012 信仰篇(特輯)

真の大和魂、(世界魂)、(各国の魂と旧道徳)

“本当の大和魂はどういう心でしょうか。

“今迄本当の大和魂はなかった。これから出来る。大いに和すると書く。それなのに戦争をするが之は大いに争ふ魂である。やはり各国に魂があり、アメリカにはアメリカ魂、ドイツにはドイツ魂がある。今迄の大和魂では危険である。これはあまりに――。武士道など、権力者がその地位を維持する為に作った。親子一世、夫婦二世、主従三世といい、主従は一番関係の深い事にしている。君の馬前に死すなどといふ。それは一生食はしてもらっているから当然の理屈はある。そこに偉さも何にもない。寧ろ仇討などは悪い。循環的で而も仇討の為に一生を終る。それは殺人の犯罪を犯す為に一生を棒にふる訳で、こんな間違った事はない。仇討思想をなくさねば平和にならぬ。それを最高の道徳の如く思はされた。国でも同様で、そういふ事に利用されたのが大和魂で、鼓舞激励させられる為に利用された。忠臣蔵や楠木正成、吉田松陰など私は嫌った。あまりに馬鹿馬鹿しい。楠木などいいが、結果に於て非常に悪い。結果は既に分っている。忠義としても智慧の足りない忠義である。これからは世界魂でなくてはならぬ。今迄は日本の通貨と同じようなものである。世界共通でなくては――。  (S24・10・23)

真の日本精神、(エルサレム不開門の菊花紋)

“真の日本精神とは何で御座居ませうか。

“今迄あるにはあったがホンの一部である。なかったといってもいい。大和民族は絶対戦争をせず、武器を持つ事を嫌ふ。私など武器を見るのが嫌いである。今、日本人は百人の中十人はない。後は支那・朝鮮民族である。之等は争ひを好む。軍人など日本人はいない。  それを日本精神としたのは大いなる欺瞞である。日本へ来た移民が敗戦国にした。出雲朝――。瓊々杵尊――支那の漢族で、之は私の考察で、断定はせぬが、イスラエル十二種族の中一種族は東方へ行った。エルサレムには四方に門があり、一ケ所開かずの門があって、上に十六の菊の紋がある。この民族は、前漢の時代に行って、支那に於ては勢力を張る余地がなく日本へ渡って来たんだと思ふ。古代西洋と同じ武器等あり。真の日本精神はこれから出る。非常に平和を好み芸術を愛する平和民族である。  (S24・4・13)

完成といふ事

“完成という事は次に来る衰退を意味する事にはならないので御座居ますか。

“完成はない。未完成なもののみである。一時的完成はある。時間的のものである。(永遠の完成は神様にはあるが人間にはない)人間の作るものに永遠なものはない。破壊と創造を繰返す。(それによって進歩する)神様の造ったものは永遠のものである。松の木などの如き――。  (S24・2・23)

真の健康者、完全とは

“完全なる人間と真の健康者とはどう違ふものでございませうか。

“違いはない。健康といっても肉体だけでない。完全人間は、(理屈)健康といっても肉体のみでない、精神も共に健康でなくてはいけない。別々にみるから違ふ。強盗などは肉体は強健でも霊は病人となる。完全人間には出来ぬが、完全にならうとして一歩々々近づく。之が人間として最高のものである。それでよい。こういふ心のある人は間違った事は少ない。完全といふものは絶対にない。ただ一歩々々近づいていく事で、完全になると進歩はなくなる。完全に近づこうとする努力が進歩であり変化で、完全になると或いは人類は滅するかもしれない。文化の進歩もなくならう。完全な栄養のみを採るとなると人類は滅する。不完全なものをもって完全なものを作るといふのが人間の体であるから、完全なもののみを食えば人間は滅する。不完全を完全にしようとする――その活動が生命である。栄養食などでは、乳が出ぬと乳を飲む。であるから、栄養を食えば弱る。今は凡て逆をやっている。以前、鶏で医学が試験し、完全栄養をやったら二日で死んだ事がある。  (S23・11・4)

神様が一番お気に入らる道

“観音様に一番好かれるには如何にしたらよろしいでせうか。

“一人でも多くの人を救って上げる事で、人間には力がないから、救ふべき所へ導くのである。 教修を受ける人を多く作る事が一番いい。次は多くの人が救はれるような事に力を注ぐ。そうすれば観音様は一番お好きになるから御褒美を下さるのである。観音様の御褒美は大きい。

お供への不思議と神様のお喜びになる事

“昭和十六年に戴いた光明如来様の御掛軸について御伺い申し上げます。

一、赤飯を焚くたびに供へておりましたが、其の都度悪い事がありました。 

二、又、珍しい物を供へるときっと悪い事が起ります。

三、観音様に御花を供へると毎晩私等がそれを食べる夢を見ます。

四、観音様の腹から白蛇が二匹出た夢を見た時は毎日悪い事が続きました。其後、家の改築でお掛軸を御腹(中央)まで巻き上げてお祭りする様にしてからは悪い事が無くなりました。又、良い御知らせがあり、其他色々の御知らせもあります。

五、観音様にお喜びして戴きたいのですが如何(イカガ)致したら宜しいでせうか、御伺い申し上げます。

“良い事とは如何(イカ)なる種類のものか。良い事のある前にはそういふ事がある。悪い事があったら報告せよ。良い事や悪い事は種々あるが、一歩々々、全体的にみて良くなりつつあればよい。根本的には一人でも多く人を救ふ事が一番観音様はお喜びになる。言い難いが、観音様の御仕事にお金を差し上げる事もいい。  (S24・6・5)

功利的信仰、(陰徳)

“功利的な信仰から自己完成を念願する者も、人の救ひに対しては善い結果を見る様な場合が御座いますが、この者の死後の霊界に於ける状態はどの様な事になりますので御座いませうか。

“功利的信仰は勿論本当のものではないが、それも結果がよければよい。こういふ人の信仰は霊界では功績がない。功利的は、現界ですでに報いられている。陰徳――即ち人に知れない徳こそ霊界では大きいものとなる。寄進札など人から褒められ、すでに酬いられるから、霊界では酬はるるところが少ない。(S23・10・24)

陰徳

“徳、又は陰徳を積むといふ意味――

“人の為、世の中の為にする事が徳である。これを沢山する事が徳を積む事になる。金を持って慈善をするのも善い事だが、持続性がない。死んでからまでの幸せを与える永遠の幸福を与えるものではない。徳を積むと多数の感謝の霊が来て、その人の霊が太る。之を神道では恩頼(フユ)といふ。魂が太る事である。太る場合、光が多くなる。そうして霊層界が上の方になるから幸せになる。陰徳とは、人に知れない善い事をするので、神社仏閣などの掲札は陽徳である。人に知れない善い事は、神から御褒美を下さる。人間には表はれないと気持が悪い性があるが、陰徳は何倍となく神様から御褒美下さる。

気弱の解決、魂太らす事―陰徳、御利益戴く道

“二十七歳の学生、生来気が弱くて人と交わるのが怖ろしく、十九年十二月受教致しましたが、この性格だけはどうにも手のつけ様がありません。何とか強くなれないものでせうか。

“気の弱いのは魂が薄く弱いので、外部から霊線によっていろんなものが来ると魂がおびえる。陰徳を積み、魂を太らせるとよい。根の張った木は、強風におびえぬようなもので、強く太ければおびえぬ。信仰が強くなれば、斯ういう事はなくなる。自分が自分に頼るんでなく、神様を頼る心が強いと、気の弱い事はなくなる。人を助け、感謝を受け、魂を太らせる事である。信仰に入っただけでは何にもならぬ。入信をするのは、人を救ふ方法を教はるので、門へ入っただけである。奥座敷へ入らなくてはいけない。人を救ってこそ初めて本当の利益がいただける。

善事の報いの霊的真相、罪の浄化の二様

“現世に於て私達が善事・悪事をなす場合、その報いは現世のみで来るものか、一度霊界の祖先に反映してから現界の私達にその徳・不徳が来るもので御座居ませうか。御伺ひ致します。

“之はいろいろで、大体神様の方へ知れる。次に祖先に命令したり正守護神(大抵は祖先の霊である)へ命令が来る。大中小の事柄によって、神様へ行くものと、神様にも段階があって、天然現象を分担される神や人事等をされる神もあり、その人事係へ行って命令の下るのが普通である。大体霊界現界の関係は悪い事をすると曇り、濁りが出来る、そして浄める作用が自然に起る事になっている。それも神様が起す場合と自然作用で起る場合とある。簡単には言えない。霊界の事は実に幽玄微妙である。

神様は罰を当てられぬ、背反すれば御守護を離れる、(脅迫信仰的言い方)

“脅迫信仰の一例として左の場合は正しいのでせうか。御伺ひ申し上げます。  「貴方が此信仰を離れる事は貴方の自由です。而しもし離れたらどんな結果になるか私は知らん。それは神様のみ御承知だ。まずよく考えるんだね」此の信者は常に先生や先輩に神に背くとこう言う罰をあてられると言ふ例を聞かされている場合です。

“之は合った点と合はぬ事がある。信仰は自由であるからと言ふのはいいが、その結果は少し冷やかな言い方だが間違ってはいない。  ただブッキラボーである。これは一寸間違っているのは、神様は罰は当てない。神様の守護がなくなるから邪神に犯される。それが罰を当てられるように見える。  観音様は慈悲一方で、善悪をお咎めなどなさらぬ。背中を向けると御守護を離れる。その為外の悪い者に犯される。故に罰を当てるのは他の悪い方である。(S23・10・28)

諸神の咎めといふ事、(浄化作用)

“諸神のお咎めにて時々負傷又は病気に犯されたことは浄化作用と申すべきか、あるいは浄化作用とは別個の意味でせうか。

“諸神のお咎めなど間違っている。寧ろ自分に憑いている守護神のお咎めが多い。  守護神は、祖先の代りであって、子孫が罪を重ねさすといけないので、後そうしないよう咎めるのである。斯ういふ事も、信仰が進めば段々なくなる。少しづつ沢山の罪を減らす事もやる。

神の試練、(執着をとれ―失恋)

“今迄の時代――夜の時代に於きましてもいろいろの人生の苦しみがありましたが、之は唯「夜の世界だから苦しみがあった」という許りでなく、矢張り神の人間に対する試練としての苦しみもあったと考えて宜しうございましょうか。更に「昼の世界」に於ても人間を向上せしめ、深み、うるおいを作るため神の試練としての苦悩や悲哀も――例えば恋愛に於ける失恋の――苦しみの様に何らかの形で存在することと存じられますが、如何でございましょうか。右、御教示御願い申し上げます。

“神の試練といふ事は本当はない。之は人間の方で理屈をつけたもので、神様が良い物を人間に与えるのに、容物の汚い時は掃除する、その時の苦痛である。之を試練といふが、実はやはり浄化である。違ふ。失恋の苦しみは自分勝手に苦しんでいる。(縊死と同じ事である)執着で苦しむ。執着を除ればよい。(霊の向上する程、執着は早く除れる。私など諦めが早い方である。過ぎ去った事はどうする事も出来ぬから、今後気をつければよい)失恋などは勝手に自分で執着して苦しんでいる事であるから、別に問題にするものでない。(S24・1・8)

真の神様の行り方、コツコツ主義、失敗者のやり方

“本当の神様の行り方は非常に順序正しい。ジリジリ育つように進む。失敗する人は一遍にパッとする人に多い。人の計画など聞くと大仕掛にやる。コツコツ主義でなくてはいけない。樵など、ゆっくりしている。最初は威勢はいいが、すぐにクタびれてしまふ。(S24・10・24)

遅いもの程よい(共通の真理)

“本年一反の同じ畑に麦種を三人で蒔きました。  教修を古く受けた人、最近受けた人及び受けてない人の三人です。教修を受けない人の方が芽の出が一番早く、最近受けた人のが次で、古く受けた人の分が後といふ事実です。如何なものでせうかお教へ下さい。

“早く出ぬ方がよい。凡て早く出るのはいけない。伸びるようになってから違ってくる。仕事なども早呑込みをする人は駄目である。英国の格言に「遅くとも確実に」とあり、至言である。私なども熟慮断行である。凡ゆるものにその真理は共通している。作物などもそうである。 (S24・12・27)

時期と順序(反対によって止める神)、道場の速成、(不如意や故障の場合の考え方)、「先の事」「人の心」の判る事(記憶や霊眼)

“すべて時期と順序がある。反対によって神様がちょっと止める事がある。非常に反対のあるのは神様がやってる事がある。神様はとても深くて、人間に判断のつかぬ事がある。時が経つと判る。思うように行かなかったり故障が出る時はそういふ事を思ってよく考えてみる。道場の普請でも、今二ケ月で出来る訳はない。それが一ぺんに出来る。時期が延びていたのである。人間は早過ぎたり――神様が早かったりする。ただ、延びると一ぺんになる。  ただ、物が出しぬけに行く事はない。最初ボンヤリしていたのが次第に濃くなり、段々見えてくる。先の事があまり早く判ってもいけない。私は人の心が判り過ぎた。最初之はいいと思った。次には人が来ても、口をきくのもイヤで、之は困ると思った事がある。やはりあまり判ってはいけない。判らぬ所に味がある。人はよく忘れっぽくていけないと言ふが、大隈氏は「忘れる人は羨ましい、自分は悪い事迄覚えてる」――と言った。又、霊の見える人など、悪魔や動物や苦しんでる霊など見える人があって、気味悪くて仕様がないそうで、これも善し悪しである。必要の場合見えるのはいい。(S23・8・21)

人の和に勝る時、(御仕事に重要なるもの

“第七問をお伺ひ申し上げました者で御座いますが、光新聞十四号掲載の「時期を待て」の御論文中に、「時節には神もかなはぬぞよ」と、事を行ふに時節が最も重要である旨の御教へが御座いますが、今迄私は孫呉の兵法に天の時、地の利、人の和の三つの中で人の和が最も重要とされております故、事業を行ふにも人の和の方が重要と考へて参りましたが、之も格言「良薬は口に苦し」といふ様な誤りで御座いませうか。御教へをお願ひ申し上げます。

“そんな事はない。人の和は結構である。しかし時期が一番である。  兵隊は軍事だからいいが、私の方は平和であるから、時、人の和の順になる。(S25・5・22)

時と惟神の道、幸運に執着するな、我執の不可、場所的神の守護(遭難)

“此処にあるお掛軸は昭和七年にお描きになられた。斯ういふ所へ掛けようと――、神様の事は前から準備してある。実に深遠である。果報は寝て待てといふが、要するに寝ている位に関心を持たぬ、忘れているといふ事で、執着を持たぬ事である。そういふ楽な気持でなくてはならぬ。無理はいけない。信仰へ入れるんでも、種を蒔いて時を待つ事である。凡て人間は時といふものに関心を持たな過ぎた。一番絶対力のあるのは時である。人間の方で時に逆ふ事をよくやるので、失敗したり苦しんだりする。人間は時に従はなくてはならぬ。人間の気持で、我と執着で意地を通す事が一番いけない。天地惟神之大道といふが、惟神は神に習ふ事で、之は自然の道ともいえる。神のまにまに――。天地とは大自然といふ事、大自然に習ふ訳である。浄めの業を習得した元は、大自然を先生にした。即ち火水土の力で、その次の先生は病人で、大自然と病人が私の病気治しの先生である。霊が火になる。神様に任す事が大事で、飽迄人間の智慧や力で解決せんとして苦しむが、駄目である。ナポレオンは不可能の文字なしと言った。あれが失敗の本である。自然征服などといふと山の天狗が怒る。自然に調和する。自然に従ふ――。昔は割合いに遭難はなかった。六根清浄といって、敬虔な気持で登るべきである。山には山の神、海には海の神、池でも土地でも、すべて神様が守護しておられる。神といふと野蛮未開といふが、そういふ人こそ野蛮未開以上の人である。(S23)

寝て待つ事と邪神の妨害、(行詰りの真因)、(時待つ心の要)

“「果報は寝て待て」との有難い御言葉ですが、一つの難関に打当った時、如何に考へる可きでせうか。

(イ)、最善の努力が払はれなかったのか、

(ロ)、神様が止め給ふたか、

(ハ)、邪神の邪魔する故か、

(ニ)、時期でなかったか、

右、御教示御願ひ申し上げます。

“寝て待つ程ゆったりした気持でなくてはならぬ。焦ってはいけない。果報を追いかけたりつかまえたりするようではいけない。来るのを待つ気長さが必要である。(イ)、(ロ)、(ハ)全部合っている。最善の努力はどの程度か判らぬ。これは智慧である。智慧が足りなかったといふ事が多い。第一は時期が来ぬ。第二は誠とか智慧が足りない等、その人により種々ある。  邪神の邪魔は始終ある。邪神の邪魔は自分のメグリを除られる。こっちにスキがあり、又は原因をもっている。人に騙される資格があれば騙される。智慧の不足等考えなくてはならぬ。強盗や不良等が多いのは、日本人民全部が腐っている。そこへ蛆が湧くので、湧くような状態である。皆正しい本当の心持になれば霊界が浄まるから、悪い気持は起らなくなる。一切は相応する。共産党など怠けたり飲んだりして困ると社会が悪いといふ。自分の事は棚上げにする。野心はあっても力なく成功せぬ場合、成功する人間をやっつけようとする。正しければ苦労はない訳である。前の世の悪人で正しいのもある。その為に苦労がある。之は前の世の罪の浄化である。祖先の罪の場合、然し本当の誠の人なれば御守護によりそう困らぬ。そういふ人は物資にも困らぬ。 

楽しみ苦しまぬやり方、時期見るには、(御奉仕手につかず)

“莫大なる御利益を戴いて居ります。あれこれ想ふにつけ、一生懸命御手伝ひをさせて戴くには今の仕事(洋服仕立)も手につかず、生活上の重圧も加はって色々と悩み続けて居ります。如何にしたならばよろしう御座いませうか。御教示願います。

“之も恋愛問題と同じで、人為的に考えず、時期がある。正守護神を通して神様へ判っている。又、いろんな事情で、未だ早いとか、いろいろ時期がある。それはどうしてみるか、専門にやっても差支えない事情が出来たらもう時期が来ている。それを、モヤモヤうまくゆかぬ時は時期が来ぬのであるから、焦らず待つ。之は凡ゆる事に同じである。私など非常に早く発展するように見られる。惟神にしておくと、いろいろな事情が熟してくると、気持よく転換する。すべて、物は熟して、周囲の邪魔もなく、スラスラゆく。  そこまで人間は待たなくてはならぬ。渋柿も待てば甘くなる。楽で良い結果を得るようでなくてはならぬ。苦心惨憺して碌な事はない。無理のない、楽々、面白く、楽しんでやらなくてはならぬ。今迄、夜の世界では苦しまなくては出来ぬ事もあった。昼となり、地上天国を作らるるには、楽に、面白くやるのが本当である。自分が天国的生活に入りながら、人を救ふのでなくてはならぬ。

肉親の反対と時期、(本教の救いの行り方)

“この道に入信して弘道の念に燃えていますが、親兄弟等悉く猛反対しています。  現職業を捨て、新開地へ救ひの道を伝へたいと思ひます。如何でせうか。

“親兄弟が反対するのは時期が来ぬので、焦っては逆効果になる。斯ういふのは神様にお委せする。猛反対に反対して行動するといけない。何故なら、その反対の霊が妨害するのは馬鹿にならぬ。時期を待てば、いい具合にして下さる。そういふ例は始終ある。心は始終気楽に持たなくてはならぬ。焦ると修羅道に墜ちる。自分が天国にいなければ人は救えぬ。神様に任せているのは天国状態である。この道は、自分は天国に昇り、天国から綱を出して救ふ行り方で、今迄とは反対で、自分が歓喜の生活に先ず入る。今迄は苦境にありながら人を救ふ行り方だった。全世界を地上天国にする――これでないと本当でない。家庭を天国にするには先ず自己自身が天国になる。それには先ず自分の魂から地獄に落ちては人を救えぬ。故に焦ったり苦心したりしてはいけない。最初は極く小さい所から始めねばならぬ。大先生は豪奢だなどと人が言ふが、自分が先ず天国的生活をする為である。之が今迄の考え方と違ふ。今迄新宗教が出来ても本当のものはない。本当に救はれない。精神的のみで体的に救はれぬから、今迄のは迷信と思ふのも心配しての事で無理ない訳である。之では反対するのは当り前である。然し、良いものは良い、然し、何時かは頭を上げる。私など昔は宗教は迷信だと思ってた。本当の行ないをしている人は今十人は難しい。九人は悪い事をしている。

結論の発見と時期、民主主義の真諦、真覚・悟覚・正覚・等覚、万事簡単であれ

“結論に行かなかったのは、又、想念が一致しなかったのは時機が来ないのである。題目は大抵の場合必要はない。現状維持でよい。政治家など非常に長時間会議するのは凡そ智能の程度が低い。何か問題を考える時、どっちにしていいか判らぬ時は決めぬ方がよい。時期が来ると、どうしても斯うしなくてはならぬ――といふ結論が浮かんでくる。故に、迷ふ時は現状維持が一番いい。はっきり見通しのつくまでは――。如何なる問題も結論は一つしかない。それさへ発見すればよい。民主主義とはそれで、指導者が指導するのではない。国民の心が一致している所をみて指導者が手を打つ。又、時機の熟するのを待つ。大抵の事は信仰雑話を見れば判る。眼光紙背に徹すべきである。悟覚。真覚――見真実で出来る。普通の人では出来ぬ。正覚、等覚は覚者(菩薩)にならなくてはならぬ。三つの本を読めば覚者になれる。何でも簡単でなくてはいけない。

自力と他力信仰、本願寺派と親鸞、排悪の牧師、観音行の在り方、(従来の日本)、経緯結びと日本

“自力は小乗的信仰で経であり、他力は大乗的で緯である。どっちも本当ではない。どっちが根本かといえば、それは大乗が根本である。自力は自分の力であるから、宗教と縁が遠くなる。本願寺派は六字の称名を唱ふれば如何なるものも救はれるといふ。之は悪い事をしなければ救はれるといふ意でなく、悪い事をしても念仏を唱ふれば救はれるといふ事になる。併し泥棒をしても念仏を唱ふれば悪い事が段々出来なくなるといふのであらう。親鸞は「善人尚もて往生を遂ぐ、況んや悪人をや」といふ。之は自暴自棄の者も救はれるといふ訳である。先に私は、キリスト教会の宣教師が善くない者があるから除名すると言った、之は変だと思った。善い人間ならそれでいいが、汚れた人間や悪い人間を排斥すれば宗教の意義はなくなる。悪い人間を善くするのが宗教の使命であらうに、之は変だと思った。日本は封建的で経しか働かなかった。  小乗でも大乗でもない、伊都能売の働きとなる。光明如来様がそれで、男でも女でもなく、男で女である。経でも緯でもある。即観音行である。偏るといけない。相手により説き方を違えねばならぬ。であるから、大乗は或程度悟りが開けてからでなくてはいけない。小乗善では反って悪になる。大乗は凡てを抱擁しなくてはいけない。故に両方の働きをしなくてはならぬ。日本は東西文明の融合地点であり、それが日本の使命であるといったが、今迄両文明は別々になっていた。これが結ぶ。これから本当の理想世界が出来る。別々になると、どっちも悪になる。結ぶと本当に善になる。その真中が真。真の言霊はスになる。これが大変なものである。+  (フトジアスタリスク)  五六七  三六の世の形。東西文明を結ぶのをバッジに表はした。(中略)熱海――西、緯。東山荘。小田原――世界中の特徴を表はした建物を造る。箱根は、火の精の元といふ言霊。ハは火、コは凝るとか固まる。火の精。熱海は、アは天、タは (マルジュウ)、強いといふ事。コと同じ様な意。タア━天の強さ、上の強さ。(S23)

正邪一如の真義―正邪善悪の人を使ふ神、経(厳正)緯(咎めず)両面もてかし、邪神に負ける信徒の導き、(裁く方が邪神)、正邪の見別けは神のみ

“入信しても多く邪神のとりこになっていきます。又、熱心な信者でも、絶えず邪神に引かれ負ける傾向があります。この様な処にあって、導いた者はどの様にして導きをしたらよいのでせうか。教導師の心得と言ふ様な事に就て御教示下さい。

“邪神に負ける――とか言ふこの人は、どっちかと言ふと間違っている。憑いてるのが邪神かそうでないか判らぬ。正邪を見別けるには、神でなくては判らぬ。既に裁いている。神の地位を犯している。之が大変な間違いである。判らぬのが本当で、自分自身神の位を侵しているから、その人が邪神かも知れない。であるから、正邪は言えぬ。邪神と言はれる人で善い仕事をする人があり、立派な人に見えて仕事しない人もある。悪く見えて善い人もある。であるから、神様でなくては判らぬ。神様は種々の人を使ふ。善人ばかりでは芝居にならぬ。善悪が入り乱れて面白い。  根っからの邪神と、邪神に使はれているのとある。今言えぬが邪神の眷族となって働くのも無数にある。主神の下に、陰陽の神があり、即ち善と悪である。善悪を造り、いろいろやらせ、地球の経綸が出来る。故に主神には善悪はない。正邪一如といふ。人間には、本当をいふと正邪は分らぬ。 観世音菩薩は善悪無差別であるが、御本体の神は国常立尊様で、絶対悪は許さぬ。善人は天国、悪人は地獄、厳正至直の神様である。一方だけに偏るといけない。善悪無差別の面と、善を奨め悪を懲らす――はっきりした面もなくてはならぬ。  時と場合、相手によって変る。経は厳正、緯は咎めぬ――無差別。どの宗教でも開放的とやかましいのとある。親鸞は「善人尚もて往生を遂ぐ、況んや悪人をや」と言った。厳しく裁くと悪人は諦める。南無妙法蓮華経は経、南無阿弥陀仏は緯。極端な排他的仏教は小乗教である。

批判と悪口、(信仰の心構え)、(大本時代の明主様)

“前回「救ひと裁き」に就て有難い御言葉を頂きましたが、重ねて御伺ひ申し上げます。私共は日常屡々他の人々を批判したり、又は批評致しますが、こんな事も人間には僣越な事でせうか。他人から批判される事によって向上する場合もあり得ると存じますが如何でございませうか。右、教示お願ひ申し上げます。

“批判しても構はぬ。ただ善悪を決める事はいけない。(之は人間で出来ぬ)悪意を以て非難する等はいけない。(一つの罪になる)明るい気持で善いと思ふ悪いと思ふと言ふ事はいいが、憎悪を以てあれこれ言ふのは罪になる。自分が悪く言はれるのは気にする事はない。(天地に愧じぬ行ないをしていれば気にする筈はない)人に良く思はれたいとか、気に入られたいとかいふ気持はいけない。之は小乗的であり、間違いである。それよりは、神様に気に入られる、愛さるるよう努むべきで、人の非難にビクともせぬようでなくてはいけない。大本の頃、私は(邪神視されたが何とも思っていなかった)よく信者を修行にやったが、私を邪神だなどと非難し、寄りつかせぬようにし、信者も寄りつかなかった。どちらも間違っているので、こっちは大本が邪神と思った。どんなに悪く言はれても私は何とも思はなかった。悪口を言はれる事は、霊的に言ふと此方の罪をとってくれるし(先方は罪を着る。人を咎める事はいけない。自ら悟るまで放っておく方がよい)。断案の出ぬ時は神様にお任せし、努めて忘れるようにする。神様もすっかり縋られると捨てておけない。

信仰の要諦

“この信仰で進むについて心掛くべき最も重要な心構えは、一言で表はせば如何なる事でせうか、御教へ下さい。

“一言でいえば誠である。次は智慧である。誠から出る智慧でなくてはいけない。即ち叡智であり、神智である。(S24・2・15)

自己以上他を愛する考え

“人間が自己以上に人を愛することが出来ると考へる事は自己欺瞞となるでしょうか。

“結構である。之は本当の信仰の考え方である。  欺瞞ではない。然し、自分を滅しては何にもならぬ。他人を救ふ為に犠牲になっては本当でない。滅私奉公である。そこが決められぬ事である。自らが良い信仰の見本を見せ、先で賛成させるのがいい。他人を助けて、自分は不幸になるのは本当でない。

悪ければお止めになるといふ考え方、智慧の力、(国土と人口)

“「総て神様がやられておられるのであるから自分の悪行もいけなければ神様が御止めになるはずである。やれる間は許されている」といふ考え方は、神性を戴く本守護神の働きではない様に思はれますが、如何で御座いませうか。

“之はデリケートである。常識で考えて、やるべきかやるべからざるかに就て、智慧証覚を基本にしなくてはならぬ。智慧は叡智でなくてはいけない。これが基本になり、又、之を磨かなくてはならぬ。人間には毒結があるから除らなくてはならぬ。毒血が無くなれば、黴菌の必要はなくなる。それを運ぶ蝿もなくなる。掃除の必要があれば止むを得ぬ。伝染病がなくなれば国民は弱る。英国がそうである。人口が今四千五百万で殖えぬ。英国の衰亡は人口の少い為で、人口の多い国は威勢がいい。原因は種痘である。英国には伝染病はなく、繁殖もしない。支那などは旺盛である。英国がインドを放棄したのも人口が少い為で、統治するだけの人口が足りない。植民地まで手が届かぬ。それが原因である。ソ連とアメリカは種痘が後れてるから強い。アメリカも今のままゆくと弱ってくる。  要するに智慧で判断する。先から、智慧と誠と言っている。智慧があると無駄がない。

常に念ずる事、常に考ふべき事、救はるる道

“行住座臥、観音様を念ずるには、念被観音力か南無観世音菩薩か何れを称名すれば良いのでせうか。

“行住座臥しなくてもよい。内面的より外面的に考えなくてはならぬ。一人でも多く救ふのが念願であるから、人を救ふ場合念被観音力を念ずる。自分を幸せにする――御守護を与えて頂くには世の中の人を、一人でも多くの人を救ふ。自分の事を考えない。全人類を救って幸福な世界を造る事を常に考えなくてはならぬ。目蓮尊者が母が救えぬので、釈迦に聞いたら、釈迦は「母を忘れよ」と言った。母だけ救はうとするのは自己愛である。そして一年経ったら母は救はれていた。(S24・11・26)

鈍霊でも貢献出来るか

“再生の度数の少ない霊又は新生の霊は生来愚かであると伺って居りますが、副霊の働きも鈍いのでせうか。所謂智恵者といふ者は本副何れの霊の働きでございませうか。又、鈍な霊でも本教の熱心な信仰により妙智力を戴け、社会人類の為貢献出来る人になる事が出来るものでせうか。お伺ひ申し上げます。

“祖先が偉い霊を憑けるから、悲観する事は要らぬ。その時、霊界にいる祖先の一番偉いのが選抜する。 同化霊で、人間に未だ生れ代って来ないのは、正守護神の手伝ひをして、善い事をして、今度本当の人間に生れ代る。(S25・4・8)

犠牲に就て

“世間には、夫婦や親子等の間で、或人が他の人の為に犠牲になることが屡々見られますが、此の様な「人間関係の犠牲」という事はどの様に判断し、行動致すべきでございましょうか。右、御教示御願い申し上げます。

“犠牲――夫婦親子――抽象的ではっきり言えぬ。贖罪はあるが、本当の犠牲はない。犠牲になるのは、その人に犠牲になるべき資格があり、信仰があれば早く片付くまでである。(S23・12・8)

大乗と大胆、(大乗は悪を伴ふ)、明主様は大胆で在さぬ

“小乗的な道徳観にとらわれず大乗的に善である事なら少々厚かましいと思われる様な事でも平気でやってのける人は所謂大胆な人、やり手といふ人達なのでせうが、これ等の人達は見方によっては良心の麻痺した人間ではないでせうか。

“大乗はどうしても悪を伴ふ。私のやってる事でも、医学者、肥料屋は困るが、致し方ない。大乗的な人が行り手とか大胆な訳でない。  神様にお縋りするから、大胆も小胆も同じ事である。私など随分大胆と思はれるが、決してそんな事はない。(S25・5・13)

個性を生かすか境遇を生かすか

“個性を生かすのが本当でせうか。  境遇を生かした方が本当でせうか。

“どっちとも言えない。個性を生かす為に人に迷惑を与え、不幸の元になる場合は生かさぬ方がよい。害のある時は殺すべきである。生かす時期が来ぬのに生かすと失敗の本となる。(決めてしまってはいけない)此救ひも貧弱な状態で大きな事をいふと誤解される。立派な状態になってから言ふべきである。芸術なども、師に習ふ場合は個性を殺し、離れてから個性を発揮する。これが利口な行り方である。(S24・1・27)

謙遜の本義、(言霊の働きの基本観念)

“謙遜した言葉の言霊の働きは――

“言霊の働きは相手を好い気持にさせる、それだけである。高慢な態度は不快にする。謙遜は相手を好い気持にするからよい訳だ。

念被観音力・行・心

“念被観音力、念被観音行、念被観音心の連なりに就て――

“観音心になれば行が出来、そうすれば力が出る。仏は逆で、体を先にするから、力・行・心と逆になっている。心が出来れば行が出来、力が出る。心言行一致するのが本当である。(S24・3・22)

頭を良くせよ、頭をよくするには、人心を動かし信じさす急所、教話「分らぬ」といふ事の原因、現代人の理屈・考え方

“頭の悪い人は非常に多い。頭の悪い人は話がクドイ。之は旧式である。自分も幾度も言はれないと判らぬ。私に判り切った事をよく質問する。で、『お前ならどうする』と言ふ。すると「私も同じくする」と言ふのである。神様を拝むのも人を助けるのも結構だが、頭を良くする事が大事である。今の人はどこか悪いといふときっと頭である。頭の悪いのは首の周りに毒があり、貧血している。人の心を動かし信じさすには急所がある。(急所がどこか、先方をみる)?どういふ話をしたら興味を持つかを知る。頭をよくするには出来るだけ使ふ。本を読むとか文を作るとかする。信者に頭の悪い人があるが、信仰でも狙いがわるい。分らない――といふのは、自分に能力がない。自分の方にまずい所がある。当方に罪があるのであるから、自分を省みよ。根本は誠だが、急所を外している事が根本である。迷信とよく言ふが、迷信は宗教に限るように思ふが、何にでもある。現代の人は結果を見ないで経路を見たがる。理屈も本当の理屈ならいいが、学校で教えるのは唯物主義の理屈である。迷信打破運動。松平俊子、李○(*)公――。 

指紋、智と言葉、信徒の心掛け(超然たる勿れ)

“指紋には何か意味が御座居ますか、御尋ね致します。

“すべて人間の身体は皆意味がある。運命、性格等のしるしになっている。特に指紋には意味がある。出口氏は皆流紋である。人間の肉体はどれでも研究すれば或程度まで運命、性格等が判る。疣、ホクロ等によっても判る。信仰によれば人相等も影響しなくなる。信仰の深い人は人相見と殆ど逆のように変ってしまふ。  人相は入信すると逆になる。故に人相を覚える要はない。天源術など割合い判る。一番人間の性格の判るのは言葉と態度――話の仕方――である。  正直にいえば、どっか破綻のない――、一番分るのは嘘である。人を見ると共に自分が要領よく話する癖をつけるを要する。着物の柄でもネクタイの柄などでも性格が分る。失敗するか成功するかも判る。話がしつっこくて要領を得ぬ人もあり、簡単に喋って物の真相に当る人とある。大本信者の時分、出口師の子が「お父さん火事だ」と言った。すると師は「遠いから行ってみる要はない」と言った。「どうして判るか」と聞くと「近い火事ならお父さんといふ事は言はぬ」と言った。成程理屈だ、と言った事がある。言葉の節々に注意すれば或程度判る。初対面の挨拶などでも智と不智を知る。法に叶ふか叶はぬかである。自分も急所を言ふようにする。日本人はそういふ点一番下手である。日本人は封建性が長く続いたから、嘘吐くようになっている。圧迫されているから、物を捻じ曲げて話す。日本人はよく笑ふといふ、そういふ習慣が日本人に着いている。曲げたり、色つけたりするんで、本当の事が判らぬ点がある。信者は世の中の俗界と掛離れる傾向がある。新時代に合ってゆかなくてはならぬ。出来るだけ新聞雑誌を読む、ラジオを聞く、映画をみる。時代の空気と掛離れぬようにしなくてはならぬ。今迄の宗教は世の中と掛離れる事をいいとした。あれでは現代人を救ふ事は出来ぬ。宗教臭くない事である。

腹芸(諄説は不可)

“夜の世界には腹芸といふ事をよくやる者がありましたが、光明世界に於ては之は権謀術数となると思ひますが、如何でございませうか。

“光明世界でもある。寧ろ余計ある。今の世界は腹芸がなさすぎる。今の人間は考え方が足らず、智慧が足りないので出来ない。本当に出来る人は滅多にない。極く人間が進化すると言葉はあまり必要はない。顔だけで通じるようでなくてはいけない。諄々(クドクド)しく書いたり言ったりしているのは未だ文化が進歩していない。一口で判る事を諄々しく言っている。宗教でも諄々しく説くのは低級宗教である。八万四千の経文等極く低級で、金属なら鉄のようなものである。金でなくてはいけない。良いものは極く少しである。本なども出来る丈簡単に説いてある。経文なら厚い本が一冊位なのを、本教では一ページ位にしている。権謀術数と腹芸とは異ふ。之は悪い意味である。顔だけ見て意志を交換するようでなくてはいけない。恋愛などはウインクなどで通ずる。之は発達している。昔は歌でした。歌で心を打ち明けるなど優美で、今よりは進歩している。

性格の判定点、言葉と動作、俗世間から離れるな

“私も人相を覚えようとしたが、信仰に入るとアベコベに変る。以前芝の石龍子にみてもらった事があるが、実によくアベコベに当っていた。そこで覚える必要がないから覚えなかった。一番人間の性格の分るのは言葉と動作である。よく信者以外の人で私を欺そうとするが、どこか話の中に辻褄の合はない所がある。以前こういふ話があった。出口王仁三郎氏が或時、その子供が「お父さん火事だ」と言ったが、その時先生は「遠い火事だから行く必要はない」と言った。近いならただ「火事だ」と叫ぶ。「お火さん」といふのは余裕がある。すべて法があるから注意していれば判る。話でも、しつっこい人と要領を得ない人がある。急所を突く事が大事である。日本人は特に下手だ。映画をみていつも感ずる。映画のタイトルなど実にその表現がうまい。日本人は封建的であるから下手である。それは嘘を吐く事を教えられて来たから、私もいろいろの人と話すが、外国に永くいた人の話は要領を得ている。信仰者はどうも俗界、世間から掛離れてゆく。之はいけない。映画、ラジオ、新聞を出来るだけみる。そうして時代の空気に離れぬようにする。大本教、日蓮宗、天理教、皆仙人臭くなってくる。本教は宗教臭くない。

大事に当面した時、(お任せの誤り)

“重大なる事に当面した場合にでも、刹那心でうまく解決出来るでしょうか。

“智慧を働かす事が必要である。自分より他人が善くなる事を前提として考える。最初から神様にお任せするのはウソである。よく熟慮すべきである。事件や問題などは叡智を働かす。観音様の妙智力といふ。智慧は非常に肝腎な事である。信仰の要諦は智慧と誠である。世の中をみると智慧がなさすぎる。指導者に智慧がない。(問題に対して最善の方法をとる。成可く軽くすむよう神様にお願いし、それ以上は神様にお任せする。民主党の如きも、吉田に投票すればよいのに山崎に投票してあんな結果となって、片山の平野言説問題など全く智慧がない。吉田が一番智慧があり、無駄しない)  (S24・10・23)

焦りと待つ心

“結婚後十二年、子供もない為、夫は他の女を作り同棲していましたので、私も最近実家へ帰りました。私は此先独身で暮すか、再縁すべきか、御用に専心致したいとも思ひ、如何致したらよろしいでせう。

“神様にお任せする。どう斯う考えぬ事だ。すると神様が思ふ通りにして下さる。ただ一生懸命御用して徳を施す、それにより御守護戴き、再婚がよければ再婚出来るし、独身がよければ独身に、実によくして下さる。人間は時節を待たなければいけない。私など一方で焦り、一方で待つ心がある。それが実にうまくゆく。神様に任すと実に確実である。 

向上心焦りになるな、指導は他力

“向上しようとする気持はいいが、短時日にしようと思ふと焦りになる。焦りになると霊はそう高くならぬ。指導は他力である。自力他力両方で行くのである。バラモンは自力一方である。『最善を尽して時を待つ』態度が一番良い。(S23)

貸倒れに苦しむ

“一生懸命は結構だが、焦りや無理があると思ふ。神様に任せ出来るだけ自然がいい。自然にゆく。そうしてると、その中神様からお知らせがあり、客が来て貸してわるいとか、悪い事を感ずる。焦るとそういふ事が消される。

我と執着をとるには

“我と執着をとれとは何時も聞いておりますが、自分自身で中々我と執着がとれない様な気が致します。どうしたらよいでしょうか。

“我と執着をとらうと思っていればとれる。とれないのは思ひ方が足りないのと焦りである。気長に構えれば段々にとれる。簡単にはとれない。朝早く起きるのがいいと分っていても起きない。以前大本教をしていた時、私は神様の話になると徹夜になり暁方になって寝るから朝十時頃起きた。それで朝寝坊といふ雅号をつけた。又哲学を研究していた時、或人の本に「人間は第二の人格を作るべきだ」といふのがあった。それ以来私は第二の性格を作るようにした。然し我がなくては働きがないからあってもいい。  お筆先に「此方は我でしくじった神」といふのがあった。我があっても出さぬがいい。善の執着はいい。私なども人類救済の大きい執着がある。(S23・11・27)

我と執着により不幸作る、神為の意識

“我と執着をとるための最も手近な具体的方法について――

“それをとらうと強く思っていれば自然にとれる。自らとるべきである。人間は我と執着によって不幸をつくる。あらゆる事は神がなされている事を意識すべきである。自分の力を頼らず神に縋る。信仰雑話を幾度もよく読む事である。

臆病になると御利益は薄れる、無理解者の浄霊を思案する事

“火素の増量により治り方も顕著になったが亦毒素の多量で死に至るのが多い場合、浄霊せぬのがよいと思いますが(お道に理解のない人に対して)――

“いけない。考え方が反対である。御道を理解していない人程手をつけなければいけない。結果をどうこう考える事は最もいけない。凡て人間で決める事は最もいけない。真の慈悲、惻隠の情を以てすれば必ず御利益はある。種々考えて臆病になると、御利益は薄れる。他の事は打算的に考えるのが肝腎である。要するに物事によって違ふのである。 

肉親の無理解で御奉仕出来ず、(反対の根因)

“自分の指導した人が親や兄弟の無理解から思う様に御手伝いが出来ませぬ。指導の方法が間違っているからでしょうか。

“神様の仕事をするに汚れがあり、それを除る方法として病気とか誰かの反対――とかがあるのである。だから罪穢を除ってくれる訳であるから怨めない。人間の考えとは反対の場合が多い。  御苦労様を感謝していい。騙されて損するなども、その為に救はれるのである。騙す方へ正守護神が憑いてさせる事がある。すべて反対の事がよくある。物の考え方を逆に考える事もいい。或事を考えて解釈のつかぬ場合は、逆に考えて合ふ事がある。(S24)

天地の神、人間の考え方

“御讃歌に御座居ます『如何ならむ罪も赦(ユル)させ如何ならむ  罪も尤(トガ)むる天地の神』の中の、  天地の神とは何神様に在らせられますでせうか。

“神仏によって役目が違ふ。審判の神と救いの神と違ふ。国常立尊は審判の神、善悪無差別に救はるるのが観音様である。親鸞の有名な言葉があるが、真宗では南無阿弥陀仏の名号によって救はれると説いている。物事は反対に考えるとよい。人間は一時的の事ばかり考える。だから私は、勝ってはいけないといふ。負けなくてはいけないと教える。負けるが勝ちといふ逆理も真である。或物が欲しい時は、要らないといふと先方は呉れる。之を現在の政治家に教えてやりたい。芦田氏小菅行きの原因は、以前吉田の出るべき幕を芦田が出たのがまづかった。その無理には金が要る。それが原因であった。民主党には金が要った。今その酬いが表はれている。人間は先の事を考えなくてはいけない。今度の首班指名も変である。今度の雑誌の寸鉄にもかいた。理外の理でなくてはいけない。今は理屈ばかり教える。お浄めでも理外の理で、理屈では説明出来ない。(S23・12・9)                                     

物の考え方

“凡て物の考え方は――考察は徹底していなくてはいけない。物事が起っても最悪の場合を考ふべきである。(S25・12・23以後)

本教信仰者の在り方の目標・心掛けの眼目、脅迫信仰(獅子身中の虫)、箴言、時下信仰上に就ての御注意、「本教によってのみ救はる」言い方、医療否定と他宗誹謗

“脅迫信仰は強盗に等しき行為である。信仰は、難病が治癒するとか一家が平和となって有難いといふ場合信仰するのが本当である。脅迫信仰は必ず離れる。観音会の人が特別に助かるといふ事はない。何宗の人でも善い人は助かる。善徳を積んだ罪の少い人は必ず助かる。ただ観音会へ入ると、人を助け徳を施す方法と力が観音会は非常にある。他宗で十年かかるのが一年で出来るだけの違いさはある。観音会で間違った事をすればよけいに滅び易い。他宗の誹謗はいけない。効能を述べる事となる。誰も気持悪くせぬような話をする。新しい信者の前でもそうである。古い信者の前では差支えない。それを智慧証覚によって適切に判断すべきである。医療を否定すると占領政策に反する事となる。医療を否定するのはまづい。先方が悪く言っても意趣返しせぬ方がよろしい。観音会を潰さんとする邪神は、獅子身中の虫である。大きくなるとちょっとした事が目立つ。何れは他宗教が邪魔する事となるから、どこからみても一点の非難の余地なきようせねばならぬ。追放になった因は、有名人の言動は社会的に影響が大なるが故にやられた。有名ならざる如く心掛くべきである。信仰は何を信仰しているか判らぬが立派な人だといふ風にアク抜けるのでなくてはならぬ。アクが抜けるのである。鼻の先へ信仰をブラ下げるのは極くわるい。すべてチャンスをつかんでやればよい。求めに応ずべし。先方にいい気持にさす。叡智である。一生懸命にしても信者が出来ぬのがあり、焦らずにうまくゆくのとある。他宗に触るる勿れ――。寺崎事務官――通訳――。 

医学否定に関する御戒告、「服薬治病不可説」医学到達主唱すべし

“医薬否定の注意――進駐軍関係もあり――病気につき――厚生省も始終問合せがくる。注射後お浄めをすればよい。夜の期間では溶解放出が困難であった。それで薬で止めた。之は夜の期間に於る暫定的処置であった。観音も薬師如来となられた。東方薬師如来、西方阿弥陀如来といい、薬草喩品の経もある。薬でなければ固まらなかったのである。盤古神王――神農とす。今度は解消して出す。固まり難くなるから、何れ医学の方で「薬で治病するのは間違っている」といふ説が出てくる。自分の服まぬのは自由であり、他人に言ふのは犯罪となる。之は、医学が気づくのが本当である。(S23か)

使い途になる人間になるには、脅迫信仰は不可――曲解的宣伝、入信の本義

“使い途になる人間になる事で、それには本当の信仰をする。そして霊的に浄まる事である。入信した人は実に運がよい。救世教へ入らぬと滅ぶ――といふ風な曲解的宣伝は極めて警戒せねばならぬ。之は専売特許ではない。ただ一番力が強いのである。「怖さ故の改心はホンマモノでないぞよ」とお筆先にあるが脅迫信仰はいけない。一つの刑罰によって信仰する――といふ事になる。立派な人間になる――之が本当である。(S25)

人を裁く事

“とかく他人に迷惑をかけ、中々言い付けを守らない人を、つい感情に走り「彼奴は馬鹿だ」とか「悪魔だ」とか言ふのは裁くと言ふ事になり、罪を構成しませうか。

“自分が馬鹿である。神の権限を犯すのは罪になる。(S25・3・3)

咎める事

“何か間違った事をした人に「何故したか」と言ふのは咎める事になりませうか。

“人を咎めるのは全部いけない。限界などを考えるべきではない。ちょっとは言ふのはいい。(教えるのである)人間は全部咎められる方である。咎めるのは自分が偉いと思ふからである。寧ろ咎める方が下かもしれない。

忠告する事

“それは悪いことだからこうしなさい、と注意するのは宜しいでせうか?

“之は咎める事にはならぬ。アッサリ注意するのは構はぬ。  (S25・3・3)

悪を憎む事と我、正直、(観山亭と東横問題、大本教脱退)怒り、新形式の経典の説き方

“悪を憎む――憎むのは感情だからよいが、行為に表はしてはいけない。憎むのはいけないが、その気持は起る。或程度で制えるとかなくするといふ事である。我がなくてはいけない。「我があって我を出さないのがよいのであるぞよ」とある。我を出すと失敗する。故に出さぬのがよい。怨み憎みは出来るだけ早く忘れた方がよい、自分に返ってくる。私など若い時はあったが、段々その感情がなくなった。その時非常に憎く思い、太い奴と思っても、後になると非常に善い事したと感謝するような事もよくある。観山亭の資材もそうである。富士見亭の隣へ建てるのを五島が止めた。それで十五坪位の大きさの資材が間に合った。五島は不必要な嫌がらせをしたが、彼は大した仕事をした。今は此方で詫びたい気持さえする。大本教の時、非常にヤッカミ、私を目の仇と迫害した。それで脱退した。それを“真如の光”にデカデカと出した。その為十年十二月八日の弾圧にも巻き添えを食はなかった。でなかったら、私は木村、田口と比肩した位だから大変だった。全く離反した事が――。怒る事を我慢出来なくては修行が出来たと言えぬ。その為にも怒らせる人がなくてはならない。それは有難い事だ。私は悪口を言はれるのがおかしい。人間には可笑しな人があり、人を怒らしたり興奮などするのを非常に面白がる人がある。それ故尚更興奮しない。嘘吐くのもいる。日本人は特にそうである。私は二十五歳の時独立して商売を始めた。その創める前「お前なんか成功するか」と言ふ。「きっと成功する」と言ふと、「世の中で成功するのは皆三角流で行かなくてはならぬ」と言ふ。それで、最初はいろいろ手段を使ったが、うまく行かず、正直にやったらうまくゆくし、信用された。絶対正直に言えない事があり、止むを得ず嘘をいふと、それを又信用する。正直が一番いい。それを決して駆引きなく書いた。アメリカがそうで――。政治でも何でも、どこまでも本人の納得する事でなくては決して言ふ事を聞かず、結果が悪い。表面聞いても何時かは必ず背く。既成宗教は非常に嘘が多い。仏典でも聖書でもはっきりせぬ。二つにも三つにも解釈出来るようにしか書かぬ。そういふ書き方をせぬのが新形式である。(S23・8・4)

憤慨の真理、巧妙な副守、愛と人の善悪

“人間は青年期に於て壮年期にある者の言動を見聞きして青年特有の潔癖に照らして憤慨する事がありますが、此の場合の本守護神の状態を御伺ひ申し上げます。右の反対に壮年期にある者が青年特有の道徳上の潔癖を冷笑する場面をよく身受けますが、此の場合の壮年者の本霊及び副霊の状態を御伺ひ申し上げます。

“憤慨するのは副守護神で、世界の事、人類の事等を憤慨するのは本守護神である。個人的な小さい事を憤慨するのは悪の方で、小乗の善であるから間違っている。人間は個人的に憤慨するなら、自分の言動を憤慨すべきである。人間はそんな憤慨するのは間違っている。神様はそんな事はお嫌いで、神には全人類に対する事で、個人的怒りはない。(故に人間のそんな憤慨は結果に於て碌な事はない)人間は他人に対し怒る事も咎める事も出来ぬ。自分をみれば人を怒ったり悪く思ったりは出来ない。之も副守護神で、副守の巧妙なのは善の仮面を被る。共産主義などそうで、邪霊がそれを善と思はせるのである。そういふ人は愛が足りない。愛を通して物をみれば、憎むものも咎むるものもない。 善は利他的観念、他人をよくする。人良かれといふ事。之は大乗も小乗もない。他人良かれの人が集まればよい。自分を善く見、他人を悪く見る観念から争ひが起る。神は愛なり、力なりで、愛をもってみれば人を咎める事はない。人を善とか悪とか決めるのは僣越である。  人間が人間を見て分るものではない。常識でみれば大体判るが、本当の事は判らぬ。之は神の領分である。要は人間が人間を裁く事は出来ぬ。キリストは姦淫の罪を決めたが、之は自分自身がその気持があるからである。之は作り話かもしれぬが、或若い女が名僧の弟子になり、或時イキナリ齧りついて試そうとした。「私が齧りついたら貴方はどんな気持か」と質ねると「何ともない」(枯木寒厳之冬暖気なし)と答へた。何の感じもしないといふのは嘘で、実際は変な気持がした筈である。姦淫は許すべからざるものであるから制えた――と言ふのなら本当である。

修行の眼目、(怒らぬは本当でない)

“神様の修行は山籠りや断食などではない。  怒るのを制える事――これが修行である。怒りたい時は修行と思ふと楽になる。怒らないのは本当のものじゃない。怒るのも神の与えた感情であるから無くてはならぬ。それを制える事に値打がある。(S25)

怒る事多い理由

“私は生来短気なので、それに修行も出来ていず、人一倍怒りっぽい性なのかも知れませんが、何かかにか絶えず怒らなければおられない事が出来てきます。私のやり方が間違っているからと反省しても、中中反省して自分を慰めきれぬ時もあります。  之は私のやり方にまだまだ誠が足りないと神様が御訓(サト)し下されているものでせうか。それとも邪神が仕事を妨害しようとでもするのでせうか。爆発をして心を晴らすのと、堪忍するのといづれが勝利者になれませうか。

“神様が修行をさせるので、怒るのを我慢するのが一番の修行である。神様は一日のうちでも次々怒らす。が、決して爆発さしてはいけない。でないと何時までも続くであらう。怒らないような人間も駄目だし、怒る人間でも駄目である。使命の大きい程怒る事も大きい。怒っても我慢出来る人でなくてはいけない。怒る事があっても一方に大きい倖せを戴ける。神様が邪神に邪魔をさせる。邪神を働かさせるが、邪神の為にお蔭をもらう事はよくある。段々よくなる。気永に時節を待つのがよい。焦るのはすでに地獄へ落つる。人間の智慧などは駄目で、人間は常識で考えてやればよい。焦っては苦しくなる。苦しみの元は執着である。

神光の強弱と信仰想念、(霊界の曇りと虫発生)、勝つ勿れ、(悪口と罪)、殺人被害の真因

“私の家の勝手や井戸端附近、なめくじや油虫が此頃夜になると非常に沢山出て来ます。如何なる訳でせう。霊的の原因御垂示戴き度うございます。

“その辺の霊界が曇っているから、虫などが湧き易い。霊界が綺麗ならこんなものは湧かぬ。外へ湧く。霊界が汚い。どうすればよいか――といふと、そこの家から光が強く出ると霊界が浄まる。余計出るようにするには、光明如来様をお祭りして徳を施す。お祭りして光が強くなったり弱かったりするのは――熱心に人間が拝むほど神様の光は強くなる。仮に下にお祭りすると、神様の光は出ぬ。又、他の神と同列にすると光が薄くなる。徳を施すと共に熱心に拝む事である。又、大勢が拝むと違ふ。霊界は人間の想念でいろいろ違ふ。或ものへ大勢が拝むと想念によりそこへ神様が出来る。想念により形が作られる。(邪魔者も或程度まで?)悪い想念――大勢の怨みが集まると、悪魔のような恐ろしいもののような形が霊界に出来、周りを取巻く。その人の霊は萎縮してどうにもならぬ。少し位信仰しても御守護がゆかぬ。そういふ時、大勢の殺したい想念が代表して、選ばれて殺す。今の強盗等はそうである。日本の国は、ゴミ捨て場の如くで、そこへ蛆が沸く。即ち殺人強盗の如きはそれである。之は大乗の見方であるから、あまり言えない、説けない。故に小乗に説く。ただ知ってる事は必要である。悪口を言はれた方はそれだけ罪が除れ、言った方は罪が殖える。故に何かやっても勝ってはいけない。負けた方が罪がとれ、勝った方は殖える。であるから、勝って天下を取ったのは駄目である。大乗的にみれば腹は立たぬ。仏を祀るだけではいけない。

悪と戦ふ事、最後の勝利

“悪と戦ふといふ事と悪に負けないといふ事は如何なる心得を堅持しておれば間違いはないでせうか。

“悪と闘ふといふが、戦はぬ方がよい。一時は負けても最後に勝てばよい。時を待つ。(S25・3・3)

正を主張する態度、(口論と説明)

“自分が正しい立場にあっても争いを好まぬ性質から自重して時期を待つ心と、正しい事は相手と口論してもその正否を決めねば収まらない心とは何れをとるべきでせうか。

“口論は不可である。争いはいけない。説明は差支えない。そして判らなければ時を待つ。

光が強いと霊衣が大きくなる―誠強まる、気持よくさすが肝要―身魂向上、身魂の高下と人格の差の一致、多くの人導く根本

“身魂の高低と人格の差とは一致しているものでせうか。又、身魂の高い人程多くの人を導く事が出来るものでせうか。御伺ひ致します。

“人格の高いのは身魂も高い。一致している。多くの人を導く――無論そうである。求心的に人を引きつける働きが出る。大きさとは霊衣の光によるので、光が強いと霊衣が大きくなる。それでその人の霊衣の範囲へ入ると気持が好いから、接近したくなる。気持よくさすのが一番肝腎である。それには身魂が高くなる事である。曇りが減って光が増す。そうすると誠が強くなる。すると人が寄るし、信者も出来る。大乗的考えもなくてはならぬ。  世界大に大きくするのである。(S25・5・7)

発展の道、(天国的文化人と新人) 

“人により発展するのと発展しないのとある。一番判り易い簡単な事は、商売をおやりになっている頃アメリカの行り方を研究された。その中で鉄鋼王アンドリュー・カーネギーが、人間は商売する時、一日々々前日より進んでいなくてはならぬ、と言った。フォードもそうである。前月よりいくらか殖え、行り方が幾分でも進んでいなくてはいけない、(一月々々毎)と言った。この行り方は良いと思った。今日宗教になっても之は始終頭から離れぬ。先月よりどこか進歩していなくてはならぬ。今迄より余計進んでいる。考えが進んでいるとか、全体を総合して進歩発展している、でなければ満足出来ぬ感じである。先月より一人でも信者が多い、どこか進歩していなければならぬ。その場合マイナスではいけない。  これが即ち大自然の姿である。世界の人口はいくらか殖え、世界のどこかが必ず良くなっている。文化の大清算があっても、善い物は残る。自分の支部など、いくらか信者が殖えるとか、御神書で頭が進むとか、余計に物を識るとかしていなくてはいけない。罪を重ねると案外大きいものになる。何事でも進歩的でなくてはいけない。  退歩も停滞もいけない。進歩向上は真理で、これだけは忘れられぬ。これこそ、その人が偉くも幸福にもなる本で、之が処世の指針である。支部や分所の発展、未発展に就て進歩発展するには決して一遍にやってはいけない。地味に、真面目に発展しなければならない。先月よりどこか殖えていなくてはならぬ。やがて大きなものとなる。  アメリカなどは決して一遍にやらぬ。日本の爆撃などでも少しづつやる。北鮮に対してもじりじりやってゆく。凡ては自然の原理である。自然を離れてうまくゆくものはない。凡ゆるものは自然を見習ふべきだ。自然が先生だ。新人にならなくてはいけない。特に多くの宗教家は古い。又、それをいいとしている。故に他の宗教と反対で、今迄の文化は旧式である。新しい人間になり、新しい文化を作る事である。世間には徳川、平安時代などの人もいる。実に非能率的である。人間は善い事でも一ぺんにやらうとする。それがいけない。反って物事を壊す。焦らず、騒がずやらなくてはならぬ。凡ての仕事の要点、相手の気持をつかまえ、能率的に処理する、それが新人である。  巾着切りみたいにならなくてはならぬ。物をみるのが早い。目ざとくなくてはならぬ。人の眼付や顔色ですぐに知らなくてはならぬ。心掛けると判る。すぐに表はすと気味悪がられる。世間では、ユスリなどあまくみる。それでいいと思っている。  正神は非常に鋭いものである。メシヤ教の信者は最も新人にならなくてはならぬ。新しい文化世界を造るのであるから。  今の新人は地に足が着いていない。自分が作ったもので自分が破滅する。といふのは、それを使ふ人が悪いので、使用者の精神によるので、善人が使えばよくなり、悪人が使えば悪くなる。使ふ人間の心である。医学、農業の革命が根本で、それが成れば政治、経済等凡て新しくなる。神様が御経綸なされている。今迄の宗教にはそういふ力はなかった。天国的文化人にならなくてはならぬ。  (S25)

教会発展か否かの根本原因、治療士と治療屋、発展と心構え、五六七の世成就の時と力

“教導所の発展するのとしないのとの根本原因と、大いに発展して御奉仕の出来る道を御諭し下さい。

“これはいろいろあるが、根本としては極く簡単なんで、その人の目的といふか、心の持ち方といふか、それが大きい方が発展する。以前、冠句で「泡くって持ってるものを探してる」といふのがあったが、正にそうである。皆それぞれ持ってる心に原因がある。治療時代に、私は、治療士(今の教導師)には治療屋と治療士とあって、治療をして安楽に食っていればいいといふのは治療屋であり、大いに多くの人を助けなくてはならぬといふ愛の気持で従事するものを治療士といった。世界人類を救はなくてはならぬといふ考えでやってる人は、その人の教導所はドンドン発展してゆくし、小成に安んずる人はいい加減な所で発展が止っている。要するに世界人類を救ふといふ気持の薄い人は発展が鈍い訳となる。中にはそんな事は到底出来ないと思ってる人もある。然し、この教団は世界人類を救ふ力を持っているのである。そして五六七の世は造らねばならぬし、又造り得る時期になっているし、又明主様(私)はそれを造るべき力を与えられている。だから決して之を危うんだり、心配する必要はないのである。真理といふものは、世界人類がみんな救はれるものでなくては本当のものではないのである。日本は忠君愛国思想の如きものを真理と思っていた時があったが、それは国家的利己主義で日本さえ良ければ他国はどうなってもよいといふ思想で、これじゃ神様が許される筈はない。そういふ行り方は一時的のものであって、永久的のものではない。小乗的である。世界中の人が全部救はれるといふものでなくてはいけない。でないと、虐げられた国民は皆怨む。  世界的大きいものでなくてはいけない。

教話の判り難いといふ事、(焦らず怠けぬ事)、神意と信徒増減の緩急

“御観音様の有難い御話が判りにくいのは、魂が新しい為と邪霊に依る時とが御座いましょうか。その見分け方に就きまして御垂示を御願い申し上げます。

“之は分り難い事はないと思ふ。いろんな理由がある。そう信じては困る。こっちに準備がなくてはドシドシ入信させても仕様がない。宣伝しなくてもドシドシ殖えるのに、宣伝したら大変である。観音様は好い具合にしておられる。殖えるのと収容力とを睨み合せて観音様がやっている。どうせ篩(フルイ)にかけるので篩の目から漏れるものは沢山ある。その人に種を蒔くようなもので、一時判らなくても後で気のつく人もある。人により、時期の来ぬ人や後れている人もある。それは飛びつくように入ったり、急速に判ってくるといふ具合である。焦ってはいけず怠けてもいけない。又、その人に対し候補者を向ける時も、その人に資格がないとその人を信仰に導く事は出来ない。信仰として形態をなしたのは今年からである。諸子とてもどんな質問にも明快な答の出来るのは無理である。それ等が段々調ってくる。凡ゆる方面に意外な所から話がある。  今いろんな話があるが、止めるようにしている。しっかりと固めつつ行かなくてはならぬ。パッと拡げるだけではいけない。今迄の宗教のように――。  (S23)

発展するには、思ふ事、人力最高度に発揮す

“こういふ事は誰しもある。どっちか決めてはいけない。人間の力を頼り、神様を忘れがちでもいけない。人間の力も最高度に発揮し、それ以上は神様に渡す。少しづつでも出来るよう心掛けるのが修行である。自分の所は発展しない。いろいろ欲求がある。一番効果のある事は思ふ事である。大きくならうとか思ふ事で、思っても行なひが伴はなかったり、思ひ方が足りなかったりすると出来ない。カーネギー曰く「成功とは成功せんと思ふ心そのものなり」と言った。信仰も強く思ふ、それが一番いい。

教会不振の原因、(小乗信仰と脱線)、大乗たれ、急所の発見、強く意ふ、善欲の発揮、救いと金と禁欲、花は魔除け

“教導所発展せぬ原因と欠点の所在――

“脱線している為である。軌道を外れているからである。一番の原因は小乗的信仰の原因が多い。(咎めるのが一番いけない)小さくなる。大きくならない。発展するのは大きくなる活動であるから大乗でなくてはいけない。小乗的で、ああしてはいけない、こうしてはいけない――などといふと人を窮屈にする。善悪は神様が決める。悪い悪いと言いながら、そう言ふ人が悪い場合がよくある。緩やかに気持の好いようにしなくてはいけない。根本原因を一口に言ふと、教導所へ来て気持が良い、愉快でなくてはいけない。  又、クドい事はいけない。神様はあっさりしているのに、神様の気持と違っている。一言で言ふ事を聞かぬと時を待つようにする。「治る」――利益があるから人が来る。(急所にふれるから治る)急所を外れると先方が感じない。急所の発見は叡智である。主なる気のついたのはそれである。一番肝腎な事は只一つ、どうしても発展しよう、人に負けまい、と強く意ふ事である。これが一番肝腎で、倒れても諦めぬ事、その強さである。物によっては諦めない方が肝腎である。悪い事は諦めた方がよい。欲ない人間は役に立たぬ。人の様な事はできないと思ふ事はいけない。善欲は大いに出した方がよい。一番欲張りは神様である。故に一番は金である。観音教団は金儲けがうまいと言ふ。然し、大勢救ふにも金がかかり、金が入用である。大きな救いをするのには金が入用である。「祖師は紙衣の五十年」と言っても、今、人が相手にしない。信仰の根本に違ふ事がある。昔の信仰生活は禁欲的で、まづい物を食い、汚い物を着るのをいいとした。それは観音信仰でいふと間違っている。それは、人間を楽します為に造られたものは――。天国は真善美である。邪神は花を嫌ふ。邪神は花活けなどを妨害する。花だけは忘れず、必ず部屋へ花を飾るべきである。魔除けになる。霊界でよい影響をする。治病力は急所――。

発展の道―救世意欲の強大、(小成に安んずるな)、明主様昔の御意欲―朝寝坊とならる、優越欲の要―最も不可なる観念、真の誠、再教修する事―先生替るべきに非ず、信仰深めよ

“立派な先生方が、他分会にて教修を戴かれた信徒さんが浄霊を受けに行くと自分の所で再教修を受ける様に奨め、又、或ひは再教修受けぬ者には浄霊をして戴けぬとか、又何処々々の会にて教修を受けたお光様はお光が弱いとか申します由、右の様な事を言ふ方があるとすれば、本教布教の上に大変悪影響を及ぼしめはせぬもので御座いませうか。お互ひに近くの教導所を紹介する位の心持を持つ事が宗教家として大切なことでは御座いませんでせうか。

“之は無論間違っている。  神様の方で好い具合にやられるから、心配する事はない。或時期へ行くと止めるか、やめさす。原則としては嘘だが、斯ういふ事もある。或教導所で教修を受けたのと、他の教導所で教修を受けた人と信仰が違ふ。発展する位の教導所で受けた者は働きがあり、発展せぬ教導所で受けた者はそうでない。然し之は本当は嘘である。最初受けた教導所は因縁があるから続けなければならぬ。そこの教導所で受けた人は、皆働きがあるように先生が考える。自ら判るのはいいが、再講習しなくてはならぬ――といふのは間違っている。立派な教修生を作るようにする。それには信仰を深める。熱心に種々な事を知る事で、それには出来るだけ御文章を読む事である。「地獄のような世の中を天国にしなくてはならぬ」といふ熄(ヤ)むに熄まれぬ熱が、大きくなくてはいけない。それを痛切に意ふ。日本中を救ふ――位に思ふ。小成に安んずるのが一番発展力がない。「本当の誠」とは己を捨てても人を救ふ事で、「自分に力がない」と思ふ事が一番いけない。大先生も、昔思えば、何にもない中から「人類を救はふ」といふ気だった。優越欲が強くなくてはいけない。冠句でも三代目朝寝坊――となられた。何かやると一番にならうと思ふ。人のやらぬ事をやる。(S24・5)

今暖冬の霊的意義、(邪神弱まる)信者増加の真因

“今年の冬は今迄になく暖いですが、何か霊的に関係がありますか。御尋ね致します。

“光が強くなり、邪神の妨害が薄くなる。今迄は話をして判っても、憑いている副霊がやめさせる。明るくなると邪神の力が弱ってくる。それで妨害や反対し難くなる。これが信者が殖えた原因である。これからは非常に殖える。救はれた祖霊がこの信仰に入れようとする。(S24)

御用閑散・他の職を兼ねる事、発展せぬ理由と散花結実

“治療が比較的忙しくない場合は一時的に他の職業と兼ねてもよいものでせうか。

“之は臨機応変であるが、本当は他の職を探すのはよくない。神様の方にもいろんな事情があるからである。私は治療時代、散花結実といふ事を言ったが、そういふ場合もある。之は花が散り実が実るといふので、花が散る時は暇になるのであるが、実が出来るのは時間が掛かるんで、人間は焦りたがるが、閑なのは一時的現象で、決して長く続くものではない。何事も初めからパッとするのはいけないので、実が実るように徐々に大きくなってゆくのでなくてはいけない。又、発展しない理由は何か神様のお気に入らぬ事がある訳だから、よくその心と行ないを考えてみるべきである。

散花結実、神事の進み方、真の不振の場合

“散花結実といふ事を言ったが、そういふ場合もある。之は花が散り実が実るといふので、花が散った時は暇になるのであるが、閑なのは一時的現象であって決して長く続くものではない。実が出来るのは時間がかかるんで、人間は焦るのであるが、神様の事はどうしてもパッとしてはいけないので、実が実るように徐々に大きくなってゆくのでなくてはいけない。其他本当の意味で発展しない場合は、何か神様の御気に入らぬ事がある訳だから、よくその心と行ないを考えてみるべきである。  (S23・8・3?)

布教思ふに任せず、(浄まらぬと力出ぬ)

“私は昭和二十二年一月入信、家族五人共入信、二十四年六月大光明如来様御奉斎、御道の為に微力乍ら尽くさして頂き度く思ひ、知人を尋ねては開拓にと各地に布教しましたが、仲々思ふ様に出来ず、経済的にも行き詰りましたが、どうしても御道に進まねばと意を決し、少しの財産を整理致し、御用に開拓にと努めて参りましたが、物心共に浄化にあい、御用に事欠き、思ふ様になりません。因みに私は入信前左額部に怪我をして七ケ月程医療を受けたれども治らず、其後本教浄霊にて治りました。又私の家は分家にて血統も種々複雑になっているのです。霊的に何か関係があるでせうか。御伺ひ申し上げます。

“(霊的でない)罪穢があるんで、或程度浄まらねば救ふ力が出ぬ。沢山信者の出来る人と出来ぬ人がある。霊が或程度浄まると言葉に力があり、先方の魂にふれる。曇りが多いと言霊に力がない。浄霊でも治る人と治らぬ人がある。(神書を出来るだけ読む。神書を読むと身魂が磨ける。頭が良くなる)(S25・4・26)

発展せぬ教導師、(怠慢の罪)、頭を使ふ事の重要性、(予定と実行) 

“教導師でも嘘を吐くのは発展しない。何にもしない事は怠けの罪になる事を知らない。仕事が済んでの休養はよい。  頭があり、手があり、足がある以上、使ふ程よい。頭を使ふと健康になり、長生きする。使ふほど発達する。頭のわるいのは使はない点もある。予定を作ってその通りやらぬと恐怖感の如きものを覚える。之は一つの地獄である。(S23・9・26)

抱擁力を得る道、教団幹部の生来

“抱擁力とは――霊衣の大きいとか霊衣に包まれるといふ事。霊衣の大きいといふ事は霊の光が強い。之は生れ乍らと努力によって強くなったのとある。努力とは徳を積む事で、善い事を沢山する事である。それにより神格化する。それで或程度まで大きくなる。生れ乍らの人は――特に使命によって生れた人は神が人間に生れた人で、教団の幹部の人は皆神様の生れ代ったものである。抱擁力を得ようと思えばよい。(S23・10・14)

統率力に就て

“如何にして進めば人はついて来るでせうか。

“ついて来なくちゃおれないような行なひをする。その人を敬まふ――此の人について行けば将来間違いない。中心は誠で、その人を幸せにしたいといふ――一番の幸福は人を幸福にする幸福で、懇切に指導して、親切にしてやる。言ってしまえば訳ないが、なかなか行なふのは大変である。一番簡単になれるのは、人がついて来るようにしたいといふ心持である。すると自然に行ないに出る。すると神様に気に入られ、可愛がられ、特別御守護があり、思った事を実現してくれる。  それはとても可愛がられる。弥勒様は大変な御力で、どんな御力でも出る。

御浄霊と精神更生、(入信後の人の変化種々相)

“御浄霊により肉体的には病が癒され救われて居り乍ら、精神的には更生出来ない人々が多い様に見受けられますが、如何なる訳でございましょうか。右、御教示御願い申し上げます。

“精神的更生の出来ない事がどうして判る。そう変るもんでない。夫婦喧嘩しないまでには(なるにも)二、三十年は掛からなくてはならぬ。急激に変るもんでない。生命を取りとめ、それから段々変るのである。  他人より先ず自分を考ふべきである。自分がなかなか治るもんでない。人によって時期がある。順序や段階がある。私は昔大本教へ入った。良い宗教と思ったがちょっと面白くない事があり五年間止め、もう一遍研究しろと人に言はれ、やや判って善い所があると思って再び熱心になった。結局は脱退した。それまで熱心にやった。今、大本教を信仰して種々得る所があり、感謝している。故に表面からみて善い悪いは言えない。ボヤケたようで熱の出る人があり、熱を出して働きがありそうで結果がボヤけたり、何にもせぬようで働く人があり、千差万別で、時期がある。であるから、大抵の事は見ている。間違っている事をしている人があり、注意はしない。するとその人は行き詰まる。破綻を来して吃驚し、心から改心し、それから本当の働きをする人があり、途中で止めるより、やって執着を除った方がよい。

一人を救ふ事、(何万人の代表)

“私は終戦当時西部ニューギニアで祖国を偲ぶ頃、或る外人の言葉に「日本人は近日中に帰国するが三十五年経ったら又此の地に来る。その時は世界平和時である」との言葉でしたが、何事か察する事も出来ませんでしたが、只今私は教団の人となり、地上天国建設には日本人が第一人者であると思ひます。私としての務めは如何に進めば理想でせうか。お尋ね申し上げます。

“第一人者と思ふのはいいが言ってはいけない。一人でも多く救ふ。今救はれている人は何万人の代表者である。それが分れ何億か分れた種を救ふ。すると枝全部が救はれる事になる。であるから一人だけ救ふのも大変な手柄になる。(S24・9・7)

誠実・浄霊力あって発展せず

“人柄が誠実で御道への情熱もあり、御浄霊の治り方もよく、人から好かれて居る教師で余り発展していないので、より以上発展する為には治った人が新しい人を紹介さへして呉れればよいと日頃考へて居ましても、中々思ふ様にゆかぬ場合、どの様な心構へを持つべきでせうか。

“時を待つべきである。例えば、明主様とても今は一部の人からしか認められぬ。時期の関係である。いつかはその人の値打だけに認められる。又、その人が善いようでも、神様の方でピッタリしないのもある。

他教会に指導受くる事と霊線、(地域と霊線)

“疎開先でお光を頂き、旧住所に戻って来た場合、今迄お世話になった先生は遠くなりましたので近くの教導所の先生の御指導を願ひたいと考えますが、  霊線の関係から云々言はれますが如何でありませうか。又、霊線が違ふからと言って他所の教導所へ行くのを嫌ふ事や、或ひはお願ひしても御浄霊をして頂けない事もあるそうですが如何でせうか。私共は同じ観音様だからと思ひ、分会が違ふからという様な事を考えず御浄霊をさせて頂いておりますがいけないのでせうか。私共には霊線と言う意味がよく判らないのですが、正しい霊線という事を判り易く御説明下さい。

“地域的に指導して頂く先生を決めるのが本当である。引越して来た近くの教導師に厄介になればいい。霊線は自分で繋ぐのではなく神様が繋いで下さるものである。最初に繋がれたのは因縁で、その先生に霊線が繋がるのである。こちらへ来ればこっちの先生に繋がる。よく先生が気に入らなくて替える人があるが之は間違っている。又霊線が違ふとて寄せつけないのも誤まっている。惟神の道即ち自然である。地域的にしないと霊線が混乱する。元の神は一つであるから近き教導所へ変っても同じ。近づけば太くなり、疎遠なれば細くなる。

信仰と恋愛、受光、(洗霊と説教)、怠慢の罪

“信仰は一種の恋愛である。女の為に使ふのも神様の為に金を使ふのも同じ事である。信仰と恋愛とは似ている。信仰は神秘に対する興味であり、女でも、惚れた女に神秘性を感ずる。場合によると目的を遂げて恋愛がさめる事がある。信仰からみれば恋愛は小さなものである。病気を治すんでない、病気など治ってしまふ。助かる方法を知った。又知らす。その方法を行なはなければ無意味である。金を持ってるだけでは価値なく、使用して初めて価値がある。講習を受けて活用しないと罪になる。知った以上人を助ける使命が下ってる。やらねば怠慢の罪が発生する。時期が切迫すると皆あわてて(*)出す。或時期へ行くと一ぺんに世界的浄化が起る。その時――。火の洗霊は浄霊と同じである。洗霊は、洗ふ事であるから火の洗霊はおかしい。火で浄めるんである。教はお説教である。お説教など力はない。  (S23)

三毒五濁の消滅法、(受教修の意義)

“善言讃詞にある五濁とは実生活上如何なる事であり、又三毒とは如何なるものでありませうか。又これを滅する方法には現在どの様な方法があり、又その方法は将来変化していくでございませうか。

“三毒は貪瞋痴、五濁は罪穢の五つの種類である。人間の罪悪を分類してある。  之を滅する方法は人を助け徳を積む事である。苦しむ事――いろんな苦しみにより滅するのは、骨が折れて効果が薄い。然しもっと楽で効果的なのは信仰で、教修を受けるのは罪穢を消滅する方法を覚える事である。であるから、教修を受けただけではいけない。罪穢を除るといふのは、一人でも人を幸福にするとか、導く事をするのである。(S24・3・20)

布教上の病気の話

“開拓に際して病気云々は言はず、唯御利益を主として説明致しますがピンと来ません。  どういたしましたら信仰に入る様になるでせうか。具体的に方法を御教へ下さい。

“開拓は、病気の事を言っていい。嘘を言ふんでない。病気の治る事を言っていい。(医学の悪口は言はぬ)之が一番の御利益である。病気が治り生命が完全になる。生命を戴く。之が一番高級な宗教である。それを低級などといふが、低級といふ言葉が抑々低級である。御利益が欲しいから信仰するので、商売して金が入らぬといふようなものである。(既成教は治らぬから斯んな事をいふ)何でも常識で間違いないといふのが本当である。(今の世の中は理屈ばかりが多い)人間は善い事をしなくてはならぬといふ誠が根本である。不正な事して――。  正しい手段でどんな善い事をし、治しても差支えない。禁欲生活をいいとしているが(苦しむのは大変な間違いである。豪奢な生活をしているといふが、そればかりを見、いい面を見ない。之が役人である)人間はとかく悪い面のみを見ようとする。然し善い面を見なくてはならぬ。善ばかりといふ事は出来ぬ。(又斯ういふ事を考えなくてはいけない。自分が生きていて社会の為善悪どちらが多いかをみなくてはいけない)(例えば無肥料は肥料会社からみれば罪になり、医学もそうである。「大の虫を生かし、小の虫を殺す」と昔から言ふ)(S24・12・27)

生命は人のものならず、人間の心掛け、栄えの道、(枕詞種々)

“左の御歌について意味を御伺ひ申します。『魂機張る生命は神のものにあり神に叛きて栄え得べきや』

“「魂機張る」は枕詞で――生命の――。歌には意味の分らぬような事をかく場合がよくある。信濃など「みすずかる」――といふし、「いすくわし」は五十鈴、「久方の」は天である。「村肝」は命。生命は神様のもので、その持主たる神様に叛いて栄える事は出来ぬ。生命は自分のものと思っているが、自分で生命を自由に出来ない。もし自分のものなら自由になる訳である。であるから、生命の持主に気に入られるようにしなくてはならぬ。雇人みたいなもので、解雇されぬようにしなくてはならぬ。(S23・10・19)

戴いた生命

“人相学上短命と言はれた患者、御浄霊に依り快方に向ひつつありますが、長命を得られる事が出来るで御座居ませうか。

“短命を長命にする事は訳ない。浄霊によれば訳ない。全然駄目なのが生きかへる。その場合は前の寿命とは違ふ。そこを考えなくてはならぬ。戴いた生命を神様の御用に使はず金儲けなどに走ると神の守護を離れる事になる。戴いた生命は私有財産ではない。(S24・3・12)

祖霊と本教信徒、(養子取りの真相)

“祖先の殆どが現世に対する執着の為、再生或いは転生し、霊界に祖霊の数が少ない様な事が御座いますでせうか。また其の場合の祖先の罪穢の継承の点を御伺ひ申し上げます。

“教団へ入ってくるのは祖先でも大先祖が多い。その家の娘が大先祖などの場合がある。養子取りや、子のない時養子をとる時など、先祖が霊線を辿っては霊界で候補者を探す。そして産土神の許可を受ける。それで結ばるるのである。(S23・10・24)

因縁とは、入信者の系統

“因縁と言ふ事に就て具体的にお教えを頂き度う御座います。

“簡単には言えぬ。前生又は前々生に関係のあった人とか土地を因縁といふ。親しみたい人は前生で兄弟か何かであった。教団に集った人は民族的関係がある。教団に入る人は古い系統で、日本系統である。平和的民族である。土地でも非常にある。

物事順調にゆかぬ場合と開運の道、浄化の時節

“物事が順調に行かぬ場合は浄化でせうか、何かの間違ひでせうか。

“物事が順調に行かぬ場合は浄化の為の場合もあり、時節が来ぬのに焦るからでもある。果物が未だ熟さぬうちに採って食ふようなものである――の場合と、先ず此二つである。その他罪穢があると、それに相当した邪霊が憑るが、之とても一種の浄化の現はれである。然し誠の心を持てば速く浄化が済み、善い心掛けと良い行ないをすれば運勢が開けるように此世は出来ている。

信仰と個性変換と運命の好転、運命と心掛け

“観音信仰により個性も変わるものでせうか。又、個性によって運命も変わるものでせうか。

“個性は素晴しく変る。従而、運命も大いに変わる。悪くでなく良く変る。運命はその人の心掛けと行なひでどうにでも変わる。宿命は変えられぬ。人間は上中下の三段とすれば、中なら中の範囲内で変る。  観音信仰は身体が丈夫に、地位がよくなる。嘘のような事が沢山ある。

入信と曇りと心配事、(邪霊活動の善悪)

“二十八歳の妹、二十三年九月から重体の病気の為養生中でしたが、突然に離縁問題が出まして、其の話に非常な心配を致して居りますところへ、他の家に縁づいて居ります二十五歳の弟が家庭の苦しみの為家出をなし、自殺をするところでしたが、御守護を頂きまして有難う御座居ました。弟はこの家には縁のないもので御座居ますか。私の家に次々と心配事の出来ますのは、私に何か間違った事があるのでしょうか。それとも私の家の浄化でしょうか。何卒御回答御願い申し上げます。

“此家に罪穢が沢山ある。  五六七の世になる迄は誰でもそうで、決して心配事がなくなるような事はない。ただ入信すると段々心配が軽くなる。自分自身の心配事に相応した曇りがあるのである。夜の世界の闇が残っており、その闇だけ邪霊が活躍する。故に邪霊も浄化するものであるから、本当は悪いものではないかもしれない。  ただ、悪い事も年々小さくなっている。

信徒と子孫、(信徒は新時代の祖先)、悪くとる者への対処、布教の根本的心構え、取越し過越し苦労の禁、不安に襲はる真因

“私が観音教を人に勧める場合に次の様な事を言はれました。貴殿は貴家を挙げて観音教を信奉しても貴方の子の代、又は孫の代に放任し、又は無関心の場合を保証出来ない。故に無関心無信奉が祟って観音教の御軸、御額が却って末代に於て障害とならないかと言います。之は何うした事でせう。それで教修を断り勝ちです。正しい神様に断じてある可きでないのが本教団だと言っても聞き入れません。

“斯ういふ事を言ったらキリがない。教団で救はれた人は祖先になる。これから新時代の祖先になる。そして祖先が徳を施すから、子孫は皆良い訳である。悪い子孫が出るのは  祖先の徳が足りない訳であるともいえる。物を悪くとればどんなにも悪くとれる。悪くとる人は心にどっか違った所がある。  斯ういふ人は、無理に奨めず、時節を待つ。先ず何より現在を救はれたい、世の中を良くしたい、それだけの考えでよい。取越し苦労や過越し苦労はいけない。観音様にお任せするとうまくいく。不安に襲はれるのは霊層界の下にいるからで、段々救はれると何となく不安はなくなる。

人事を尽して天命を待つ

“人事を尽して天命を待つといふことと、天命の意味――

“之は非常にいい言葉である。人間はやるだけの事をやって後心配しない事である。信仰生活に入って或程度までは心配するが、後は神様にお任せする。之は普通の人間としての考え方で――信仰人は神様にお任せするのが一番いい。心配は或程度で打切る。或程度斯うしてお任せすると非常に楽だし、うまくいく。普通の世間的人間の心配を解決する方法として此言葉はよく言ってある。(S24・1・6)

入信者の死

“一、死は神様からの御命令の解任と承って居りますが、御守様を戴いた者の場合、  霊界に於てもやはり解任された状態でございませうか。  二、人が死んで先ず入る幽界は其の人の居住地の空中間と見てよいで御座いませうか。

“お守を戴いても働かないとか、間違った事をすると解除される場合がある。肉体も曇ると働かぬが、霊界へ行って働きいいようにした方がいい人は神が解任される。(S23・10・24)

回復して突然死する場合

“極くまれな事では御座いますが、絶対的な程激しい御浄化を戴き、一旦回復の後突発的に帰幽する様な場合はどの様な事の為で御座いませうか。

“ない事はないが、その霊によほど深い訳があり、正守護神などが救はうとする場合浄化される。本当に回復したのでない。霊界へ行く前に話を聞かす。或程度判らすと非常に早く救はれ、外の祖霊へ伝達させる計画がある。然し死ぬに決まったものであるから、死ぬといふ事になる。外の場合もある。(S23・11・4)

熱心な信徒分らなくなった結末

“信徒多数を御導きした熱心な教導師で、わからなくなった人の受ける霊的な罪は如何でしょうか。御伺い申し上げます。

“一時的である。どうしても判らなければ――大抵は気のつくもので、でなければ死ぬ。大抵死ぬ。死の間際に気のつくのもある。

浄霊の死者発展の妨げとなる

“御浄霊に依り死んだ後一時発展の妨げとなりますが、如何なる方法にて取戻すべきでしょうか。

“放置しておけばよい。自分が死んだ為に迷惑しているといふ事を霊は黙っていないで(その中)働く。(S24・2・18)

入信早々浄化さるる理由

“疥癬は信仰如何(イカン)によって出ると聞いて居りますが、何も知らない人が入会されてすぐ出る場合がありますが、  これは如何(イカ)にしてでせうか。

“之は神様の御用のある人で、入信するのが何かの事情で後れている。それで一ぺんに早く除られるからである。その人の死ぬ時期でも運命等決っている。(生命も)早く繋げなくてはならぬと祖先が心配して、祖霊とても早く救はれたいので早く浄化して入信さす。その際、綺麗にして御用さす事がある。であるから早く浄化するのは非常にいい。(S23・8・17)

寿命とその延長、(人間のやり方で変る)

“病人を一生懸命御浄めしても、死んで了った場合、それは寿命で死んだのか、或いはそうでないのかを判断する基準はありませうか。

“人間の寿命は決まっているが、変へる事も出来る。或日拝殿に寝ていると、「申し上げます」と聞える。奥の方から人の気配がして、「言っても宜しい」と言ふ。「今日○○時、村の××○○、男の子が生れました」すると「寿命二十五歳、死因は虻さし」と聞えた。それから二十五年後その男は果して虻に刺されて死んだ。それで生れ乍らにして寿命は決ってる事を知った。それで此の道を知らなかったら死ぬ人が非常に多く入っている。その場合は、その様な型をするもので、それから継ぎ足しされる。その継ぎ足しされた寿命は  観音様の為使はなくてはいけない。神様は運命をかへる事も出来るので、その人の行(ヤ)りようで随分長生きするのである。(S23・8・8)

人寿

“人間の寿命は正守護神が現世に生存中の寿命と同じでせうか。

“皆違ふ。正守護神云々の如き事は全然ない。その人の間違った行為によって早く死ぬ事もある。教団に入った人は長生きし、必ず九十歳までは生きる。(S23・11・12)

本教と寿命

“人間の寿命は信仰により延びる事が有るでせうか。

“他の宗教は知らぬが、本教団に入り、私の言ふ通りにすれば九十歳まで生きられる。百二十歳まで生きるのが本当だが、薬の為早逝するのである。之は私が責任をもってもよい。要するに薬を服むか服まぬかである。但し浄化の起った際、浄化に負けて死ぬ場合がある。これは信仰に入っても徳を積まぬ時、汚い物の浄化のされ方が少いからである。徳を積めば浄化も早く、楽に浄化されるから助かるのである。人間の寿命は百二十歳が本当で、之は四季になっている。六十歳で本家還りといふが、一月から三月までの春――之が三十歳までである。そして二十歳前に花が咲く。それ迄は花の蕾で、世に月経の事を花咲くといふ。そして三十歳から六十歳までが夏になる。丁度木の葉が繁るように最盛期となる。六十歳から九十歳までが秋になり、功成り名遂げる。九十歳から百二十歳までが冬で、この様に四季になっている。そこまで生きないのは人間が間違った事をしているのである。米でも一人につき年一石収れるように神様がなされている。日本人八千万人なら八千万石出来る筈である。人間が間違った事をするから、それで減産するのである。戦争中労力が足りないのでウンと肥料を使った。その肥料で土地が痩せたのである。  肥料をやらなければ食糧も訳なく解決がつく。骨折って金を使って減産しているのである。今度雑誌に出すが、著しいのは千葉県で、一反歩で四十八俵出来たのがある。一反で普通六俵ならいい方だが、その八倍になる訳である。  (S23・11・12)

死の意味

“死は刑罰を意味するもので御座居ませうか。

“死は刑罰を意味するものと(寿ならぬ死)、寿命死とある。といって必要悪もある。善人を苛めなくてはならぬ神の理由がある。生きていてはいけないのは生命をとられる。人間が表面をみても判らぬ。

生命と御用

“御用が無くなれば体は滅ぶと承ります。然るに助け得らるる者と雖も、助け得る者が不足する者は助け得ずとも承ります。したなれば、御用ある身にしても、力なき人に願ひしたから御用がなくなったと申されることになります。一寸矛盾したやうに存ぜられます。(御用ある身とは唯今お話を聞き、将来一心に努力御手伝ひせんと希ふものをいふ)

“之は神の領分で、人間が云々すべき事項ではない。生きてるうちは用があり、御用がなくなれば死ぬのは当然である。

出産死亡と漁獲

“出産や死亡等が漁に影響すると申し、又その様な事を信じている漁師の中に出産のあった場合、出漁し他の舟が豊漁なのに不漁に見舞われ、又水死人を引上げた舟、死んだ海亀を拾ひ上げて来て葬ったといふ舟が漁が豊かになった例がございますが、関係があるものでございませうか。

“関係がある。  出産の場合はそんな事はない。死亡の時はある。死亡の時は、その人の霊が萎縮しているから漁のない事もある。然し逆もある。死によって罪がとれるので、それだけ漁がある訳である。だから悪い事があると善い事が生れる。本人の気持の為であらう。(血汚れ)  (S24・8・7)