之は今更言う迄もないが、昔から人を救はうとする方法としては、宗教では経文、御説教を主としてをり、宗教以外としては倫理、道徳、教育等で、之は誰も知る通り、その何れもが文字と言葉だけで、昔はそうでもなかったが、今日はそれ以外殆んどないといってよからう。只その中で宗教だけは理屈以外、目に見えない霊的働き即ち奇蹟もあるが、それとても今日は余程少なくなったやうである。
併し兎も角之が魅力となってをり、相当尊敬を払はれる訳でもある。処が此宗教的奇蹟にしても、その教祖在世中は人々の耳目を欹(ソバダ)てる程の奇蹟もあった事によって、其宗教の基盤も出来た訳だが、教祖昇天、入滅後、年を経るに従ひ教線は漸次衰へ、現在見る如き形骸を残すのみとなったのであらう。
特にそれに拍車をかけたのが、何といっても科学の勃興である。それまで欧羅巴各国は固より、東洋特に日本に於ても、相当宗教は一般からの尊信を集め、神官は別としても、僧侶などは時の権力者と結び位階を与へられ、社会的にも特殊待遇を受けてゐたのである。それが明治維新を契機として、以後は国家が神道を重視するやうになり、排仏毀釈などもあって、仏教の勢威は漸次下り坂になり、寺院の寂れ方は著しく、而も終戦後は国家やその他の援護も絶へたと同様で、現在は気息奄々たる有様である。
それもこれも科学の影響による事の大であるのは勿論で、その中で最も有力なものとしては学校教育であらう。何しろ国民教育は科学を主眼とし、宗教などは全く顧りみられず、教育即科学といったやうに国民全体は子供の時から無神思想を方針として教育されるのであるから、宗教の沈滞も当然である。
そのやうな訳で、以前は人間の心の寄り処となってゐた宗教も、科学教育に踏み躙られた結果、それに附随してゐた支那の道徳も、印度の仏教思想も影の如く、今日漸く命脈を保ってゐるにすぎない有様である。つまり科学の素晴しい発展は精神面の凡ゆるものを押潰して了ったのである。その為無神思想が指導的精神となり、知識人はそれを追うて得々しているのが現在の世相である。
然し斯うなるのも時勢の成行で致し方ないが、茲で考へねばならない事は、此無神思想こそ実は邪悪の母体である事である。今日すばらしい発明発見が悪に利用され、反って人類に不幸を与へているのも、其結果に外ならないのである。とはいうものの文化の進歩によって暴力や政治的不合理は、昔からみると大いに減ったのは認められるが、悪そのものが減らない以上、平和幸福な文明世界は前途遼遠であらう。
何よりも事実が示してゐる通り、戦争・病気・貧困・犯罪等々、不幸の原因は些かの減少も見られないのである。そうして文明とは言う迄もなく、人類生活が改善され向上される世界であるべきである。処が依然として前記の状態で何等希望なき人生としたら、一日も早く精神的一大革新の烽火(ノロシ)を挙げ、世界悪を焼尽すべき破天荒的一大力が出なければならない。
それが見込みないとすれば、人類も輝かしい希望の夢は棄てなければなるまい。そこで私が行はんとする革命は、今日迄のやうな国家的民族的というやうな局限的のものではなく、世界的国際的大規模なものである。勿論、此様な企画は人間業では到底出来るものではない、どうしても神の力でなくては駄目に決っている、といっても今迄のやうな神の力でも勿論不可能である。何となれば歴史上已に試験済であるからである。
としたら、未だ嘗て顕現され給はなかった最高最貴の万能の神であり、人類待望のキング・オブ・キングスであらねばならない。之によって善神の勝利となり、茲に愈々神中心の真新文明世界出現の段取となるのである。斯くの如き偉大なる経綸こそ大奇蹟であって、本教が素晴しい奇蹟を無限に現はしつつあるのにみても、本教の生まれた理由は分るであらう。