002 主神篇

五六七大御神、五六七大御神と造物主、造物主とは、天地創造、神典説(人体始祖神と三柱神)、天の直系・傍系の神とは、五六七の御働きと阿弥陀・釈迦

“造物主とは主の神様、最高の神、日本でいふ天之御中主大御神をいふ。

然し主神は造物主自身ではなく、実際は国常立尊、豊雲野尊御二柱で造られ、形を豊雲野尊が造られ、それに霊を入れて生きるようにしたのが、国常立尊である。神典では、最初天之御中主、高御産霊、神御産霊の神様が霊と体を造られた。高御産霊はタタ、神御産霊はカカ、即ち父と母と転化した。

その霊と体によって生れたのが大国常立尊、次に豊雲野尊、次に人体が出来て伊邪諾、伊邪冊尊となられた。その次に、天照大神外三柱の神がお産まれになった――とある。

月読尊、素盞嗚尊、両方出来た。照った時が月読、曇った時が素盞嗚尊。之も神典にあるが、どこまで確実か判らぬが、全然出鱈目でもない。

ミロク神は、霊体両方を司る――といふので、天之御中主大神の直系である。国常立尊、豊雲野尊は傍系になる。故に、天の直系とは主神の表現神で、絶対力をもつ神といふ事になる。それが仏界へ表はれたのが観世音菩薩である。それで光明如来と現じ、応身弥勒と化し――とあるが、応身弥勒は未だ仏で、本当の意味ではない。それから、日月地大御神様となる。そして火水土三位一体の力を発揮せらるるのが、ミロクのお働きである。

阿弥陀が水、釈迦が土の働きで、観音は日であるが、次に一層進んで、三位一体の五六七(ミロク)の御働きとなる。故に、観音は阿弥陀や釈迦の働きを備えられる。もっと悉しく話せるが、時期が来ない。

大中心、神の根本、天御中主大御神、国常立尊、豊雲野尊、観音様は主神の流れ――直系 

“観音様は主神の直系である。中心は天之御中主大神で、その霊が国常立尊、体が豊雲野尊である。真中の主神の流れは観音様である。主神の思召としては、善悪を戦はさなくては、人類文化は進歩しなかったのである。

五六七大御神は代表神

“弥勒大御神は日本神典上何大神様でいらせられますか。御伺ひ申し上げます。

“弥勒は仏名であるから神典にはない。釈迦時代の弥勒菩薩とは異ふ。五十六億七千万年の数が五六七を表はしている。又弥勒出現成就経にも説いた。

神典には、伊都能売神とあるが、之は弥勒とも違ふ。日月地大御神は、主神の代りとか、代表神で、最高の位であり、五六七の力を持たれている。キリスト教のエホバ、支那の天帝とかである。(S24・8・18)

五六七大御神様と国常立尊の龍神の御姿

“国常立尊は龍神になられると日本の国土の大きさになられ、角があって、凄い御顔である。

角のない綺麗な龍、之は五六七の神様で地球創造以前の神様である。(S23・6・13)

日月地大御神の御働き

“日月地大神の御働きは国常立尊と観世音菩薩との御一体の御働きと申し上げて宜しいでせうか。右御教示御願ひ申します。

“国常立尊も観世音菩薩も五六七の世を出現さすに就て、五六七大御神の御仕事を助けるといっていい。五六七大御神の御働きは全然違ふ事を知らなくてはならぬ。之をはっきり説く事は時期が早い。

エホバ神

“「エホバ神」とは如何なる神様でせうか。

“エホバは最高の神の御名前である。ユダヤでエホバといった。日本では天之御中主大神、支那では天帝、印度では大自在天である。今日のユダヤではメシヤといふ。ゴッドともいふ。つまり天の父の事。キリストは天の父の命により降ったといふ。日本では伊邪諾尊様にもなる。

私の病気を治す力はエホバから来る。エホバから観音様を通して私に来るのである。 

五六七大御神様と伊都能売大神様、(日月地大御神への御祈願)

“五六七大神様、伊都能売之大神様の御働きについて御教示を御願ひ申し上げます。

“伊都能売大神様は光明如来様で、火と水、五と三とになる。火と水は光となる。人間の身体を通すから、火水土になる。五六七大神は、最後であるから御位も非常に高い。それ故にお願ひなどは光明如来様にお願ひする。五六七大神様は崇め奉るのが本当で、お願ひするのは天皇に直訴するようなものであるから、それはその御仕事をなされている神様にお願ひする。(S24・9・18)

主神、国常立尊、天照大神

“天の御中主之神、国常立之神、天照大神。右三神の御関係並びに御由緒を御説き下さい。

“天之御中主大神様はゴッドとかヂュウス、天帝等外国でもいふが、同じ神様――主神である。国常立尊様は天地創造の衝に当った神様。天照大神様は太陽の顕現の神様である。

斯ういふ事は悉しく話すと対外関係上面白くない。神道を持出すと国粋的になり、独善的になる。世界的にとればいいが、国家主義的に考えるから危険である。日本だけの神様ではないが、日本の名前の神様になっている。

神は全世界、全人類を支配なされており、全世界凡ゆる人民に好い事をなさる。自分の国だけ、都合のよいようにはなさらぬ。日清、日露、蒙古等の戦ひは向ふが悪かったが、今度は日本が悪いので敗けた。

天地創造神と観音、(表現神の意義)

“キリスト教に於ける  天地創造の神と観世音菩薩との関係について――。

“直接関係はないが、間接に関係がある。天地創造の神が表現神としてその神の経綸を行なわれる。天地創造のみでは未だいけないからもう一層完全にするために形を代えて表はれられる。それが日本でいふ天之御中主大御神、又支那の天帝、無極といふ。西洋ではエホバ、ユダヤではゴッド、ヂュウス、メシヤ、印度で大自在天などといふ。これが創造神の表現神である。そして表現神のお働きの半面が観音様となるから、関係はあるが創造主そのものではない。  (S24・1・27)

主神と観音様の差異

“御讃歌の『大神は時満つるまで天の扉を開く御鍵を秘めおかれませり』とあり、又『三千歳の固き岩戸も観音の玉の御手に打開くるならん』とあり、その場合の「大神」、「観音」とは違ふのでせうか。

“大神とは主神、エホバである。観音様は大神でない。大神の代りとか、大神の差図によってお働きになる意味である。

キリストは「吾は神の子なり」と曰った。天の神(主神)の命によって生きる――といった。キリストは、月の働きだからああなった。

観音様は日の系統であり、日月である。

霊界の夜昼と睡眠、最高の神

“霊界には夜寝るなどといふ事はないから、時間、空間はない。夜昼はなく、のべつ幕なく同じようである。ただ霊界から現界を知る事が出来るから、現界の時間によって知るのみである。霊界は空間にあるから物質ではない。空間を超越するのは最高の神である。  (S23・8・4)

主神の観方

“主神は善悪両方を造った。之を好むように造った。人類は未だ野蛮未開で、獣性が多く残っている。現代は幼稚極まる文化である。正神と邪神と戦ひ文化を進歩さしている。主神は之を上から見下している。絶対の善も絶対の悪もない。戦争も吾等にとっては良かった。  (S23)

主神の火素と太陽の火素

“主神より発する火素と太陽より発する火素の働きの差異に就て御説明をお願ひ致します。

“火素は太陽の精気であり、太陽は熱の光である。太陽は主神の熱の働きで、男性である。それと月の両方の精気を放射している。人間の身体を通す時、太陽の火素を多く通す。昼の世界になると火素が強くなる。

神界の主宰神

“幽界は大国主命、現界は国常立尊が主宰して居られると伺いましたが、神界はどなたが主宰して御出でしょうか。右御教示御願い申し上げます。

“現界は国常立尊が主宰していない。国常立尊が大きな浄化作用をされている。その先は今言ふ事は出来ない。

幽界はそれに違いない。神界は、今現界は(的?)未完成で主宰神は決らぬ。何れ決る。個性を持った主宰神は決っていない。主神の表現神が出来る。

世界の支配神御顕現、観音様と幽世大神、御屏風の御光を祖霊蒙る

“幽世大神は観音様の家来。霊界の事一切を任されている。御屏風から光が出て仏壇の中が明るくなり、祖霊がその御光を戴く。例えば天皇ジカには頼まず、総理とか大臣とか、その係に一任され、頼まれる。先には天皇を濫用した。警察など天皇の御名により査べるといふ。神様の事は人間的考えで判らぬ事がある。

現世は観世音といふが、顕幽両方の御働きであり、今迄現界の支配者は一区域一区域はあったが、世界的のそれはなかった。五六七大御神となると全世界を支配する事になる。そして総てが統一される。(S23・7・21)

神様は一に在す、(国粋的にならぬこと)

“国常立尊の御引退後今日迄、火の系統の者は罪穢なしで過して来ましたでしょうか。罪があるとすれば、それは霊的事象より見る時、どうした因縁で起った罪でございましょうか。右御教示御願い申し上げます。

“国常立尊などは言はない事にした。連合軍など日本神道などに目を光らしている。 国常立尊は大本の専売である。天照大神なども言はん方がよい。吾々の日常社会生活には何等関係はない。アメリカの方針は、日本に戦争をさせない。その為にはキリスト教国にするにありとしている。日本神道は危険である。大抵は天理、大本などそうでないが、天之御中主、高御産霊神、伊邪諾尊とも――天照大神は太陽の顕現で、最高最貴で、それが日本の天皇といふ建前になり、世界を知食す権限をもっているといふ。軍閥は之を利用した。アメリカなど非常に之を嫌ふ。神国思想は世界中にある。神は不公平はない。人類愛でなくてはいけない。

キリストでは、再臨といふ。  ユダヤでは、メシヤ降臨といふ。支那では紅卍会で、至聖先天老祖神君といふ。国によって御名が違ふが、一つのものである。国によって種々の言葉で言ひ表はす。故に、五六七神は、英語でいえばエホバ、ゴッド、メシヤ、ヂュウス、至聖先天老祖等である。世界中に出る訳である。世界的に説けばいい。世界中にそういふ神が働いている。

大乗老君

“大乗老君、最高の神といふ訳である。シボクホー神――。土地々々で神は御名が変る。伊邪冊尊は――エホバ――。  (S23・10・23)

耄碌死、絶対神

“長生きしても耄碌で死んだ場合、霊界ではやっぱり耄碌でございませうか。

“やっぱり霊界でもそうである。はっきりして死ななくてはいけない。鳥栖越山のようにである。

救いの力は釈迦、キリストにはない。発揮させる道具にはなった。至聖先天老祖は絶対力をもっておられる。釈迦なども老祖の命により出る。之等は二流の神である。ミロク。観音――之は菩薩のみの位である。ミロクにもなられる。

造物主の御働き、(天照天皇と国常立尊)

“天照天皇と国常立尊について御伺ひ申し上げます。

“天照天皇より国常立尊の方がズーッと古い。天照天皇はそのズーッと後に人間として表はれたものである。大国常立尊は造物主の仕事をされた。造物主といえる。主神の命により造物主の仕事をした。(S23・8・24)

大国常立尊様に病気をお願ひする事 

“本年六十四歳の女、五、六年前からブラブラ病になり、一ケ月程前から入信して御浄霊をさして戴いて居ります。大国常立尊の祝詞をお上げする様になってから一週間位で頭と手のふるへが治って参りましたが、腰と足はクニャクニャで、座って居ても前後にふらふら致します。霊的関係と御浄霊の個所をお教へ下さいませ。

“大国常立尊様は最高の神様である。病気治しなどお願いするのは間違っている。勿体ない。私は教えていない。普通は光明如来様か観音様にお願いする。霊は幽世大神様。

神 (マルジュウ)  神のしるし○  地球  世界  十字に結ぶ。申は無始無終――即ち、上から(太古から)続き、十(ムス)んで又続く事を示す。(S24・8・19)

国常立尊と観音様、(国常立尊御神業期間)

“観音様の御本体は国常立尊様と云はれますが、その御関係について御教示御願ひ申し上げます。

“国常立尊様は厳正至直で、閻魔大王となられ、裁きのお役である。霊になったものを掃除され、現界の汚れを除ってもらう。一方仏界で表はれて観音となられる。善悪無差別であるから、観音信者は人を咎める事は出来ぬ。慈悲と両方のお働きで、国常立尊は罪をなくする為にお裁きになられる。

罪がなくなれば――罪なき世界を造るべく、観音となられ、光明如来と現ぜられ、弥勒となられる。それで国常立尊のお仕事はなくなる。(S24・10・13)

観世音は絶対神なりや分霊神なりや、絶対神と国常立尊と観音(釈尊の神名)

“絶対神でも分霊神でもない。絶対神の表はれとして日本では国常立尊となる。霊界で閻魔大王となられる。(善悪をはっきり決められる)善に徳を与えられ、悪を許さぬ。仏界へ表はれて観世音となられる。そして善悪無差別に慈悲を垂れて救はれる。  国常立尊の本は絶対神で、日本の天御中主大御神、支那の天帝、無極、ユダヤでメシヤ、ヨーロッパのヂュウス、ゴッド、キリストのエホバであらせられる。

観音、日の働き(応)―|
阿弥陀、月の働き(法)―三尊の弥陀
釈迦、土の働き(報)―|

夜の世界は月で――仏界の間である。それで、阿弥陀如来を本尊とした。月の神は月読尊である。釈迦は神道の金勝要尊(大地の金神)で、稚姫君尊となられる。そして印度で釈迦に生れた。

五六七大神は国常立尊と関係はあるが――。(S23・11・17)

高御産霊、神御産霊

“高御産霊、神御産霊とイザナギの御両神は同じやうに考へられますが、如何なものでせう。

“陽陰の神、男女の神、高御産霊・神御産霊は同じと思っていい。ただ高御産霊の神は大本の神で、人間に生れ給ふたのが伊邪諾神である。生れられたといふより人間に顕現せられたのである。

父はタチツテト  タタ――となる。

母はカカカカ|

軍閥は神話を利用した。天照大神は太陽神で世界統一の御使命ありとした。かかる神国思想は世界中にある。神国思想は原始時代の遺物である。(S23)

国常立尊と豊雲野尊

“『国常立尊は「火」である』と伺いましたが、豊雲野尊は水の系統で御座いましょうか。右御教示御願い申し上げます。

“そうである。日月になる。経緯でもあり、緯の素盞嗚尊はその子孫である。

今後の艮・坤の金神様、(御建設と成就)

“光明世界御建設に対し之からの艮の金神様の御働きと、坤の金神の御働きを御伺ひ申し上げます。

“これから特に違ふ訳でない。艮の金神様は、霊的御守護をされる訳で、坤の金神様は体的の御守護下さる。坤の金神様は物質の御守護である。勿論正しい物質の御守護である。光明世界建設の時は、特に大活動される。五六七の御代になれば、御守護下さる。坤の金神様は物質の働き、物質の御守護であるが、それも、艮の金神様の御差図がなくては出来ない。(S23・11・4)

国常立尊のお働きの現在

“御嶽、扶桑教に於ける国常立尊の御働きに就いて――

“国常立尊は今迄は霊界で、閻魔大王になられ、審判の神様であった。厳粛な、善悪を差別し、悪人は承知せぬといふようなお働きで、善悪無差別で、慈悲を賜ふ観音様とは反対のお働きである。

国常立尊は、相当以前から霊界をやめて、外の神様に任せて、現界でお働きになられ、いつも私を守護して下さる。力のあるのは一番で、如何なる悪魔でも国常立尊には敵はぬ。お浄めなども、先に、力のある悪魔をする場合は国常立尊の御守護を願ふのである。

鬼門の神様とは此神様で、悪神といい、鬼は外福は内などといふ鬼といふのも、此神様で、大本教でも御嶽教でも、此神様を祭っている。丹波の綾部地方では、「鬼は内福は外」といふ。綾部は国常立尊様の地場といい、昔はその御座所があった。

国常立尊と国武彦

“国常立尊様は善悪を差別し、悪を懲しむるお働きである。即ち悪魔を制えるお働きである。国常立尊にもいろいろあり、古い新しいがある。生れ替って国武彦にもなられたので簡単にいえぬ。(S23)

天地律法制定の神と天若彦

“天地の律法である一夫一婦制を定め給ふた神様の御神名と、之の律法を最初に犯した神の名を御伺ひ申し上げます。

“一夫一婦制は国常立尊様がお決めになった。厳格な神様である。最初に之を犯したのが天若彦、之が世を乱したと書いてある。非常に女好きで、国常立尊を押込めた張本人で、世に天の邪鬼といふ。  (S23・7・4)

国常立尊、高位に昇られるか

“観音様は逐次高い御位に御戻りになるのと同様に、国常立尊様も逐次高くなられるのでせうか。

“その通りである。  上へお上りになっても、神の御名は変らぬ。仏は化仏といっていろいろ変られる。つまり神になるまでの変化である。特に観音は、救いの為、いろんな段階がある。

霊眼で芦別に於ける御神姿を拝す

“昨年入信させて頂きました者で御座いますが、私は以前、日蓮宗の信仰をしておりました。北海道の芦別山には深い意味があると聞きましたが、其の後、霊眼で其の芦別山が見え、直径一丈位の大木が御座いまして、そこに御観音様の印度に行かれる時の雲上のお姿を見せて頂きました。其のお姿の御様子は、頭に金色のまばゆい王冠を戴かれ其の上に薄絹白色(幾分桃色がかる)の頭巾をかぶり給い、眼光鋭く御着衣は薄かば色の美しい上着に、下衣は薄水色にて、見るもすがすがしいお色をしておられ、目鼻立ち御立派にて、口元しっかりと締り濃き八字髭を立てられておられ、左手に如意の御玉を戴せられ、右手金色の金剛杖を持たれておられ(神通力を表わされる時、例えばこれより東の方へ行かんとなされる場合、金剛杖にて行く先を指されると行く先の様々の様子が一瞬にして解(ワカ)られるものと自分で感じられました)御伴の神は一人にて、これは薄茶色の上下の着衣にして、御尊の陰の形に添う如く守護申し上げられる其の時の御尊の御姿は、一見女の尊の如く、お伴の神は左足下にひれ伏しておられます。

この様な事を見せて頂きました事は本当で御座い  しょうか。又如何なる訳で御座いましょうか。御伺い申し上げます。

“国常立尊は、御隠退後、霊界では閻魔に、現界では、観音様になられた。芦別山に行かれ、霊界に行かれ、閻魔になられ、又印度へ行かれ、観音様になられた。お伴の神は金龍である。この事を夢にみたので、大変結構である。(S24・10・1)

天地の神

“御讃歌に『如何ならむ罪も赦させ如何ならむ罪も尤(トガ)むる天地の神』と御座いますが「天地の神」と申しますのは、天の大神様と地の大神様の御二柱の神様の事で御座いませうか。それとも天地を共に統べ治められる御一柱の神様の事で御座いませうか。御教へを御願ひ申し上げます。

“一柱の神である。観音は善悪無差別で、観音教団は観音の働きである。御本体は国常立尊様である。即ち閻魔大王である。『如何ならむ罪も許させ…』とは観音様、『罪も尤むる…』とは国常立尊様である。それで、悪人が行く程恐い。(S24・7・22)

国常立尊と観音様、(御隠退と閻魔大王)

“国常立尊は、神々より押込められた。厳格で悪を許されぬ。厳格の為に辛いといふ多勢が相談して御隠退を願った。そして霊界へ行かれて閻魔大王となられ、審判の役をされた。現界の罪を審判(サバ)かれる。一方では救いの為化身され、仏界で救の業をせられた。観音行は決して人を尤めぬ。善悪無差別に救はれる。観音様の御言葉を守らず霊界へ行くと審かれる。(S23)

観音様と国祖、天祖の御関係、(芦別山)

“北海道の芦別は観音様と関係がありますか。又、芦別の地方の神社は天照大神が御祭りしてあります。何か関係ありますか。

“北海道の真中、中心になる。ここに北海道を支配する国魂の神があり、日本の真の艮は芦別の方角になる。芦別の山は国常立神様が御隠退になられたといふ。非常に厳格な神様で、地獄へ下りて閻魔大王となられ、仏界へ表はれて観世音になられ、悪人も善人も差別なくお救いになる。であるから、関係がある。観音様は日水土の神様であり、天照大神は日の系統の神様で、大日如来になられる。故に、御関係がある。

観音様と幽世大神

“幽世の大神と観音様との関係――

“以前は閻魔大王と申し上げた。国常立尊は霊界での救ひ、閻魔大王。現界での救ひが観世音である。国常立尊は、今現界でお働きになっており、幽世は大国主尊である。観音様は三界の救主で、即ち神界、仏界、現界。観音様の委任を受けて、幽世大神は大国主がやっている。(S24・11・27)

伊都能売の意義

“伊都能売といふのはどうゆう意味でせうか。

“五三の神とも書く。五は火、三は水で、火と水のお働きをされる事。これが光明如来になる訳である。

伊都能売神、古事記所載

“伊都能売神は日本の神である。古事記に「世の中を浄める神」としてある。(S23)

伊都能売大神海外御逃避の動機

“伊都能売大神が海外へ御逃避になられた直接の御動機は何で御座居ませうか。右御教示御願ひ申します。

“伊都能売神は、生命が危かった為、逃避された。(S23)

伊都能売大神と金龍

“伊都能売大神様と伊都能売金龍様の御関係――

“伊都能売大御神様は御隠退中金龍神となられたのである。

天照大神と伊都能売神、(天照すの意義)

“天照大神様と伊都能売之神様とは、どう違ひますでせうか。

“天照大神は太陽の御顕現になっているが、あまり言ふ事は出来ない。日本人の優秀性を言ふ様にとられる恐れがある。天照す、とは世の中を照らす事。日本は極東――位置が極東になるので、日の中心とした。そして、天皇の先祖を天照大神と、神話的に作ったものである。そういふ地理的関係にすぎぬものを、日本を特に偉いように作ったもので、それを軍閥は利用した。

伊都能売神は、いづ・みづ、火・水両方のお働きである。

ポツダム宣言によって神道は禁止されている。日本だけの働きではない、  太陽は世界中を照らしているから。東から出るから軍閥が之を利用した。之が八紘一宇の精神である。(S24・1・17)

伊都能売大御神様と天照大神

“天照大神様は女神で御座いますか。伊都能売之神様との霊的関係を御教説願い上げます。

“大変神秘がある。例えていえば、天照大神の父親といふ意味になる。夫神がある筈で、天照天皇と申し上ぐる。歴史にあるが隠してしまった。(発表にはちょっと時期が早い。観音様とも縁がある)

天照大神――天皇は太陽神で、  大神宮では天照大女神である。そして天照天皇は日になる。天照大女神は月になる。故に観音様と関係がある。これ等は未だいえぬ。(S24・2・3)

天照天皇といふ名が文献にあるが、天照大御神の夫神で、非常に偉い神であった。  (S23・7)

天照大神は女神か――贋物あり

“天照大御神は大日如来と顕現し給ふとの事で御座居ますが、如何なる御仕事をなされて居るのでせうか。又天照大御神は歴史上女神とされて居りますが、本当でせうか。

“仏としての御救ひを遊ばされた。女神である。御本体は男神で、天照天皇であるが、邪神の為危ふく逃げられた。そして皇后が残って天照天皇の代理をなされた。本ものと贋ものと二人ある。(S24・11・5)

天皇御祖

“憑依霊の人を浄霊中、観音様が二人現はれ、一人は「あめのすめみおやの命」で、一人は御軸に書いてあると夢見たのですが、「あめのすめみおやの命」について御教へ下さい。

“天皇御祖とは天照大神の事である。天の一番の位である。

天照皇大神と大神との違ひ、(スメルの言霊解)

“皇大神は、皇はスメル、スベル(統)、治(おさめ)ること。一番の権力者といふ事。単に大神といえば、そんな役をなさらぬ場合の御名である。大神から、皇大神になられた。

知食す、うしはぐ、統べる。スは一番の絶対力のス、一人。メルは見る事。一人が見るとは、天皇時代なら天皇、大統領なら大統領、一番の権力者が見る、統べる事。例へば月読は月世見で、月が世を見る、月の世を見る事である。  (S23)

五男神と贋の天照大神、素盞嗚尊

“従来の古事記に依りますれば、天照大神様と素盞嗚尊とは姉弟相姦を行ひ、五男三女神を生んだのである様解釈されますが、本当の天照大神様並に五男三女神と、贋の天照大神様がある様に思はれますが、如何なるもので御座いませうか。

“之はない。五男神は五伴男尊、岩戸をお出ましになられた時お伴をする神であるから、年齢が相当違ふ。従而子ではない。五人の男の神は本当にあった。太玉命、天児屋根命、この二人の系統は続いている。藤原釜足は天児屋根命の子孫である。故に、藤原の大先祖である。藤原の種族は一番多い。近藤とか伊藤とか皆そうで、藤原はどこへも行かぬ直系である。いかに藤原の子孫が拡がっているかがわかる。

贋の天照大神、之は或は本当かもしれない。何故なら、夫神が記載されていないからである。素盞嗚尊の正妻は龍宮乙姫、稚姫君尊は二号である。素盞嗚尊はユダヤで、沢山手がけ、五号六号を造った。素盞嗚系は之が好きである。出雲朝などは若い女を沢山置いた。それで神武天皇が国土奉還を奨めたが、皆女の為に失敗した。三人目に武甕槌命が行ったが、之は勇猛だった為にうまく行った。(S23・7・4)

野州と天照大神の史実、(橋立)

“滋賀県の野州川及び琵琶湖と野州河原との関係につき、その神説を御伺い申し上げます。

“古事記にある。天照大神と素盞嗚尊の誓約をされた八洲はそこである。天之真奈井で、素盞嗚尊が剣をすすいだら三女神が生れ、五男三女が出来た。そして東は天照大神、西は素盞嗚尊が領(ウシ)はぐ約束をされたが、素盞嗚尊はそれを守らず、東の方も自分のものにしたいとした。

そこで天照大神は不承知で逃げられ、信州水上山へ宮を建て隠居された。暫くして天照大神はお隠れになり、髪の毛などを方々でお祭りした。(丹後真奈井、元伊勢、伊勢)橋立は天地間の橋の意、天の神が昇り降りされる。沖に冠島、沓島があり、龍宮海がある。  (S24・8・9)

天照大神は水上山でお隠れになり、そのお髪を戴いて方々へお祭りした。それが各神社となった。(S23・7?)

天照大神と阿弥陀

“伊勢皇大神宮と阿弥陀の関係――

“徳川末期の頃、伊勢神宮に阿弥陀如来を祭った事がある。間接には関係があるが、直接にはない。阿弥陀は月光菩薩であり天照大神は日の大神である。

光明如来・弥勒・兄花の意義、大日如来と観音

“兄の花とは何ふいふ意味でせうか。

“観音様が、位が一段高くなると光明如来になられ、光明如来を尊称して大光明如来と申し上る。光明は「火と水」である。

大日如来は天照大神が仏界へ表はれ給ふた時の御名である。太陽の表現神であるから日の神になる。大日如来の方が御位は上であるが、働きは光明如来様の方が広い。神様にすると、伊都能売神となる。――火と水のお働きであるから、火と水は光明になり、霊的のお働きであるが、それに土のお働きが加はる。之が三位一体で、弥勒の神となる。光明如来は今働いておられる。暫く経つと弥勒の働きとなる。すると力が強くなる。邪神も邪魔が出来ぬ。今では邪神が発展を妨げようと大活躍している。

兄の花は梅の花――男である。一番先に咲くから、凡ての花の兄――長男になる。木の花は桜で、女である。花の王としてある。唯花といえば桜の事である。兄の花は位からいって上である。

兄花姫と木花咲爺姫の真義

“兄の花姫尊はお観音様とうけたまわっておりますが、御讃歌には木の花咲爺姫と御座いますが、木の花姫は釈迦とうけたまわっておりますが、どちらが正しいのでしょうか。御伺い申し上げます。

“(之も間違いであらう)木花咲爺姫尊は仏教で、仏教は桜の花になる。兄花姫尊は梅の花になる。どちらも観音である。木花咲爺姫は仏界のお働きになる。釈迦時代の観音様は桜の花のお働きになり、今度の観音様のお働きは、梅の花のお働きになる。故に梅の花の時のは実るのである。(S23・10・19)

兄の花と木の花のお働き、富士の御守護

“『東海の芙蓉の峰に時待ちし木の花姫は観音に在せり』と御讃歌に御座いますが、木の花姫尊は今日まで如何なる御働きをなさったので御座いませうか。亦「木の花姫」と書きます場合と「兄の花姫」の場合と御座いますが、何か意味の相違が御座いませうか。御教へを御願ひ申し上げます。

“木の花姫は木花咲爺姫で、兄花は神のお働きである。今迄は富士山の頂上に祭られ、日本中の御守護をされていた。之は実に偉大なものである。日本の中心は富士であり、富士の中心の上でなくては全体の御守護は出来ぬ。であるから、伊勢よりズーッと大きい御守護をされた。一番動かぬのが一番大きい働きで、それは支配であり、頭脳である。共産党などは手足であり労働階級である。

木の花は桜で、仏界のあった時のお働きが木の花で、即ち夜の世界の間のお働きである。仏界はすべて桜の花を使ふ。兄の花は梅になる。仏が済んで神様のお働きの時、兄の花となる。  (S24・7・22)

兄花姫尊と乙姫の史実、(主と立、乙姫の領有)

“乙姫様と木の花姫との御関係――

“叔母、姪の関係である。木の花姫は十八、九才位の美しい神様であり、兄花姫は極く古い時代に生れられた。その御子が○○(或神様)で、その何番目かのお子さんの奥様が乙姫で、音米姫ともいふ。木の花姫は大森にいた時見た人がある。兄花姫は観音の化身であり、木花咲爺姫は仏界の表はれで、やはり観音である。富士山の中途に皇后の神社があったが、富士山には木花咲爺姫皇后の御殿があったといい、おかくれになってから頂上へお祭りした。

兄花姫は、素盞嗚尊に圧迫され、一切を素盞嗚尊に渡さなくてはならぬ事となった。素盞嗚尊は自分がそれを握って乙姫に保管せしめた。乙姫は物欲の強い方で、凡ゆる金銀財宝を集め、天下の実権を握った。極東、日本と朝鮮位は領有したかと思ふ。その間観世音は隠退せられ、乙姫の世を客観されたのである。霊界では何千年間、現界でも――両方で隠退されたのである。乙姫は龍神となり、龍宮海にいた。丹後、高砂沖の冠島、沓島の間に龍宮があり、そこに乙姫が住んでいるといふ。生きている時は朝鮮に居た。

主は神の形、之をくずすと立となる。――一をバラバラにするとリウウとなる。即ち龍。(ス)日   (マルジュウ)月  (マルオウ)地  ━主。

主日月地  立正は立は龍、正は一を止む、神を止める。龍が神を止める。すると世の中は暗黒となる。

観自在菩薩――印度は大自在天が治めた。(S24・2・22)

木花咲爺姫の御姿、(明主様富士御登山)、松竹梅

“観世音――。兄の花姫は梅。木花咲爺姫命は桜になる。十八才位である。大先生が富士からお帰りになった時一緒に帰られた。洋間でヒョイとみた書生がある。十二単衣着けられた十八、九才の女神様で、かんざしを着けた素晴しく綺麗な御方であらせられたといふ。之が木花咲爺姫である。観音様は印度へ表はれたお姿である。木花姫は日本へ表はれられる。

日本  日  松
支那  土  梅
朝鮮  月  竹

松は日本で一番古い木であり、梅や桜は支那から来たもので、竹は、朝鮮から来たものである。

ナは、ナり成る。地といふ事。地の完成。シ――枝。

地球は未完成である。地震の後には、必ず地面が低くなる。

バラモン――観音様神力に頭を下げた。観音の下で釈迦は七年、九年、十一年諸説あるも、七年修行した。印度一番偉神と選んだのが自在天。(S23・7・3)

桜と松の神、(松、柳の植え場所)

“木の花咲爺姫が桜、兄の花姫は梅と承っておりますが、松はどなたを表象しておりますので御座居ませうか。

“松とは関係ない。松竹梅の梅にはめればいえる。これは又違ふ。竹は朝鮮が本元で、梅は支那から移植したものである。

兄花姫は神、木花咲爺姫は仏で、両方共観音様である。厳密にいえば、神と仏になる。

松は日本で、木の王、木の龍神になる。松は男龍、柳は女龍であるから、左に松、右に柳を植えるといい。三十三間堂柳のお龍といふが、松も柳もコケは龍の膚である。

獣の龍は馬で、龍馬といふ。  (S23・8・4)

木の花と兄の花、梅と桜の御働き

“観音様は男性で御座いませうか。又、木の花姫に就いて、又『木の花の香りも高き富士ケ嶺の宮居は今も忘れ難なき』とございますが、木の花姫は富士に宮居を建ててお住まひになった事がありませうか。

“浅間神社は兄の花姫を祭る。

仏界――観世音菩薩――桜――木花姫

兄の花――梅 

夜の間は仏界で、観音様は木の花姫であった。仏界から神界へ行かれる時、兄の花姫とならる。今丁度その時である。(S23)

木花と兄花、(梅と桜)

“木の花姫と兄の花姫の御違ひを御伺ひ申し上げます。

“木の花姫――桜の事。兄花姫――梅の事。

歌など木の花といえば桜になる。富士山に祭ってある御神体は、桜を持っている。

梅と桜(開と散の例へ)、松は万木の元

“桜は花の王で、印度に関係がある。四月八日の花の日――などといふ。兄の花は梅で、梅は万花に魁けて咲くから、兄になる。神様の方からいふと、桜といふものはパッと咲いて忽ち散る。パッと散る意味である。仏教の華を咲かす、之が妙法蓮華経になる。之はパッと咲く意味である。

梅は、長い間苦労して花を咲かす意味である。「三千世界一度に開く梅の花、梅で開いて松で治める」といふ事がある。梅はそういふ意味に例えてあり、五大洲の形だともいふが、そういふ深い意味はないと思ふ。梅は支那から来たもので、松は古い時代からある。木の公を一字にして松になる。万木の元といふ事である。

大光明如来と日月地大御神、(光明の意義)、日月地のお働き開始と意義

“御書体の御神体大光明如来様に向って御礼拝の場合も、日月地大御神守り給えと拝むべきで御座居ませうか。

“祝詞の通りである。  大光明如来も日月地大御神も同じである。光は火、明は水で、大光明如来では土の働きがない。日月地(ミロク)は土の働きが入る。光明は逆にいって「日月の光」でもある。土が加はらなくてはならぬ。人間が拝む、そして人間の身体へ光明が入ると、三位一体の力が出る。

今は光明如来のお働きである。二十五年から先になると、日月地(ミロク)のお働きになり、如意宝珠の働きになり、絶対力を発揮出来る。

日月地大御神と観音の御働きと偉大

“観音様と日月地大御神様の関係――

“観音様は菩薩であるから、菩薩の時はそれだけのお働きしか出来ない。範囲が極ってる。五六七大御神となると、神であって、絶対力を発揮される。観音様は、如来から神にまで段々上ってゆかれるといふが、そこに偉大さがある。上ってゆくといふのは、元の御位に戻って行かれる訳である。そこが大慈悲の思召によって、時節に応じて化身されたのである。

観音と天之御中主と太陽、(現在観音の御役)

“観音様と天之御中主神とは御同方で在らせられますか。又私共の言ふ太陽と観音様と如何なる関係で御座居ませうか。お伺ひ申し上げます。

“菩薩の名は低い。大慈悲である。出世されると光明如来様になられる。天之御中主大神は全宇宙の支配神の御名である。世界的の神で、エホバ、ゴッド、ヂュウス等国々によって違ふだけである。そして、その時代と国々に必要ないろんな聖者を出すのである。

観音様は天之御中主大神ではない。現在としては夜から昼に転換する時の大掃除をされる。そして滅びる者を少なくする役をされている。そして今度は全霊を揮はれる事になった。今迄は夜の世界であるから出来なかった。

天照大神は、太陽の表現神で、位は一番上である。日月地が順序である。そして観音の御働きの三分の一が天照大神であるし、全部の力を合したのが観音である。又、月と土の力が夜であって、日が加わって、日月地となり昼となる。信仰が進んで来ると判る。(S24・6・8)

観音様と光明如来・五六七大御神のお働き、(御屏風と宗教)

“代々仏教(臨済宗)でしたが、祖父と父が神道(円山教)に御祀りしてあり、現戸主(信者)は最近迄神道でした。入信後、仏に戻り仏壇に御屏風観音様を御祀りさせて戴きました。仏壇の中へは祖父と父の御霊はお祭りしてはいけませんでせうか。別に祠を作りました場合は神道の形式でお祭りしなくては御霊は宿らぬものでしょうか。御伺ひ申し上げます。

“観音様は別である。屏風観音様をお祭りすれば、神道でも仏法の霊でも救はれる。光明如来様は神の分子が余計になるし、応身弥勒も神の方がよけいになり、日月地大神となると本当の神となる。であるから、御屏風観音様祭れば、仏は喜ぶ。(S24・6・2)

五六七大御神と観音様

“五六七大神と観音様は同じものである。光明如来、応身弥勒となり、最後に五六七大神となられる。  (S23・6・27)

観音と弥勒菩薩、弥勒神

“観世音菩薩様と弥勒菩薩様と弥勒大神様との関係及び変革のわけをお尋ね申し上げます。

“弥勒菩薩は釈迦の弟子で、弟子は十人あり、その中の一人であるから大した事はない。木蓮、阿難、龍樹等の中の一人である。

観音様は光明如来となられ、応身弥勒と化される。そして次に本当のミロクとなられる。応身弥勒までが仏で、大神になられて、本当の弥勒になられる。弥勒は仏の弟子で、ミロク大神となると――五六七大神、日月地大神と書くのが本当である。今はまだ神様は早い。しおり

弥勒神と仏の弥勒

“神のミロクと仏のミロクの意味及び弥勒菩薩の意味――

“弥勒菩薩は釈迦の弟子である。仏滅後ミロクの世を造るミロクは、五六七神が本当である。五六七、日月地、三六九、三位一体の御働きをなされる。(S23・11・21)

弥勒菩薩と五六七

“釈尊時代に実在された弥勒菩薩と弥勒出現成就に云う弥勒様とは何か因縁が御座いましょうか。御教えを御願い申し上げます。

“根本的に違ふ。(釈迦時代のは十弟子の一人)弥よ勒むるとあててあるが、今度こっちのミロクは五六七である。五六七の時でも弥勒を使ふ事もあるが、五六七が本当で、偶然の一致といふべきものである。(S24・6・21)

日月地大御神と弥勒菩薩

“日月地大神と経文の弥勒菩薩の関係は如何でせうか。右御教示御願ひ申します。

“ミロク菩薩は弥勒菩薩とかくので、之は釈迦の弟子であって、日月地大神とは異ふ。此ミロクは全然関係はない事もないが、幾分の関係はある。釈迦の弟子に龍樹、阿難等あったが、それ等と同じ人である。(S23)

大光明如来御名の始めと現在

“大光明如来の御名号は  今迄の何経からよったもので御座いませうか。

“悲華経に光明○○とある。大先生がおつけになった。光で治す。観音様は今、光の働きをされてる。霊界では、霊の位が上られ、それで如来とつけた。光は、光明である。(S24・7・29)

大光明如来と光明如来のお働きの相違

“大光明如来様と光明如来様とは御力が如何ちがひますか。

“字の意味の通りのお働きとなる。大がつくと大きいお働きになる。一般の人はいいが、教導者になると大きい力が要るから、教導師以上は之を渡す事になっている。大光明如来様を戴きたいといふ事は信仰が浅くない。(S24・7・27)

光明如来様の御本体と現在と将来の御扱い

“観音様、光明如来様は仏様でせうか、神様でせうか。仏様の様に思いますが、拍手致しますわけをお尋ね申します。

“観音様は菩薩。光明如来様の如来も仏名で、梵語でボージーサットヴァ等といふ。光明如来様は伊都能売神の化身である。神が本体で、仏は化仏といって化けている。夜の世界は仏で、昼の世界は神である。今は夜と昼との境目で、一日々々昼が濃くなる。であるから、今は神の扱いでも仏の扱いでも、どっちでもよい。

朝は神としての拝み方、夕は仏としての拝み方で、両方でよい。又両方が本当である。光明如来様は衣冠束帯で拝む。結局、時の進むに従い、全然神様の御扱いをする事となる。といって、今迄の神道の神の扱いと違ふ。今迄の神は、原始時代と、龍神の扱い(生米、水は龍神の御馳走)が多かった。

今の神界・仏界と本教の御神霊

“床の間なら床の間へ別に光明如来様をお祭りする方がよい。全部神道の村なら返してもらう。今迄神界は仏界の下だった。今迄日本は仏様を尊んだ。夜の世界中は神界は隠れていた。神様が下積みになった。昼になると神様は光り輝く。仏の方は神界へ帰る。

善言讃詞は神様に奏げていい。応身弥勒は神である。今は夜昼転換の中間期で、観音は神仏両方になるが、今迄は仏の方が多かった。今はどっちへも決められぬ。その為に祝詞と観音経と両方やっている。

今に善言讃詞は昼になれば替える訳である。神界、天照大神、国常立尊。今迄神界は留守にされた。皆留守番の神だった。偉い神は仏になった。(S23・7・21)

御神名と神界・仏界

“御参りの時「日月地大御神様」と申し上げ、又「大光明如来様」とも申し上げますが、この様に御参りさせて頂きます理由は、現在霊界は、神界が出来つつあり、一方仏界が未だ残って居ります過渡期で御座います為、神様は神界に於て日月地大御神様の御働きをされ、同時に、仏界に於て光明如来様として御働き遊ばしておられる為と解しましてよろしう御座いませうか。御伺ひ申し上げます。

“この通りである。(S24・7・22)

本教の観音様

“私の家では昔から観音様をお祭りいたしてあります。観音堂の小さなものがありますが、現在では余りお祭りもして居りません。最近、三、四年来、色々不運な事がありまして、一昨年父が五十三歳で亡くなりました。又作物も一昨年及び昨年共非常な不作であります。一ケ月前観音様の御利益の有難さを聞きまして、入信させて頂きましたが、今後右の観音堂及び掛軸等は如何にいたしたらよいで御座いませうか。

“光明如来様をお祭りして  月に一回づつ観音堂のお祀りもする。今迄の観音様は仮の観音様で、教団は仮でない。代理ではない、本当の観音様である。信仰を懸命にすれば、運がよくなる。(S24・2・15)

従来と今度の観音様の御力

“埼玉県入間郡清瀬村に武蔵野三十三ケ所観音霊場第六番曹洞宗安松山金龍禅寺とございますが、私共の観音様と如何なる関係がございませうか。

“同じである。今迄の観音は観音力が薄い霊だけで、火と水の力だけである。今度は土(体)を通す。之で火水土、三位一体――即ち五六七の働きになる。(S23・12・9)

従来と今度の観音様(火と水に土加わる)、お働きの相違

“観音教団の御観音様と浅草や其他の御観音様とは観音様がちがひますので御座いませうか。

“浅草と同じ観音様である。  先の観音様は、隠れて御守護下され、今度は表はれて御守護賜はるのであるから非常に強い。今迄は人間の身体を通さなかったが、今度は人間の身体を通す。すると土の力が加はる。今迄は火と水であったが、今度は土が加はる。観音様は同じだが、お働きが違ふのである。(S24・10・28)

千手観音の意義

“乙姫が世界の宝を掌握しているのをお返しする――具体的に表はすと、今にびっくりするような事が出る。千手観音様が持っておられるのは  乙姫のお返しする宝である。「三千世界立直さむと畏くも千手観音と現れましにけり」之は御讃歌の眼目である。



主+━結び、之をホドクと立。主神をホドク、壊す――そして統(ス)べる――(日)のが音である。

今の神社の祭神は、神様に叛いた方の神である。それで神の世となっても衰微している。やはり特権階級のようなものである。ただ、伊勢神宮は素盞嗚尊が代理として鎮まっていた。それを今度、天照大神様をお鎮めになったのである。  (S23・8・12)

(観音、勢至、達磨の御関係)、十一面と千手観音の御働き

“私の家では先祖より十一面千手観世音を守護神として御祭り致し居ります。此の度、大光明如来様御祭り致しますのに、家が狭いので同じ御床に御掛け致してよろしいでせうか。

“大光明如来様も千手観音様も同じであるから、一つ所へお祭りする要はない。今迄の千手観音様は外へお掛けしてよい。巻いて蔵っておいてもよい。十一面千手観音といふが、千手観音のお頭りは十一面観音になっているから、千手だけでいい。十一面観音は手は多くて六本である。一番上の仏は阿弥陀如来、之は観音の母親の働きで、親となる。前は慈悲、右三面が憤怒、左半面が勇気、後方が笑い。之がお働きの種類である。千手千眼といい、千の手と眼で救ふといはるる。前は托鉢を持っておられる。之は寄附金やお礼が入る。両方に十九本づつ手が出ている。之で凡ゆるものを救い、凡ゆるものを握る訳である。

乙姫の握っていた宝を国常立尊様にお返しする。国常立尊の表はれが観音である。物でなく霊をお握りになる。そして善い働きにする。今迄、戦などに使ったものを、平和的に使ふ。観音の慈悲により、人を幸福にする事に使ふ訳である。(S23・12・26)

十一面の前三面は慈悲、横三面は怒り、一方三面は勇気、後一面は笑いで、一番上は仏で、之は阿弥陀如来にもなる。十一面の働きが過ぎると千手観音になる。千手は凡ゆる物を握る、使用する。人間の心、神の心――。観音、勢至(女)は夫婦になる。観音、達磨も夫婦になる。此時は観音が女になる。観音は慈悲で救い、達磨は学問で救ふ。月の菩薩である。

千手・不空羂索・聖観音の御働き

“千手観世音菩薩と不空羂索観世音菩薩とはどう違ふので御座居ませうか。

“御名によってお働きが違ふ。千手観音は凡ゆる権力や物質の――邪神に奪られていたのを取返すお働きである。今迄、邪神の手にあったから災いや苦しみの原因となった。観音様の御手になると、幸福になり、救ひとなる。(御手は両方が十九本づつで真中が托鉢になっている)

不空羂索観音は、不空は空に非ず、即ち現実の働きといふ事。蜘蛛の巣や網の目のように  悪魔を制えつけるといふ意だと思ふ。邪神が働けぬように、大小の網で制える訳である。現在は――五六七世まで千手のお働きである。故に御讃歌の冒頭に、千手観音の事をお書きになった。

聖観音は教えを説かれる。一つ所にじっとして、落ちついて教えをお説きになる。千手観音は落着いてはおられるが、手を方々へ出される。(S23)

諸観音のお働き

“馬頭観音、准胝観音、不空羂索観音、如意輪観音、十一面観音及び魚籃観音、楊柳観音に付き、各々御働きを御教え御願い申し上げます。

“馬頭観音は、悪魔と戦ふ時、悪魔以上の力を出される。大変なお姿となる。火焔を吐いて、毛は逆立つ。

准胝観音は、位を低くしてのお働きで、准は準ずる、従ふ、素直といふ事。胝は低い。

不空羂索、霊線のお働きである。不空は空にあらず、実際的。羂索は、絹のような糸で、霊線の働きである。

十一面観音、十一のお頭、前面が慈悲、横三面が勇猛、左三面が怒り、後が笑いである。

魚籃観音は、漁師に魚を与える。信仰深い漁師に魚を与えられる。

楊柳観音は、柳は龍で、龍を救はれる。

白衣観音は、落ぶれたような形である。

百観音などがある。(S24・4・21)

伊豆と六十四の数、(観音の身魂と円転滑脱)

“伊豆の国と伊豆能売之神と関係があるのでせうか、お伺ひ申し上げます。

“関係がある。伊豆は(イズ)、日の働きである。イズノメは五三であり、火水であって、水が下になっている。今迄の世の中は水火で、水が上で体主霊従である。伊豆の国とは「出づる」とか「初めに出る」事である。

日本は龍神の形をしている。東京湾は女の陰部になり、伊豆は男の陰部で、両方備えている訳である。日本は六十四州といふが、六十四の数は  八八になる。八角の角を八つ除ると丸い玉になる。即ち、「観音の御魂」といふ事になる。それであるから観音様のお働きを円転滑脱といい、円の字が着く。角があってはいけない。神は丸い。(S24・6・27)

十六数の意味

“十六といふ数字の意味――

“十六は八と八、八つが八つになる。八紘に輝くといふ。十に十をもう一つ重ねる。(フトジアスタリスク)――菊の紋はそこから出ている。十六の菊は花の菊ではない。本当は八紘で、霊体で八八━十六。ユダヤから出たもので、大変いい紋である。中心から八方へ拡がる形である。八  (フジサン)富士山の形。ハチスは本当は八から出てる。芙蓉の花はハチスと似ている。(年代不詳)

八八といって、八つが八つになる。八方に輝く。十六菊の霊体、猶太から出たもの。富士はハチスの山、八州の花は芙蓉に似ているから、富士を芙蓉峯といふ。(S23・12・14)

観音様と太陽の関係と光の玉

“一、お観音様と太陽との御関係に就きまして詳しく御教示を御願ひ申し上げます。二、大先生様御腹中の光の玉と、右との御関係――

“一、観音様は日、水、土三つのお働きであるから、太陽との関係は三分の一ある訳で、位は日が最上である。

二、光の玉は信者で見る人があり、光の玉を見てから病気が治った人もある。之は私が見た訳ではない。(S24・11・9)

観音様のお働きと産土神

“観音様と産土神の関係に就て御説明をお願ひ致します。

“観音様は最高位の仏で、救いの為に菩薩となられたので、救いの為には産土神と同格位になられている。産土神は一地域のお働きであるが、観音様は総体の主権者である。段々と元の本当の位になられるので、そこが大いに違ふ。即ち光明如来から応身弥勒となられるのである。

観音の意義

“観音に就て――

“観音とは梵語でアバロキテシュバラ(Avalokitesvara)といふ。それを支那の鳩摩羅什といふ僧が観世音と訳した。之は観世音といふ字で解釈する方がよく判る。観は客観とか観察するといふ意。乙姫の支配する世を観るといふのが本当の意味で、神代に於て伊都能売の神は素盞嗚尊に迫害され、生命も危ふくなったので、印度へ行かれた。其後は素盞嗚尊が天下を統治した。

素盞嗚尊の妻神は天照大神の弟神の妻神といふので、弟姫といった。それを詰めて乙姫とか音米姫ともいった。乙姫様は物質欲の強い神様で、世界中の凡ゆる物質を掌握した。天下の支配者を物質的に援助して、全権を掌握した。之を「乙姫が支配する世」といふのである。大自在天が天下を支配したのも、乙姫の援助による。観世音の別名観自在の名がそれである。乙姫は執着によって海に投じ、龍神となって龍宮城を作った。それで龍宮の乙姫といふ。龍宮城は朝鮮にあり、女の家来ばかりであった。素盞嗚尊は暴政の為追放され、日本へ来て、稚姫君といふ妻を持った事がある。そのお留守中、乙姫は空閨に堪え兼ねて、日本の漁師で朝鮮へ漂着した浦島太郎が美男だったので、若い燕として同棲した事もある。此時代の男女関係は割合い乱れていたようである。

乙姫の持っていた物を受取るのが千手観音であるが、物といっても全部霊的である。といふのは、今迄世を乱す悪の為に使った宝を今度は世を救い、栄えしめる善い事に使はれる訳である。此乙姫が愈よ改心して、観音様に宝をお返しする時が来たのである。

千手観音と乙姫の御関係

“千手観音様と乙姫との関係及び過去、現在、将来に対する霊的な現象に就て――

“千手観音と乙姫とは伯父と姪ぐらいの関係になる。乙姫は素盞嗚尊の奥様だから義理の姪になるわけ。だから相当関係はあるが、血族関係はない。過去、現在、未来の関係は乙姫が長い間世界の富を支配した。つまり、その場合乙姫は千手観音の役をしたが、ミロクの世が近づき、今迄自分が専有した富を観音様にお返しする。今迄は観音様は押込められていて隠退されていた。そして乙姫の世を観ていた。それが観音の字義である。音が門構への中に入ると闇になる。乙は蛇の形である。

千手、十一面、如意輪、聖観音の解説

“千手観音の頭上の十一面観音について――

“聖観音の御本体は花を持っている。聖観音が六観音に分れ、六観音が三十三相になっている。魚籃、白衣、龍上等、それである。

十一面観音から千手観音になる。十一面観音は、前三面が慈悲、左三面が勇気、右側三面が憤怒、後三面が笑いを表はし、一番上に仏像があるが、之は阿弥陀如来である。阿弥陀は観音の母になる。それで上にしたのである。十一面観音に手が千本出る。之が千手観音で、一本が二十五本になり、四十本になる。真中に托鉢を持ってる手があるが、要するに種々の救いと実権を握るといふ意である。

如意輪観音は、如意宝珠を使ふ観音である。手が三本位出ている。(S23)

観音と阿弥陀

“雑誌「地上天国」第七号“妙智の光”御解答中に、『阿弥陀は月光菩薩の場合観音は日になる……又釈尊は観音を生んだので母にもなる……』と書いてありますが、如何なる理由でありませうか、御伺ひ申し上げます。

“阿弥陀は月の系統。観音は日の系統で大日如来もそうである。釈迦は土の系統である。(S24・11・7)

西  王  母

“西王母――

“西王母はアミダ、観音の母となってる。それで尊んである。釈迦も観音の親。親が子を生み、子が親を生む。(S23)

観音と虚空蔵と不動

“虚空蔵菩薩、不動明王は観世音菩薩と関係が御座居ませうか。

“虚空蔵菩薩は阿弥陀系、月系で、観音の姪位になる。不動は観音様の家来である。観音様は日の系統で、男。阿弥陀は女になる。(S23・10・23)

観音と馬、鯉、松、(昭和五年五月五日)

“私達の地方(和歌山県)では昔から馬の夢を見たら観音様に詣れと言い伝へられて居ります。何か観音様と馬とに付いて御縁があるのですか。御教へ願ひます。

“獣の中で馬は観音になる。魚では鯉。木では松で、馬と観音は非常に縁がある。大先生はマル午で、午の年、午の日である。馬は一番陽で、日になる。正午といふ。昭和五年五月五日正午写真をお撮りになった。大西愛次郎は天理本道を唱へ、四年の獄に投ぜられた。 (S24・7・7)

鯉上観音(観音と鯉)

“森寛斉氏の御書体で、鯉の上に観音様が白衣の御姿で御座りになって居られますが、何の訳でありませうか。

“鯉上観音は、観音の働きの中にある。観音様としてはいい。魚の中、鯉は龍になる。獣の龍は馬であり、植物の龍は松や柳である。観音様が水の働きの場合、鯉に乗るといふ訳であらう。鯉は出世魚である。観音様が出世させられる。観音様は出世されると光明如来様になられ、五六七大御神になられる。故に鯉は非常に関係がある。

白毫(額の重要)

“御観音様の御絵姿の額にある丸は如何なる意味が御座いませうか。又天神様の額には二つの丸がありますが、如何なるもので御座居ませうか、御伺ひ申し上げます。

“白毫といって、仏には必ずある。神の霊が人間に特殊に通じる場合、額から交通する。人間の霊は臍とか、額、爪先等から脱ける。神の場合は額からで、お知らせなど通ずるに一番貴重な所である。神憑りの時は額がビリビリし、電気のように感じた事があった。(S24・6・2)

観音様の円指の意義

“観音様の御姿で、拇指と人差指とで円く結ばれてあるのが拝されますが、如何なる意味が御座いましょうか。御伺い申し上げます。

“魂といふ事を表徴する。丸い事は(マルタマシイ)、本当の玉は右手に、左手を輪にした。私は(これは)魂の霊体のつもりだった。中指は不浄で、隠すようになる……などといふ説がある。広く考えると、どんなにも考えられる。宇宙も太陽も凡て丸い。魂は丸くなって移動する。凡ゆるものは丸でいい。(S24・5・11)

観音様の御姿及び千手、如意輪の意義

“観音様は自由無碍であるから一定したお姿はなくてもいいのである。大体昔からのお姿は定っているのであるが、変えてもよいのである。

如意輪観音は、輪とは玉をいい、魂をいふ。

千手観音は、凡ゆる種類のものを持っておられる。御手は四十本あり、その一本は二十五本に当るといふ。御手の中、武器を持っている御手もあるが、これは武器を取上る事を意味し、梵字を持っているのは仏教を表はす。仏教は日本だけに残っているが、殆んど滅びている。(S23)

観音様の御本体、御姿と釈迦・阿弥陀、御渡印当時の観音様、日本の補陀羅迦と日光

“観音様の御本体は国王様だった。それ故に王冠や腕飾りなどおつけになっている。最高の御位の首飾りを表現してある。之は古代の装飾品である。書く人の意志のまま、どんなにでもかいてよい。

釈迦や阿弥陀は王冠を冠らぬが、それは王の位でなかったからである。釈迦など禿頭であり、アミダは縮毛(チヂレゲ)で――。(ミロク菩薩)――。

観音様は日本の天皇様であった。生命をとられようとした為、逃げ廻られた。その時のお忍びの御姿である。それ故、頭巾をお冠りになっている。印度へお渡りになり、宗教宣示を遊ばされた。観自在、南海菩薩と申され、南海のほとりにお住まいになった。それ故、崖の上のお姿があるのである。

日本にも補陀落に似た所がある。紀州にもあるが、私は日光だと思ふ。日光も大体二荒山が中心になっている。その下に木立観音がある。相当大きいもので、千手観音様が、立木のまま彫ってある。

戦場ケ原へは何れ素晴しいものが建つ。その模型が東照宮である。地形が実にそのようになっているので、その奥に湯本温泉があり、湯滝とか、白根山、太郎山などあり、条件は揃っている。

観音様の衣裳詳解(本地垂迹の真義)

“観音様の衣裳は、今迄の日本歴史にはそれらしいものが無く、支那史上、印度等に類似のものがあるといはれておりますが、衣裳から見た観音様に付きまして御伺ひ申し上げます。

“観音様はインドへ表はれ給ふたので、印度の服装である。御名を漢字で表したのは、鳩摩羅什といふ人である。白い布で頭巾に被って体を巻いたものである。王冠、胸飾り、腕輪等は、インドにもあるが、日本的の事も大分含まれている。元は日本の或神様であるから、印度で作らしたものだと思ふ。元は日本人であるから、日本的のものを表はしたものと思はれる。阿弥陀や釈迦とは全然人種が違ふ。本地垂迹といふが、本地とは日本の国、迹は巡回する。巡回して教えを垂れるといふ訳である。

観音様の御手印

“観音様は色々な御手印を結んで居られますが、其れに就て御説明お願ひ致します。

“之はどうでもよい。私は昔手を組んで霊搏した事があった。先に伏見の狐をやった事がある

夢殿の観音の御手と教師の手

“此度千葉県吉尾村で入信させて頂いた者で御座います。私は彫刻美術を勉強している者で御座いますが、法隆寺の夢殿観音様の美しい御手――この様な御手は実際にはない。もっと忠実に、写実的な手を表現すべきだと教へられ、自分でも研究して参りましたが、教修三日目、教修をされた先生の、話されつつ動かされる時の手があの夢殿の観音の御手そのままの感じが出てをり、あの様な手は現実に存在する事を知りましてびっくり致しました。尚先生の御顔を後で見ますと平凡なお顔ですが、教修中は色白く何とも言へないお顔になられましたので御座いますが、(これは私一人では御座いません)これは特に教修中はお観音様の御霊が御働きになって居られる為と解してもよろしゅう御座いませうか。御教へを御願ひ申し上げます。

“観音様が懸られるので、それが感じられるのである。写実的といふのは頭が古い。低い、時代後れである。出来るだけ、現実と離れる方が良いとされている。(前期)夢殿の観音とて、実際と離れているといふが、そう離れてはいない。今のは醜術で、悪魔の芸術である。昔は神の芸術であった。木彫は平櫛田中。朝蔵は巧い。木彫は線を簡略にして面白い。(S24・9・22)

右肌脱ぎの観音様

“此のお床に居られる観音様はどなたも右のお乳をお出しですが、何か御いわれが有りますでしょうか。お伺ひ致します。

“人間は右手を使ふから、右肌ぬぎになる。大した意味はない。(S24)

日と月と地の働き

“人間の日の働き、月の働き、地の働きと申しますのは、例えばどんな風の働きのことなので御座いましょうか。

“日は霊で、男性的働き(霊の働き)。

月は体の働きで、柔かい。女性的働きである。

地は物質的働きである。

人間も三系統あり。(浄霊しても、月の系統の人は此方へ写る。日の系統の人は何ともない。場合によっていろいろの働きをするから、決められぬ)(S24・2・14)

火水土の力

“『観音の力といふは火水土三位一体の力にぞある』と御歌を戴いて居りますが、此の場合の火水土の御力は、日月地大神様の御力とどの様に御違ひになるので御座居いませうか。

“火の本は太陽で、五。水の本は月で、六。土の本は大地で、七。

五六七の意義

“五六七をみろくと読みますが、何故でせうか。又、日月土もみろくと読みます。其のことについて御説明下さい。

“釈迦が仏滅後弥勒菩薩が表はれ、弥勒世界が生れる、それは五六億七千万年後からと出ている。そんな長い年間をいふのは無駄な予言である。之は五六七の数字を表はしたもので、之は火水土になる。ゴ光が射すなどといふが、之は太陽光線で、火は五つとなる。(マルツキヒ)之は根拠がある。大━火、(シロヌキダイ)―人は霊的動物。(ホソジアスタリスク)―四足、獣、(ヘンケイアスタリスク)、体といふ事。霊体に分ければ体を土といっていい。土は七、それで火水土はミロクといってよい。

夜の世界は月(六)土(七)日(五)。昼になると日月土の順序が正しくなる。今迄順序が間違っていた。正しくなると、水が火より下、土は水より下になる。(特権階級の没落などそれである)

之は又、三六九でもよい。順序正しくなる。凡ゆるものは三つ六つ九つに分れる。  (S23・12・15)

五六七、六六六、三六九

“五六七(ミロク)(火、水、土)、六六六(水、水、水)、三六九(水、水、水)の意味を御教えを御願い申し上げます。

“五六七は火水土であるが、今迄火が下に隠れていた。東洋は土が上で水が下で、釈迦は土の弥勒である。西洋は水が上で、土が下。

六六六は夜の世界である。水の世界であり、物質万能の世界である。今迄は六六六の世界であったが、今度は天の一が地に降って、天が五に、地が七になると言ってある。その一が如意の珠で、如意宝珠、麻邇の玉―即ち主の身魂にもなる。九分九厘と一厘といふのもそれで、地へ降りると五六七の順序が正しくなる。(お守のヽ) 

三六九といふのは、すべてが三六九になる。これが正しい順序となるのである。例えば、学校教育も大学三年、中学三年、小学三年で、九年でいい事になる。(階級が凡て三段階になる)第一階級、第二階級、第三階級となり、それが又三となり、九階級になる。それに主宰者が一人で、九に一を足して十となる。十は完成の形である。そして凡ゆるものは完全に運営される。

会社重役から経営者―労働者といふような順序となり、ピッタリと決まる。秩序を正しくするには、階級がなくてはならぬ。今迄は階級が邪魔した。上の階級が(階級を利用して)自分の私利私欲を遂げた。そこで民主主義となった。処が今度は大衆がいい代りに秩序が紊れた。(アメリカなどストライキばかりしている。民主的に偏ると斯うなる)故に階級があって民主的でなくてはならない。その調和が巧くいったのが理想世界である。即ち階級的民主制度である。如何に組織がよくても、人間の心が間違ってはいけない。個人々々本当の精神になるべきである。制度と人間の心と一致すべきである。今はいろいろ間違っていて余りにも苦しみや禍が多過ぎる。(S23・11・21)

五六七と弥勒

“五六七、弥勒の語原に付き御教えを御願い申し上げます。

“五六七は火水土で、順序正しい事。或日釈迦が憂鬱な顔をしていた。聞くと――。其当時、本当の事をいふと、具合が悪かったのである。(S24・4・21)

一寸八分の意味と御霊力の根源、観音・阿弥陀御尊像の大きさと奉安の仕方

“観音様の御本体は一寸八分の黄金で出来ていると云われますが、その観音様を介して霊光を発揮されるのでせうか。

“別々となる。観音様を表徴したのが一寸八分の黄金である。一八は十八、ミロク、三六九である。ミロクを表はすのが十八。極く小さく形をとったのが十八である。日本は黄金の国といい、観音様は日本で、外国はカラといったが、阿弥陀などは唐金で、大きくなくてはいけない。観音様は小さいほどいい。又雨曝しの所へ置いてはいけない。お厨子の中でなくてはいけない。

霊光は――観音様の上に神様があり、それは支那でいえば至聖先天老祖神君であり、西洋ではエホバ、日本の国常立尊様である。その神様から観音様を介して発せられる。扶(フーチ)で、観世音菩薩依老祖命と出る。

国常立尊はよくお懸りになる。  判らぬ時など教えていただく。観音様は仏滅までのお働きである。(S24・5・26)

一寸八分と十八

“聖観音の御本体が一寸八分とされる所以は如何なる理由によるものでしょうか。御伺い申し上げます。

“十八はミロクの御本体である。五六七は十八になる。六六六も十八。観音様の御命日は十八日で、御堂は十八間四面である。三六九は凡ゆるものが斯のように別れる。(S24・6・7)

十に結んで開くのは十八、五六七であり、三六九である。富士山をハチスの山といふ。(フジサン) (ス)  八の字とスといふ事。

日本を善い国にするのはアメリカで、日本は日で、アメリカは星になる。言霊、文字は非常なものである。  (S23・6)

松竹梅の意義

“梅松竹が五六七になる訳を御説明願ひます。

“梅は一番先に開く。火であり、花びらは五弁に開く。

松はムになり、六になる。

竹は、タは土になる。ケは神秘で、七になる。皇室を竹の園生といふ。

それで、火水土といふ事になる。何れ説明するが、未だ時期が早い。(S24・1・25)

松竹梅と砂

“御正月に松竹梅を立て、又砂を撒くのは何故でせうか。

“松竹梅はミロク、目出度い事を祝ふ。砂を撒くのは浄める訳である。(S24・1・6)

観音力の淵源

“手振りには非常に強い作用がある事が解りましたが、それが観音様のお力であるといふ事の科学的な御証明を御伺ひ申し上げます。

“誰しも知りたく、又知らねばならぬ事である。最高の神が全人類を救ふ為の活動を始めておられる。神様は神格上、御位の為に直接人間を救えぬので、観音様を通じられる。観音様は菩薩であるから、どこへも救はれる。天皇から総理大臣、大臣から町村長、一般といふ順序の如きものである。観音力は人間の身体を通さねば力が出ぬ。光は火と水の精で、これでは本当の力は出ぬ。土を通す。土(人間の体)を入れると三位一体の力が出る。そこで最高の神様から出る力は観音様を通り大先生に、それから一般へ行く。(S23・11・8)

神力、金剛力、観音力

“神力(金剛力)観音力に就て――

“此力の根元は同じ事であるが、その時の表はし方によって違ふ。例えば観音力は仏界のある間の力で、月の力であり、仏の表はし方であるから弱い。神力は五六七の力とは違ふ。最も強い力で、今迄発揮された事がなく、陰から間接的に発揮されていた。観音力に対し神力は日の力である。日の光は月の六十倍といふから、その位力の違いがある。(金剛力は、強い力といふ事)

妙智力、金剛力、絶対力、自然力

“妙智力、金剛力、絶対力、大自然力のお力について御説明をお願い申し上げます。

“妙智力は観音力、観音の御力。

金剛力は国常立尊の神の力。(強い力)

絶対力は主神の力、至聖先天。

大自然力は自然界全部へ遍満された力である。(S24・5・23)

金剛力と絶対力

“金剛力とは、どういふ事でありますか。

“金は最高を表はし剛はつよい事で、金剛力とは、高級の神が具へてる極めて強い力、即ち最も強い力、即ち絶対力である。(S23)

観音力と神力

“観音力と神力に就て――

“観音力は仏の最高の力、神力はそれよりもっと上である。

如意の珠とは(未顕の魂)

“如意の珠と麻邇の珠はどういふもので御座いませうか。御伺ひ申し上げます。

“同じもので、絶対力ある魂といふ事。今迄世の中に出なかった。今度大先生がなされる訳である。

麻邇の力と玉――如意

“麻邇の力、麻邇の玉に就いて御説明お願ひ致します。

“麻邇は神道、仏教で如意宝珠の事。  完全無欠の魂――丸い玉。どんな偉人でも丸い玉はない。真ン丸でなく、角がある。力は完全の魂から発する絶対力である。如意の珠――何でも思うようになる。神道で五百津美須麻琉の玉といふ。

如意宝珠の体

“霊体一致の法則よりすれば、「霊」としての観音様の如意の宝珠の「体」があることと存じますが、いかがでしょうか。右、お伺い申し上げます。

“体はない。如意の玉は光の玉で、自由自在の玉である。(S24・5・23)

麻邇と如意の玉(光の玉)、争奪戦とお返上

“麻邇の玉と如意の宝珠の意味――

“同じものである。神道では麻邇の珠、仏教では如意宝珠といふ。一名五百津美須麻琉の玉ともいふ。大先生のお腹にある。その光が噴出したのが霊写真に出た。字を書いたものを懐へ入れるとおかげがある。御手から文字へ光が入って行く。すると霊線によって大先生と繋っている。その光によって奇蹟がある。此玉は神様が皆欲しがり、争奪戦をした。そして最後に龍宮の乙姫が奪った。龍が玉を持っているのはそれである。今度乙姫がそれをお返しした。即ち今から約二十年前、昭和五年五月五日(午の年午の月午の日午の時)写真をお撮りになった。 (S23)

麻邇の玉(三位一体の力)

“麻邇の玉は、完全無欠の魂、観音様の霊になる。玉は魂で、立派にいふ為宝珠といふ。五六七の三位一体の力を発揮出来る玉で、世の中を本当に救ふには、麻邇の身魂の力でなくては救えない。  (S23・6・23)

如意宝珠、美須麻琉の言霊義と如意の働き

“麻邇の玉、如意宝珠に就て――

“一番力のある玉である。絶対力ある魂、麻邇(マニ)、完全無欠、神様の魂といふ訳である。禅宗坊主の如意は、それを形どったものである。大先生のおやりになってる事は如意の働きである。観音様は如意の玉を持っておられたのであるが、本当に発揮する事は出来なかった。それは、夜の世界で、水素多く、玉が包まれていたから充分に力が出なかった。一名五百津美須麻琉珠ともいふが、美須麻琉とは、三つの澄んだ玉といふ事である。故に五三、いづのめの魂といふ事である。

麻邇の力(霊体一致の力)

“『大神のマニの力に依らざれば曲津神には勝たん術なし』と仰せられて御座いますが、麻邇の力と申し上げるは、どう云ふ御力で御座いませうか。

“マニの玉とは、完全無欠の魂といふ事。之は神道の言葉で、仏語では如意の宝珠といふ。又五百津美須麻琉の玉ともいふ。五百津は五で、美須麻琉は三で、いづのめの玉(魂)となる。如意は、意のままにする力で、如意輪などといふのは、如意の力を揮ふお働きをなさる観音といふ事になる。これは日月地三位一体の力であり、霊体一致の力、自由になる力でもある。

麻邇の力(絶対力)

“マニの力に依らざれば曲津神には勝たん術なし、との御歌に御座いますマニの力はどう言う御力で御座いませうか。

“絶対力、仏教でいふ如意宝珠。今迄マニの力が世に出なかった。今度観音教団で初めて発揮される。

麻邇の玉――如意宝珠

“麻邇の玉とは――

“麻邇の玉は仏教では如意宝珠といふ。観音を如意輪観音といふが、意の如くなること。神道で五百津美須麻琉の玉ともいふが、要するに観音様の身魂といふ事である。

麻邇と如意

“観音様の御具えます麻邇の玉と如意の宝珠とは同じもので御座いませうか。御伺ひ致します。

“同じものである。神道では麻邇玉といい、仏教では如意宝珠といふ。神道で又、五百津美須麻琉玉ともいふ。神名、仏名の相違である。(S24・6・27)

麻邇の玉、如意宝珠と釈基

“麻邇の玉、如意の宝珠に就いて御教示の程を御願い申し上げます。

“玉は魂、今迄世の中に出た事のない力で、明主様の御腹にある。キリストでも釈迦でも力がなかった。(S23・12・8)

応身の意義

“応身弥勒さまの応身とは如何なる意味で御座いませうか。

“応身とは応ずる事、即ち寒ければ綿入れを着るし、暑ければ浴衣にするといふ様な事。先方の気に入る事をいふ。此為に三十三相に化身さるる。先方の好む話をする。時代放れしてはいけない。(S24・2・12)

「転法輪と観音行」の真解、(突進と失敗)

“『天理王の尊は転輪菩薩にて聖観音の化身とぞ思ふ』右の御歌の意味――

“天理教は昔は転輪教といい、奉斎神を転輪王尊といった。それを暫く経ってから天理王尊と称えるようになったのである。転輪王尊は三千年程前印度に出生、表はれられたといふ。汚れた世を浄化して、良い世を造るといふ仏であるとの伝説がある。これを転輪菩薩といふ。仏語で転法輪といふ事をいふが、法の輪とは玉の事、霊の玉といふ事。法輪を転ずるとは、自由無碍、応身の働きをいふので、つまり一つ事に固着せず、その相手により、相手に合ふようにする。丸いうちにも角がちょっとでもあるとうまく行かぬ、転がらぬ。これが観音行である。

又水の働きであり、水の流れは岩にでも当ると決してそれを押返して流れぬ。岩を廻って流れる。今迄の世間の人は岩を貫いて進もうという行り方をした。それでうまく行かぬ。水のように素直にゆく。意地を、我を張らずに行く。之が観音の行り方である。

今の内閣はゴテゴテしているが、之等も皆そうで、片山氏の後、内閣は自由党が出るのが当然で、それを押切って民主党が出た。之等もつまりは我を通したのである。ゴタゴタする原因も、実はその時に種を蒔いたのである。無理なく素直にしなくてはいけない。自由党はおとなしくした。その態度は大変いい。

人間は或一つの計画を立て、その計画に突進せんとする所に失敗の因がある。計画を立ててやっているうち、故障が起ったら時期を待つのがよい。又は他の良い方法を考えてやるといい。そうすれば楽にゆく、結果がよい。よくゆく。之が観音の行り方である。

観音様も何千年、時を待っていた。観音様の御働きを円満具足といふ。つまり、角が除れなければいけない。金平糖のように角があるのはいけない。共産党などはそうで、之は鬼だから角がある。だから何でもブッつかる。

対社会への正直と応身

“私は物品販売業を営んで居りますが、毎年営業所得税を正直に申告せず、嘘の申告を致して居ります。同業者一般が嘘の申告を致しますので、自分だけ正直に申告しても、税務署は是を認めてくれませんので、正直に申告すれば、猶更決定に増額せられると思いますが、如何致したら宜しいでせうか。

“全くその通りで、(正直者が馬鹿をみるのは)外の事にも沢山ある。みんな不正直の中に、自分だけ正直にしても不正直にみられる。世の中の人と同じやり方をしないと自分の生存が出来ない。之が応身、臨機応変で、世間並にやってよい。仮に本教にしても、宗教法人から税をとるのも先方は違反である。世の中がそうなっているから、世の中に応じたやり方をせねば生存出来ぬ。応身の働きであるから、世間並にやればよい。決して罪にならぬ。その利益金で社会に益する事をしたらよい。(S24・6・26)

嘘の限界

“私は本年八月十一日入信し、現在衣料品販売業を営んで居りますが、商売道徳地におちた今日、商業と信仰生活を両立せしむるには如何したらよろしいでせうか。

“臨機応変である。信仰上からいえば正直でなくてはいけないが、今迄の世の中がそうなっているのであるから、相手が迷惑を蒙らない嘘は或程度致し方ない。贋物を真物にみせるような事は無論いけない。(S24・8・16)

三十三相は観音様のみ、禽獣虫魚に化さるる事、金比羅権現とは 

“観音様の三十三相と言いますが、従来の日本の神仏、例えば八幡菩薩も金比羅権現も其他所謂八百万神や諸善、諸仏も、三十三相に化されるんでせうか。又、禽獣虫魚にも化さるる場合もあるでせうか。

“そんな事はない。三十三相に化するのは観音様だけのものである。それは救ひの為に相手によって千変万化する。之が観音様の行り方で、私がいつもやっている。(信者のものもそのように心掛けなくてはいけない)それには自分の個性を発揮しては出来ない。個性を滅却した、先方が気持よくするよう心掛けるべきである。そのお働きをお姿で表はしたのが三十三相である。観音様は三十三相といふが、御本体は聖観音で、蓮華を持っておられるお姿が聖観音である。蓮の花は仏教を表象し、仏教を握って救はれるといふ意を表はしている。

金比羅権現は仏語で、海の神で、神道でいふ琴平別命である。神様の霊は禽獣虫魚に化すといふが、之は全然ない事はない。虫などに憑依する事がある。虻や蝶、蜻蛉などに憑依したり、又蛇に憑依する事もある。そして蜻蛉等大抵飛ぶ虫で、それは神様はよくやるんで、大抵は産土の神か祖先の中で神格化したもの――大抵は第三天国の神となったものが、いろんな事を知らしたり助けたりする為に飛ぶ虫に憑依する場合である。(S23・12・14)

三十三相化現は観音のみ、虫に化する事、(神の使ふ虫)

“観音様の三十三相と言ひますが、従来の日本の神仏、例えば八幡菩薩も金比羅権現も、その他所謂八百万神や諸善、諸仏も三十三相に化現されるんでせうか。

“そんな事はない。三十三相に化するのは観音様だけで、救いの為に相手によって応身される。之が観音様のおはたらきで、私がいつも行っている事で、信者の人もそういふようにしなければいけない。それには自分の個性を発揮しては出来ない。個性を滅却して先方を主にするよう心掛くべきである。之が応身の働きでその為化現され、それが三十三相である。

観音様は三十三相といふが、御本体は聖観音で、蓮華を持っておられる御姿である。蓮の華は仏法を表象し、仏教を握って救はれるといふ意を表はしている。禽獣虫魚に化するといふが、之は全然ない事はない。神様の霊は虫などに憑依する事もある。

応身・法身・報身の真義、三十二相と六十四角、(極楽と浄土の違ひ)

“法身弥勒、報身弥勒、応身弥勒と御座いますが、法身、報身、応身の御働きの区別を御教え戴きたく御願い申し上げます。

“法身は法、法とは神仏の法律といっては合はぬ、天地の律法ともいふ。法律に触れなくて天地の律法に触れる事は沢山ある。反って天地の律法にふれる事が沢山ある。(極楽は日、浄土は月になる。故に南無阿弥陀仏は浄土へ、日蓮宗は極楽へ行く訳である)

報身は地の弥勒で、一番下で、凡ゆるものに対して報身する。上に居て引上げるのと両方の救いがあるが、報身といふと、自分が最低の位置になって、下にいて押上げる救いになる。

応身は凡ゆるものに同化する。一番重要な働きである。教団も応身で行かなくてはならぬ。又、固着してはいけない。故に融通無碍といふ。観音様は丸くして理想世界を造られる。その人によって違ふ。三十三相よりもっと沢山に変化される。であるから、百観音がある。化身は三十二相に応身せられ、御本体が聖観音であり、三十二相は霊体で、八八、六十四になる。八角を又、八角に切り、ダイヤモンドの角を取るようにすると、角がとれて又丸くなる。

三尊の弥陀

“三尊の弥陀及び法身、報身、応身の意義に就て御教示御願い申し上げます。

“三つの弥勒をいふ。法身は阿弥陀で、法を説く、法を明かにする。

釈迦は位を下にして衆生を助くる地の弥勒で、報身である。

応身は凡てに応ずる事、本当の救ひは応身でなくては出来ぬ。阿弥陀や釈迦は一定の性格が変らぬ。(S24・1・18)

転法輪と天地人、弥勒と経緯の順序、(大宮に於ける御法難の経緯)

“転法輪は仏教にある。之は観音のみが出来る。阿弥陀や釈迦は一定の限られたる力しか出来ない。法身も報身も力が全部的でなく、局部的である。阿弥陀と釈迦は月と土である。信州では法蔵菩薩を一番崇めている。法蔵菩薩は阿弥陀の前身である。釈迦は土であるから一番下にある。報身は観音に仕えるといふ意味である。

左右は緯、五六七は経の順序の意味である。天―阿弥陀(右)、地―釈迦(左)、人―観音といふ事も間違ってはいないが、これを説くと間違えられ易い。これは当局がやかましいから人の弥勒といふと危い。その為に隠したのである。釈迦、阿弥陀は父と母になる。そしてそれから観音が生れる。それで人の弥勒といっていい。曾て当局で、人間の偉い人が出る事を恐れた。天皇陛下以上の人が現はれたといふ事を恐れた。死んだ者ならいい。実在でない者はいい。

霊写真の事で、田舎の警察は警視庁に反感を持っている。霊写真などに騙されぬと曰ふ。家に居る時、簾の中へ蔵って皆に拝ましていたらうといふ。自分で生神様にならうと言うんだらうと言ふ。そして頭の毛を引張り、竹刀を持って腰をブッタ折るぞといふ。神なら罰を当ててみよといふ。それで何も言えず、黙ってしまった。そのうち一人の奴が頭が痛いと言い出し、も一人の奴もコソコソ下へ降り、主任一人が残った。霊写真は私が作った美術品と聴取書にかいてある。それを警視庁へ廻した。その為にインチキ野郎といふ事になり、ブラックリストにのった。それが熱海へ来てまでつきまとった。(S23・6・23)

阿弥陀と釈迦の救ひの本質

“阿弥陀と釈迦は仏滅後は如何なる働きをなされるので御座いましょうか。御伺い申し上げます。

“釈迦は現世で沢山の弟子へ弘めた。阿弥陀は霊界に寂光浄土を開いた。浄土宗といふのは合っている訳である。釈迦の時、法蔵菩薩といふ仏者があり、釈迦の側で修行して悟り仏となったものを寄越されたいと、西方へ浄土を作るといった。極楽と浄土は違ふが、普通一緒にしている。極楽は日の力が多い。浄土は水の力が多い。極楽、浄土は火水になる。南無――浄土、日蓮――極楽へ行く訳である。夜の世界のもので、昼と違ふ。阿弥陀は霊を救ふ。釈迦は生きてる人間を救ふ。苦の娑婆を、苦しみを少なくする。現界と霊界の救ひの違ひさと思えばよい。(S24・5・1)

法身の働き

“報身―地―釈迦、法身―月―阿弥陀、応身―日―観音となり、観音が一番上である。

法身は水の働きのみで、彼世の事が主である。此世の救いよりは霊界即ち浄土へ救ふのが眼目である。阿弥陀は浄土を作って、或程度浄化されたもの、又は善事をなした者を住まはす事を釈迦に誓った。寂光とは月の光、月の活動である。(S23・7・29)

三日月真赤になる

“四月三十日夜九時頃、三日月が真赤になり、図の如く全体の四分の一位の大きさに枝の如く出て、その先が箒の如き光を放っておりました。恰度熔接の火花の様で、目撃者が二名御座います。如何なる訳で御座いませうか。御伺ひ申し上げます。

“月は三日月が本当の形である。三といふ数は月になる。水である。三日月の形が月の一番勢力の強い時である。満月は瑞月ともいふ。此時は水気が一番多い。火素が多く強い為と、三日月の強いのとでこういふ形になったものである。やはり火素が殖えた為である。(S24・6・2)

神器中の剣

“日本は絶対平和の国とうけたまはっておりますが、三種の神器の中に剣がございますのは、如何なる訳で御座居ませうか。

“剣は二種ある。劔と弥陀の剣など――。剣は言霊で、よく剣もホロロとか、鋭いとかいふ。劔は悪、剣は――。三種の神器は剣の方で――、鏡は大地である。(S23・12・9)

八角――(大地)

“九星の八角は何を形取られたものでせうか。

“之は方角で、東西南北と此間艮、坤、乾等四つの間と、それで八角となる。大地を形どるのは八角で、八咫の鏡もそれである。三種の神器の場合、鏡は地になる。大地は天地の合せ鏡といい、鏡になっている。八角は大地といふ意味で、方角になる。玉、日。剣、月。

弥勒の意味

“応身弥勒とか法身弥勒、報身弥勒の場合の弥勒の意味を御教えを御願い申し上げます。

“此場合、弥勒は如来で、仏様で特別に尊い御方といふ意味である。三尊の弥陀はこれで、要するに、敬語と思えばいい。  (S23・11・21)

天地人のミロク

“天のミロク、地のミロク、人のミロクと御座いますが、この場合のミロクの意味を御教えを御願い申し上げます。又、この場合ミロクは如何なる文字を用いられるので御座いましょうか。御伺い申し上げます。

“阿弥陀は天、釈迦は地、観音は人のミロクである。(いろいろ訳があるが)今言えない。強いて言えば、天と地はそれはミロクでよいが、人の弥勒は五六七とかく。(S23・11・21)

西方浄土、無尽意菩薩

“阿弥陀が西方浄土を作るといふのは、インドの西の方へ極楽の模型のようなものを作るといふ事を言ったもので、霊界の浄土を主宰するといふのが本当である。 真宗では、死んだら阿弥陀の側へ行くといふ。西方の浄土とは印度である。

観音様の事を無尽意菩薩ともいふが、無尽意とは自由無碍と同じ事である。観音様は日本人であるから、黒髪を垂れておられる。(S23)

三尊の位置

“過日ラジオの「話の泉」に、或る川柳の意味を説明して、善光寺の本尊を遷し参らす時、阿弥陀如来を背負ひ観音、勢至両菩薩は御徒歩にて随行せられたと言ひました。又、門徒宗でも、阿弥陀様を真中に観音、勢至菩薩は左右に在しますと申して居ります。右は三尊の弥陀に於ける観音様の御地位と大分差異があるように思はれますが、如何なる意味で御座いませうか。御伺ひ申し上げます。

“真宗は阿弥陀を主にしている。仏教は月の教で、阿弥陀は月光菩薩で月の本尊である。夜の世界の王者である。又阿弥陀は法身である。本当言えば、昼の世界では観音様が真中である。勢至は阿弥陀の働きである。そして、観音と勢至は夫婦になる。

釈  迦―|
観音  ――が本当で、
阿弥陀―|

此三つの働きを一人でやられるのが弥勒である。だから、右は大間違いである。(S24・12・5)