此題を見た文化人は吃驚し、昂奮を禁じ得ないであらう。だがまあ落ついて次を読まれたい。
私は印度の有名な故ラヴィンドロナート・タゴール翁の煉瓦の文明といふ、文明否定論の思想は有ってゐない事を断はっておく。否寧ろ文化をしてより発展する事を念願とするものである。私の言はんとする処は、端的にいえば、幸福の伴ふ文化の進歩発展である。処が今日これだけ文化が進歩しても肝腎の幸福が伴はない事は何人と雖も否定は出来まい。
先づ第一絶えず戦争の脅威に晒されてゐる。現に今、第三次世界戦争が何時勃発するかしれないという危機を孕んでゐる。見よ欧洲に於ては、ベルリンを中心として一触即発の現状であり、東亜に於ては、中国に於る政府軍の敗退と、中共軍の進出の将来への脅威、朝鮮は固より中央アジア方面に亘って到る処の燻(クスブ)りである。飜って内に眼を向けてみよう。
政治家や要路人の次から次への小管行き、食糧難、労働問題、ストの頻発、悪質犯罪の激増、徴税の苦悩、病者の氾濫等々、数え上げれば内外共に何処に幸福を見出せるであろうか、全く人類は病貧争の三大災厄の坩堝(ルツボ)の中に呻吟してゐるといっても過言ではあるまい。人類特に文化人誰しもの考えは、文化を進歩させる事によってのみ人間の幸福は増すものと思はれてゐる。
処が現実に於ては更にその曙光だも見出し得ないのである-といふ事は実に不思議である。寧ろ逆に益々深刻になりつつあるというのが事実である。従而此不具的文化に活を与へ、文化人に幸福の何たるかを教へ其の希望を満さしめんとするのが吾等の目的であって、暗夜に彷える小羊の群に、光明を与えんとするのである。
それにはどうしても宗教文化を発展させる、それより外に方法のない事を断言するのである。哀れなるものよ 汝の名は文化人なりといふ言葉をして「幸福なるものよ 汝の名は文化人なり」といふ定義と置き替えなければならないと思ふのである。