040 祭事篇 第三篇 祭式

御神体に幽世大神と唱える事

“御浄霊の際、天津祝詞の後に五六七大御神守給へ幸倍へ給へ、惟神霊幸倍座せと申し上げて宜敷う御座いましょうか。尚霊的の様に思われます様な場合には、幽世大神守給へ幸倍給へ、惟神霊幸倍座せと申し上げて宜敷う御座いましょうか。御伺い申し上げます。

“御神体に向っては幽世大神は絶対にいけない。五六七大御神の一部が幽世大神である。幽世大神と唱えるのは五六七大御神を侮辱している事になる。霊的の病人に向ってなら構はない。(S25・5・18)

御神体拝んで仏界へ通じるか

“大光明如来様に善言讃詞、御讃歌を奏上すれば仏壇の方へは奏上しなくともよろしいと承りましたが、神界と違ふ仏界にいる先祖に、どうして通じるのでせうか。

“観音様は神で仏でどっちへでも通ずる融通無碍で、融通菩薩の御名もある。(S24・6・3)

御屏風御観音様と光明如来

“先祖の御霊をお祭りするのに光明如来を御迎へし、一方仏壇に千手観音様を御迎へして先祖代々の位牌を御祭りする意味を御教へ御願ひします。

“同じ事で、お名前でお働きが違ふ。光の働きの時は光明如来。種々な救ひとか、悪魔の手にあったいろいろのものを取戻すのが千手観音のお働きである。  (S24・9・6)

御尊影と御神体の礼拝

“一  私宅では大光明如来様の御尊像と同じく御書体とを奉斎しておりますが、床の間は一つしかありません。此の場合には孰れをお掛けしてお祭りすべきものでしょうか。而してお納めした一方を他にお掛けする適当な座敷が無い時は同一の座敷の違棚にお掛けしてもよろしいでしょうか。又は箱にお納めして床の間に置くべきでしょうか。

二  私の家では朝礼に際し、大先生を神の前立として先ず大先生の御写真に向って御礼を申し述べてから大光明如来様を礼拝しておりますが、順序はそれでよろしいでしょうか。

“一、御書体の方を掛ける。

二、大先生を後にする。  (S24・10・5)

不時の際お願いの御称号

“暴風雨や火事の時、御神前で祝詞を奏上させて頂きますにはみろくの大御神様に御願ひ申し上げるので御座いませうか。それとも祓戸四柱の大神様に御願い申し上げるので御座いますか。又はみろくの大御神様と祓戸四柱の大神様ともに御願ひ申し上げるのがよろしう御座いますか。御教へを御願い申し上げます。

“直接の御守護ではなく、下の働きの神様にお願いすべきである。光明如来様にお願いすべき事である。  (S24・9・12)

幽世大御神か幽世大神か

“幽世大神と幽世大御神と何れを申し上げるので御座居ませうか。右御伺ひ申し上げます。

“大御神は最高の神になる。大御神といふ要はない。幽世大神でよい。(S25・3・18)

神・死者への礼節

“お葬式に参列の後で用足しをしたり御墓参りをしてはいけないという理由。

“お葬式とか婚礼とかは人生の重大な儀式であって、参列したらそのまま帰るのが死者に対する礼節である。よく死穢といって、死者の傍へ寄ると、死者には汚れがあるから汚れるというが、これは大した事はない。礼節は大事な事で、教導師が他家へ浄霊に行くにも、他所へ寄って用足しして浄霊に行くと効果が薄い。之は主客転倒であるからである。之は用足しを後にすべきで、神様にお詣りするにもお詣りを先にする。それから他の用を足すのは構わぬ。それが神に対する礼である。  (S23・11・1)

冠婚葬祭と天候

“冠婚葬祭の折の天候の良否はその人の御霊に関係がありませうか。又家屋の上棟式の場合の天候もその家屋との霊的な関係がありませうか。

“冠婚葬祭は天気の良い方がよい。上棟式は寧ろ降った方がよい。私が箱根に行く時は必ず雨が降るし、熱海へ来る時は照る。早雲寮の上棟式は猛雨であった。箱根は火であり火は水によって強くなる。(S23・11・22)

本教の冠婚葬祭式

“本教団の信徒にて法要、葬式、結婚式をいたしますには如何なる方法で致せばいいでせうか。御伺ひ致します。

“今迄通りでいい。何れは特別の方法が出来る。(S24・11・7)

冠婚葬祭の本教様式

“何れは形式を作るが、今の所坊主や神主に頼むとよい。(S23)

例祭日の早延、神定を乱す事

“私は去る一月より開拓に出掛けた為、分会長先生の例祭を三月にして戴き四月二十六日に会長先生に例祭をして戴きました処、新しくて割目のないコップの底が抜け三宝の上に約二分程の厚さに水が拡がりましたが、同じ三宝にお祭りしてあります屏風観音様は全然濡れなかったのですが、何かお知らせでしょうか。

“定めた日より早くするのはいいが、遅くなるのはいけない。その為である。凡て神仏に関係した事は、早くするのは良いが遅くするのはいけない。本当は早過ぎるのもいけない。例祭と定めた日は必ず守らなくてはいけない。絶対にその日と決めれば必ずそうなるものだ。故障は起らぬ。薄弱な考えは邪神に隙を与え、邪魔される。固く決心する事である。屏風観音様は必ず仏壇へ入れねばならぬ。決めた所へ祭らねばならぬ。神様が決められた事を人間が乱すのは、人間が上になる。神様の月次祭は、その日の場合、一日早くするのはいい。

祭日の延期

“十月十日に私の村に徳山神社のお祭りがありましたが、雨の為十一日に延長され、十日には本殿の扉が開きましたのですが、十一には開こうとしても開かず明朝に至るもあかなかったのです。何か霊的に関係があるものですか。

“大いにある。十日のお祭りと決っているものは、雨でも風でも、今後絶対に実行しなくてはいけない。九日にするのは構わぬ。早いのはいいが延ばすのは非常に悪い。霊界は非常にキチンとしていて、出鱈目は許さぬ。(人間が延ばすと神様の仕事がおくれる。人間と違い、神様の御仕事は規則正しい)御仕事がおくれると一日の狂いが十日も遅れる事になる。今後は絶対にせぬとお詫びすればよい。(S23・10・17)

供物と器―白木と塗り

“神様の御用の為の三宝は塗り物でも宜しいのでせうか。右御教示御願申し上げます。

“三宝は、神様の場合は白木が本当である。土器も素焼でなくてはいけない。つまり、神様は極く古い時代、何千年前か何万年前人間の姿で現界に生れた事があるので――。霊界に長く居て、今以て人間として生れぬ神様がある。そこでやはり神代時代に地上で生活した。その時の行り方を知っている。そういふ意味から、どこまでも神代時代の器物を使ふのである。必ずしもそれでなくてはならない事はないので、供物は凡て神様の方より人間の方で気持がよいといふ意味になる。仏の方は凡て塗ったものがいい。三宝でも塗ったのがあるが、之は大黒様などには、之で上げるといい。

仏で拍手せぬ理

“神前にては拍手致して参拝致しますが、仏前にては拍手をせず参拝致します。その理由を御教示御願い致します。又仏壇の鐘を二つ鳴らす意味を御説明御願い申し上げます。

“仏の形式は印度で出来た。釈迦が元祖である。仏といふものは消極的で、仏教を徹底さすと隠遁生活になる。男女同権といふが、仏教では、外面女菩薩、内面女夜叉といふ。山岳仏教といふのは(役の行者など)女人禁制で、最近漸く禁を解いて登った。その位消極的であるから、拍手などは釣り合はぬ。陰―死―仏道。陽―生―神道。生れた時は産土へ詣る。さういふ点が拍手にも関係する。鉦は、霊は仏界であるから、二つでいい。神道でも二つ。五六七の体がない。(S24・10・16)

祝詞奏上と拍手

“祝詞の場合、日月地の大御神……、惟神霊……、とおあげいたしますか、それとも日月地の大御神……、大光明如来……、惟神霊……とおあげいたしますか、又お仏壇にお詣りの時、祝詞又は善言讃詞の後に、幽世の大神守り給へ幸へ給へと申し上げるのですか、其の場合拍手は三拍手でせうか。

“光明如来から日月地大神になられる。光明如来は仏である。仏は夜になるから、夜は大光明如来の御名を称へる。神様は朝になるから神名は朝お称へする。そしてお祈りの時は両方奏上するのである。仏壇は「幽世大神守り給へ幸へ給へ」だけでよい。祖霊を拝する場合の拍手は二拍手である。体がないからである。人間は神幽現の三界に呼吸しているからすべて三つになるが,祖霊の場合は神幽のみになる。今迄は四拍手であった、これは夜の世界であったので日がなかった。それを今度は日が出て昼になったから三拍手となる。

礼拝及祝詞奏上に就て

“一、霊的症状の患者に天津祝詞を上げて良いともれ承りましたが、祀事の際、天津祝詞を上げても宜しいのでございましょうか。

二、霊的症状の時は天津祝詞のみで宜しいのでありましょうか。

三、礼拝の時、一揖二拝三拍手一拝その型から祝詞奏上、終りに平伏より戻り三拍手二拝一揖、続いて一揖二拝三拍手一拝その型より善言讃詞奏上、終りに平伏より戻り三拍手二拝一揖、続いて一揖二拝一揖御讃歌奉唱一揖二拝一揖。現在右のように致して居りますが宜しいのでございましょうか

四、御讃歌奉唱の時も三拍手致す可きでありましょうか。

五、天津祝詞奏上の場合は終りに「日月地大御神守り給へ幸倍給へ」と奏上致して居り、善言讃詞の場合終りに「大光明如来守給へ幸倍給へ」の箇所は奏上致して居りませぬが理由が御座いますのでしょうか。

六、仏前(朝夕)「幽世の大神守給へ幸倍給へ」のみ奏上致し、祀事の場合善言讃詞の奏上は宜しいのでございましょうか。

七、仏前への拍手は致して宜しいのでございましょうか。

“一、天津祝詞を奏げてよろしい。拍手はもっと静かにすべきである。経験上信仰の強い人は静かに打つものである。近所の耳障りにもなる。軽くソッと打つ。

二、天津祝詞のみでよい。

三、敬意を失せぬ程度でよい。神道ではないから神主的に丁寧にやればよい。

四、御讃歌の時は、拍手はなくともよい。

五、大光明如来と申し上る。

六、やらなくてもよい。

七、仏壇へ向っては、大光明如来守り給へ……二度、幽世大神……二度(S24・6・3)

御神名の唱へ方

“朝夕の御礼の時、大先生が御先達下さいました頃は御神名奏上の時、例へば『大光明如来守り給へ幸へ給へ』と一度切って一息ついてから又『大光明如来守り給へ幸へ給へ―』と最後の語尾を引いて非常に荘重な感じで御座いましたが、只今は是を、「大光明如来守り給へ幸へ給へ、大光明如来守り給へ幸へ給へ」と一息に奏上する為息苦しく、自然御神名奏上に成ってから早口に成り、最後の語尾もポッキリ切って終ひ非常に忙しい感じで荘重さを欠く様に感じますから以前の様に奏上させて頂き度いと存じますが如何で御座いませうか、御伺ひ申し上げます。

“何度でも切ってよい。楽にすればよい。敬しく、敬虔の気持でやればよい。(S24・12・23)

祝詞と讃詞と時間

“朝は高天原祝詞、夜は善言讃詞を上げて居りますが、此の場合時間的の区分はないものでせうか。又其の訳を御教示御願い申し上げます。

“時間的な事はない。神は朝、仏は夜、仏教は夜の世界である。日本は日の本、朝の国で、宮中の政治の会議は朝行ったものである。日本画は朝日をかき、油絵は夕日をかく。う(S23・8・8)

朝夕拝と仏前の唱え言

“月例祭及朝夕の礼拝と御仏前の礼拝に就きまして口頭にて御伺い申し上げます。

“朝拝は天津祝詞、夕拝は善言讃詞でよい。仏前へは幽世大神守給へ幸倍給へ、惟神霊幸倍座世だけでよい。(S24・6・9)

御簾と礼拝(礼拝は霊の掃除)

“御軸の前に御簾を備へつけて朝は上げ、夜は下してもよろでせうか。その場合夜の礼拝と月例祭の時は御簾を下げたままで宜しいうか。

“それでよろしい。上げなくてはいけない。朝夕の礼拝は霊の掃除である。(S23)

礼拝の二拝

“御礼拝の際の二拝はどういふ意味で御座いませうか。

“本当は三拝が本当であるが略して二拝にする。拍手さへ三つ打てばそれでいい。二拝して軽く一拝する。一揖二拝、之が正しい。九になる。ミロクの礼拝。

礼拝時の雑念

“光明如来様にお参りして無念無想の気持で善言讃詞及御讃歌を奉唱しようとしても、雑念が浮んだりアクビが出たりして一心になる事が出来ません。これは邪神の邪魔があるのでしょうか。又は家庭の曇りの為でしょうか。本人の曇りが多い為でしょうか。いづれにしても如何したらいいでしょうか。御教示下さい。

“斯ういう考え方は大変な間違いである。人間はあるがままでいい。大乗でなくてはいけない。無念無想は無理である。特に祝詞を奏げる時は雑念が浮ぶ。浮んではいけないと思うのが雑念で、そんな事思わぬのが無念無想である。雑念はそれでいい。やむを得ぬ。  (S24・11・18)

礼拝中温かくなる

“朝夕の御参りの際に祝詞、善言讃詞が済み御讃歌を奉誦させて頂いて居りますと、下腹部からボーッと熱く全身がほてって来ますがどういふ解でございませうか、お教へ下さい。

“光明如来様から御光を戴くのである。  (S24・11・7)

外泊地での遙拝

“外泊して其の家に御光明様の無い時は、東に向ひ念彼観音を三唱二回いたして居りますがそれでも宜敷う御座居ませうか。

“これでよろしい。(S24・10・28)

開拓の為御祭出来ぬ

“現在京都市に居住し光明如来様を御祭させて戴いて居りますが、家族三名にて母と私は他府県に開発の為出張、妹は教導所の方に泊り込みで御奉仕させて戴いて居ります。その為家族皆留守の事とて光明如来様の日々の御祭もさせて戴けません(月一回程帰ります)が、此の様な場合如何させて頂いたら宜しう御座居ますか。御教示下さいませ。

“開拓の為に留守になるなら反ってお喜びになる。お断わりしておくとよい。(S25・2・17)

拍手の強弱

“礼拝の折、拍手は強いのと静かと何れが宜敷いでせうか。

“静かな方がよい。強く大きく打つ人は信仰が薄い人が多い。体的の考へになるんだと思ふ。形式を尊ぶから、大きく打つのである。体主霊従になっている。(S24・6・19)

拍手の数

“御神前の御挨拶は三拍手で、祖霊様の御挨拶は二拍手ですのは如何なる訳でせうか。御伺ひ申し上げます。

“神様は三拍手、祖霊は体がないら二拍手。大黒様は土の働きをするから三拍手である。

礼拝時の掌の向

“礼拝の節、掌を上向にする事。又は両掌を下向に揃へ若しくは同じく下向にして両手の拇指と人指指で輪を作りて御辞儀を致す様式が御座居ますが、私共としてはいづれを用ゆべきでせうか。

“足で踏む場所へ両手を下向につくのは汚してよくない。上向の方がよい。(S23・12・2)

合掌小指離れるのは

“合掌する時等小指が自然に離れる人が御座いますが、これには何か意味が御座いましょうか。御伺い申し上げます。

“観音様なども離れているが、別に意味はない。(S23・12・1)

礼拝時の掌

“礼拝の際、両手を付けて礼をする人と、笏を持ったような恰好で礼拝する人とがありますがどちらが本当でしょうか。

“どっちでもよい。(S24・6・25)

願事は想念か言葉によるか

“願事をなす場合、想念による時と言葉に表はしてなす時の相違。

“言葉に表はす方がよい。祈りは想念でも或程度まで通ずるが、言葉に表はした方が強く行く。想念の働く世界と言霊の働く世界と別々にある。又行為の世界もある。御馳走などでも想っただけではもの足らぬ。今度の本に両世界をくわしくかいてある。(S24・7・15)

願事

“願事は言葉に出すべきか――。

“願事は、祈りは想念でも或程度までは通ずるが、やはり言葉表はした方がよい。今度の本、「信仰雑話」に悉しく書いてあるが、想念の働く世界と言霊の働く世界と別にあって、言葉に表はした方が強く響くものである。すべて想っただけではもの足らぬもので、御馳走してくれると思ってもらふよりは、行為の世界に表はしてくれた方が有難い。(S23)

祈念と言葉

“祈念は言葉に出した方がよいとの御教えにつきまして再び御伺い申し上げます。

“言霊に出した方がよいが、人のいる時は聞えないようにする。又、それよりは早く浄霊してやった方がよい。(S24・1・28)

願事の思念と発語

“神様へ御願事の際、心に念えば口に出さなくても同じと考えさせて頂いて宜しいでしょうか。右御教示御願い申し上げます。

“御馳走しようと思うだけではうまくない。形は、肉体ある以上言葉に表わすべきである。思う事は思わぬよりよく通ずる事は通ずる。(S24・1・18)

御祈願する数

“毎日幾つものお願ひ事をしても失礼には当らないでせうか。

“いくつお願してもよい。いけないと思ふのが反って失礼である。

高級神への供物

“供物は、高級の神はそれに霊気を入れて下さる。それを戴くと病気が治る。天理教は水、金光教は米、大本教、黒住教など皆そうで、相当力がある。そういう神をお迎えする事は、よほど良い宗教でなくてはいけない。観音様はお上りになるが、極く僅かである。後は霊気を入れて下さる。仏前は水を上げなくてはならぬ。必ず必要である。ただ上げ方で、上げる人の気持である。(S23)

供物と神の階級、人間姿と龍神形の神への供物

“神に物を供へる事は如何なるわけでせうか。

“神様には上中下ある。最高の神様にお供へしても意義はない。二流以下の神は霊界でも物を喰べるから供へる。神道などは米や塩、水をお供へするが、あれは龍神に対して上げるものである。生水や生米は龍神は非常に喜ぶ。古い時代は龍神の形の神が多い。その後段々人間姿の神が殖えた。人間姿の神様には人間と同じ物を召上るからお供へする。観音様にお上げすると召上って、その時霊気を入れて下される。それ故お下りは非常に美味しい。祖霊さんは召上るとまづくなる。物の味は霊気であるから、味のうまい物など霊気が強い。造る人の気持で、気持よく作ったものはうまく、でないものはまづい。食物により作った人の気持がよく判る。作る人の気持で味がちがふ。 

観音様、大黒様へのお供へ

“観音様に毎日食物をお供へする場合、大黒様にも御供へすべきでせうか。

“大黒様にもお供へする方がよい。但し観音様より少くする事である。同じでは大黒様は食べられぬ。外の仏にしても、あまり丁重にすると食べられぬ。容れ物を小さくするのは極くよい。お観音様を中心に上げると、お観音様に上げるつもりで、そのおこぼれを祖霊が戴く事になる。観音様はお召上りにならぬ。観音様に上げたものはその家の人が食べるのが本当である。(S23・7・18)

光明如来様にお供した物と病気

“光明如来様と仏様に毎朝お供えする御飯やお茶のお下がりはどう処置致したなら宜敷いでしょうか。又屏風観音様を御祭りして御座います仏様に、朝晩のお参りや法事の時に善言讃詞をお上げするとよい様に伺って居りますが、終りの念被観音力、念被観音行、念被観音心、大光明如来守り給へ幸倍へ給へ、惟神霊幸倍座世のところはお上げしてよろしいでしょうか。御伺い申し上げます。

“光明如来様にお上げした物は、戴くようにする。軽い病気などは治る。光明如来様は霊を入れて下さるから美味しいが、仏様へ上げたのは、食物の霊気を吸うからまづい。お奏げしてよろしい。これだけお奏げすると恰度よい。光明如来様と同じではいけない。(S24・8・6)

お供物に就て(お供への向、御屏風への御供、御供へ中の時間)

“お供物に箸をつけるのは先祖―仏だけである。観音様は人間と同じでよい。裏面の目立たぬ場合は、観音様の方へ向けるべきである。神様には違ふ。お供は長く上げておくのは不可である。祝詞が終へて、すぐ下げてよい。お屏風をお祭りしてある仏壇のお供へも、御先祖に上げる意味で、お観音様に上げる意味はない。幽世大神は観音様の家来である。仏壇、屏風へも拝む。(S23・6・28)

観音様へお供への物

“祭典日と平日とのお供へに就いて。

“観音様には料理したものをお上げした方がいい。これからは凡て生ものを上げる要はない。神道では生ものを上げるのは、龍神が多いからである。その龍神も殆ど人間になりつつあるから、人間の嗜好物を差上げればよく、八大龍王などその一人で、信者の中にもある。

お供物の向(御神饌の起原)

“神様、仏様にお供物をお供えいたします時、又花なども参拝者の方へ向けてありますのはどういう訳でしょうか。 

“理屈は此通りである。人間は自己満足の為である。古代の人間は何かを拝まなくてはいられなかった。不安であった。その時代はいろんな事が分らず、凡ゆるものを不思議に思い怖れていた。太陽、月、山、水などに対して恐れ、何かに頼り、木石などで偶像を作って拝んだ。それに上げる物を向うを向ける時は気持がよくない。故に向はどうでもよい。人間が満足するような形式をとったに過ぎない。故にどっちでもいい。仏なら花を飾り、立派にすると霊界が極楽の形式になる。故にそういう形式を生み出すのである。

お供の頒与

“神様に御供えして有る品物をその場所から信者等に分ち与える事は差支えございませんでしょうか。御教示御願い申し上げます。

“大いに分ち与えた方がよい。(一旦お下げして渡す。長く上げるのはよくない)(S24・1・8)

御酒、御餅の意義

“神様に御酒と御餅がつきものの様に思われますが何かわけが御座いますのでしょうか。

“御酒は極く古代から祝の時は酒を振舞う事になっている。深い意味はない。お餅もそのような意味で、何時の時代かにそういう事を考えたり、言ったりした。それから続いたものである。もし、神様に附物なら、キリスト教でもやらなくてはならぬ。であるから、その土地だけのものである。天地の型を意味したものであろう。天地合せ鏡という。八咫の鏡は大地を表象しており、艮、坤、戊亥、辰巳、東西南北を(八咫)――

鏡餅、三六九

“天地は合せ鏡といって、天にあるものは必ず地にもある。鏡餅はそれを意味する。天をそのまま地に写している形を示す。太陽、月、星等に相応する人間は、大地には必ずあるものである。偉い人の事を星といふのもその為である。三六九は凡ゆるものの階級を表はすものである。三々九度もこれから出ている。

お供へする花

“御観音様に御供へする御花はどんな花。又は木でも差支へござひませんでせうか。

“差支へない。花は皆自然の美を神様が造られたものである。(S24・4・28)

御玉串の向き

“神様に御玉串、又は色々なお供物をお上げする場合、(イ)(ロ)どちらにすべきでせうか。御神体と御仏壇のお供へ方を御教示御願い申し上げます。

“御玉串は神様の方へ向けるのが本当である。(S25・2・18)

箸等の向き

“神様は御供物を御上りになるのではなく霊を入れて下さる――との考えから御箸も御附けせず、御膳も手前を向けて御上げ致して居りますが、大黒様に御上げ致します場合、箸や向きはどの様に致すべきでしょうか。右御教示御願い申し上げます。

“誰かに聞きなさい。やはり向きは同じでよい。大黒様は祖霊とは違う。(S24・8・23)

御供物に玉葱

“御供物に玉葱、葱の類等は何故禁ぜられますか。

“御供物に玉葱を禁ずるといふ事はないが、霊によってはあの匂ひを非常に嫌ふのがある。臭いから嫌ふのであらう。線香は喜ぶ。

蓮華と神前への花

“蓮の花は仏前には活けますが、御神前には活けない様で御座居ますが、蓮の花について御教へを御願ひ申し上げます。

“仏教は印度から来たもので、印度では蓮の花を非常に尊いものとして尊重する。御神前は、榊とか松とかいふものがよい。観音様など乗っておられるのを蓮華台といひ蓮の花の咲いた上に乗っておられる。南無妙法蓮華経といって、蓮になってるがインドの蓮は日本より大きいといふ。一名ハチスといひ、日本でも蓮はあるが、ハチスといふのが本当である。(S24・7・2)

柱とは―大西愛次郎事件

“御霊を数えるのに「柱」と申しますのは、いかなる訳でしょうか。

“柱は敬語で、神を数える時にいう。神柱ともいう。人間でも立派な人は神格を得てる。人格は上等でない。本当をいうと神格者でなくてはならぬ。それは柱である。人間でも役に立つ人は柱という。柱は屋根を支えているもので、屋台骨を支えてる。力があって重要なものを支えているもの。神様は人間ではないから一人二人という訳にはゆかぬ。天皇を柱ともいう。大西愛次郎は、昭和五、五、五までに天皇が退位しなければ大困難あり、天皇の御位も落ちるなどといった。五、五、五は午の年、午の月、午の日である。之は今想うと当っている。天理教の御神楽歌を研究するとそうなると言ってパンフレットにして配布した。その為に天理教の信徒を多数吸収した。この一派は今再燃しつつある。三種の神器は自分の子供で後の天皇は自分だといった。この二点がいけなかった。かくて起訴され懲役四年かになった、之は根拠のない事ではない。

神道祭式

“神道の祖先の祭の様式を御伺い致します。

“之は神主に聞く。私はこういう事は昔から嫌いである。  (S23・11・16)

拍手と玉串、笏

“宗教的儀式に付き、拍手、玉串、笏又は扇子等は如何なる意味があるもので御座いましょうか。御教えの程お願い申し上げます。

“拍手は神道では四拍手で、いろんな事をいう。大本ではタカタカという言霊だという。即ち、タカミ―高御産霊、カムミ―神御産霊で、このタタ、カカが転化して父母という。之は、霊の神、体の神で、霊体、陰陽を表わすという。(根拠ないとはいえない)玉串は榊へ細く切った御幣を掛ける。之はお召物を献げる事になっている。御幣は浄める意、祓戸行事から出ている。浄める意味で、大本教は松を使うが、松の方がいい。榊は栄える木というが、逆さの木ともいう。笏や扇子は、扇子は笏の代り、笏は大抵白檀でやる。笏は魔除けで、初めは剣であった。

拍手のいわれ

“拍手のいわれに就て――

“神道で、タカタカという言霊になるという。タカとは高御産霊、神御産霊の事である。御祭を初めるからと神様にお知らせする意味が主であると思う。今迄は夜の世界で、日がないから丁寧に四拍手(二)した。三拝九拝は本当である。

拍手と合掌

“既成宗教に於て神前礼拝に拍手、仏前に合掌を行って居りますが、拍手と合掌の意味に就て御説明御願ひ致します。

“拍手は神道、合掌は仏教である。神仏の形式が分れている所が面白い。拍手は四つで、大本教ではタカタカと打つといふ。高御産霊、神御産霊は父母の言霊だからといふ。今迄は二と四になっている。月と地のみだった。合掌は自然の動作、人間の本能といった方が合っている。理屈は後でつけたものと思ふ。どこの国でも皆一様にする。

合掌の意義

“合掌の意義――

“種々理屈をつけるが、自然の本能で、自然に斯うなる。

合掌の意義

“合掌の意義に就て御教え願います。

“自然に手がそうなるのだと思う。  (S24・1・7)

三宝とクリ盆

“お供へ物を致しま時、神様には三宝を、仏様にはくり盆又は足のついたくり盆の様なものを用ひますが、これにはどんな由来が御座いませうか。御伺い申し上げます。

“大した謂れはない。仏様のはお膳を高くしたのであり、神様の方は、清いといふので白木のままにした。そして、角張っても具合がわるいから隅を丸くしたのである。(S25・1・22)

御幣の意義

“神社の御幣は、いかなる意味によって用ひられるのでせうか。

“御幣は本当はぬさ(箒の形)で、清める意味のものである。ぬさから起ったもので、空間に虫や蛇の霊など沢山いるのを、霊眼の見える人が見た事があり、それらを幣で払ふと除いてしまふ。(麻は紙の元になる。)シメ縄は、シメ込む事で、神様を押込むる意である。一方、悪魔を防ぐ意だともいふ。之は研究問題である。鬼門へ鬼瓦をおく。

四柱の神(幣)

“四柱の神に就いて御伺ひ申し上げます。

“四柱の神とは、神道でいふ浄めの神である。虫鳥などの霊は幣で払ふと皆どいてしまふ。

蚊帳と幽霊

“蚊帳を吊ると幽霊などが入らないと昔から言はれていますが、如何なるわけでございませうか。

“(麻は紙の元である)麻といふものは非常に不浄を忌む。幽霊は執着であるから不浄である。麻の為に近よれぬものとみえる。神主の上衣など麻が本当である。よく聞く話であるが、幽霊は蚊帳の外で動作する。地獄の霊は小さい。狐の霊は豆粒位で、脇の下に何十匹いた婆さんが以前あった。(S  (*)・2・24)

一位の木

“神主の持ちますシャクは一位の木にて作ると伺ひますが、一位の木は檜よりも霊格が上なので御座いませうか。

“一位の木なら、上である訳である。檜はお宮とか宮殿に使ふ。(S24・9・13)

扇子と富士山

“扇子は、末広といって縁起のいいものである。扇子用いる。富士山なども、白扇の形をしている。

塩と神事

“神事に対して御塩を使いますが、如何なる訳が御座いますか。御教示を御願い致します。

“塩は浄めるのである。昔から使ふ。海はどんな汚いものでも浄化する。(S24・6・27)

塩の作用

“塩をお浄めに用いるわけを御伺い申し上げます。

“非常に浄める力がある。

塩の使用

“昔からよく物を浄める時などに塩を用いますが意味が御座いますのでしょうか。

“塩は物を綺麗にするので、浄める意味で用いる。深い意味のある訳ではない。海の水は、如何なるものでも浄化してしまう。即ち、浄化の力が強いからである。(S24・3・14)

塩の使用と本教

“浄め塩と申しまして、縁起の為に塩を用いますのは、如何なる訳で御座いましょうか。御伺い申し上げます。

“浄める事に使う習慣になっている。大した意味はない。気休めで大した意味はない。信者はする要はない。神経を休めるというような意味と思う。観音教の信者はそんな事しなくともよい。(S23・12・11)

善言讃詞の内容

“善言讃詞の詳解を御教えの程を御願い申し上げます。

“観音経を縮めたものである。字の通りである。観音経の善い所を唱えたもので、五分位以内に唱えるようにした。観音礼讃と五六七世の状態である。 (S23・12・11)

紫微実相

“紫微実相、天界の紫微の主、紫微宮、七堂伽藍等の意味をお伺い致します。

“紫微宮という天国にお宮があるのでその名がある。美しい都会があり、宮のある所を都率天という。実相世界は、これから出来る。真如がすんでから実相となる。仏の実相真如は逆である。実相とは法の華の実で、今、その実を備えつつある。

紫微、七堂伽藍、多宝仏塔

“紫微は仏語であって、一番いい、最高の場所の事。仏界の一番立派な都を都率天といい、七堂伽藍や多宝仏塔など、立派な建物が沢山建っている。そこの最高の御宮を紫微宮といい、観音様など一流の仏がおられる。観音様の事を紫微の主といふ。七堂伽藍、之は都率天にある伽藍で、奈良の法隆寺などは此七堂伽藍を写したものである。又祇園精舎ともいふが、祇園精舎は印度にある。多宝仏塔、特別の形式の建築、日本にもある。都率天は第一天国の仏語になる。第一天国は神様の方では未だ出来ていなかったんで、本当はこれから出来るのである。仏界でも、本当には都率天は出来ていなかった。紫微の主は主神であり、五六七大御神はやはり紫微の主である。

大千三千世界

“大千三千世界に就いて御説明をお願い致します。

“三千世界とは、神幽現――神界、仏界、現界を三千世界といふ。三界万霊といふのはそれである。大千世界は三千世界全体をいったもの、総合称である。(S23・10・2)

念被と念彼、大千世界

“念被観音力、念被観音行、念被観音心、に就てお尋ね致します。

“仏教では彼とかくが、私は被と直した。念ずれば観音力―行―心を頂くといふ意である。仏教では彼岸の彼をとったのであらう。三千大千世界など逆である。大千―一人―天―ス神といふ意味になる。大―主の神、スも一人、大も一人。(S24・9・7)

十方と七堂伽藍

“善言讃詞の中の十方世界の「十方」又、七堂伽藍の「七堂」の意味。

“尽十方世界といって宇宙をいふ。東西南北艮坤辰巳戊亥、本当は八方だが天地で十方になる。尽はつきるとかつくす事。七堂伽藍は印度で極楽浄土を造った時、天国の都会は都率天といふが、それの型を地上に作った。七つのお堂と伽藍といふのであるが、お堂を七つ作ったのである。法隆寺などは、五重塔とか金堂などで七つ作ったものである。(S24・6・22)

念被観音力

“念被観音力とは、どんな意味が含まれておられるのでせうか。又これを唱へる時は如何なる働をするのでせうか。

“普通念彼とかくが、私は念被にした。念ずれば観音力を頂くと思っていればよい。観音力を戴く。日蓮は竜の口で、刀が雷によって折れたといふ。之は念被観音力と唱へたと思ふ。

念被と念彼

“念被観音心と念被観音行について御教えを賜り度く御願い申し上げます。

“お経は彼となっている。彼は彼岸の意味である。私は被と直したが、之は蒙るといふ意味で、ピッタリする。(S24・2・11)

被と彼、寿と衆

“念被観音力の「被」と「彼」及び福寿海無量の「寿」と「衆」はどちらが正しいので御座いましょうか。御伺い申し上げます。

“彼は漢字に訳した時、間違えたんだと思う。被―念ずれば蒙る事の方が合っている。寿が本当である。(S24・7・3)

福寿海無量

“福寿海無量の大功徳の意義。

“これは形容語で観音経にある言葉である。福は物、寿は寿命、無量は沢山といふ事。

迦陵頻伽の意味

“迦陵頻迦の意味を御教示お願ひ申し上げます。

“天国の鳥、画でよく描いてある尾の長い綺麗な鳥である。

迦陵頻伽

“迦陵頻伽とは何の様な鳥でせう。 

“霊界の極楽の画などによくある金色の尾の長いきれいな鳥でいい声で啼く。

善徳行

“善言讃詞にあります善徳行の善行は求められて与へる行即ち地の力、徳行は求めずとも与へる行即ち天の力と解して宜しいもので御座居ませうか。

“そんなにややこしい説明はいらぬ。人をよくする事が善で、いい事をするのが善徳行である。(S24・12・2)

天魔羅刹、夜叉龍神、迦陵頻伽、多宝塔

“何れも仏語で、天魔羅刹は悪魔といふ事。夜叉は女の鬼。龍神は此場合悪龍である。梵語の漢訳である。迦陵頻伽は天国の鳥。極楽にいる鳥。尾の長い綺麗な鳥である。多宝塔といふ塔がある。(S23・7・25)

天魔羅刹、夜叉龍神

“善言讃詞の中に、天魔羅刹、夜叉龍神と言葉がありますが、如何なる邪神で御座居ましょうか。

“仏語で、邪神の種類である。天の悪魔。羅刹はとりまいてる邪神の家来。夜叉は女の執着によって悪くなったもの。龍神―悪龍の事。邪神を仏語で総称していったものである。

天魔、羅刹、夜叉

“善言讃詞にあります天魔羅刹と夜叉の意味を御教えを御願い申し上げます。

“仏語である。天魔は魔神とか魔王といい、上等の方であり、羅刹は悪鬼羅刹といい、鬼のような悪魔の一種である。夜叉は女の方で、要するに悪魔の形容詞である。(S23・12・21)

五濁

“五濁を浄め(善言讃詞)に就いて御伺ひ致します。或本には見濁、命濁、煩悩濁、衆生濁、劫濁と言ふ、悪の世とありますが、如何で御座居ませうか。

“悪に属する事を五つに分けた、之はそれぞれの説であって、説く必要はない。多くは、コヂツケである。観世音などもまるで違ふ。(S23・8・12)

五濁、三毒

“善言讃詞中の五濁のいわれをお伺ひ致します。

“経文にある濁の種類である。三毒は貪瞋痴で、悪い心、一種の間違った執着である。

三毒、五濁

“善言讃詞の中の三毒と五濁とは如何なる罪悪を指すのでしょうか。

“三毒は貪、瞋、痴、五濁は罪穢を分けたもの。(S25・5・15)

五濁

“見毒濁  煩悩濁  命濁  衆生濁  劫濁いろいろの罪穢を分けたにすぎぬ  (S23)

三毒、五濁

“三毒と五濁の意味を御教えを御願い申し上げます。

“罪穢を分類したものである。  (S23・12・21)

天津祝詞の作者と大祓

“天津祝詞は何時頃、誰によって作られたものでしょうか。御伺い申し上げます。

“神武以前、素盞嗚尊に征服された時に造られた。神秘がある。これは天照大神の方で、大和民族系の神が造った。日本の言霊は優れている。つまり天系の神―天津神が造った。大祓は其後に造られた。素盞嗚尊は国津神である。(地系)(S24・9・3)

天津祝詞真解

“「高天原に神留り座す」神様が一杯いられる事とは違う。そこの地域の一番良い所をいう。人間の高天原は天庭、天。腹は地の高天原である。頭の掛りと腹の掛りと相談し合っている。前頭部は考える。考えるとか覚えるとかの働き。後頭部は喜怒哀楽、勇気は肚で、頭で指導し、実行するのは腹である。一町村では産土神、日本では伊勢神宮になる。之は少し落ちたんで、今日本では国の高天原はない訳であるが、あれを復興するか上げるかである。皇御祖、字の通りいえば皇室の御先祖、つまり大統領とか主権者、主脳者の先祖という事。伊邪諾尊である。 伊邪諾、伊邪冊尊は霊体の神である。伊邪冊尊、之は汚す方で、伊邪諾尊は掃除する方で、大浄化する。「筑紫の日向の橘の小戸」之は土地の名で、九州であろう。神様は型で行かるる故、そこをすると全部を掃除する事になる。お浄めは、伊邪諾尊の御仕事である。「命もちて」御命令で。「祓戸の大神等」その時に四柱の神が生れた。みんな総動員で大浄化する。此言霊により、光が出て浄まる。兎に角、之によって霊界は浄まる。言霊の働きである。(S23・7・21)

天津祝詞

“何れにしても大した意味はない。神漏岐、神漏美、之は夫婦といってもいい。御禊祓って、四柱の神が生れた。(以下別御応答転記)伊邪諾尊は浄める御仕事。伊邪冊尊は濁る御仕事。右廻りは唯物、左廻り――。日向―地名。御禊は、水に濺ぎの神事である。  (S23・7・19)

高天原

“高天原は何県にあるのでせうか。御教示下さい。 

“高天原をタカマガハラといふが、マガの言霊は面白くない。アマが本当である。昔から学者が何処にあるとか言ふが、之は何処にでもあるのである。天といふのは、人間でいへば頭であり、部屋なら床の間、箱根なら神山荘、国なら伊勢の大神宮であり、天理教では大和である。つまり一番良い場所の事で、清い尊い所をいふ。又、仏教なら高天原の事を都率天といふので、何処にあるといふのはおかしい。(S24・6・27)

高天原の所在地

“高天原の所在地につき諸説があります。地上にありとすれば何処に相応しますか。

“高天原には種々な説があるが皆本当ではないので、実は凡ゆるものに高天原がある。人間でいえば頭、即ち之を天庭という。一軒の家では床の間になる。又床の間へ神様を祭り朝夕礼拝すればその床のある部屋全体が高天原になる。又一府県なり、一地方なりでもその一番清浄なる所が高天原で、それはこれから本当にそういう高天原が出来るのである。

天津祝詞と神言

“左記の事について御伺い申し上げます。

イ、祝詞の解説をお願いします。

ロ、世界メシヤ教のバッチは何を表現したもので御座いますか。

“イ、天津祝詞は、神式以前の言葉で綴ってある。浄める。天地浄化の言霊である。解説は殆どコジツケである。或程度解釈出来る。何れはなくなるものである。新しい祝詞形式のものが出来る。大祓祝詞は、素盞嗚尊が罪犯し、世を曇らしたのを浄めの言葉である。もう必要はない。(S25・4・26)

天津菅麻と金木

“大祓祝詞中の「天津菅麻」「天津金木」と易学との関係につき御教示を御願ひ致します。

“天津菅麻は、天の神の御先祖といふ事。天津金木は(神武以前、元旦に天皇がその年の吉凶禍福を占った。何れお宮で出来る。場所も分っている。今に発表する)三尺位の木を十字に結んだものである。(S24・9・18)

皇御孫命

“皇御孫命とはどういう神様ですか。

“神の霊統である。国王のようなものである。神武以後は違う。系統が違って来た。厳格にいえば神武以前である。(S24・10・3)

惟神霊幸倍座世(神の幸)

“次の言葉の意味を御伺い致します。惟神霊幸倍座世。 

“惟神霊幸倍座世は非常にいい言葉である。昔から神道で惟神の大道とか、神のまにまにという。惟神とは神のまにまに或は神に習う。神に従う事である。日常生活に於て種々取越苦労をする場合、惟神にしておくといって神様にお任せしておく。神のまにまに行くというのは無理をしない事で、非常に楽で結果がよい。霊幸倍座世とは、霊の幸いが倍になる。殖える事である。神道では、恩頼という。之は魂が太る。拡がるというような意味で、同じような意味で、魂の幸が殖えるようにして戴きたいという事である。神は霊であるから、霊の幸を下さる。

惟神霊幸倍座世の意味

“惟神とは神に従ふ事、神に慣ふ事、神のまにまにといふ事で、霊幸倍座世とは魂の幸が倍になる事、又、霊魂へ幸せを益々殖やして戴きたいといふ事、身魂のフユを幸ひ給へといふ――豊かにして頂く、大きくさせて戴きたい――。肉体にも太い細いがある如く、魂にも太ったのと痩せたのとある。太るのは非常に大きくなる。物に怯えたり、萎縮した人があるが、之は魂が痩せている。恐怖症などは入信すると治る。魂の量が殖えると、外界の刺戟など受付けぬ力がふえる。図々しいから太っていると思ふかもしれぬが、之は動物的に太っているので、質が悪い。(S24・5・11)

カムながらとカンながら

“惟神(カムナガラ)と惟神(カンナガラ)は何れが正しいので御座居ましょうか。

“どっちでもよい。カムが正確だが、カンが言い易い。(S25・3・18)

入信祝詞

“教修入信祝詞を奏上するのは――

“こんな事する要はない。一般と歩調が揃はぬ。神道のみの一方的である。

祝詞つまる(祝詞の要)

“先祖代々稲荷を祀ってある家の病人を御浄霊させて頂きました処、祝詞奏上の際「諸々の曲事」の所で「諸々」と唱えますと、二度共止められた相で御座いますが、御浄霊致します者は自分が曇っているから止められたのではなかろうかと申しますが、そういう場合、どういう風に答えてやりましたらよろしゅう御座いましょうか。

“自分が曇ってるから「諸々の曲事」が必要である。自分も相手も余計に必要である。唱えてる中に止められなくなるのは狐のイタズラかもしれぬ。曇ってる者に唱えさす。その為に祝詞の要がある。

立春のお祝(国常立尊と明主様)

“立春の御祝について御説明下さいませ。

“地球の呼吸、眠っていたのが立つといふ意味で、呼気が上昇するのである。節分は冬の終り、そして春が立つのである。大本教では国祖押込められたもふた日の二月四日を節分祭とするが私は立春祭の大祝をする。国常立の尊はすでに御出現になっているからである。国常立尊様はよく大先生を御守護下さっている。神秘的になるが、よく明主様におかかりになる。そしてどうしても判らぬ事は此神様にお聞きになる。そして教へられたりなどする。素晴しい御力のある神様である。 (S24・2・2)

立春の意義(国常立尊と観音)

“立春の意義並びに大先生様と立春との御関係について御伺い申し上げます。

“大体節分が二月四日で―三日の事もある―その時冬が終り、五日から春になる。節分の日に国常立尊といふ神様が押込められた。今度現はれるのは立春の日に表はれると大本で言っているが、之は本当である。観音様の裏は国常立尊様となる。審判が閻魔大王で、厳格であるから、仏となって観音になられる。武者小路は「神の如く強く、神の如く弱く」と言ったが至言である。「如何ならむ罪も許させ如何ならむ罪も尤むる常立の神」である。  (S24・1・18)

節分と立春(十二月二十三日)

“節分祭と立春について信者に如何に説明したら宜しいでしょうか。

“簡単にいえば、節分は冬の終りである。立春は春の初めであって、冬から春に展開する境目である。故に立春から暖くなる。本当は十二月二十三日が本当の立春で、二十二日が一番日が短く、二十三日から日が長くなる。故に最初は十二月二十三日が元旦であった。それを何かの理由で一月一日にした。

立春の意味

“立春の意味について詳しく御垂示御願ひ申し上げます。

“節分を過ぎ、春の季節となる。春立つといふが、地霊が昇るから立つ事となる。目出度い日である。  (S24・1・28)

節分と冬至

“節分の意義に就き御教えを御願い申し上げます。 

“大本教の説は正しい。教祖に懸られた国常立尊は押込められた。(節分に)神代の時代、輿論の為、神同志と人民が追放した。そして鬼門の金神となった。それ故実際は鬼門が一番いい。それが節分の日である。それは又冬から春に転換する。翌日から春になる。大寒が節分で開ける。節が分れるから節分といふ。本当は十二月二十二日の冬至が冬の極で、二十三日から春分になる。大先生は十二月二十三日にお生れになり、春になる日にお生れになられた。(S24・2・1)

月次祭廻りとお供に就て

“御神体を新しく載かれた家庭に一々教師又は教導師がお祭りに行かなければならないものでございましょうか。従来は一々致しておりましたが、会員が多くなり廻り切れない実情にございますが、如何致したらよろしうございましょうか。尚月並祭の折、御神前のお供物はどの程度に致したらよろしうございましょうか。又御神前に毎朝お膳をお供えしております家庭と、配給その他の関係で近年は毎日のお膳を略させて頂いて、月一回だけ特別のお膳をお供えしております家庭とございますが、今後は如何致したらよろしゅうございましょうか。御教えを御願い申し上げます。

“どちらでもよろしい。ただ形式だけ、教導師に聞いてする。月一回だけといふのは間違っている。(S24・4・21)

悪因の日

“私は昨年三月入信、引続き妻、長女、次女、三女、四女の順に入信致し、光明如来様、千手観音様を奉斎、先生に御願ひ致し毎月十一日にお祭をさせて頂いて居りました。昨年十二月上旬長女(十八才)が浄化を頂き全身に浮腫が出来、十一日のお祭の日の十一時頃より急に容態が悪化し十二日の午後五時頃死去致しました。其の間浄霊は勿論、御守護御願ひ、御先祖供養等御願ひ申し上げました。之は本人(長女)が日頃信仰心足りなかった為かと思はれますが、如何がなものでせうか。尚十一日は父と叔父の命日に当りますので当日御祭りをさせて頂いて居りますが、私の家では十一日と言ふ日は何か不吉の様な気が致しますので御祭日を変更致したいと思ひますが如何なるものでせうか、御伺ひ申し上げます。

“信仰心が足りない。話を聞いて判らぬのは落ちるより外ない。十一日は、家系にとって重大な事(悪い意味の日)があった。悪因悪果のしるしが表はれる訳で、十一日を出来るだけ使ふ方がよい。すると十一日の汚れが除れるからいい。(S25・1・16)

結婚式の形式

“最近本教信徒同志の結婚の場合、大光明如来様の御神前で式を挙げたいと言う方がありますが御許し願えましょうか。お許し願えましたら天津祝詞、善言讃詞、御讃歌を奏上してよろしいでしょうか。御伺い致します。

“キリスト教ではあまりに簡単で、質素すぎる。だから芽出度いような気がしない。今少しく東洋的要素が入っていいと思う。次に、葬式とか墓なども新しくしたいと思う。(S25・2・5)

神前結婚の方式

“結婚式を教導所の御神前で行う場合、如何なる方法で致すべきで御座いましょうか。

“之はよく知らぬ。やる人があると聞いている。男と女であるから、伊都能売大神と称えてよろしい。(臨機応変にすればよい。念入りにすれば結婚祝詞奏げる。)(S24・1・28)

神前結婚の祝詞

“神前結婚の場合の祝詞は天津祝詞と善言讃詞との両方奏上すべきでしょうか。或はどちらか一方で宜しいでしょうか。右御教示御願い申し上げます。

“善言讃詞が本当で、両方でもいい。善言讃詞は浄めた後に善い世界が出来るという方で天津祝詞は浄めの祝詞である。(お供えして、玉串奉奠後奏げる。玉串は少ければ三人位でよい)(S23・11・18)