今の世の中を地獄その儘といっても、否といふ人は一人もあるまい。何処を見ても不幸不運な人ばかりで、此人こそ本当に幸福に恵まれてゐると思うやうな人は、薬にしたくもないのが娑婆の姿である。そのやうな世の中が続いた為、人間は之が常態と心得、諦めて了ったのである。彼の釈尊が曰はれた生病老死の四苦にしても、どうにもならない人間の宿命とされ、此悟りが仏教の真髄とさへなってゐたのである。処が之は甚だ間違いであるから、之を打破るべしと曰うのが我救世教の本領である。
というのは本教によれば人間の如何なる不幸でも容易に解決されるから、宿命などと諦める必要はないのである。といったら余りに意外な説に唖然とするであらうが、何よりも事実が雄弁に物語ってゐる。何人と雖も一度本教に入るや、忽ちにして病難を始め凡ゆる苦悩は火で焼き、水で流す如く解決されるからで、勿論不幸も幸福に転化するのである。
此様な一大福音は人類史上嘗て夢想だもしなかった処のもので、寧ろ余りに棚牡丹式で反って信じ難い位である。それを今理論的に説いてみるが、いつもいう通り人間は見える肉体と見えざる霊体との両面から成立ってをり、肉体は現界に属し、霊体は霊界に属してゐるのである。処が此霊界なるものは特殊の人を除いて、大部分の人は今日まで全然分らなかった。
何しろ目に見えず、手にも掴めない以上無理はないが、それというのも科学万能主義になりきってゐるからである。というのは科学が進歩さへすれば、幸福は増進すると思ってゐるからである。処が実は進歩すればする程、逆に幸福とは遠ざかり、地獄社会となるのである。
つまり根本は霊の有無即ち唯心か唯物かである。その証拠として若し霊が無いとしたらどうなるかというと、科学と雖も行詰って進めないのは、今日迄の有能な科学者の殆んどが一致した考へ方である。彼のパスツール始め有名な科学者達の殆んどは、クリスチャンであるにみても分るであらう。
処が私は神示によって之を知った以上、絶対間違いはないので、之を詳しく説明してみよう。抑々霊界なるものは地上の空間にあり、天国界、中有界、地獄界というやうに上中下の三段階百八十段に分れてゐる。それが霊主体従の経の法則によって、霊界に起った事象そのまま現界に移写される。人間でいへば霊が体に移写するのである。
そうして人間の霊体は右の段階の何れかに属してをり、夫々の籍があって籍の地位通りの運命となる。即ち地獄界に籍があれば不幸となり、天国に近づくに従い幸福者となるのであるから、出来るだけ籍を上段に昇らせる事である。地獄とは勿論病気、貧乏、争いはじめ、凡ゆる苦悩が渦巻いてゐる以上、その通りになるので、私は之等を救うべく一人々々を天国に引上げてゐるのである。
では何故地獄に堕ちるかというと、それは霊を曇らせるからである。では曇りとは何かというと、之には二種類あって、一は薬剤、二は罪の行為である。即ち薬剤は血液を濁すから、霊体一致の緯の法則によって曇るのである。又二の罪とは恨み、憎み、妬み等々で人間の法則と神の律法とを犯すからである。処が之を知らない人間は、苦悩から免れやうとして人為的物質的手段にのみ頼るので、全然見当違いであるから、何程骨を折っても無効果であるのは当然である。
而も此理を知らすべき機関が宗教であり乍ら、宗教家もそれを充分弁へないばかりか、事実を以て示す力もないのである。処が喜ぶべし、その絶対解決法が生まれたので、それが我救世教であるから、茲に人類待望の幸福世界、即ち地上天国実現の運びとなったのである。
地獄と天国
年代不詳