須弥仙山・言霊解
“仏説にある須弥仙山は現界どの山に当りますか。
“日本でいふと富士山になる。印度にもあるが、熱海では須の字を略して、弥仙山とつけた。
言霊からいふと、須はス、弥はミで、体、身。即ちスの身の山――といふ事になる。
仏と蓮華、神山荘と富士山
“仏と蓮の華との関係に就て御伺ひ申し上げます。
“その時代印度で偉い人としたのは如来で、又菩薩、○○天の座る所を蓮華台といった。故に例えば、神山荘は周りの山が蓮華台になり、道場は蓮華台上になる。又、斯ういふ説もある。ドブ泥の中から蓮の花が咲く、即ち泥々の汚い世の中からきれいなものが生れる。又、富士山をハチスの山といふ。之は蓮華台になる。一名須弥仙山といひ、兄の花は観音であるから蓮華台に観音様が乗る。(S(*)・1・14)
蓮華台
“諸仏、菩薩の端座せらるる蓮華座は、 如何なる起源があるでせうか。又、その蓮華座以上の高位の台座はないのですか。 御伺ひします。
“印度では蓮華は最も尊い花としてあり、賛美してある。日本のよりは余程大きい。それ故、諸仏の形を作る場合、蓮華座とか、蓮華台とかした。
蓮華台が一番上で、上等になると蓮の葉が沢山ある。それで位がつくのである。
観音様などは足の下などに蓮華台がある。之は日本の富士山と関係がある。
(S24・8・18)
蓮華の意味、強羅、ハチス
“蓮の花の意味――
“偉い仏などが座る所を蓮華台といふ。これは蓮華の形をしている。
蓮は泥中から大きな綺麗な花が咲くといって、 尊く思はれる。
印度ではもっと綺麗な華が咲くらしい。そして大きい実をとった。
山など連山があって、低くなったり又高くなったりしているのを、蓮華台の形といふ。箱根強羅はやはり蓮華の形になっている。
ハスは又ハチスの言霊にもなる。
ハチスは富士山になる。
八の字の型である。
スは中心。
つまり、富士山の頂上がハチスになる。木花咲爺姫を祭るのは、そういふ意味である。 (S24・4・2)
紫微実相世界、五六七世と紫微宮
“次の言葉の意味を御伺ひ致します。
紫微実相世界。
“紫微は天国紫微宮、極楽の紫微宮とかいい、最高の殿堂の事である。仏教などでは紫微宮が極楽にあるといふ。天国で一番尊いお宮を紫微宮といふ。現界から言っても、今出来ていないが、将来、素晴しいものが出来る。土地も決ったり、ミロクの世には出来る。実相世界は昼間の世界、仏は真如で、夜の世界。実相世界は具体的になった意味である。実はミ。真如は月であるから夜の世界である。
実相真如――は逆になっている。
実相世界は未だ出来ぬ。これから出来る。
之から吾々が造らうとする世界である。
紫微実相世界の意義、法華経普門品、大千・三千、早雲寮と紫微
“紫微実相世界の意味の御説明、胎蔵界の意味の御説明――
“紫微といふのは仏語である。極楽の一番立派なお宮を紫微宮といふ。又、一番立派な所を都卒天といい、最高級の仏様がいる。
実相真如といふが、真如実相が本当である。実相とは本当の世界、昼の世界といふ事である。実は実(み)で、法華経は華である。蓮華は印度の蓮の花で、之は印度のものである。法華経二十八品は、花を咲かせる経である。実をならす為に日本へ花を咲かしたのである。それまでは隠遁的、陰気な宗教であった。仏教では世の中は厭離穢土とか一切空、仮の娑婆などといい、情ない世になっている。仏教は夜の世界の間の救いであった。そして法華経の花が咲き、観音普門品が実になる。だから法華宗は一代法華といい、長くやってはいけない。
実の世界はミロクの世であり、之が実相世界である。真如実相が本当で真如が済んで実相世界になる。
大千は日――昼間、三千は夜となる。大は一人(ヒトリ)――火、三は水――ミ。故に、夜の世界は三千大千世界であり、昼は大千世界といふべきである。
弥勒が生れると仏教は滅するから、胎蔵界はなくなる。
今度出来た家は、紫微宮のようなものである。 (早雲寮道場)
(S23・8・12)
紫微の字義
“紫微宮の文字の解釈を御教示願います。
“紫微は仏語にある。紺地金泥といふが、これは紫を黒くしたものである。
紫は最高の色で結びの色ともいふ。手箱など結ぶ紐は必ず紫である。
微はかすか、細かい事、紫が細かいといふのは、最高の宮を表はしたものである。これは附会であるが、然し、宛字であろう。
彼岸の意味
“お彼岸の意味をお教へ下さい。
“お彼岸は大した意味はない。お彼岸とは仏教で理想世界といふ事で、即ち到達すべき彼岸であり、五六七の世である。理想世界とは暑からず寒からず、丁度よい、極く好い気候で、そういふ好い気候の時に身を清め心を浄めてお寺詣りに行くから、争いも不満もない。
そういふ五六七の世の気分を 味はふといふような意味である。
彼岸の意義、(常識、邪神と極端)
“彼岸は如何なる訳がありますか、理由をお教へ下さい。
“彼岸は春秋の中間になる。仏教などでは向ふ岸即ち彼岸に達する意であるといふ。そういふ事もあり得るが、(本当は)地上天国とか理想世界等、すべての物が中和された世界をいふ。
年中春のような気候、即ち極端でない。中道政治などはそれである。それが一番人間にとって気持よい状態である。
極寒だとか、火の車などは、人間にとって苦しみで、非常に苦しい。
理想的な気候は丁度好い気候である。それが彼岸――向ふ岸にある。そこへ行かなくてはならぬといふ意味である。
人間の行もそうで、常識が肝腎といふのはそれである。極端は悪魔とか邪神などの行為である。 (S23)
彼岸の在り方、(偏向と地獄、応身と直進・独進)
“春秋の彼岸は霊界ではどういふ事なので御座居ませうか。
“(霊界でも現界でも同じである。彼方の岸といふ事で)天国浄土――そこへ達する事。即ち(仏法でも理想世界をいふ)理想の岸へ行く事である。この時は、夜と昼と同じ時間になる。太陽は夏は真中、冬は端を周るが、丁度その間になる。丁度よい。即ちその時が天国である。(地上天国とは凡てが中位になる)気候も温和で人間も偏らぬ。
人間の行でも何でも偏るのがいけない。それが地獄になる。凡てが常識的といふのはそれで、極寒・極熱はいけない。経にも緯にも偏らぬ。ふだんは真中にいる。十の中に居る。一定していてはいけない。
観音様は応身弥勒で、先方に応ずるのである。実際的に経に偏ったのは失敗し、緯も又失敗する。どっちへも行く。融通無碍で、初めて仕事はうまくゆく。 応身でなく、直進や独進して、賛否に係はらず押しつけるのは応身と反対である。先方によって異える。之が理想境を目標としたもので、彼岸である。日本の封建など、極端に行って失敗した。
彼岸、仏説、天国の在り方
“彼岸は仏教の理想世界、天国――春秋。
仏教には種々説があるが、説く人が自分で作って説く。
一番判り易い事は、天国とは理想世界で、凡て中庸を得ている事で、極端にならぬ。
想念も行も気候も中庸を得る。そういう事が――気候によって理想世界が表はれている。そこへ人間は行かなくてはいけないといふ事である。
今後の宗教の在り方、胎蔵界、金剛界、転輪の意義、月の照暗
“金剛界は神の世界――昼の世界。胎蔵界は活動の世界、胎った世界、夜の世界である。日と月になる。
転輪は、法輪を転じる事――自由無碍。 外の仏には出来ない。(胎蔵界は月読の世)、月の暗の時と照る時とあるが、照った時が月読尊。コレは肉体を以て出られた。月夜見教といふ宗教もある。天照大神と夫婦の如き御関係になる。
之からは神道でも仏教でもいけない風潮になる。宗教も階級制度であったが、之からは民主的に低くなる。
金剛界と胎蔵界、金銀と日月、明主様・中山ミキの御名の言霊解、出口師と月宮殿
“金剛界は日の世界、胎蔵界は月の世界である。弥勒胎蔵といい、仏教の中に弥勒が胎ってる。 仏滅になると弥勒が表はれる。それまで胎蔵界。
金剛界は昼間の世界である。故にこれからが金剛界である。
太陽は金、月は銀となる。金銀は日月となる。観音は日の弥勒であるから、金の一寸八分であり、阿弥陀は月の弥勒で、出口師は阿弥陀になる。そして月宮殿を作った。運命も動揺があった。月の盈虧の如しである。昼になってなくなった。(上はア行下はオ行、非常によい)
中山ミキ、ミは女、キは神、キの詞はよい。
オカダ―カダ―男、モキチ―女の神となる。(S23)
胎蔵・金剛と弥勒下生、金剛界の支配者
“阿弥陀如来を天の弥勒といふのはピッタリしない。月の弥勒といふべきである。 観音は日の弥勒である。
胎蔵界は仏教で、弥勒が生れるまでが仏教で、仏教は弥勒の母体である。金剛界に下生されるのは違っていないが、ピッタリしない。金剛界は国常立尊が御支配せられている所である。金剛界とは国常立尊の神が出て支配される。その時に弥勒が出る。 下生は下へ生れる事、下層階級へ生れる。 これを下生といふ。真相を説く事は出来ぬ。(S23・6・23)
本地垂迹と明主様
“本地垂迹とは――
“仏教ではいろいろに解釈している。本地とは日本である。迹は再びといふ事、再び教えを垂れる。観音様の事である。印度で、何れは再び日本へ行って教えを垂れるといふ事。大先生(明主様)のやられている事が本地垂迹である。(S24・7・11)
仏滅と仏の意義
“仏滅は物滅に通ずることはいかなる形になって現はれませうか。
“仏滅、物滅両方で、物が無くなってしまう事ではない。物質主義――即ち、霊を次にするとか、霊なしとした唯物主義が滅し、唯心主義になる事である。
佛のイ偏は人間の向上したもので、神ではない。弓は月、━は月の霊体の働きをいふ。(月が地の働きをする)月の霊体とは月読尊と素盞嗚尊である。
(S24・11・19)
南無妙の意義、明主様と紅卍会、法華経と仏滅
“南無妙とは如何なる意味でせう。
“南無妙とは法華経でいふが、法華とは法は仏法で、仏法は華を咲かすのが最後の目的である。妙は明の字が本当であるが、此明の字が隠してある。
南無とは七・六で、仏教をいふ。仏教は夜の世界の間で、日がない。
釈迦は、吾七十二歳にして見真実となりたり――と言った。日蓮上人は五十幾歳で見真実となったと言った。日蓮も或程度見真実になった。それで自分が上行菩薩でない事を知った。
支那紅卍会の神示は扶 (フーチ)によって出る。Tの形をしたもので、両端を一人づつが持って、砂板の上に字を書く。之は古い時代からあったもので、巫といふ字はこれから出ている。これによって神様の御差図が出るのである。
教団も今に支那を開発する事になるが、その時紅卍会と関係する事になる。主宰神は至聖先天老祖神君といい、此神は日本の国常立尊である。老祖神は種々な神を指図して、神訓を出すのである。観音、釈迦、マホメット、キリスト等、皆此神の指揮によって壇訓(フーチ)に出る。紅卍会は約二十二、三年前、東京へ来た事がある。よく観音様も出られた。そして予言や指図をなされた。その時「汝等これより日光へ行き、二荒山に向い、○○経を百八十回唱へよ」と出たので、信者一同は直ちに日光へ行った事がある。それから浜離宮で写真を映したが、私も写真を一緒に写した。その時の写真に、将来私が紅卍会と提携する事を知ったのである。その時神様が筆で紙に字を書いた。私は大きい「浄」の字をもらったが、私が浄化作用といふ事をやったのは、結局その時神様には判っていた訳である。壇訓(フーチ)を書く時その真中だけが動き、慥かに無形の神がそれを持って書くのが判る。
その時釈迦如来が、自分の説いた経文の誤りを正すと出た。或時扶 (フーチ)に、○月○日、天津(本部あり)のどこそこの空中へ向って写真を撮れといふ神示が出て、空間を撮影したら神様の写真が撮れたといふ事である。
此宗教は三十年位前に出来た宗教である。
釈迦七十二歳にして見真実となり、 それから法華経を説いた。法華経は法の華であって、その華を咲かし、それに実がなる。所謂真如実相である。実相は昼の世界の事。
法華経は花の教えであるから長く信仰してはいけない。一代しかやってはいけないのである。廿八品の中、廿五番目が観音普門品で、これが華の髄になる。その実がなるのが観音教である。
仏滅が来るといふのは、 華なるが故に散ってしまふ訳である。印度でも総人口三億五千万の中、仏教信者は現在三十三万人で、何千分の一であって、殆ど仏は消滅したも同じである。之等も仏滅を物語っている。
南無は月の教えで、妙法とは明、即ち日月で、伊都能売――即ち光明如来様である。
蓮華経は蓮の花咲く事、印度では三千年に一遍蓮華の花が咲くと転輪菩薩が現はれ世を救ふ――といふ伝説がある。であるから、南無は逆で、無南といふのが本当である。
仏教は逆語が多い。大千三千世界は経文では三千大千世界と書いてあるが、之も逆である。
大は一人、千はチ――一人で帰一さるる事である。
南無阿弥陀仏の真意義と法華
“南無阿弥陀仏の南無とは如何なる意味でありますか。
“南無は七・六といふ事、阿はア―五、五六七は昼の世界、之が逆になっている。夜の世界は逆になるから、南無阿といふ言霊になっている。弥陀仏は仏陀の事である。 南無阿弥陀仏は六字の法名といふ。 六は水であり、月である。阿弥陀は月光菩薩になる。
南無妙法蓮華経は五字の法名といふ。五は火になる。故に日蓮が始めた。妙の字は明を隠した。明は日月で、五三――いづのめ。法は仏法である。
蓮はハス―ハチスといふ。富士の事である。芙蓉峰ともいふ。「富士山で咲かす」といふ事は「日本で咲かす」事である。
法華経は華の教えであるから散るのも早い。一度花を咲かせなくてはならぬ。 法華経は廿八品であり、普門品が廿五番にある。之が髄になるのである。之が育つのが実で、実は実相世界である。これが本当の世界で、今迄は仮の娑婆である。
日蓮と親鸞、(日蓮を霊視す)、真如
“日蓮、親鸞等が地獄に堕ちて居るやうに聞き及びましたが、此の真相は如何でせうか。右、御教示御願い申します。
“日蓮に就て、私の弟子で元日蓮信者だったものが身延山へ行った。そして拝んでいると、青白く痩せて淋しい顔して日蓮が挨拶しているのが見えたといふ。之は日蓮が助けて貰いたかったのである。
日蓮上人の一番肝腎の仕事は法華経を弘通する事であった。法華経、即ち法の華を咲かせる役目であった。法華経は仏法の華である。それまでに日本へ来た仏法はすべて南無阿弥陀仏であった。之等は悉く陰である。水であり月であった。それに対して日蓮は陽であり、火であり、日であった。
(釈迦が七十二歳になって見真実になった)今迄の説いた仏法はすべて間違いで誤りがあった、之から説くのが本当のものである、といって説いたのが即ち法華経である。――そう釈迦がいった事を日蓮が発見して、此法華経を説いたのである。
この意味は、仏法は花を咲かさぬと実が実らぬ。で、法華の廿五番目が観音普門品で、之が実になるべき髄のようなものである。
花が咲けば必ず散るものであって、法華経は一代法華といって、パッと花が咲いて散るように長く続かぬ。
花であるから法華宗は、今迄の仏法と違って非常に陽気で、これはよかったが、一面又、排他的態度をとったが、之は面白くなかった。すべて宗教はもっと抱擁的でなくてはならぬ。念仏無間、律国賊、禅天魔など極端に排他的であった。今でも日蓮宗はこういふ点がある。
それで法の実が育って実相世界が出来る。仏教では真如実相といふが、之は本当でない。真如は月の働きであるから、実相真如とすべきである。釈迦に弟子が、「仏法の真髄を一言で言ってもらいたい」と聞いた時、「仏法の実相は真如なり」と言った。それから此語が出ている。
真如は夜の世界の事、釈迦は、「此世は仮の娑婆であって、すべては空に帰する」と言った。即ち夜の世界のものは永遠のものではない。夜がすんで、其後に浄行菩薩が出て、それからミロク世界――実相世界になるといふのである。その実相世界を作る仕事――髄の仕事をするのが明主様である。
日蓮上人は自分がその浄行菩薩と思ったが、死に際してその過ちを悟り、「浄行菩薩は六百五十年先に生れる」と言った。
それまでの仏教は極めて厭世的であったが、日蓮はそれを打破して、自信に満ちた態度をとったのは洵によかった。
親鸞が地獄にいるといふのは、かつて出口王仁三郎氏が「乞食のやうな恰好をしていたのが見えた」と言ったのを聞いた。親鸞はその時代の共産的思想――即ち階級打破思想の持主であった。「親鸞に弟子なし、皆御同行なり」と言った。之は誤りであって、よくいへば民主主義であるが、日本の民主主義ではない。
もっとも、日本は今迄緯が無さすぎた。忠君愛国思想の為国は亡びた。自分の国の国民さへよければ他国はどうなってもいいといふ思想であって、隣人愛がない。他国も共に良くなくてはならぬのである。
弘法、法念は極楽にいる。そして始終釈迦に遇ひに行くといふ。之は霊から聞いた事である。(S23)
上行菩薩・六百五十年説
“上行菩薩は日蓮上人が唱えた。安房の誕生寺(清澄山)で、日に向って南無妙法蓮華経を唱え、法華経を唱えた。
上行菩薩は観音様の事で、日蓮上人は六百五十年経つと表はれると言った。すると今から十年位前にあたる。最初は自分がそうと思ったらしいのである。自分が天照大神の直系と思ったらしい。吾日本の大船、日本の柱とならんと言った。柱とは天皇の事である。上行は浄行が本当である。弥勒菩薩は釈迦の十人の弟子の中の一人で、五六七の世の弥勒と違ふ。みろくの世のそれは五六七神である。弥勒菩薩は別のものである。(S23・7・9)
仏教は七を使ふ
“御仏壇或はお寺へ物を上げます場合、一般には、その数を四とか九、十一などに致します様で御座いますが、これは何か意味が御座いませうか。お伺ひ申し上げます。
“そんな事はない。七はよく使ふ。七夜とか、三十五日、初七日といふように、仏教は大体七である。釈迦は土のミロクで、七は土である。
私などもよく使ふ。 (S25・5・22)
仏祭の供物、肉食に就て
“今まで仏の祭には魚を使わなかったのは何か意義が有りますか、御教へ下さい。
“釈迦が殺生してはいけないとか、汚れるとか言った為に使はなかったのである。インドでは今日もあまり魚を食はぬ。菜食と牛乳で、魚は昔から喰べない。その為インドは国が衰えた。(一つの習慣である。回々教は豚を食べない。蒙古人は牛を食べない。以前回々教の連中が来て、帝国ホテルで豚が出ても食べなかった事があった)文化生活には魚も肉も食はなくてはいけない。肉を食ふと競争心が起る。 食ひ過ぎると闘争心が起る。であるから、肉食は少しにする。(ヨーロッパは一番戦争が多い。現代人は少くした方がよい)(S24・1・27)
五重塔と十三塔、卒塔婆、黄金世界、紅卍の意義
“五重塔は大した意味はない。仏教で一番多いのは十三塔で、之を略して五重にした。一番低いのは二重の塔がある。石の塔は十三塔、木製は五重である。三界であるから本当は三重の塔である。形から割出したものと思ふ。七堂伽藍の一つである。 卒塔婆は死人の供養。梵字で書くのが本当で、文字の働きで霊がそれだけ救はれる。
ナチは (ナチスマンジ)、黒とか斜めは悪魔である。紅卍は赤十字を宗教的にする建前である。
黄金世界は五六七の世の事、黄金は非常に装飾に使ふ。金貨本位はなくなる。
十三塔解説
天照大神
素盞鳴尊
月読尊
三重
十三塔は仏教から出ている。月は十二であるから、十二の数が本当である。
その十二の上に、主人が乗る訳である。
五重塔や二重塔等あるが、その間はない。
(わが半生の記に、いろいろ神秘の体験を書く)
(S24・1・1)
涅槃の意義
“涅槃の境地とは、如何なるもので御座いましょうか。御教えを御願い申し上げます。
“要するに救はれたといふ訳で、極楽とか天国と同じ境地になる事である。
(S24・11・21)
羅漢、(苦行を忍ぶ事と霊啓)
“或る仏画を見たので御座いますが、十二人の羅漢が池の傍に立ったり坐ったりして、池の上の黒雲の中の龍を見て居りました。又、お寺に羅漢寺と云うのが御座いますが、羅漢について御教えを御願い申し上げます。
“羅漢は普通十六羅漢である。十二は略してある。羅漢は……バラモンの行者の修行している図である。達磨など羅漢の親玉の方である。
人間は苦しい思いをすると、或点の霊魂が開発されるものである。何でもよい、苦行を我慢すればいいのである。 (S24・1・21)
剃髪と長髪
“仏道に仕へて居ります者は髪をそって居り、神道に仕へて居ります者は長髪に致して居りますが、何か意味が御座いませうか。御教えをお願ひ申し上げます。
“訳のない事はない。釈迦がしたんだらうが、煩悩を絶つ意味である。間違った事をしようとしても頭の形ですぐに判るし、人も相手にしない。女がおはぐろをつけるようなものである。(S25・2・12)
密教
“大日経に説ける密教々義は誰の説ですか。又、密教の功罪に就て御教示下さいませ。
“必要のない事は教えぬ。
仏教などで真言秘密といふ事がある。密教はちょっと説けない。悟る場合は無言になる。世界の秘密あり、邪神に解ると失敗するので、此の時代には皆符牒でやった。 面白い符牒がある。邪神に邪魔されるからである。
経文の言霊と仏教改革
“経文を口語体に直して仏教改革を行おうとしている坊さんが居りますが、こうした経文の言霊は霊界へ響くものでせうか。
“霊界へは響かない。漢文よりはいくらか響くが、意味が違ふから駄目である。 口語体に直しても相当に真意を伝へる事は難しい。坊さんの意志が入るから、真意は伝はらぬ。梵語から漢文、それから日本語になるから相当に変る。経文の元は釈迦であるが、仏法の滅する時期、隠退すべき時期が来ているから、日本語にしたとて変りはない。
仏教改革などといふが、それももっと早いうちならいいが、今ではもう遅い。 (S24・2・2)
キリストとイエスの真解、キリスト教とアメリカの方針
“キリストとイエス・キリストに就て――
“キリストとイエスは違ふ。イエスはキリストが再臨するとは言ったが、自分は再臨するとは言はなかった。キリストはイエス以前に出た。素晴しい力を持った神様であった。イエスはイスラエル民族から出た。マホメットもそうで、之はイスラムと言ふ。
キ(神)、リ(繋がるといふ意もある。天降るといふ字にもなる)、スは一人・統べる、ト(人)――(神が天降り統べる人)
イエスは贖罪主で、万人の罪を負い、犠えとしてお詫びする。
キリストは救世主で、大いに違ふ。 赦し主と赦され主とある。(斯ういふ説明はキリスト教信徒は恐れる。アメリカに聞えると都合わるい)
アメリカの方針は、宗教や経済を圧迫しようとしている。宗教法人は無税といふのを、廃止になったとの話を二、三日前場主に聞いた。日本をキリスト教国にすれば戦いはない。日本の宗教は戦争の片棒をかついだといふ。 一方、信仰は自由といふ。合法的にじりじり取締る。共産は無宗教。之に対抗するには宗教国にせねばならぬ。アメリカの行り方も間違ってはいない。(S23・11・16)
メシヤの意義
“メシヤの言霊につき御教示御願い申し上げます。
“メシヤはヘブライ語である。
日本の言霊には解釈し難い。意味は救世主の事で、キリストの再臨も、メシヤの再臨になる。キリスト教ではキリストを救世主といふが、私の方では贖罪主といふ。之は万人の罪を贖ふので、キリスト自身も言った事で、生命を犠牲にして許されるのである。
救世主は許す方の側である。
時期の進むに従って判るし、話もする。
イエス死刑の意義とメシヤ、(栄光の雲、盗人忍ぶ)
“イエス・キリストは救世主と言はれ、最後の死には何か意味ありますでせうか。又本当に死刑になったのでせうか。
“本当に死刑になった。十字架に掛ったのである。天へ昇るのを大勢見たといふ。 救世主といふ事は疑問がある。此時代には両親があって――之を信じたのは十二人で、その中の一人ユダは離れた。だから固い信者は十一人あった。そして其後十年以上経って、キリストから聞いた事を書いたのが聖書で、最初は微々たるものであった。
救世主としては種々議論はあるが、私は贖罪主だと思ふ。贖罪主とは万人の罪を負い自分が犠牲になり、最高神の許しを受けるのである。
救世主とは万人の罪を赦すので、之は未だ表はれていない。
救世主は、外国語でメシヤといふ。猶太人の一部には、メシヤの降臨を朝晩祈る。 栄光の雲に乗り来る――と、夜盗人の如く来る――と両方ある。之は非常に面白い意味があるが、簡単には話せぬ。何れ、救世主に就てははっきり説くつもりである。 (S23)
今度のキリスト
“聖書にキリスト再来の予言がありますが、そのキリストと往昔のキリストの霊的関係を御教え下さい。
“之は悉しく言ふと、今の日本の状態では面白くない。キリストの再臨する事は事実である。 否、再臨しているかもしれない。往昔のイエス・キリストの事は発表出来ない。キリストとメシヤは同じである。
真偽のキリスト
“「汝ら人に惑はされぬ様に心せよ、多くの者わが名を冒し来り“われはキリストなり”と云ひ“時は近づけり”と言はん。されど終りは直ちに来らず」「その時偽キリスト偽予言者起りて大いなる徴しと不思議とを現し、為し得べくば選民をも惑はさんとするなり」「イエス問ひ給ふ“汝ら我を誰と言ふか”ペテロ答へて言ふ“汝はキリストなり”イエス答へて云ひ給ふ“汝はさいわいなり”」とあり、宣教の際誤解されますが如何でせう。
“これは全くこの通りである。今迄に再臨のキリストなどと称する者は沢山出たが、この言葉はそれを注意したものである。廿年位前に、印度にサンダーシングといふ三十歳位の男が表はれた。それで何十万も信徒が出来た。水の上を渡ったりなどして、いろいろの奇蹟を表はした。然しこれは本当のものではない。
この聖書の言葉は教団の方でも言いたい事である。日本に於ても今でも偽はある。今、天照大神の再臨と称えるものが沢山ある。 今迄沢山偽キリストが出ているので、本物が出た時にも、やはり偽物と思ふが、これは仕方ない。然し本物はいつかは知れるものである。
キリスト教はイエス教
“或る人が「今のキリスト教と云って居るのはイエス教である。本当のキリスト教は今後生れて来るのだ」と言われますが、如何なる理がありませうか。
“斯ういふ説がある。 イエスとキリストは別物であるといふが、本当かもしれない。間違ってはいないといえよう。(S24・11・27)
再臨と弥勒三会
“イエスが再臨して世を救うというキリスト教の思想は、弥勒三会という事から、この御神業と関連して考えさせて頂いて宜しう御座いますでしょうか。右、御教示の程伏して御願い申し上げます。
“(大関係がある。未だ知らせるのは早い。三位一体の力を持って生れてくる)(S24・2・8)
「神を愛す」事、西洋は愛を基本とする表現、敬・畏の語なし
“聖書に 「汝の心を尽し霊を尽し意を尽して主たる汝の神を愛すべし、これ最も大いなる第一の掟なり云々」ということがありますが、此の「神を愛す」ということは、色々の解釈があると存じますが、これは どういふ風に考えるのが最も適当しているので御座いましょうか。御教示お願い致します。
“「神を愛す」とは広い愛、非常に大きい愛である。
外国は凡て愛で、外に外国には言葉がない。敬とか畏こみとか、いろんな言葉がない。
日本人の解釈する愛とは違ふ。西洋は凡て愛を基本として表現している。
(S24・9・3)
懺悔の本義と将来(キリスト教、天理教、大本教)、本教に於ける懺悔の在り方
“キリスト教ではよく懺悔をしますが、自分の悪かった事を事改めて人に懺悔する必要がありますか。
“懺悔は誰にもしてはいけない。
牧師と神父にする事になっている。神の代理――たる牧師を通じ神にする訳である。(神には聞えぬといふ気から)人間の耳に入れると本当に懺悔した気持になる。そこで牧師に言ふ。牧師は秘密も守るので、他の人にも知れない――といふ訳である。
キリスト教の時代としてはそれでいいが、今後は変る。之は一時的の方法で永遠の方法ではない。
天理教もよくさせられる。
私が病気治しをしている時、天理教の信者を病気治しに行った。布教師に悪い事はみんな懺悔して何にもない。処が未だあるに違いない――と言ふ。然しいくら考えてもない――と言っていたが、その当時、つまらぬ事を言ってると思った。実に馬鹿々々しい。私がやると治るが、ついにやめた。
そして、大本の信者で同様な事があった。種々神様に上げたが、上げ方が足りないと言ふ。段々上げて、着物が一枚しかない。着のみ着のままになった。そして冬になるに従い、きまりが悪くて外へも出られぬ――といふ。私が呼んでも、夜でないと来なかった。之は地獄へ堕す事である。
懺悔もほどほどである。
私の方は懺悔の要はない。神様にすればよい。而も人間よりもっと通ずる。神様の目・耳は人間より確かである。(S24・10・23)
旧約と新約の意義、宗教と現代
“キリスト教の旧約聖書は どのような意義を持つもので御座いますか。右、御教示御願い申し上げます。
“大体宗教は新旧二色になっているものである。旧約は経で、予言者であるが、本当は書けないから、凡て寓意的に書いてある。新約は緯である。
旧約など本当の解釈は出来ぬ。荒唐無稽的な事が沢山ある。この時代にはこれでよかった。今はそれ程の価値はなくなっている。これによって救はれるのは難しい。
既成宗教は段々時代から遠ざかった。現代青年は仏教の説では納得しない。現代の生活や思想と(か制度に)は掛離れている。
現代を指導する位進歩したのは教団なりと確信する。それ故に本教は若い人が多い。青年によく理解出来る。
イスラムとアラーと剣
“イスラム教に就て、
一、その霊統、
二、唯一神「アラー」、
等に就き御教示御願い申し上げます。
“一、イスラム教はマホメット教、支那では回々教といふ。アラビヤではマホメットといふ。イスラムはイスラエルの流れで霊的にはイエスと同系統であるから、根本はキリストに同じである。
二、アラーの神は最高の神の名で、エホバともいふ。日本では天之御中主大神である。アラーはその土地により、神格を落す場合がある。アラーはアラビア地方で唱えたので、あの辺は文化が低いから、低い神格で救ひをされたといえると思ふ。アラーの神へ動物を殺して上げるなど――。
但し、 神は如何に神格を下げられても争ひは絶対なさらない。戦いは邪神が乗じたものである。
夜は月の光以上は発揮出来なかった。(国祖御隠退もそういふ訳である)
――――――――
不動の剣は破邪の剣で、両刃の剣である。刃はヤイバで、之は人を殺すのがヤイバで、剣――つるぎ――は言葉の働きをする。舌は剣――つるぎになる。
言霊の剣といふが、つるぎは詰めると月で、 月の働きになる。刀は月の形になる。(剣もホロロ。舌鋒鋭く)
玉は魂で太陽。劔は月。鏡は大地で、東西南北とその間で八角になっている。(八紘)これで日月地になる。
“最近の世の中は大本教のお筆先の如くなったと世間で申しますが、之は大本教の御教祖が霊媒となられて神の御意志を伝へられたものでせうか。
お筆先の実現
“その通りで、お筆先には私も驚いている。国常立尊が憑って書かれた。一番当ったのは、天皇が下へ降る事で、之は明治三十年頃のお筆先であった。又、大の字が逆になってる。 世の中、立替え立直しがある。上の守護神の反対が山になる。世界が一腹になって日本を征めてくる。 世は持ち切りにさせんぞよ。 今のさばっている守護神が逆さになって詫びる時が来るぞ。食物がなくなって大根も枯葉も大事にする時が来る等のお筆先である。
私が神憑りになって知らされたのは、昭和元年で、昭和六年六月十五日、私が房州へ行った時が岩戸開きで、それから三日経って森鳳声といふ彫刻師が相談に来た。天照大神御像を如何に彫刻すべきかといふ事であった。それで、五尺六寸七分にせよと言った。それから三日経って満洲事変が起き、いよいよ立替えの時が来て、お筆先の通りであった。それから六年経って日支事変が起ったし、それから四年経って大東亜戦が起った。実際に激しくなったのは十八年で、 それから六年は来年だから、来年は一つの変り目である。
お筆先、(日本歴史、戦いの東西)
“大本教のお筆先に就て、御説明をお願ひ致します。
“国常立尊が出口ナホに憑ってかかれたもので、本当のものである。釘の折みたいな字で、之を文章にしたのが出口王仁三郎氏で、筆先が出たのが、明治二十五年から三十年ですべて出ている。例えば、上にいる守護神即ち上流階級の没落、下流階級が上になる。「上にいた守護神がハバりたが、何れは神様がお出ましになれば、下が上になる」「あんなものがこんなものになり、こんなものがあんなものになる」等、いろいろある。今の時代に言えない筆先もある。
日本人は、本当の日本人は下積みになっている。太古、朝鮮や支那に日本は征服された、此系統は戦いが好きで、日本歴史は戦いの歴史で、人民歴はない。支那・朝鮮の権力争いのそれである。出雲朝は朝鮮で、素盞嗚尊は朝鮮人で、十月は故郷へ帰るので、神無月といふ。
出雲朝を征服すべく神武天皇が四十五歳の時大和へ上陸した。此頃出雲朝は堕落していた。時こそ来ると東征したが負けた。之は日に向った為とした。北は霊で日であるから、今度の独ソ戦でも、独逸が和蘭、仏方面の西方では勝ったが、東のソビエットには負けた。南朝北朝の南北戦でも、すべて南が負ける。かくして第二戦には神武軍は勝ち、大国主が負け、国土奉還した。
天孫民族といふのは作ったもので、嘘である。(モーゼの裏十誡)
いろは四十八文字の身魂 講話集補 246 (S24・8・19)
“イロハ四十八文字の御霊とはどの様な意味で御座いませうか。イロハ四十八文字の御霊で此の世を踏みならすといふ事はどういふ事なので御座いませうか。
“大本教である。正した意味はない。いろは四十八文字とは、日本の純粋の身魂といふ意味である。言霊の七十五声を使えるのは日本人のみである。いろはを正確に言えるのは日本人のみである。 (S24・8・19)
梅開松治
“梅で開いて松で治まる、といふ事で御座いますが、これはどういふ意味で御座いますか。
“「三千世界一度に開く梅の花」といふ。
大本教、出口・上田家――。有栖川は南朝で、中村孝や――。
上田よねの家は国学者であった。
万教帰一、世界政府実現の可能性
“「生長の家」(光明思想)にて説く「万教帰一」は果して成立するでせうか。
“谷口は大本教の幹部で、その当時私など時々遇ったりした。万教帰一は大本教で唱えた言葉で、それを拝借した訳である。
単に万教帰一といふのはピッタリはしてない。何れ凡ゆる宗教は合同統一されるが、(国により)人種により思想も歴史も違ふから、完全に帰一する事はないと思ふ。或程度である。
例えば、世界国家などはアメリカなどで唱える。そして世界政府、世界大統領を各国から選挙される訳であるが、世界国家になっても全然同じにはならぬ。
帰一の形にはなるが、(実際にそうはゆかぬ)大本教など、凡ての宗教は大本教一つになると言ったが、事実は逆になった。(S24・1・27)
宗教の統一、(基・仏・神の現状)
“霊界に於けるキリスト教、仏教、各宗派別等の団体はやがて消滅して統一されるものと思はれますが、現界に於ける此等団体の活発な布教の動きは何を意味して居るので御座居ませうか。
“何れ統一される時代は来るが、今すぐでない。(急にはゆかぬ)未だ相当(続く?)――。
キリスト教はそうでないが、仏教などは仏滅はもう来ているから、最後のあがきである。
来年五月迄に寺の再建の届出しないと取壊される。半分以上再建不能の寺があるだらう。私の寺の再建の相談に来たから百万円出す事にした。神社はまだひどい。間貸したり店を出したりしている。来宮の神主も店を出した。伊勢大神宮は結婚媒介所であり、築地本願寺もそうである。どうやらやっているのは天理教だけである。金が集まるからで、今年は五千万円の税をとられたとの話である。ひどいのは着物一枚残して全部上げてるのがある。病気も治らない。月神だからで、信仰地獄になる。
(S23・11・13)
万教帰一の現実化
“世界は一つ、万教帰一といふ言葉を聞く事がありますが、現実化するのは余り遠くはないのでせうか。
“はっきり言えもせず、判ってもいけない。凡ては神様がなさるのであるから、命じられた事をやればいい。ただ、善い世界にはなる。
各宗祖の神界転移と本教
“仏界から神界に移転したと承りますが、仏教により導かれた祖霊は霊界に於てどう云ふ事になるのでせうか。(イ)、例えば各宗の宗祖の団体に入っていると承りましたが宗祖は神格を得られる様になるのでせうか。(ロ)、現界に於ける子孫の者は現在のままお祀りなり供養をしていてよろしいでせうか。(ハ)、霊界が全部現界に移写した場合、現在の寺院はどう云ふ事になるのでせうか。現在は宗派と小寺院が多過ぎると思ひますが――
“段々そうなる。これから神界が出来ると、宗祖などはそこへ行き段々拡げる。会館が出来ると結婚や葬式などもする。すると初めて各宗祖などもその方へ移る。段々である。神様の事はパッとゆかぬ。今迄通りでよい。本教で出来れば霊界も変る。各寺院も自然に時所位に応じて決る。はっきり言ふと外の宗教で誤解する。そして救世教は怪しからんと言はれる。然し神様がやられるのであるからこっちに責任はない。 はっきり言えもせず、判ってもいけない。すべては神様がなさるのであるから命じられた事をやればいい。ただ善い世界にはなる。
正月に就て
“正月に就て、
、一月を正月といふ意味、 、松竹梅のおかざりの意味、 、〆飾り、 、おかざりに使用する裏白、昆布、橙、えび等、 、あづき粥、
、七草――
“之は大した意味はない。一月を正月といふのは、年頭に当って今迄の間違った事、悪い事を反省して正しく出発しようといふ意で、正しく始める月といふ意味である。 松竹梅のおかざりは、松は六、竹は七、梅が五で五六七(ミロク)になる。故に本当は梅松竹と書くべきだが、松は一番位があるので松竹梅としたもので、やはりミロクといふ芽出度い事の予言でもある。
飾り七五三縄の由来は、神代に国常立尊を艮へ押込め、その系統の神々をも押込め、再び此世に出られぬ様にといふ意味でシメを張ったものだといふ事になっている。
その他、柊はトゲトゲしてるから悪魔よけの意味。雑煮は尊の臓腑を煮て食ふといふ意味で、小豆粥は血と筋を食ふ意味、又、煎豆をまくが、これは煎豆に花が咲いたら出よといふ事等で、鬼門を非常に恐れた。昔から良い事を反対に解したことは沢山ある。
裏白―裏の白いといふ事は浄い事で、裏に秘密や暗い陰などないといふ意味、白は清浄の色で、神主の着る白衣は浄衣といふ。昆布はヨロコブの言霊で、幣は払ひ浄める意味、ヌサから出ている。橙は代々喜ぶにかけており、ゆづり葉は家督とか名とか嗣ぐ意味。海老は腰の曲る程寿命の長い事。要するに、芽出度い物を集めたのである。
七草といふのは一種の迷信である。昔から七の数を多く使ったものである。子供が生れればお七夜を祝ひ、死ぬと初七日とか七七四十九日を最後の法要日とする。春秋の七草、何々の七不思議、七曜、北斗七星等々で、又、七は成り成るで、物が完成する意味であるから、七草といふのは正月が一期済んだといふ訳で、創世記にも七日目に完成、日曜日に神が休んで祝ふとある。
正月のお供物の意義
“お正月にお供へをお飾りする意味を御説明下さい。
“簡単にはいえない。 一名鏡餅といふが、天地は合せ鏡といい、天地を象(カタド)っている。所によって上下同じ所もある。合せ鏡とは、天にあった事は地に映るといふ。 又、地の事も天へ映る。三段は五六七で、バッジの型である。雑煮は、国常立尊様はやかましい神様で、厳正至直の神で、悪を容赦されぬ。そこで一時御隠退願った方がよいと、天若彦が総大将で輿論によって押込めた。節分の日に押込めた。そして煎豆に花が咲かぬうち臓腑を煮て食ふといふので、臓腑煮といった。十五日粥などは、艮金神の血と筋を食ふといふ型を出すといふ事である。その時巨亘大王といふお名前だった。霊界へ行かれた。閻魔大王といふ御名前になった。始終守護して下さる。邪神にとっては一番恐い。本当言ふと国常立尊様が一番守護して下さる。
正月行事の慣行
“観音教信者として、正月の行事につき――例えば門松、七五三縄、輪飾り、鏡餅の供え方、御神前のお花の種類等一般的に承知致し置くべき点につき御教えを賜り度く御願い申し上げます。
“支那や日本など皆異ふ。一切世界的になった今日、固く守る程の事はない。意味はある。習慣であるから程々でよい。(S24・12・1)
鏡餅供への期間
“御神前の御鏡餅はいつ御おさめ致しましたらよろしう御座いませうか。御伺ひ申し上げます。
“一週間でよい。
一年の初めの日はその年の吉凶禍福が出る。(別記)(S24・12・28)
節句の意味、時代と宗教の遊離
“節句の意味、三月桃の節句、五月端午の節句、七月たなばた祭――
“三はミツの身魂と言い女である。五は男。男と女―五三、両性は観音様のお働きで、火と水の働きで、両方ある。十の字である。
時代は進み、精神生活は離れて行った。それを急速に追い越さなくてはならぬ。既成宗教は引っぱたかれたり、民衆に尻叩かれて進んでいる。インテリなどは軽蔑している。そのくせ苦しい時の神頼みで拝んでいる。神仏はあまりに無力である。宗教講話を聞いて心動かす者はない。(夜の教えである。その宗教の出来た時代はそれで満足した)今日は進歩して、古い時代に出来たものでは満足しない。
男女の節句、(今後の世、六の意)
“三月三日の桃の節句、五月五日のしょうぶの節句の謂(イワ)れ、そして観音様との関係について――
“三月三日は水(女の節句)、男は火であり五である。観音様は伊都能売である。三五は月になり今迄の世、これからは五三の世になる。六は三、三で、水を強める意である。(S25・3・3)
端午と桃の節句、(内裏の神秘、登龍門、宮詣り)
“五月の節句の鯉幟と三月の節句の内裏雛とはどういふ謂れが御座いますのでせうか。
“三月三日は女といふ事である。
女の厄年を三十三といふし、宮詣りは三十三日目にする。三は水―ミズの身魂といふ。
内裏雛は神秘がある。内裏としてあるが、天皇の位を昔邪神に奪られた。従而その後の天皇は代理である。故に雛祭は宮中の事で、天皇と皇后になる。内裏(ナイリ)といふ皇后の座敷に飾った。それでナイリといふ。故に女のヒメである。ダイリは、代理である。
五月節句、五は男―霊、火、陽である。鯉は出世魚といはれている。登龍門といふ、そこから出世する。支那で斜面に滝のような川があり、その川を登龍門の所まで登れる。鯉は滅多にない。それまで鯉は登れる事になっている。そこから出たものだと思ふ。
桃と端午の節句、(太古の雛人形)
“三月三日の桃の節句と五月五日の端午の節句は神秘とされておりますが、如何なる意味が秘められて居るので御座いましょうか。御教えを御願い申し上げます。
“三の数はミで、女になる。又水でもある。三、三で六―水となる。火は五である。 伊都能売で、火と水の神となる。男と女の神となる。季節的にも、桃は若い処女のような感じの花であるから用ひたんだと思ふ。
端午とは、男が出世するようなもので、鯉が昇って行くと大きな川となる。出世する意味である。
節句の雛は極く昔は紙で作った。徳川時代から人形にしたといふ。
(S24・3・11)
三月三日、五月五日
“三月三日、五月五日のお節句の意義に就て、右、御教示御願い申し上げます。
“五は男で火、三は女で水。(五三神は観音様の御本体)(S24・2・18)
三月三日
“三月三日の桃の節句の謂れ――
“三は女、五は男である。桃は季節的に使った。(S24・3・20)
男女の数と宮詣り、(三の字付いた名)、節句
“女の数は三で、男の数は五である。
お宮詣りをするにも本当は男の子の場合は三十二日目、女の子の場合は三十三日目にすべきである。
三十三は六、三と二は五となる。
男でも三の字のついた名の人は女の働きになる故、大抵養子に行くか、或は媽天下の人が多い。
節句は、いろいろの神秘がある。然し、鐘や太刀、弓、甲など着けた武者人形は軍国主義的なんで、これからはまずい。(S25)
菱餅・白酒と鯉幟と柏餅
“三月の桃の節句と申し御雛様を飾り白酒、菱餅等を供えますが、如何なる意味で御座いませうか。又、五月は男の節句と申して鯉幟と菖蒲、笹餅(柏餅)等を供へますが、如何なる理由でありませうか。
“三―女と思えばいい。
五三の神、男と女の神。
女を祝ふには三の数を用ふ。桃の花は処女の感じがする。
白酒、お祝には酒を祝ふ。普通の酒では相応しくない。それで甘く、子供でも女でも飲めるようにした。菱餅、女は角張ってはいけない。角ばったのをつぶして優しくなる。色は日月地である。
五月―男、火。火は陽。
鯉は出世魚で、登龍門―斜面を昇る。甲羅経たのは登龍門から内へ行く。うまく行った事を登龍門といふ。いろんなものに龍があり、魚の中の龍は鯉になる。菖蒲は戦国時代の勝負をかたどった。柏餅は、カシワの言霊であらう。鳥は一名カシワといふ。祝いに昔から鳥を使った。トル―城をとるとか、陣をとるとか、トリの為に柏を使った意味であらう。昔仏教の入った時肉食や殺生はいけないと、鳥をカシワといふ名にして食った。植物にして食ったのである。そこから出ているのであらう。
鏡、鍾馗様
“五月五日、端午の節句には鍾馗様を御祭りするのは如何なる意味と働きが御座いませうか。御教へ願ひます。
“五月五日は男の節句で、鍾馗様は鬼退治をするといふ。伝説は種々あるが、神からいふと、国常立尊になる。悪を退治する神である。
(S24・5・17)
菱餅の意味
“神様には丸いお重ねを供へますが、三月三日は菱餅を供へるのは何か意味が御座居ませうか。
“ 赤白青、菱餅はやはり五六七になっている。今迄土の色を表はすに褐色にしたが、それでは土のみで草木がないので緑色にした。であるから赤白青でよい。元来、男は真四角であるが、三月三日は女の節句だから特に男に対し考慮して菱形にしたものである。お供えは天地になっている。(S24・2・12)
重陽、菊供養、(一厘銭と弥勒三会)
“「御観音様は菊供養」といふ事はどういふ事で御座いませうか。
“菊供養は九月九日、重陽の節句である。九九は、九分九厘、観音様は一厘になる。
九分九厘の世の中に表はれる一の身魂といふ事。大本では一厘の仕組といっている。一厘の身魂といふ。九分九厘と一厘の戦いで、 九分九厘の世の中を一厘の身魂が表はれて覆すとある。以前或人から一厘銭をもらい、又明治四年の銀貨と天保銭をもらった。 大本教祖は釈迦の生れたもの。聖師は法身弥勒で阿弥陀如来、素盞嗚尊である。弥勒三会といふが、三人のミロクが一ぺんに会ふ事である。それが済んだ訳で、弥勒三会の鐘が鳴るといふ事がある。
芸術の極致、(光琳の偉業)、芸術と霊格の高低
“絵画、彫刻等人工芸術の極致とは誤らざる自然の描写でありませうか。又、芸術は美の追求であると考えますが、真善を具えれば全きといふべきでせうか。
“芸術の極致は自然のままを描写するのでなく、人格を通して真善美を表現するのである。西洋でも印象派以前は写真のように克明に描いた。これは本当の芸術ではなかった。処が日本の光琳の画がフランスへ行った。光琳の画は無線で、単純なもので、これをみたフランス人は吃驚した。これは細密に自然描写をするより、単純にした方が反って印象が強いといふ事を発見し、最初ア(*)ール・ヌーボーといふ人がこれを図案に応用し、終に欧州を風靡した。この影響を受けて後期印象派の如き、すばらしい芸術が生れたのである。フランスでは、「世界を動かせる光琳」といふ本が出たが、光琳は死後三百年を経て世界の芸術を革命したと言ふ事は日本の最大の誇りである。私は今に光琳神社を建立したいと思っている。光琳の影響は絵画のみではない、建築にまで革命を齎した。単純な線を応用したセセッションの如きもそうである。丸の内の第一生命はその代表的な様式である。又、あらゆるものの模様が単純化したのも皆光琳の影響からである。彫刻とても印象派の影響を受けている。昔は細かくナメラカに作ったのであるが、荒っぽい簡素な彫り方になった。佐藤朝山(清蔵)の如きも現在では代表的のものであらう。
芸術は美の極致を表現すべきものであるが、 高い低いはある。最高のものは、真も善も具備されている。それは人間の霊の高さによるのである。音楽でも文学でも同様で、之等に就ては何れ詳細に書くつもりである。
真の芸術の在り方と悪魔的芸術
“芸術世界建設上、真の芸術のあり方につき、具体的方途、研究方法等につき御教へ願ひます。
“今迄の芸術は大抵悪魔的芸術が多かった。故に芸術の為に堕落した。今度は善的、正義的正しい芸術となる。そこが違ふ。
今の洋画など化物じみたものを描いている。 これは悪魔的で、ピカソなど、その悪魔の代表者である。ピカソの画を判る人はない。ルオーも有名だがやはり化物で(ボナールもそうである。斯ういふ事を心得ておかなくてはならぬ)芸術は、情操を養ふといふが、人間の霊を向上さす為の芸術である。作品を通して品性を向上さすのが芸術の使命である。
音楽、美術等を通して人間の魂へ反映するのである。それによって楽しみながら向上してゆくのである。今は芸術家の心が曇っているから、受ける人が堕落する。芸術家の品格や心を観る人に反映さすのが使命である。故に芸術家は品性を磨かなくてはならぬ。今の文学などは逆で、実にひどい。邪神が非常に文学を使った。悪魔的文学を読むと反って堕落し、 懐疑に陥る。道義心などは無くなる。本能満足の為に罪を犯していいといふ悪魔的芸術になる。(S24・8・18)
信仰と芸術
“信仰と芸術に就て御垂示御願ひ申し上げます。
“人間の魂の高低は、芸術趣味の有無にありと言っていい。或一種の芸術のみに趣味を有ったんではいけない。一般的凡てに渉っての趣味ある人は少い。神は芸術家である。楽しむ心を人間に与えた。今迄の世界はそんな余裕がなかった。今迄は野蛮時代で、争ひを好み、闘争を人生の凡てと思った。軍閥などそうである。要するに猛獣の噛み合いのようなものである。芸術を嫌い、人を殺す事を楽しんだ。それには惨虐性を養はねばならぬ。その為に宗教を弾圧した。 芸術をしないと闘争心が起る。今迄の聖者は粗衣粗食した。それで今度は、その美しいものを造り、うまい物を食い、その見本をみせようとした。
今迄は凡て小乗的に考えた。地上天国などは素晴しい事になる。
劇場など、町へ一つずつ出来る。町会のクラブが出来、一週に一回会合する。歌など競争的にする。
料理なども素晴しいものが出来、大勢の人に食はす。町へは草花を植える。
五六七の世の芸術(人間向上と芸術)と地獄的芸術
“五六七の御代となった場合、美術、音楽、文学等は現代のそれと如何に相違が出来るでありませうか。又、如何なる変化を生ずるのでありませうか。御教へ願ひます。
“斯ういふものは非常に盛んになる。五六七の世は芸術の世界である。人間が向上すると芸術を好むものである。犬猫は全然芸術を知らぬ。蛇が音楽を解する位なものである。
人間が高等になるほど芸術趣味を理解する。五六七の世は人間が向上するから、その見本を今造っている。今のは地獄的芸術が多い。苦悩の芸術が多い――西洋など――。
読む人の苦しみに合ふので共鳴する。ベートーヴェンの音楽など悲痛、苦痛の音楽である。こういふ音楽は少くなる。もっと明朗な音楽が多くなる。美術など、西洋の絵画など邪道へ落ちている。絵から受ける感じも、地獄は斯くやと思ふ。精神病的である。今有名なピカソの如き、どうしても不可解である。文学も悲劇が多い。人間も悲劇の中にいる。日本の劇など、泣く事を好む。日本人も封建道徳の中に住んでいる。
五六七の世になると相応した芸術が生れる。(S24・7・6)
今後の芸術、(五六七の世の芸術・言語・貨幣)
“今後の芸術は如何なるものが盛んになるでしょうか。文学の芸術的価値――
“五六七の世は芸術の世界で、今の何倍盛んになるか知らぬ。素晴しいものが出来る。今、今から百年後の世の状態を書いている。言葉は一つか二つ位になる。貨幣は世界中一つになる。
芸術の将来
“一、今後当然芸術への関心が高まる事と存じますが、今迄芸術を鑑賞すべき素地のない人は、如何様に致しますればその素地を養ふ事が出来ませうか。芸術鑑賞能力の高低はその人の御霊の相違、高下によるかと在じますが、如何でせうか。
二、いろいろな芸術の中、昼の世界に益々盛んになるものと、又亡ぶべきものに就て御伺ひ申し上げます。
右、御教示御願ひ申し上げます。
“一、これから種々やる。今度美術館をつくる。日本文学など和歌が土台になると力が出る。花とか芸能などもやる。歌舞伎など命脈がなくならう。興味がない。大名人が出来れば復活する。吉右衛門、猿之助など風前の灯である。オペラは盛んになる。 日本人など芸術的素養はあるが、戦国時代の為に伸びなかった。
(S25・2・13)
芸術を娯しむもの、恋愛と罪
“清元、常磐津、義太夫等の濡場のさわりなど聞いて感銘する魂は副守護神の働きの強い者と思ひますが、此者がどの程度の変り様を致したなれば地上天国建設の妨害者とならないで御座いませうか。聞いてわかって喜ぶ者があったとしたなれば、それだけ曇りの世を保つ事になる様に思はれますが、如何で御座いませうか。
“芸術を娯しむのは副守護神である。それは地上天国になっても変らぬ。寧ろ必要である。地上天国は芸術の世界であるからもっと盛んになる。但し非常に残虐な事などは変り、色事も少しあっさりする位である。恋愛はなくてはならぬもので、之は神が人間に与えた最高の楽しみである。ただ不純なもの、道に外れたものはいけない。
であるから恋愛は自由である。夫婦でそれ以外のものを恋愛するのも仕方がないが、それを行動に表はすのは罪になる。故にそこに限度がある。限度を越えると罪が発生する。
芸術と悲哀、寂の芸術
“今迄の偉大な西洋古典音楽、文学に於ては、総て、中に大きな「悲哀」を持っていて、それが人々の心を感動せしめるものですが、地上天国では大きな「悲哀」が無いから、芸術もすべて明るい朗らかなものばかりとなって参りますでしょうか。
“此通りである。あくどい悲劇はなくなり、明朗な脚本が多くなる。(悲劇は地獄相で)見物が地獄にいるから、それにより慰められる。(特にロシヤ文学はひどい。ロシヤの音楽は憂鬱で、 ボルガの船唄など実によく帝政時代の虐政を描写している) 寂は茶の湯から出ている。茶は寂の芸術である。アメリカでも日本式を建築などに採り入れている。 (S23・12・8)
人間苦の芸術と神の芸術、(宗教家と芸術家)
“人間苦を描いた芸術(音楽、文芸等)は光明世界に於ては自然に消滅して了うものでしょうか。
“或程度消滅する。凡て情操を養い、向上さすのが目的で、堕落さすのは悪魔で、文学等を悪魔が利用して社会を堕落さす。人間苦を描いたものなど、苦しい人は興味をもち、楽天的の人は興味をもたぬ。一人でも多くの人の思想を向上さすのが神の芸術であり、立派な芸術である。大勢の人が見て楽しめる画が本当で、自分だけよくて、人が楽しめぬのは本当でない。作者の魂が多くの人に影響を与える。故に、芸術家は品性が高くなくてはならぬ。それ以上のものが宗教家である。
不振となる芸術と将来の芸術
“御伺ひ申し上げます。
一、敗戦によってあれ程までに撃ちのめされた我国にも、近時漸く音楽、芸術の声高まりつつある時、謡曲、能、琵琶、浄瑠璃等漸次衰退の傾向にあると聞き及びますが、之は何か霊界の変化と関係御座居ませうか。
二、又、今後の音楽、芸術の動きについて御教示下さいませ。
“謡曲、能、琵琶等は封建的芸術であるから、今後の人間にピッタリせぬ故段々衰退する。武士道などは自由がない。特権階級の事件を土台に作ったものである。浄瑠璃などは割に民衆的であるが、極端な男尊女卑で、女など奴隷のようである。それで人情が移らぬ。 歌舞伎なども詰らぬ事によく生命を捨てるし、三勝半七などのように、 三角関係の心中を賛美したりする。これでは民衆から捨てられる。新時代にピッタリ来ないからである。
映画など最も民衆にアピールする。(S24・8・18)
日本文化本来の色
“日本文化は世界文化の中に於て独自のものが多い様に存じますが、将来世界文化に貢献する面はどの様なものでせうか。
“どこの国でもそうで、それぞれ独自のものがあるんでよい。日本の色は美術である。今迄芸術の為に地獄へ堕ちる事が多かった。然し、地獄世界では、それによって慰められた。日本人本来の色は芸術である。(S23・7・13)
日本人が陰(寂)を好む理由
“日本人は火の霊統で陽であると拝聴しました。人は反比例を好む性質があります。陽であれば陰を好む。だが人間の本性そのものは明るさを好むものではないでせうか。住居に町があり市があり、又賑やかな所へ人が集合したりする事は、 明るさを好むからではないでせうか。日本人が寂(サビ)、静寂(茶の湯、生花、詩、和歌)等を好むその性質と、明るさを好む性質の、この二つの相違について御教示下さい。
“陰陽にも善悪がある。日本人が寂を好むのは良い意味の陰を好む。明るい事と静寂は反する事ではない。賑やかな事は人類全体が好む。アメリカ人は一番陰で、ジャズなど明るいものを好む。日本人は圧迫されて、悲しみを発散する手がないので、悲劇を好んで観た点もある。(S24・6・3)
文化と霊統、日本の陽とアメリカの陰、日・米・中国の芸術、茶の湯――寂の芸術
“日本文化の特色として情緒的な面――物のあはれ、寂(サビ)、侘(ワビ)しさ等がよく挙げられる様でございますが、
一、文化にも霊統といふ事がありましょうか。
二、若しありますものでしたら、日本文化のこの特色は大和民族のものでせうか。或は外来のものでせうか。
“大いにある。当然起るべき疑問である。日本人は日の系統であるから、陽であるから、陰を好む。それで悲劇を好む。
アメリカなどは喜劇を好む。水であるから陰の系統である。それで華やかさを好む。絢爛たるものを好む。
支那など、東洋の中の陽であるから、毒々しいのを好む。
これからは世界経緯交はるから変る。アメリカも寂(サビ)を好むようになる。 大和民族から出ている寂――茶の湯は利休が再興した。桃山時代は豪華のものをやり、今度は逆に寂に趣味をもった。
「枯葦の日に日に折れて流れけり」芭蕉の弟子、闌更の名作である。
(S24・5・13)
御讃歌「芸術」の意味
“御讃歌「芸術」の御歌の意味を御教示下さい。
“「人の情月雪花に眼を外らす 人は身魂の低きが故なり」
人に情をかけてやっても感ぜぬのは感じが鈍いので、それは曇りが多いのである。 「春の花秋の紅葉を賞(メ)づるこそ神の恵みに応うるなりける」
花でも何でも、人の目を楽します為に神が造られたもので、それを娯しまぬのは神の恵みに叛く訳で、それを神に感謝して楽しむべきである。
「芸術を娯しむ心裕かなる人こそ天国に住すればなり」
割合に趣味がなく、木石の如き人は霊的に低い。やはり趣味や情緒のあつい人は上級である。それによってその人の高低が判る。
ダンスなどもいいが、別な危険を伴ふ。老人ならいい事になる。
「古の聖者は紙衣白木綿(カミコシラユウ)に包まれたれど我は然せじ」
白木綿―歌詞で白もめんの事。もめんをゆうと言ふ。紙衣―紙で出来た着物。昔、人によってはこれを着た。「祖師は紙衣の五十年」といったが、親鸞などはこれを着たといふ。之は経済的に着たものである。これは非常に温かいものである。之は本当は間違っている。
「天国に世人救わむ望みもて吾先ず天国に住せむとすも」
今迄の宗教は極く殺風景で、ただ大きい宮とか殿堂を作るだけである。教団は地上天国の型を造るのだ。
「如何ならぬ聖者といえど己が身の地獄に在りて世人救わめや」
自分が地獄にいて人を救ふ事は出来ぬ。それは下から持上げるやうな理屈になる。自分が上にいて救ふのが本当である。
「古の聖者……」の御歌
“「古の聖者は紙衣白木綿に包まれたれど吾は然せじ」 といふ御歌は、人間の不自然であってはならないといふ意味の御歌でせうか。お伺ひ申し上げます。
“禁欲主義はバラモン行であるから間違っている。立派な家に住み、美味しい物を食ふのが神の思召に叶ふ。それで箱根、熱海の良い所を選んだのである。 神様は、人民はわが子と同じ気持である。神の御目的は地上天国を造るにある、真善美の世界を造るにある。貧乏して、汚い物着ているのは大変な間違いである。
五十鈴川の源
“近詠集中、「いすくわし五十鈴の川の源の濁り浄むる時となりぬる」の御歌につき御教示御願ひ申し上げます。
“いすくわしは枕詞。五十鈴川は天皇の系統、天照大神の源、本物と贋物とある。皆考えている天照大神は――(天皇の源)――濁っているから浄める意味である。(S24・12・23)
「村肝の……」の御歌
“「村肝の生命賜いし御恵をうち忘れなば獣に等しき」――
“村肝の―は、生命の枕詞。神から生命を戴いた御恩を忘れれば獣と同じといふ事。 (S23・10・19)
聖人
“「畏くも観世音菩薩は八百万神や仏の聖に在さん」 と御座いますが、「聖」と申しますのは、神や仏の上位に在されると言ふ意味で御座いませうか。又、孔子を「聖人」と申しますが、その「聖人」とは如何なる意味で御座いませうか。御伺ひ申し上げます。
“聖人といふのは種々な人の優れている、而も清い、上位(浄位)といふ意味である。はっきり斯うといふ意はないが、神や仏の一番上といふ意味と言っていい。菩薩は一番低いお働きと言ってもいい。それで聖に在さんといふ疑問詞が入れてあるので、在せりとは書いてない。(S24・2・11)
大先生御歌
“浄霊のお歌、「ながむればくすしかずかずたまのをのまたすがすがしすくはれむかな」
右御歌の意味につき御伺ひ申し上げます。
“大先生の御歌は言霊と合はしている。 (S24・7・19)
和歌の初め
“御歌集「山と水」の中に、「瑞御魂素盞嗚神にはじまりし和歌は御国の光るならむ」
と御座います。右の御歌について御伺い申し上げます。
“素盞嗚尊は出雲大社の先祖で、歌は出雲から出た。
「八雲立つ出雲八重垣妻ごめに八重垣つくるその八重垣を」
水の系統は瑞御魂で、月の系統である。瑞は十五夜で、一番水を含んだ時である。 (S25・4・28)
烏羽玉と奴羽玉
“烏羽玉と奴羽玉との意味をお願ひ致します。
“烏羽玉は烏の羽根で、奴羽玉としたのは烏より奴の方が言霊がいいからである。 まんよう(万葉)よりまんにょうが本当である。(S23)
「和田の原」とは
“和田の原は海の歌詞。和田津見、大和田原などといふ。朝日を朝日子といふが如くで、歌詞には判らぬ言葉が多い。千早振、烏羽玉の、村肝の、魂機張る、たまゆら等。(S23・6・27)
うない児
“御讃歌集中「法の華」の節中、「うない児も鬼をも拉ぐ猛き男も慈悲の御眼に慕い寄るかも」の中の「うない児」について御教示を御願い申し上げます。
“幼児の事である。(S24・7・28)
村肝の意義
“御讃歌の「誤れる医しの術に村肝の生命縮むるあはれ世人よ」と御座いますが「村肝」とは如何なる意味で御座いませうか。御伺ひ申し上げます。
“歌の枕詞である。(S24・1・28)
石の上
“御讃歌中に「石の上」とありますが、其の意味を御教示願ひます。
“枕詞は、殆ど意味の判らぬものがある。(S24・5・26)
かみなが、円頂
“僧侶の異称である「円頂」、「かみなが」とは――
“円頂―頭の丸い事。
歌は素盞嗚尊に始まり、神道から出てる。神道では髪を長くするのが本当であるから、「かみなが」とは神道的に云ったものである。
古池の句
“「古池や蛙飛び込む水の音」
右の句は丁度私達の歩む道を教へられる様に感じますが、皆様に解り易くお話の出来る様に御教示願ひます。
“古池の感じ。極く閑かな感情を表はしたもの。静寂を表はしている。「閑(シズカ)さや岩にしみ入る蝉の声」のようなものである。
信仰と結びつけるのは無理であろう。(S24・6・8)
秀吉の歌
“「奥山にもみじ踏分けなく螢しかとも見えぬそまのかがり火」の歌の御説明をして下さい。
“そまのともしびである。秀吉が歌が出来ず、幽斎を招いた。そして、鳴く螢と出した。それで帰った。(S24・2・12)
古代芸術の優秀性、(種痘と生活苦)
“歴史によりますと、聖徳太子の御代の仏教芸術や元禄時代の庶民文化の様に今日でも及ばぬ程のすぐれた芸術、文化の発達した時代がありますが、之等は何か特殊の意味のある事でございましょうか。右、御教示御願い申し上げます。
“(私は始終思っている。今の芸術は見られたものでない)昔の芸術は今に比しあまりに優れている。(絵など美術工芸品である)今は塗抹している。(西洋画など主観的で、通用しない貨幣みたいなものである。最近人形を買った。之は慶長時代のもので、今の人形など問題にならない)昔の陶器など今よりズーッと新しい。寛文年間、仁清といふのがある。周時代の銅器は実によく出来ている。非常に巧妙である。その形は今も真似ている。(今は智慧も技術も進んでいるのに下手だから不思議である。音楽でもバッハ、シューベルト、ベートーベン等皆そうである)
この原因の一つは種痘の為で、根気がなくなった。種痘後、名人はなくなった。(役者などでも、昔は猛稽古である)
次は生活苦である。 (S23・12・8)
創作品と作者の霊の強弱、(明主様御文字)
“彫刻、 絵画等の創作品には作者の霊が憑依していると思はれますが、其の創作品の構成素材の霊と作者の憑依霊との関係に就て――
“素材の霊は何でもない。作者の霊が重要である。作者の霊は入っている。 霊の強い弱いがあり、強い作者のは皆生きている。
光る文字も大先生の霊が光になって入っている。左甚五郎は非常に霊が強いから霊が入る。
画でも生きてるのと死んでるのとあり。であるから、霊が強くなくてはいけない。誠が強いのが霊は強くなる。
悪党などは体が強く、霊が弱い。 (S24・5)
芸術家の哀愁美
“詩人、歌人等が哀調を帯びた作品を作る人が多いのは、その人達の心に哀愁を抱いているものと思いますが、何故この人達は哀愁を抱いた心をもつ様になるのでしょうか。
“その人の心裡が出るのであらう。物が思ふようにならぬから悲しくなる。詩人や文人などは、自分をあまり出しすぎる性格があるからで、思ふようにゆかぬ。金に困る。
然し、哀調を帯びたのはいい。支那のものは特に哀調を帯びている。虐待に喘いだからである。哀調も一つの美である。哀調から美が生れる。アメリカなど明るいものが多いが、芸術はあまりない。故に哀調は必要である。(S24・5・23)
芸術家の運と人格
“芸術家について、
一、偉れた芸術家で 非常に不遇の方がありますが如何な訳でしょうか。 二、人格的に如何かと思う人がすぐれた芸術を造り出しますが如何なものでしょうか。右、御教示御願い申し上げます。
“一、一時的はあるが、長い間不遇な事は決してない。もし不遇なりとすれば、優れていないとか、悪癖があるかだが、本当に優れた芸術家なら必ず何時か世に出る。山奥にあっても人が世に出さずにおかぬ。此観音教もそうである。
芸術が優れていても運が悪いのは西洋に多い。芸術家に不道徳な人が多い。 これは本当の神様の方からいふ芸術家とは違ふ。不道徳とか我侭なのは、悪魔的芸術家である。人に対する愛が少く、自分自身の芸術に生くる。社会生活に対して処さない。それが不運の原因である。ヨハン・シュトラウスは運がよかった。元銀行家だった。皇帝がシュトラウスを讃美した。恵まれるのはあるが大抵恵まれないのが多い。ベートーヴェンなど悲痛から生れた芸術である。彼の音楽は暗い感じになる。非常に悲痛な感じが出ている。レオナルド・ダ・ヴィンチは、日本の聖徳太子のようで、飛行機や潜水艦の原形を造った発明家で、アメリカのエジソンのようで、宗教家で絵かきである。
芸術家は複雑なもので、単に斯う彼(ア)あと言えない。
又特徴がある。北斎は極度の貧乏だし、光琳は豪華である。
二、(全く斯ういふ事はある)雲右衛門は浪花節を今日の地位にした大天才であるが、彼は実に不道徳であった。(彼の芸術と比べると不合理な位である)師匠の浪花亭繁吉の妻を寝取って逃げた。九州の琵琶を採り入れて雲右衛門節を作った。芸術と人格を伴ふ事は出来ぬが、雲右衛門の節は非常に巧いが私は大嫌いである。すべて人間は、人格が芸術を通して働きかける。雲右衛門の芸術を聞くと 言霊の線によって皆感化を与えるから、聞く人は堕落する。
下村観山は、画は筆と絵具で人格を表はすといふ。故に人格を高くしなくてはならぬと言ったが、その通りである。作品を通してみると――武者小路は、妻君があって、憧れて来た娘と恋に落ちた。立派な人格者である。 島村抱月も人格者であるが、不道徳の点がある。なかなか単純に言えない。之等は大乗的に見なくてはならぬ。止むを得ぬ。(之等は妻君の方が芸術に理解がないから合はなかったので、大乗的にみれば或程度止むを得ぬ)妻君が不幸なのは大きな罪を背負っているので、それを償ふべき善い事をすれば大した事にならぬ。やむを得ぬ。
(これから本教から人格者が出る)
女さえみれば手を出すのはいけない。 (S23・12・28)
芸術家の低人格、(経済問題)
“芸術などする人の人格が高級でない場合が多いのはどういう訳でせうか。
“全くである。芸術家でも低いのがある。然し深く考へると無理もない点もある。昔の方がズッといい。今の芸術は碌なものはない。一番の理由は生活問題で、その為思うように練ってかく事が出来ぬ。経済問題の為思うように出来ぬ。芸術の堕落も止むを得ない。終戦前の如きは財閥が保護したからいくらか出来た。やはり優れた芸術家には人格者がある。(S24・12・3)
芸術家の不幸――西洋
“今までの芸術家の生涯は多く人間的に不幸ですが、その原因を御説明下さい。
“日本の芸術家には少い。西洋の芸術家に多い。西洋の芸術家は道徳観念が薄い。それで思想的に間違って、罪悪を犯すのも平気になる。「天才と狂人は隣合せ」といふ言葉があるが、文学者など、特に不仕合せを好んで、悲惨な運命になってゆく。一種の精神的変質者で、そういふのが才能がある。
人間の道に適った事をすれば、そう不仕合せはない。(S23・10・13)
笛音で心変る、(芸術者の品性)
“「袴垂」の様に横笛の音を聞いて改心した物語も御座いますし、御神楽にも横笛が加はっておりますが、何か横笛の音に霊的な意味が御座いますのでせうか。
“横笛も経笛もない。楽器で音を出すと、その音を通じてその人の霊が出る。笛を聴いて心が変るのは事実だ。本当に無垢な心持をもって音を出せば、聞く人の心を良くする。
であるから、芸術家は人格を高めなくてはならぬ。邪念があってはいけない。昔からよく胎教といい、器量のいい子を生もうとして、美人の写真をみるとか、偉い人の書をみると、その霊気を受ける。芸術一切はそうである。絵とか書など、本当からいえばその人の人格表現の道具である。であるから、芸術家は品性を向上しなければならぬ。又曲によって受入れる感化も大きい。ショパンのポロネーズの如きは国民を鼓舞した。作曲者の人格が表現されたものである。信仰者を作る場合も、喋るのがうまいまずいんでない。此方の誠が強い感化を与える。
真言の密教を伝える場合、大僧正が弟子に向ひ、顔をみて一言も言はぬ。そして、「判ったか」と言い、判れば位を呉れる。いくら喋っても、魂がなかったら無駄である。(S24・3・4)
劇をみて低下する人
“歌人や役者で、悲恋の様子を演じたり歌ったりする場合、其の演者は自ら失恋を体験した者でなければ真の気持を表現する事は出来ないと云われ、態々道徳的に如何かと思われる行為を為す人が多う御座います。芸術は魂の発露だと致しますと、其の様なものを観賞致しますれば、霊的に低下する恐れは御座いませんでしょうか。今後の芸術の在り方に就て御教えを賜り度く御願い申し上げます。
“斯ういふのをみて低下する人は駄目であるから、一たん低下した方がよい。
物をみて影響を受けるようでは、未だ弱い。
「藤十郎の恋」など作り事であらう。 (S24・10・1)
現代文学と今後の文学
“(斯ういふ疑問を起すのは当り前である)
今迄の文学は神様の御用でなく、邪神の御用をしたのが大部分だった。人を良くするのではなく、その文学により悲観的、厭世的、懐疑的になったりする。人間の善い面より悪い面を伸ばす働きが非常に多い。そして、人間はそれに興味を覚えた。(読むと魂の善い面が眠ってしまふ)今迄の文学家のそれは大体西洋から思想が出ている。世の中を明るくするとか良くするとかいふ事はない。懐疑を起したり、悲劇を起したりするのが多かった。それは夜であったからそうなった。あまりひどいのは神様が処理する訳である。これからは本当の明るい文学が出来る。(神様が処理するから、之が早死の原因だし、よく精神病の原因になる。幸田露伴は長生きした)
斯ういふ人の書いたのは酷いのがある。然し、一面医学にやられる点がある。悲観的な事は薬毒が深い。頚に溜るからである。芥川などはそれである。子規の如き、尾崎紅葉の如きもそれである。「夏痩せや薬とりにまかれ日和下駄」と言った。(S・8・7)
新体詩の将来
“大先生の御歌に口語体短歌を拝聴致しましたが、当時口語体は短歌では無い散文詩だ等と云はれ、現在影をひそめた様で御座いますが、将来口語体短歌の様な型のないものが盛んになりませうか。御教示御願ひ申し上げます。
“新体詩は一時的なものであらう。なくなる事はなからう。(S24・10・3)
将来の音楽(御抱負)
“私は三月に入信させて戴きました。音楽学校を卒業して後、或機会に、真の人間の道を基調とし愛情と調和の雰囲気に於て生み出されたしかも自然そのもののハーモニーの上に築かれた美しい合唱を聴く機会を得まして、従来の殊に音楽方面の教育の全面的な誤謬を知り、この方面に於ける根本的な革命の迅速に訪れん事を熱望致し、刻苦奮励致して居る様な訳で御座います。音楽の道の根本も亦、本教団の主旨と一致して居りますので、先生は本教を知って間もなく二月に相ついで最近門下生より天才的な作曲才能のある青年、ソプラノ歌手、その他有能の方々も入信なさり、真の新しい音楽の道を教団の御教へによって更に強く広く拓き度いものと勇躍致して居るので御座います。当先生の音楽的才能は泉の溢れる如く作曲、種々な演奏に於ける批判は霊感的なものと思ふより外ありません。己を無にして和合の中に於て楽しまれる、心からの合唱は次々と育ちつつありますが、このやうな合唱の世界も亦地上天国の要素であると確信致して居るので御座います。是非この先生の霊のあらはれと今後の動きについて伺はせて下さいませ。又、将来の世界の音楽方面に於ける正しいあり方について大先生の御見解をお話戴き度くお願い申し上げます。
“結構である。大先生のお考えと同じである。教団は何れ、盛んにして、新しい世界的音楽を作りたいと思っている。熱海の会館はそういふ考えを入れてつくる。宗教的匂ひのない、純然たる極く近代的軽演劇とか音楽会も映画も出来る。キリスト教のミサの如きものも作りたい。キリスト教や仏教などでも間に合せ的なものである。西洋音楽は行き詰まっている。ジャズなどは踊る必要から出来たものである。
新音楽を生むといい。西洋音楽は動、日本は静、支那は愛であり、これを総合したものがほしい。 (S24・7・5)
音楽教育と本教、(霊の浄まりと声)
“先生方も信者の方もすばらしい声をもっていらっしゃいます。集った方全部でそこにハーモニーがひびきました時いかにすばらしいか、その美しさを感じた方の心は地上天国であると存じます。信者の方々の音楽教育(五六七の世になってからでなく今の時代に)をいかに御考えになりますか。御伺い申し上げます。
“音楽教育はしたいが、それよりもっと必要な事がある。今の唯心教育の如き(事である。)音楽でも他の芸術でも、教育は唯心教育が基本にならなくてはならぬ。今に大いにやる。霊が浄まると声もよくなる。(S24・8・5)
喉自慢と試験制度と唯心教育の重要性
“大先生はのど自慢コンクールその他コンクール形式のもの、各種学校の試験制度等の若い人々の心に及ぼす影響について如何に御考えになられますか。又御理想とされる学校教育の正しいあり方についてくわしく御話し戴きとう御座います。
“大変にいい。(喉自慢)一つの音曲的天才ある人が世の中へ出る機会になり、登龍門になる。非常によい。斯ういふ事が盛んになったのはいい。音楽は天国的のものであるから――試験制度はいいが学校教育が間違っている。間違った教育による試験制度はいけない。根本的に間違っている。今の学問は猶太の学者が作った。神を認めない唯物教育が根強く、その思想を入れる。今学校を出ても普通立派になるが精神は進まぬ。それで人間性にならぬ。眼に見えぬものを信じさせぬ方法である。唯心主義の肝腎のもう一つを教へ、信じさせる事で、今私の講義も唯心主義教科書である。 (S24・8・5)
作曲の天才
“私の弟子で本年十九歳の男子、音楽の専門教育を受けた事はありませんが、現代の日本一流作家に優るとも劣らぬ素晴らしい音楽を作曲致します。右の場合、此の人は霊感に依り作曲する様に思はれますが如何なる霊の働きでせうか。御伺ひ致します。
“作曲家の霊である。作曲の因縁ある人である。是非作曲家になった方がいい。 (S24・6・5)
マチス以後の絵画
“近世絵画芸術(マチス以後。日本、昭和十年以降)は邪道と存じますが、如何ですか。
“芸術は時代の思想、感情を表はすのであるからそういふ事はないが、邪道に堕ちていないともいえぬ、相当邪道に入っている。
何れは正道へ戻る訳である。 (S24・1・7)
最後の審判の名画について
“十五世紀のイタリア芸術家ミケランジェロの名画「最後の審判」は見る人をして呆然となさしめますが、彼の作品はキリストの言葉より生れた単なる想像の作品と見るべきでせうか。又は神が彼を通じて描(カ)かしめたものと見るべきでせうか。亦、同人の彫刻「ロレンツォディメディチの墓」は棺桶の両傍に、夜(左)昼(右)と表して有りますが、此れも芸術的作品でせうか。又は深い意味があるのでございませうか。御教示お願ひ申し上げます。
“大して深いものでない。やはり想像のものである。
夜昼、逆に描(カ)いている位じゃ、何も意味ない。 (S25・1・15)
彫刻の本質
“私は長野市に在住致します美術家で御座居ますが、彫刻の本性について御説明を御願ひ申し上げます。
“彫刻は凡ての材料を使ってやるから絵画に伴ふ。今日は写実から離れて自己の感情などにより、実際から離れて実際以上のものを出そうとする傾向になった。現在では朝山、田中などが巧い。やはり今、朝倉文夫である。 (S24・10・16)
将来の茶道
“一、明主様には、 先日御茶の会に御出席遊ばされた由承りましたが、御茶の会は芸術味の豊かなものでございませうか。
二、将来、茶道は特殊な方にのみ親しまれるものでせうか。或は大衆的になるものでございませうか。
三、資格者は男女とも一応、茶や活花の方式を知って置くべきものでありませうか。
“今よりはズーッと大衆的になる。やはり中流であらう。中流までは一般的にならう。寧ろ外国へ理解されて、外人が相当やるようにならう。アメリカ人など関心をもっている。日本の文化に関心をもっている。大抵な日本人よりよく知っている。建築なども日本式を採入れている。障子も用ひられている。日本文化を非常に採入れている。故に相当茶をやる人が殖えよう。知った方がよい。地上天国は芸術が発達する。(S25・3・23)