事になってますから、とに角非常に充実した浮世絵展ができると思います。それから仏に関した物もなかなか良い物がはいって来ています。これらも神様がやるだけに実に不思議な品物です。多分出ると思いますが、日本一の物というのがはいってます。それは法隆寺にあるのより上なのです。これが民間にあったという事は不思議なのです。もっともこれは或る有名な寺の本尊さんです。やはり天平時代の物ですが、それと同じ物で法隆寺のはもっと小さいのです。私の方のは大きいのです。それは日本一ですから、無論世界一の物です。そういうのも出すつもりです。ですから仏像の中でも相当に良い物が出ます。それから現代の美術品はどうも人気がないので今年はやめるつもりです。そういう様で、去年よりも相当充実したものになります。去年はただきれいだったのです。全般的にわたった物をやったが、今年は非常に面白味がある展覧会になるだろうと思いますから、そのつもりで楽しみにしてもらいたいと思います。

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三月二十六日

「⇒アメリカを救う」「⇒結核信仰療法」と次々に出ましたが、つまりこれから、言葉は弱いが、いろいろな文化的のものを根本的に壊してしまうのです。そうして本当のものを知らせるという事です。これを一口に言うと、今までの文明は夜の文明です。つまり医学にしろ、農業にしろ、一切のものが電気とか行燈(アンドン)、それからガス、螢光燈というものだったのです。ところが太陽が出て昼間になると、そういう物は要らなくなるのです。それで大分明かるくなったにかかわらず、そういう物を有難がっているから“そういう物は要らない”“かえって物によっては邪魔になる物がある”という様な事を知らせるわけです。だから今まで長い間それで間にあったり、或いはそれあるために便利を得ていたというのが、全然駄目だと言われるので、びっくりして反対したりいろいろするのです。ですから呑み込ませるのになかなか骨が折れるわけです。それで今日結核について、どれほど人間が苦しんでいるかという事は、皆よく知ってますから今さら説明の要はありませんが、そういう様で「結核信仰療法」はなかなか売れるらしいです。これで困っている人は沢山ありますから……。そしてあれはただ本人が苦しむだけではなくて、家族の者でも知合いの人でも、伝染するとおどかされてビクビクしている、その哀れな状態などは見て居られないくらいです。ですからそれを大いに知らせなければならないというわけです。それで今までの文明というものは間違っている点が沢山あるのです。今病気に関して一生懸命にやってますが、これが一番の根本です。それから病気のない世界という基礎的の仕事をしながら、今度は外のいろいろな事もだんだんにやって行きます。二十三日、二十四日は教育の事について話し、昨日は政治の事を話しましたが、その外に経済とか社会問題とかもだんだんに知らせるつもりです。

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この教育については、いずれ救世教でも学校を作るつもりです。ところが文部省令と抵触するのです。というのは十二才から教育をさせるという事です。今までは早く教育をさせるために頭の良い人間が減るのです。おそらく今の人間くらい頭の悪いのはありません。その代り上面はばかに利巧になってしまったのです。というのは頭が発育しないうちに使い過ぎるわけです。まあ頭脳の酷使です。なにしろ人間、生まれて七つや八つでは、まだ頭が出来上がらないのです。中途半端なのです。ちょうど十ぐらいの人間に労働させるようなもので、あんまり子供のうちから労働させると背が伸びなくなるのです。頭もそれと同じで、頭が出来上がらないうちに使ってしまうから、それで発育が止まってしまうのです。本当の働きというものができないのです。ですから十二になってから学校を受けさせて、小学三年、中学三年、大学三年の九年で卒業できるのです。それから学問も、今は余計な学問を半分くらいやってます。医科大学とかやってますが、それは間違ったことです。その間違ったことに十年も十五年も無駄な努力をしているわけです。そういう事は無くなります。それは今こっちでやっている浄霊ですが、そういう医学というものは十年もたてば覚えられます。あなた方はそういう事を規則的に学校教育で教えられなくても、二、三年で分りますから、実に簡単なものです。それから法律も今のようなややこしい、第何百何十何条という事も無くなります。しかし聖徳太子の十七カ条ではあんまり簡単過ぎます。それはあの時代とは時代が違いますから、もう少し余計になりますが、今の法律の十分の一くらいで済みます。それから農科大学というものも必要ないのです。何にもしないで、土に種さえまけば良いのですから、農科大学という事も何も要りません。ですからまず学問の分量から言って、今の半分くらいで済みます。それから経済学も要りませんし、税法という様なややこしい事も要りません。そうすると半分以上学問は減ります。ですから九年でも多過ぎるくらいのものです。そうなったら、学校教育は半日くらいで良いのです。半日学校に行けば、午後は遊んでいて良いのです。午後はスポーツをやれば良いのです。そういう事もだんだんに書きます。

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そういう様で、救世教がやる事は宗教ではないのです。一口に言えば世界の文化革命です。それをやるについては宗教的にやるのが一番良いのです。一番やり良いのと、結果が良いのです。というのは根本である霊があるという事を知らせるのは、それは宗教的にもってゆくより外にしようがないのです。ですから宗教は、一つの宗教形式と言いますか、それを利用するわけです。だから救世教の中心は宗教的で、それを分らせるというのに浄霊で病気をなおすという奇蹟です。これが霊の実在を知らせるのに一番良いのです。という事は、もうこれより外にしようがないのです。それで病気がなおるという事が今の人の頭で言ったら奇蹟ですから、それで今度は「救世教奇蹟集」というのを、今編集してますが、これは霊の実在を教える手段なのです。そういう様でだんだんそういう事を知るについて、文化革命になるわけです。そのうちでも根本は医学ですから、医学革命というこれが一番大きな問題です。だから今度売り出した「結核信仰療法」は問題になるべきものです。けれども問題になるというが、その形がどう出るかという事は丁度戦争と同じ様なもので、平和の戦争です。武器を使用しない戦争ですから、先方はどう出るかという事です。なにしろ“医学が結核を作る”“結核は感染しない”“黴菌というものは根本原因ではない、結果だ”という様な事を書いてありますから、若しあれを見て医学が黙まっていたら、あれを認める事になります。容認する事になるから、どうしても先方は何とか言わなければならないのです。そうかと言って実例が百つけてありますから、それを読むと、自分の方はあれほどの結果は得られないのですから、先がこっちに攻勢に出るという事はできないわけです。そこでいずれ医師会や何かで皆が相談したりし、それから当局の厚生省あたりでも、何とかしなければならないというところまで、だんだん追いつめられて来ます。これはどうしても医学より救世教の浄霊の方が確かになおる、効果がある、そうすれば浄霊の方を一般に行わなければならない。そうすると医学を廃止しなければならないという事になります。そうかと言って、理論とか科学とか言ったところで、実際になおる方が良いのですから、向うでもだんだん研究し調査をする事になるでしょう。そうすると医学よりもずっとなおるという事が分ります。何時も言うとおり、百対一でも足りないのです。そうすると浄霊を採用するか、医学を採用するか、というところまで行きますから、政府でも徹底的に調査しなければならない事になります。そうしたら私はまず大病院に行って病人を片端から浄霊してなおして来ます。その場合でも、薬を沢山使ってある者はなおりが悪く、薬が少ない者はこのとおり早くなおるという事を見せますから、そうすると薬毒という事も分ります。これは私が行くまでもなく、私の弟子で沢山だと思います。それだけの効果を上げる事ができると思います。そうなるとどうしても浄霊を採用しなければならないのです。そうして医学の方を廃止しなければならないという事にまで行くわけです。又行かなければならないのです。それでもグズグズしていると、病人の方で医者の方に行かないで、皆こっちに来る様になります。ですから若しか先方が執着が取れないで頑張っていたら、自然に亡びるという事になります。そうなると浄霊をする人が何万人出来ても足りない事になります。今医者は全国で七万人ありますが、そうするとまず信者で浄霊を専門にする人が七万人は必要になります。しかしこっちは何年もかかつて学校で教育するのではないからわけはありません。そうなると浄霊医者になり手が沢山あります。それで一カ月卒業くらいでドンドン卒業させてやっていると、しまいにはそれが外国の方に知れて是非来てくれというので、浄霊教師を招聘(シヨウヘイ)する事になります。そうなると外国人が皆生徒になりますから、皆頭を下げます。それだけでも、とに角日本が世界を救い、日本人というものは一番優秀な国民だという事になりますから、日本人に全部頭を下げるに違いありません。いずれはそうなりますが、もっと手取早いのは自然栽培です。数年くらいたつうちにはドンドン増えて行きますから、そこで米の輸入をしなくても済むというので、救世教のお蔭だという事になって、皆頭を下げます。そうなってから今度は政治とかいろいろな仕事をするのです。さもなければなかなか信用しないのです。

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政治も、今の政治界のあり様を見ると、しようがないのです。悪く言えば皆お神楽でも踊っている様なもので、皆馬鹿踊りをおどっているのです。事実、吉田さんは“馬鹿野郎”と言ったのだから、馬鹿踊りに違いありません。ところが“馬鹿野郎良く考えりゃオレの事”で、吉田さん自身がやっぱり、“オレの事”だったのです。今度の総選挙にしろ、不信任案が因(モト)ですが、不信任案の可決というものは馬鹿野郎問題によって起ったのです。あれまではそうなかったが、あれからがうんと騒がしくなったのです。そうすると、それも前の総選挙から半年たつかたたないうちにやるのですから、国民の迷惑から国家経済から言っても、その費用も何百億というのですから大変なものです。少なくとも三百億は要るだろうと言われてます。その三百億というものはみんな国民の税金です。その税金は楽に出せるものではないのです。その負担も大変なものです。だからどっちが良いかは分らないです。そういう様ですから政治も改革しなければならないのです。この間衆議院議員が三人、参議院議員が一人と、幹部の人が居ましたが、その時言った事ですが、信者で代議士が三十人以上できれば、私は政党を作ると言ったのです。三十人以上なら交渉団体になりますから、発言権があります。その代りこっちの方針は本当の公明選挙です。看板だけではなく、やる事も公明選挙です。爪の垢(アカ)ほども不正はやりません。本当にやるのです。そして今の様なだらしのない事はしません。それでちゃんとこっちの政党の方針なり、候補者の意見なりを詳しく印刷した物を選挙人に配ります。それで若し場合によれば、大新聞でなくも中新聞をこっちの機関紙とするのです。昔は機関新聞というものがありましたが、今の政党では全然ないのです。それはいろんな事情があって経営できなかったりするのですが、本当は新聞に出さなければいけないのです。それで今新聞を機関紙としてやれないのは、本当の事をやってないから、思いきつて新聞に書けないのです。人のアラを探してやったところで、御自分の方も同じなのだから、堂々と意見を書く事ができないのです。それでどうしても新聞で政治教育もしなければならないのです。日本で一番困るのは個人々々になっている事です。人物本位で投票しろというが、これが一番いけないのです。第一、人物本位にしろと言っても、どの人が一番偉い人かという事は分りません。道路で自動車の中から“岡田茂吉、岡田茂吉”という様に言うが、そういう様に数多く広告する人が偉いかというと、むしろそういう事をするのは偉くないでしょう。そうすると誰が立派な人物かという事は分りません。又分るはずがありません。そこでアメリカの様に政党第一主義で、政党に投票するとなると、“わが党はこういう政見である”という事を言いますから、そこでその党の誰に投票しても良いのです。日本の様に人物本位というと、国民に対する罪です。そうかと言って、政見発表と言っても、この忙がしいのに聞きに行くのは大変です。それなら政見発表を文章に書いて出せば良いのです。私は前にこの事を書いた事があります。ですから誰がどんな意見を持っているか、誰が偉いかという事は見当もつかないのです。そこで名前を沢山呼ぶというやり方になるのです。又そういうのが効果があるのです。名前を沢山言った人は票数が沢山はいって、大抵当選するのです。しかしこんな馬鹿馬鹿しい事はありません。そういう事も、大いに政治の革命をしなければならないところです。だからいくら宗教が良い事を言って、国家社会に良い事をしようとしても、権力は政府にあるのだから……。この頃は民主的になったために大分良くはなったが、それでも宗教は政治に干与すべからずという不文律があるのです。前に注意された事があります。政治的の事を光新聞の頃に書いた事がありますが、“にらまれますから、これはやらない方が良いです”というのです。それで私は寸鉄に書いたのです。論文ではいけないが寸鉄なら一種のユーモラスでごまかせますから……。そういう様で政治というものは世の中を良くし人類を救うには肝腎なのです。しかしこれはローマ時代からずっと宗教の方が権威を持っていたために大変な弊害があったので、それに懲りて政教分離という政策をとったのですが、日本などにはそういう事をする必要はありません。それはローマ法王という様な人が威張った時代には、コペルニクスやガリレオの地動説は、宗教のためにやられてしまったのです。そしてその時分には宗教裁判と言って、裁判も宗教の方でやったのです。そこで憲法政治になってから、宗教はくちばしを入れられない様になったのです。しかし今日はそういう心配はないのだから、相当に宗教家に口を出させるのが良いのです。又宗教家は間違った変な事をしたり、変な事を言ったりする事はありません。ところで今宗教家に干与させないのは、宗教家は正しい事をやるのに、自分の方は正しくない事をするからという意味ではないかと思います。政界演説の様になりましたが、信仰する上において、そういう事も知っておかなければなりません。今にだんだん信者が増えるうちに、代議士や参議院議員の希望者が増える様になりますから、そうなったらその人に投票すれば結構です。早くそうなれば良いと思います。

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その話はこのくらいにして、美術館についてちょっと話します。美術館は別館があらかた出来て、普通は去年と同じに六月から開館するつもりだったのですが、箱根の旅館や電鉄の方で、早くやってくれと頼むし、その外にもそういう要求を時々耳にしますから、四月二十一日から開館します。それでこの特筆すべき事は外国の古美術です。エジプト、ギリシャ、ペルシャ、インドなどの物が大分集まったので、一室だけはそれを並べようと思ってます。こういう展覧会というのは今まで日本にはないのです。というのは博物館は手を出さなかったのです。それで今は後悔している様です。前には帝室博物館というので、要するに宮内省の管轄でしたから、どこまでも日本的で、国粋主義が旺盛ですから、美術は日本に限るというので、あんまり外国の方に目をつけなかったのです。そのために外国の古美術という物は日本人の目に触れる機会がなかったのです。又個人も手を触れなかったのです。ところが日本には割合にあるのです。それは不思議ですが、いろんな妙なことではいって来たようですが、又その古美術になかなか良い物があるのです。ところが不思議にも今年になってからドカドカはいって来たのです。それは神様がやられているのですが、そこで神様がやれということと思ったので、それを特別展覧会として陳列するわけです。そうして六月からは浮世絵展ですが、これもすっかり品物が集まって、私の方にない分だけは博物館で貸してくれるそうです。この間博物館から来て、すっかり調べてくれました。そういう様にこの浮世絵展は、今までに何回もありましたが、今までにない傑出した展覧会になります。ですから外国のそういった鑑賞家も日本に相当居ますから、そういう人は非常に期待を持ってます。この間英国大使館の参事官で、ブルームという米国人で、その方では大変な識者ですが、見たいと言って私の方に来たので見せてやりましたが、非常に驚き、又褒めてました。そして自分が外国のそういった人に大いに宣伝するからと言って、自分は一週間に一回来て見せてもらうという様な事を言ってました。その人は一旦アメリカに帰って六月とかに又出て来るというのです。この人は美術館について将来大いに働くのではないかと思ってます。そういう様で六月からの浮世絵展は相当評判になるだろうと思ってます。

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三月二十七日

春の大祭は今日でおしまいになりますが、大体去年より三割くらい増えてます。これでまだ制限しているのだそうですから、普通ならもっとずっと多いわけです。この分で行けば来年はもっとずっと増えますから、そこであのメシヤ会館が丁度良いというわけになるので、神様のやられる事ですから、すべて調子良くうまく行くわけです。やり損(ソコナ)いや予想に違うという事はないわけです。それで考えてみますと、とに角本当に宗教法人として大手をふって宗教をやれる様になつたのは二十二年八月ですから、この八月で満六年になるわけです。今は五年数カ月、約五年半です。それで最初の二十二年八月当時は、信者というのは精々四、五百人ではなかったでしょうか。面会の時など、百人から二百人を越すと随分来たと言ってましたが、それから僅かの間に、とに角新宗教のうちでは断然王者たる様になったのです。これはひとり良がりでなく、世間がそういう様に見る様になったのです。なにしろ発展性の早い事は驚くべきものだと思います。しかしその間には、税問題とか一昨々年の問題と、いろいろな目にあいながら、それに屈せず、とに角発展しつつあるという事は驚異です。ですからああいう様な事がなかったら今頃はどんなに大きくなっているか分りません。あれで随分妨げにはなりましたが、しかしその代り締ったというか、根強くなったという事は、かえって将来には良いわけです。ただ棒の先の狸のアメみたいに、ふくれるばかりが良いのではないので、やはりしっかりと固まらなければならないのです。それは神様が良い工合にやられているのですから結構ですが、話をしてみればそういう様です。ですからすべてこれは何事でもそうですが、拡がるという事は、大きくなればなるほど非常に速度が早くなり、大きくなるのです。たとえてみれば百人が倍になると二百人で、百人増えただけですが、千人が倍になると千人増えた事になりますから、数字から言うと大変な違いになります。しかも昨年までは裁判問題がひっかかっていて、これは一つの黒雲みたいなものですから、雲がのかない限り太陽の光が鈍る様なもので、そういう雲が無くなれば光を思いきって照らしますから、発展の力が強いのです。ですからこれからは目覚ましい発展期になると思います。

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最近ハワイに樋口さんが行ってやってますが、非常に成績が良いのです。面白い様に信者ができるので、むしろ一人では手が廻らずに弱っているくらいです。そうして大体ハワイの基礎を作って、五月にロスアンゼルスに行く予定です。あっちに行ったら、なにしろ又国が大きいですから、一、二年もたてばアメリカなどに相当に注目されるくらいに発展するだろうと思ってます。ですからアメリカ方面の場合は大いに希望を持てますが、アジアの方はモヤモヤした物がまだとりきれませんから、そこで朝鮮から中国の方に大掃除をして、こっちがやるのに都合の良い様にゴミ流しをしてくれるという事を待っているわけです。それで朝鮮の方もいずれ南北合併になりますが、そうなってからやるという準備は神様の方にはちゃんと出来ているのです。今発表する事はできないが、神様は実に行き届いたものです。ですから朝鮮は、やる気になると、とても早いのです。朝鮮全土に救世教が拡がるという事は、そう難かしくはないのです。これはその時になるとびっくりします。なるほど神様は深謀遠慮だという事が分ります。

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それから出版ですが「⇒アメリカを救う」は大分結果が良くて、まだ売れている様です。これは大体アメリカが目的ですが、日本は手近ですから、ついでといった様なわけでやっているのですが、成績は大分良いです。それで今度の「⇒結核信仰療法」は「アメリカを救う」以上に売れるだろうと思います。これは救世教信者ができる上において、今に大変な力になると思います。なにしろ肺病は多いのですから、この人達がこっちに縋って来る様になると、それはとても大きな発展力になるわけです。それから「⇒自然農法解説書」も近く出版になります。これは講読者たる農民は一番多いのですから、農民の数の一割が買ったところで大変なものですから、何百万と売れるわけです。それで結局農家一軒に一冊という様になるまでにしたいと思ってます。これは全国的に支部でも出来て、そこで売る様になると随分買う人もあるだろうと思います。それで値段も五十円ですから、五十円というと子供のアメ玉でもそのくらいはしますから、普及力も非常なものでしょうと思います。それからその次に発行するのは「救世教奇蹟集」です。これは大体出来上りましたが、すばらしいものです。おそらくこれを読んでじっとして居られる人はないくらいに驚異的なものです。論文も書きますが、奇蹟も今までに栄光に出たのを又読み直してみると、あまりに素晴らしいので全然新しい様に思われるのです。これは今までは新聞一枚に一つか二つ偶に出るくらいなものですが、その奇蹟を並べてみると実にびっくりするくらいのものです。それでこの本は勿論英文にして世界的に、ヨーロッパ方面にまで配布するつもりです。これを読んだらキリストの奇蹟というのは、実際ハナクソみたいなものです。ですからこれだけでも世界中の人達が驚いてじっとして居られないだろうと思います。「アメリカを救う」の英文は飜訳はすっかり出来てますが、出版は来月か再来月になりそうです。これはアメリカで大いに問題になるだろうと思ってます。勿論「結核信仰療法」も「自然農法解説書」もやはり英文にして世界的に配布するつもりです。こうなるとどうしても世界を相手にして仕事をするという形に自然になって来ました。よく調べてみるとヨーロッパ方面も英文で結構だそうです。何処の国でも英文なら大抵読めるそうですから、全部英文にするつもりです。それでだんだんやって行くと、宗教つまりキリスト教と対抗する様な形になって行くわけです。一番脅威を感ずるのはカトリックです。こっちが発展して来るに従って、これが大変だろうと思います。本元はローマ法王ですから、このローマ法王を押さえる方策と言いますか、それはこっちにありますから、最後に行ってローマ法王にうんとお辞儀をさせるつもりです。それはもう大丈夫です。なにしろ神様のやる事は早いです。早いと言っても二年や三年では駄目ですが、とに角十年以内には実現すると思ってます。そうでなかったら、私があんまり年を取ってしまっては間に合いませんから……。私は九十までは活動する予定ですから、まだ二十年はやりますが、その間に世界中を全部済度しなければならないわけです。そういう様で結局において、今までの宗教やキリスト教が拡がったという様な、そういうものとはまるっきり違うのです。つまり世界的の文化革命です。今までこれだけ発達して来た文化が、進歩発達したには違いないが本当の発達の仕方ではないのです。ですからこれの良い所だけをとって、悪い所を切り捨ててしまうというわけです。大ざっぱに言うとそういうわけです。話で言うと何でもない事ですが、切り捨てられる方は大変な騒ぎです。医学などは結局切り捨てられるより外にしようがないのです。そうかといって、人間を切り捨てるのではないので、医学という間違った学問を切り捨てて、本当の事を教えるというのですから、これは文化革命です。そしてこれは非常に大きなものです。今までいろいろな革命があったが、それは一部のものです。というのは、つまり夜の世界、夜の文化なのだから、行燈(アンドン)やローソクという物は邪魔だから止(ヨ)してしまうというわけです。そこで今度昼間の太陽が出て、世界人類にその光を恵むわけです。そうなると夜の文化はいやでも暗闇(クラヤミ)に隠れたり、暗闇を利用して間違った事をやっていた事が駄目になります。つまり今までの文化はパンパンガールみたいなものです。昼間になると出られないのです。あれは夜の闇を利用して商売しているのです。それから泥坊といった様なもので、闇を利用してやるのです。そこで闇が無くなり、間違った事や変な事は少しもできないわけです。ごく分りやすく言えばそういう様なものです。ですからこれは今までの革命の様に人間の考えで計画する事とは全然違うのです。これは霊界がそういう様になるのですから、そう骨折らなくてもちゃんと出来てしまうのです。だから仕事は大きいが、楽で骨が折れないのです。むしろ楽しみ楽しみやれるのですから大変有難い事です。

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それについては、病気を無くし、自然農法によって主食を増産するという事以外に、だんだん政治、教育、経済、社会制度とか、生活上のいろいろな事についても革命的に書いて行くのです。それで病気の論文を私は書いてますが、その次にはそういった論説を書きます。政治にしても、政治というものは宗教と非常に密接な関係があるのです。いくら宗教で人を助け様と思っても、政治が悪かったら壊してしまいます。いくら病気のない犯罪者のない貧乏人のない世の中にしようとしても、政治が悪いとそれを壊してしまいます。実際上、今は壊しているのです。だから政治家は誰でも知ってますが、政治界というものは、特に日本のは酷いです。つまり自分の名誉とか党を良くしようとして、人民の事はまるで忘れているのです。最近の自由党の内輪(ウチワ)もめでも、広川がどうとか、鳩山がどうとか言って、国民には直接に何の関係もないのです。要するに国民は、そういう事はどっちでも良いので、本当に良い政治をしてくれれば良いのです。ですからあの人達が自分というものを無くして、良い政治をするという事だけを頭においておけば、内紛というものはすぐ解決するのです。あれを見ていると丁度昔のヤクザと同じです。あいつの親分はどうとか、あの親分は金を集めるのがうまい、だからあれについて居れば間違いないというのです。丁度昔の、群馬県地方に居た国定忠次、大前田英五郎というのが、丁度今の政治家と同じ様にみえます。清水次郎長となると、ちょっと居ませんが、笹川繁蔵、飯岡助五郎となると居ります。ですからこういう面も大いにきれいにしなければならないのです。この間信者の、衆議院議員が三人と、参議院議員が一人と、幹部の人といろいろな話をした時に、教団も信者で代議士が三十人以上できれば私は政党を作ると言ったのです。そうしてその議員は決して悪い事や間違った事はしないのです。ですから選挙でも、本当の公明選挙です。これについては、今「公明選挙を嗤う」という論文を書いてます。栄光に出すか、外の日刊新聞に出すかは分りませんが、とに角面白く書いてあります。公明選挙というのは看板だけでは何にもならないのです。誰も公明選挙をやる者がないのですから、これは希望だけのもので、実際に行われるものではないのです。何となれば了簡(リョウケン)方が間違っているからです。丁度ずるい奴の、スリか何かに対して神仏を拝ませる様なものです。形は手を合わせても、今度はどういう様にして懐から盗ってやろうかという事を考えているのです。本当に正直に言えばそんなものです。だから政治も、大いに浄化をしなければいけないのです。それには今言った様なやり方をして、党なら党というものは反対党という事は全然考えないで、外のどの政党でも、国民の利益になる立派な良い事を言ったら賛成する、私というものが少しもない政党を作る必要があると思います。そうなるとかえって大きな政党になります。何故と言えば、国民一般というものは今度の総選挙についても、誰でも誰かに投票したいと思ってますが、この人はと思う人は居ないのです。よく新聞などに“この人はと思う立派な人に投票しろ”と言いますが、では一体どの人が立派な人かという事は実際には分りません。おそらく新聞記者も分らないでしょう。実際立派な人という事が分らない証拠があります。それは町の中で名前を怒鳴ってますが、それは誰を投票してよいか分らないから、名前を数多く言うのです。それで誰でも“分らないから誰でもいいや”という事になるから、名前を沢山言ってあると覚えやすいから、それがはいるというわけです。偉い人でも名前を沢山言ってないと当選率が少ないのです。ですから名前を沢山言ってあるほど当選率が多いのです。それをみても、誰を投票して良いか分らないという国民の心理が良く出てます。あれをみると、名前を余計言う人が偉いという事になりますが、そんな事ではしようがありません。それでは演説会はとなるが、この演説会に人がはいらない事がおびただしいのです。中には数人しかはいらないというのがあるそうです。又この忙がしい時に聞きに行くというのは、余程の暇人でなければ行きません。まあ隠居とかでなければ……。ですから政見を書いたパンフレットの様な物を配れば良いのですが、それすらやらないのです。ですから私も、投票しようとしてもどうしても棄権するという事になります、誰を入れてよいか分りません。そこからみると、アメリカ、イギリスなどは政党は二つしかないのですから良いです。アメリカなら民主党に共和党、イギリスなら労働党に保守党です。そこで政見を発表しますから、あの政党はこういう政見を発表しているから、オレは気に入ったから、あれに入れ様となって、誰に入れても構わないのです。ところが日本は逆で、新聞などでは人物本位に投票しろと言ってますが、それは嘘です。それで党の政策を言って本当にやっているのは改進党くらいでしょう。とに角五大政策と言ってはっきりしてますが、外ははっきりしていないのです。社会党や自由党も政策を出してますが、二つにも三つにも分れているのですからしようがありません。そこで政策と言っても、ますます小党分離の様で、思いきった政策はできないのです。ですからフランスの様になります。フランスは可哀想なものです。昨日の新聞を見ても、それがために財政が困難になって、政府は破産しやしないかと言ってます。根本がそういう様ですから、日本でもどうしても二大政党にもって行くよりしようがありません。それでは日本は何故そうならないかと言うと、結局において人物が無いのです。多くの者を押さえるという人がないのです。吉田さんは相当長い間そういう様にやってましたが、大分盛りが過ぎたと見えて、それで馬鹿野郎という事になったのです。こうなると吉田さんは引退するのが本当です。しかしまだ執着があって、何とかしようとやってますが、かえって余計悪くなります。ですから今度自由党が第二党になるとかすると、目もあてられない事になります。政治論の様になりましたが、昨日は教育の事を話しましたが、それはいずれ話すとしましょう。

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今年の美術館は四月二十一日に始める事になってます。これは箱根の宿屋とか電鉄が去年は六月からだったが、是非一月早くして貰いたいと頻りに頼むし、その外の方面でも是非早くして貰いたいという声もあるので、大分知れて来た様ですから、一般社会も今度始ったら行って見ようという人が大分多い様ですから、五月から始めます。そして去年と同じ物を並べるのは面白くないから、丁度今年あたりになってから西洋の美術品が非常にはいって来たのです。それは勿論私はそういう事は考えもしなかったのですが、神様がさせ様と思って、はいって来るのです。それはエジプト、ギリシャ、ペルシャ、インドという方面の美術品で、なかなか面白くて良い物もあります。それについて二、三日前に上野で光風会という油絵の展覧会をやってますが、この会は一番古いでしょう。私の方に、ギリシャで出来た石造りの弓を射っているのがありますが、それからエジプトの黒い壺で非常に良くて面白いのでありますが、その二つを是非参考品として貸してもらいたいと、その人が三度も頼みに来たそうですから、私は承知したのです。これは日本の画家はエジプト、ギリシャの物に非常に憧がれているのです。それを一室にあて様と思ってます。それから仏に関係した物でなかなか良い物がはいったのです。それもあんまりお寺美術みたいに仏臭い物ではなく、要するに美術的の仏像という物が大分集まりましたから、そういう物を出すつもりです。そういう様で去年とは面目一新した物になるだろうと思います。それから六月からは浮世絵展をやります。今までにも方々で浮世絵展がありましたが、それよりも断然上の展覧会になります。又浮世絵も非常に良い物がはいってます。これは世間から相当に注目されて、非常に待っている人もあります。この間博物館ですっかり見てくれて、私の方にない物は博物館の方で貸すそうですから、非常に充実した物になると思います。浮世絵展は六月一日から始まりますから、信者さんの方は五月二十五、六、七日の時に先に見せる様にする予定です。それで浮世絵は日本に居る外人が大分希望しているのです。この間も英国の大使館の参事官をしているブルームというアメリカ人で、その方ではなかなかの研究家で有名な人ですが、この人がこれから大いに援助するという様な事を言ってましたが、今度は相当外国にも知れると思ってます。

(教二十号  昭和二十八年四月十五日)