013 信仰篇(救業、布教)

御参拝の資格と浄化

“私は昭和二十一年四月入信当時、腹膜、腎臓の悪きため医薬も多量に用ひ、効果なく、御浄霊によって全快させて頂きました。其の後御訪問いたさず今日初めてお参りさせて頂きました処、家を出る時から胃の浄化を頂き、一昨夜と昨夜二回天帝より半面、裂ける様に激痛となり苦しみましたが、御浄霊によって治りました。如何なる訳でせうか。

“曇りが残っている為である。御面会も或程度浄まらぬと資格がないのである。  (S24・11・27)

御参拝の資格と霊界の霊

“御浄霊で霊界に逝かれた方の霊は  此の御席へ来られるものでせうか。

“来れる。沢山来てる。  勿論或程度浄まった霊でないと来れぬ。(S24・3・2)

聴力ある唖浄霊者と礼拝す、(御詣りと資格)

“九歳の女、耳は聞こえますが、生まれつき口がきけず、御浄霊すると、  俄然横に倒れて大きな息を致し、二、三分位で普通の状態になり、時によると二、三回位起こす事があります。浄霊中起き上り、浄霊者の手を引張り、床の間に祭ってある光明如来様を一緒にお詣り致します。近頃は光明如来様のお詣りを止め、仏壇の千手観音様をお詣りするとて  必ず一度は浄霊者の手を引張りお詣りする事にして居ます。此の家には水死者一人あった由、全治するでせうか。

“舌を切って死んだ祖霊で、霊界で治っていない。有難くてお詣りしたいが、資格がないので、浄霊者にかかるとお詣りする資格が出来るので、そうするのである。

御参拝の時浄化楽になる、(祖霊) 

“愚妻はる(四十八歳)本年七月本部参拝の帰途非常なる吐き下しにて一命をも危い程の大浄化を戴きましたが、御守護を持ちまして全快させて頂きました。其の後先月中頃より左横腹及び腰部が痛みだし、昼間はどうにか農業に従事出来ますが、夜分十時より十一時頃迄に非常に痛みます。先月二十六日私が本部参拝いたしますと、その時刻頃より楽になり作業も出来る様になりました。今月も亦数日前より同じ様な浄化を戴いております。  本日私も参拝させていただいております。此れは如何なる理由でせうか。又如何致したら宜敷いでせうか。御教示の程お願い申し上げます。

“浄化に伴ひ、祖霊が手伝っている。自分が参拝したいので、参拝させる。出来るだけ御参拝するようにすればよい。(S24・11・26)

御祭参拝の為の嘘

“家族の者が此の御道に理解無いため、月例祭等に御詣りする場合、家族の者に嘘を言って出かけて来る者が有りますが、此の嘘は罪にならないと存じますが、如何なもので御座いましょうか。御伺ひ申し上げます。

“罪にならぬ。成可く嘘をいはぬ。臨機応変である。(S24・12・23)

お玉串の立替え

“大先生様へ御面会にお参りする時、御玉串を立替えてお供えしてくれと依頼する信者がありますが、これは承諾すべきでしょうか。お伺い致します。

“差支えない。返せばよいのだから。(S24・9・3)

師匠弟子の因縁、(霊の高下)

“弟子の方が師より霊の高い場合がある。弟子師匠になる因縁はある。その人自身の因縁もあり、大きくも小さくもなる。(S23)

救業奉仕婦人婚期遅れる理由

“若い女性の御弟子の方も大分御道に入らせて頂いて居りますが、一般に婚期が遅れ勝ちの様に見られます。又、映画等一日も見ることが出来ずに居る方々も居りますが、少しは見る為に時間を割いても宜しいでせうか。右、御教示御願ひ申し上げます。

“之は仕方がない。此道に入る人は龍神が多い。龍神は人間に生れ代ると一代の間は婚せぬ方がよいとしてある。それ故、縁談が起ると病気やいろんな故障が起るのが多い。龍神は元執着の罪の為に堕ちたもので、どうしても良い事をして徳を積まねばならぬ。その徳により罪を許され、結婚は許される。(S23)

自教会よしとする

“甲中教会の教師より浄霊を受け、  お守も受けている丙の所へ、乙中教会の教師が自分の教会の方が良いのだと言って何度も通ひ、丙を乙中教会の所属にして、今度は其の丙を甲中教会の邪魔になる様に使ふ場合は、お道にある者はどの様な心得を持っておれば宜しいのでせうか。

“自分の教会がいいといふのは、その心そのものが悪であるから悪い。大抵アベコベである。之は弁明の要はない。言い訳を言はなくても必ず判る。  (S25・3・3)

教会発展せず

“教導所を中心として或る程度布教されますと、大体入信者と反対者とに別れて  其れ以上あまり発展出来ない場合が度々見受けられますが、此の様な時には如何にしたら宜しいでせうか。

“時期が早い土地へ種を蒔いたのであるから、気長に放ったらかせばよい。或時期へ行くと燃え上る。  (S24・7・16)

病人門口で倒れる夢

“私方教導所へ人力車とか自転車で病人が来ましては表戸の処で降りた途端に倒れる夢をよく見ますが、如何なる事でしょうか。お教え下さい。

“あまり良くない。駄目といふ意味である。重症の病人が来るといふ意味にもなるし、此方の力がない意味にもなる。

本部は動かせぬ

“分会中心を「北条」に置いて居りましたが、開拓指導上「西条」といふ都市に適当な家を見つけて先月主力を移動致しました。「西条」は「北条」より艮の方向で、十四、五里離れて居りますが、「西条市」を開拓以来数ケ月の間に、肺結核のみ次々死亡し、先日、五日に六人目の而も熱心な協力者が再浄化で溶けました。この状態で責任者もやや失望し、周囲にも少なからず悪影響を及ぼし、私等も御用の至らざるを痛く愧じ入り居ります。本日、当地方面指導者全部御浄めを戴くべく御参りさせて戴いて居りますが、「北条」と「西条」に何か因縁が御座居ませうか。又、地方の開拓を一時見合すべきで御座居ませうか。御教示願ひます。

“支部として開拓すればよい。本部は絶対に動かしてはいけない。順序が違ふ。西条支部にせよ。  (S25・5・25)

庫裡を教会に使用

“私は寺の庫裡(自宅)を教会として使わせて戴いて居りますが、御差支え御座いませんでしょうか。御伺い申し上げます。因みに寺は曹洞禅宗で、本尊は十一面観世音で、昭和二十年九月明主様に御開眼を戴き奉斎して御座います。

“差支えないが、  何時かは違ふ所へ行くようになるかしらんが、それまではよい。  (S25・2・28)

医療拒否せずの貼り札

“患者に向かって薬毒の事を御話し致しますと往々「観音教は医療を拒否するものである」との印象を与へ、何かと世間の誤解をうける怖れがありますので、之を避ける為、各教導所に次の様な趣旨の事を書いて貼っておく事は如何でせうか。「どなたでも浄霊をうけるより医療によって治そうと御思ひの方は御遠慮なく医療の方を御採り下さい」

“出してもよい。しゃべり方と相手による。  (S24・9・23)

教会新設お伺い

“昨年の地震に依り教導所が被害を受けましたが、信者一同無事御守護頂き厚く御礼申し上げます。以来教導所復旧意の如くならず、本教布教に種々不便を感じて居りましたが、信者の内から新築材料寄進の申し出有り、適地を求めて居りました処、福井市松本中町二七ノ五番地に百八十坪の敷地貸与者が有りますが、此の地に教導所を建築致してよろしゅう御座いますか。御教示御願ひ申し上げます。

“早く取り掛った方がよい。神様が見付けてくれるのである。

家屋に困窮

“私の家は現在教導所として  二年余り御働きさして戴いて居りますが、店では菓子商を致して居り、本年五月に種々の事情から「調停裁判」を致し、明年五月末に無条件で家を明け渡す事に決定致しましたので、色々家を探して居りますが、良い家もなく、売りに出た家も非常に高価(五、六十万)で手を出し兼ねる現状ですが、来年五月迄に一生懸命御用をさせて戴いて居れば、何かと御守護を戴ける事と思って居りますが、如何でせう。

“御守護で必ずうまくいく。そして手柄する予想以上にうまくいくから心配しなくてもいい。  (S24・11・6)

三間建築の間取り

“三間位の教会を建築するに理想的な間取り――

“十八畳などいい。五畳、六畳、七畳もいい。六畳三つ――十八畳も極くいい。  十畳、六畳、二畳。十畳、五畳、三畳。要するに合計十八畳の畳数がいい。便所は鬼門以外ならどこでもよい。お勝手は裏鬼門。玄関は辰巳がいい。

医師と同居

“去る二月十四日入信致しました内科医師品川克而氏(三十六歳)より、布教上同居なされてはとの話がございました。現在私は松田教会の自宅より出張させて頂いて居りますが、只今のところ自宅方面には信者患者共になく、平塚方面より横浜方面にかけて布教させて頂いて居ります関係上、不便を感じて居ります。此の場合医師の申し出を受けましても宜しうございませうか。御伺い申し上げます。尚、医者の自宅は大船町でございまして、夫人(三十三歳)は約一年前より肺結核にて休んで居り、主人(医者)は殆ど全快不可能と見て居り、去る二月初旬より御浄霊させて頂いて居ります。尚、医師は夫人及びその他の人達の御浄霊をさせて戴いて居ります。

“同居したいならそうすればよい。後は神様にお任せする。

一般紙教会へ置く事

“救世新聞と共に他の新聞も教導所へ置いて宜しいでせうか。

“無論結構である。

御論文切抜き配布

“光新聞其の他諸御論文の配布徹底に出来る限りの努力を尽くして居りますが、更に近隣七個町村位へ一般に対する普及をと思ひますが、少々負担が勝ちますので、一方法と致しまして、諸御論文の一部を抜萃し謄写版で印刷したものを一般新聞に折込んで近隣町村に配布を致そうと思ひますが、右方法の御許しが戴けるものでせうか。

“安っぽくなっていけない。  歯医者やなどの広告みたいになる。(S24・10・6)

神の文字ある印刷物の使用

“「神」とか「観世音菩薩」等の活字の入っている新聞、雑誌、其の他印刷物を不浄事に使ふ事は罪になりますか。

“こんな事は構はぬ。新聞は神体にする訳でない。読めば後は廃物である。

米国へ御神書送る事

“先日米国カリフォルニヤに居る姉よりの通信によりますと、目下彼地に於きましても観音教の事が非常な話題になっている由で御座います故、光新聞、叢書等、送付致さうと存じ居りますが宜しう御座いませうか。お伺ひ致します。

“結構だ。之も時期である。(S24・12・3)

指導者の心構え、(誠と智慧)

“指導者としての心構え、行動について――

“心構えは誠である。一番肝腎な事は誠と智慧といふ。いくら誠でも、智慧が働かぬと無駄をする。であるから、智慧を働かす――急所である。

信徒出来て協力者出来ず 

“信徒の数は割に出来ますが其の割合いに協力者が出来ません。

“斯ういふものである。人間と神とは違ふ。神様にお任せしてゆっくりやる。

信者協力せず

“私の処では数十名の入信者が出来ましたが、他人を浄霊する人は少なく、協力して下さる人は僅か数名のみです。誠に面目ない次第で御座いますが、此の様な人を導くには如何にしたらよいでせうか。

“放置しておけ。(最初は内輪の方がよい。神様がうまくさせる)(S24・2・16)

取違い解決の方途

“教導師として御讃歌や御論文を中心にして信仰致します上におきまして、自分の魂の曇っている為取違いを致します事が時々御座いますので、その事に関しまして御伺い申し上げます。「人の眼に善しとし映る事とても神の御旨に適はぬ事あり」といふ御讃歌が御座います。少くとも教導師は御論文を謹み畏みて拝読させて頂き、日々地上天国建設の為精進致して居るものと思われます。事実そう思われる人で一生懸命御奉仕致しましたにも拘わらず、不幸な結果に終られた人も御座いまして、取違いという事が如何に恐ろしいかという事を痛感させられます。一方人情と致しましては、何とか神様の御心を覚り、正しい御奉仕の道を歩ませて頂きたい、折角信仰に入って大峠を越さずに霊界に戻るのは余りにも残念であるとの願望も止み難いものが御座います。この事を解決すべき方途はないもので御座いましょうか。又、此の場合、指導者の如何(イカン)が随分とその人の辿る運命と関係あるものでは御座いませんでしょうか。御教えをお願い申し上げます。

“解決の方途はありすぎる。その為に雑誌や新聞に説いているのであるから、よく読む事である。それでなければ人助けは出来ない。指導者は、私の話と新聞、雑誌である。(S25・5・21)

信徒思ふ様に動かず

“指導者ですが、自分の導いた指導者が思ふ様に動いて呉れない――

“思うようといふが、  果して合っているか合ってないか判らぬ。あまり強く思はぬ方がよい。

弟子の扱い、(差別と平等)

“御弟子を指導させて頂く場合、差別と平等はどの様に致すべきでしょうか。例えば、ずっと以前から御弟子になっても大して働きのない人と、御弟子になったのは新しくても大いに働きのある人の場合如何致すべきでしょうか。右、御教示御願い申し上げます。

“どっちとも決めない。働きと古さが偏ってはいけない。古い人は功労があり、古さの味がある。然し働きを主にしなくてはならぬ。決めないで、臨機応変である。  差別は経で、平等は緯で、何れへ偏ってもいけない。公平は不公平である。(煙草配給などその表はれである)(S24・2・18)

離信の人を如何にすべきか

“浄化療法時代にお守を頂き、  其の当時大分熱心に努力なさったと聞きましたが、こういふ人が沢山居る様です。宗教になってから例祭の度毎に案内書を差し上げますが出て参りませんが、此のままにして時期の来る迄置くべきでせうか。以前にお道の為にお働きなさった人なら目覚める迄こちらから積極的に近づくべきでせうか。どの方法を取るべきかを御教示御願ひ申し上げます。

“捨てておくのは勿体ない。 (S24・9・5)

先生の良い悪いと取替える事(原則)、先生良否の影響、師気に入らぬ時の道

“現在自己の師事している先生の御道に対する精進が足│ない様に感じられて尊敬の心が起きなくなったり、或いはより以上│派な先生について  もっと御道の事を深く研究したいとの気持になったりした場合、そのお弟子や会員にとっては一応重大な事と存じますが、かかる際、御弟子会員としてはどの様な心構へをもち、どの様に進退致すべきでせうか。

“これは信仰のない人の考えで、その人に付くのは、神様がそうなさったのである。人間的にそうしたと思ふと大間違いである。先生が良いとか悪いとかはそう影響はない。先生をどうの斯うの言ふのは全然信仰がないのである。偉い画家などは出藍の誉れとか言って、皆先生より偉くなる。  ただ尊敬を失ってはいけない。形だけでも立てるべきである。そうでないと人間の道に外れる。先生が気に入らぬ場合は、より良くせんと努むべきである。先生の良い悪いは多少あるが、大して関係はない。又先生の判らぬ事もある。その為質問の途が開いてある。

師に叛いた教師の死

“教導師が自分の従ふ可き師に叛いて居る間に死んだ様な場合、霊界に於ける其の教導師のあり方並に師弟の最初の因縁と離れてからの因縁を御伺ひ申し上げます。

“霊界へ行っても同じ事である。逆っている事が正しければその方に御守護があり、逆っている事が間違っていればその方へ制裁を受ける。  逆っているといってもそれは見解の相違である。然し、逆っている間に死んだのであるから、その方が間違ってる訳である。親子兄弟の霊線は喧嘩しても切れぬが、他人のは切れる。  (S(*)・11・4)

所属変える事、(感情、地域)、(支部長となる資格)

“礼節と順序を重んずる事が此の御道の精神と存じますが、御弟子や会員がその所属を簡単に変えることは如何に考えさせて頂いたら宜しいでしょうか。右、御教示御願い申し上げます。

“所属を決めるのは――。(変えるのは大変な間違いで、今度は地域的に決めた)  自己の感情のまま先生を選ぶのは嘘で、大間違いである。地域的に近い方面に所属をするようにする。分所三ケ所―分会―支部。教導師が支部長になる。百人以上信者作ったもの。  (S23・12・8)

先生を変える事、(想ふ事と実行)

“先日、大光明如来様及び大の御守を戴いている観音教団の教導師の人から「今の先生についていたのでは発展がうまく行かないから、色色協力させて貰いたい」と指示を求め、熱心に申し込んで参りましたが、如何致したらよろしいでせうか。御教示をお願ひします。

“斯ういふ考え方は信仰の考え方が浅い。凡て神様がやっておられる事だから、最善を尽せばよい。先生が悪ければ神様の方で更迭される。私などもよくそう思ふ事がある。こうするとよい――と想ふ事は結構だが、積極的にそうする事はいけない。(S24・9・17)

先生を変える事、(智慧揮え)

“如何なる理由があらうとも御指導の先生を変へさしていただけないでせうか。

“之はデリケートである。感情を悪くするのも悪い。自然に巧く智慧を揮ふか、お任せする。又は質問を出す。(S24・11・26)

御報恩の仕方、(金銭の御用)

“神への感謝報恩は物質のみでは本当でないと思われます。精神的の行ない又は御奉仕等、如何にあるべきでしょうか。

“物質を提供する事はすでに精神が出来てる訳である。上げたくないのに強制的に上げるのは、浄財にならぬ。それは金に汚れがあり、光がなく、永遠の生命はない。感謝報恩の場合、無理してはいけない。本来の使命逸脱せぬ事。

金銭問題で退く信徒への対処

“一般の人で観音様の有難いことを多少知りつつも、いざ金銭物質のことになると「ハタ」と行き止る人――

“之も「有難い、じっとしてはいられぬ」と言って上げるのが当り前である。義理の考えで上げるのは観音様は喜ばれぬ。上げない人は、そのまま何とも思はぬのがいい。何れは大いに御用したがる時もある。アッさり言えばよい。

教会への義務怠る者の処置

“御道の先生方の中には、その所属する団体に対する義務を忘れて、自分の周囲を充実する事が御道の事だ――との錯覚に陥り、会費及び献金等の御取次や上納を故意に怠る人があります。尚自己の過誤を糊塗せんが為、他の人と相謀って同様の空気を醸成しようとさへ企てる人もあります。かかる団体の徳義を破り、順序を乱すが如き行為に対しましては、どの様な処置をとるべきでせうか。右、御教示御願ひ申し上げます。

“神様が処置をとる。誰も処置をとらなくてよい。(S24・10・3)

入信後熱意なくなる信徒

“自分から非常に進んで教修を戴いた信徒が、入信後急に熱気がなくなる人がありますが、如何なる理由で御座いますか。  御尋ね致します。

“暫く経つと急に熱が出て、一生懸命になる人もある。

御手伝い出来兼ねる信徒

“御手伝ひすると良いとは知りつつ、金銭物質、ヒマが要る為それが出来ない、言わば執着のある人――

“執着とのみは言えない。その人によって御手伝いする時期があり、時期の来ぬうちは神様が止める場合がある。表面だけみて判断は出来ぬ。神様にお任せして時期を待つ事である。

御用にお仕えせぬ人

“長男も御光を戴いて居りますが、始めのうちはよく解って会員を勧めて居りましたが、現在は少しも話を聞こうとせず、お参りも致しません。救ひの手伝ひをしようとも致しません。どうしたら一生懸命観音様のお手伝ひをするでせうか。母として悩んで居ります。

“時が来ぬ時はそういふ事は誰もあるが、時節が来るまで放ったらかしておく。神様に都合があるから一時停める。一生懸命ではいけない。線に外れてはいけない。時を待つのである。(S23・11・27)

御奉仕不振に悩む者への導き、入信を自惚れる誤り

“資格者は自分の罪が深いから尊い御道のお手伝ひさせて頂くと考へる事と、自分は神より選ばれた人間だと幾分高く評価する考へと、どちらが正しいのでせうか。資格者が熱心にお手伝ひさせて頂き度いと存じながら、最初の希望の如く御手伝ひの上に良い結果が生じない場合、自身の不徳及び不適任と思ひ、且つ経済的な面からも元の職業に返るのが正しいのではないかと迷って居る人がある場合、如何お話しすべきでせうか。

“どっちも正しいが、罪の深い浅いはない。因縁である。神から選ばれた人間として高く評価する要はない。系統である。働きあり、手柄を立てて仕合せになるのである。信者になっただけで自惚れるのは大間違いだ。斯ういふ人は決心が足りない。信仰が浅い。生命がけでもお任せしてやらう――といふようなら食ふに困らぬ。斯ういふ人は寧ろ元の職業に返った方がよい。行詰って、それからにした方がよい。決意次第。霊的ではない。要は人を救ふ事で、その決心をすれば神様はそうするようにして下され、働けるようになる。神の目的たる人助けをするといふ固い決意があれば、御守護ですべてうまく行く。役に立つ事である。

近親凡て反対・信仰続けるには

“私は戦時中現在の夫永井正夫(二十五歳)との間の恋愛問題で悩んで居る頃、本教の教えを承り救はれた者でございます。その後私が入信してお手伝いを致したいと思ふにつれ、母や弟が反対を始め、私が本教にて活動するのを妨害する為、その頃はあまり気乗りのしなかった前記永井との間の話を急速に進め、結婚しました。そして夫は只今は肺浸潤で病んで居り、私が熱心に勧めても浄霊を受けようとせず、又義母も反対で理解してくれません。元々義母は私達の結婚に反対でしたが、実家の母の熱心に負けて永井(三男)がその母を押切って結婚した様な理由で、未だ私を入籍もしてくれません。最近私は実家に戻って居りますが、家の者に隠れて御用をさせて頂いて居ります。この様に実家も婚家先の家族の者も皆反対の中で、私は信仰を続けたいと念願して居りますが、今後どの様にしたら皆の者が分ってくれるでせうか。又どの様にしたら御救ひが戴けるで御座いませうか。

“急には分らぬ。出来れば教導所へでも入って避けている。そしてお手伝いする。その方が早く分ってくる。(S24・11・27)

物言えぬ訳

“今迄は思ふ事を言へたのに関わらず、最近はそれが言へず、何か抑へられた感があります。霊的には何かありませうか。

“思ふ事が言えなくともよい。神様の方で止めてある。時が経つと前よりズーッと言えるようになる。 (S24・7・27)

御用の捗らぬ悩み

“色々と観音様の有難きお話を伺ひ、御利益も頂き、本年の二月に入信させて頂きました。私は独身であり、御手伝いをさせて頂き易い身でありながら、どうしても積極的に御用させて頂けないのが自分ながら情なく思って居ります。如何なる訳で御座ひませうか。又、今後如何にして御用させて頂いたら宜敷う御座いますか。御伺ひ申し上げます。

“未だ御用をさして戴く時期が来ぬのである。(S24・10・9)

信仰の焦り

“私は唯今郵政省の勤め人ですが、役所の事務の多忙と、其れに兼務の方もありますので、大先生の御仕事の御手伝ひが思ふ様に出来ないのですが、如何なる訳でせうか。何か御用が出来ない様な霊的の原因がありますでせうか。御伺ひ申し上げます。

“時期が来ぬ為である。すべて信仰は焦りはいけない。(S24・12・5)

不具者等の御奉仕

“御道に入信して、更に御弟子になり度いと熱望している人が、不具者であったり或いは普通程度の知能がなかったり致します場合、如何致したら宜しいでございませうか。右、御教示御願ひ申し上げます。

“不具者であっても舌が良い働きをするから良くなる。  (S  (*)・11・23)

不徹底な信仰はやめよ(僧の言に従ふ信徒)

“三月頃までは数多くの御利益を受けて喜んで居た人で御座います。親戚の反対によりて止めて居りました処、村の浄土真宗の僧侶が月に四回位読経に参りまして、御書体をはずしてしまへと申しました故、やむなくはずし、三宝の上に置いてありました。此の頃僧侶は川に流してしまへと申すそうで御座います。本人は今まで多くの御利益をうけていてそんな勿体ない事は出来ないとは申しますが、僧侶の言ふ事は案外よく聞くもので、私も自分が御導きした人でもありますので、如何にすればよいでせうか。お教へ下さい。

“罰あたりだから勝手にさせよ。中途で止めると反って覚りが遅れる。  僧侶の言ふ事を聞くなど曖昧な信仰はやめた方がよい。  この信仰をするか滅びるかどっちかといふ時期が今に来る。  (S24・9・7)

反信仰心の湧起と頭の痺れ、(積徳と副霊の邪魔)

“頭が痺れ、些細な事でも何時迄も気にかかります。絶えず神様に近づこうとする反面、常に之を妨げようとする別の心が動き、光明如来様が恐くてたまらぬ事があります。時としては教会へ行くのが大儀となり、先生が憎くてたまらぬ事があると申します。(浄霊を続け現在相当量の鼻汁が出て居ります)右は単なる浄化ですか。邪霊の妨害でせうか。

“これこそ霊である。鼻汁は両方。副霊がいて邪魔する。神様に近づかうとするのが本守護神。副守の力が相当強くなる場合がある。よく徳を積むと副守が弱る。そうするとそういふ事はなくなる。 

信仰不徹底稲荷に犯さる

“父は中風で御浄霊を戴き、私と弟の二人入信してますが、父が発狂状態になり、夜一時頃から三時頃迄暴れ、不眠の状態です。五年前より町内の白笹稲荷を預かって居り、父が白笹稲荷の御神体を指して狐が出入していると申しました。此の二、三日の状態がよくなって参ったと同時に、長女が朝突然ひきつけ、注射を一本打ってしまいましたが、教導所に連絡して御浄霊を頂き、大分楽になりましたが、その夜一時頃猛烈なひきつけを起して死亡、その後、父が又暴れ出して居ります。子供の死後、白笹稲荷を一応町内へ返したのですが、これで稲荷が尚更怒って居るかとも思ってますが、今後如何様にしたらよろしいでせうか。

“信仰が徹底していない為、そのスキに稲荷にやられたものである。徹底すれば、狐などにやられる事もなく、祀りかえる要もない。出来るだけ神書を読んで徹底し、父には祝詞を奏げてやる。

入信後の苦しみや迷い、(決心)、迷いは信念を強める、迷わすもの

“光明如来様を御祭りして病気がよくなったり、種々の災害から奇蹟的に救はれたといって非常に喜んで居る人もあり、又光明如来様を御祭りしてから家族の者が次々と色々な浄化の起る家がありますが、如何なる理由でせうか。御伺ひ申し上げます。

“その家の罪の多少による。例えば汚れた袋はきれいにしてから良い物を入れて下さる。大きい使命のある人程苦しみは大きい。よく磨かなくては使えないからである。  私の苦しんだ時よく思った、信仰は単純な自分の気持で決められないと。決心すれば苦しみはなくなる。病気でも生を諦めると助かる。迷ふ中は苦しみが続く。迷はすのは邪神で、信仰をやめさせようとする。迷ふ事は然し信念を強める。故に疑ふのも大いによい。治療時代、或男、途中で来なくなった。聞いてみると死んだら阿弥陀の側へ行けないと言ふ。絶対に信じたら如何なる宗教に入るも自由である。(S24・8・10)

使命と苦しみ、(迷いと苦しみ)、迷い・苦しみは徹底せよ

“罪の多少による。容れ物の掃除をする。大使命があるほど大苦があると神様は言はれる。故に使命の大なるほど苦しみは大きい。よく磨かなくては役に立たぬのである。私などそうである。信仰は単純な人間の理屈で考えるのが一番危い。迷っているうちは苦しみが来る。迷いがなくなると苦しみは来ない。迷ふのは心にスキがあり、そこで邪神がゆさぶる。絶対動かなくなると苦しみはなくなる。病気の場合でも、生きたいと思ふ病人は死ぬ。諦めるのは助かる。迷ふのは固まっていない。然し大いに迷っていい。迷い抜いて固まる。前に麹町へ支部を出した時、風呂屋で足の悪い娘で、もう一息でよくなる所でやめた。査べると、これがよくなると阿弥陀信仰をやめなくてはならぬ。娘一人殺しても止められぬといふ人もあった。夫婦と同じで、女に欠陥があれば、他の女と接しても疑ふ。迷ふのも疑ふのもウンとする。中途半端で入るのは面白くない。本当に使命と因縁があれば――。

女は男の六十分の一か

“夫婦は霊体であり合せ鏡であると伺って居りますが、これと女は男の六十分の一であると言ふ事との関係をどの様に考へたら宜しうございませうか。

“こんな事はない。之は月と太陽の光だけを説明した学問上の分析の結果であって、それがそのまま人間にあてはまる訳ではない。(S24・11・14)

薬に浄霊

“私の家は医業で生計を立てていますが、薬調合の時、薬品に御浄霊して患者に与ふる場合の効果は如何でせうか。

“之は全然意味をなさない。丁度泥棒が警官の服を着て入り込むやうなものである。反って浄霊すると余計いけないかもしれない。

午睡の功罪

“夏季の午睡の功罪――

“斯ういふ小さい考えはいけない。  (S24・8・9)

観音様の髭

“この教団に入信する方に、観音様は髭がないからと言はれて皆落してしまひますが、どういふ訳で髭がいけないのでせうか。

“その人の勝手である。私が言った事はない。観音様は男で女である。どっちでもよい。

清貧に安んずる事

“貧を清貧と称して甘んじて霊界に行った者の霊界に於ける苦悩はどの様になって居るので御座いませうか。

“貧乏でも金持でも第二義的のもので、善い事をした為とか、怠けてとか、意気地がなくて、  智慧が足りなかったりなどして貧乏になったのなどいろいろある。何れも違ふ。何れにしても世の中で善い事をした人が霊界でいい。金が不正な事をして入り、善い事をした処が、差引き悪い事が多ければいけない。故に正当な手段で金を儲ける。今迄は不正手段でなくては儲からぬとしている。之は欲があって智慧のない人である。いい手段で金を儲け、世の中の為に金を使ふ。之が一番いい。  よく清貧に安んずるのは大いなる間違いである。アメリカにはいない。日本には此精神があるから発展しない。悪い奴が栄えているが、斯ういふのは働きがある。少し悪い事があっても、他に社会を裨益してあると大いに得になる。(悪に強いのは善にも強いから、その徳が光る)大いに儲け、大いに善い事をする人間が殖えなくてはいけない。アメリカはそうである。ソ連流の行り方はいけない。不正の手段である。(日本人はソ連や英仏の真似をしてアメリカの真似をしない。之はやはり封建的の故である)清貧に安んずる者が多いか、又は金儲け一方になるかで、何れもいけない。どっちにしても国は亡びる。国際競争のない時代は清貧に安んずる事もあっていい。(S24・11・14)

金銭の良否

“金銭をウミと聞いていますが、之が即肉体のウミである訳――

“金銭は尊いもので、使いようによって貴い、  いいものになる。良い方へ使へば大したもので、今迄は多く悪い方へ使はれた事が多かった。その為汚いもの、卑しいものにされたのである。前に信仰時代よく三味線を習っていいかを聞かれたが、私は大いに習いなさいといった。  之もよくない事につかはれる為、いけないものと錯覚している。世の中にあるもの凡ては人間の為にあるんで、どんな物でも大いに使ふべきであるが、ただ使いようによって善にも悪にもなるのである。

金の汚れに就て、(金の善悪)

“私の部落(三重県津市大字北河路)で潅漑用水井戸を掘って居ります。(深さ六百余尺、太さ十二吋)先日掘り終って六百尺の鉄管(三十三本約十五屯)を入れました処、最後の鉄管を入れ終る直前、あっと言ふまに金車の鍵が折れて  二十四、五尺も深く落ちてしまひました。二ケ月余の労力と、七、八十万円の費用が無になるのではないかと心配して居ります。自然を無視した為でせうか。又何か霊的の働きでもあるので御座ひませうか。御伺ひ申し上げます。

“罪の消えた事を喜ぶべきである。神社仏閣がよく焼けるが、之は作る金が汚れてるからで、浄財でない。又維持するにも汚れた金が入っている。極く汚れのひどい金は神様にとられる。大先生とて、理由の分明でない事でとられる事がある。それはそういふ訳である。人間の解釈はアベコベが多い。喜ぶべき事を悲しみ、悲しむべき事を喜ぶ事が多い。金についても同じようで、霊的にみると非常に違ふ。善い金と悪い金とがある。人間の想念によって違ふ。株なども、利益配当が目的の株か否かで――相場が上るのをとるのであるから本当でない。であるから、大変な怨みが籠っている。儲ける人は一人で、損する人が大勢で、その怨みがくっ着いている。損してとられたといふ強い怨みが一ぱいある。紙幣には怨みや悲しみの面がくっ着いている。  であるから、儲かるほど損をする。損すると取返そうとするから益々損を大きくする。それで、最初から損をするのは小額で済むから反って幸せである。故に株で儲けたのは殆ど雲散霧消する。悪銭身に着かずである。野月文四郎とか杉野喜平など皆そうである。(多額の金をとられるのは痛い。それを寄附でもすれば大勢助かる)(S24・5・27)

水と金銭の共通

“私の家の井戸は村一番と言はれた良質の井戸水でしたが、昭和二十一年十二月十八日、南海地震の時から水が出なくなり、それからは水は一滴もなくなりました。翌々年六月頃より一尺程水が溜り始め、同年十一月頃には三尺余りも溜りましたが、水は以前に異なり硬水状態であります。隣家の井戸と同じ水脈の筈ですが、私の処は悪質であります。去る五月五日親子三人入信させて戴きましてより、浄霊の御陰で水は大分澄んで来ましたが、未だ硬水状態であります。早く良水に戻る様に御利益を戴き度いと思ひますが、  如何にしたらよいでせうか。御教へ願ひます。

“方法もない事もないが、信仰の浅い時は具合いが悪い。信仰によって人助けをする。又言い難いが、お金を儲ける時、善い事に使ふ。そうすると水が良くなる。水と金銭は共通している。よく光明如来様に御願いして、浄霊すれば元通りになる。  (S24・5・28)

病貧苦を脱する道、(目標神の御力) 

“私は昭和二十年三月戦災に逢ふまで、東京在住二十三年間に様々な信仰をやりましたが、昨年六月五六七教のお話を承り、之こそ待望の信仰であると信じ入信致しました。元来私は非常に弱い身体にて、二歳より六歳まで脊髄になり、其の後セムシとなり、職業の写真業も戦災の為失業、体が弱い為就職も駄目です。此の病苦、貧苦より如何にしたら脱する事が出来ますでせうか。

“現に五六七教へ入って出来るだけ働く。その褒美として神様の方でドシドシ良くして下さる。  すぐによくなるのは無理だが、だんだん良くなるから一生懸命せよ。信仰は相手の神様によって非常に違ふ。神様に力があれば、一生懸命やるほど、そのおかげは大きい。(S24・8・15)

生活困らせぬ神、(中島苦難時代)

“従来の商売を捨てゝ専ら観音様の御手伝いをさせて頂いて居りますが、財力乏しく二、三ケ月後には生活に困ることと存じますが、家族の反対を押し切って進ませて頂きます。生活の心配は御座いませんでせうか。

“生活に心配するような事は決してない。ちゃんと神様の方でそんな困らすような事はしない。絶対心配ない。以前、中島が金に困り、電車賃がなくて来れなかったといふ。ちょっとその宅へ立寄ってみると、赤貧洗ふが如しであったが、それから年年良くなり、近来は素晴しい。生活を困らすような神なら信仰する要はない。人間でも働けばそれだけの手当をする。  (S23・8・17)

熱心な程貧になる理由

“病貧争より脱し切れなければ人を導くことは出来難いと承はりますが、熱心になればなるほど貧になり勝ちになり、人がついて来ないといふことは、如何なるわけでございませうか。

“間違った熱心だからで、人間力を頼りにする。神様にお任せする事で、之は熱心な人に多い。この宗教は今迄の宗教とアベコベで、今迄は努力奮闘したが、それはいけない。楽にしなければならない。今迄の救いは下から尻を押上げる行り方だが、教団は上から引っ張るのである。生活を楽しみ、人を救ふのが面白いのでなくては本当の救いではない。浄霊でも一生懸命するときかぬ。軽い気持でやると神様の光が強く行き渉る。他力信仰と自力信仰がある。自力は人間力である。自力は知れている。観音様の御力を自分の身を通して戴く。治す道具にさして戴く気分なら骨折る要はない。苦心惨憺とか、苦心努力は間違っている。楽に、面白くやらなくてはいけない。  (S24・11・19)

貧の原因(根本)

“私は昭和二十二年五月入信し、二十四年三月より勤めを止めて御手伝ひさして頂いて居りますが、貧より抜けられません。如何(イカ)なる訳でせうか。世間では名前に依って悪くなる事があると言ふ人があり、迷って居ります。事実で御座いませうか。事実とすれば如何(イカガ)致したら宜しいでせうか。

“貧乏になる人は多くは小乗的信仰の為である。大乗滴的やる。貧乏は経で、火の働きである。  物質は水であり、金である。緯へ拡がる働きである。

家庭と金の浄化、(不正財と霊界)

“私は一昨年八月入信し、御光を受けまして、光明如来様を昨年末御迎へして御祭りして居ります。息子は十一月から親の意見も聞かず、時々外泊する様になりました。浄霊も嫌ひ神様にも御参りしません。今後如何致しましたらよろしいでしょうか。

“息子とか夫とか親が道楽したりなどして苦しめるのは浄化作用である。母なら母に罪穢があり、息子の不行跡で心配するそれが浄化作用である。すべて病気でも災難でも、苦しむ事は苦しむべき罪穢があるからで、毒素があると浄化するのと同じ事である。故にその人がその人がと怨んだりするのは違ふ。その人でなければ他の人がやる。であるから、軽く叱る程度にして放任し、自分は一生懸命徳を施す。すると苦しみが来ない状態になり、自然に息子も不行跡は出来なくなる。ひどい目にあっても実は感謝すべきかもしれぬ。こっちでその気持になれば、自ら先方も苛めたり苦しめたり出来難くなる。斯ういふ事もある。その家の財産など不正の財が積んであると霊界で良い所へ行けぬ。欲ばって人を苛め、貯えたものなどは早くなくさなくてはならぬ。その人が霊界へ行ってそれを知り、子孫の中の道楽の素質のある者を選び、自分が憑るか、霊界の身内の誰かに憑らせて道楽をする。そうして財産をなくして祖霊が向上する事となる。そして又周囲の家族も戸主も助かる。それを知らず腹を立てるが大いに間違っている。そして、そうすると今度は正しい金が入って反って幸福になる。之は信仰に入る人によくある。汚れた金を維持していると浄い金が入るのが遅れる。借金を返してから浄い金が入る。空っケツになってから神様からの金が入る。(S24・10・16)

入信後の減財

“私の異父兄でありますが、かねがね素行がおさまらず、屡々金の無心等に参りましては私共を困らせて居りますので、どうかして当人をして其の本心に甦らせ、真面目な人間にいたしたいものと機会ある毎に本教団の御話をしてきかせるのですが、一向に耳を傾けようといたしません。どうすれば一日も早く当人を真の人間に立ちかえらせ得ませうか。 

“簡単にはいかぬ。其人の財が真の浄財なればいいが、昔から貯めたものは大抵良い意味のものはない。之は早く無くさなくてはいけない。財産を無くさなくてはならぬ。それで誰か道楽者を作って使はす。そしてその家の浄化作用をする。斯ういふ事は非常に多い。それでも駄目なら火事で焼いたりなどする。入信してお願いすると反対に反ってドシドシ使ふ。御神徳があると早く使ふ事になる。茲に解釈出来ぬ点がある。少しも不純な物がないとなれば止ってしまう。やはり出来るだけ人を救えばよい。神様へ手柄する。その功により罪穢が減る。汚れた金も浄まるからピタリと止るのである。(S24・3・4)

道楽の子に悩む、(御守護と金の浄化)

“相続人が道楽で困って居ります。私は夫婦の間に子供が無く、現在、兄の二男を貰ひ相続人と定めて居ります。義男と申し、本年十七歳になりますが、昨年八月頃より少しづつ素質が変り、段々御金を使う様になりました。然も十一月頃より一段と激しくなりました。十二月中旬と存じますが、大先生へ先祖の供養を御願ひ致しました処、当座は直りましたのでほっと致しましたが、  最近亦々始めました。色々と苦労を致して居りますが、此の分でゆくと前の子供(やはり貰ひ子)と同様青年期になりますと道楽者となるおそれがはっきりして参ります。此の上は大先生へ御すがり致すより方法なしと存じまして、今日御すがり申し上ぐる次第です。右子供の実兄が私の家で弟子になり働いて居ります。此の兄弟は二人きり有りません。両親は既に他界して居ります。父親は七年前と思ひます。母親は十七年前です。何か霊的関係が御座いませうか。尚現在、私の家の方位は信仰雑話を拝見して調べますと、湯殿が裏鬼門になります。良き方法を御教へ下さい。

“湯殿の裏鬼門は構はぬ。子供が心配をかけるのは、心配する人に罪穢がある。やはり浄化作用である。病気と同じ意味である。そういふ事でなければ外の病気等で苦しむ事になる。財産に少しでも罪があると、罪であっただけのものは吐き出さなくてはならぬ。  であるから、反って信仰に入るとそれが早くなくなる事になる。故に余り心配せず時期を待つ外はない。小乗からいふと道楽者があると御守護がないかと思ふが、実は御守護が多い程そういふ苦しみが続くかもしれない。道楽者は汚いものを出来るだけ除ってくれる訳で、或程度で光明如来様にお任せする気持になれば、金はだんだんなくなると、いいお金を神様はウンと下さる。これは信じられぬが間違いない。(S24・1・25)

財物の浄化の手段、(神の御使用と不浄財)

“私の教導所に関係して居る信徒で、本年四十九歳にて油脂工場を経営して居る人ですが、  三年程前まで事業は盛大で相当財を積みました。二十一年三月教修を受けましたが、分らないでその後御守も紛失してしまいました。事業は二年程前より左前となり、百数十万円の借金を負ひ、家財を処分し幾分かを返済しました。その苦境に立って観音様の有難い事、又私の御導きに少しは分って戴き、無理算段して再教修を授かり、光明如来様もお祭りさして頂き、ひたすら神様のお力にお縋りして居ます。色々御利益を頂きましたが、事業の方は愈々深刻化しています。斯様な物質的浄化は相当続くので御座居ませうか。御伺ひ申し上げます。 

“人間の金と神様の金と違ふ。人間の金は怨みとか妬みとかが多く、世の中を善くする用途よりも、悪くする用途が多い。今の世じゃ正当に儲からぬ。罪の塊のようなものである。光明如来様が宝をやらうとしても  汚いものがあるとやれない。それで財布の浄化をされる。その意味と、汚れたものを蓄えておくとそれに益々利息がつく。それで、祖先を救ふ場合、掃除をされる。財物浄化の手段(として種々な事がある)であるから、此人は先へ行くと非常にいい。損せぬうちに神様に使って頂けば非常に良いが、あまりに汚れた金は神様の方では具合が悪い。大先生の御手許へ入った金でも、あまり浄れた金は使えない。であるから損した金の事など歎く事はない。与えて下さる金は奇蹟で入ってくる。(S24・7・18)

金銭の汚れと神様への金、神より賜ふ金の率

“古い寺、堂宇などの焼けるのは、それを建てた時の金銭が汚れている。それで物を買ったり造ったりすると、そのものが汚れる。上げる物が汚れている。中には盗んだ金を上げるのもある。相場の金など、札に沢山損した人の顔がある。それが本人の所へ霊線により繋っているから、どうしても引っ張られ、懐から出てくる。その金で造ったものはやはり出て行ったり、家なども焼けたりする。それは移動するもので、損したり、人にとられたり、下らない事に使ふ。  その結果其時口惜しかったり、悲観して苦しむ結果となるから、結局悲しみや苦しみを買ふようなものでつまらぬ。儲ける程恐い。不動のものは――。汚れてる――火事などで焼かれてしまふ。正しくない事で得た金を神様に上げると、その人の想念により或程度浄まるが、全然は消えない。「儲けさして戴きたい」などの目的で差上るのはよろしい――といふより寧ろいい。上げた金は大体十倍になって返る。(S23・8・4)

御奉斎後の盗難

“私の家で光明如来様を御祭りして度々盗難に逢ひます。御祭りして強盗が一物も得ず退散した報告も信徒の方から聞きます。私の方は其の反対であります。この事について御教へ下さい。

“何か訳がある。何かその家に罪がある。もう一層浄まれば中へも入らなくなる。金銭財物にでも怨みがあったり、汚れたものがあり、その罪を除らなければならぬのである。(S24・2・16)

生命保険と信仰

“生命保険は如何取扱う可きでしょうか。御教示御願い申し上げます。

“教団へ入って或程度分った人は必要ない。(早死しないから。但し、家の生命は請合えぬ)家を作っても、本当に正しい金で作ったものならいいが、怨みの金などで作ったものは焼けたりなどする。(S23・11・18)

布教の要諦、行当りばったり、布教者の資格と不振時の応処 

“開拓に出掛けても中々浄霊を受けません。たまには浄霊を求められます故、お話をして上げますが、思ふ様に入信致しません。如何様にお勧めしたらよいでせうか。布教の要諦を御教示下さい。

“布教する人が神様から本当に認められていない。これも自分が資格がない。相手が悪いのでなく、自分にある。大いに神書を読み、知識を得れば、光明如来様がお使ひになる。布教の要点はない。私などよく講演や話を計画したが、何にもならぬ。行当りばったりがよい。信仰的知識を涵養する。すると光明如来様が利用される事になる。御自身にそれだけの資格がないから神様が止めている。布教の要点などはなく、自然にぶつかると、自ら要点が出来る。焦ったり、精神的に苦しむのは神意に反す。(S24・6・26)

人導けぬのは、(想念・気持が動かす、相手の気持察せよ)

“人をなかなか導けないのは導く人の四魂の働きが鈍い為でしょうか。それだけの因縁なのでしょうか。御伺い申し上げます。

“人を導けぬのは両方である。因縁と又導き方の悪い場合もある。(分らない場合もある)話は下手でも、誠であれば向ふへ通ずる。喋り方はまずくてもよい。此方の想念や気持が動かすのである。又、相手によって違ふ。同じように持って行くのは違ふ。菓子の好きなものには菓子を、酒の好きなものには酒をやる。相手の気持を察するのである。やはり智慧が働かなくてはいけない。浄霊でも、急所を外れるようなものである。 (S24・2・14)

無理な入信、両親の猛反対、大乗小乗、(霊的因縁、順序と入信)

“本人は熱心に受教入信を希望致しますが、両親が猛反対で何としても許しません。此場合信仰は神と本人との関係で他人の介入すべからざるもの、譬へ家を追い出されても入信さすべきか、それとも少しでも両親が分る迄待つべきか、待つ事は両親をして益々神に対する罪を重ねさす事ともなり、またそれ迄に自分が死んでは大変だと歎いている娘がございます。大乗的の見地からその希望通り無理にでも入信させ、そして本人さえ立派になれば、両親が分ってくれるとも思ひますが、こうした場合、教師としての指導の仕方につき――

“無理に入信さすのは小乗的である。大乗的にいえば放置しておく。信仰には決して無理があってはいけない。それは神に任す気がないので、本当に信仰しているのではない。神に任す気持が一番大事である。入信するにも霊的因縁や順序があり、これを狂はして入信さしても駄目である。無理に入れるのは小乗大きい肚でいるのは大乗である。

神様の有難さを知らす最良の法、努力とお任せ

“観音様の有難い事を知らせる最も良い方法――

“皆やっている事でいい。早く知らせようと焦るのはいけない。浄霊、宣伝は観音様が道具に使っているのであるから、道具といふ観念を持っていなくてはならぬ。智慧も磨き――。自分がやるような気持に偏るのはいけない。ただ「最善を尽す」べきで、結果を顧慮する要はない。資格がない時、時期の来ない時は観音様は捨てておく。だから、「出来るだけ努力してお任せする」のがいい。結果はすぐに表はれない。経路を経て表はれる事がある。随分無駄したようで、無駄でない。必ず芽の出る事がある。種播いて早い遅いはある。あまり気をもまぬ方がよい。

分らせようとする事、(教師心掛け)、神と人間力、霊体調和、小乗信仰戒意、振不振と御神意

“私は教導所の責任者として御用をしておりますが、私の村は八百余戸、入信者現在百余名、光明如来拝受者十五名、大光明如来四体を奉斎させて戴いており、五、六人の方が熱心に協力しております。然し私も時々困難に突当り、一生懸命御用したくも思うに委せぬ苦しみをしております。主人も現在教導師の御資格を戴き、大工仕事の裡にも懸命の努力をしております。夫は養子ではありませんが、私と母と同居しており、母も余りに熱心の為、非常識な位にまでなり、時々御浄化を頂きます。此の母の行為に就て兎角周囲の人より妨害され、日夜頭を悩まし、自分の未熟な行為の為寝つかれぬ事も御座います。如何にしたら周囲の人々を分らせ、出来る丈の御用が出来ませうか。御伺ひ申し上げます。

“分らせるといふ事が間違っている。分らせるといふのは人間の力を過信する事になる。神様が分らして下さるのである。此人の信仰が狂ふのは小乗的であるからで、(熱心の為に非常識といふのは嘘である)飽く迄、常識的でなくてはいけない。  人間は何の力もない。人間の心で決めてはいけない。どこまでも神の道具で、神様がやらして下さる気持にならなくてはいけない。(浄霊でも心静かにしてやらないと神様の霊気が通らない。力を入れ一生懸命にどうかして救はうとすると人間的だからいけない)大乗的になるべきである。(無理に分らすのはいけない。神様にお任せし、自分はやらしてもらってるといふ気持である)発展するか否かは神様の思召しである。人間の力が強くなると反って成績が挙がらぬ。(浄霊も静かな気持でやらなくてはいけない。一生懸命やると治らぬ。力を入れずにした方がよい)宣伝も一生懸命扱ふといふ気持はいけない。(時期が来ぬうちはいくらやってもいけない)といって、お任せしっきりでもいけない。その区別を調子よくやる。神様は霊、人間は体であるから、  霊と体と調和すべきである。小乗的信仰は最もいけない。咎めや憎しみは極くいけない。(S24・8・27)

人に分らすには、(正直であれ、御神書拝読)

“私は本教教義普及に関して分った様で実は色々分らぬづくめでありますが、扨て「御伺ひする事はないか」と言われると、何をどういう風に御尋ねするかが又分らず、ボーッとして了ふのであります。実は求めると言ふ事と焦ると言ふ事の区別がつかぬまま勝手推量をするのです。相手が分らぬ時は未だその人に分る時期が来ぬ為だとか、何とかして分らせて上げたいと思ふ時は亦焦りでないかとも考へ、とんとピントが合ひませぬ。如何に致したらよろしいでせうか。御教示下さい。

“やはり焦りである。分っただけの事を話せばよい。想像で言ってはいけない。ありのまま正直に分っただけを話す。いろんな関係があるから分りそうなら話す。出来るだけ御本を読む。すると分ってくる。信仰的知識を豊富にする。すると頭の働きがよくなる。又、神様から智慧を与えられる。御守護があるから分らぬ事もフッと教えられる。出来るだけ本を読む、そして質問せよ。(S24・10・27)

知らない事は知らないといふ事。  (S25)

講話の用意、(神の智慧与えらる)

“十二月十二日、中六人部村大内青年会の常会に「青年と宗教」に関するお話をして頂きたいとの依頼を受け参加させて頂きましたが、どういふ事を話して良いやら分らず、先ず皆さんに「此の世に神が在ると信じますか、又何か宗教に入られた方がありますか」と質ねました所「神はなし。又宗教も入らない。然し仏はあると信じます」と答へました。即ち此処の青年は皆無神論者ばかりです。故に一応神があると言ふ事について簡単にお話して第一回を終りました。今後こんな場合如何様にお話すればわかって頂けるでせうか。右、御教示お願い申し上げます。

“何にも前から用意せぬ方がよい。神様が導いてそこへ行かすのであるから、自然に言いたい事が出てくる。その座に合ふような話をする事になる。用意の必要はない。唯物科学教育には宗教は不可。人により時期があり、臨機応変に話すとよい。

霊界に於ける教修、(宣伝広告の不必要と霊の活動)

“霊界でも現界の様な教修をして居るものでせうか。私の方に死んで行った子供が夢で「講習を受けるから御金を下さい」と言って来たので、其れではやるから帰れと言って帰し、あくる朝仏壇に千円上げ、これをやるから講習を受ける様にと言っておいたそうです。すると其の晩、今度は死んで行った人の弟の所に夢に出て、息せき切って来たので、何しに来たと言ったら、夕べお父さんから講習を受ける為の御金を貰ふ事にしてあるから、今自転車で取りに来たのだと言ったと言ふ事を聞かされた事が御座います。尚、右霊界人は結核で観音様の御浄めを頂いて昇天した人です。

“この通りである。教修は霊界の方が盛んである。教修を受けた霊が大いに働くので発展する。昔から宣伝や広告の要はないと言ったのは、やはり霊界で拡まるからである。霊界には貨幣などないから、現界から取寄せるのである。(S24・2・22)

霊の宣伝、(子孫の霊浄まる光で祖霊浄まる)

“何代も前の祖先の浄化されていない霊魂に対する御救ひの正しき方法をお教へ下さい。

“子孫が入信して人を救ふ。その徳によりその人の霊が浄まる。浄まると光が出る。霊線を通じて祖先が浄まる。そうして祖先が霊界で救はれるのをみると、先を争って導き、入信する。霊界では今審判が決まるので、焦って入信したがる。霊が宣伝しているのである。  (S24・1・6)

入信の真相と根本、無理は神権侵犯、人間に入信さす力なし、御分霊が世界支配

“本教団入会後四年になります。親はこれに無理解です。親との意見が合はないが、これは親不幸とはなりませんでせうか。

“入信するには人によって時期がある。時期が来れば入信する。最後の時期はどうしても入信しなくてはならぬ時である。人によりいろいろであるから、それは時期が来ないのであるから、それを待つ事である。人間は人を入信さす力はない。神様が人を入信さすのである。人間は橋渡しをするので、手を引くのは神様である。人間は人間を審判く事が出来ぬと同様で、それだけの権能を与えられていない。人間が善としてやってる事で悪とみられる事もある。悪にみえてもそれは仮のもので、批判は出来ない。(戦犯者でも悪とは思っていない。生命をすてて天皇の為国家の為に尽したつもりであった。それなのに絞首刑になるのはあまりにも訳が判らぬような事であるが、神様から御覧になれば、悪だったかも知れない。日本が戦いを起し勝ったとしても、日本はいいが、他の国の国民は、国を失い、国民の多くは死に、他国の自由にされる事になる。神様は世界の民族を同じように見られている。そして世界を支配されているが、皆その御分霊が支配される)  善だと思ふのはいいが、それを決める事は出来ぬ。神様の有難い話はしてもいい。ただ無理に入信さすのは悪い。それは神の領分を犯す事になる。どうしても駄目だと諦めてから先方から求めてくる事がよくある。即ち、時期が来れば入信しなければならぬよう神様が順序を立ててくれる。又、霊界で祖霊が、沢山救はれているのをみて、自分の子孫に対し入るように種々する。であるから私の方では宣伝したり、新聞雑誌には出さない。霊界の霊の働きが一番力がある。 

布教と時期、(税問題が表面的活動の転期)、祖霊の働き

“時期を待てと教えて戴きましたが、自己の経験上の事丈ならそれと知り得ましても、特に布教に関した事になりますと、時期如何が判りません。勿論その人その人によって相違のあることは申す迄もありませんが、結局は浄まり方如何が時期を知る、知らぬといふことになりませうか。夜昼転換の重大時に際会して、知ると、知らざる結果はその人の運命に迄及ぼすとしたら、疎かに出来ない問題であります。神の仕組とのみ解して、平然たり得ないといふ事も考えられます。此の問題に付きまして具体的に御教示下さい。

“この人の考え方は時期を待たぬからである。機が熟していない。凡ての事情はそういふ風になっている。例えば、去年税金問題で本教は急に世の中へ知れた。そして世は注目し始めた。それで税金以外の運動など書きたてた。そこで此方は今迄考えていた事をドシドシ始めた。即ち新聞、雑誌、単行本を出し、表面的に宣伝を始めた次第である。それが風雲に乗るとか時期を掴むとかいふ事になるのである。個人としても、入信させようとしたり、又自分の仕事をやめ大いに救いの道一方にしようかと思って迷ふ。その中時期が来ると凡ゆる事情がそうしなければならぬ事になる。(そこで転進すればよい)(私など、先に実業をやったが、無理にすると面白くない――うまくゆかぬ。その時分から時期を待つ事を知っていた。その中俗世界を捨てて神業一方にせざるを得なくなったのである)無理をしてはいけない。反対などあっても、時期さえ待てば神様が良い具合にして下さる。何かやらうとして故障が起る。するとよしてしまふ。(此土地を手に入れる時など、欲しくて仕様がなかったが先方は売らなかった。二、三年待っていたら先方から売りたいと言って来た)信仰に入れるにも順序があって、この人を入れてから此人を入れる――その順序を無視してはいけない。人間は順序をよく間違える。人間の眼で考えては、その第三の人を入れた方がよいように思ふのである。すべて時期と順序がある。ブツかって来るものは神様が命ぜられたのだからやればよい。その人に大勢の人を救ふだけの資格がないと、いくら焦っても神様は仕事を与えられぬ。その人相当の力が出て来ると、祖霊が神様の御許しを得、又は御命を受けて働く。そこで効果があるのである。結局は自分である。  自分の力をつける事である。開けぬ時は御本をよく読み、霊を向上さす事である。決して相手が悪いのでない。(金光教はそれが極端で、最初二年間位ブラブラ遊んでいて漸く一人出来たなどといふ。大本教はそうでもないが、天理教は引張るのが好きである)(S24・6・27)

入信の時期、(種子生長の遅速)

“最近宗教家、心理学者が本教に関して関心を寄せ、頻りに研究に参りますが、垣を隔てての問答に墜ち易くなります。光新聞、地上天国、信仰雑話によっても尚且つ分らぬ者は、結局救ひ得ない事になるのでせうか。最良の方法を御教え下さい。 

“(そんな事はない。そういふのは印刷物に限る。その人によって時期があるので)すぐに共鳴せぬのはその人の時期が来ぬのである。種子の生長にも遅速がある。種を播いても育ちの良い悪いの気候がある。人によって種々ある。新聞などを見せるのは種を播くのである。種さえ播けばよいので、その中先方から求めたら入信の時期が近寄ったのであるから早い。(S24・6・27)

入信の奨め受付けぬ場合、(守護霊の入信)

“三十二歳の男子、本教の信者ではありませんが、近頃危険な所を奇蹟的に救はれていることが多々あります。又、夢を見ると、夢通りの事が起るのです。其の人は独学をしていまして、本教の話をして信仰を勧めても全く受付けません。如何にしましたらその人をお導き出来ませうか。御垂示お願ひ致します。

“一遍か二遍話をして後は捨てておく。本人の守護霊があるから、何れそれが信仰に入る。未だ時期が来ないのである。(S24・8・27)

分らぬ人話す程分らず

“親、兄弟は未だ反対していますけれども、どうすれば一番早く分って頂けるでせうか。何か霊的に因縁があるものでせうか。お伺ひ申し上げます。

“時期が来ぬのである。分らぬものは話すほど分らなくなるものである。

受け入るる者なく布教行詰る、無理な種蒔き、(明主様御布教時代)

“自分の居る村の人々は観音様の話をしても分らず、御利益を見せ付けられても疑い、且つあざけり笑ひ、悪しきは反対をも致します。さりとて開拓に出かけても芳しからず、金は要る、日は進むし、進退きわまったとさへ思ふ時があります。

“之はある。大先生様も信者が一人もなかった。話しても分らず、困った。それが段々拡がって――。気長にゆっくりやる。時期が来ると必ず生きる。種播きである。その人の魂へ種を蒔く。無理に作ったのは挫ける。(S24)

親子一世・夫婦二世・主従三世、(現在の夫婦の霊層)、努力の逆効果、無理と焦りの非 

“親子は一世、夫婦は二世、主従は三世の因縁について――

“之は昔封建時代、家来を殿様なり大将の為生命を捨てて働かす目的の下に非常に縁の深いような道徳を造った。夫婦は二世といふのは本当である。親子一世も本当で、厳密にいえば親子も二世である。夫婦にしても、五人も六人も妻のある人もあるが、原則として最初のが本当である。因縁により、夫婦であったものは夫婦になる。世が乱れ、邪神が活動する為に、本当の夫婦でない事も種々ある。男女間の事は非常に神秘である。之は大乗で説かぬと分らぬ。霊層界であまり遠いと夫婦になれぬ。夫婦同じ霊層界という事は、ミロクの世までは絶無とはいえぬが極く少ない。今は大抵高さの相違がある。分らぬ妻を、信仰の橋渡しするのは人間でいいが、信仰に入れるのは神様に任すべきで、努力すると反って逆効果になる。無理や焦りはいけない。(S23夏)

熱心な入信の勧め

“私は昨年八月入信、私が熱心になるにつれ兄肇(二十五歳)は私に物も言はなくなり、毎夜の如く何物かにおびやかされて居る様です。過日私宅の光明如来様の御霊魂祭にも、どうしても参拝してくれません。兄との関係上父親も入信を迷ひましたが、  此の度浄光を戴きます。今後如何にすれば兄のひねくれたのが治りませうか。

“何にもせぬ方がよい。無理に勧めたりすると神を冒涜する事になる。奨めても応じないのは罰あたりである。(S25・4・6)

入信希望なき者

“私は昭和二十三年一月二十七日入信致しました。尚私の妻も其の後入信させて頂きましたが、最近は一向に信仰心なく常に病苦に悩まされて居ります。私も何時でも御浄霊をさせて頂き度いと考へて居りますが、本人が余りにも希望がないため、如何致しましたらよいでせうか。

“希望がなければ放ったらかしておけばよい。押さえつけると神様を冒涜する事になる。斯ういふのは神様に背かふとする霊が憑いている。(S24・8・17)

話す程信仰を避ける家族の対処

“家族七名中六名迄は入信、微力ながらも御用をつとめさせて頂いておりますが、長女の婿養子(三十一歳)だけがどうしても知らうとせず、協力をしてくれません。御利益を知っており、家でも御参りは共にいたしますが、話せば話す程反動的に釣に熱をあげる始末で御座います。如何すれば良いでせうか。御教示下さい。 

“之も腹中の客がやるのである。腹の底が悪い。その家の霊界が浄まってくると邪霊は萎縮し、  間違った考えはもてなくなる。すると同化しなくてはおれなくなり改心する。時期の問題で、無理に話したりなどせぬ方がよい。話すと邪神がいろいろ思はすから、反って反対に出る。(S24・7・27)

どうしても分らぬものの場合、宗旨霊の妨害

“十人兄弟で、私は男七人女三人の七男で御座いますが、現在は男四人女一人になりました。兄弟皆別に世帯を持ち、長兄を除き大光明如来又は光明如来様をそれぞれお迎へ致して御利益を戴いておりますが長兄は先祖の霊をお祭り致しております。他の四人は両親の霊をそれぞれお祭り致しておりますが、長兄に観音様の有難味を話し色々と勧めておりますがどうしても分りません。長兄が観音様の信者になった方が仏は大きく救はれるのではないでせうか。それ共現在の状態にて仏の救はれるのに変り御座いませんか。又仏は兄弟の家を自由に往き来しておりませうか。御伺ひ申し上げます。

“之は長兄が入信すべきであるが――した方が本当だからよいが、入信は時期があるから、一緒に思ふように信仰に入る訳にはゆかぬ点があるから、観音様にお任せして、心配せぬ方がよい。ある宗旨を継いでいる場合、その宗旨の神や仏に執着があっては具合がわるいんで、一生懸命改宗しないようにする。急に改宗さすのも可哀相なので時を待つがよい。又、宗旨の霊界に於ける信徒も、霊的に長兄に憑ったりなどして、改宗させないようにする場合もある。そういふのを無理に奨めたりするのはまずい。時を待つ態度でいればよい。仏になった親の霊は、兄弟の家を廻っている。だから世間で長男さえ祀っていればよいといふのは誤りで、子供は全部祀らなくてはいけない。之は現界と同様である。(S24・2・10)

知識人の救い

“心貧しきものは天国に入る事を得んと聖書に御座居ますが、心慢(オゴ)れるもの即ち知識人と称するもの達に御浄霊による天国到来を知らしめようと致しましても中々理解してくれません。これ等は最後の審判まで救へない宿命的な御霊なのでせうか。御伺ひ申し上げます。

“学者などは救はれ難い。救はれるのと救はれぬのと出来る。天理教のお筆先に、学者金持後まわしとあるが、後になる。(S24・5・23)

豚に真珠

“種々な宗教を渉り歩いた方には批判的態度の方が多く、本教の有難いところが分った様に見えても中々入信迄には至りません。此様なお方はどんな具合に御導きしたらよろしいでせうか。

“放っておけばよい。話しても分らないのは霊的の盲である。本をよく読ませる。それで分らぬ人は先ず救はれぬ人である。目の見えぬ人に見せても無駄である。豚に真珠である。(S25・5・27)

老人に分りやすい説明法

“観音様と阿弥陀様との関係について、火、水或いは東洋及び西洋の例を言って、観音様の方が阿弥陀様より上だと説いても、阿弥陀様の方が上だと思って中々分りません。仏教信徒、特に老人等に分りやすい説明方法をお教え下さい。

“話で分らぬから、放っておく事。(以前、麹町で一軒支部を作った時にもそんな話があった。――本願寺は法蔵菩薩を崇めている)(S24・2・27)

宣伝するには

“先ず信仰雑話を渡して読ます。幸福な世界を造る事、自分の体験を語る――といふ具合でいい。

火素と気温、(浄化強化の説き方)

“火素の増量につれて浄化力が盛んになる事を分りやすく説明し、一刻も早く多くの人を御導きしたいのですが、如何したらよいでしょうか。又それが気温等に如何に変化を及ぼすでしょうか。御教示願ひます。

“火素が増えるといくらか暖かくなる。出版した本を読ます。そうすれば分る筈である。(S25・2・5)

入信手引の話

“入信する気になっている者から神様の説明を求められますが、如何様に御導きしたらよいでしょうか。

“本を見せればよい。(本や新聞はその為にある)新聞も本も読めぬ人は駄目である。(然し決める事も出来ぬ)(S24・7・25)

神書読めぬ文盲の場合

“農村の信者の方は御本や光新聞を拝読する事が少うございます。私はその衝に当っておりますが、如何ように指導致しましたらよろしうございますか。御伺い申し上げます。 

“読んで聞かせればよい。信仰による智慧が出ぬと救はれぬ。(S24・9・29)

街頭宣伝の可否

“五六七教街頭宣教の可否及び時期を御教示下さい。又、街頭宣教可ならば統一された宣教主旨を改めて御示し戴けませうか。或ひは既に御発表の御論説により宣教させて戴いて宜しいでせうか。併せて御教示御願ひ申し上げます。

“街頭宣伝は未だよい。光新聞を人に見せる程度である。今の所必要はない。あまりパッとやると反っていけない。それよりか室内宣伝を出来るだけやった方がよい。(S24・8・15)

浄霊の感じと救はれる時期と因縁

“相当に浄化している人に対して浄霊を行ふ場合、掌に感じがないにも拘らず、別段浄化もしておらない人に行って非常に熱く感ずる事がありますが、如何なる訳でせうか。又、同じ人でも掌に感ずる時と感じない時とありますがどういふ訳ですか。お伺ひ致します。

“(逆である。手に感じない程浄化する事はない。人により種種ある)救はれる時期に来てする場合非常にきくから熱が出る。恵みが来てるから熱が出る。救はれる時期の来ぬ人はそうはゆかぬ。前世の関係のある場合、助ける因縁があるから強く霊が出るといふ事もある。種々原因があり、端的に言えぬ。(S24・5・15)

布教上病人に対する心構え、(病人に関する諸事情) 

“開拓に当り、先ず何と言っても病人を優先的に扱ひますが、大乗をどの様に使ひますか。

“大乗も小乗もない。苦しみ悩む者を救ふのが本当である。病人を優先的に救ふのは結構である。  智慧がないといけない。病人にも気の向く病人、気の向かぬ病人、感謝のあるのとない病人等いろいろある。気の向かぬ病人は警告されてるからと、うまく手放すのがよい。病人は気が向いても家の者が気の向かぬのもある。又、妻が病気で夫に二号があり、妻が早く片付いてくれる方がよいと思い、妻は一生懸命に縋るといふのもある。之は洵に困るんで、夫と二号の霊が来る。これは救っても仕様がない。こういふのは臨機応変にする。妻が良くなるに従い、親父は悪くなる。妻君が治ると親父が喜ぶ。宣伝はするが、そのくせ自分は入らぬといふのもある。

離信の人を引っ張る事

“教修を受けっ放しで其の後連絡を断った人は教導所の方から積極的に引張ってやった方がよろしいでせうか。本人の意志に任せた方がよろしいでせうか。

“引っ張ってはいけない。いろいろの関係や神様の御都合でそうなっているのがいる。順序の為遅れているのである。俳優が役でない時に出ると、芝居を壊すようなものである。永遠に救はるべき所であるから、先で頭を下げてくるのが本当である。

離信多く発展せぬ理

“私の分会は福井市が中心になりますので、福井市を重点に分会長以下開拓に努めておりますが思ふ様に発展致しません。少数の入信者はありますが、初めは熱心であっても段々遠くなり「古きが消え新しきを生む」事を繰り返し、結局発展致しません。如何なる理由でせうか。之は私共の誠の不足からか、又は土地の因縁に依るのでせうか。先日、分会長は氏神様に参拝祝詞を奏上し、本教発展を祈りましたが、今後は如何にしたらよいでせうか。御教示願ひ上げます。

“信者を獲得出来ても離れるのは、一番の原因は土地にある。真宗の勢いの強い所で、何百年の歴史を持ち、根強く入っているから、一朝一夕には転換出来ぬ。これでいい。種を播くのであるから、何時か実る。人間の眼には発展せぬ所も或時期へゆくとパッと発展する。芽が表はれるのである。であるから、そういふ事は気にせずコツコツやってゆく。神様には順序があって、種を播く所、育てる所、刈り入れる所といろいろある。気をもむ必要はない。(新聞の妨害の事など、神様に聞くと――。神様は絶対力があるとすれば、そういふのをちょっとつまむのは訳はないのに悪口などをやってるのは、発展し過ぎると外に準備が出来ぬからであると――)すべて発展するものと衰えるものとある。(昔相場を研究したが、その結果「上げる時はパッと上り、下る時はジリジリ」之は上げ相場で、「ジリジリ上りパッと下る」のは下げ相場である。即ち上げる時には勢いがあり、下る時には上げる力がないのである。事業でも宗教でも同じ理屈である。本教も税金問題で暴騰した訳だ)(S24・11・15)

布教気に向かぬ時、(焦り苦しみは反神意)

“教修を受けて二ケ年になる教導師で御座いますが、開発に参って居ります時、一時的に成績が挙らず、自己の気持も余り開発に出る気になれない時は出ないで時期を待っていますが、精神的に種々苦しみます。こんな時はやはり開発に努力した方がよろしいでせうか。又その場合如何なる心構へであるべきでせうか。御教示下さい。

“(気の向かぬ時は出ぬ方がよい。その人の霊的資格がないから神様が使はぬのである。それだけその人に力が出ていない)焦ったり精神的に苦しむのは御神意に反する。力が出来れば神様が使ふ。それには向上しなくてはならぬ。それには一人でも多く浄霊して、霊力をつけ御著書を読む。又、質疑する。誠で、智慧を磨く。向上心は尊いものである。(S24・7・15)

布教暇な時

“千葉県佐原町の信者原増次郎の家に光明様を御祀りさせて頂き、本人は会社に勤務のかたはら御浄霊させて頂いておりました当時は患者も有り、教修者も出来ましたが、このたび会社を退き、専心御奉仕させて頂きたいと決心して三月二十三日に職を退きました。ところがこれと時を同じうして患者がピッタリ、一人も来ません。不思議に思っている或夜本人並びにその妻が夢を見ました。

“何か暇なのは、大抵御本を読めといふ事である。

布教緒につかず

“焦らぬ事。未だ未だ信仰へ入れるだけの力がない。段段コツを覚える。(S  (*)・11・16)

なかなか入信せしめ得ず

“私は今回(四月九日)大光明如来をお受けさせていただきました。その後専念観音様の事を人に話して入信を勧めておりますが、今少しの処で思ふにまかせず、はかばかしく入信致しません。如何(イカガ)致したら宜しいでしょうか。

“焦らぬ事である。まだまだ信仰へ入れるだけの力がない。段段コツを覚える。  (S24・5・16)

布教効果挙がらず、(治し過ぎ、執拗、強圧的)

“私は三年前入信し、布教に協力させて頂いております。今日迄入信者も数々お導きさせて頂きましたが、未だ心から喜んで下さる方も御座居ません。先生にお伺ひ致しましたら、それは治し過ぎるからだと申されました。尚私は一旦嫁いで離婚、実家へ一度帰り、現在春陽会教導所にてお手伝いさせて頂いております。私として現在及び今後如何にしたらよろしいでせうか。お伺ひ申し上げます。

“治し過ぎる事は絶対にない。治し過ぎる人があれば大先生より上である。治し過ぎないのである。治れば必ず入信する。治らぬのに治ったようにお世辞を言ふ。教師の方に何か間違った点がある。教導師でしつっこいのや強圧的なのがある。それでいい加減に断る為に「よくなった」と言ふ事がある。正直ありのままに言えるようにすべきである。あんまり気をもまずお任せする方がよい。  (S24・6・28)

家族連れの布教に戒告

“去る一月二十二日、夫婦にて子供を連れ布教に行き、帰りに生後一年八カ月の子供が発熱し、電車中にて御浄霊をさせて頂きながら参りました。子供は非常にむづかりましたが、空家の話がありましたので出掛けたついでにと見て参り、途中にてヒキツケ、顔面が黒々となり、直に道路に下して大先生に御守護を念じつつ御浄霊させて頂き、竹内先生へ早速連絡致し、支部を通じて御守護のお願ひを申し上げました。お蔭にて八時頃意識回復、帰宅致す事が出来ました。その後軽い痙攣があり、翌二十三日支部長先生のお出でを頂いて御浄霊を頂きました。まだ「とと」(魚のこと)「アーチャン」だけしか言へない子供が、前額部へ御浄霊を行ひますと「痛い痛い、いや」と言って逃げます。一日に尿は三回、下痢は二回位でございましたが、昨日あたりから大分回数も増えて参りました。御守護を頂きだんだん良くして頂いておりますが、何か霊的の様に思はれますが、何卒宜敷く御守護の程お願ひ申し上げます。

“布教は一人で行くべきものである。祖霊が怒って戒めたものである。妻や子供を連れるのは御用が序でになる。用向きが主になる。(S24・1・28)

教修に御神体のお供

“初めての土地へ出張の教修の場合、御書体或いは御姿の光明如来様の御軸の御供をして行って、教修が終り亦外して御供して帰って来ることは、御無礼にならないでせうか。

“持っていくのは嘘である。大抵はその土地の信者が(教修生をよぶので)お軸の掛けてある所へ集まる。御神体は持運びするのはいけない。お掛けしてある所へ集まるのが本当だ。(S24・6・19)

霊憑者連れ歩く事

“三年前に入信いたしまして、私の家にいる婦人ですが、最近、霊が度々憑依する様になりまして、私の先祖も観音様に救はれ、有難いと御礼に出て参りました。他家へ光明如来様の御祭りに一緒に連れて行きますと、その家の先祖、無縁、今まで祭ってある神様などが憑依して、観音様を主にする様にと、その家の人達の間違ひを言ったり致しますが、この後、連れて歩いて差支えないものでせうか。御伺ひ申し上げます。

“何か訳がある。必ず何か役に立つ事があらう。(S24・9・5)

霊憑りと正しい信仰

“熱心な信者で、その人に憑霊現象が御座いますが、其の場合殆ど死霊が御光を頼って参り、御浄霊を戴き度いとか遺家族の人達に早く御光を戴く様、又御観音様に御縋りする様にといふ事を頼んでおりますが、その様な憑霊現象の起るといふ事は正しい事なのでせうか。又、余り感心出来ぬ事なのでせうか。尚、その場合、その場に居合せた人達が霊の実在を目の辺りに見せられ、信仰に熱心になる傾向が御座います。神憑り信仰は正しい信仰でないと伺って居りますが、霊憑りなども正しいものではないのでせうか。身魂が曇っている為に霊憑りになるものでせうか。特に霊媒能力のあるといふ先天的な人が御座いますのでせうか、お伺ひ申し上げます。

“霊憑りは正しい信仰でないといふ事はない。霊の言ふ事が正しければ正しい。祖霊が善い事をしたい為にするのは正しい意味であるからよい。

布教上新土地の気風を知る法

“新しい土地へ布教に行く場合、其の土地の気風を早く知る方法として、如何なる方法が御座居ませうか。

“知る要はない。神様がついておられるから、その土地へ行けばその土地に合ふような行動がとれる。それで判る位である。その場面により臨機応変にやるようにする。(S24・6・29)

開け難い地方、清濁と邪神の妨害

“土地によって曇りの多少があり、観音教の普及もやり易いところとやり難いところがあるのでせうか。尚、発展しにくい場所にて開業することになりますのは本人の罪穢の多少によるのでせうか。

“解釈が違ふ。土地によりいろいろある。きれいな所、汚い所があり、汚い所は邪神の力が強く、邪魔がある。そういふ所へは強い人が選ばれて行くのであるから、反って名誉である。楽な所へ行く人は力の弱い人である。故に反って骨の折れる所がいい。それとても時期であるから、どんな困難な所も、時期さえ来ればうまくゆくのであるから、焦らず待つ事である。(S24・11・19)

地名良い所を布教に選ぶ事、土地は神が選ぶ

“御道発展の為地名の良い所を選んでその方向に力を注ぐ事は良いのでありますか。右、御教示御願ひ申し上げます。

“地名の悪い所をやった方がよい。成可く悪い所へ悪い所へ進めた方がよい。これは浄めるものであって、汚い所ほど浄める要がある。良い地名の所が楽とは限らぬ。良い所は反って邪神が握ってるのがある。東京などはいい字だが一番邪神の巣窟で、濁っている。日、木――水の働きで――。選ぶのは人間が選ぶんでない、神様が選ぶ。自分が選ぶのは神の御心に対し僣越である。之は神様に任す。そこを開く要があればその人がそこへ行かなくてはならぬようになる。

危険な地方へ教会設置

“熱心な信徒ですが、今度教導所を新たに建てるべく準備中ですが、新年の御面会に大先生から東京方面は危いとの御言葉で御座いましたが如何で御座いませうか。現在建っている家は工場と事務所、住宅のみで非常に狭く、教導所に使用しては不可能で御座います。御教示賜り度く御願ひ申し上げます。尚、場所は東京都両国で御座います。

“考えなくていい。やりやすい所をやってればいい。(S24・1・28)

地名や姓名と布教の関係

“その地方の地名や布教者の姓名が布教発展に影響がありませうか。

“ないとはいえぬが、あまり気にする要はない。

人によって発展する地方

“布教に関して或地方では出来ない人が他の土地に行くと非常に発展する教導師があります。  これは土地と人に何か因縁があるのでせうか。お伺ひ致します。 

“因縁があるのである。時所位を得るのも斯ふいふ事もある。日本には霊統が三つあって、この土地の一番多い系統の宗家のようになっている。反対があるのは霊統が違ふ。又、神様の順序があり、それを無視して執着するのはいけない。(S24・6・8)

布教中のみの便秘

“私は半年前より岡山県和気郡片上町の方へ布教に従事して居りますが、二ケ月前より、便通が岡山の方では四、五日通じず、私宅へ帰ると毎日お通じがありますが、何か訳がありませうか。お尋ね致します。

“良い方へ解釈すべきである。反って御守護である。正守護神がやっている。私など便秘しようとしている。(S24・6・7)

観音様の協力願ふ事

“五六七教に入信まで備後国馬乗山観音様の御守護を頂いておりました。  今度備後地方の本教信者と共に前記観音様に御協力を願ひに御詣りを致したいと思いますが、良い事でございませうか。御伺ひ申し上げます。

“悪くもないが無駄である。本家が判ったのであるから、出店は不用である。(S24・10・28)

氏神に協力願ふ事

“本教の布教に参り、其処の氏神に協力を求めに行くと、非常に都合好く開ける様に聞く事がありますが、如何なものでせうか。又、その場合祝詞、善言讃詞と何れをお奏げすべきでせうか。御伺ひ申し上げます。

“産土神にお願いするのも結構だが、祝詞や善言讃詞を奏げる程ではない。奏げれば天津祝詞である。 (S24・10・28)

布教と氏神参拝

“氏神に就てお伺ひ申し上げます。永年住んでいた甲地から乙地へ転住した場合には甲乙どちらの土地の氏神に参拝するのがよろしいのですか。御伺ひ申し上げます。因みに大氏神は甲地乙地とも同一で御座います。

“氏神はその土地だけの管轄である。人間社会と同じで、常識的にやれ。(S25・5・27)

布教上産土神への挨拶

“新しい土地に伝道に参りました場合、その土地の氏神様には御挨拶すべきでしょうか。若しすべき場合は単に儀礼的にすれば宜しいでしょうか。或いは御守護を御願いすべきでしょうか。右、御願い申し上げます。

“御守護願えばよい。非常に離れているとか、天気の悪い場合ならよい。それほど重大でない。やらないよりいい位の程度である。(S24・7・3)

日蓮信者の導き

“日蓮宗狂信者をこの御教えに導きますにはいかが致しましたらよろしう御座いますか。御伺い申し上げます。

“時節を待った方がよい。ちょっと話してみて、耳を傾けるようなら話してもよい。(S23)

他力本願宗と本教

“仏教の他力本願を信仰する人は、本教に入信し現世の御利益を得る事は未来に於て救済されざる如く考へて居られる為、目の前に御利益を拝しながらも右の点を懸念される人が随分あります。布教に当りまして如何に説明したら宜敷いでせうか。御教示下さい。

“他力本願の人は反って分る訳である。寧ろ自力の方が分り難い。現当利益を与える力がない為に利益は低級のような理論を作った。他宗教には力がない。神仏に意気地がないのである。(S24・6・8)