日本人種の霊的考察(上)

此問題を説くに当って断っておきたい事は、以下の所説は史実にもない事柄ばかりであるから、その心算(ツモリ)で読まれたいのである。然し日本人なら、是非知っておかねばならない事なので、茲にかいたのである。それなら何故今迄にかかなかったかというと、何しろ事柄が事柄なので、終戦前迄は誤解され易い点が多々あるのでかかなかったのである。

そうして先ず、日本の神代史から検討してみる時、衆知の如く、殆んど神話的御伽噺(オトギバナシ)的で、常識では到底考えられない事が多いのである。人も知る如く、天照大御神が最高最貴の神とされており、而も日本天皇の御祖先ともされており、日本に於ける神宮中の、最高の神位として伊勢神宮に鎮祭されているにみても、如何に崇敬されていたかが肯れるのである。

之に就て色々の説があるが、其中の比較的真を措けると思う説は、大神は最古の時代から丹波の国元伊勢という処に、鎮座在しておられた処、今から千百年以前、現在の伊勢の山田に遷宮されたというのであるが、其時大神の神霊を御輿(ミコシ)に遷(ウツ)し参らせ、数人の者が担いで元伊勢の外れに流れている、五十鈴川という川を渡らんとした時、急に御輿が重くなり、どうしても渡る事が出来ず、引返して元通り鎮祭される事になったというのである。処が、不思議にも其時から同神社の後を流れている谷川の、数丈上にあった三間四方位の角形の大石が、突如落下し、谷川の岸の辺に行儀よく座って了った、之を御座石(ゴザイシ)と名付けて今尚そのままになっているのを、私は先年元伊勢参拝の折見たのである。又その直ぐ脇に相当大きな洞穴(ホラアナ)があるが、之は岩戸という名だそうで、之も面白いと思った。

次に神代史によれば、初め伊弉諾、伊弉册尊の御夫婦の神が、天照大神と申す女神を生み給い、次いで神素盞嗚尊という男神を生み給うたとなっている。そうして天照大神に日本の統治を命ぜられ、素盞嗚尊に朝鮮の統治を命ぜられ給った事になっている。斯ういう訳で天照大神は女神であるに拘わらず、天皇の御祖先となっておるばかりか、蛭子命(ヒルコノミコト)という男児まで生み給うたとの史実もあるが、之が本当とすれば、どうしても夫神がなければならない筈である。然し今日迄それに疑いを起した者もないし、此謎を解こうとする者も勿論なかった。尤も終戦以前迄は、其様な批判をするなどは不敬に当るかも知れないので、誰も触れるのを恐れた為でもあろうが、今日となっては、そういう懸念もなくなったから、私は茲に筆を執ったのである。

先ず古代史によれば、天孫民族は天孫瓊々杵尊を擁立して、九州の一角高千穂の峰に天降られたという事になっていて、其御孫神武天皇、又の御名神倭磐余彦尊(カムヤマトイワレヒコノミコト)の代になり、尊の御歳四十五歳の時、東夷征伐の軍を起したのである。之は史上明かな如く、最初先ず大和に軍を進めて、干戈を交えたが皇軍利あらず、而も皇兄五瀬命(コウケイイツセノミコト)は討死された等で、天皇は敗戦の原因を、東方即ち日に向った為として策戦を変え、大きく迂回(ウカイ)して、今度は日を背にし、西に向って進撃する事となった処、果して勝つには勝ったが、敵を降伏させる迄には至らなかった。というのは当時敵の本拠は、大和より程遠い出雲(イズモ)国であったからでもある。勿論其処は出雲朝と言って、当時の日本全土を統治していた中心で、恰度今日の東京と同様、中央政府の所在地であり主権は大国主之命が握られていた。

そのような訳で天皇は、勧降使(カンコウシ)を二人迄遣したが、第一の使者は目的を達しなかったので、第二の使者を遣したが、之も又失敗に終った。二度迄も失敗したというのは、どういう訳かというと、敵の採った手段は、酒と女で骨抜きにして了ったからである。之を知った天皇は大いに怒り、今度は必勝を期して、最も強行手段を採った。即ち陸軍の総大将としては建甕槌命(タケミカヅチノミコト)、海軍の総大将としては経津主(フツヌシ)命を選び、陸と海から挾撃しようとしたので流石の大国主命も大いに驚き、戦わずして降伏のやむなきに至ったのである。其結果国土奉還という事になり、日本の統治権は、茲に全く出雲族から天孫民族の手に移ったのである。之は余談だが、二代の綏靖(スイゼイ)天皇の皇后として、大国主命の息女を娶(メト)はしたという事になっているが、察するに大国主命は将来を慮り、両者の融和手段として執った結婚政略であった事は言うまでもない。

今一つの面白い事は、右の建甕槌命は、大きな軍功により、死後鄭重に祭られたのが、彼の茨城県にある鹿島神社であって、日本の神社としては最古のものである。処が後代に及んで、武人が戦争に赴く場合、命を尊信の余り、必ず此神社に詣でてから出立したので鹿島立ちと言う言葉が、出来たという事である。茲で注目すべきは、此時の統治権変革が因をなし、後に到って両者の天下争奪戦が起った。之が戦国時代の始まりであるが、此事は霊界の動きであるから、人間には判らない。人間は只表面に現われた経緯(イキサツ)を歴史としてかいたに過ぎないもので、それが先般の終戦時迄続いたのである。従って私は霊的事実を基礎とし、現界の事象を證拠として照合せつつ筆を進めてゆくのであるから、先ず正鵠を得ていると言ってよかろう。

茲で最初に戻るが、前述の如く天孫人種が天から天降って高千穂の峰に暫らく屯(タム)ろしたという事は、余りに馬鹿々々しい話で、荒唐無稽も甚だしいと言わねばならない。而も神武天皇の父である鵜草葺不合尊(ウガヤフキアエズノミコト)の、其又父である天孫瓊々杵尊が、伝説の如く天照大神の勅命によって、此国を治めよとの事であるとしたら、之も可笑しな話になる。というのは若しそうだとすれば、それ迄の統治権は天照大神が掌握されていた事になる。すれば天照大神はそれ以前の主権者から受継いだ訳になるが、それ以前の歴史は漠として判らない。今一つは瓊々杵尊という御方の出生地も経歴も、又何故主権を譲られたかという理由も、全然不明になっている。尤も天降ったとしたら何をか言わんやであるが、そればかりではない。最初にかいた如く神武天皇以前の日本の統治権を握っていたのは、大国主命であった事は確実であるから、天照大神が瓊々杵尊に主権を与えたという事は理屈に合わない話だ。若しそうだとすれば神武天皇は既に統治権を譲り受けている筈であるから、出雲朝に対し国土奉還など要求する必要はない事になる。でなければ何れの日か余程以前に、素盞嗚尊に統治権を委任されたか又は強奪されたかの何れかで、其点も全然不明である。それに就て最も確実性のあるのは出雲朝の歴史であるから、それをかいてみよう。

私は先年出雲へ参拝の折、同神社の裏手の海岸に日の御崎という処がある。神官の説明によれば此処から毎年十月初め神様は故郷にお帰りになり、一カ月を経てお戻りになるとの事である。之でみれば出雲の神様は日本生え抜きの神様ではなく、外国から移住された神様に違いない。昔から十月を神無月と言ったのは、右の行事によったものであろう。そうして大国主命の父親は素盞嗚尊になっている。古事記によれば素盞嗚尊は、朝鮮の曽尸茂梨山(ソシモリヤマ)へ天降られた事になっているから、朝鮮に生誕された神様である。そうかと思うと伝説にもある通り、出雲国簸(ヒ)の川上に於て、八岐大蛇を退治し櫛稲田姫(クシナダヒメ)の生命を救うと共に妻神として迎え、夫婦生活をなさるべく、今日の出雲神社の位置に、須賀宮という新居を作られた尊は、新築の家へ初めて入居された時、「あなスガスガし」と仰せられたので、須賀宮と名付けられたという説もある。そうして余程琴瑟(キンシツ)相和したと見えて、其気持を表わすべく詠まれたのが、彼の“八雲立つ出雲八重垣つまごめに、八重垣作るその八重垣を”という歌で、之が三十一文字の嚆矢(コウシ)という事になっている。としたら和歌の先祖は素盞嗚尊となる。

又、単に素盞嗚尊と言っても、三つの神名がある。神素盞嗚尊、速(ハヤ)素盞嗚尊、竹速(タケハヤ)素盞嗚尊であるが、私の考察によれば右の順序の如く、三代続いて次に生れたのが大国主命であろう。茲に注目すべき事は、出雲神社では古くから今日に至る迄、不消(キエズ)の火と言って、燈明を点け、其灯を移しては取変えて、今日迄決して絶やさないそうである。それを二千年以上続けて来たという事は、何か余程の意味がなくてはならない訳で、考えようによっては、再び復権する日迄血統を絶やすなとの意味かも知れないと想うのである。

之も余談であるが、大国主命に二子があった。長男は事代主命(コトシロヌシノミコト)、次男は建御名方命(タケミナカタノミコト)である。処が長男の命は至極温順で、降伏に対しても従順に承服したが、次男の命はどうしても承服せず、敵に反抗した為、追われ追われて、遂に信州諏訪湖の附近に迄逃げ延び、湖に入水して、あえない最後を遂げたという事でそれを祭ったのが、今日の諏訪神社である。

茲で、話は又最初に戻るが、右の数々の史実は、神示によれば斯うである。初め神素盞嗚尊が日本へ渡来した時、最初に上陸した地点が出雲国であった。処が当時日本の統治権を握っていたのが伊都能売神皇(イヅノメシンノウ)で、此神皇は余程古代からの、日本の真の主権者であったらしい。先ず、大和民族の宗家(ソウケ)といってもよかろう。処が大和民族の性格としては、闘争を極端に嫌い平和愛好者なるが為、素盞嗚尊が武力抗争の態度に出たので、無抵抗主義の為生命の危険を慮り、海を渡って某国に逃げのびたという事である。それで後に残ったのが御世継である天照天皇と其皇后であったが天皇は、或事情によって崩御されたので、皇后は其大権を継承される事になったが、事態の切迫はやむなく素盞嗚尊の要求に応じない訳にはゆかなくなり、一種の講和条約を締結したのである。其条件というのは、近江琵琶湖を基点として、西は素盞嗚尊が領有し、東は天照皇后が領有するという事になった。之が古事記にある天(アマ)ノ八洲(ヤス)河原の誓約(ウケヒ)である。今日琵琶湖の東岸に野洲という村があるが、其処であろうと思う。何故其様な講和条件を作ったかというと、素盞嗚尊が一旦国土平定をしておいて、次の段階に進もうとする予備的前提条件であって、結局日本全土の覇権を握るのが狙いであった。というのは当時と雖も一挙にそうするとすれば、国民の声がうるさい。今でいう、輿論が承知しなかったからであろう。そんな訳で、時期を待っていた素盞嗚尊は、機を得て遂に萠芽を表わすに至った。即ち天照皇后に対して、日本の東方の主権をも渡すべく要求すると共に、若し応諾せざれば皇后の生命をも脅かすので、茲に皇后は決意され、潔ぎよく全権を放棄し、僅かの従臣と共に身を以て脱れ、逃避の旅に上ったのである。之を知った尊は、尚も後顧の憂いを断つべく、追及が激しいので、逃れ逃れて遂に信濃国の、今の皆神山に居を定められたのであるが、此処でも未だ安心が出来ず、山深く分け入り、第二の居を定められたのが彼の戸隠山である。昔から岩戸開きの時、扉が飛んで此山に落ちたという説があるが、それを暗示したものであろう。

又話は別になるが、天孫瓊々杵尊が、日本へ渡来したのは、素盞嗚尊の渡来より余程後であったらしい。そうして瓊々杵尊は支那周代中期の英雄であって、此尊の祖先は有名な支那の天照大神ともいうべき、盤古神王という日の系統の神様で、一名盤古氏とも言われている神人である。そこで尊は当時の日本を観た処、主権は已に素盞嗚尊の手に握られていたので、機を待つ事にしたが、其機が来ない内に崩御し、遂に三代目の偉人、神倭磐余彦尊(カムヤマトイワレヒコノミコト)によって、目的が達せられたのである。

(地上天国二十二号 昭和二十六年三月二十五日)